第一篇:鲁迅-《纪念刘和珍君》日文版
魯迅-劉和珍君を紀念して
一
中華民国十五年三月二十五日、それは国立北京師範大学が、十八日に段祺瑞執政府の前で殺害された劉和珍(リゥホーチェン)、楊徳群(ヤントーチュン)両君のために追悼会を開いたその日である、私はひとりで講堂の外を歩きまわっていると、行きあった程(チョン)君がそばへ寄ってきて、「先生は劉和珍(リゥホーチェン)のために何かお書き下さったでしょうか?」と尋ねた、私は「いや」と答えた、すると彼女は私にいった、「先生やっぱり何か書いて下さい。劉和珍は生前に先生の文章を大へん愛読しておりました。」
それは私は知っていた、凡そ私の編集する雑誌は、多分、初めあって終りのないことがよくあるためだろうが、売行きはいつも甚だ芳しいものではなかった、それを今日のような生活困難のときに、『莽原(もうげん)』一年分を予約してくれたのは彼女である。私としても早くから何か書く必要のあることは感じていた、書いたところで死者とは何も関係しないことだが、しかし生きている者には、大たいこんなことしかできはしない。もし私が本当に「在天の霊」なるものがあると信じることができるならば、それはもっと大きな慰めを得ることもできよう、――だが、今は、こんなことしかできないのだ。
といっても私は実は何もいうことはない。私はただ住んでいるところが、人の世ではないと思うだけだ。四十数人の青年の血が、私の周囲に満ちあふれて、私の呼吸、視聴を困難にしている、どうして言葉なんかがあろうか。長歌をつくり哀悼するのは、苦痛がおさまってからでなければならない。ところがその後の数人のいわゆる学者文人の陰険な論調は、とくに私に悲しみを覚えさせた。私はもはや憤りを通りこした。私はこの世ならぬ世の真黒な悲しみを深く味わった、私の最大の哀悼を、この世ならぬ世にハッキリ示して、彼らに私の苦痛をよろこばせ、そしてこれを後から死ぬものの、ささやかな供物として、つつしんで逝ける人の霊前にささげる。
二
真の猛士は、あくまで惨憺たる人生に直面し、あくまで淋漓たる鮮血を正視する。これはなんとも痛ましい、また幸福な者であることか。だが造物主のほうでは常に凡人のために計(はかりごと)をもうけて、時間の流れをもって、古い事跡を洗いながし、ただうす赤い血の色とかすかな悲しみの中に、またもや人を暫しのあいだ生を偸(ぬす)んで、この人でなしの人の世を維持して行かせる。私はこんな世の中がいつになったら果(はて)しがくるかを知らない!
われわれはまだこんな世の中に生きている、私も早くから何か書く必要のあることを感じていたのだ。三月十八日からもう二週間たった、忘却の救い主がやがて降臨するだろう、私は今こそ何か書く必要があるのだ。
三
四十余名の殺された青年の中で、劉和珍(リゥホーチェン)君は私の学生であった。学生というものについて、私はこれまで、こうこういうものだと考えたり、いったりしてきたが、それを今ではかなり躊躇を覚えるようになった、私は彼女に対してつつしんで私の悲しみと尊敬とをささげねばならない。彼女は「かりそめに現在まで生きた私」という学生ではなくて、中国のために死んだ中国の青年だ。
彼女の姓名を、はじめて私が見出したのは、去年の夏の初、楊陰楡(ヤンインユー)女史が女子師範大学校長になって、校内の六人の学生自治会役員を退学にした時である。その中の一人が彼女であった、ただし私は顔は知らなかった。ずっと後になって、あるいはもう劉百昭(リウパイチャオ)(章士釗の手下で、当時の教育局長)が男女の武将(さむらい)を引きつれて、むりやり学生を校外に引きずり出した後であったかも知れないが、ある人が一人の学生を指して私に教え、あれが劉和珍だといった。そのとき私ははじめて名前と顔とを結びつけることができたが、心の中ではどうも訝(いぶか)しく思った。私は平素から権勢や利益のために屈せず、配下をたくさんもっている校長に反抗する学生は、いずれにしても、とにかく激しく鋭いところがあるはずだと思っていたが、しかし彼女はいつもにこにこしていて、態度はとても物やわらかであった。宗帽胡同(ツォンマオホートン)(女子師範大学を追われた学生たちの假校舎がそこにあった)に一まず落ちついて、家を借りて授業をするようになってから、彼女ははじめて私の講義を聞きにくるようになり、それで顔をあわせる回数もやや多くなった、やっぱり終始にこにこしていて、態度はとても物やわらかであった。学校が元の姿をとり戻して、前の教員が責任はもう終ったと、続々引退の準備をする時になって、私は彼女が母校の前途を心配して、悲しがって涙を流すのを見た。その後はあわなかったように思う。要するに、私の記憶の中では、その時が永い別れになった。
四
私は十八日の朝早く、午前に群衆が執政府へ請願することを知った、午後になって凶報がもたらされた、衛兵隊がついに発砲して、死傷者数百人に上り、そして劉和珍もその殺害された者の中に入っているというのである。だが私はこの噂については、かなり疑問があると思った。私はこれまで最もひどい悪意をもって中国人を推測することを無遠慮にやってきたが、しかしながらこれほどまでに下务凶暴であろうとは、思いもよらなかったし、また信じもしなかった。まして、終始にこにこして、おとなしい劉和珍(リウホーチェン)君が、端(はし)なくも執政府の門前で血を流すようなことになろうとは!
だがその日のうちに、それが事実であることは証明された、証明したのは彼女自身の死骸である。もう一体あって、それは楊徳群(ヤントーチュン)君であった。そしてまた、それは単に殺害されたというだけでなく、はっきり虐殺であることが証明された、身体に棍棒の傷痕(きずあと)があったからだ。
だが段(トァン)政府は逮捕令を出し、彼女たちを「暴徒」といった!
だがやがて流言がおこり、彼女たちは人に利用されたのだという。
惨状は、見るに忍びないものがあるが、流言は、とくに聞くに忍びないものがある。私に何のいうべきことがあろうか? 私は衰亡する民族の、黙して声なき理由を知った。沈黙よ、沈黙よ!沈黙の中から爆発するのでなく、沈黙の中に滅亡する。
五
だが、私にはまだいいたいことがある。
私は自分では見なかったが、聞けば、彼女、劉和珍君は、そのとき欣然として出かけたとのことである。むろん、請願に出かけただけである、まず人間らしい気持ちをもっている者なら、誰もこんな網がはられていると思うものはいないはずだ。それが執政府の前で弾にあたったのだ、背部から入って、斜めに心臓と肺をつらぬき、それで致命傷となったのだが、ただ即死ではなかった。一しょに行った張静淑(チャンチンシュー)君が彼女を扶(たす)けおこそうとして、また四発の弾(たま)にあたった、その一弾はピストルの弾で、彼女もその場に倒れた、一しょに行った楊徳群君がまた彼女を扶けおこそうとして、また撃たれた、弾は左の肩から入って、胸をつらぬいて右側から出、またその場に倒れた。それでも彼女はまだ起きあがったが、一人の兵が彼女の頭部と胸部に、棍棒で二度猛撃を加えた、それで死んでしまった。
終始にこにこして、おとなしかった劉和珍君は確かに死んでしまった、これは事実である、彼女自身の死骸が証拠だてる。沈着で勇気があり、そして友情に厚かった楊徳群君も死んでしまった、彼女自身の死骸が証拠だてる。ただ同じく沈着で勇気があり、そして友情に厚かった張静淑(チャンチンシュー)君はまだ病院に呻吟している。三人の女性が従容(しょうよう)として文明人の発明した銃弾の一斉射撃にころげ廻ったということ、それは何という人の魂をゆり動かす偉大なことであろうか!中国軍人の婦女嬰児を殺戮する偉績も、八国連合軍の学生を懲罰殺傷した武功も、不幸にしてすべてこの数条の血痕によって抹殺されたのだ。
だが中外の殺人者はなおも頭をもたげてくる、一人一人の顔に血の汚れがついているのも知らずに……。
六
時は永遠に流れ去り、街は依然として太平である、限りある幾つかの生命は、中国では物の数ではない、せいぜい悪意のない間人(ひまじん)の食後の話の種を提供するか、あるいは悪意のある間人(ひまじん)に「流言」の種を作ってやるにすぎない。これ以外の深い意義ということになると、どうも心細いものだと私は思う、というのはこれはたかだか徒手の請願でしかなかったのだから。人類の血をもって戦われた前進の歴史は、ちょうど石炭の形成に似ていて、初めは大量の木材を必要とするが、結果としてはただ一片の小さな塊でしかない、だが請願はこの中に入らないのだし、まして徒手ではなおさらのことだ。
しかしながらもう血痕はついたのだ、当然拡大するのは免れない。少なくとも、親族、師友、愛人の心には浸みとおるはずだ、たとえ時が流れ去って、洗われてうす赤くなったとしても、かすかな悲しみの中に、にこにこしたおとなしい元の姿を永く留めるであろう。陶潜(淵明)はいった、「親友はまだ少し悲しがっているだろうが、他人はもう歌いやんだ、死んでしまえばどうでもいい、身体は山の凹みに朽ちるまでだ」と。もしそうであろうと、それでもかまわないのだ。
七
前にもいったのだが、私はこれまで最もひどい悪意をもって中国人を推測することを無遠慮にやった。だが今度はいろいろな点で私には意外であった。一つは当局者があのように凶暴であったこと、一つは流言家があれほど下务であったこと、一つは中国の女性が危難に際してかくも従容としていたということである。
私が中国女性の仕事ぶりを見たのは、去年からである、少数ではあったが、しかしその練達敢為で、不撓不屈の気概をみては、度々感嘆したものだ。この度の弾雨の中での互いに助け合い、自分の命を捨てて顧みなかった事実に至っては、さらに中国女性の剛毅が、陰謀や詭計のために数千年も抑圧されていたに拘らず、ついに消滅しなかったことの明白な証拠とするに足りるものであった。もしもこの度の死傷者の将来への意義を求めるというなら、その意義はここにあるのだろう。
かりそめに生きる者は、うす赤い血の中に、かすかな希望をおぼろげに見るだろうし、真の猛士は、さらに奮いたって前進するであろう。
ああ、私には何もいえない、ただこれをもって劉和珍(リウホーチェン)君を紀念する!
(四月一日)
第二篇:鲁迅《纪念刘和珍君》
教学设想
《拿来主义》是鲁迅先生所作的一篇著名的杂文,写于1934年6月4日。鲁迅在文中批判了国民党反动派的卖国主义政策和一些人对待文化遗产的错误态度,阐明了应该批判继承和借鉴文化遗产及外来文化。文章深入浅出、浅显易懂、耐人寻味。鲁迅以笔代戈、奋笔疾书,战斗一生,被誉为“民族魂”。毛泽东评价他是伟大的文学家、思想家和革命家,是中华文化革命的主将。“横眉冷对千夫指,俯首甘为孺子牛”是鲁迅先生一生的写照。《拿来主义》一文以小见大,就近取譬,通过细小的、人们熟悉的事物的比喻来阐明一个抽象的深刻的道理。还运用鲜明的对比和强烈的反衬,使文章有巨大的说服力和感染力。鲁迅先生的杂文有很强的针对性,文章针对的事情距今已久,所以必须介绍清楚有关的背景,以利于学生理解课文内容。即使如此,因为鲁迅杂文的语言很有特色,学生阅读文本有一定难度。唯有促使学生在课上积极思考,才有可能学懂这篇文章。学生对课文的前半部分把握相对比较容易,尤其是对课文前半部分即对“闭关主义”、“送去主义”和“送来主义”的把握不难,但对第8、9自然段的领悟却具有一定的难度,而这首先涉及到课文后半部分即“主张拿来主义”大量的比喻论证、类比论证和对比论证等论证方法的理解不容易,同时升华出实行“拿来主义”的人应具有的识和品质,以及“拿来主义”对于创造民族新文化的重要意义就更为不易了。学生极易将“拿来主义”仅仅理解为对传统文化的辩证接受,而缺乏用现代的眼光去关照“拿来主义”的现实意义。整体教学流程中对课文两个层次的定位大致为“读好”前半部分,“读懂”后半部分。加之,意将本课教学时间定为2课时,因而,第一课时主要重在对文本的解读,回到作者那个背景中去理解文章。第二课时重在对文章论证方法的讲解,文章思想内涵的升华。本课的教学重点和难点都应落在对“拿来主义”的理解上,以领悟寓意,获得启示。
根据学情、课文特点、课时安排等,确立如下教学目标:
1.知识目标:了解相关作者详情,从历史的角度了解但是社会背景下的“闭关主义”、“送去主义”、“送来主义”和“拿来主义”;
2.能力目标:理清课文思路,品味犀利幽默和富有穿透力的语言,感悟“拿来主义”,掌握比喻论证、类比论证和对比论证等论证方法;
3.情感目标:结合对作者的了解和对语言的品味,由文及人,由论及人,领悟“拿来主义”对当下的指导意义。
教学方法:讲授法、多媒体教学法、讨论探究法。
教学过程
第一课时
一、初感“拿来主义”
(一)课堂导入
毛泽东曾这样评价一位作家的杂文,“像投枪,像匕首,直刺向黑暗势力。”同学们知道这位作家是谁吗?(鲁迅)
(二)作者简介
鲁迅,原名周树人,浙江绍兴人,是我国现代伟大的文学家、思想家、革命家。他一生有大量的创作,对我国现代文学的发展有巨大的影响。作品主要有大量的杂文集,如:《坟》、《而已集》、《二心集》、《华盖集》、《南腔北调集》、《且介亭杂文》等,以及短篇小说集《呐喊》、《徬徨》和历史小说集《故事新编》,散文集《朝花夕拾》,散文诗集《野草》。
(三)写作背景
本文写于1934年6月4日,最初发表在6月7日《中华时报》副刊《动向》上,署名霍冲,后由作者编入《且介亭杂文》。
本文写在中华民族灾难深重的年代。日本帝国主义占领我国东北三省之后,妄图进一步占领华北地区,中华民族面临严重危机,而国民党反动政府顽固推行“攘外必先安内”的卖国反共政策,对外出卖国家领土,对内实行反革命的军事“围剿”和文化“围剿”。为了维护反动统治,蒋介石提倡以“四维”(礼、义、廉、耻)和“八德”(忠、孝、仁、爱、信、义、和、平)为内容的所谓“新生活运动”。于是文化界的反动文人随之叫嚷“发扬国光”,掀起一股复古主义的逆流,以此来对抗革命文化的传播和发展。由此可见,“媚外”与“复古”二者紧密配合是国民党反动政权和一些反动文人的基本特点。而一些资产阶级买办文人,甘作“洋奴”和“西崽”,极力鼓吹“全盘西化”完全否定我国的文化传统,以此对抗革命文化。
为了促进革命文化的健康发展,1934年前后在左翼文艺队伍中进行了对文艺大众化和文艺新旧形式等问题的讨论。在讨论中,有些同志受“左”倾机会主义路线影响,认为“采用旧形式”就是“机会主义”,“类似投降”。根据文章内容来看,当时一些青年看到帝国主义对中国的经济文化侵略,出于爱国主义热情和对国家民族前途的关心,对一切外国的东西部有一种恐惧心理。
由此可以看出。当时在如何对待文化遗产的问题上,存在着种种错误思潮和糊涂观念。为了揭露和打击敌人,为了澄清认识,鲁迅先生写了这篇《拿来主义》,阐明了马克思主义批判地继承文化遗产的原理和方法,提出了实行“拿来主义”的正确主张。文章中着重谈的是如何对待外国文化的问题,但鲁迅先生提出的主张也足以批驳那些对本国文化的错误观点。因此,“拿来主义”完全适用于对待一切文化遗产。
(四)《且介亭杂文》的缘起及文体简介
有一段时间,鲁迅先生住在上海闸北帝国主义越界筑路的区域,这个地区有“半租界”之称。鲁迅先生因此将“租界”二字各取一半,成“且介”,以表愤懑。“且介亭”暗示这些杂文是在上海半租界的亭子间里写的,形象地讽刺了国民党统治下半殖民半封建的现实。
杂文:是报刊上常见的一种文艺性的议论文,是以形象说理为主的,短小,活泼,犀利的文学体裁,是“战斗性的文艺作品”。
杂文的基本特征:
感应敏锐,战斗性强;内容博杂,手法灵活;
亦庄亦谐,议论形象;以小见大,文短味长。
(五)带着问题听朗读
问题:
1、文中有一句话告诉了我们什么是“拿来主义”,请大家找出这句话?
2、为什么要实行“拿来主义”? 请同学对以下字词进行注音和改错。
(六)初步感知课文
引导学生初步体会文章的层次感和结构特点。举出例子,“我们要运用脑髓,放出眼光,自己来拿!”“他占有,挑选。”“我们要或使用,或存放,或毁灭。”这几个句子之间就有层次性。提出文章先破后立的结构特点,引起学生思考。
二、细悟“拿来主义”
(六)阅读课文,解决问题
①中国一向是所谓“闭关主义”,自己不去,别人也不许来。自从给枪炮打破了大门之后,又碰了一串钉子,到现在,成了什么都是“送去主义”了。别的且不说罢,单是学艺上的东西,近来就先送一批古董到巴黎去展览,但终“不知后事如何”;还有几位“大师”们捧着几张古画和新画,在欧洲各国一路的挂过去,叫作“发扬国光”〔2〕。听说不远还要送梅兰芳博士到苏联去,以催进“象征主义”〔3〕,此后是顺便到欧洲传道。我在这里不想讨论梅博士演艺和象征主义的关系,总之,活人替代了古董,我敢说,也可以算得显出一点进步了。
②但我们没有人根据了“礼尚往来”的仪节,说道:拿来!
1、第1段“别的且不说罢”一句有什么作用? 这一句把所要揭露、论述的范围加以严格的限制,只讲学艺上的事。本文写于1934年6月4日,那时日本帝国主义的魔爪已经伸到了东北、华北,国民党政府推行卖国主义政策,变本加厉地出卖国家的领土、资源和主权,确实“成了什么都是‘送去主义’了”。因此,用“别的且不说罢”的句子,不仅使论述的范围明确,而且增强了揭露的深刻性。
2、作者列举了哪些事例来揭露国民党政府实行“送去主义”的媚外丑态的? ①“先送”一批古董到巴黎去展览,“不知后事如何”,即有去无回,这是媚外的可耻行径;②还有几位“大师”们捧几张古画和新画,在欧洲各国一路挂过去,“捧”何其郑重、恭敬,媚态可掬,几张画“一路的挂”,何其卖力,何其寒伧可笑,“发扬国光”,反语,讽刺不以为耻,反以为荣;③“还要送梅兰芳博士到苏联去,以催进‘象征主义’„„也可以算得显出一点进步了”,用这种方式来显示一点进步,多么可怜,暗示“学艺”上的东西已经相当贫乏。作者讽刺批判的锋芒不是对着几位艺术家,而是指向卖国媚外的反动当局及其御用文人,字里行间充满着憎恶和鄙视。
③当然,能够只是送出去,也不算坏事情,一者见得丰富,二者见得大度。尼采〔4〕就自诩过他是太阳,光热无穷,只是给与,不想取得。然而尼采究竟不是太阳,他发了疯。中国也不是,虽然有人说,掘起地下的煤来,就足够全世界几百年之用,但是,几百年之后呢?几百年之后,我们当然是化为魂灵,或上天堂,或落了地狱,但我们的子孙是在的,所以还应该给他们留下一点礼品。要不然,则当佳节大典之际,他们拿不出东西来,只好磕头贺喜,讨一点残羹冷炙做奖赏。
④这种奖赏,不要误解为“抛来”的东西,这是“抛给”的,说得冠冕些,可以称之为“送来”,我在这里不想举出实例〔5〕。
1、一味奉行“送去主义”会产生什么严重后果及危害? 作者以尼采“自诩他是太阳,光热无穷,只是给与,不想取得”作类比,“尼采究竟不是太阳,他发了疯”;中国若“只是送出去”,同样是愚蠢可笑的。说“掘起地下的煤来,就足够全世界几百年之用”,“几百年之后呢”?我们的子孙,“当佳节大典之际,他们拿不出东西来,只好磕头贺喜,讨一点残羹冷炙做奖赏”。“磕头”、“讨”和“残羹冷炙”、“奖赏”等词语,形象、深刻地写出了“送”的结果是我们的子孙后代无法立足于世界民族之林。
2、“抛来”和“抛给”有何区别? 抛来指把无用的东西抛弃掉,或者无代价地送人或施舍,一般不怀有什么不良的动机或目的。
抛给指有目的的、带恶意的输出。
⑤我在这里也并不想对于“送去”再说什么,否则太不“摩登”了。我只想鼓吹我们再吝啬一点,“送去”之外,还得“拿来”,是为“拿来主义”。⑥但我们被“送来”的东西吓怕了。先有英国的鸦片,德国的废枪炮,后有法国的香粉,美国的电影,日本的印着“完全国货”的各种小东西。于是连清醒的青年们,也对于洋货发生了恐怖。其实,这正是因为那是“送来”的,而不是“拿来”的缘故。
⑦所以我们要运用脑髓,放出眼光,自己来拿!
1、“送来”和“拿来”有什么不同?用一句话说明怎样 “拿”? “送来”不等于“拿来”;“送来”是被动接受,而“拿来”是主动获取;“送来”的是别人剩余的东西,而“拿来”的是经过挑选的有用的东西.2、“运用脑髓,放出眼光,自己来拿”怎么理解? “运用脑髓”指用脑筋独立思考,有主见;“放出眼光”指要看得清,有辨别力;“自己来拿”指要有选择,自己拿。我们要运用脑子,放出眼光,自己来拿!(有思考、有鉴别、有选择)
⑧譬如罢,我们之中的一个穷青年,因为祖上的阴功(姑且让我这么说说罢),得了一所大宅子,且不问他是骗来的,抢来的,或合法继承的,或是做了女婿换来的(7)。那么,怎么办呢?我想,首先是不管三七二十一,“拿来”!但是,如果反对这宅子的旧主人,怕给他的东西染污了,徘徊不敢走进门,是孱头;勃然大怒,放一把火烧光,算是保存自己的清白,则是昏蛋。不过因为原是羡慕这宅子的旧主人的,而这回接受一切,欣欣然的蹩进卧室,大吸剩下的鸦片,那当然更是废物。“拿来主义”者是全不这样的。
“大宅子”比喻什么?对待“大宅子”,文章一共列举了几种态度? “大宅子”就是“文化遗产” 不敢进门 放火烧光 接受一切 “拿来!”
孱头 昏蛋 废物 不敢接受 全盘否定 全盘肯定 辩证吸收
⑨他占有,挑选。看见鱼翅,并不就抛在路上以显其“平民化”,只要有养料,也和朋友们像萝卜白菜一样的吃掉,只不用它来宴大宾;看见鸦片,也不当众摔在茅厕里,以见其彻底革命,只送到药房里去,以供治病之用,却不弄“出售存膏,售完即止”的玄虚。只有烟枪和烟灯,虽然形式和印度,波斯,阿剌伯的烟具都不同,确可以算是一种国粹,倘使背着周游世界,一定会有人看,但我想,除了送一点进博物馆之外,其余的是大可以毁掉的了。还有一群姨太太,也大以请她们各自走散为是,要不然,“拿来主义”怕未免有些危机。
“拿来主义”者是怎样“挑选”文化遗产的? 1.对文化遗产中的精华(“鱼翅”)应取什么态度?吸收
课文中哪句话表现作者的这种主张?“只要有养料,也和朋友们像萝卜白菜一样的吃掉。”
2.对文化遗产中精华、糟粕互见的部分(“鸦片”)应采取什么态度?批判地吸收
读出课文中表现作者这种主张的句子。“只送到药房里去,以供治病之用,却不弄‘出售存膏,售完即止’的玄虚。”
3.对文化遗产中的旧形式(“烟枪和烟灯”)应取什么态度?留一点作历史的反面教材,绝大多数应当清除
读出课文中表现作者这种主张的句子。“除了送一点进博物馆之外,其余的是大可以毁掉的了。”
4.对文化遗产中的糟粕(“姨太太”)应采取什么态度?坚决抛弃 读出课文中表现作者这种主张的句子。“大以请她们各自走散为是。” 一言以敝之,“拿来主义”者对待文化遗产是:吸取精华,剔除糟粕!先占后挑.⑩总之,我们要拿来。我们要或使用,或存放,或毁灭。那么,主人是新主人,宅子也就会成为新宅子。然而首先要这人沉着,勇猛,有辨别,不自私。没有拿来的,人不能自成为新人,没有拿来的,文艺不能自成为新文艺。文章结尾共有五个句子组成, 如果这五句话是五个问题的答案,应提哪五个问题?“拿来”的最终目的是为了什么?
1、对待文化遗产,我们应该怎么办? 要“拿来”!
2、怎样“拿来”? 或使用,或存放,或毁灭
3、“拿来”有何意义? 建设民族新文化
4、怎样才能“拿来”? 沉着,勇猛,有辨别,不自私
5、“拿来”的最终目的是什么?(两个字概括)创新
(七)理清全文思路与结构
1、课文的第5自然段在文章中起什么作用?
2、简要说说:前面4个自然段讲的什么问题?后面5个自然段讲的什么问题?
3、作者要论说的是“拿来主义”,为什么课文前面花大量笔墨写“闭关主义”、“送去主义”和“送来主义”? ◎第5自然段是过渡段,它起着承上启下的作用。
◎前面4个自然段,揭示什么是“送去主义”及实行“送去主义”的危险性;后面5个自然段,论证什么是“拿来主义”及为什么要实行“拿来主义”。◎作者要论说的是“拿来主义”,但它是针对历史和现实存在的问题提出来的,近代的“闭关主义”必然导致“现在”的“送去主义”。“送去主义”是一种有往无来的卖国行径,必然导致国势日弱,被动挨打,从长远看,将造成亡国灭种。因此,采取与“送去主义”针锋相对的“拿来主义”就刻不容缓。“送去主义”和“拿来主义”是一个问题的两个方面,“破”正是为了“立”。
4、为什么要实行拿来主义?
因为 第一层:只是送去,有往无来(有悖于交往原则)
第二层:只是送去,必沦为乞丐。(要正视历史逻辑)
第三层:听凭“送来”大受其祸害。(应重视现实教训)所以,我们要运用脑髓,放出眼光,自己来拿!
文章结构
第一部分(第1—4段):揭露批判“送去主义”的实质及其严重后果。第二部分(第5—9段):阐明“拿来主义”的基本观点,批判在对待文化遗产问题上的错误倾向。
第三部分(第10段):总结全文,指出实行“拿来主义”的人应具有的识和品质,以及“拿来主义”对于创造民族新文化的重要意义。
第二课时
三、超越“拿来主义”(1)把握中心思想
1.本文的中心思想不只是谈对待文化遗产问题这一个方面,请归纳本文中心。①批判国民党反动政府的卖国政策 ②批判对待文化遗产的错误态度 ③阐明对文化遗产的正确主张 ④指出正确对待文化遗产的必要性。
(2)学习本文的论证艺术
1、尽管本文中心思想应当包含四个要点,但最核心的问题还是阐明对待文化遗产批判继承的正确态度。全文包含着深刻的马克思主义原理,但并没有枯燥地讲述理论,全文写得轻松活泼,很有趣味。作者究竟用了什么方法取得了这样的效果呢?
阅读第8、9两段,想想作者在这里用了什么方法: 第8、9两段使用了比喻论证的方法。
比喻论证就是用比喻来说明道理。这种方法是用人们容易理解的、比较浅显的事物或道理来证明不容易理解的、深奥的事物或道理。运用这种方法能把道理讲得通俗形象。使人容易接受,增强作品的艺术性和感染力。
2、阅读第3段,这段是否运用了比喻论证的方法。
这里用尼采与“送去主义”者作比,尼采与“送去主义”者是具有相同思想意识的人,属于同一类事物。用同类事物进行比较从而阐明观点的方法叫类比论证。它与比喻论证有明显的区别:类比论证是同类事物作比较,比喻论证是用不同类的、只是有相似点的事物打比方。
3、请重新阅读8、9两段,想想作者为了更清楚地阐明对待文化遗产的正确态度,除使用了比喻论证的方法之外还用了什么方法:
作者的目的是要阐明“拿来主义”的做法,为什么还要分析“孱头”、“昏蛋”、“废物”的表现?
将两种性质截然相反的事物进行比较,这种论证方法叫对比论证。对比能给人留下鲜明的印象,增强论证效果。本文的论证艺术
①比喻论证(8、9段)------用有相似点的事物打比方。②类比论证(第3段)------用同类事物相比较。③对比论证(8、9段)------用性质相反事物作比较。(3)“拿来主义”的现实意义
学生自由发挥(围绕“创新”等)
(八)板书设计
拿来主义 鲁迅
第一课时
(破)闭关主义 送去主义 送来主义
孱头
(破)旧人 昏蛋
废物
(立)拿来主义
鱼翅 吃掉 精华
鸦片 送药房 糟粕但有价值
(立)新人
(占有 挑选)烟灯烟枪 送 毁掉 旧形式
姨太太 走散 腐朽的封建文化
⑦分析课文结构
第一部分(第1—4段)揭露批判“送去主义”的实质及其严重后果。
第二部分(第5—9段)阐明“拿来主义”的基本观点,批判在对待文化遗产问题上的错误倾向。
第三部分(第10段)总结全文,指出实行“拿来主义”的人应具有的识和品质,以及“拿来主义”对于创造民族新文化的重要意义。
第二课时 中心思想:
①批判国民党反动政府的卖国政策 ②批判对待文化遗产的错误态度 ③阐明对文化遗产的正确主张 ④指出正确对待文化遗产的必要性。
本文的论证艺术
①比喻论证(8、9段)------用有相似点的事物打比方。②类比论证(第3段)------用同类事物相比较。③对比论证(8、9段)------用性质相反事物作比较。
板书设计意图的说明:
基于学情和课文,第一部分初感“拿来主义”主要是听过读和听来体会,让学生初步感知《拿来主义》的层次感和结构性;第二部分细悟“拿来主义”要自习分析作者语言的犀利之处和一系列“主义”和一系列论证的“本体”、“喻体”等,深入讲解先“破”后“立”的结构;第三部分是重在对文章论证方法的讲解,文章思想内涵的升华。讲解论证方法和文章的主旨。一方面要让学生用历史的眼光理解“闭关主义”、“送去主义”、“送来主义”和“拿来主义”,认识到“闭关主义”、“送去主义”和“送来主义”的危害,还有“拿来主义”的优势,形成“破”和“立”的对比,因而板书中在最左和最右对称式的将二者并列呈现,利于学生形成对比。另一方面,全文强调对“拿来主义”的运用,对当下有很强的现实意义,而这一点对于学生的成长极具教育意义,意在强化此点。
第三篇:纪念刘和珍君(鲁迅)
《记念刘和珍君》(鲁迅)
教学目标:
1、弄清文章中的时间、地点、人物、事件,学会从具体事实中体会事件的意
义,从人物的具体言行中理解人物的思想性格。
2、理清作者的写作思路,找出文章的线索。
3、理解本文的语言特点,学习作者的语言表达。
4、掌握贯穿全文的作者的悲愤心情(悼念烈士、痛恨反动政府),理解文
中的关键语句。
教学重点:理解作者贯穿全文的思想感情。
教学难点:文中关键文句的理解。
教学方法:
第一课时
一、导入
1、在我国文学史上,闪烁着一颗璀璨的巨星,他领着我们回过《故乡》《从百草园到三味书屋》看了《社戏》,通过《一件小事》,懂得了什么是真正的《拿来主义》。今天,我们再随着他重温“三·一八”惨案的历史,一起《记念刘和珍君》(板书)。这位巨星就是大家非常熟悉的鲁迅先生。
二、写作背景
三、课文学习
(一)朗读全文,把握文章结构
1、通读全文,圈画出重点词句,运用工具书解决生字、生词,并重点给下列加点的汉字注音:洗涤(dí);惮(dàn);攒射(cuán)、尸骸(hái)
2、本文的题目告诉我们这是一篇纪念性的文章,纪念的中心人物是刘和珍。那么,课文的七节中,①哪些小节集中写纪念刘和珍君?(目的:启发思路,引导思维方向)三四五节是纪念的主体部分(生前事迹,遇难经过)
②那么第一二节在文中起什么作用?(交代为什么要为刘和珍君写一点东西即写作的缘起。)
③六七小节又起什么作用?(揭示这次事件的教训和意义。)
④总结:全文思路的起点是本文的写作缘起,及为什么要写这篇文章;然后记述刘和珍的生平事迹和遇难经过;在叙事的基础上再深入一步,议论“三·一八”惨案的教训和对于将来的意义。三者交错,始终统一于“记念”这个中心。这就是本文的总体思路。3、用一句话分别概括七个部分的内容。
①介绍写作缘由。②交待写作目的。③回忆认识过程。④抒写惊愕、义愤。⑤叙述遇难经过。⑥总结经验教训。⑦热情讴歌赞颂。
文章落实,从局部入手进行分析
(二)第一、二部分
1、开头时间交代意图何在?
用“中华民国”纪元,引女师大全名并标出“国立”,不仅表明态度郑重,而且包含了强烈的讽刺之意和愤慨之情——以先烈的牺牲换来的“民国”已经“十五年”了,然而,人民受宰割的政局不仅没有什么改变,反而愈演愈烈,演出了“在禽兽中所未曾见”的丑剧。当局不但照旧像历代统治者一样地杀人,而且杀到了“堂堂”大学的手无寸铁的女大学生头上,甚至公开把“执政府”门前变成了屠场。可见,段祺瑞执政府已经凶残到何等地步。“中华民国”早已不
是人民的国家;所谓“民国政府”,那是屠杀人民的机器;所谓执政府总统,完全是民国的敌人,屠杀人民的刽子手。……一个状语,就准确地交待了悼念的来由和背景,又鲜明地表达了作者强烈的爱憎,为全文作了很好的铺垫。
(含有揭露和讽刺意味。中华民国并非人民的民国,而是屠杀人民的机器。)
2、开追悼会时,为什么鲁迅先生“独在礼堂外徘徊”?(引导学生注意作者的悲愤的思想感情。)
“徘徊”一词,表露了作者心情的哀痛、悲伤,再用一“独”字,设置了环境,渲染了气氛,有力地衬托作者对死难青年悼念之情的深切、真切。
(作者无法承受追悼会的悲痛,独自徘徊沉思。)
3、“正告”的含义和作用是什么?
字典里的意思是“严正地告诉”,规劝,语气比较庄重,一般用在事前。文中应是“郑重地告诉”。(注意和“警告、忠告”的区别);引出本文写作原因和目的。
4、“我也早觉得有写一点东西的必要了”,“也”字针对程君的请求而言,说明写作此文,不仅仅因程君的请求,更主要出自“我”本身的意愿;“早”字则进一步说明,要写文章纪念死者的愿望由来已久。
(第一节“我也早觉得有写一点东西的必要了”,这个“必要”说的是要悼念遇害者刘和珍,奉献作者最大的悲哀和尊敬,控诉段政府的暴行和抨击反动文人的阴险论调。“也”和“早”二字说明作者要作文纪念的愿望由来已久。作文不仅是应程君的要求,更主要的是出自我本身的意愿。第二个“必要”在与唤醒庸人,要人们牢记血债。因此本段交代的写作原由是悼念死者,揭露敌人,唤醒庸人。)
5、“无话可说”的原因是什么?(从几方面说明原因)
一是反动政府的暴行“使我艰于呼吸视听”不能有言语;一是所谓学者文人的阴险论调,尤使我觉得悲哀,使我难以痛定,不能长歌当哭。这样写既揭露了的敌人及其走狗的罪行,又表现了作家的愤怒和悲痛。
6、为什么敢于直面与正视就是真的猛士,为什么说真的猛士是“哀痛者和幸福者”?
“必须敢于正视,这才可望敢想、敢说、敢做、敢当”(《论睁了眼看》)。可见正视是首要的条件,真的猛士必须敢于面对黑暗的现实,只有如此,才会激起变革社会的斗志,才会为推翻黑暗的现实而冲锋陷阵,视死如归;如果没有面对的勇气,他在敌人面前,轻则消极遁世,重则变节投降。
哀痛者——忧国忧民;幸福者——奋然前行,英勇斗争,并以此为幸福。和庸人相比,他们多了一份哀痛,却也因此成了真正的幸福者。
7、三个“必要”各指什么?
①针对烈士刘和珍;②针对魑魅魍魉的世间;③针对忘却的救主。
问:文章为什么要从追悼会上程君请求作文写起?作者为什么要反复说“有写一点东西的必要”,又要反复说“无话可说”?
文章从追悼会上程君请求作文写起,交待写作此文的缘由。“我”因无法承受追悼会的悲凉,独自到礼堂外徘徊、思索;程君问“可曾为刘和珍写了一点什么没有?”勾起“我”对烈士的悲痛的忆念,再次感到“有写一点东西的必要”——“也早觉得”,“也”字针对程君的请求而言,说明写作此文,不仅仅因程君的请求,更主要是出自“我”本身的意愿;“早”字则进一步说明,要写文章记念的愿望由来已久,不只是由程君的请求才引起的。
“可是我实在无话可说”,因为“我已经出离愤怒了”——这是为什么至今还“没有”写出文章的原因。“我向来是不惮以最坏的恶意来推测中国人的”,而反动派的“下劣凶残”却完全出乎“我”的意料之外,这怎不令人“出离愤怒”?“我只觉得所住的并非人间”,“四十多个青年的血”已经“使我艰于呼吸视听”,又怎么能说出话来呢?
杀人者个个脸上带着血污,依然在横行。这“似人非人的世界”,“何时是一个尽头!”“还在这样的世上活着”的人们,该怎么办呢?“三·一八”虽然才过去两个星期,而“忘却的救主”则快要降临了。文章的第二部分,表达了作者的无限感慨,提到“写一点东西的必要”——要写一点东西,揭去“许多东西的人相”,让人们清醒地知道,“所住的并非人间”是有必要提醒人们,也提醒自己不要忘记烈土的鲜血。
第一部分:由爱到憎,是按逻辑顺序安排思路的。
第二部分:又是按怎样的思路布局的?(时间:相识——遇难)
(齐读第二节,思考这两个自然段以及每个自然段中的思路。)
第一段共5句话,第一句表明纪念死难者应采取的态度,这也是生活在黑暗世界的奋斗者理想的人格。第二句紧承第一句,是作者的评价和认识;第三、四两句写庸人的态度,将其与“真的猛士”比照,这样“真的猛士”就成了立在庸人面前的一面镜子;第五句是作者的感叹。
第二段是写我们应该采取的正确做法。
所以,这两节的整个思路就应该定位在:
面对惨案,“真的猛士”的态度→庸人的态度→我们的态度。
(三)第三部分
问:阅读第三部分,回答该部分记念了刘和珍哪些事迹?从这些事迹中认识到刘和珍是怎样的一位青年?
联系课文开头写刘和珍的内容“然而在这样的生活艰难中,毅然预定了《莽原》全年的就有她”。“然而”是一个重转,强调“销行寥落”中她“预定全年”的与众不同;“生活艰难”,说明她“预定全年”需要决心;“毅然”则进一步强调需要勇气。从这一事实中,我们可以看到她对革命的向往和对真理的渴求。
分析第三部分第2段的内容:“不为势利所屈,反抗一广有羽翼的校长的学生”,此校长是杨荫榆,是依附于军阀政府势力镇压学生运动的罪魁祸首,刘和珍勇于反抗,表现了她嫉恶如仇、勇于斗争的精神;和“我”见面,“始终微笑着,态度很温和”,表现了刘和珍的善良与和葡;“她虑及母校前途,黯然至于泣下”,表现了她的高度事业心和责任感。
①在艰难的生活中,“毅然预定了《莽原》全年”── 与众不同,追求真理;
②在女师大风潮中,“能够不为势利所屈,反抗一广有羽翼的校长”;
③女师大复校,她“虑及母校前途,黯然至于泣下”;
④平时她“常常微笑着,态度很温和”。
从这些记述中,我们看到的是这样一位青年:渴求真理,富于斗争精神而又和蔼善良;有思想,有远见,富有革命责任感。
(刘和珍的三件事情:
一、预定《莽原》全年,表现了她要求进步,追求真理的品质;
二、反抗校长,表现她勇敢顽强,有正义感、有责任感等品质;
三、参与请愿并遇害,表现了她英勇、进步为国家和民族勇于牺牲的爱国精神等。)
第三部分:先否定了这次徒手请愿的做法,然后用“然而”将笔锋一转,肯定了这次死难的意义,鼓励“真的猛士”奋然而前行。由否定到肯定。(逻辑顺序)
(四)第四、五部分
第四节:共有5层意思:听到噩耗→颇为怀疑→见到尸骸→听到诬蔑→号召爆发
重点抓住第四部分“况且始终微笑着的和蔼的刘和珍君,更何至于无端在府门前喋血
呢?”和“但段政府就有令,说她们是暴徒’”这两句;
在第五部分重点抓住“始终微笑的和蔼的刘和珍确是死掉了”和第3段的内容,体会作者的悲愤之情;明确作者意在讽刺揭露段祺瑞执政府的野蛮暴行,使历史上“中国军人屠戮妇婴”和“八国联军惩创学生”都相形逊色!
(五)第六、七部分
①第六部分,作者用“煤”作比喻,是从人类历史进程的高度全面评价“三·一八”事件的——徒手请愿不是一种有效的斗争形式,为请愿而流血是不值得的。②作者运用陶潜诗句的理解:烈士的死能够得到“亲族、师友、爱人”的悲悼“这也就够了”,因徒手请愿而流血是不值得的,但既然流了血,就一定会产生影响,尽管影响不一定很大,这血也就不算白流了。第七部分:重点讨论第2段的第2句话。明确:这是个单句,主语是“事实”,谓语是“为”,宾语是“明证”。作者通过这一单句高度评价了烈士死难的意义,讴歌了刘和珍等临难从容的勇毅精神。
“苟活者在淡红的血色中,会依稀看见微茫的希望;真的猛士,将更奋然而前行”。——两层意思:一般的民众,会从中国女子的英勇斗争,互相救助,虽殒身不恤的事实中,多少看到一些改变黑暗现实的希望;真正的革命者,将因受到激励而更加奋勇前进。进而明确,这是从烈士死难对于将来影响的角度高度评价意义的,具有激励革命者奋然前行的巨大作用。这一段文字寥寥,却充满着感奋之情。
文章是写完了,然而,言已尽而意无穷。作者以“呜呼,我说不出话,但以此记念刘和珍君”作结,与开头一部分中哪句话相呼应。——“菲薄的祭品,奉献于逝者的灵前。”
(六)小结
作者记叙刘和珍的事迹,表现了刘和珍的优秀品质,抒发了对刘和珍被枪杀的无限悲痛之情,交待反动文人的中伤,追叙刘和珍的遇难情景,抒发了作者痛悼死者,痛恨杀人者的悲愤之情。因此,作者就以这条感情线索贯穿全文,围绕着“沉痛的悼念与愤怒的批判相结合”这一文章中心安排了文章几个部分的内容,使之形成有机的整体。
第二课时
一、重点理解关键文句的旨意
(一). 分析一、二小节
1、齐读这一部分,要求带着以下问题:
1)作者在第1、2节都说道“有写一点东西的必要了”请问各有什么含义?
2)本段段意既然为交代写作原由,请问其写作原由是什么?
(第一节“我也早觉得有写一点东西的必要了”,这个“必要”说的是要悼念遇害者刘和珍,奉献作者最大的悲哀和尊敬,控诉段政府的暴行和抨击反动文人的阴险论调。“也”和“早”二字说明作者要作文纪念的愿望由来已久。作文不仅是应程君的要求,更主要的是出自我本身的意愿。第二个“必要”在与唤醒庸人,要人们牢记血债。因此本段交代的写作原由是悼念死者,揭露敌人,唤醒庸人。)
2、重点分析文中难句:
1)文章开头作者如此郑重其事的说明本文的写作时间“中华民国十五年”,其中有何深意?(提示:含有揭露和讽刺意味。中华民国并非人民的民国,而是屠杀人民的机器。)
2)追悼会那一天,我为何独在礼堂外徘徊?(提示;作者无法承受追悼会的悲痛,独自徘徊沉思。)
3)作者反复说“只能如此而已”,又称自己献上的只是“菲薄的祭品”,说明了作者怎样的心情?(提示:表达作者认为未能以更好的方式悼念死者,深感歉意。)
4)“我已经出离愤怒了”是什么意思?(提示:愤怒到了极点的意思)
5)“ 以我的最大哀痛显示于非人间,使它们快意于我的苦痛”一句,他们指什么人?“快意于我的苦痛”怎么理解?(提示:“它们”指反动派。“快意于我的苦痛”实际是警告反动派别高兴的太早,总有一天血债必将血偿!)
6)“ 真的猛士,敢于直面惨淡的人生,敢于正视淋漓的鲜血。这是怎样的哀痛者和幸福者?”一句,“真的猛士”指什么?“惨淡的人生”什么意思?“哀痛者和幸福者”分别指什么人?(提示:“真的猛士”指真正勇敢的革命者。“惨淡的人生”指反动派统治下的黑暗现实。“哀痛者和幸福者”分别指看到黑暗现实,哀痛于国家和人民而无力改变的人和敢于正视黑暗现实,为国为民敢于斗争敢于牺牲的人。)
(二)分析第三节
1)作者说“刘和珍是我的学生”,“现在却有些踌躇了”为什么?作者称自己是“苟活到现在的我”表达了作者怎样的心情?由此可以看出作者怎样的品质?(提示:踌躇是因为作者认为刘和珍是为中国而死的青年,我应该对她奉献我的悲哀和尊敬。表达作者自责内疚的心情。反映了鲁迅先生自谦,自我剖析 的品质)
2)提醒同学们再次记忆刘和珍的形象:始终微笑着,态度很温和。
(三)分析第四节
1)齐读该节,该节主要讲什么?分层次,用四个字概括层次大意。(提示:主要是概述惨案。分四层:听到噩耗---颇为怀疑---尸骸为证---听到污蔑---悲愤号召)
2)“卫队居然开枪”的“居然”二字说明了什么?(提示:一是出乎意料,二是反映了敌人的凶残。)
3)“我向来是不惮一最坏的恶意来推测中国人的”一句如何理解?其中的中国人指什么人?(提示:“中国人”指反动派,意思是敌人的凶残远远超出我的意料。)
4)敌人说她们是“暴徒”和“受人利用”,同学们能否在文中找出反驳他们的证据?(提示:“终微笑着,态度很温和。”“欣然前往”,“请愿而已”等)
5)“衰亡民族默”“默无声息的缘由”是什么?(提示:敌人残暴凶杀的暴力统治和反动文人用反动舆论进行的思想统治,屠刀加钳口术的专制性统治,使得我们的民主更加衰亡。)
6)“沉默呵,沉默呵!不在沉默中爆发,就在沉没中灭亡。”一句中,用了什么修辞手法?后面一句是什么复句?有何含义?(提示:反复的修辞手法。选择复句。意思为沉默到了极点,就将是爆发的时候。这里既有对反动派的警告,也有对后死者的呼唤,激励和鼓动。)
三. 小结:这一部分,作者以无比悲痛的心情,向牺牲的爱国青年们献上他的悲哀和尊敬;以无比愤慨的心情,抨击着敌人的无耻谰言;以无比激昂的口号激励后死者的爆发。
(四)第五六七节
1. 作者在第五节如此详写惨案的经过有何深意?
(提示:一是揭露了敌人的凶残,证明那简直就是虐杀,二是赞扬了三个女子临难从容、互相救助的精神。)
2.作者在第四节说“:我还有什么话可说呢?到第五节又说“我还有要说的话”。各是什么意思?
(提示:无话可说是因为敌人暴力和无耻谰言令人震惊、愤怒说不出话;还有要说的话是作者要揭露敌人。)
3.“这是怎样的一个惊心动魄的伟大呵”一句中,“这”字指代什么内容?下面的伟绩和武功如何理解?
(提示:“这”指上文的“三个女子从容地转辗于文明人所发明的枪弹的攒射中”。“伟绩”和“武功”用了反语的修辞手法,用了“互文”的写作手法两句所讲的内容一样,这句话讽刺了中外反对者沾沾自喜与自己的暴力的丑恶嘴脸。)
4.作者用煤的形成类比什么?作者对徒手请愿的态度如何?
(提示:类比请愿的收效不大,作者不赞同徒手请愿方式!)
5.作者在此引用陶渊明的诗,用意何在?指名介绍介绍一下陶渊明?
(提示:作者认为尽管请愿收效甚微,但对社会还是有一定影响的。勇士们的鲜血不会白流。陶渊明,名潜,字元亮,浔阳柴桑人,因在彭泽县当过县令,故人称“陶彭泽”,晚年自号“五柳先生”,死后,朋友私谥为“靖节”,故世号“靖节先生”,后人称他为田园诗始祖。作品有《桃花源记》、《归去来兮辞》等)(作者引用此诗有青山埋忠骨之意)
6.请学生讨论分析,抓出“事实是明证”所在句子的这一主干。
7.“苟活者在淡红的血色中,会依稀看到微茫的希望;真的猛士,将更奋然而前行”这句是什么复句?如何理解该句?
(提示:并列复句。这句恰当是评价了惨案的意义,尽管非人间的苟活者很多,但即使苟活者,也会看到一点希望,哪怕实际依稀的微茫的,而猛士们绘制烈士精神鼓励下,更加勇猛的前进、斗争!)
8.文后作者又说“呜呼,我说不出话,”作者明明说了这么多,怎么又说说不出话呢?(提示:在此,表达了作者无尽的悲愤和深深地歉意。)
问:本文题为 “记念刘和珍君”,但明显不全在写刘和珍,找出文中一共写了几类人?三•一八惨案后他们各自的动向如何?作者对他们的态度和感情怎样?由此能否推出作者写作目的?
哪类人动向作者态度和感情写作目的爱国青年:猛士,苟活者(“我”)悼念 尊敬激励悲悼念、鼓励
反动派:当局者,流言家,有恶意的闲人 污蔑 控诉抨击愤 揭露
麻木的民众:庸人,无恶意的闲人 淡漠 哀伤唤醒哀、愤 唤醒
总结:由此可见作者写作本文的目的除了要悼念在惨案中牺牲的爱国者刘和珍等人外,更深远的意义应在于评述惨案,以此来鼓励生者、激励猛士,揭露敌人,唤醒庸人,评述惨案的教训和意义等。而纪念刘和珍正是本文写作目的的切入点。
二、总结
通观全文,作者悲和愤两股情感的烈焰无处不在迸发,无处不在燃烧,升腾交织,无可抑制。追悼会的气氛、程君的发问和要求引起对烈士的痛心的忆念,并且激起对杀人者的满腔仇恨,发为愤怒的揭露控诉;同时,作为革命家、思想家,作者始终没有停止深沉的思索,对惨案的经验教训进行了沉痛的总结,对烈士死难意义给予高度评价。这就是作者思想感情发展和文章结构的大体脉络。
第四篇:纪念刘和珍君
纪念刘和珍君教案
教学目标:
1、理清作者思想感情发展的脉络;
2、理解关键词句的含义;
教学重点与难点:
1、学会采用勾摘录关键词语的方法,抓住作者思想感情的脉络,理清全文思路。
2、提高理解句子含义以及表达作用的能力。
3、训练并培养学生理清文章思路的能力。
教学课时
二课时
教学过程:
布置预习:请学生利用早自习时间熟读课文,解决生字生词。
第一课时 导入课文:
对鲁迅">于鲁迅先生,我们大家已十分熟悉了,在初中时我们学过了他的一些小说和散文,今后我们还将学习他的杂文。今天,我们就来学习他的《纪念刘和珍君》。
背景介绍:(请同学们阅读课本注释1)理清文章的总体思路: 文章可以分为两个层面:
第一层面:思路的起点是本文写作的缘起,即为什么要写这篇文章。然后记述刘和珍的生平事迹和遇难经过,在叙事的基础上再深入一步,总结“三。一八”惨案的教训,指出这一惨案对于将来的意义。第二层面:
关于写作缘起:思路分两步走
第一步:“写一点东西的必要”是为纪念死者。
问:请学生在课文中找出表达缘起的相关语句。(见教材)
问:第一部分的感情变化是怎样的?(悲哀--悲愤--出离愤怒)第二步:为使庸人不致忘却,要人们牢记这笔血债。
问:请学生们阅读第一部分,划出能表达缘由的相关句子。(见教材)如:“淡红的血色和微漠的悲哀”“维持着这似人非人的世界” 关于烈士事迹,思路是以时间为顺序的,从平时到遇害。问:请同学们概括第三、四、五部分的主要内容。明确:三:写刘和珍的正义感、责任感和反抗精神。
四:“始终微笑着,态度温和”的刘和珍君遇害,而且被反诬。
五:详细记述刘和珍遇害的经过。问:请学生们概括思路。(见前面)关于惨案的意义:
问:谈到意义,一般人只表示肯定,而鲁迅则不是一味地肯定,那么请同学们分别划出表示肯定和不赞同的语句。(见教材)问:请同学们在此基础上概括思路:肯定的同时,指出不足。小结:全文的思路是:
写作缘由--烈士事迹、遇害经过--惨案的意义
布置作业:
1、请学生完成课后练习;
2、背诵二、四部分。第二课时 检查作业:
请同学们回忆文章的总体思路: 理清局部思路: 第一步:把握句意
1、“真的猛士,敢于直面惨淡的人生,敢于正视淋漓的鲜血。这是怎样的哀痛者和幸福者?”“真的猛士,将更奋然而前行。”
含义:A、从思路上说,这里说的是纪念死难者应取的态度,也是生活在黑暗世界的奋斗者理想的人格。
B、“淋漓的鲜血”是“四十个青年的血”。
C、“敢于直面”、“敢于正视”,是思想感情上的飞跃。D、“哀痛者”指他们要承受起超乎寻常的哀痛。
E、“幸福者”,为改变惨淡的人生,创造幸福的人生,所以他们本身也是幸福者。
2、“我懂得衰亡民族之所以默无声息的缘由了。”
含义:A、“缘由”就是反动统治者不但用武力极其凶残地屠杀人民,而且还用文的一手,进行严酷的思想统治。
B、这也是中国历史上反动统治者惯用的手法,屠刀加钳口术,致使老百姓敢怒不敢言,默无声息,衰弱不振。
3、“当三个女子从容辗转于文明人所发明的枪弹的攒射中的时候,这是„„抹杀了。”
含义:A、“伟大”,指三个女子的伟大。
B、“从容辗转”是对当段内容的一个方面的概括,即她们相互救助的情况。C、“妇婴”这里专指女子,再则,她们毕竟年青,在长者眼里还是娃娃。D、“八国联军”指1926年,日本纠合的八国军队。
E、“伟绩”、“武功”是他们自己的夸耀,鲁迅用这两个词,当然是反语。
4、“苟活者在淡红的血色中,„„将更奋然而前行。”
含义:A、“苟活”意为苟且偷生,贬意。“苟活者”是自我贬抑,也说明,鲁迅对自己的解剖确实到了无情的地步。
B、“希望”是由“中国女子的勇毅而来的”。第二步:分析局部思路:
问:请同学们思考各部分的局部思路。明确:(略)小结:
处理课后练习:
布置作业:完成本课《课课练》。
教学后记
这是一篇传统课文,具有永久地价值和魅力,既要学习品人,又要学习品文。鉴于同学们这是第一次接触研究性学习,在大家研究学习的地程中,方法的指导多些,这样的方法指导,在同学们熟悉了研究性学习的特点和流程后,可以删去,这样,可留再多一引起的时间给同学们讨论、思考。这是同学们在高中价段第一次接触鲁迅先生的文章,鲁迅先生的文章不好理解,我对《记念刘和珍君》一文的点拔少之又少,几乎没有,但同学们通过合作探究式的研究性学习,他们不仅理解领悟了,而且理解领悟得很深、很细,挺好。
第五篇:纪念刘和珍君
教材分析:本文是一篇传统课文,具有永久的价值和魅力。要让学生接受鲁迅先生的思想感情的熏陶,感受鲁迅先生刚正的性格、澎湃的激情、高度的正义感和嫉恶如仇的精神。还要学习过去那个年代的学生的社会责任感、勇敢精神。可以联系时代背景,调动学生已有的中国现代史知识,认识三一八惨案的背景、过程、影响,并了解刘和珍等学生的情况,以丰富和深化对课文的感受、理解。语言精辟却难懂,思想厚重却不易把握。
教学设想:据以上分析,可先介绍相关背景,也可调动学生课前了解;再熟读文本,弄清写作思路、文章结构,最后就一些重点句子共同讨论理解,从而达到教学目的。教学目标: A.知识目标
1.掌握“寥落、桀骜、屠戮、喋血、洗涤、浸渍、菲薄、租赁、殒身不恤、长歌当哭”等词语的含义。
2.学会采用勾画、摘录关键词语的方法,抓住作者思想感情发展的脉络,理清全文思路。B.能力目标:
1.提高理解句子含义以及表达作用的能力。2.训练并培养学生理清文章思路的能力 C.情感价值目标:
认识帝国主义、封建军阀及其御用文人的凶残卑劣,学习爱国青年的革命精神
教学重点: 1.整体感知,理清文章思路,把握文章内容。
2.学习文章记叙、议论、抒情融为一体的表达技巧,重点体味作者的思想情感。3.品析文章关键语句的深刻含义。
教学难点:训练并培养学生自行理清文章思路的能力
教法:1.朗读法:通过播放录音,教师范读使学生掌握语句的抑扬顿挫,体味文章的感情基调;学生通过齐读、默读、速读整体感知课文.在阅读中加深理解。
2.讨论法:结合具体文段,给学生设置若干个思考题,指导学生利用文章背景材料、课文下面的注释发表自己的看法,进一步体会鲁迅先生的写作意图。教具:多媒体及课件 课时设计:两课时
课前预习:1.将课文读两遍;
2.整体把握课文的内容,概括每一部分大意; 3.认真阅读注释;
4.找生词难句,自己先试着理解,难以理解的词句,可以与同学讨论。教学过程:第一课时: 课时目标:
1、了解作者、背景等知识;
2、通读文章,辨识读音;
3、弄清文章整体思路。课时教程:
一、导语:在我国文学史上闪耀着一颗璀璨的巨星鲁迅先生,他领着我们回过《故乡》,《从百草园到三味书屋》看了《社戏》,了解了《一件小事》。今天,我们再随着他重温“三•一八”惨案的历史,一起《记念刘和珍君》(板书题目)。
二、介绍背景:
《记念刘和珍君》一文,写于一九二六年四月一日,最初发表在一九二六年四月十二日《语丝》周刊第七十四期上,后由作者编入《华盖集续编》。
1926年3月18日,为抗议日本军舰炮击天津大沽口的侵略行径,北京各界人士和爱国学生五千余人集会在天安前游行示威,会后结队赴段祺瑞执政府请愿。女师大师生是由学生会组织上街的,领队的就是年仅22岁的学生自治会主席刘和珍。行进在队伍前面的还有张静淑、畅德群等,都高举着纸旗,呼喊着口号。当来到铁狮子胡同附近时,段祺瑞执政府命令卫队向清愿队伍开枪射击,并用大刀、铁棍乱砍猛打。打死打伤200余人,刘和珍走在前头,首当其冲,中弹倒下。张静淑和杨德群先后前去搀扶,也相继中弹。这就是震惊中外的“三一八”惨案。
惨案发生的当天,鲁迅先生就写了《无花的蔷薇之二》,称这一天是“民国以来最黑暗的一天”;此后在《死地”》《空谈》等文中,连续猛烈地抨击了中外反动派“诱杀”青年的“禽兽”行为,揭穿“流言家”的谎言,哀悼和歌颂爱国青年。1926年4月1日,鲁迅先生再次写下了忧愤深广、感情浓郁的叙事性悼念杂文《记念刘和珍君》。(学生活动:展示课前收集成果,积极发言)
三、读文章,疏通字词:
1、听朗读,标注音;(学生活动:听、标记)
2、个别字注音:(学生活动:举手回答)寥()落、桀()骜()、屠戮()、喋()血、洗涤()、浸渍()、菲()薄、租赁()、殒()身不恤、长歌当()哭
四、分析文章总体思路
1、学生思考:课文7部分中哪几部分写了刘?(3、4、5部分)(学生活动:思考、举手回答)2、1、2部分在文中的作用是什么?(交代写作缘由)(学生活动:思考、举手回答)3、6、7部分又起什么作用?(揭示这次事件的教训和意义)(学生活动:思考、讨论、举手回答)
4、教师总结:全文思路的起点是本文的写作原由,即为什么要写这篇文章;然后记述刘的生平事迹和遇难经过;再叙事的基础上再深入一步,议论惨案的教训和意义。三者相互交错,始终统一于“记念”这一中心。这就是本文的总体思路。
五、具体分析三大部分的思路
1、分析第一大部分(1-2)的思路
思考:文中是否有提示性的语句?如何理解这句话?作者为什么一再强调?(学生活动:思考、讨论、举手回答)
明确:提示性的话是“写一点东西的必要了”。这句话在文中出现两次。但是这两个“必要”意思完全相同吗?第一“必要”,说的是悼念遇害者刘,奉献作者最大的哀痛和尊敬,控诉段府的暴行,痛斥走狗文人的阴险论调。第二“必要”,在于唤醒“庸人”,用人们牢记这笔血债。两次强调“必要”,突出了写作动机,旗帜鲜明地表达了作者的爱憎。这部分是按照由爱到憎的逻辑顺序安排思路的。
2、分析第二大部分(3、4、5)的思路
思考:是按照怎样的思路布局的?(学生活动:思考、讨论、举手回答)
明确:是按照时间顺序来安排思路的。先回忆与刘的最初相识,再详细叙述遇难的经过。叙述遇难又分两步,从事件概况到遇害细节。
3、分析第三大部分(6、7)的思路
思考后明确:这部分先否定了徒手请愿的做法,然后用“然而”将笔锋一转,肯定了这次死难的意义,鼓励“真的猛士”奋然而前行。可见是按照由否定到肯定的逻辑顺序布局思路的。(学生活动:思考、讨论、举手回答)
六、布置作业
1、反复深情诵读课文
2、阅读鲁迅《风筝》 第二课时:
课时目标:
1、分析刘的形象;
2、重点句子理解;
3、拓展讨论。课时教程:
一、导入新课:
上节课我们理清了文章的思路,把握了文章的内容,同时感受到了鲁迅先生思想的深邃独到。本节课我们一起来继续分析文章。
二、人物分析:刘是怎样的一位青年?(学生活动:思考、讨论、举手回答)
明确:文章没有详细介绍刘的事迹,只是记叙了几次印象。
1、“然而在这样……就有她”。“然而”强调了她与众不同,“生活艰难”说明她“预定全年”需要很大的决心。“毅然”则进一步强调她的勇气。生活虽艰,预定《莽原》——向往革命,渴求真理。
2、“能够不为……反抗……”。不屈势力,反抗校长——富于斗争精神。
3、女师大复校,她“虑及……”。虑及前途,黯然泪下——有思想,有远见,富有责任感。
4、始终微笑,态度温和——和蔼善良。
5、欣然请愿——敢于斗争。是一位热血青年。
三、在分析思路的基础上,理解关键语句的含义(学生活动:思考、讨论、举手回答)许广平曾说:“《记念刘和珍君》这篇文章真是一字一泪,是用血泪写出了心坎里的同声一哭。”下面我们就用心去解读几个句子,用心去感受先生的悲愤之情吧!
1、真的猛士……?
(1)出示投影
必须敢于正视,这才可望敢想、敢说、敢当。(《论睁了眼看》)
叛逆的猛士出于人间;他屹立着,洞见一切已改和现有的废墟和荒坟,记得一切深广和久远的痛苦,正视一切重叠淤积的凝血,深知一切已死,方生,将生和未生。(《淡淡的血痕中》)(2)明确:“真的猛士”指真正勇猛的革命战士。“惨淡的人生”和“淋漓的鲜血”指反动政府制造凶杀的黑暗现实。因此,第一句可以理解成:真正的革命者敢于正视黑暗的现实的。这两句话的含义是:真正的革命者,面对国家和民族的惨淡前途和人民的悲惨命运感到哀痛,他们又为改变黑暗现实、以勇往直前奋斗献身为最大的幸福。
这里,“猛士”性格正是作者对自己提出的要求。作者在这篇文章里,也确实以猛士的姿态“敢于直面”“敢于正视”。
2、惨象……流言……灭亡
(1)出示投影
假如中国还不至于灭亡,则已往的史实示教过我们,将来的事便要大出屠杀者的意料之外——这不是一件事的结束,而是一件事的开头。墨写的谎言,决掩不住血写的事实。血债必须用同物偿还。拖欠得愈久,就要付更大的利息。(《无花的蔷薇之二》)(2)明确:“惨象”指反动军阀的血腥镇压。“流言”指走狗文人的无耻谰言。这两个词回答了“我懂得衰亡民族之所以默无声息的缘由了”。“沉默啊。沉默呵”这是对反动派罪行的愤怒控诉。这里不是赞许“沉默”,而是对中国反动派的高压政策所造成的这种黑暗的沉默现状表示极大的愤慨。从与后面一句联系来看,第一个“沉默啊”感情深沉,感叹的成分较强;第二个“沉默呵”感情较为激越,愤怒的情绪较突出。为唤醒民众,作者在最后指出“沉默”的两种前途:一种是爆发,一种是灭亡。从句式看是选择复句,表明只存在一种可能。表面上看,作者并不肯定哪一种,似乎只客观地指出衰亡民族的两种不同的发展前途,但是实际上暗示,只有“爆发”才是唯一出路,作者肯定的是后者。作者用这一复句,既是对反动派的警告:杀人者别得意,沉默到了极点就将是爆发的时刻,更是对“后死者”的呼唤、激励、鼓动。全句感情高度激昂。
3、解读“当三个女子从容地转辗于文明人所发明的枪弹的攒射中的时候,这是怎样的一个惊心动魄的伟大呵!中国军人的屠戮妇婴的伟绩,八国联军的惩创学生的武功,不幸全被这几缕血痕抹杀了”这段话。
明确:第一句中的“这”指代“三个女子的从容”;第二句中的“这几缕血痕”指的是“三一八”大屠杀。“文明”“伟绩”“武功”部运用了反语的手法。这两句话的意思是赞颂三个女子临危不惧、沉勇友爱的伟大精神,揭露杀人者的罪恶行径,表达了作者万分悲愤的心情。
4.解读“人类的血战前行的历史,正如煤的形成,当时用大量的木材,结果却只是一小块,但请愿是不在其中的,更何况是徒手”这句话。(1)出示投影:
①改革自然常不免于流血,但流血非即等于改革。血的应用,正如金钱一般,吝啬固然是不行的,浪费也大大的失算。②但愿这样的请愿,从此停止就好。
③以血的洪流淹死一个敌人,以同胞的尸体填满一个缺陷,已经是陈腐的话了,从新的、战术的眼光看起来,这是多么大的损失。
(出自《空谈》)
(2)明确:“大量的木材”喻指代价巨大的流血斗争;“其中”指流血斗争。作者用煤的形成来比喻牺牲巨大才换来了社会的一点进步,而请愿何能推动历史的进步呢?可见作者是否定徒手请愿这种斗争方式的。
5.解读“苟活者在淡红的血色中,会依稀看见微茫的希望;真的猛士,将更奋然而前行”这句话。
明确:这个并列复句,十分恰当地评价了“三一八”死难烈士对于将来的意义。尽管,在这“并非人间”的世上活着的,有许多是“苟活者”,但即使是“苟活者”,也将从壮烈的事件中看到一点希望,哪怕是“依稀”“微茫”的;而“真的猛士”将越来越多,先驱者的壮烈精神将激励、鼓舞他们更加勇猛坚定地去斗争、前进。
四、拓展讨论:
1、作者为什么一再说“我实在无话可说”“我说不出话来”“我还有什么话可说呢”?(学生活动:思考、讨论、举手回答)
明确:烈士被杀,无限悲痛,不能不写,很有必要。但是“我已经出离愤怒了”。无话可说,不是真正的无话可说,而是愤怒!反动派的杀害人民的凶残,文人的污蔑和惑众的下劣,令人说不出话来。尤其是后者,“尤使我觉得悲哀”。鲁迅每次触及走狗文人时,都表现出极大的鄙视和愤慨,曾用笔墨形象地描绘过走狗的劣性:“每一个破衣服人走过,叭儿狗就叫起来,其实并非都是主人的意旨和使。叭儿狗往往比它的主人更严厉。”从本文中,也能找出例子:“惨象……流言,尤使我……”同样用了个“尤”字,两次使用,绝非偶然,它反映了作者对奴才走狗的不可遏止的不同寻常的恨。(朗读时,“流言家”“下劣”要重音读出,读得铿锵有力,只有这样n 传达出作者的无比愤慨和仇恨的感情)由此看出,作者因“悲恨”而感到有写的必要,因“恨”而无话可说,“悲”和“恨”两股情感在文章一开始就升腾交织。
2、作者为什么一再写刘“她始终微笑着,态度很温和”?
明确:强调刘的善良可爱,反衬出反动派的凶残和反动文人的下劣。
3、作者起笔不凡。文章写于同年,一般来说记叙同年发生事情是不需要表明年份的,或仅仅说“今年”即可,但是在这里作者为什么要这样写?
明确:以“中华民国”来纪年,这是愤慨的揭露和讽刺。“三•一八”发生说,鲁迅正在写《无花的蔷薇之二》,他当即在这篇文章的后部分,同样大书“中华民国十五年三月十八日”,并称这是“民国以来最黑暗的一天”。/作者对“中华民国”一向是嗤之以鼻的。如1925年在《忽然想到》中说:“我觉得仿佛久没有所谓中华民国……”,在作者看来,所谓“中华民国”早已经不是人民的政府,而是屠杀人民的机器,所谓执政府总统,完全是屠杀人民的刽子手!/因此,作者在文章开篇写“中华民国”具有讽刺意味,我们不难从这庄重严肃的文笔中体会出作者的思想感情。
4、“我独在礼堂外徘徊”表现了作者什么感情?
明确:要理解这话,得首先立即作者在追悼会之前的心情。
3、24早晨,作者得到刘、杨的遗体已经从医院运回学校的消息,便立即到礼堂去看烈士的遗容。从学校回来偶,作者吃不下饭,睡不好觉,就病倒了。
3、25,作者冒着被段政府通缉的危险,出席了追悼会。会上,人们激昂愤慨的情绪和不时夹杂的一阵阵低低的啜泣声,使鲁迅压抑不住心头的悲愤和激动,便走出会场,独自在礼堂外徘徊。/“我……”写出了鲁迅压抑不住的悲愤,把读者引入悲愤的氛围。
5、“我也早觉得有写一点东西的必要了”中“也”字如何理解?
明确:“也”字针对陈君的请求而言,说明写作此文,不仅仅因陈君的请求,更主要是出自“我”本身的意愿,动机远非限于“刘和珍生前就很爱看先生的文章”,而是由于鲁迅和刘既是师生又是同志。对于她的死,鲁迅感到特别悲痛,所以写文是必要的。
6、“真的猛士”(略)、“庸人”、“中国人”、“有恶意的闲人”(略)、“无恶意的闲人”、“苟活者”(略)分别指什么人?
明确:“庸人”者,平庸之人也,平平常常无所作为的人。这种人对反动派的暴行有所不满,对烈士的死难有所哀痛,但是他们不感“直面……正视……”他们特别容易忘却“旧迹”,忘却历史的教训,他们不思反抗,苟且偷生,在客观上起着“维持……世界”的作用。
“中国人”是指反动派,还是指所有的中国人?我们可以联系作者这时期的思想倾向来看。1926年,鲁迅的思想还处于由一个新民主主义者向共产主义者过渡的阶段,一方面,他已经广泛接受了马克思主义的阶级论、辨证法及唯物史观,但是令一方面,进化论、个性解放、改造“国民性”等等资产阶级民主主义思想的影响还没有完全消除,表现在对待人民群众的态度上,往往是过多的看到愚昧、落后、冷漠、软弱、麻木等所谓“劣根性”。因此“不惮以最坏的……”中的“中国人”不仅指反动派,而且包括一般中国人。
“无恶意的闲人”对世界的态度极端地冷漠,他们冷眼观看人生,甚至将烈士的鲜血当作茶余饭后的谈资。对这种人,作者是不抱希望的。
7、第5部分在记叙刘遇难时句式上有何特点?为什么用短句?
明确:极其短促的句式,表现出作者无法控制的激愤之情。
8、“从背部入”说明了什么?为什么突出“其一是手枪”?
明确:刘当时中弹,是“弹从背入”,可见并不是“丛击军警”与军警面对面地搏斗,证明她完全是无辜的,她不是什么“暴徒”,倒是府卫队的卑鄙。
手枪是军官使用的,证明这次屠杀是有人指挥的,事前筹划好的,决不是军警各自的“正当防御”。
这些铁的事实,有力地戳穿了段政府“通电”(造谣这次惨案是李大钊等人“率领暴徒数百人,闯袭国务院,泼灌火油,抛掷炸弹,手枪木棍,丛击军警。各军警正当防御,致互有死伤”)中对死难者所横加的种种罪名。正如《可惨与可笑》等文章中指出的那样……(见书上注释)。
9、第6部分首句“时间……太平”中“太平”如何理解?
明确:本义是社会秩序稳定,人民安居乐业,所谓“太平盛世”。显然文中不是这意思,那么是什么意思呢?(启发学生吟读“我懂得衰亡民族……”)“默无声息”便是对“太平”一词最好的注释,也就是指反动派高压政策所造成的“万马齐喑”的现状,可悲局面。/看来,“三•一八”就像几颗石子投进大海,未能掀起波澜,依旧一潭死水。“太平”一此蕴涵作者多少愤怒与不平,又包含作者多少辛酸的眼泪。
五、全文总结: 《记念刘和珍君》就是这样一曲赞颂“为了中国而死的中国的青年”的悲壮战歌,一支激励仁人志士“更奋然而前行”的深沉号角,一篇声讨反动势力的战斗檄文。全篇洋溢着悲愤炽烈、激动人心的强烈感情。
六、布置作业
1.熟练背诵文章的二、四小节。
2.以回忆与你的亲朋好友共同度过的美好时光为题材,运用记叙、议论、抒情相结合的手法,写一篇700字左右的记叙文。课后反思: