第一篇:そんなにとあまり辨析范文
そんなに
① ② ③ ④ ⑤ 那样 那么 如此
君はそんなに彼女を愛いしていたのか。
そんなに学校が嫌いなら行かなくれもいい。犯人はまだ遠くへいっていないはずだ。
政治改革は口で言うほどそんなに簡単ではない。彼女はそんなに美人じゃないけど親切だよ。
表示强调程度之甚,中性词,作谓语的修饰成分。通俗语,主要用于日常会话中。①②是肯定句用例,强调程度之甚。③④⑤是否定句,表示从整体上看程度并非很高。用于肯定句中,其感情色彩较浓,并含有惊讶(如①)等语意。用于否定句中,其表述又是相当冷静,理智的。”そんなに”于”それほど”相似,但”それほど”比较规范,也可用于文章中。
▷▷▷▷それほど そうそう あまり さほど
あまり あんまり あんまし
多余 剩余 ;太 很多
(1)①7割る2は3あまり。
②あまりの毛糸で手袋を編む。
③恋人を失った彼の悲しみは察するにあまりある。④父が亡くなってから一月あまりだった。
(2)①あまり食べ過ぎると体に毒だよ。②あんまし寒いと出かけるのが億劫だ。[おっくう(名、形动)怕麻烦、不愿意做、懒得动例:
ご飯を食べることも億劫に思う。/连吃饭都嫌麻烦。
どんな仕事でも億劫だと思わない。/做什么工作都不嫌麻烦。] ③赤ん坊があまりに煩いから表へ出た。
④五百人の死者とは、あまりにも犠牲が大きすぎだ
⑤帳簿を見てあまりのずさんさにあきれた。
ずさん 杜撰
(1)〔根拠のない〕杜撰,没有根据地编造. ずさんな著書/杜撰的著作.(2)〔いいかげん〕粗糙,不细致. ずさんな管理/管理不善. ずさんな設計図/粗糙的设计图.⑥みんな僕のせいにするなんてあんまりだ。
⑦おれが詐欺師(さぎし)とはあんまりな言い方じゃないか。
⑧被災地はあまりと言えばあまりな悲惨さだった
⑨失恋した彼女は悲しみのあまり自殺した。
(3)①僕は生魚はあまり好きではない。②このテレビ、あんまし面白くないね。
③「お前、やる気ないみたいだな」 「あんまりね」 解析::::
(1)表数量之多,超过了一定的量,原则上属于中性词,①②作名词,③中的“~するにあまりある”是惯用说法,相当于“非常に~である”之意,强调程度。④用在数量名词后,表示大于原基数(1)中的あまり表示多余的部分,这一部分并不包括在事先估计的总量中。在这一点上,不同于表示总量中的“残り”
(2)表示程度之甚,无法忍受,略带贬义。①-④修饰谓语,⑤⑦⑧修饰名词,⑥作谓语用。“あんまり”是“あまり”的口语体,常用于日常会话中。“まりまし”是通俗语,只用于会话中。③中的“あまりに”是“あまり”的强调用法,暗含对孩子的吵闹的愤慨,④中的“あまりにも”更富主观感情色彩,暗示对死去5百人的感叹。⑥作谓语,在表示可悲,荒谬意义的句中只能使用あんまり。⑥⑦不表示具体程度,而表达非常的惋惜,愤怒之意。⑧中“あまりと言えばあまり”是惯用说法,相当于“非常~だ”之意,夸张语气较强。⑨中的“○○のあまり”修饰谓语,○○是表示喜怒哀乐的感情名词,相当于“非常に○○なので”之意。(2)中的“あまり”重点强调与无法忍受,并非单纯表示程度,虽与“とても”“ たいへん”“ ひどく”等相似。“とても”和“たいへん”客观表述,不含特定感情色彩。“ひどく”受害意识较强。
『比较』 ☆赤ん坊があまりにうるさい。(表へ避難しよう)
❤あまり食べすぎるな。
(限度を超えて食べるな)☂ひどく食べすぎるな。
(害が出るほど食べるな)
(3)后接否定形式,表示程度不高的状态,相当于汉语的“不太····”“不很····”等,略带贬义,多用于消极场合。①②作否定谓语的修饰成分,③作谓语,是客观性的表示,暗示说话者的理智和冷静。(3)中的“あまり”与“それほど”“ かくべつ”“ たいして”等相似。“それほど”着重强调程度低。其程度几乎接近于“零”。“ かくべつ”暗示于期待的相反。“たいして”总表示程度很低,但却含肯定的语意。『比较』▷▷▷▷▷
僕は生魚はあまり好きではない。(むしろどちらかというと嫌いだ)
僕は生魚はそれほど好きではない。(好きとは言えない)
僕は生魚は格別好きではない
(特に好きというわけではない)
僕は生魚はたいして好きではない(少しは食べられる)
☞とても 大変 大層 非常 それ程 さほど 格別 大して そんなに 別段 余分
第二篇:日本作家大江健三郎 あいまいな日本の私 的日语评论
『あいまいな日本の私』という本、覚えていますか。大江健三郎氏がノーベル文学賞を受賞した1994年、その受賞晩餐会で基調講演を行いましたが、そのタイトルが『あいまいな日本の私』。川端康成氏の『美しい日本の私』に掛けたタイトルですが、翌1995年に出版されています(英文タイトルは、“Japan, the ambiguous, and myself”)。
そのノーベル賞作家の大江健三郎氏をはじめ20名もの日本人作家が集合したイベントがフランスで行われました。「サロン・デュ・リーヴル」(“Salon du livre de Paris”)、1981年に始められたフランス語圏最大の書籍見本市。1992年からは15区、ポルト・ドゥ・ヴェルサイユ(Porte de Versailles)の見本市会場(Parc des Expositions)で行われています。今年は、3月16日から19日まで。
その「サロン・デュ・リーヴル」が、今年、特集した国(le pays à l’honneur)が日本というわけです。そこで、大江氏のほかに江國香織、萩尾望都、吉増剛造、綿矢りさ、島田雅彦、角田光代、平野啓一郎、辻仁成各氏など20名の作家がジャンルを超えて会場に集い、さまざまな講演やインタビューなどを行ったようです。日本のメディアも紹介していましたので、ご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、大江健三郎氏のタイトルにもいう「あいまいな日本」・・・日本人から見ても曖昧な社会ですから、外からはいっそう分かりにくいのではないでしょうか。その「あいまいな国」に対して一般的にはどのようなイメージが持たれているのか、そうしたイメージにフランスの日本学者はどう反応しているのか・・・日本にスポットの当てられた「サロン・ドュ・リーヴル」を機に、そうした視点でまとめた記事を15日の『ル・モンド』(電子版)が伝えていました。
ある友人が、楽しそうに言っていた。イギリス人は、常軌を逸したもったいぶり屋(des guindés excentriques)。ドイツ人は、生粋のクラシック音楽愛好家(des brutes mélomanes)。イタリア人は、愛すべきうそつき(des menteurs sympathiques)。ポルトガル人は、メランコリックなお祭り大好き人間(des fêtards mélancoliques)。では、フランス人は? 傲慢な誘惑者(des séducteurs arrogants)。国民性を端的に述べる、こうした決まり文句のリストを作ることは至って簡単だ。しかし、対象が日本となると、世界の他の地域すべてよりも多くの表現が必要になる。伝統に満ちたウルトラモダンな国、テクノロジーと精神性の土地、やくざと優雅さが同居する国、不可解な人々の密集したコミュニケーション大国・・・こうした形容は果てるともなく続く。
フィリップ・ペルティエ(Phillipe Pelletier)は本当にやるべきことが多かったと言うべきだろう。このリヨン第2大学の教授で、日本専門家は、“La Fascination du Japon”(日本の魅惑)というタイトルの著作を出版したが、その中で日本へ貼り付けられた多くの形容を解体する試みを行っている。
最初の誤った理解は・・・日本は一つの島だ、というもの。誤解であり、日本は列島だ。四つの大きな島と数千の小さな島々からなっており、その内430の島に住人がいる。一つの島だという誤解は事実に反するだけではない。一つの島という誤解が、地形と社会文化、両面での均質化というイメージの形成に貢献してしまっている。豊かな多様性はしばしば無視されている。
別の受け入れられている誤解は・・・日本人はすべてにおいて我々西洋人とは逆のことを行っている、というもの。日本では、クルマは左側を走行し、人は文字を縦に書き、数を数える時には指を折る(フランスでは握った指を伸ばします)。こうした指摘は、1903年に出版されたエミリー・パットン(E.S.Patton)の“L’Art de tout faire à rebours chez les japonais”(『さかさまの国日本』)によって広められている。
しかし、シリーズの方針によるのか、他の作者たちは程度の差こそあれ受け入れているのだが、フィリップ・ペルティエは人口に膾炙している日本のイメージ、それが事実に即したものであれ、変更せずにはいられないと感じているようだ。そこで、「日本、ハイテクの天国」(La Japon, paradis de la haute technologie)という紋切り型のイメージを批判するために1章を割いている。しかし、残念ながら反証や理由によって読者を説得させるには至っていない。
彼が取り上げた別の定着しているイメージは、「日本は絶え間なく自然災害に襲われている」(Le Japon est sans cesse frappé par les catastrophes naturelles)というものだ。27,000人の犠牲者を出した1896年の津波、3,000人が亡くなった1933年の津波、6,000人以上が犠牲となった1995年の神戸での地震、そして、死者・行方不明合わせて2万人以上(実際には19,009人)となった2011年3月11日の悲劇。こうした悲劇的事実が単に受容されている誤ったイメージとして提示されることに、驚き、あるいは戸惑いを感じざるを得ない。では、彼の手法とはどのようなものなのか。受け入れられているイメージの基には何があるのか。既存のイメージは間違いなく誤ったものなのか。そうしたイメージと常に戦わねばならないのか。彼が提示しなければしないほど、疑問が湧いてくる。
日本のイメージを分析するにあたって、彼が多少なりともエドワード・サイード(Edward Said:1935-2003、パレスチナ系アメリカ人の研究者)のオリエンタリズムとポストコロニアル研究の貴重な成果を活用するのだろうと思っていたが、まったく触れていない。西洋が植民地化しようとした日本は、植民地を持つ列強の一カ国になったのであり、このことがアンビバレントなイメージを生み出しており、このことはしっかり研究されるべきだった。フィリップ・ペルティエは日本をよく理解している一人だが、彼のこの著作は、論理的枠組みがないせいか、読者に物足りなさを残すものとなっている。
・・・ということで、日本を特集する「サロン・デュ・リーヴル」が行われただけに、日本に関するフランス人の著作にもさまざまな角度からスポットが当てられているようです。特に日本に関心のある層からは、批判的な意見も出てきやすいのでしょうね。
日本人にとっても、「あいまい」で分かりにくい日本社会。外から眺めれば、また別の視点で、中からは見えないものが見えてくるのではないかという期待もありますが、やはり理解しにくい、曰く言い難い社会なのかもしれません。「あいまいさ」の中に、「日本」がある・・・
しかし、それでも、まずは日本人が日本とはこういう国だと、説明できるようにすべきなのではないでしょうか。日本は複雑な国です、あるいは西洋人には理解しにくい国です、といってしまってはそれでおしまい。というか、逃げでしかないような気がします。自分はどういう人間か、ということを語るのが難しいように、自分の国はこういう国だと説明するのは難しい。難しいですが、それをやらないと、外国の人たちとの対話は成り立たないのではないでしょうか。論戦を張るにしても、敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。自分とはどのような人間で、祖国・日本とはどのような国なのか・・・逃げずに考えたいものです。
第三篇:男の学生と女の学生が国际グラフパッティーについてはなしています
男の学生と女の学生が国際グラフパッティーについてはなしています。女の学生は男の学生に何をしてほしいですか。
女:ね 来月国際グラフのパッティーがあるだけど、来ない。
男:何 それ
女:色々な国の人をきてね。その国の料理を食べたり、ビデオを見せてもらたりするの。面白いわゆ。
男:でもな あんまり外国のこととか、ことわとか知らないのな。
女:ぜんぜん 知らない国の人と知り合いになれるし。それに美味しいものを食べたり飲んだりできるわゆ。ついでに皆の記念札へてつ立つくれるありがたいですけど。男:あぁ そういう事ね。
女:うんー
男:まあ。美味しいものを食べられが いいか。
1、パッティーを準備すること
2、ビデオを準備すること
3、大学の人と知り合いになることです
4、皆の写真を撮ることです
男の学生と女の学生が国際クラブのパーティーについて話しています。女の学生は男の学生に何をしてほしいですか。
女:ねえ、来月国際クラブのパーティーがあるんだけど、来ない?
男:何?それ。
女:いろいろな国の人が来てね。その国の料理を食べたり、ビデオを見せてもらったりするの。面白いわよ。
男:でもなあ、あんまり外国のこととか、言葉とか知らないもんなあ。
女:全然。知らない国の人と知り合いになれるし、それにおいしいもの食べたり、飲んだりできるわよ。ついでにみんなの記念撮影手伝ってくれると、ありがたいんだけど。男:ああ、そういうことね。
女:うん。
男:まあ、おいしい物が食べられるなら、いいか。女の学生は男の学生に何をしてほしいですか。
1.パーティーの準備をすることです。
2.ビデオの準備をすることです。
3.外国の人と知り合いになることです。
4.みんなの写真を撮ることです。
顺便希望你帮大家拍以下纪念照”,选项1是对话中没有涉及的内容,选项2和3正好被干扰项,选项4与关键语句的内容相符