第一篇:日语论文-关于日本的沐浴大全
关于日本的沐浴
姓名:*** 指导老师:**
摘要:日本是有名的喜爱洗澡的民族。沐浴的历史古来有之,已经渗入日本人生活的方方面面,并且形成了特有的沐浴文化。本文从历史、背景原因、特点等方面详细介绍了日本的沐浴,并探讨了对日本人性格的影响。针对日本公共浴室的现状,引发了关于现代人的思考。关键词:公共浴室;沐浴;特点;影响
日本のお風呂について
名前:**** 指導教官:***
要旨:日本は、有名の風呂好きの民族である。風呂の歴史も昔からあって、日本人の生活の方面にしみこんでいて、特有の風呂文化が形容する。本文は歴史、背景原因、特点など面で日本のお風呂を詳しく紹介いたす。日本人の性格に影響することも詳細に研究する。日本の公共浴室の現状に対して、現代人の思考を引き起こす。
キーワード:公共浴室;お風呂;特点;影響
0 はじめに
日本の有名の詩人、田村隆一は「見知らぬ町へ行ったら、まず銭湯へ入ってみる」という話が残していた。「ぼくの憂き世風呂」という作品もあった。詩人の風呂好きはつとに有名である。衆知の事実、田村さんだけでなく、ほとんどあらゆる日本人はお風呂が好きである。あなたは毎日入浴するか。
***1日に1回以上1日に1回2日か3日に1回1日に1回未満夏冬 それは「都市生活レポートのアンケート調査」の結果である。この調査によると、季節にかかわらず、毎日入浴する人は60パーセント以上に達する。
お風呂はどこでもあるけど、ただ日本人はそんなに好きである。これはなぜである か。お風呂は日本に何の影響を持っているか。歴史と発展
1.1 歴史
お風呂の習慣は世界のどこにもあるが、日本には仏教とともに中国から伝わってきたといわれる。たしかに旧暦の四月八日はお釈迦さまの誕生日にあたり、信者たちは浄水で仏像を洗う。これを浴仏または灌仏という。こうした宗教儀式がのちに僧侶らの生活に取りいれられ、さらに民間にも広まったらしい。庶民の生活に定着したお風呂は、おごそかな仏教儀式よりも、水の霊力を信じる道教から受けた影響が大きい、という見地もある。1.2 発展
鎌倉の時代に入った後、民間の公共浴室はだんだん行楽気分の意味を持っている場所になる。「湯女」という女性が公共浴室の中で現れて、客様の入浴に付き添う。都市の生活の発展につれて、入浴もだんだん仏教活動から娯楽、衛生的な方向に発展する。江戸の時代に入った後、銭湯は社会の場所になって、人々はその中でお互いにニュースと情報を交換する。銭湯の中で、身分が高くても卑しくても、人々は裸で平等で多種の話題を議論する。銭湯はまるでその時の日本社会の情報交換機関そっくりである。歴史資料の記録によると、慶長末期(17 世紀の初め)、江戸の城内「町ごとに風呂あり」、「百步行くごとに銭湯あり」。江戸末期の文化年間、江戸城内の公共浴室は大小ひっくるめて600ある。今野信夫は「江戸の風呂」の中で「江戸っ子と銭湯は切っても切り離せない」という話を使って、その時公共浴室が江戸人の生活の中に重要性と人気のある程度を形容する。明治維新の後、浴室の構造など方面で改造に行って、更に風を通す更に衛生的にならせる。このごろ、ほとんど所有する家庭は自分の浴室を持つ。背景
2.1 自然から見ると
太平洋に面している地域と日本海に面している地域とで大きく異なるけど、大部分は高温多湿に属する。夏は相当暑い。太平洋の高気圧の影響のため、日本列島の水分は大量に蒸発して、まるで一つの巨大なせいろうのようである。盛夏に、高温の高湿度の日ほとんど延々と続いて絶えない
日本は中緯度の地区に位置して、気候はあたたかくて、雤量はわりに多くて、特に6、7月の梅雤の期限、雤量はほとんどひっきりなしに続いている。夏秋の季節に台風は絶えず襲撃することができて、また持ってきて大量に雤が降る。河川をさらに加えるのは多くて、日本に世界でただ一つの豊富な水資源を有させる。
世界の規模の最大の環太平洋の火山地震の身に付ける日本列島にあって、また「地震の列島」と「火山の列島」の別称がある。豊富な温泉の資源、「火山の列島」日本人にプレゼントする天然が物をいただく。日本で、ほとんど所有する府県はすべて温泉がある。
2.2 宗教から見ると
日本人は水の感情に対して深いことに影響して、仏教と信奉するのは一定の関係が あるはずである。仏教はバラモン教と同じに、入浴する功徳を広く宣伝する。水が清潔な体と心の作用があろうか。史書の記録によると、仏教は西暦紀元に538年日本に入って来て、空を飛ぶ鳥は時代聖徳太子が積極的に提唱するもとに、仏教は日本の国教になった。後無事な時代、鎌倉の時代を通じて、江戸の時代で前例のない繁栄を達成する。公共の風呂屋もこの時に発展するのが繁栄している。2.3 治療の作用からみると
保健の衛生的な機能がある以外入浴して、あります傷病を治療する作用、特に温泉は入浴する。「雲の風物を出すしるし」中は雲の玉造の温泉を出す記録「に関して洗ってときちんとしていることを形容するあって、両は万病気に入浴してすべて割る」。まさに古代のため日本人の温泉の医療の効果に対する追求、温泉の所在地で定期市あるいは都市を形成することができる。特点と日本人の性格に対する影響
3.1 男女が混じて入浴する
日本の入浴する特徴について言えば、恐らくまず思い付いたのは男女が混じて入浴するのであろう。昔から、日本の温泉は混じて入浴するそうである。その後、発展した公共浴室は、実行したのも男女が混じて入浴するのである。江戸、明治の時期にかつて何回は禁止するが、しかし、江戸と京都などの大都市の一部の公共浴室が禁令がちょうど発表する時を除いて、あるいは簡単に浴溝を仕切って、あるいは木の板で更衣室を仕切って、いくつか表面の上の対処を行う外に、ほとんどいかなる実際にの変化がない。
その時、Suenon Edouardという日本に来たデンマーク人は、回想録「江戸幕末滞在记——若き海軍士官の見た日本」に、「生まれたときとほとんど変わらぬ格好をした裸の男女が何人も、地面を掘って石で固めたところへ湯を張った浴槽に浸っている。麻縄が境界線として使われていて、二つの浴槽、男と女を隔てるのに板の線たてを使うことなどほとんどない」このように男女が混じて入浴することを述べる。この陳述から見抜いて、その時の浴室は封建官吏の決まりに対処するためただけ、麻縄で象徴的に男女の浴室を別れる。たとえ現在としても、男女は混じて入浴することは存在しないのではない。秘密の山中の温泉で、日本人は男女が混じて入浴するを悠然として楽しんでいる。
このような男女は混じて入浴すること、私達の「外国人」にとって、恐らくやはり尐し受け入れにくいであろう。これも日本人が自然と親しくする一種の表示であろうか。この習慣が自然な温泉を洗うから身につけるのである。取り上げる価値があったのは、日本の男女が混じて入浴することは決してみだらな意味がない、人々の自然的にいっしょにいる洗浴、男女を区別しないで、良俗を乱すの感じがぜんぜんない。しかも、浴室が情報を交流する場所になる時、浴室で、人々は相互に一種の「はだかのつきあい」のような交流で、いかなる社会背景を持たないで、等級の相違、甚だしきに至っては性別を見落としたので、完全に「個人」と「個人」の交流である。人々の付き合いのは、更に自然的に、更に純粋である。聞くところによると、男女が混じて入浴することに病みつきになることができたので、この原因がかもしれないであろう、これに比べて更に自分の心身をリラックスすることができない。3.2 洗うと浸す 中国人にとって、お風呂は汗を流し、垢を落として、身体を清潔にする場所あるいは手段である。雤にぬれたとき、スポーツのあと、長旅の帰りといった場合、肉体をきれいにする生理的な衝動から、お風呂に入るのである。日本人にとって、お風呂が本格的に始まる。彼らは湯船に入って、汗を流すのでも垢を落とすのでもなく、湯気の立ちのぼるなかを深呼吸し、目を瞑って体の芯まで暖めてリラックス、そしてふーと溜め息なんかをつき、ときには「ああ、気持ちいい」を漏らして一日を満足げに終えるのである。つまり、日本人は中国人と同じような生理的な要求をまずシャワーや行水で済ませ、心理的な欲求を湯船で満たすのである。これも日本の入浴する一つの重要な特徴である。家であろうと、公共浴室であろうと、更に「洗う」が「浸す」のためであろうか。誰にも知って、日本は忙しい民族で、しかし彼らが惜しまなくて願っていて、いくつの時間を費やして沐浴を享受する。体をきれいに洗った後に、お湯の中に入って、ひざを抱いて座って、形は胎児のようであって、まるですべての悩みと圧力を忘れてしまうことができる。日本の心理学者の説明によって、「人類は生まれつき後母の胎内に戻るの願望があって、浴槽の中で母の腹の羊水の中で浸すように、一種の安全性と安心している感じがあって、これはどうして風呂に入る時は疲労の中から解放させる感じのあるの原因である」。これで全体の日本の一つの共通の「習慣性」であるようで、毎日なくてはならなくて、お湯の中で血管のリラックスに至って、すべての細胞の呼吸を体験する。
いつも公共浴室で洗浴して、同時に日本人に礼儀正しくて遠慮するの人の付き合いの習慣も身につける。浴室で儀礼があったので、できるだけ他の人に面倒なことをもたらさないで、洗浴の時にできるだけ体を抑えて、等々。日常生活と密接な関係にある入浴は、日本人が社会に入って儀礼の第一歩と言うことができる。毎日いくつかの時間をかかて入浴して、この時の入浴するのはすでに簡単にきれいにすることを目的にするのではなかった。日本も享楽にふけることができる民族なことを見抜くことができる。彼らは入浴することに、とても惜しまないで時間と財力を費やす。享楽がよい事だと思って、育成に値するので、彼らは享楽を求めて、享楽を尊重する。入浴するのは、日本人の追求になる一種の最高の楽しみである。そこで、日本に2000多くの温泉があって、いろいろな風呂に入る方式があって、このように多くの心から入浴するを愛する人がいる。3.3 子供は親と一緒に入浴する
子どもと一緒にお風呂に入るのは日本ならではの風習で、アメリカなど中国でも親子一緒にはお風呂に入らない。子どもとであろうとなかろうと、そもそも湯船に入る習慣がないので、一人でシャワーを浴びるのが普通である。シャワーであったら、一緒に入ってもどちらかが冷えてしまうと言う。実は、親子が川の字型で一緒に眠ったり、産後の母乳マッサージなどは、日本だけの育児習俗の特徴なのそうである。お風呂に一緒に入ったときほど、からだの発育や性についての正しい知識を伝えるチャンスもないかもしれない。からだを洗ってやれる最後の時期を愛しむとともに、これから10年くらいをかけて、からだが大人になる準備を始めることや、成長はとても素敵なことなのだというメッセージを伝えてみないか。
満員電車の中で隣の人とくっつくことに耐えることができるのも、日本人だけと言われている。私生活を守る個人主義の欧米に比べて、日本はオープンである。隣人と銭湯で会って、背中を流し合ったりして地域がみんな家族のように暮らすのも、日本の文化のひとつであろう。これらもきっと入浴するが持っている影響のであろう。3.4 お風呂の順序近代的な社会の発展に従って、家庭の浴室もますます改善して、しかし日本人は家で入浴するの方式が私達のと違う。私達は家で入浴することは、日本語で「シャーワをあびる」を呼ぶが、日本人の入浴のは「風呂に入る」を呼ぶ。たとえ私達は風呂に入っても一人で洗い終わった後に直ちに大きな桶の水をすべて放して落つ。日本人は家で入浴の時、一つの不文法の順序に従って、初めは父、それから長男で、その後息子、娘で、最後に母で、大きな桶の中の水が最後の一人で洗い終わった後にやっと放して落つ。
このようにする目的は、一方では材料と水を節約するのであろうか。近代的な人情がますます冷ややかになる大きい環境の下で、このようにして、家族全体の感情は更に打ち解けることができるであろう。お湯の入浴を浸してそれからいっしょに食事をして、一日の事をちょっと話す。実は、日本人の毎日の入浴のが、あかを取り除くのはすでに主な目的ではなくて、大きな桶の中の水、冬に主に体を暖めるのためで、洗浴は主に血液循環を促進するためであることも表明しています。現在の思考
現在の日本の若い人は、浴室より、更に家で入浴することを願う。今の公共浴室の顧客は主に三種類の人で、一種は自分が洗浴の設備がないので、一種は家に帰って入浴したことに間に合わないので、一種が依然として公共浴室に対して感情を抱く老人である。西洋文化の影響のため、今の若い人はすべて公共浴室に行くことに慣れないで、知り合わない人に向かって服を脱いで、甚だしきに至っては仲が良い友達もいっしょに入浴することを承知しない。今すべて家庭の浴室があって、若い人は公共浴室に対して相当するよく知らなさであった。公共浴室の数量もますます尐なくなって、経営も日に日に苦難に満ちている。公共浴室に感情を抱く最後の一世代の老人達が死去した後に、公共浴室の運命は想像できないことはない。私自身にとって、小さいときから家庭浴室の環境がある中で生活して、大学に入って公共浴室の洗浴に行かなければならなくて、慣れないなら慣れるの過程も経験した。現在深く考えてみて、心理の上でも一つの微妙な変化を経験したようであろう。
家庭浴室の継続的な発展は、私達の若い人に次第に「裸」の勇気を失わせて、浴室のこのようなすべきな裸になる場所でも勇気に不足して、深く考えて、一種の不健康の心理である。いわゆる勇気に不足するのは、実際には家庭浴室の持ってきた現代生活の病気である。筆者は、本質は近代化する社会の発生の人と社会、人と人の間のが怠って感を離れるのであろうか。人と人の間は時にはやはり「率直で出会う」のを必要とするようにしよう、これは相互に隔たりを除去することに役立つ。冗談の言うことをつけて、もしあなたはいつもあなたの上司と同一の浴室で入浴するならば、あなたは上司の前で緊張して堅苦しいことはない。友達と意見が合わないでもめると、いっしょに入浴して、もしかして気持ちは変える。おわりに
お風呂は現在社会の発展に従って、発展続く。日本であろうと中国であろうと、公共浴室の存在と発展は社会と人々に影響をもたらす。いくら社会進歩しても、このような古い文化捨てないといけないではないであろうか。謝辞
本文はテーマの選択から各部分の修正まで指導教官の石先生のご指導の下で行ったものでございます。石先生には論文の全体構成から細部に至るまで終始懇切丁寧なご指導を賜りいただきました。論文が完成するところに当たって、謹んで謝意を申し上げます。四年間の大学生活において、日本語科の先生方から多くのお世話及びご指導をいただきました。今を以って、心から深く感謝の意を申し上げたいと思います。参考文献:
[1] 刘柏著.透过沐浴风俗看日本的社会变迁[J].连云港师范高等专科学校学报,2001,03.[2] 落合茂著.洗浴风俗史[M].未来出版社,1984.[3] 赵小宁著.日本江户时代公共浴堂的社会功能[J].西安外国语学院学报,2006,09.[4] 花呋一男著.入浴 はだかの风俗史[J].讲谈社,1993, 02.[5] 今野信雄著.江户の风吕[J].新潮社,1989, 02.[6] 黄学杰著.日本的沐浴文化[J].日语知识,2003,07.[7] 王勇著.シャワーとお風呂のあいだ[J].「ニッポンは面白いか」講談社選書メチエ,2002,11.[8] 靳飞著.暴露裸体现代人的思考[J].海内与海外.1996,06.[9] 李五郎著.洗澡的民族[J].中日交流.1996,06.[10] 闫泉著.解读人类的沐浴文化[J].中国高校科技与产业化.2004,09.6
第二篇:日语演讲-谢谢你,日本
ありがとう、日本!
すぐに5月12日です。去年のその日、マグニチュード8.0の大地震が四川省汶川县をおそいました。たくさんの建物が、一瞬にして壊滅しました。当時の日本の福田首相は地震後3時間のうちに、胡錦濤主席と温家保首相に連絡して、日本側は一切の必要な援助を提供したいと伝えました。他の国の援助が口頭の段階にとどまっているとき、日本の災害救援隊は一番に被災地域に到着しました。
日本政府は、中国に5億円の無償資金援助を提供しました。救援隊は、何時間にわたる懸命の救援活動を行って、ついに2人の母と娘を発見しました。しかし、残念な事は2人は死亡していました。この時、救援隊員は黙って両側に立って、死体に向かって深くおじきをしました。この写真を見て、僕の心は、深くうたれました。「希望の光があればこそ、おれたちは最後まで努力しました。」「生命を救えなかったことに対して、本当に遺憾を感じました。」救援隊員が言いました。このほか、日本国内では、ほとんどの全土のコンビニに募金箱が設置されました。大勢の日本人が、積極的に寄付しました。そのシーンを見て、僕は熱い涙が目にあふれて、心から「ありがとう、日本」と言いたかったです。小さい頃から、抗日題材のドラマといろいろな報道の影響を受けた僕は、以前、実に日本がきらいでした。しかし、成長するにつれて、この偏見を見直すようになりました。日本人(大和民族)は普通の民族で、勤勉でまじめな民族です。中日は、一衣帯水の友好国家です。2千年近くの友好の歴史を持っている両国は、数10年間の戦争のゆえのみで、この深い友情をすっかり忘れるべきではありません。
僕は絶対的に歴史を忘れることを提唱しませんけれども、歴史を正視するべきだと思います。中国人はいろいろな方面で、日本人を模範として勉強すべきだと思っています。例えば、1994年広島アジア運動会の閉幕式を開いた後、6万人の運動会場で1つのゴミを残っていませんでした。日本人の長所を取り入れ、自己の短所を補うべきだと思います。2007年、中国で開いた世界女子サッカー試合の中で、日本はドイツに負けた後、日本選手は「ありがとう、中国」と書いた標語を展開し、中国の観衆におじきしました。試合中、中国の観衆はドイツチームを応援してばかりいましたが、日本の観衆は依然としてかわらずに、現場の中国人に感謝しました。これは真実の日本人です。日本人は善良で、熱心で尊敬すべき民族です。
ありがとう、日本!
第三篇:日语钟斯陶论文---日本新年
日本人怎么过新年
みなさん、あけましておめでとうございます。
新(あたら)しい1年(ねん)を迎(むか)えましたね。
1月1日の元日(がんじつ)は日本(にほん)で最(もっと)も大(おお)きい祝日(しゅくじつ)です。
ところで、みなさんは「元旦(がんたん)」と「元日(がんじつ)」の違(ちが)いを知っていますか。「元旦(がんたん)」は1月1日の午前中(ごぜんちゅう)のみを指(さ)す言葉(ことば)で、「元日(がんじつ)」は1月1日丸(まる)1日(にち)を指(さ)すんですよ。
祝大家新年快乐!新的一年开始啦。
1月1日的元旦是日本最大的节日哦。
现在我想问大家,大家知道日语的“元旦”和“元日”的区别吗 “元旦”指1月1日的上午,“元日”指1月1日的整天。那日本人过年通常都吃些做些什么呢?
首先,日本的新年,家家户户普遍吃一种庆祝新年的节日料理【年节菜】(おせち料理)什么是“年节菜”呢?年节菜是为恭迎年神(年神様)能够静养而让厨房保持安静,即献给年神的供物;同时也是用来为新年祈福的一道菜肴。有很多讨吉利的说法和规矩。“年节菜”选用的材料寄托了对家人健康、家庭幸福及子孙兴旺的美好祈愿,做好的食材放置在套盒中。从年底就开始准备,食材多选择耐保存的原料来制作,其中包含了在正月三天时间里让辛苦操持家务一年的主妇们从家务中解脱的用意。
年节菜都是盛在套盒里,套盒为五层。但随着日本各地区、各家庭的“年节菜”摆放方式和组合方式的不同也有三层、四层之分。饭盒外形精美、样子讨巧,彰显喜庆的颜色居多,也有十分卡哇伊的造型。过去的年节菜叫“喰積(くいつみ)”,这是由于装进了套盒的缘故 那么放在套盒中除了美观、易于存储和携带、可用来招待拜年的客人外,也有新年喜事“多层重叠”的寓意,为新的一年添一个好的兆头。那么套盒中的食材摆放和选用都有哪些说法和讲究呢?
以【一到五层】套盒的菜肴为例
第一层【茶前点心•庆祝菜肴】
第一层就是最上面的一层,要放进正月风味的菜肴。其中,干青鱼子、黑豆和沙丁鱼干叫做“三種肴(さんしゅこう)”或“三つ肴”,这是不可欠缺的东西。每种菜肴都有美好的寓意:
干青鱼子(数の子):儿孙满堂,子孙繁荣。由于是ニシンの子,因而还有“双亲健在”之意。
黑豆(黒豆):勤勉(音同“豆子まめ”)劳动,踏踏实实(音同“豆子まめ”)的生活。
沙丁鱼干(田つくり):由于沙丁鱼原本是肥料,所以叫做“田作り=耕田”,“ 五万米”,祈求来年丰收。
腌牛蒡(たたきごぼう):像牛蒡一样深深扎根代代永续。用研磨棒破开则是祈愿开运。红白鱼糕(紅白かまぼこ):半圆形的日出(年神)。红白的颜色十分喜庆,红色能驱魔,白色表示清静。
伊达卷(伊達巻):“伊达”表示华丽。卷起来和书籍卷轴等很像,用以祈愿知识、文化昌盛。
海带卷(昆布巻):加上“喜悦”(よろこぶ)。
栗金丸(栗きんとん):栗叫做“勝ち栗:胜栗”很是吉利。写作“金团”是由于金黄色很吉利有蓄财的意思。
甘露子:写作“長老喜”、“ 千世呂木”,祈愿长寿。
第二层【烧烤】
这一层以海产(包涵吉利之意)为中心。鲥鱼:希望像鲥鱼那样出人头地。
鲷鱼(鯛):加上“喜庆”(めでたい=吉利、たい=鲷)。虾子(海老):长寿到腰都变弯了。
第三层【煮菜】
这一层主要以山中土产(祈愿家人和和气气)为中心。莲藕(れんこん):藕有空洞,望能预见未来。芋头(里芋):象征儿孙满堂。萨摩芋头(八つ頭):象征出人头地。
慈姑(くわい):有着大的嫩芽表示“めでたい=喜庆”。牛蒡:扎根深处,代代永续。
第四层【醋腌菜、拌菜】
这一层以配好的新鲜蔬菜为材料,制成不易腐坏的醋腌菜。由于不可用不吉利的数字“四”,所以第四层要写作“与の重”。红白萝卜丝(紅白なます):红白两色表示喜庆。放置要和根菜一样展开。菊花芜菁(菊花かぶ):菊花可拔除邪气,象征长生不老。
第五层【预备的层】
最后一层作为接受年神赐予福气的地方空着不放置东西,或者放入家人喜欢吃的东西和预备的菜肴。
过年除了饱含美好寓意的“年节菜”之外,日本新年中还有其他令人津津乐道的新年内容。比如,日本在过年还有观看“红白歌大赛”的习惯也就是,日本人的“春节晚会”新年喝“屠苏酒”当然还要在新年头一天参拜神社祈祷平安等。
了解不同文化拥有不同视野,日本的新年你,了解了吗?
第四篇:日语论文
长春工业大学学士学位论文
从《一个人的好天气》来看主人公的性格特征
计:学位论文表
格
——一部“飞特族”女孩儿的成长笔记
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摘要
《一个人的好天气》(2007)是日本当代女作家青山七惠(1983-)创作的第二部作品。该部作品于2007年获得了日本最高文学奖项--芥川奖。小说紧紧扣住了时代的脉搏,从主人公知寿身上,可以看到日本现代年轻人的普遍特征。因此,这部作品也成为了“飞特族”的代表作品。
本论文通过对知寿的性格特点、心理活动以及成长历程的深入探讨,总结出当代日本青年的心理和价值观。便于更好地了解日本年轻人的文化氛围。
关键词:自我封闭、受伤一族、飞特族、青春成长史
要 旨
『一人日和』(2007)は日本現代女性作家青山七恵(1983-)によって作られた二番目の作品である。この作品は2007年に日本最高文学賞の芥川賞に受賞され、社会で大騒ぎをした。小説は時代に合わせて、新世代の人生を反映したリアリティーを持っている。主人公知寿の身の上から、現代日本の若者が共有する特徴が見られる。そのゆえ、この作品はフリーター族の代表的なものとして受け入れられたのである。
本論は知寿の性格特徴、心理活動および成長する過程にもとづき、現代日本の若者の深層にあるものを検討けんとうしようと思っている。さらに日本の若者のカルチャーにたいして、より深ふかく理解するようになる。
キーワード:自己的閉鎖 傷をつける一族 飛特族 青春的成長する歴史。
目录
前言
1.知寿的性格.......................................................1 1.1“受伤一族”性格的形成...........................................1 1.2知寿与母亲......................................................1 1.3知寿与吟子......................................................2 1.4知寿与三个恋人..................................................2 1.5“彻罗基们”与知寿的交友观.......................................3 2.知寿的成长过程...................................................3 2.1封在自我中的满足................................................3 2.2第一次失恋前后的季节............................................3 2.3来自吟子的暗示..................................................3 2.4 自我觉醒........................................................4 2.5性格的缺陷......................................................4 2.6第二次失恋后的物是人非..........................................5 2.7正视离别,走出自我..............................................5 2.8对幸福生活的勇敢追求............................................5 3.“飞特族”的文化圈................................................5 注 释…………………………………………………………………………..……7参考文献………………………………………………………………..…………..…8 谢
辞………………………………………………………..…………………..… 9
从《一个人的好天气》来看主人公的性格特征
——一部飞特族女孩儿的成长笔记
1.知寿的性格
本文通过对《一个人的好天气》进行分析。总结主人公知寿的性格特点和其成长经历。并联系现今日本社会上的年轻中特有的“飞特族”盛行的现象,分析当代日本青年的心理和价值观,从而对知寿的性格进行总结。
1.1“受伤一族”性格的形成
本文的主人公知寿是一个典型的“受伤一族”,她受过伤害,也害怕受伤,在这种潜意识的影响下,她的个性变得自我封闭。她不善与人交往,也不愿与人交往。长此以往,只生活在一种寂寞、空虚的状态中。知寿是敏感、脆弱的。她常常无视于别人的好意与关怀。可在潜意识里,她又是依赖这种关怀和温暖的。在这部小说中,知寿的性格被展现得淋漓尽致。她对生活的态度,在一定程度上是漠然而倦怠的,带着一种消极与自我否定来看待自己以及周围的事物。那种对于未来的迷惘与无助被他转化成一种自我反叛与自我批判。甚至觉得“生活是残酷的,一不小心就会堕落。”是她在生活中带有一种麻木与随波逐流。她向往着幸福,但不敢面对生活带来的挫折与打击,让她觉得自己的人生是“无意义”的。稍受挫折就“不想活了”。
知寿作为一名刚刚毕业的高中女生,没有去找成为正式社员或上大学。而是选择成为一名“飞特族”。寄宿在远亲吟子家中。这种无压力、无责任的生活,正是知寿生活理念的写照。对于刚刚步入社会的知寿来说,未来是充满未知的。在寄宿打工期间,知寿经历了两次失败的恋爱。也正是这两次恋爱,使知寿从迷惘无助的生活中解脱,走出了自我封闭的圈子,重新找到了生活的意义。并且在痛过之后。真正的走向独立。找了一份正式工作,搬离了吟子家,住到了职工宿舍,但找了一个“有妇之夫”。虽然这段新的恋情是十分极端的。但对知寿来讲,已经是她能所踏出的最大的一步。所以说,知寿的性格,是在受伤后,自我治愈、自我反省的一种成熟。
1.2知寿与母亲
知寿的父母在知寿5岁时离异,之后的知寿与母亲过着单亲生活。知寿在这件事上是受
伤的。她想将这种无法言语的伤痛归咎于父母,却又因为难以启口而作罢。这是知寿自我封闭的开始。她对于父亲可有可无的对待也可以看出,知寿心里的“家庭”已经完全被“母亲”所替代。而面对母亲,知寿也是疏远的。特别是在母亲远行中国之后,知寿觉得在她心里,已经无法把母亲看作是最亲近的人。而是一位干涉她生活方式,对她的想法不屑一顾,甚至拿女儿去履行“约定”的人。知寿的母亲是一位很普通的日本中年女性,她年轻时离异,独自抚养自己的女儿,有自己的教职。她对知寿,有着作为母亲的关怀,也有着作为一个中年人,对知寿这样的年轻人未来的打算与指导。
知寿了解母亲的关怀,却无法消除母女之间的隔阂。她明白母亲从小到大抚育她的辛苦。却将这种辛苦转化成钱财的回报,甚至在与母亲相处时,因为无法还清而觉得生分、不自然。得知了母亲的新恋情,正是知寿第二次失恋后,看着母亲幸福的样子。知寿的心情是复杂的,为母亲不必孤单而高兴,却又觉得母亲要离开自己了,再也感受不到母亲无微不至的照顾而心情微微发酸。
而知寿所感觉到的母亲“好像生日宴会上的主角”一样的快乐时,让她更看到了自己失恋后的孤独、寂寞。这种无法对母亲言说得清的痛苦,使她开始思考一个以前从未想过的问题。她开始思考自己的人生意义,并且将她的想法说给吟子听,并最终让她明白了自己的缺陷,使她真正成长起来。
1.3知寿与吟子
作为寄宿家庭的主人,吟子与知寿,是人生中的两个极端。一个是风华正茂一个则已垂暮年。而知寿在吟子同住的这段时间里,既没有年轻人浮躁的习性,也没有感受吟子有老年人特有的不好相处之处。平淡而真实的生活,就这样一点点铺陈开来。而吟子在知寿的成长中,也起到了不可或缺的作用。
知寿在东京的打工,就是从吟子的家开始的。刚开始对于吟子“热情的接待,殷勤的招呼”有点不太适应的知寿,后来渐渐地感受到老人不修边幅、大而化之,却又在生活中透露出老人家的智慧积极的处事哲学。知寿在一开始对这种智慧是不屑一顾的。在知寿眼里,吟子有些事情做的是毫无意义的。就像她看见吟子化妆时一样。觉得“都没人会看,化来干什么呢”但在相处中,知寿渐渐感到吟子的“独到之处”。
在知寿所经历的两次失败的恋爱中,吟子一直都陪伴在知寿身边,在知寿觉得孤独、迷惘时,她在知寿的成长中是不可或缺的,是她在知寿的人生道路上推了一把,而她与芳介的黄昏恋,一直或多或少的影响着知寿。在内心深处,知寿是羡慕着吟子的爱情的。他一直将吟子积极乐观的生活态度看在眼里。甚至问出“一个人真的可以一下子用完他一生所有的恨吗”这样的问题。可见,知寿是希望了解进入吟子的精神世界的,特别是在她失恋时,她在吟子那里找到许多的安慰与陪伴。
与知寿的母亲相比,吟子在知寿的成长中,成为知寿的领路人。相较于母亲的幸福,吟子的恋爱更让知寿有所触动。知寿在这两种不同的幸福的感召下,开始正视这种从前从未考虑过的生活方式。也是吟子在与知寿的闲聊中,通过一种极温柔的方式,让知寿了解到“大家都会走的。”“没有人会一直陪在你身边”这样一种道理。而正是这种体悟,让知寿真正尝试着走出自我封闭的圈子,走出失恋的悲伤。也是吟子,在知寿搬到宿舍住的前一天,告诉知寿“趁年轻的时候多吃些苦头。”这是吟子最为语重心长的一句叮咛了。而这也是知寿性格的致命缺陷。吟子用她老人独特的“慧眼”找到了知寿的症结所在。寥寥几句话,却比知寿母亲长篇大论的更加贴近知寿的所求。所以说,说吟子至于知寿,是人生导师一点也不为过。
1.4知寿与三个恋人
知寿的两次恋爱,均被贴上“失败”的标签。由它们所组成的荆棘痛苦的成长之路的开端,知寿与阳平相恋。这也是知寿成长的开端。知寿是喜欢阳平的,可这段恋爱却是没有结果的。知寿将他们恋爱失败的原因归咎于两人之间已经可有可无的需要感。他认为在这种情况下,分手是必然的。只是“不知道为什么分手,该怎么分手”而只好“顺其自然”了。但这种“顺其自然”,是知寿消极、敏感的体现。她无法正视与阳平之间逐渐转淡的感情,没有最初那种愉悦之后,在知寿眼里,就只剩下分手一途。她在潜意识里已经决定了要分手,而这种消极和敏感,也在她的第二次恋爱中得到体现。在他与藤田的恋爱逐渐失去新鲜感时,这种“预感”又出现在知寿的头脑里。而这些完全推动了她对藤田的有意无意的疏离。阿丝的到来则是给了知寿放弃的一个好的借口。最后,藤田与知寿的恋爱走到了尽头。但是在知寿心里。她还是爱着藤田的,她心中对藤田的不舍让她做出了最后的挽留。可藤田与阳平如出一辙的冷漠使知寿无法再靠近,却也无法摆脱藤田走后无法排遣的寂寞与痛苦。这次失恋带给知寿一个很大的伤口。她辞掉了工作、买醉、落泪,甚至发出了“我的人生没有意义,即使我死了也不会有人为我流泪”的悲叹。也觉得“再也不会有这样全心全意、不顾一切的恋爱了”。
这段恋情发掘出知寿不为人知的世界,却也动摇了这个世界。她无法再在自己惯有的圈子里去寻找自己想要的幸福。所以说,这两次痛苦的恋爱,是知寿成长的主要原因。即使后来的知寿,十分极端的找了一位有妇之夫。知寿对于爱情和生活,则真正有了认知和体会,就像她“列车载着我,飞速朝有个人等着我的车站驶去”。可见,知寿对于生活,还是有她的期待和希望。唯一与从前不同的是,她可以正视生活的失败和伤痛、相逢与离别。
1.5 “彻罗基们”与知寿的交友观
知寿房间里的“彻罗基”们,不单单是一群已死的猫咪。它们不论在吟子心中,还是素未谋面的知寿心中,都有着很深的魔力。吟子的心中,它们每一只都与她度过了一段美好的岁月,而这岁月也继续传承着。而知寿心中的“彻罗基”,则是她所能看见和怀念的一种代表。这代表知寿对于从前的无法割舍。她觉得回忆是承载在物品中的,所以她将自己的“顺东西”,看作是一种对于失去的人的怀念。并以此来排遣寂寞。而在吟子眼里,照片只是一种纪念,而真正作为回忆保留的,其实就是回忆而已。这是一位年逾百岁的老人的人生体悟。她甚至不在意自己走后是否有人记得她。对于知寿把她挂在墙上的建议也不甚在意。知寿理解中的回忆,是需要媒介的。这也是知寿孤独敏感的体现。恐怕对于知寿,她生命中的“彻罗基”,不单单只是她鞋盒子里的那些而已,那些她未曾在意的人,也就是那样悄悄离去。再无踪迹可寻。
2.知寿的成长过程
这部小说以心理描写见长。在短短的一百多页,四十个小节的故事中,心理描写占了大部分。而在这些心理描写中。知寿的变化清晰可见。
2.1封在自我中的满足
知寿来到东京,正好是一个冬末春初的开始,也是她高中毕业,走向社会的开始,更是她母亲远行中国、寄宿在银子家中,与阳平的恋情明朗化的开始。这些开始,在文中,通过短短三四个小节就叙述的很好。可见,知寿的生活圈子是极其狭小、自我的。
2.2第一次失恋前后的季节
知寿搬到东京之后第一次与阳平的会面。是挫败的。“走在通往车站的樱花行道树下,白色的花瓣飘落在身上,我不禁烦躁起来。”这样的知寿是敏感的,“我一听人家说是樱花怎么怎么美,款冬花茎、菜花、新鲜的洋葱头怎么怎么好吃,我就来气,”“真想给他们一句‘有什么可显摆的。’我才不会为这些个东西瞎激动呢”而这种焦躁,在知寿看来。是周围环境的不是,她希望夏天赶快到来,让她可以沐浴在阳光下。而不是现在这种瑟瑟的寒风之中。而在她与阳平分手的那天,风和日丽又成了一种错误。她觉得自己“宁愿将全身暴露在仿佛要毫不留情夺走皮肤脂肪的严冬的寒风中,也不要这样的风和日丽。”对于自己的悲伤,外界一无所知,这样的体认给了知寿一种孤独的焦躁。并使她憎恨起天气来。
2.3来自吟子的暗示
知寿在于吟子的谈心中,看到了吟子作为一个老人的生活经历。并意识到“可能的话,我还是愿意永远这么年轻,不经受实施磨难,静静的生活下去。”虽然她也知道“这当然是不可能的”。却也将知寿害怕受伤的心理描写出来。而紧接着,知寿“对于将来和梦想,以及刻骨铭心的恋爱等等,即使描绘不出来,我也朦朦胧胧怀有这样的期待。”“希望做一个像样的人,度过一个像样的人生;想尽量锻炼自己的肌肤,成为一个能够经受任何磨难的人”这样对自己的鼓励和期冀。也直白的“说”了出来。将一个平凡但认真的知寿刻画的生动传神。
看到吟子与芳介恋恋不舍的告别,她是羡慕的,却无法坦率的说粗自己的羡慕,只好说“没完没了的挥手,让人担忧是不是得了老年痴呆。”这之后的很多次会面,知寿都会在心里对这对黄昏恋人产生一些“恶毒”的想法。无法坦率说出自己羡慕的知寿,也是别扭可爱的。
“和吟子面对面吃饭的时候,我总觉得自己的岁数倒比她大得多。”“活到了这个岁数的人面前。恍惚觉得对方不会再继续老化,只有自己朝着前方的苍老飞速的坠落下去。”面对淡然却滋润的吟子,知寿有这样的焦躁无可厚非。在知寿的心中,吟子的生活其实是她一直想要的生活。她向往着这种平静,也看到了她与吟子之间的差别。吟子已经走过了她生命中的大部分,时间的沉淀给了知寿一种美的感悟。而知寿本身的生活是流动而活跃的,在这种焦躁中,知寿不止一次想要“成为”吟子一样的老人。在情人节那天,知寿一边咬着巧克力,一边想:“真想穿上她的裙子照张相,五十年以后在拿出来看。”吟子的魅力在知寿的眼中,是一种不可或缺的苍老。
2.4自我觉醒
“我感觉那里面的东西在逐年退色,气味也在消失。难道是我变了吗?”这是知寿在与藤田恋爱后的整理自己的鞋盒子是发出的疑问。是知寿变了吗?我觉得的是的。知寿与藤田的恋爱和与阳平的恋爱不同,已不再是学生时代的恋爱了。知寿更多的关注着外界。这使作为知寿回忆媒介的旧物渐渐无法排遣知寿的寂寞了。作为回忆的东西,渐渐的失去了从前的熟悉感,知寿正在逐渐的将自己剥离封闭和回忆。
“今天这里可能是最后一次了,他这么想,也就不回头看我了。我懒得去收拾他作个的坐垫和嘴巴碰过的马克杯,就当这一切都没发生过吧。作为交往过的男孩子之一,应该几十年后与藤田有关的所有一切都埋到记忆深处去,像门楣上那些消除了个性的死去的彻罗基们一样。”知寿在与藤田分别后的第一个念头,就是她房间里门楣上的彻罗基,她希望自己在分手后可以平静的接受这个事实。就像那些已经失去的曾经。她可以像看到彻罗基们那样回
忆自己的过去。不为这次失恋而伤心。但事实是相反的,知寿的这次失恋时伤痛的,她觉得自己“无可救药了”。
2.5第二次失恋后的物是人非
而吟子,则用开玩笑似的方式说出“人早晚都得走的,”这样的话来,这句话不仅点出知寿害怕孤独寂寞的内心,也使知寿在内心真正了解到“没有人会一直陪伴着你”的道理。让知寿下定决心“该离开这个家了”。
“我好想做不到将他人和自己紧紧地联系到一起。我也想尝试一个人生活。我希望能有一次,不是别人离开我,而是我离开别人。”这样的知寿终于了解到,自己的人生是孤独而封闭的。在她的生活中,一直重复着与人相遇,却又与人别离,在原地的只有自己。别动的看着别人来来去去,这种深入骨血的孤独,让她明白,如果自己不摆脱自我封闭的境况。那么她的人生将是一个怪圈。不论走到哪里,都会重复着一直看着别人来来去去。直到生命结束的悲惨境地。让她恍然发觉,自己是依赖着吟子的温暖和关怀的。可是如果一直依赖,不去为自己一人打算的话。她的人生将是一塌糊涂。
“早晚有一天,吟子也会成为彻罗基的一员吧,想象着她的相片挂在墙上,早晚有一天吟子也会像那些彻罗基们失去个性吧,不会再有人谈论起她,吃过什么穿过什么,这些日常琐事就像原本不存在似的,会消失的无影无踪。”
知寿想象着吟子离开后的场景,这样的场景让她难受。她发现,一直在自己身边陪伴自己、照顾自己的吟子,也会在不久的将来离她而去。她终于下决心离开自己眷恋的地方,去自己生活,她所追求的幸福不是看着别人离开。而是真正能在分别时,独自品尝留下的美好回忆。使她不必再为孤独恐惧。
“我以后也能像她这样吗?到了七十岁还爱打扮,住在自己的小房子里,情人节去买巧克力。我能过上这样的生活吗?”知寿终于看到了吟子所阐释的幸福。她不禁想到,自己是否也可以这样生活,一辈子努力生活,经历过爱恨,经历过波折,到老了还能遇到爱情,情人节去买巧克力。这些最最真实,最最令人感动的人生体验。是知寿向往的,却一直求之不得的快乐。她要的不是身心的苍老。即使苍老是必经之路。她要的是心灵的归属。
2.6正视离别,走出自我
“电车经过车站时,我忙低下头。说一千道一万,我还是没有勇气毫无顾忌地环视车站。我不想看见藤田和阿丝。有多长时间没见了,他们还记得我吗?” 分手后第一次路过拥有回忆的车站,知寿是无法面对的。她无法面对的是曾经的爱恋和伤痛。她不想去直面自己的失败和受伤。她将自己缩回了壳里。而等到她再一次路过这里,是她作为正式员工搬离了吟子家之后。这一次的知寿,看到了熟悉的景象一一流过“小卖店依然在,站在那里的协管员我都不认识。藤田、阿丝、一条也没看到。”物是人非,知寿终于将这段伤痛作为一种回忆保留在心底,她真正从伤痛中走了出来,也真正从自我中走了出来。
2.7对幸福生活的勇敢追求
“即使我走到站台上大喊一声‘喂’,这声音要传到那个院子里,也仿佛要好几年。”对于一切物是人非,知寿的感觉都不尽相同,但在路过吟子家时,对于曾经在这里所经历的一年,还是充满着怀念和伤感的。再放开自我以后,知寿对于自己曾经的孤独和敏感,还有自我封闭的岁月,有着淡淡怀念和忘却的疏离。知寿真的成熟了。就像他最后所说“电车载着我,飞速朝着有个人等着我的车站驶去。”
3.“飞特族”的文化圈
本文的作者青山七惠,是一位“80”后作家。她笔下的知寿,也是日本目前许多年轻人的生活的真实写照。这部小说自然平淡,却又在无声细微之处发人深省,令人回味。特别是因子与知寿的几番对话。更体现出一个老人一生的生活经历和态度。发人深省。她笔下的知寿、知寿的母亲与吟子,是在一个时代中,不同年龄阶段的代表。他们对于人生不同的对待和理解。代表了日本不同年龄段的日本女性所经历的人生际会以及不同的人生体会。吟子是传统女性的代表,知寿的母亲则是一个典型的职业女性。而知寿,则代表了当代最为流行的“飞特一族”。
飞特族的定义是,在18岁到34岁之间,没有固定工作,靠打零工来维持生活的年轻人。而本文的另一大特点,则是知寿作为体现当前社会上典型的“飞特族”中的一员。“飞特族”的出现,是日本年轻人特有的自我封闭与自我否定的体现。随着离婚率的升高,晚婚晚育、少子无子化的影响,新一代的日本青年的孤独感和无助感增强,而他们对于家庭、事业、人生、的思考与价值观发生了巨大的变化。害怕失败而不敢尝试,害怕受伤而不敢碰触。已经成为年轻人性格的一种特征。
文中的知寿正是这类年轻人的典型代表,她作为“飞特一族”,从她对工作、人生的态度就可以看出。知寿的性格是自我的,这种自我成为年轻人新的象征。知寿的母亲与知寿之间淡淡的隔阂,就是中年人对青年人的这种自我的不了解与不尊重。也正是这种不了解和不尊重,使这些青年对社会产生了一种不被接纳的感觉。这也是“飞特族”出现的另一大原因。而知寿最终走向成熟,脱离了“飞特族”,成为一名正式的社员,却还是没有放弃自我的理念和生活的信条,就是为了自己而生活,为了幸福而生活。这样的知寿,是成熟了的,但并不是失去个性的。尽管她在最后找了一个有妇之夫,但是她对于幸福的憧憬和追求却没有改变。
所以说,这部小说可以说是知寿,作为一个“飞特族”女孩的成长自白。
注
释
1飞特族:所谓“飞特族”,实际上是Freeter的音译,是英文“自由”(free)○与德文“劳工”(arbeiter)的组合字。Freeter代表的是一种自由的工作方式
2彻罗基:文中吟子所养的第一只猫,剩下的猫咪死去后都叫“彻罗基”○。
参
考
书
目
1.《日本文学》 肖霞 山东大学出版社 2.《日本文学》(修订版)刘利国 北京大学出版社 3.《日本文学教程》吴鲁鄂、王净华 武汉大学出版社
4.《日本文学研究:历史足迹与文学现状》 谭晶华 译林出版社 5.《20世纪日本文学史:以小说为中心》 谢志宁
浙江大学出版社 6.《日本现代文学选读》(下卷)(增补版)于胜荣 北京大学出版社 7.《日本近代文学名著欣赏》 谭晶华 译林出版社 8.《日本现代文学选读》(上卷)(修订版)于胜荣 北京大学出版社 9.《鲜活与枯寂——日本近现代文学新论》 刘振生 吉林大学出版社 10.《全球化语境中的日本女性文学》 肖霞山东大学出版社 11.《日本文学名著日韩对照系列丛书》 吉林大学出版社 12.《日本文学于文学批评研究》 刘利国 外文出版社 13.《日本当代小说导读》 刘家鑫 南开大学出版社 14.《日本文学选集》 赵晓柏 凤凰出版社
15.《日本文学翻译读本》 阎萍 外语教学与研究出版社 16.Modern Japanese Literature 商务印书馆
17.《日本文学名作选》谭晶华 上海外语教育出版社 18.《日本近代文学》 王之英 重庆出版社
谢
辞
向教导我论文的林老师表达最深切的谢意,她牺牲自己的休息时间在百忙之中帮助我改写论文,分析文章。给我提供了很多意见和便利。十分感谢林老师。
老师们总是悉心的教导我,经常抽出课余时间给我补课。在准备论文的过程中,各位老师的宽广的胸怀、严谨的学术作风让我深深的感动。在此,向各位老师以及教导我的老师们表达我真诚的感谢和无限的敬意。
第五篇:日语论文
我眼中的日语与日本文化
姓名:钟艳
学号:20086284 学院:土木工程学院
一
日语
日语一共有五十个音图,其中44个主要音节。日语中使用的文字有“平假名”“片假名”“汉字”三种。平假名可以书写所有的日语发音,主要用于表现具有语法功能的词,汉字用于表现实物的名称或动作。片假名用于书写外来词,拟声词,拟态词和一部分动,植物的名称。此外,还使用罗马字,但多用于招牌或广告,一般文章中较少使用。
二
日本文化
说起日本的文化,就不由让人首先想起有名的银座,银座(日语:银座;平假名:ぎんざ;罗马拼音:Ginza;英语:Ginza)是日本东京中央区的一个主要商业区,以高级购物商店闻名,是东京其中一个代表性地区,同时也是日本有代表性的最大最繁华的街。象征日本自然,历史,现代的三大景点(富士山,京都,银座)之一的银座,与巴黎的香谢丽大街,纽约的第五街齐名,是世界三大繁华中心之一。银座是通过不断填海造地才逐步形成今日之构架。
其次是日本良好的环保习惯,日本人民养成将垃圾分类并且装好只在特定的日期与时间将其带出放在特定的地方,而且会把自己在外制造的垃圾带回家,这是值得每个国家的人民学习的好习惯。
再次是日本的完善的养老机构,他们为老人的生活提供了便利与保障,使老人能够好好享受晚年;接着是日本的寒暄礼仪,日本人相互见面多以鞠躬为礼。比较熟悉的人见面互相鞠躬以二三秒钟为宜;如果遇见好友,腰弯的时间要稍长些;在遇见社会地位比较高的人和长辈的时候,要等对方抬头以后把头抬起来,有时候甚至要鞠躬几次。他们在社交场合上也施握手礼。
通过这门选修课的学习,更增加了自己学习日语的兴趣。呵呵。。ありがとう。