市内景点游览日语导游词详版20130606

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第一篇:市内景点游览日语导游词详版20130606

市内经典游览线

尊敬的各位来宾,大家好:

欢迎来到滨海城市天津观光游览,今天我带大家游览的是天津市区的秀丽风光,首先我为大家简单介绍一下行程:我们将从梅江会展中心出发,途径天津奥体中心,奥城商业广场,从友谊路金融街进入五大道地区,而后途径小白楼商业区、解放北路金融街,横跨海河到达意式风情区。

朋友们,现在我们所处的位置是梅江会展中心。会展中心位于天津市西南部的西青区,一期、二期总建筑面积近40万平方米,是一座集展览、会议、商务、餐饮、娱乐等多功能于一体的现代智能化展馆。金属质感十足的铝板外立面,波浪形的顶棚,以及镶嵌在顶棚上的钢化玻璃,既有时代特色,又具环保功能。白天,利用自然光线即可满足各个展厅的照明需求。这里也是天津夏季达沃斯论坛的主会场。大家一定听说过达沃斯论坛,它被誉为非官方的国际经济最高论坛。选择这里做为其主会场,足见天津作为经济高速发展的海滨城市,对全国乃至世界经济发展的举足轻重的影响。

车行左前方就是大梅江生态居住区,位于天津市的南部,这里以远离市区,环境清幽、空气清新而著称,现已成为天津市一处高档住宅区。该住宅区开发始于1999年,规划居住人口10万人。

我们现在行驶在快速路上。天津快速路设计时速80公里每小时。全长48.9公里,路面宽度为50米,共建有19座立交桥,是一个围绕天津市区的封闭式环城道路系统。它的建成大大便捷了外环与市区的交通。

现在我们看到的建筑就是天津奥林匹克中心体育场。它状如水滴,而金属和玻璃作为建筑材料更是让整个场馆有着水滴一般的晶莹感。因此,当地人亲切地称它为“水滴”。这座场馆总投资14.8亿元,占地7.8万平方米。2008北京奥运会的序幕就提前在这里拉开,男女12场小组足球赛就在这里进行。“水滴”体育场旁边是天津新建的跳水馆,这里将成为国家跳水队和游泳队的训练基地,由于其外形与“水滴”体育场相近,但略小,市民亲切地称之为“小水滴”。

大家看,前方的这座水中高塔就是天津市的标志性建筑——天津电视塔。取其名字的首尾,当地人称之为“天塔”,给人以高耸入云端的感觉。天塔总高度415.2米,占地22公顷,建成于1991年,是世界上独有的水中塔。我们现在所在的区域是天津的中心城区——河西区,这里是天津的政治、经济、文化中心区,也是天津市涉外酒店最集中的区域。其中最有名的就是以五星级标准建造的万丽天津宾馆和水晶宫饭店。水晶宫饭店是由美籍华人设计师吴湘先生设计的,内部采用光亮派设计风格,犹如水晶打造的宫殿。

车行前方右手边大家看到的是天津文化中心项目,在90公顷的文化中心中,有33公顷的水面和绿地。主要项目包括天津图书馆、天津博物馆、天津美术馆、天津大剧院、阳光乐园、天津银河购物中心等。区域内强调单体建筑之间、建筑与整体环境之间的有机联系和相互协调。南侧文化建筑端庄典雅,北侧青少年活动中心活力动感。充分展示天津大气、洋气、和谐、现代的靓丽形象。这里将是未来天津政治活动、国际国内交往、文化交流的重要场所。

我们现在行驶的这条路就是天津迎宾的主干线——友谊路,友谊路全长3.5千米,两侧共有金融、保险、证券机构近30家,有天津“华尔街”之称。

车行右手边是天津友谊商厦,它是天津最早为旅游团队提供多种服务的涉外商店,如今已成为天津的高档商场之一,友谊商厦自从2007年全面改版升级后,总营业面积达到将近4万多平方米,拥有了高档的品牌组合、幽雅的购物环境、一流的星级服务、规范的国际化管理,快速提升了友谊整体的经营档次,气势宏伟的友谊商厦,已经成为了友谊路一道新的靓丽风景线。

现在我们穿越的这条路是中环线。全国各地的交通都有其特有的规划安排,天津市区交通依海河而建,形成了“四环十四射”,这就是其中的一环,中环。其他的三环分别是:内环、外环、快速路环线。

我们现在将驶过五大道地区。现在大家眼前的建筑群与中国的古典建筑风格截然不同。由于历史的原因,天津拥有众多异国风格的建筑,曾经的租界区、名人故居成为了中国近代史的缩影。五大道更是凝聚了近代中国百年的历史风云,素有万国建筑博览会的美誉,是天津市的一张城市名片。五大道历史上曾经是英国租界,至今完整保存有20世纪初设计建造的欧洲不同风格的小洋楼近200幢。五大道指的是沿东西向从南到北分布的马场道、睦南道、大理道、常德道、重庆道、成都道。

五大道还拥有着不少名人故居,末代皇帝溥仪、清朝各色遗老、民国下野政客、失意的军阀等均在五大道留下足迹。因此,走在五大道上,就是在和历史名人对话。通过一路上的观察,你们找到法国风格的建筑了吗?大家往那边看,那里是天津外国语大学,始建于1920年,创办人是法国学者黎桑。校内建筑均为法式,其中主教学楼正面的大时钟体现了法国罗曼式建筑风格。如今,这里不仅是全国著名的外语院校,也是中国影视剧趋之若鹜的拍摄基地,在这里我们经常能够见到许多明星和拍摄剧组。当然,这儿也是游客们观光的首选之地。

现在我们来到了小白楼地区,因为这里原有一座外墙为白色的二楼酒吧,又因为当时这里没有地名,所以当地居民就以这座独特的白色小楼为地标,约定俗成,称为小白楼了。如今,小白楼地区已经成为天津著名的商业区之一。来到这儿,您可以驻足“音乐厅”,品尝“起士林”(天津最早的西餐馆,1908年由德国人起士林开办),逛一逛奢侈品店——海信广场,把握天津的时尚脉搏。

大家看,远方的建筑是音乐厅。它于1922年落成,是一座典型的欧式建筑。在历经80余年的风吹雨打后,2005年底,有关部门邀请法国建筑大师安东尼雷格尼设计新的音乐厅。我们现在看到的便是新建的音乐厅,天津市的大型音乐演出很多都选择在这里进行。其独到的建筑风格更是使音乐厅成为了天津新婚夫妇进行婚纱摄影的不二选择。

位于音乐厅下方的是天津市首个地铁情景商业街——朗香街,商业街区总建筑面积达3.2万平方米,所处位置可以让地铁乘客下车便能直接逛街,满足了购物、餐饮、娱乐、休闲等不同需求。

大家右手的这条街道充满浓郁的欧陆风情,它就是1902风情街。在200米的街道上,汇聚了29家酒吧和西餐厅,处处洋溢着异国情调,走在风情街上,耳边传来阵阵小提琴的悠扬旋律,沿街40多个白色铁艺方桌上,撑起不同颜色,不同造型的遮阳伞,游人在这里品品红酒、咖啡惬意无比。

接下来大家看到的这一片是泰安道五大院英式风情区,采用英伦风格建筑理念,规划甲级写字楼,超五星级酒店,居住式公寓,酒店式公寓,通过对原始街区和历史建筑的保留和改造,新建建筑的协调呼应以及环境氛围的整治提升,形成五个特色围合式院落,被市政府定位为现代金融、商务旅游和现代服务业的核心区。是本市规划确定的唯一一处具有居住功能的风貌保护区。

现在我们脚下的是全长2300米的解放北路,租界时期名为中街,为纪念天津解放,1949年1月25日改名为解放路。而天津市民更愿意称它为金融街,因为自始至终它都是天津的金融中心。解放北路两旁的建筑有罗马式、哥特式、罗曼式、日耳曼式、俄罗斯古典式等,展现着各国的风采和建筑方面的风格与成就。每隔不远出现的一块块文物牌,标注了它们曾经走过的路。历史上,它们都曾经称得上是庞然大物。租界时期,这里既是英、法、德领事馆、俱乐部所在地,又是洋行、银行集中的地方,素有“东方华尔街”之称。

车行右边是全国重点文物保护单位——利顺德大饭店,是中国历史上第一家涉外饭店,经历了160多年仍保留着英国古典建筑风格和欧洲中世纪的田园乡间建筑特点,成为天津租界风貌的代表建筑。这里曾经居住过多位历史名人,民主革命之父孙中山、少帅张学良、美国17届总统格兰特、美国31届总统胡佛、著名京剧表演艺术家梅兰芳、末代皇帝溥仪等。这里还有最宝贵的“活着”的历史文物——奥的斯公司生产的最早一批电梯,2005年中国电梯协会向利顺德颁发证书,认定该电梯为中国现存并仍在正常运行的最古老的电梯。这里也是影视剧拍摄不可多得的地方,在许多著名影视剧中,我们都能找到这儿的影子。2010年,利顺德大饭店经装修改造、修旧如旧,如今已经成为了天津最为高档的文化旅游下榻之所,大家如有时间,可去饭店地下一层的利顺德博物馆一探究竟。

大家右手边的这组建筑群,是天津一座24小时不夜城——津湾广场。地理位置优越,人文底蕴深厚,由传统法式建筑与现代高层建筑所组成的建筑群落,将与津门、津塔、嘉里中心共同构成美丽的天际线,成为天津城市形象的标志,这里集餐饮、娱乐、演艺、购物、商务、会展为一体,成为外地人感知天津的高端商业商务集聚区。

前面这座宏伟的建筑就是天津火车站,天津是中国铁路运输的发祥地。2006年,天津市对老天津站进行了改造,我们现在见到的是新建后的天津火车站,从这儿开出的京津城际高铁时中国第一条高铁,到首都北京只需要30多分钟,大大缩短了两座特大城市的时空距离。

我们视线内的那座桥是1923至1927年建成的铁桥,桥长96.7米,桥面总宽19.5米,耗资125万两白银,是租界时期海河上造价最高的一座桥梁,名为解放桥。桥的原名为“万国桥”,因为此桥位于法租界与俄、意租界之间,民间也称此桥为“法国桥”。而且,这座桥与法国埃菲尔铁塔是同一家公司设计建造的。该桥的检修年限为80年,2003年,建设该桥的公司来津对解放桥进行了勘测并进行了检修。

前方带着明显欧式风格的建筑就是天津著名的意式风情区了。意风区以马可·波罗广场为轴心,是目前亚洲最大、保存最完好的意大利风貌建筑群。原街区始建于1902年,占地28.45公顷。目前大家所见到的是近几年市政府聘请意大利建筑师,按照修旧如旧的原则修复后的面貌,这是天津市第一个全部恢复原有风格的欧式街区。

以上就是我们今天的全部行程,接下来给大家2个小时自由活动时间,大家可以在意式风情区的欧式西餐馆喝杯咖啡,吃点儿甜点。两小时后我们在入口处集合,一起坐车回宾馆。如有任何需要,请及时与我联系,希望大家今天玩得开心。

市内お勧め観光コース

みなさま、本日はようこそ沿岸都市天津へおいでくださいました。本日ご案内するのは天津市内の観光名所でございます。まずは観光路線について簡単にご紹介させていただきます。観光バスは梅江会議展示センターから出発します。そして天津オリンピックセータースタジアム、水滴奥城商業広場を経由して、友誼路金融街から五大道地域に入ります。そして小白楼商業区、解放北路の金融街を経て、海河を渡ってイタリア風景区に着きます。

皆さま、ここは梅江会議展示センターでございます。天津市西南部の西青区にあります。総面積は約40万平方メートルで、展覧、会議、商務、飲食、娯楽などの機能がそろっているインテリジェントセンターです。金属質感を持つアルミの外立面、波のような屋根、そして屋根にはめられた強化ガラス、ファッションな外観を持っているだけでなく、環境にも優しい展覧館となっています。お昼、太陽の光だけで、各ホール内の照明需要を満たすことができます。ところで、世界経済フォーラム、ダボス会議をお耳になさったことがあるのではないかと思いますが、2010年の夏に天津で行われたダボス会議のメイン会場はここにあります。メイン会場に選ばれたのは、天津が高度な経済成長を遂げた沿岸都市として、中国乃至世界経済の発展には大きな影響をもたらすからです。

左手に見えるのは大梅江生態住宅区でございます。天津市の南部に位置しています。都市の中心部から遠く離れていて、景色も奥ゆかしいですし、空気もとてもきれいです。天津の高級住宅地として知られています。大梅江団地の開発は1999年から始まり、入居人口は10万人に達している予定です。

今、天津市内の高速道路を走っています。設計速度は毎時80キロです。全長48.9キロメートルで、幅50メートルです。車両の最高速度は毎時60キロと設定されています。高架橋が19本架けられています。天津市内を取り巻くこの高速道路システムは郊外と市内の交通に大きな便利を提供しています。

皆様、右手をご覧くださいませ。まもなく右手に見える建物は天津オリンピックセータースタジアムでございます。一滴の水に似ているところから、「水滴」の愛称があります。建築材料が金属とガラスを使いますから、スタジアムの透明感を高めます。まるで一滴の水のようにきらきらしています。このスタジアムは総投資額は14.8億元に達しています。総面積は7.8万平方メートルです。2008年の北京五輪の時に、男女のサッカー予選はここで行われました。天津オリンピックセータースタジアムの隣は新しくできたダイビング・水泳館です。国家ダイビングと水泳チームの訓練基地になります。その外観は天津オリンピックセータースタジアムに似ていますから、「小水滴」という愛称があります。

みなさま、前方に見えるのは天津テレビタワーでございます。天津のシンボルの一つとされています。現地の人はこのテレビタワーを「天塔」と呼びます。天につくばかりに高く聳えているイメージです。天津テレビタワーの高さは415.2メートルで、敷地面積は22ヘクタールです。1991年にできた天津テレビタワーは世界で唯一の「川の中に建てられたタワー」です。

これからご案内するのは天津市内の中心地域――河西区でございます。河西区は天津の政治、経済、文化の中心です。外国人向けホテルは一番集中しているところです。そのうち、最も有名なのは五つ星のザ・レイクビュー天津マリオット(天津濱江万麗酒店)と天津クリスタルパレスホテル(天津水晶宮飯店)です。天津クリスタルパレスホテルは中国系アメリカ人の建築家呉湘によってデザインされました。室内の装飾はロココスタイルを取り入れて、水晶でできた宮殿のように見えます。

皆様、右手に見えるのは天津文化センターでございます。敷地面積は90ヘクタールです。そのうちに、水面と緑地の面積は33ヘクタールに達しています。主要な建築は天津博物館、天津美術館、天津図書館、天津大劇院、陽光楽院、天津銀河購物中心などあります。建築と建築、また周辺の景観と調和が取れています。南側の建築群は厳かで雅です。北側の青少年活動センターは活力にあふれています。天津のモダンで、調和したイメージを伝えています。将来ここは、天津の政治活動、国内外の交流、また文化イベントを行う重要な場所になります。

観光バスが走っている道は天津の主要幹線道路――友誼路でございます。全長は3.5キロです。道路の両側には保険、証券、金融機関30店近くあります。天津のウォールストリートと言われています。

右手に見えるのは天津友誼商店でございます。天津市第一軒目の外国人を対象としたデパートです。現在、高級デパートの一つになりました。2007年に改築した後、総営業面積は4万あまり平方メートルで、国内外の数多くの有名ブランド商品が集まっています。お客さんに優雅なショッピング環境と一流のサービスを提供しています。

今走っている道は中環線でございます。地方によって、交通計画がそれぞれ違います。天津の交通は海河に沿って発展してきました。天津の主要道路は四本の環状線と十四本の放射線からなっています。今走っている中環線は環状線の一つで、後は内環線、外環線と快速道路環線があります。

まもなく手前に見えるのは五大道地域でございます。ここの建築群は中国の古典建築の風格と全然異なっています。1860年に天津が開港されてから、英国、フランス、ドイツ、日本など9カ国が五大道で租界を作りました。その後、さまざまな異国様式の「小洋楼」が次々と建てられました。ここは「建築の万国博覧会」と言われていて、天津の魅力を示す都市名刺です。20世紀始め頃に作られた、風格それぞれ違うヨーロッパ式建築は200あまり保存されています。五大道は南から北までそれぞれ馬場道、睦南道、大理道、常徳道、成都道五つの道を指しています。

五大道には多くの名人旧居が残されています。清の最後の皇帝溥儀、没落した清朝の皇族や権勢を失った軍閥、落ちぶれた官僚も数多く天津に住んだことがあります。五大道を歩いていると、歴史上の名人旧居を巡って、これらの人と対話するような気分になります。皆様、フランス風の建築を見つけましたか。右手をご覧ください。右手に見えるのは天津外国語大学でございます。天津外国語大学は1920年にフランスの学者によって設立されました。キャンパスにある建築はすべて典型的なフランス建築です。そのうち、メインビルディングにある掛け時計は典型的なフランスのローマ式の風格です。現在、天津外国語大学は中国の有名な外国語大学だけではなく、中国の多くの映画やテレビドラマのロケーションとして使われています。また、ここはとても人気のある観光スポットにもなります。

右手に見えるのは小白楼地域でございます。そもそもここに塀の白いバーがありました。当時、この辺は名前を持っていなかったから、現地の人はこの白い建物をランドマークにしました。この辺は「小白楼」と名づけられたのです。現在は天津のシービーディー商業中心区になりました。ここに有名なのはコンサートホール、起士林レストランの西洋料理、(天津で第一軒目の西洋料理のレストラン、1908年にドイツ人キスリンによって開きました。)そして、高級ブランド品が集まる海信プラザです。ここを歩く時、異国情緒が感じられます。

みなさま、前方に見えるのは天津コンサートホールでございます。典型的なヨーロッパ式建築で、1922年に建てられました。2005年の年末、天津市政府はフランスの有名な建築家に新しいコンサートホールをデザインしてもらいました。今見えるのは新しくできたコンサートホールです。大型のコンサートはいつもここで行われています。コンサートホールの独特な建築風格に引きつけられ、天津の人はよくここで結婚写真を撮ります。

音楽ホールの下にあるのは地下商業街――朗香街でございます。総面積は3.2万平方メートルあります。乗客は地下鉄を降りて、すぐ買い物や食事をしたりすることができますから、非常に便利です。

皆様、右手に見える町はヨーロッパ情緒たっぷりですね。1902風情街と呼ばれます。長さ200メートルあまりです。西洋料理のレストラン、バーがあわせて29軒あります。バイオリンの美しい音を聞きながら、オープンカフェでワインやコーヒーを飲んで、とても心地よいです。

前方にあるのは、泰安道のイギリス風情区でございます。イギリス式の建築理念に基づき、オフィスビル、超5つ星ランクホテル、居住用マンション、ホテル式マンションが企画され、原始の街と歴史の建物に対する保留と改造、新築建物の調和呼応及び環境雰囲気の改善を通じて、五つの囲られる庭付き住宅院落が形成され、市政府に現代金融、商務観光及びサービス業の核心区と定められています。ここも天津市が企画した唯一の居住機能を兼ねる風貌保護区です。

今走っている道は解放北路でございます。租界の時は中街と呼ばれています。1949年1月25日に、天津が解放されたことを記念するために、解放路という新しい名前がつけられました。天津の人はいつもこの道を金融街と呼んでいます。なぜかと言えば、古くから現在まで、この道は天津の商業中心ですから。道の両側に立ち並んでいる建て物はローマ式、ゴシック式、ゲルマン式、ロシア古典式などあります。各国のそれぞれ異なる建築風格と特色を示しています。随所に見られる文化財の標識はこれらの建物の歴史を記録しています。中国近代歴史上、ここはイギリス、フランス、ドイツの領事館、クラブの所在地でした。またかつて外国人経営の商社、銀行が集中していた地区でした。東方のウォールストリートと言われています。

みなさま、右手に見えるのは全国重点文物保護単位――スターウッドホテルでございます。中国では、第一軒の外国人向けホテルです。130年以上の歴史を持っています。イギリスの古典風格とヨーロッパ中世の田園式特色を持っているため、天津の租界建築の代表的なものとなりました。この飯店に泊まったことがある有名人がたくさんいます。例えば「中国民主革命の父」孫文、中華民国の将軍張学良、アメリカの大統領フーヴァー、京劇芸術家梅蘭芳、清の最後の皇帝溥儀などです。そのほかに、貴重な歴史文物も見られます。例えば、アメリカのエレベータメーカー、オーチスが以前生産したエレベーターです。そのエレベーターは中国に現存する最も古いエレベーターです。今でも使えます。また天津スターウッドホテルも多くの映画やテレビドラマのロケーションとして使われています。2010年、天津スターウッドホテルは昔どおりに復元されました。今は天津でもっとも高級なホテルの一つになりました。お時間があれば、ホテルの一階にある博物館に行ってみてください。

皆様の右手に見える建築群は24時間営業の不夜城――津湾広場でございます。地理的条件に恵まれていて、深い文化の蓄積を有しています。伝統的フランス建築と現代の高層ビルからなった津湾広場は「津門」、「津塔」、「嘉里センター」とともに、天津の新しいシンボルになりました。東側と北側は海河に囲まれています。西側は歴史の長い金融街に隣接しています。現代風に満ち溢れたヨーロッパ式建築です。高級レストラン、娯楽施設、ショッピングセンター、ビジネス、コンベンションがそろっているハイエンドのビジネスセンターです。

前方に見える壮大な建築は天津駅でございます。天津は中国の鉄道運輸の発祥地です。2006年に、古い天津駅の改良工事を行いました。今見えるのは新しい天津駅です。ここから出発する京津城際列車はわずか30分あまりで北京に到着できます。北京と天津との時間的距離を大いに縮めてきました。

前方に見えるのは解放橋でございます。1923年から1927年まで4年間かかって作られた鉄鋼橋です。橋の長さは96.7メートルで、幅19.5メートルです。銀125万テールかかりました。海河の橋の中で、建造費の一番高い橋です。元々の名前は「万国橋」でした。この橋はフランスの租界とロシア、イタリアの租界の間にありますから、民間では「フランス橋」と呼ばれていました。この橋とフランスのエッフェル塔は同じ会社によってデザインされ、建てられました。この橋の検査期限は80年です。2003年に橋を建てる会社は天津に来て橋の検査と修理を行いました。

前方に見えるのはイタリア風景区でございます、とても人気のある観光スポットの一つです。マルコ・ポーロ広場を中心としています。アジアで最大の、また、よく保存された唯一のイタリア建築群となっています。1902年に作られたイタリア風景区は敷地面積が28.45ヘクタールです。20世紀の50年末期に壊されましたが、今見えるのは復元されたものです。イタリア風景区は天津で初めての昔の風格通りに復元されたヨーロッパ式広場です。

みなさま、今日の天津市内観光はこの辺で終わります。これから解散して2時間の自由行動することになります。イタリア風景区で記念写真を撮ったり、カフェに入って休憩したりしてください。二時間後、イタリア風景区の入り口で集合して、ホテルに戻ることになります。何かありましたら、お気軽にご連絡ください。どうぞ自由時間をお楽しみくださいませ。

第二篇:成都市内景点导游词[模版]

成都琴台路导游词

各位游客,首先很高兴可以带领大家到传说中的琴台路旅游,现在,请大家随我步入这座融原始意味和现代气息于一体的艺术建筑。大家请看,这一条仿古建筑的街道是如此迷人,不知是由于司马相如与卓文君的美丽爱情,还是汉砖画像的缘故,琴台路有了灵魂一般.而有了灵魂的街道,不可能没有一些让人牵挂和怀念的理由。那么现在让我们一同去回顾一次古蜀历史,去物是死的,人是活的。物的灵性,无非是人的灵性的附着,有他人的有自己的,有的来自历史,有的来自现实。而牵挂和怀念的理由,则一定来自感悟者的自身。无论有无灵魂,人的灵性也是一定要有所寄托的。所谓“感时花溅泪”即其一种。

琴台路上,才子佳人琴瑟和鸣的故事,与湖北汉阳古琴台高山流水的传说都不因“原址”的变迁而失色。萧瑟秋风今又是,换了人间。”现在就让我们作一次美的巡礼。一提起司马相如与卓文君的故事,想必大家都不会感到陌生。想当年,文君当垆、相如涤器,过着自由而幸福的生活。为了将这段千古佳话得以流传,后人在文君当垆故址建起琴台,成为蜀都历代名胜。

穿越时空的走廊,而今的琴台仍旧风采依然,特别是在当地青羊区政府的努力下,琴台保持了浓郁的汉风,漫步其中,使人仿佛置身于时空走廊,沉浸于历史的长河中,让人感受到的是来自汉文化的动人魅力。四川省成都市青羊区充分利用当地的人文资源,运用历史手法及现代设计观念,以优美、典雅的仿汉文化景观,打造出的“琴台路汉文化街”,让人从多角度感受到了成都浓厚的古文化气息以及五千年的历史文化内涵。琴台路的建筑和景观自然而生动,体现出汉代艺术的独特魅力。琴台路汉文化街的建成形成了成都一个独具特色的文化品牌,为成都发展旅游经济起到了积极的促进作用。

改造后的琴台路于2002年12月30日正式开街,全长900米,以汉唐仿古建筑群为依托,以司马相如和卓文君的爱情故事为主线,展示汉代礼仪、舞乐、宴饮等风土人情。琴台路在改造过程中注重了特色街区的营造以及同周围环境的结合。琴台路处在成都市古建筑比较密集、文化气息比较浓厚的地段,周围有杜甫草堂、青羊宫、百花潭、文化宫等古文化遗址及公园。周边建筑即使是现代商业建筑业多以坡屋顶造型、素色着色。琴台路既很好的融入这样一片祥和的古文化氛围中,又充分体现了自身的特点。这里最富特色的是全长920余米、横贯整条街道的汉画像砖带,这条砖带荟萃了中国目前面世的绝大部分汉画像内容,游人随砖带前行,宴饮、歌舞、弋射、车马出巡等2000多年前汉代人的社会现实图景和理想天堂便复活在我们的视线中。这条砖带由16万块天然青石砖铺成,仿真程度之高,令人叫绝。

琴台路是专门为纪念西汉时期的传奇人物、爱情化身的卓文君与司马相如而命名的,所以住在这里,您不得不了解他们的爱情故事。卓文君与司马相如在古代的琴台路上开了一家酒铺,卓文君亲自当垆卖酒。淡妆素抹的卓文君,站在置放酒瓮的土台上卖酒,不卑不亢,神态自如。而为了爱情永驻,司马相如不再抚琴。他与酒店的伙计一样身着短脚裤,提壶洗碗干杂活,谈笑风生。如此这般,虽然生活清苦了点,但两人却是幸福美满,丝毫不为世俗所累!卓文君,西汉临邛人,汉代才女,她貌美有才气,善长鼓琴,家中富贵。她是卓王孙的女儿,丧失丈夫后一直在家中居住。许多名流向她求婚,她却看中了穷书生司马相如。司马相如能弹琴作诗,卓文君从中领会到他的才华和情感,一心相爱。司马相如家里一无所有,卓文君随他私奔后,就开了个酒铺,亲自当掌柜,文君当垆卖酒,相如则作打杂,不怕人讥笑。后卓王孙碍于面子,接济他们,从此他们生活富足。后来司马相如终于成名天下。而文君夜奔相如的故事,则流行民间,并为后世小说、戏曲所取材。司马相如当官之后,曾有抛弃卓文君的想法,并给卓文君写了一页无字信,卓文君接信之后明白了司马相如的意思,当即回了一首诗(诗全文见以下衅片中),司马相如接信之后,惭愧不已,从此断了此念头,与卓文君白头偕老。

大家请看,我左手边的建筑就是有名的梦之旅文君楼,这是一家访古建筑庭院式的高档宾馆,房间按三至四星级标准装修,每间房的面积高达30多个平方,是您访问天府之国--成都,最理想的下榻之地。梦之旅文君楼位于成都市中心,交通方便,环境舒适,足不出户就您就可以体验到浪漫、温馨的成都情调......宽窄巷子

成都市三大历史文化保护区之一,由宽巷子、窄巷子和井巷子三条平行排列的城市老式街道及其之间的四合院群落组成,于上世纪80年代列入《成都历史文化名城保护规划》.宽窄巷子由45个清末民初风格的四合院落、兼具艺术与文化底蕴的花园洋楼、新建的宅院式精品酒店等各具特色的建筑群落组成。不仅是老成都“千年少城”城市格局和百年原真建筑格局的最后遗存,也是北方的胡同文化和建筑风格在南方的“孤本”。核心概念是“宽窄巷子,最成都”,它将成为“成都生活标本”,使传统的成都生活在宽窄巷子中得到集中的体现和延续。院落文化共分为三个主题——宽巷子是“闲生活”区,以旅游休闲为主题,主要针对怀旧休闲客群,是以精品酒店、私房餐饮、特色民俗餐饮、特色休闲茶馆、特色休闲酒馆、特色客栈、特色企业会所、SPA为主题的情景消费游憩区。窄巷子是“慢生活”区,以品牌商业为主题,针对主题精品消费的目的性消费客群。该区域将打造成以各国西餐、各地品牌餐饮、轻便餐饮、精品饰品、艺术休闲、特色文化主题店为主的精致生活品味区。井巷子是“新生活”区,以时尚年轻为主题,针对都市年轻人。是以酒吧、夜店、甜品店、婚场、小型特色零售、轻便餐饮、创意时尚为主题的时尚动感娱乐区。为了更充分地展示宽窄巷子所蕴含的老成都生活精神,充实宽窄巷子的文化旅游内涵,打造“成都原真生活体验馆”,以博物馆的形态再现老成都的生活,通过方言、小吃、礼仪等对成都原真生活断面进行复原和展示,并通过参与互动体验项目,让观众可以在这里回到老成都生活情景中,体验老成都的生活乐趣。

锦里古街

西蜀第一街,有“成都清明上河图”之称

锦里兴于秦汉,两汉三国时期,“蜀锦”的生产作坊主要集中于此,被称为“锦官”,又叫“锦里”。唐宋时“锦里”成为成都的代称。

武候祠的东侧仅一墙之隔,就是西蜀最古老的商业街道——锦里,一条以川西民居风格建筑为主的老街道。

如果说武候祠饱含着历史的凝重和沧桑,那么锦里就洋溢着成都市井特有的喧嚣和随意。在这条不足400米长的老街上,集中了近百家的各色店铺,有传统的饮食、小吃和客栈,也有时尚的商店和酒吧,更有成都的创意:有几家小店卖的是成都本土品牌的东西,比如皮制的包包、图案古典的T恤以及布灯笼。总之,锦里是体验成都特有民俗风情的好去处。

弹弓、糖人、藏饰、泥人张……饿了吃一碗肥肠粉,渴了到街边的酒吧坐坐,无聊了喂喂池塘里的“锦鲤”。这真是个让人呆也呆不够的地方。

第三篇:西安景点导游词 日语

お出迎え

皆様、ようこそ西安にお出でになりました。長い旅、本当にお疲れ様でした。私はガイド兹通訳朱栄と申します。これから、皆様の西安のご滞在中、お世話をさせていただきますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

論語に「朊あり、遠方より来る、また楽しからずや」とありますが、今私の気持ちは全くその通りでございます。私は弊社を代表致しまして、皆様のご来訪を心より歓迎致します。何か要望や不行き届きな点などございましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。

皆様の西安の旅がこの上なく、楽しいものとなりますよう一生懸命努めてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

皆さん、西安はなんと言いましても悠久の歴史を持っている中国最古の都でございます。紀元前11世紀の西周から、秦、漢、隋、唐など約十三の王朝がこの一帯2000年にわたり都をおきました。特に唐の時代の長安は、様々な国からたくさんの人々がこの長安に集まり、当時としては最大の「100万都市」として栄えました。有名なシルクロードの出発点はこの西安でございます。これから、***を見学していきましょう。

大雁塔と大唐芙蓉園

皆さん、西安の名所旧跡の中では一番にあげられるのは大雁塔です。大雁塔は日本の皆さんにもなじみの西遊記に書かれた玄奘三蔵と関係があります。唐時代の高僧玄奘は、さかのぼること629年に生まれ、27歳の時、長安から西域への旅に出ました。そして、16年に経った657年に仏舎利や仏像、そして多くの経典を携えて長安に戻りました。玄奘は、その後大慈恩寺の住職となり、仏教に力をつくしました。唐の太宗と高宗はこの功績をたたえ、そのことは当時の書道家楮遂良の手によって石碑に刻まれ、今もそれが大慈恩寺の中の大雁塔に保存されています。この寺は、唐の高宗李冶が、母親文徳皇后の冥福を祈って648年に建てたものといわれ、西安の南郊外にあります。当時、この寺は現在の7倍以上の広さをほこり、今では大雁塔だけになりました。大雁塔は当初、五重の正方形のものでしたが、その後、レンガで7重にし、775年には、さらに十層のものに改築されました。今皆さんご覧になっている高さ63mの大雁塔は七層ですが、これは後の戦争で上の三層が崩れ落ち、残った下の部分を修復したものです。

ところで、皆さんは大雁塔が建てられた由来をご存じでしょうか。

玄奘がインドから多くの経典を持ち帰ったことは先に申しあげましたが、玄奘はそれを翻訳し、それを保存するために、当時の太宗皇帝に進言して654年建てられたのが大雁塔です。初めは慈恩寺塔と呼ばれ、それを大雁塔と呼ぶようになったひとつの説を紹介しますと、『慈恩寺三蔵法師伝券三』によりますと、「摩掲陀国に、ある寺があり、ある時、雁が群れをなして、空を飛んでいたところ、突然そのうちの一羽が境内に落ちて死んでしまった。これを見て驚いた僧侶たちはその雁を菩薩とみなし、その雁をとむらうために塔を建てた」ということです。

こうして、慈恩寺塔は雁塔と呼ばれるようになりましたが、その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられたため、慈恩寺のものは「大雁塔」、薦福寺のほうは規模が小さかったから、「小雁塔」と呼ぶようになりました。なお、現存する大慈恩寺の中の建物は大雁塔を覗いて明の時代のものですが、お寺の大雂宝殿には、釈迦如来の三身仏と十八羅漢、法堂には阿弥陀仏の像が祭られています。法堂の東側の壁には玄奘の拓本がかけてあり、これを見ますと玄奘法師が、一所懸命仏教に身をささげた様子が伺い知ることができます。また、塔身の南側には、唐の太宗皇帝李世民の勅令による、「大唐三蔵聖教序記」の石碑が嵌め込まれ、いずれも唐代の大書道家楮遂良の手による傑作として知られています。さらに、塔の入り口のところに刻まれている唐代の建築図案は、中国古代建築を研究するうえで、重要な資料を提供するものといわれ、大雁塔の北に位置する、最近新しく建てられた玄奘三蔵院には三蔵法師の頭の骨や自筆の経典が納められています。

このように、「大雁塔」は現在、最もよく保存されている唐代の建物ですが、古都背西安のシンボルとしていつまでも人々の心に残り続けることでしょう。

大唐芙蓉院は西安の曲江新区に位置しており、敷地面積は約66万平方㍍、その中、水域面積は300平方㍍を占めます。中国の西北地域で最大の文化公園です。

華清池

皆さん、前方の右側をご覧ください。山が見てきましたね。その山はどんな形に見えますか?そうですね、遠くから見ると青い馬のように見えます。ですから、驪山を名づけられています。驪山の麓にある華清池は私たちの目的です。

皆さん、いよいよ華清池に到着します。この温泉と風景の美しさで有名な華清池は3000年あまり前に発見され、歴代王朝により離宮や浴槽を作られました。毎年、寒さを避けるため皇帝はここを訪れました。唐の玄宗皇帝と楊貴妃によりロマンスが有名ですが。絶世美人楊貴妃が美し肌を洗った様子は白居易の「長恨歌」にも歌われています。なお、お湯遺跡博物館は楊貴妃を使った海棠湯をはじめ蓮花湯、太子湯、尚食湯、星辰湯などの温泉の遺跡が発見できます。ちなみに、湯殿の奥にある五間庁は西安事件の時将介石が泊まったところです。ここもあわせてご案内致します。

はい、華清池に着きました。ここでの見学は2時間となっております。今ちょうど9時ですから、11時に必ずバスに戻ってきてください。ここは観光実は多いですから、できるだけ一緒に行動するようお願いいたします。万が一道に迷ったら、ご自分でバスにお戻りください。だから、バスナンバーとバスの色をよく覚えておいてください。では、貴重品をお持ちになって、バスを御降りください。はい、皆さん、お手洗いへ行きたい方はどうぞ、そちらへ。

はい、じゃ、華清池の観光ルートは飛霜殿、九龍池、お湯遺跡博物館、それから階段を登って西安事件の舞台である五間庁です。皆さん、参りましょう。

ここは玄宗皇帝と楊貴妃の寝室―飛霜殿です。冬になるた玄宗皇帝は楊貴妃をつれて華清池へ寒さを避けに来ます。この飛霜殿に源泉に引き込んであっため冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。ここぁら驪山の美しい風景が眺められるし、それに、雪が降ると周りは全部白くなり、飛霜殿の前の九龍池には温泉が湧いて、湯気が立ち上がりますので、とてもきれいです。もちろんこれは今立て直されたものです。白居易の『長恨歌』の中に楊貴妃の風呂上りを「春寒くして、浴を賜う(たまう)華清池、温泉の水溜(みずため)らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う。死児たすけ起こせば嬌(きょう)として力無し」と書いてあります。じゃ、皆さん、御湯遺跡博物館へ参りましょう。そこには楊貴妃が入った浴槽があります。蓮花湯は先に申しあげましたが、楊貴妃の浴槽は海棠の花の形をしているので、海棠湯というのです。ちょっと見た目は今の浴槽ほど豪華ではないですが、その時は大理石でつくっていますから、豪華なはずですよ。

次の見学するところへ移動しましょう。ここは五間庁といって、西安事変の時蒋介石はここに泊まりこんでいました、1936年12月、ここにいた二人の将軍に檄(げき)を飛ばすため西安にきました。12日朝5時突然の銃声で目を覚ました蒋介石は着の身着のまま逃走しましたが、山腹(さんぷく)の岩陰に隠れているところを張学良の護衛兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。ここの五間庁にその時の銃弾にうたれた跡が残っています。

皆さん、これで華清池の見学が終わりました。ちょっと10分間休憩しましょう。写真を撮りたい方は撮ってください。10分後車の方へ戻ってください。

兵馬俑

秦の始皇帝陵は西安の東36kmのところにあります。その壮大の墳墓は2200年ほど前に作られ、中国史上初めての皇帝のお墓で、世界でも最大級のものです。秦の始皇帝は紀元前259年に生まれました。13歳の若さで王位につき、紀元前221年に中国統一という大事業を成し遂げましたが、中央集権政治を实施し、文字や貨幣、度量衡を統一したほか、北方の騎馬民族対策に長城を築くことはあまりに有名です。一方専制君主として人民に苛酷な負担を強いることになり、ついに始皇帝の死後、大規模な農民蜂起もあって、秦王朝を滅亡しました。

ところで、始皇帝陵は始皇帝は即位する当時に作り始めました。そのため、動員図70万人述べ、实に、38年間わたる巨大な土木工事でした。それについて、有名な司馬遷も「史記」の中に建設規模と豪華さに触れています、それによると、「三たび水脈達する深くほり、銅版を下に敷い柩を納めるようにし、また、この陵の中宮殿、望楼を作り、百官の席を設け、奇器、奇物でいっぱいにした。百の川、大海を作り、機械の仕掛けて絶えず、水銀が流れるようにした。上の方は太陽、天体の形を作り、下は山、川、地の形を整えた」と記されています。この陵墓の壮大は最新技術を使った、今の調査結果でもそう確かめられています。

もう一つ、今日の目的である「兵馬俑博物館」はこの陵から1.5km離れたところにあります。「兵馬俑」は、1974年に用水工事をしていた農民たちが偶然発見したもので、「兵馬俑」とは、兵士や馬の形をした土偶のことですが、始皇帝陵の死後、陵に埋められ、いわば始皇帝の近衛兵というべきものです。

今のところ、兵馬俑は現在三つ発掘されていて、その総面積は20000㎡にものぼろスケールの大きいものです。陶俑と陶馬は8000代、木造の戦車は100両ほど、青銅製の兵器は40000件も見つかっています。さらい感心させられたことは、实物大の兵士が一体ずつ表情や髪型が違い、どれ一つとも同じものはありません。このことから、秦の軍隊が様々な民族から編成された混成部隊だったことがわかります。このように、兵馬俑は、兵士の指先や靴底まで繊細に作られていて、馬の鬣や尾までもリアルに再現さてれているのを目の当たりすると、当時に千人以上だったといわれる職人のこだわりが感じられます。こうして、秦の始皇帝陵全体としては、この兵馬俑坑のほかにいろいろなものが発見され、最近の発掘では兵馬だけでなく、宮殿の实物大のレプリカや文官や芸人などの俑も発掘されており、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るための軍隊と思われていたこの遺跡は、实は、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうをするねらいがあったとも推測さらています。

兵馬俑一号館

1979年10月にオープンした一号館は始皇帝兵馬俑館最初の建物です。東西230m、南北62mの長方形をしていて、発見された三つの俑坑の中では規模の最も大きいものです。1000あまりの兵隊の俑、戦闘馬車とそれを牽引する馬の俑32体が出土しました。一号館の兵馬俑は歩兵を中心とした主力部隊ですが、先頭は武士俑が並び、ついて歩兵と戦車の隊列が続き、その左右両側と後ろにはそれぞれ1列ずつ武士俑が配置されています。

皆さん、これらの兵馬俑はよくご覧になっていただくとわかりますが、兵士たちは、その容貌だけでなく、朋装もくらいによって、それぞれ違います。最も目立ったのは将軍俑で、将軍は先端を巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためリボンが顎の下で丁寧に結ばれ、胸まで格好よくたらしています。また、戦闘朋も二枚着ており、鎧も独特な形をしていて両肩と胸のところでリボンで結ばれています。現在、ここでの発掘はまだ継続中で、埴輪の数は推定で6000体ぐらいあるだろうと推測されています。

兵馬俑二号館

昔、戦争では陣立ては勝負を決める重要な要素でした。軍事家たちが多くの陣立ての形を考えました。しかし、その内容がずっと最高の軍事秘密で現在その記録がほとんど残っていません。

1976年、最初に発見されました兵馬俑坑の周りを発掘したところ、その北側から大量の俑が新たに発見されました。これは現在の二号館で展示されている兵馬俑です。

二号館の面積は約6000㎡、陣立ては陶俑と陶馬は合わせて1300体余りあり、ほかに戦車、歩兵、騎兵など編成された「W」の形をした曲陣で、それと騎兵集団で構成されていますが、御者が手綱を引き、片方の手に弓を持っています。戦車集団のほうは、4頭立ての馬車一台に御者が1人が付き、両脇の兵士二人は武器を手にして、戦車に登る姿勢を示しています。

先頭部隊は弓弩兵器を携えた射手で、右側に戦車、中央には歩兵と戦車が交互に左側には騎兵が配置されており、最後の方は騎兵と歩兵をいった陣容の混合部隊です。この陣立ての形は攻めることも守りことも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい弱点がありません。

兵馬俑三号館

三つの兵馬俑館中で唯一発掘が完成したのが三号館です。三号館の面積は376㎡の凹字型となっており、規模として一番小さいほうですが、地下の大軍を統帥する指揮部です。ここからは馬車一台、馬、武士の俑、それに青銅製兵器が出土されています。

大清真寺

現在西安には6万人の回民族イスラム教の教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教徒の宗教活動の場所である寺院―モスクがたくさんあります。清真大寺は鐘楼の西側の鼓楼のすぐそばにある化覚巷にあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺の中に保存されている石碑の記載によれば、この寺は唐の742年の建立ですが、明代の1384年に大修理を行われました。

寺院は楼、台、亭、堂の四つの部分に分かれ、敷地は一万二千平方㍍、建築面積はやく四千平方㍍、ほぼ完全な建築群で構成されています。壮観なドームや尖塔、モザイクなどを特徴とするアラブ式のイスラム寺院とは異なり、清真大寺の造りいぇ装飾は伝統的な中国式です。その特徴は塗装された梁や柱の彫刻を持つ中国特有の楼に色濃く見られます。

前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛縁な木牌坊があります。第二院には石碑が一ヶ所あり、石碑には明代、清代この寺を修復したことが記載されています。第三院の中央に省心楼という建物があります。ここは礼拝の時、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿とも呼ばれており、信者は毎日5回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前にシャワを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方㍍、1回千人以上の礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用して、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んでいます。この寺は全て中国のイスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼、台、亭、堂四書類を形成しています。また、寺の建物は全部対称しています。

人々の生活習慣と風俗などが民族によって異なることはいうまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。

ムスリムは豚肉もお酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。

結婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読む、メッカに生涯を誓います。女性は他の民族と結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣があります。

葬式の時も読経します。棺は使わず、28mの木綿の織物で遺体を包んで埋葬します。

回民族の朋装は漢民族と変わりませんが、年配で回族意識の高い男性は白いフチのない帽子をかぶる習慣があります。

碑林博物館

碑林博物館は、西安の南城壁のすぐそばにある孔子廟遺跡の場所に建てられていて、その敷地面積は3万平方㍍、「西安碑林」と「石刻芸術」と二つの部分からなっています。

皆さん、ご存じのように中国の正門は一般に南に向いていますが、碑林博物館はの正門だけは東に向いているのはなぜでしょう。それは孔子廟には必ず西と東の門があり、これを「礼門義路」と言って、いわば「礼儀の門」という意味があります。

さて、まず、正門に入りますと城壁と向かい合って「孔廟」の大きいな文字が見えてきます。それから、目の前に鳥居型の門が見えますが、これは「牌楼」ともいい。功労があった人の徳をたたえるために建てられたものです。更に、もう一つの門をくぐると中央に小さい道があり、その両側に馬をつなぐ「杭」があります。これは明、清時代からのものと言われ、これらの杭は、昔、この地方の大金持ちや官僚の邸宅の門にあったもので、訪れた実の馬をつなぎとめるものでした。なお、石柱の頭部には、邪悪を鎮め、縁起の良い動物や人物のデザインがほどこされております。もうちょっど足を進めますと、東西の方向に亭が見えてきます。東の亭には、大きいな種が置かれていますが、この鐘は711年、唐時代の景雲2年に造られたもので、「景雲鐘」と呼ばれています。この「景雲鐘」は銅で鋳造され、重さ6トンもあり、表明に凸凹の乳首のようなものがついていますがこれは鐘の韻律を調整するもので、種に音色はまるで鳳凰の鳴き声のようとも言われています。

西安碑林、総数が2千基にのぼる「碑林」は文字通り石碑は林のように立ちならんでいるところからこのように名づけられました。碑林は歴史的にも芸術的にも価値が高く、中国最大の「石の書庫」とも言われています。ここで展示されているのは漢時代から唐、明、清時代にかけてのものまで、ここで注目されますのは、特唐代の有名な書道家が書いた書道作品です。

皆さん、目の前に「碑林」の文字が見えてきましたね。これは中国の民族英雂、林則徐が書いたものです。ここに碑林の最大の石碑であります「石台孝経」が展示されていますが、「孝経」とは、孔子の弟子曾参が編集した親孝行について書かれた本ですが、この石碑には「孝経」の内容だけでなく、唐の玄宗李隆基が書いた解説、序なども刻まれています。なお、石碑は高さ約6m、頭部、碑文、台座の三つの部分からなり、台座は三層で、その上の石碑は四つの石からなっています。頭部には生き生きとした蔓草や縁起の良い動物の線刻が刻まれていますので、ご注目ください。

第一陳列室 ここに展示されているのは「開成石経」です。114の石碑の両面に儒学の経典13経に全文が刻まれています。「開成石経」は唐の文宗の開成2年に立てられましたが、その石碑も戦争や自然災害によって大きいな被害を受け、40余りの石碑のうち、壊れた部分に文字を今度は前より小さい石碑に刻まみこみ、1588年には「開成石経」の傍に置くようになりました。いずれにしましても、これらは我が国でただ一つの完全に保存されている石刻経典といえます。

第二陳列室

この陳列室には、唐代の有名な書道家がかいた石碑で、後世の書法の手本となったものばかりが展示されております。初唐の欧陽詢が書いた「皇帝誕碑」、その息子の欧陽通の「道因法師碑」、顔真卿の書「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。「大唐三蔵聖教序碑」は長安の弘福寺の和尚懐仁が王義之の書を集めて作ったといわれる「千金帖」です。また、ここには、大書道家の大作のほかに、古代ローマからキリスト教が伝来したことを伝える「大秦景教流行中国碑」はよく知られています。碑文は、中国とシリア両国の文字で書いてあり、唐王朝と外国との交流を研究するうえでも、貴重な資料となるものです。

第三陳列室

ここで篆書、隷書、楷書、行書、草書の書体で刻まれた石碑が展示され、中国文字の変遷を理解するには格好の場となっております。碑林の石碑の中で、最も古いものは「漢曹全碑」です。これは後漢の曹全が隷書で書いたものです。また、「千金文」は昔から児童の啓蒙書となってきました。

石刻芸術陳列室

1963年に建てられた石刻陳列室は、陝西省各地に散在していた前漢時代から唐代までの墓石と宗教的な石刻作品70点余りと集められ、陳列室には石棺、仏像、石刻の動物などの貴重なものが展示され、中には、丸彫り、浮彫、線彫りなどの石刻があります。なお、「牛耕図」は後漢時代の画像石の代表なものです。そして、唐の太宗李世民の愛馬を浮彫した「昭陵六駿」は唐代石刻芸術の代表的な作品として評価が高いです。

陝西歴史博物館

陝西省歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の国立博物館です。西安の南に位置しており、敷地面積7万㎡です。所蔵する文化財は11万3千あまり、陝西省から出土した周、秦、漢、唐時代からの文化遺産です。展示されているのは、その中から選ばれたきわめて稀なものばかりで、約3,000点余りです。すべてのものが一品ぞろいです。展示室の面積は1100平方㍍、建物は代表的な唐代の宮殿様式で、『中央は殿堂、四隅は高楼』という伝統的な構造になっております。

展示品 館内に入って、まず目につくのは、大きな石に獅子ですが、これは則天武后の母親の墓 順陵の獅子に模造品です。

第一展示室は、約115万年前の旧石器時代、藍田猿人から始まっています。ここに展示されているのは、旧石器時代や新石器時代の代表的な文物で、先史時代の人々の生活ぶりを現しています。

現在、確認されている最も古い王朝は殷です。殷代には占いため亀甲と獣骨に刻まれ文字があります。これを甲骨文字といい、漢字の最も古い形になっています。周の時代、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時代なので、「青銅器時代」をされています。青銅器は銅と錫と合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになれました。博物館に展示されている青銅器は、祭礼の楽器、生産、生活用具、实戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文内容の重要さなど、世界美術史上も貴重なものです。

この展示室では秦の足跡を展示しています。展示品の中には都咸陽の宮殿遺跡か発掘した瓦、煉瓦、土管などが並んでいます。始皇帝の事業の一つ、通貨の統一をあげることができるが、当時の貨幣関係の資料も展示されています。漢代の都、長安城は、中国の歴史における初めての国際的大都会で、当時、ローマ帝国より2倍ぐらい広かったと言われます。当時の冶金、製鉄技術では、既に石炭による送風式溶鉱炉を使用していました。農機具だけでなく、兵器や日用品なども大量に鋳造、生産していたのです。紙の発明はかなり古く、西安覇橋の漢墓などからも、植物繊維で造った紙が発見されていますが、さらに良質の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。ここに展示されている、1965年咸陽市の東約25キロの陽家湾で発見された彩絵陶俑群で、計2500個以上が出土しました。絢爛たる文化の華咲く唐代で、注目していただきたいのは壁画です。陵墓から運ぶ出された唐代の巨大な彩色壁画の展示が来館者を圧倒します。例えば則天武后の孫娘永泰公主の墓から出土した「侍女図」という壁画の女性を見ると胸元を緩やかに広げ、いわゆる詰襟の中国副の硬さがありません、足元を纏足ではなく大きな沓を履いています。いかにも自由闊達と見える、これらの女性たちが馬に乗るも横座りでなく、跨って大路を駆け抜け、闊歩したとも伝えられています。隋 唐展示室では金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など当時の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。唐三彩は西安、洛陽一帯に分布していますが、出土数が大変少なく、大変珍しいものです。陳列室されている馬、駱駝、宮女、宦官、各種生活用品など、題材の豊富です。葬式の行列に使う冥器などでも、工芸水準は大変高いものです。

黄帝陵

黄帝陵は中華民族の始祖黄帝軒轅氏のお墓です。陝西省の延安市黄陵県の橋山の上に位置しております。「天下第一陵」と言われています。橋山、海抜980メートルです。ここは歴代帝王と有名人たちが祭るところです。

黄帝は原始時代の優秀な部落首領です。土の徳を尊ぶ(とうとぶ)、土の色は金色ので、黄帝を呼ばれるようになりました。黄帝は天下を統一して、天下共主と言われいています。後人は自分を「炎黄子孫」また「華夏子女」と呼びます。黄帝は伝説的な人物ですが、後世に「人文始祖」と称えております。

ここは軒轅広場です。黄帝陵を祭りの出発点です。軒轅広場は5000枚秦嶺天然河の玉石で敷き詰めてきて、中華民族の5000年の悠久の歴史を代表しています。目の前の池は「印池」と呼ばれて、伝説によりますと黄帝が筆を洗いところです。今、私たちが通ったこの橋は「軒轅橋」を呼ばれて、印池を横断して、全長66メートル、幅が8.5メートルで、全部花崗岩(かこうがん)で造りして、中国近代全石材第一橋と知られています。北端に95段階の石段があります。九五の尊の崇高(すこう)な地位を代表しています。

軒轅橋を突っ切ると軒轅廟です。軒轅廟は唐の代宗に建てられ、敷地面積約6666平方㍍、入りますと、左にコノテガシワがあって、高さ約19メートル、世界コノテガシワの父と言われて、遡ること、4700年もあります。

人文初祖大殿は正殿で、全廟の本館です。中には黄帝の浮彫全身の彫像があります。神棚の周囲は四つの縁起のよい動物の図案が刻まれています。左は蒼龍、右は白虎、上は朱雀、下は玄武です。

黄帝陵区は約4平方㍍、四隅は山と水、樹木が茂っています。頂上に登って、まず、石碑が見えてきて、「文武百官ここに馬をおお降りください。」が刻まれています。黄帝陵は山頂の真ん中に位置しており、南に向いて、高さ4メートル、周長約50メートルです。陵の前に「漢武仙台」が刻まれていた石碑があります。これは漢武帝が造たものです。

崋山

陝西省の華陰県にあって、西岳とも言われています。中国五岳の一つで、崋山主峰海抜2160メートルで、北は黄河を俯瞰し、南は秦嶺に連なります。崋山は「天下第一険」と言われ、雂大さと険しさで古くから中国五山の一つとして広く知られています。

東峰は崋山の奇峰の一つで、峰頂に美しい景色や「日の出」を見ることができる朝陽台があるので朝陽峰とも言われています。北峰は「雲台峰」をも呼ばれて、海抜1500メートルで、四方は断崖絶壁で、ただ1本しか山道が南側の連峰に通じていません。映画「智取崋山」はここから取材したものです、それは筆のように屹立して、千刃の断崖をなし、頂上から俯瞰すると秦川がぼうぼうと流れ、その間に渭水と洛水が龍のように曲がります。頂上には劈山救母石があり、聞くところによると中国有名な神話「宝蓮燈」の中の沈香が山を切り開いて、母親を救った物語はここで発生したと言い伝えられています。南峰はすなわち「落雁峰」崋山の主峰で海抜2083メートルもあります。崋山の最も険しい峰で、峰には深緑の松とコノケガシワ、林がうっそうとしています。東に雲を突いて架設した長空桟道があります。中峰は玉女峰をも呼ばれ、東、南、西峰に通じる要路です。

崋山は険しさが特色で「険」という文字があちこちにあります。山に至るところに断崖絶壁があり、山道は険しく景色も美しいのです。山道に沿って、玉泉院から蒼龍嶺まで多くの景勝地を見ることができます。

崋山の麓から青珂坪までの道中は風景が静寂で、谷間が鮮やかな緑色に染められて、鳥がさえずり、花が香り、泉が流れて、人々の心をゆったりとさせます。青珂坪の東からこそは本当の登山になります。ここに「回心石」の文字が刻まれた大きな石があります。これから先が崋山の危険なところです。この文字を見て体力の無いもの、肝っ玉の小さいものは引き返します。回心石を過ぎると崋山の咽喉、「千尺棟」に着きます。ここは険しい崖の小道両で、370段に石段があり、両側にあるロープを掴んで一歩ずつ登らなければなりません。「千尺棟」の幅はとても狭く、下を見ると深い井戸です。更に進むと、もっと険しい「百尺峡」に突き当たり、その後、仙人橋を通り、一段と険しい「老君梨溝」に至ります。ここは海抜1500メートル、史方は断崖絶壁で、570段の石段があり、その突き当たりは「狐孫愁」というところで、文字通り、猿でさえ困惑していて、断崖絶壁がどんなに険しいが想像できます。「狐孫愁」を過ぎると崋山の北峰に到着します。

見送り

皆さん、いよいよ西安を離れる時間が迫ってきました。もう一度身の回りをチックしてください。今から、空港へ向かいますので。

この3日間行き届かない点が多くて、ご迷惑をかけたかと思います、3日間の観光はあっという間に過ぎました。本当にお名残惜しいです。

私は皆様のお供をさせていただき、大変楽しく、いろいろと勉強させていただきした。こうして無事に快適な旅行ができましたのも、皆様のご協力のおかげです。この次、お出でになる時もぜひ私どもの旅行社をご利用ください。それまでに、私ももっと日本語を勉強しておきますので、また、ご案内させていただければ有りがたいと思います。

皆様、ここでお別れです。どうぞお元気で、さようなら。

第四篇:海河游日语导游词详版

海河游览线

各位游客朋友,大家好!

现在我们游览的是美丽的海河。海河,中国七大江河之一。她像天津的一条大动脉,蜿蜒流经市中心区,奔向渤海。海河是子牙、大清、南运、北运、永定河5大水系的入海通道,是天津人的母亲河,也是天津的象征。她记载着天津建城600多年的历史,孕育了天津的现代文明。海河西起三岔河口、东至大沽口入海,全长72千米。海河两岸集以古文化街、鼓楼步行街为主的中国古建筑群,以原九国租界遗存的“小洋楼”为主的欧式古典建筑群和现代建筑群为一体,展现了中西文化的反差与融合,更是游览天津城市建筑风貌的最佳窗口。

我们将乘船从三岔口耳闸启程,顺流而下,至大光明桥,全程1个小时。一条海河观光带,半部中国近代史,随着游船的起动,您可在动火阑珊中感受海河夜景,了解天津历史背景,同时也可欣赏一桥一景,争奇斗艳,颇具津沽特色的桥文化景观,以及天津中西交融、古今并蓄的独特城市风貌。

我们现在的位置是“耳闸”。耳闸公园由呈船形的新闸与老耳闸共同组成。这艘仿明代石舫——天石舫,由汉白玉石材精雕细刻而成,比北京颐和园石舫的规模还要大,此石舫为纪念天津名称的由来“天子经由之渡口”而建。

您正前方是永乐桥。稳坐于永乐桥之上的天津之眼作为世界上唯一一座建在桥上的摩天轮是当之无愧的“世界第一”。摩天轮可容纳300多位游客同时观光,转一周约30分钟,最高处达120米,天气晴朗时可将方圆40千米以内的景致尽收眼底。

游船左岸的建筑是大悲院文化商贸区,大悲院是天津现存规模最大、历史最为悠久的佛门十方丛林寺院,曾供奉过唐僧玄奘法师的灵骨。

前方思源广场上矗立的建筑是天津近代工业与城市历史博物馆,它的造型仿佛两条正要腾飞的巨龙,象征着天津历史与工业发展并驾齐驱,密不可分。博物馆旁边矗立着引滦入津工程纪念碑,上面有邓小平亲笔题写的大字。

现在我们看到的是天津的发源地“三岔河口”,此处是南运河、北运河和海河三流交汇的地方。三岔河口地区是天津的发祥地和近代工商业发展的摇篮,曾是天津的政治、文化、教育和经济中心,具有丰富的历史积淀。她是天津最早的居民聚居点之一,曾是南北漕运的中转枢纽,也是天津最早的商品集散地。因而历史上有“先有三岔口,后有天津城”的说法。

我们前面这座桥名叫金钢桥,老桥始建于清光绪29年(1903年),为开启式钢架桥,是海河最著名、最重要的桥梁之一。新的金钢桥改建于1996年,为双层彩虹式的金钢桥。

我们左前方这座古典的建筑是望海楼教堂,1869年由法国天主教会建,法国传教士谢福音在此修建天津第一座天主教堂,曾多次被焚毁,又多次重建,著名的“火烧望海楼”事件就是发生于此,现在此处是天津重要的爱国主义教育基地。望海楼教堂是目前天津唯一保留下来的哥特式建筑,是依照巴黎圣母院的样式建造的,1989年被国务院列为国家重点文物保护单位。

现在我们游船穿行的是狮子林桥,初建于1954年,重建于1974年,因狮子林渡口而得名。2003年,对狮子林桥进行顶升,顶升桥梁当时在国内尚属首例,整体升高近两米。不到1个月时间里,就将桥顶升到位,创造中国桥梁史上一个奇迹。

船行右前方这片区域是国家5A级旅游景区,以“中国味、天津味、文化味、古老味”而闻名全国的天津古文化街。这里是天津最早的文化、宗教、商贸聚集地。还是天津民俗文化和海河文化的汇集地。这里建有世界三大妈祖庙之一的天后宫,杨柳青年画、泥人张彩塑店也在此落户,天津首家华夏鞋文化博物馆也落户在此,古文化街蕴藏着天津众多的文化积淀,由此称为“故里寻踪”,被列为津门十景之一。古文化街广场总面积近7000平方米,木地板铺装选用的是马来西亚进口的天然实木,是天津面积最大的木地板广场。

现在我们左手边看到的是李叔同故居,李叔同即著名的弘一法师,天津人,他自幼居住在这里,生活在一个封建大家庭,接受旧教育。李叔同幼年聪慧,五岁开始便在这里读经史子集,学习诗词文章。在他19岁时离津去上海,1911年留学日本归国后又在天津任教居住两年,前后在天津的居住生活了大约22年。这一时期,正是他治学与成长的年代,可以说,李叔同一生的辉煌建树,是在这里奠定的坚实基础,李叔同是我国近代新文化运动的先驱,他通古博今,曾东渡扶桑,专攻音乐和绘画,创办我国第一个话剧社团“春柳社”,并主演了《茶花女》、《黑奴吁天录》等名剧。38岁他在杭州虎跑寺剃度为僧,并南下福建泉州,穷其一生潜心钻研佛经戒律,终成一代宗师。

接下来大家看到的是金汤桥,该桥建成于1906年,是全国唯一的平转式开启桥,桥名金汤是取“固若金汤”之意。是天津市现存最早建造的大型铁桥之一。铁桥建于光绪三十二年(1906年),比解放桥早建约20年,是海河桥梁中最年长者。1949年1月15日凌晨,解放军东西两路大军在金汤桥胜利会师。因此,金汤桥是象征天津解放的标志性建筑。

船行左前方这片建筑群是天津洋楼文化的一部分。海河两岸的九国租界,分别按各自国家的建筑风格,建起一片一片的国中之国。租界洋楼,是旧中国饱受凌辱的实证,但也给我们留下大批建筑艺术的精华。游船左岸是原来奥匈租界所在地。这里完整保留了三座历史建筑:白色建筑是原来的奥匈领事馆;红色建筑是冯国璋故居;旁边这座造型优美、参差错落的红顶小楼是“袁氏宅邸”,是一座欧洲古典式三层楼房,它是中世纪“罗马风格”的演变,融合了日耳曼民族的建筑手法,红色的陡坡屋顶正脊中间建扣钟状式采光亭,系仿意大利文艺复兴早期“圣玛利亚大教堂”穹顶建造,而外形又比意式建筑增加一道反向曲线,形成德国建筑的独特风貌,门廊方柱与圆柱相结合,在天津建筑中颇为难得。像这样的历史风貌建筑在海河两岸共有550多幢。

现在我们正前方是进步桥。它整体为白色,造型为流线型。从远处看,宛如一条飞鱼跃出水面,又像一列飞驰而过的高速动车。

接下来我们看到的这座桥名为北安桥,本桥借鉴法国巴黎亚历山大三世桥的特点,桥头雕像采用西洋古典表现形式,雕像内容则汲取中国传统题材:青龙、白虎、朱雀、玄武四灵,寓意东西南北四方平安,更寓意盛世太平,国家繁荣。桥墩雕像为压纹青铜正面装饰盘龙,桥栏柱基上为四尊舞姿各异的乐女雕像,手中各抱着四种不同的乐器,突出了中国古典韵味,是海河上中西合璧的一道风景线。

毗邻北安桥的是意式风情区。这是意大利在天津租界的中心区,始建于1902年,有西洋古典建筑140幢及花园、广场等,是亚洲地区唯一也是最大的保存良好的意大利风貌建筑群落。马可波罗广场和平女神雕塑13.6米,建于1923年,由意大利雕塑家朱塞佩·博尼设计。

船行左手边是海河中心广场公园,是本市最大的广场公园,园内栽种了70多种花木。前面这座桥是大沽桥。它设计构思为“日月拱”,由两个不对称的拱圈构成,大拱圈拱高39米,面向东方,象征太阳;小拱圈拱高19米面向西方,象征月亮,预示天津美好的未来与日月同辉。两个拱圈大小不对称,桥下没有桥墩,因此于2006年获得国际桥梁大会颁布的世界桥梁设计建造最高奖——尤金·菲戈奖。

前面这组高耸入云的摩天大楼名为“津塔”,独特的造型成为海河边的新景观,天津的新地标,而旁边的“津门”,为中空式高层建筑,象征着天津向四海宾朋敞开大门,欢迎海内外来客。

前面这座世纪钟,它矗立于海河之畔,与解放桥相辉映,印证百年变迁,凸显时代精神。钟高40米,直径14.6米,基座面积74.4平方米,重170吨有余,通体金属,流光溢彩。钟摆上下,日月同辉。钟盘圆周,众星拱卫。中西交融,天人合一。古典与现代浑然一体,寓意时空延续,时不我待。

前面这座桥是解放桥,是为纪念天津解放而改名。因为周边租界围绕,原称“万国桥”。这座双叶立转开启式桥梁在全国来说是独一无二的,是中国开启式桥梁的经典之作。

如果说海河是一串美丽的项链,那么横跨海河的座座桥梁则是组成这串项链的颗颗明珠。

前面这座宏伟的建筑是天津站。天津是中国铁路运输的发祥地。1881年建成的9.7千米的唐胥铁路是中国最早建成的铁路,至今仍是京沈铁路线的一部分。1888年唐胥铁路扩建至天津,并在天津建成中国第一个综合性客站—天津站。

天津站对岸这片建筑群——津湾广场,天津第一座24小时不夜城,是融合现代化、欧式建筑于一体的开放、和谐、生态、智能的高端商务商业聚集区。

重新修建的赤峰桥总投资6.06亿元,是海河上投资规模最大的一座桥,是天津海河桥梁史上的伟大神奇杰作,被称为“海河之舟”、“天津之舟”。

您在岸边看到的这座铜像是张自忠像。张自忠是著名的爱国将领。1935年后曾任天津市市长。在任期间买下了一座房子,就是今天的成都道60号。

这边看到的一组雕塑被称为“邮路漫漫”,从骑马、骑骆驼到骑自行车,描绘了邮递事业的发展历程。中国最早的邮政机构,就是当年清政府批准成立的天津海关巴斯达(POST)局,“中国第一条邮路”也是在此诞生的。

现在我们前面是利顺德豪华精选大饭店。如果说“近代中国看天津”,那么,近代天津肯定要看“利顺德”。利顺德大饭店始建于1863年。近代史上的风云人物,如孙中山、宋庆龄、末代皇帝溥仪等都曾下榻于此。1996年利顺德饭店被国务院列为全国重点文物保护单位,也是全国酒店业唯一的国家级重点文物保护单位,同时是中国首家奢华型酒店。

前面这座欧陆风格的桥是大光明桥。桥中央两侧安装了4座主题雕像——“日、月、星、辰”,代表一天“昼、夜、暮、晨”4个时段,为的是突出桥梁的“光明”主题。

一条海河观光带,半部中国近代史,海河—天津的母亲河,她纳九川、穿津沽、泽惠津城,贯穿并见证着天津整个城市的发展与崛起。

我们的海河之行到这里就结束了,游船即将靠岸,希望这次旅行能加深您对天津的了解与喜爱,感谢您的配合与支持,期待下次我们再相会。

海河観光コース

皆さま、ようこそ天津へおいでくださいました。本日ご案内するのは美しい海河です。海河は中国を流れる7本の大きな河川の一つです。まるで、天津の大動脈のように、都市の中心部を流れて、渤海へ流れ込んでいます。天津市域で5つの川が合流して海河となります。天津を育んだ母なる川であり、天津の象徴と言われています。海河は600年あまりの天津歴史を見守ってきて、天津の現代文明を生み出しました。子牙河と北運河の合流点から始まり、浜海新区の大沽口まで、海河本流の長さは72kmです。海河の両側には古文化街、鼓楼など中国の伝統的な建築が集中しているだけでなく、異国の雰囲気が溢れた九カ国の租界建築もたくさん残されています。中国と西洋文化の差異、また異なる文化間の融合を示しています。海河を遊覧するのは天津市の建築風格を知るための一番いい方法です。

観光船で三岔河口の耳闸から出発して、流れに沿って河を下り、大光明橋までで遊覧が終わります。全コースは1時間かかります。「一本の河、半分の中国近代史」と言われるように、夜景の中、遊覧船はゆらゆらと揺れる波にゆっくりと流されています。さまざまな橋と建築がライトアップされていて、透き通るようにきらきらと輝きます。観光客は海河の夜景を楽しむと同時に、海河の上に架けられているさまざまな橋を観光することができます。また、中国と西洋、古代と現代が融合した都市の風貌が見られます。

前方に見えるのは耳闸公園でございます。耳闸公園は船の形をしている新しい水門と以前の古い水門からなります。右手に見える白い岩石で作られた屋形船は明の時代のものをまねて作られたのです。北京の颐和園にある屋形船より大きいです。この船の名前は「天石舫」です。言い伝えによると、ここは天子がお渡りになった渡し場だそうですから、それを記念するために作られました。

みなさま、前方は永楽橋でございます。永楽橋にかかってある「天津アイ」は世界で橋にかけられている唯一の観覧車です。「天津アイ」は300人あまりの観光客が同時に収容できます。一周するのにおよそ30分かかります。観覧車の一番高いところは120メートルで、観覧車から、周辺40キロの景観が見られます。

みなさま、左手にあるのは大悲院文化商業区でございます。大悲禅院は天津において、現存の規模一番大きい、歴史一番長い仏教のお寺で、唐の玄奘三蔵法師の舎利を祀るところだったので、非常に名高いです。前方の思源広場にある建築は天津近代工業と都市歴史博物館でございます。博物館の外観を見ると、空に向かって飛び上がろうとしている2匹の竜を思わせます。天津の歴史と工業発展はあたかも肩を並べて飛んでいることを2匹の竜に喩えられます。博物館のそばに、80年代に滦河の水を天津に取り入れるプロジェクトの成功を記念するために建てられた石碑があり、石碑には当時の主席邓小平の自筆の字句を書き記されています。

これからご案内するのは天津の発祥地「三岔河口」でございます。ここは南運河、北運河と海河の合流するところです。天津及び近代の商工業はここから発展してきました。ここはかつて天津の政治、文化、教育と経済の中心で、長い歴史を持っています。また、天津で一番早くできた集落の一つです。以前、ここを通じて、南方から北方へ食糧を輸送していました。天津最初の商品集散地でもあります。そこで、歴史上には「三岔河口があってから、天津が誕生したのだ」と言われています。

前方に見えるのは金鋼橋でございます。清の光緒帝の時(1903年)に作られました。もともとは鉄鋼開閉橋でした。海河の上の最も有名、最も重要な橋の一つです。1996年に双層のアーチ橋に改築されました。

左側に見える建物は望海楼教会でございます。1869年にフランスのカトリック教会によって建てられ、天津で最初に立てられた天主教会です。何回も焼失と再建を繰り返していました。有名な「火焼望海楼事件」はここで発生しました。(第2次アヘン戦争後、宣教師と一般民衆との間にはさまざまなトラブルが頻発するようになりました。1870年の春に教会付属の孤児院で幼児が次々と死亡した事件が出ました。その頃、天津では幼児の失踪事件が相次ぎました。6月、誘拐の容疑者が逮捕されて、「首謀者は教会信者で、教会も誘拐事件に関わっている」と供述したとの知らせに、怒った民衆が孤児院の前に集結し、この教会を焼き払う行動に出ました。)現在ここは天津の愛国主義教育基地となりました。この教会は天津に残されている唯一のゴシック式建築で、パリのノートルダム大聖堂をまねて作られました。1989年に、中国の国務院より全国重点保護文物単位と認定されました。

前方にあるのは獅子林橋でございます。1954年に建てられ、1974年に再建され、獅子林渡し場から名がつけられました。2003年に修繕した時、中国最初の試みとして、1ヶ月未満で橋の頂部を2メートル上げて、中国橋梁史においての奇跡を創造します。前方に見えるのは国家AAAAA級景勝地である古文化街でございます。過去には文化、宗教と商業貿易が集中していたここで、天津の民俗文化と海河文化が感じられます。古代にここは海の女神(媽祖)を祀るところでしたから、世界三大媽祖廟の一つである「天后宮」がここに建てられました。また、天津の名産物である年画(年画というのは正月にかけるめでたい気分を表す絵)と泥人形がここで売られています。更に、中国の靴の文化を紹介する博物館もここにあります。古文化街は悠久な歴史と深い文化的蓄積を有しています。天津の民俗、文化を理解するための一番よいところです。古文化街は天津十景の一つでもあります。景名は「故里寻踪」です。古文化街広場の総面積は7000平方メール近いです。その広場はマレーシアから輸入した天然木で作られました。

左手にあるのは李叔同の旧居でございます。李叔同は天津人、弘一法師とも呼ばれ、封建的な大家庭に生まれ、幼少からここで旧式の教育を受けていました。幼い頃から聡明で、5歳から経史子集を読み始めて、詩詞文章を学び始めたそうです。19歳に天津を離れて上海に行って、1911年に日本から帰国した後、また天津で教員を2年間務めたため、天津で約22年間を過ごすことになります。この時期、まさに彼の勉強や精神各方面の成長した時期であるため、李叔同の一生の光り輝く功績を取ったのは、ここで頑丈な基礎を打ち立てたからだとも言えるでしょう。

李叔同は近代の新文化運動の先駆者で、古今のことを知り尽くして、日本にも渡って音楽と絵画を専攻して、我が国の最初の新劇の劇団「春柳社」を創設して、『椿姫』、『黑奴吁天录』などの名劇も主演しました。38歳に、杭州で髪を剃って出家して、そして福建泉州に南下して、一生お経の研究に専念して、有名な宗匠になります。

さて、前方にあるのは金汤橋でございます。この橋は1906年に建設され、全国の唯一の旋開橋で、天津市の現存する一番早い大型鉄橋の一つです。鉄橋は光緒の32年に(1906年建てられ、解放橋よりも約20年早くて、海河の橋梁の中で最も年上なものです。1949年1月15日の夜明け方、解放軍はここで順調に合流したため、金汤橋は天津解放を象徴するシンボル的な建物です。

左側に見える建築は天津にある洋風建築の一部です。海河の両側はもともと9カ国の租界でした。自分の国の建築風格によって、それぞれ違う風格の建築が建てました。租界の洋風建築は旧中国が凌辱された証拠です。しかし、私たちに建築芸術の精髄を残しました。左手に見えるその白い建物はオーストリアとハンガリーの領事館です。赤い建築は馮国璋の旧居です。あの赤い屋根の建物は初代中華民国大総統袁世凱の旧居です。三階建てのヨーロッパ古典式建物です。欧州中世のローマ風を受け継いで、ゲルマン民族の建築手法も取り入れて作られました。赤い急勾配の屋根にまるで伏せた鐘のような東屋があります。イタリアの聖マリア大聖堂の屋根を真似て作られました。また、イタリアと違うドイツ建築の手法を取り入れて、ドイツ建築の独特な風格を示しています。丸い柱と四角い柱が同時に利用するというデザインは天津の洋風建築の中であまり見られません。このような特色のある洋風建築は550棟ほど海河の両側に分布しています。

前方に見えるのは進歩橋でございます。白い流線形をしている橋は遠くから見ればあたかも飛び魚が川から飛び上がっているように見えます。また列車が非常に速く走っているように見えます。

前方に見えるの北安橋でございます。パリのセーヌ川に架かるアレクサンドル3世橋を手本として作られました。橋に飾ってある彫像は西洋の古典式風格を取り入れました。彫像の内容は中国の伝統的題材、天の四方をつかさどる四つの神、「青竜、白虎、朱雀、玄武」にしました。国の繁栄、太平の世を象徴しています。橋脚に飾られている彫像はブロンズの竜です。橋の上に楽器を奏でながら踊る女性の彫像は飾ってあります。生き生きとしています。中国の古典的趣が感じられます。この橋は中国と西洋を折衷した建物です。

音楽公園の隣はイタリア風景区でございます、1902年にイタリアは天津に租界が設けました。ここはイタリア租界の中心でした。西洋の古典建築140棟のほかに、庭園、広場もそろっています。その辺はアジア地域でもっとも広くてよく保存されたイタリア建築群です。その中のマルコ・ポーロ広場にある平和の女神像は13.6メートルあります。1923年にイタリアの著名な彫像家によってデザインされました。

左手に見えるのは海河中心広場公園でございます。天津市内の最も広い広場公園です。公園には観賞用の花と木が70種以上植えられています。

前方に見えるのは大沽橋でございます。大きさの違うアーチからなっています。わりと大きいアーチの高さは39メートルです。東を向いていて、太陽を象徴しています。小さいアーチの高さは19メートルです。西を向いていて、月を象徴しています。その橋は天津の輝かしい未来を象徴しています。二つのアーチは左右対称ではありません。また、橋には橋脚もありません。難易度の高いデザインなので、2006年に世界建築橋梁設計の最高賞を受賞したました。前方に見える超高層ビルは「津塔」(天津のタワー)でございます。独特な造形を持っています。天津の新しいシンボルとされます。隣の空洞のある高層ビルは「津門」(天津の門)と呼ばれます。天津が世界各地の来客を歓迎することを象徴しています。

前方に見えるのは世紀の時計でございます。世紀の時計は解放橋と遠くから相呼応しています。天津の百年の歴史的変遷と新時代の精神を示しています。この時計は高さ40メートルで、直径14.6メートルです。時計の台の面積は74.4平方メートルで、重さは170トンあまりです。金属でできた時計はピカピカ光っています。「光陰は矢の如し、時は人を待たず」と言う意味を象徴しています。

みなさま、前方に見えるのは解放橋でございます。元々は多くの国の租界がここに設けられたので「万国橋」と名づけられました。その後、天津の解放を記念するために解放橋と命名されました。大きな船が通る時に「ハ」の字型に跳ね上がる「跳ね橋」です。中国の橋の歴史で最高水準の橋の一つとされています。

海河をきれいなネックレスと喩えられたら、海河にかかる橋はこのネックレスを作る真珠です。

前方は天津駅でございます。天津は中国の鉄道運輸の発祥地です。1881年にできた9.7キロの唐胥鉄道は中国が自力で建設した最初の鉄道です。今でも京瀋鉄道の一部です。1888年に、唐胥鉄道の敷設によって、「天津駅」ができました。中国で一番早くできた総合的な駅です。

天津駅の向こう側にある建築群は津湾広場でございます。天津の初めての24時間営業の不夜城で、ハイエンド商業施設が集中するシービーディーでもあります。

前方に見えるのは新しく修繕された赤峰橋でございます。海河の橋の中で投資額が最も多い橋です。天津の橋の歴史では最高水準の橋の一つと思われています。「海河の舟」または「天津の舟」と呼ばれています。

前方に見える銅の彫像は張自忠の像です。張自忠は有名な愛国将軍です。1935年に天津市長を務めました。張自忠の旧居は成都道60号にあります。

前方に見える彫像は中国郵政の発展史を反映する彫像でございます。昔は馬やラクダから始まり、そのうち自転車などと、生活の発展とともに郵便配達も進歩してきました。中国で一番最初の郵便局は清政府によって天津に設置されました。中国で一番最初の郵便線路も天津で誕生しました。みなさま、前方に見えるのは天津スターウッドホテルでございます。このホテルは1863年に建てられました。天津の近代歴史には非常に重要な位置にありました。中国近代の風雲児、例えば孫文、清の最後の皇帝溥儀などここに泊まったことがあります。1996年、天津スターウッドホテルは国務院に全国重点文物保护単位に認定されました。中国のホテルの中で唯一の国家重点文物保護単位です。また、このホテルは中国で第一軒の豪華型ホテルです。

前方に見えるのは大光明橋でございます。ヨーロッパ大陸風の橋とされています。「光明」という主題を強調するために、橋の両側に四つの彫像が飾られています。それぞれは「日、月、星、辰」です。一日の「昼、夜、黄昏、朝」四つの時間帯を代表します。「一本の河、半分の中国近代史」と言われるように、海河は、天津を育んだ母のような川として、天津の著しい発展と飛躍を見守ってきました。

みなさま、観光船はもうすぐ岸につきます。海河の観光はこの辺で終わります。今回の観光を通して、天津に対する理解を更に深めていただいたら幸いだと思っております。皆さまのご協力とご支持、誠にありがとうございました。再会をお楽しみにしております。

第五篇:武汉市内导游词

武汉火车站到市内

各位游客朋友们大家好欢迎各位来到我们武汉我。我是来自武汉大学旅行社的一名导游,我即将是各位武汉三日游的导游员在此我感谢各位对我们武汉大学旅行社工作的支持,而在我们身后的就是我们的司机师傅杨师傅。我们今天的行程是现在从武汉火车站出发,然后中餐,距离我们中餐的时间大概是三十分钟的样子。我们今天主要参观的是被誉为江南三大名楼之一的黄鹤楼,最后我们将要入住的是武汉大学的珞珈山庄酒店。在此我预祝我们接下来的行程能够圆圆满满开开心心,那么各位在我们游览的途中如果有什么建议或者意见也欢迎各位能给我提出来,以便我的工作能够得到更好的完善。

那么咱们现在所到的车站是武汉火车站,素有九省通衢的武汉,承东启西,接南转北,自古就是我们中部地区交通的中心以及城市圈的构建,而也正是武汉交通体系的构建给我们武汉带来了最佳的发展机遇,全球首条最长,时速最高的京广高速铁路,武广段于2009年12月26日正式开通,武汉地处武汉市青山区杨春湖畔,毗邻的是我们武汉市的三环线,是武广段的始发站,它为我们提供的是高时速高品位的优质服务,那么我相信在坐的各位刚刚已经体验了一番。

好了那么我们现在的旅游车已经慢慢驶出武汉火车站的停车场了那么让我们现在来观看一下武汉火车站的造型特点,武汉火车站总投资超过140亿元,将建设20条铁轨线,11座站台,是正在建设的京港高速铁路的重要站点。06年开建,09年底建成启用武汉站采用的是全高架设计,千年归鹤的造型凸显了我们湖北的特色,寓意着充满灵性的黄鹤,惊叹家乡变化,翩然而归,其布局采用了上进下出的格局,形成了车次公交化,售验地铁化,服务机场化的格局,车站分为地面层,站台层,高架层,夹层和地铁层。当旅客出站后可以很方便的搭乘公交车以及出租车到达武汉市内。

站台层是旅客上下车的区域,设有贵宾室,还有贵宾候车站。

高架层是旅客进站和候站的区域

夹层是旅客购物,休闲娱乐的区域

地铁层是旅客换乘地铁的区域

进出一体化武汉火车站进出上车全部采用的是自动检票,售票也很快捷化,武汉火车站有自动售票和人工售票两种方式,武汉火车站共设有76个人工售票窗口,24个自动售票窗口

车次公交化,每30分钟就有一趟,即到即走

武汉站的高架候车层分为南侧和北侧,南侧B1-B5为高速候车区,南侧B6-B8为普通候车区,北侧A1-A5为高速候车区。北侧A6-A8为普通候车区。

那么随着我们的车往前面行驶那么各位现在所在的是我们武汉青山区,或许各位在出了武汉火车站以后会小有点失望,大武汉大武汉,出了车站以后各位所看到的不是繁华的都市也不是人潮拥挤的大型商场,而是几个大型的烟囱迎接着各位,现在我们离开的是武汉火车站。武汉火车站是专门为高铁修建的火车站。出了火车站,一定会想怎么看到的竟然是烟囱和工地啊,这里,需要跟大家介绍一下。武汉火车站2006年动工开建,与2009年建成投入使用。远期规划中,年运输量将达到3100万人。可以说是我国高铁网络中连通南北的重要中转枢纽。这座火车站建在武汉市的工业区——青山区,正好也位于中国最大的城中湖:东湖之滨。所以各位一出火车站,没有看到高楼大厦,一是因为:为保护东湖原生态的湖光山色,不允许在东湖边修建高楼;二是因为青山区是工业区,像武钢、青山船厂、石化等都位于附近,看到的主要就是厂房和家属楼。那么在此我就不得不给各位解释一番了,我们武汉一共是划分为13个区我们现在所在的是青山区,青山区是武汉的钢铁基地,像我们武汉的武重武钢都是集中在青山区这一带。很多桥梁,还有咱们08年的北京奥运会的鸟巢都是武钢提供的钢材,而且武钢是中国四大铁路钢材供应基地之一,武钢已成为钢铁龙头之一。

那么现在我就为大家介绍一下我们武汉的概况,来到武汉都有武汉三镇这样一个说法,武汉由武昌汉口汉阳组合而成,武汉是湖北省的省会,武汉有8494平方公里,据2009年人口调查数据显示武汉市人口现有910多万,是名副其实的人口大城市,武汉有几大美誉第一个是江城第二个是桥城第三个是湖城。那么我将会给大家一一作讲解,和山城重庆、蓉城成都、春城昆明一样,武汉市也有一个属于自己的别致的名字——江城。

江城是根据我们唐代的大诗人李白所写的诗得来的,唐代大诗人李白在《与史郎中饮听黄鹤楼上吹玉笛》中这样写到,一为千客去长沙,西望长安不见家,黄鹤楼上吹玉笛,江城五月落梅花,在这一首诗中李白提到了黄鹤楼与江城二字,大家一定在想长江发源于唐古拉山,沿江流经了九大城市,但唯独我们武汉却有江城的美誉,武汉人爱此佳句,遂以江城来自居,由此可见咱们武汉人还是非常有占有欲的啊,当然武汉人占有此名字也有他的依据,第一,咱们长江沿途流经十一个省,四个省会,十六的城市,咱们大诗仙李白偏偏就在武汉写下了这首诗。第二,从自然地理环境来说,武汉也的确是名副其实的“江城”,这有世界第三长河,中国第一长河的长江,同时还有长江中游最大的支流汉江从武汉穿城而过。由于得两江指便,又地处华中腹地,所以武汉又有了“九省通衢”的美誉,这是我们武汉江城的来历。

武汉又有桥城的美誉,武汉因水而便却又因水而隔在1957年以前整个武汉的人都是靠轮渡过江,不论是火车还是汽车都得靠轮渡过江,那这也就给武汉的人们带来了极大的不便,在新中国成立前,全长6300公里的长江上没有一座大桥,只能通过轮渡过江。百废待兴的新中国将武汉长江大桥列入第一批重点工程项目,1950年中央人民政府指示铁道部着手筹建,1953年4月由周恩来总理亲自批准成立武汉大桥工程局,1955年9月1日正式启动这座具有中国桥梁建设奠基意义的大桥建设。

在苏联专家的帮助下,中国“集全国优秀人才,建长江第一大桥”,在历时5年的筹备之后,仅用两年零一个月的时间,于1957年10月15日建成武汉长江大桥,“数千年来长江天堑有舟无桥的历史”随着“一桥飞架南北,天堑变通途”而宣告结束。

1968年12月29日,在武汉长江大桥通车11年后,我国自行设计建成了世界上最长的公铁两用桥南京长江大桥,被列入当时的吉尼斯世界纪录。

武汉现在在长江上建造的大桥包括已经建好的已达到了八座,它们分别是长江一桥,长江二桥,白沙洲大桥,武汉阳逻大桥,武汉军山大桥,武汉天兴洲大桥,以及两座再建的大桥分别是二七大桥和鹦鹉洲大桥,武汉在建桥的顺序是从内环到外环的顺序,以前称为内环,中环,外环,而随着交通压力的增大已经不够用了所以再在内环和中环之间加了一环,现在就称为,一环,二环,三环,外环,阳逻大桥和军山大桥时武汉市外环的两座大桥,白沙洲大桥和天兴洲大桥时武汉市三环线上的两座大桥,二七大桥和鹦鹉洲大桥是武汉市二环线上的两座大桥,而长江一桥和长江二桥是武汉市一环线也就是内环线的两座大桥,同时也是武汉市最早的两座大桥,而在汉水上所建成的桥已经达到5座。说到这么多桥相信各位对我们桥城的来历已经很清楚了

堵城的来历,说到堵城可不是美国拉斯维加斯的赌城,这个堵是堵车的堵,这几年,应该说是我们武汉城市基础设施建设突飞猛进的过程。各位这几天在武汉游览,会看到很多的工地和施工现场,也可能会遇到堵车。在这里,我也希望各位能够多多海涵。当然了,从另外一个方面来说,各位在这个时间段来,正好也可以感受一下武汉城市进程中的重要一个环节,并亲身参与其中么。

好了说了这么多那么小刘将会给各位介绍一下武汉三镇的概况,许多人来到我们武汉都会被我们武汉三镇的这样一个概况弄得糊里糊涂,那么现在我将会教各位怎样来区分我们武汉三镇,武汉位于富庶的江汉平原的东部,长江和汉水在这里交汇,形成了这样一个两江交汇,三镇鼎立的一个格局,武昌位于长江以南,汉口位于长江以北,而汉阳则位于长江以北与汉江交汇的三角地区。“一勺舀起两江水,一杯清茶三镇香”形容的就是我们武汉市独特的地理格局。请各位领导看看你们的右手,这就是一副活生生的武汉地图:如果说大家的手臂、手掌和4个指头代表长江的话,那么大家的大拇指就是汉江了。与地图上的上北下南,左西右东一样,大家大拇指的右下方区域是汉口,大拇指与食指之间的区域是汉阳,手掌手臂左下的区域则是武昌了。这武汉三镇的历史也是各部相同了,汉阳历史最久,武昌其次,汉口在最后,那么各位现在所在的就是我们武昌那么喔将会给各位重点介绍武昌,武昌已经有了1700多年的历史了,武昌之名始于东汉末年的三国时期,孙权为了与刘备借荆州,于公元221年把都城从南京的建业迁都到鄂县,并改名为武昌,取名为因武而昌之意武昌,武昌现在是我们湖北省委省政府所在地,武昌现在也是高校集中地,现在武昌有高校117所,在校大学生15万人,科研机构50多所,大凡武汉市武昌区的高校都是依山傍水而建的,像全国十大高校之一的国立武汉大学就是位于东湖之滨,珞珈指山,而华中师范大学位于桂子山,华中科技大学位于瑜伽山,华中农业大学位于狮子山,这也正好印证了这样一句话仁者乐山志者乐水。在古代我们说武昌的钱是顶着的,汉口的钱是堆着的,汉阳的钱是晒着的,清朝的时候官员们都是靠顶戴花翎来吃饭的顶戴花翎是古代官员的标志,种官帽呢,它象征传统的权势体现你心中一些与事业,权利有关的想法,而在那个时候武昌这种顶戴花翎的人是最多的所以说武昌的钱是顶着的,随着我们的车往前行驶我们所走的是长江大桥,长江大桥全长是1670米,是我国第一座公路铁路两用的长江大桥,于1955年开始建,1957年10月15日建成通车,由前苏联人和中国桥梁技术工作人员合作建成,整座大桥不仅仅富有中国名族风格还颇具苏联风格,大桥由八个桥墩支撑着整个桥面,毛泽东在1956年建造大桥之际来到武汉看见李在建的大桥写了《水调歌头,游泳》,其中这样写到,一桥飞架南北,天堑变通途,随着大桥的建立我们武汉的交通问题也大大改善了,好了各位那么我们现在所在的就是汉口,汉口市我们武汉三镇中历史最短的一个,那么虽然它的历史很短,却凭借着长江和汉水的便利,一直都是商业重镇,不论是在以前还

是在现在它都是商业中心像全国最长的步行街----江汉路步行街就位于汉阳还有汉正街批发市场都是位于汉口的,汉口早在明成化年间就与河南的朱仙镇,江西的景德镇,广东的佛山镇并称为我国的四大名镇,因为它是商业集地所以我们说汉口的钱是堆着的,那么各位现在在看到的步行街上的欧式建筑就是租界了,也正因为它的繁华所以在1861年根据中英《天津条约》汉口被开辟为了通商口岸,英俄德日法相继在汉口设立了租界,而这五国租界也是各有特点,英国是最早在汉口设立租界,德国租界是最适合居住的,而法国租界因频临粤汉铁路,所以在其附近的秩序是最为混乱的,日本是最晚设立租界的,虽然是最晚设立的但它却是最贪婪的,它时时都在想着如何扩张自己的租界面积,日租界扩张到了300多亩,它的租界面积是最大的,到1898年这个时候整个5国租界的面积已经达到了3000多亩

在建筑空间处理上,租界区基本沿袭欧洲传统的古典主义手法:道路多采取尽端式布局,主要街道端部都有高大建筑作底景,着重显示建筑体量的高大与豪华。五国租界区的各国建筑大体反映了本国的文化背景和建筑艺术传统,但大量的建筑仍属于西方古典主义建筑形式。最引人注目的就是我们眼前的这一栋大楼了这栋楼叫武汉关原名江汉关,该大楼由英国恩九生洋行的英国建筑师景明设计按文艺复兴时流行形式设计,于1922年,1924年建成,整栋楼这个建筑见证了武汉的一段历史,也见证了中国的一段历史。整栋楼高40米。建造这栋楼的时候几乎所有的东西都是进口产品,它的木板用的是英国柳安木,电梯用的是西门子电梯,就连它的一颗螺丝钉都是进口产品,而不得不提的是在这里有一样东西却是我们武汉人为之骄傲的事情,那就是这栋楼上面的江汉关三个大字,这三个大字是由当时湖北教育厅的厅长宗彝所写,英国人为了得到它的墨宝当时仅润笔银两就花了500两,他的书法朴苍劲,刚柔相济,朴实无华。这也不得不提不过今天,现在让我们来谈谈它的建筑风格。

整个建筑都很西洋化,符合18、19世纪以及20世纪初的建筑美学——古典派。但这个古典派并不是严格意义上的古希腊样式、古罗马样式,也是文艺复兴时期的样式,而是带有观点色彩的一种样式——姑且称之为现代古典派。它没有古希腊建筑的山墙、山花等典型,也没有罗马式建筑的拱门,更没有拜占庭的穹顶,而是运用了古典的对称和廊柱。上方高耸的钟楼是典型的教廷式建筑样式,整个给人肃穆的感觉。

这是建筑匾额的特写。虽然经过过它千百次,以前也照过像的,但是这样拍特写还是第一次。

长江发源于青藏高原唐古拉山脉主峰各拉丹冬雪山的西南侧(北纬33°28’,东经91°08’),源头冰川未端在海拔5400余米。干流流经青海、西藏、四川、云南、重庆、湖北、湖南、江西、安徽、江苏、上海11个省、自治区、直辖市,于崇明岛以东注入东海,全长6300余公里,在世界大河中长度仅次于非洲的尼罗河和南美洲的亚马孙河,居世界第三位

长江流经城市分别是:四川宜宾、泸州、重庆、涪陵、万州、宜昌、荆州、武汉、黄石、鄂州、九江、安庆、铜陵、芜湖、南京、上海

长江

发源于青藏高原唐古拉山主峰各拉丹东的西南侧。干流自青藏高原蜿蜒东流,经青海省、西藏自治区、四川省、云南省、湖北省、湖南省、江西省、安徽省、江苏省和上海市10个省、区、市,在上海市注入东海。全长6300千米。流域面积180多万平方千米,占全国面积的1/5。

长江流经青海、西藏、四川、云南、重庆、湖北、湖南、江西、安徽、江苏、上海11个省市区

省会城市(包括直辖市):重庆,武汉,南京,上海

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