第一篇:福建旅游名景导游词
福建是历史上海上丝绸之路、郑和下西洋的起点,也是海上商贸集散地,和中国其他地方不同,福建沿海的文明是海洋文明,而内地客家地区是农业文明。今天写写帮文库小编为大家带来福建旅游名景导游词。
福建旅游名景导游词篇1
各位游客:你们好!首先请允许我代表旅行社的全体员工对大家前来厦门观光旅游表示热忱的欢迎!
厦门市地处中国东南部、台湾海峡两岸,背靠漳州、泉州平原,面对金门诸岛,是一个风姿绰约的港口及风景旅游城市。全市由厦门岛、鼓浪屿及内陆九龙江北岸沿海部分地区组成,总面积1565平方公里。下辖开元、思明、湖里、鼓浪屿、集美、杏林、同安7个区,人口为131万人。2000年,全市国内生产总值达501亿元,财政总收入达91.5亿元。厦门的地方方言是我国八大方言之一的闽南话。
作为一个旅游城市,厦门城市的总体风格是“城在海上,海在城中”。厦门拥有340平方公里海域面积,海岸线长234公里,其中深水岸线28公里。面积为1.91平方公里的鼓浪屿和面积为133.54平方公里的厦门岛均为海水环绕。厦门岛通过厦门大桥、海沧大桥、集美海堤与岛外大陆相连。厦门与台湾仅一水之隔。厦门角屿距台湾金门岛为1.31海里,厦门港距离台湾高雄港为165海里。
游客们:厦门历史悠久,但作为港口城市崛起才几百年时间。厦门的历史可以用两句话来概括。第一句话是“古同安今厦门”。同安首次设县是在公元282年,距今已有1700多年的历史。同安第二次设县是在公元933年。从行政区划来看,从同安第二次设县到1912年厦门岛及周边诸岛从同安县分出另设思明县为止,厦门岛及周边诸岛都是同安县的组成部分。1935年,国民政府行政院将思明县改为厦门市,厦门市成为福建省设立的第一个市,比省会福州建市早了11年。新中国成立后,厦门市行政区域逐步扩大、升级,同安县被并入厦门市。目前,厦门市是经济特区、副省级城市、计划单列市。
第二句话是“扼台湾之要,为东南之门户”。这句话点出了厦门在我国历史和现实中军事、交通一上的战略地位。作为福建沿海的重要军事据点,明朝政府于1394年在厦门岛修筑了厦门城,并驻兵防守。16世纪下半叶起,厦门不仅成为福建华侨最重要的进出港口,还逐渐代替了泉州的刺桐港和漳州的月港,成为我国东南沿海的重要港口。17世纪中叶,民族英雄郑成功以厦门作为?抗清驱荷复明”的基地,并积极发展海上对外贸易,并收复了祖国宝岛台湾。不久,清朝政府又以厦门为基地,出兵统一台湾。随后,清朝政府在厦门设置台厦兵备道,管理厦门和台湾两地事务,并再厦门设立海关。19世纪中叶中英鸦片战争之后,厦门被辟为五口通商口岸之一。对外经济贸易得到了进一步的发展。
福建旅游名景导游词篇2
各位团友,大家好!
我们现在来到西湖公园,它位于市区西北部,是福州迄今为止保留最完整的一座古典园林,至今有1700多年的历史。据史载,晋太康三年(282年),郡守严高筑子城时凿西湖,引西北诸山之水注此,以灌溉农田,因其地在晋代城垣之西,故称西湖。五代时,闽王王审知扩建城池,将西湖与南湖相接。后其子延钧称帝,在湖滨辟地建水晶宫(在今水关闸附近),造亭、台、楼、榭,在王府与西湖之间又挖设一条复道,便于偕后宫游西湖。西湖成了闽国王朝的御花园。此后渐成游览区。宋淳熙四年(1177年),福州知州兼福建抚使赵汝愚在湖上建澄澜阁,并品题西湖八景:仙桥柳色、大梦松声、古堞斜阳、水晶初月、荷亭唱晚、西禅晓钟、湖心春雨、澄澜曙莺。民国三年(1914年)福建巡按使许世英辟西湖为公园,当时面积仅3.62公顷。新中国成立后,政府多次拨款修缮、扩建,特别是2001年,清淤挖泥,建截污管道,重建、扩建旧景点,经修复后的西湖,真正是“山复整妆,湖复易容”,神采顿开。
西湖现在总面积约45公顷,水面面积约30公顷。它通过柳堤桥、步云桥、玉带桥、飞虹桥,把西湖中的开化屿、谢坪屿与窑角屿连成一个完整的游览景区。整治后的西湖景色愈见秀丽,遐迩闻名。修复及新增的景点有仙桥柳色、紫薇厅、开化寺、宛在堂、更衣亭、诗廊、水榭亭廊、鉴湖亭、湖天竞渡、湖心春雨、金鳞小苑、古堞斜阳、芳沁园、荷亭、桂斋、浚湖纪念碑、盆景园等。
福建旅游名景导游词篇3
各位团友,大家好!首先,我代表旅行社欢迎各位来到福建省省会——福州市旅游观光。我是××旅行社的导游。我姓王,大家叫我小王或王导都行。我旁边这位是我们的司机王师傅,这两天都由我和王师傅为你们服务,我们会尽最大的努力。希望我们的工作能得到各位的大力支持,希望我们的服务,能使您的福州之行留下美好的回忆。
福州是一座拥有2200多年历史的名城。唐开元十三年(725年)设福州都督府始称福州。五代梁开平二年(908年)闽王王审知扩建城池,将风景秀丽的乌山、于山、屏山圈入城内,从此福州成为“山在城中,城在山中”的独特城市。“三山”成了福州的别名。
福州位于福建省东部闽江下游,是全省政治、经济、文化中心。全市总面积11968平方公里,其中市区总面积1043平方公里;总人口48O多万,其中城区人口116万。“因州北有福山”,故名福州,又因900多年前就遍植榕树,“绿阴满城,暑不张盖”,故又有“榕城”的美称。现辖鼓楼、台江、仓山、马尾、晋安五个区和福清、闽侯、罗源、连江、长乐、平潭、闽清、永泰等二市六县。居民以汉族为主,还有畲、满、苗、回等20多个少数民族。福州依山傍海,气候宜人,绿树常青,属暖湿的亚热带季风气候。年平均气温为19.6℃,最冷1月平均气温为10.5℃,最热7月平均气温为28.6℃,年均降水量1 342.5毫米。最佳旅游季节为每年4~11月。市区内有闻名全国的温泉。
各位团友,今天我讲解的内容是福州明清时期古建筑瑰宝——三坊七巷。
三坊七巷地处市中心,东临八一七北路,西靠通湖路,北接杨桥路,南达吉庇巷、光禄坊,占地约40公顷,现居民3678户,人口14000余人。三坊七巷是南后街两旁从北到南依次排列的十条坊巷的简称。三坊是:衣锦坊、文儒坊、光禄坊;七巷是杨桥巷、郎官巷、塔巷、黄巷、安民巷、宫巷、吉庇巷。由于吉庇巷、杨桥巷和光禄坊改建为马路,现在保存的实际只有二坊五巷。即使如此,在这个历史悠久的居民区内,仍然保留着丰富的文物古迹,保存一批名人故居和明清时代的建筑。在这居民区内,坊巷纵横,石板铺地;白墙青瓦,结构严谨;房屋精致,匠艺奇巧,集中体现了闽越古城的民居特色,是闽江文化的荟萃之所,被建筑界喻为一座规模庞大的明清古建筑博物馆。
“三坊七巷”是国家历史文化名城——福州的主要标志,被誉为明清古建筑博物馆。近代诗人陈衍诗云:“谁知五柳孤松客,却住三坊七巷间。”这大约就是“三坊七巷”的由来。
三坊七巷的民风民俗也是福州民风民俗的代表,许多节俗活动常以三坊七巷为中心,它包括民间信仰、岁时节庆活动、建筑物中的民俗等。
“月光光,照池塘;骑竹马,过洪塘;洪塘水深难得渡,等妹撑船来接郎。问郎长,问郎短,问郎几时返?”这是唐朝观察使常衮作的一首民谣。它曾给居住在三坊七巷的几代百姓带来多少童年的回忆。直到现在,特别是老一辈人听到这首琅琅上口的民谣仍激动不已。
三坊七巷,以它近300座的明清民居古建筑物闻名于世。古老的街巷,完整的坊里,配以古河道、古桥梁、古榕树,形成了古朴而富有特色的传统风貌,引起了国内外许多文物考古专家的广泛兴趣,成为游客前来福州的必到之处。可以说,它是“全国少见,江南仅有”。而老家在福州的海外游子,三坊七巷是他们魂牵梦绕、难以忘怀的故园乡土。
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第二篇:西安旅游名迹日语导游词
西安碑林博物館
西安碑林博物館は西安の南城門の東にある三学街にあります。碑林とは石碑が林のように立ち並んでいることから、名づけられたそうです。西安碑林博物館は唐には太学でしたが、宋の時代に西安の孔子廟として建てられました。1950年に陝西省歴史博物館として増築されましたが、新しい陝西歴史博物館の開設とともに、出土文物がそちらへ移されたために、現在、ここは完全に石碑の博物館となりました。碑林博物館は敷き面積が三万平方メートルあまりで、陳列内容が西安碑林と石刻芸術の二つの部分に分けられています。展示されている作品は三千点もあるそうです。中国の伝統的な習慣によれば、門は南向きであるはずなのに、この門はどうして東向きとなっているのか、皆さんはたぶん不思議に思われるかもしれません。それは孔子廟だからなのです。ここだけではなく、すべての孔子廟の門は東西にあります。これは「礼門儀路」と言われ、「礼儀の門」と言う意味だそうです。
東の門を入ると、まず目に入ってくるのは日本の鳥居みたいな建物です。これは中国では「牌楼」と言われるもので、徳望のある人の功績を称えるために造ったものです。最初の門を入ると、東西両側には展示室が続いています。前は真ん中の小道の両側には馬を繋ぐ用の石柱が28個ありました。ここは昔は今の駐車所みたいなところだそうです。
もっと奥のほうへ行きますと、もう一つの門があります。そのもんを入ると、両側にはそれぞれひとつの亭があります。東の亭には大きな鐘が置かれ、唐の景雲年間に造られたもので、「景雲鐘」と呼ばれています。景雲鐘は重さが6トン、鐘の銘は18行、292字、内容も道教の神秘さを称えたもので、唐の睿宗の真筆、文章も睿宗のです。中央ラジオ放送局から放送される「除夜の鐘」はこの景雲鐘の録音だそうです。西の亭にはある石馬は424年に造られた夏の時代のものです。夏は21年しか続かなかったので、この石馬はきわめて珍しいものです。もうちょっと前のほうへ行きますと、碑林のシンボルとなっている石碑が見えます。それは皆さんによく知られている石台孝経です。この石碑は高さ、5.7メートル、四つの石から成り立っていて、碑林博物館の中では一番大きな石碑だと言われています。「孝経」は孔子の弟子の曾参と言う人が書かれた親孝行についての本です。唐の玄宗皇帝が孝経を注釈し、序を寄せ、隷書で書いたもので、自ら「孝」と言う思想で国を治めたいということを表しています。碑額の題字は皇太子・李享の書だそうです。
これから石碑の展示室をご案内します。あわせて七つもありますが、それぞれ大きさも内容も違っています。展示の石碑は漢の時代から清の時代までの各時代の代表作が揃っています。石碑には歴史実録や、仏教、古代の名作などが刻まれています。
第1陳列室には、「開成石経」が収められています。それは唐の文宗の開成2年に長安城の国子監、つまり皇族、貴族の子弟の教育機関・太学に立てられました。これは、封建社会の知識人の必ず読書・学の経典12経の全文65万252字を114の石碑の両面に彫ったもので、清代に「孟子」3万余字が17面に彫り加えられ、あわせて13経68万字余となりました。学の経典には「周易」「尚書」「詩経」「周礼」「儀礼」「礼記」「春秋左氏伝」「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」「論語」「孝経」「爾雅」など12経が含まれています。「開成石経」わが国における唯一完全保存されている石刻経典です。
第2陳列室に展示されているのは唐代の有名な書道家が書いた石碑です。後世の書法の手本となったものばかりです。初唐の欧陽 が書いた「皇帝誕碑」、その息子の欧陽通の「道因法師碑」顔真卿の書「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。
第3陳列室には歴代の各種の書体があります。篆書、隷書、楷書、行書、草書の五つの書体が含まれています。これらの石碑を通じて、中国文字の変遷が分かっていただけます。「偏旁部首字源表」は『説文』の中の部首で、偏旁540が篆書で書かれ、楷書で注釈をついています。宋の時代の夢英という和尚の書です。また、「千金文」「大観聖作之碑」などが保存されています。第4陳列室には、主に歴史を記録している有名な石碑が展示されています。これらの石碑は明・清時代の苦しい生活と陝西省の人民が奮起し抵抗した反抗の歴史を表しています。第5陳列室には宋、元、明、清の各時代の寺院の改修記録、功労の記録、橋や城壁改修の記録や詩文など、当時の地方史研究における貴重な資料があります。第6陳列室には、元明清の各時代の詩文の石碑があります。第7陳列室は、1982年建てられたもので、「宋淳化秘閣帖」を専門に保存しています。全部で10巻ですが、前の5巻は歴代帝王と名臣、有名な書家の楷書、草書、と古書各体で、後の五巻は王羲之と王献之の草書です。
石刻陳列館は1963年に建てられたもので、先生省各地に散在していた前漢時代から唐代までの作品70点余を集め、墓石と宗教石刻に大別し、年代順に並べました。陳列室には石棺、仏像、石刻の動物などの貴重なものが集められています。漢、唐の石刻は質量とも抜群で、中国彫刻史上飛びぬけて高い地位に立っています。中国における石刻芸術の起源を示す貴重な資料となります。
簡単ですが、以上は碑林博物館にいての説明です。ご静聴,どうもありがとうございました。
大雁塔
大雁塔は西安の南の郊外にある「大慈恩寺」の境内にあります。「大慈恩寺」は648年に唐の高宗・李冶がその亡くなった母親の冥福を祈り、慈恩を報いるために建立したお寺です。当時の「大慈恩寺」は僧侶部屋が千八百九十七室で、僧侶三百人が住んでいたが、唐代の末期の戦火のために焼き払われてしまったので、今大きさはそのときの十分の一に過ぎません。現在の境内のある建物は大雁塔だけが唐のもので、後はほとんど明や清の時代の造りなおしたものです。さて大雁塔が建てられた由縁は何でしょうか。皆さん中国の古典名作の「西遊記」をお読みになったと思いますが、その中の主人公の玄奘三蔵法師ははるばるインドへから持ち帰った経典をここで翻訳したのです。大雁塔はその貴重な経典を保存するために当時このお寺の住職さんだった玄奘三蔵法師の提案と皇帝の援助によって652年に境内の西院に建てたものです。「大慈恩寺」の中にあるので、「大慈恩塔」とも呼ばれています。皆さんご存知のように「大雁塔」の本名は「慈恩寺塔」ですが、なぜ今の「大雁塔」という名前に変わったのですか。それについては二つの言い方があります。その一ですが、『慈恩寺三蔵法師伝・巻三』にマガダ国に寺があり、ある日、雁が群れを成して、空中を飛びすぎたが、突然その中の一羽が地に落ちて死んだ。僧侶たちはこれに驚き、それを菩薩だと思い、衆議の末、雁を埋め塔を建てようと決めたと記されています。このことからこの塔を大雁塔と呼ぶようになったと伝えられています。もう一つの言い伝えですが、仏教には大乗教と小乗教がありますが、大乗教は肉を食べてはいけないことですが、小乗教は食べても構わないことになっているそです。そのころのインドで、ある日小乗教の僧侶たちが肉の無いことに悩んでいる時、、誰か一人が“今日はお釈迦様が貧しい人に施しをする日だ”と思い出した。そこで、皆で「お釈迦様、お助けください。」と唱えました。そのとたん、一羽の雁が彼らの目前に落ちてきました。これを見て、僧侶たちはびっくりして、まさか彼らの食欲を満たすためにお釈迦様が自分の身を捨てて、雁に変身されたではないかと悟りました。お釈迦様が私たちのために自分の身も捨てましたが、私たちもお釈迦様のために何かしないといけないと思って大乗教を信じ、肉を食べないことにしました。そして、その雁の落ちたところに、「雁塔」を建て、お釈迦様の慈悲の心を後代に伝えようということです。以上はいずれも美しい伝説ですが、資料によりますと、唐のこの大雁塔が玄奘三蔵法師がインドの雁塔に基づいて設計したものなので、「雁塔」と名づけられたそうです。その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられましたが、これは小さかったので、「小雁塔」と呼ばれ、「大慈恩寺」の「雁塔」を「大雁塔」と呼ばれるようになったのです。
先ほど申しました玄奘三蔵法師が日本人の中でも馴染み深いの高僧ですが、彼は629年に27歳のとき、皇帝の許可ももらわずに一人で長安を立ち西へのたびを始めました。シルクロードを通って、西域百二十カ国を歴訪し、インドでの遊学を終えて、16年後の657年に彼は115粒の仏舎利、八体の仏像と657部の経典とともに長安に帰り着き、持ち帰った経典はこの寺で十二年間にかけて翻訳されました。唐代は仏教のとても盛んな時代でしたから、仏教に力を尽くした玄奘法師も非常に人望がありました。彼の功績を称えるために、唐の高宗と太宗はそれぞれ絶賛と感謝の意を込めた文章を書かれました。この文章は唐の有名な書道家・ちょ遂良によって石碑に刻まれ、今も大雁塔の上に保存されています。彼が著した『大唐西域記』は後世の人々に西域諸国研究、特にヨーロッパの考古学調査
研究に対して、欠かせない貴重な資料となっているものです。いわば、『世界考古案内・天竺篇』と言ったところでしょう。前にご案内したように大慈恩寺の中の建物は大雁塔を除いて、大体は明清のものです。中の鐘楼と鼓楼はお寺に住んでいる僧侶たちに時刻を知らせるために造られたものです。お寺には二つの建物がありますが、一つは「大雄宝殿」と呼ばれ、その中にはお釈迦様の三身佛が祭られております。もう一つは法堂という建物で、その中には阿弥陀仏の像が祭られています。特に法堂の東の壁には玄奘三蔵法師が昼も夜も休まずに歩き続けてインドから帰国するときの拓本が掛けてあります。この拓本を見たら玄奘が一生懸命仏教にしたありさまを偲んでいただけると思います。法堂を通って、大雁塔の真下に着きます。史書によりますと、大雁塔は最初に煉瓦で外側を固められた五重の正方形の建物でしたが、則天武后の長安年間に大改造を行ったので、十層になりました。しかし、その後の戦乱などで七層から上が崩壊し、残った七層をレンガで表を固めて修復し手、今の姿になったのです。現在の塔は高さが64メートルで、中には螺旋状の階段が付いており、一番上まで登って頂いたら、西安のきれいな町風景が見られます。大雁塔にはすでに千三百年の歴史があり、その間震度七級以上の地震に二度見舞われていますが、無我氏の雄姿をそのままに見せています。
大雁塔と同じ毎日数多くの国内外の観光客を迎え、その大唐の雄姿を見せています。
華清池
華清池は西安の東にある驪山の麓にある観光地です。ここは都にも近いし、温泉も沸いているから昔から皇族たちの行楽地として栄えてきたのです。
ここで、温泉に入ったりして行楽を始めたのが今から3000年ほど前の西の周――西周時代の国王・周幽王でした。しかし、当時はまだ宮殿などの建物がなく、お風呂も「露天」の状態で、星が見えていたので、「星辰湯」と呼ばれていました。これが華清地の初めての名称でした。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の愛情物語は誰でも知っているでしょう。そのラブストーリの舞台はここ華清池でした。
華清池は西、中、東の三つの部分からなっています。九つの龍の池――九龍池を中心とした西の部分は20世紀の50年代に再建されたのです。
九龍池は面積5300㎡で、九龍という堤防に分けられ、上下二つの部分になっています。一つの大きいな龍と八つの小さいな龍の頭が造られ、水が龍の口から池へと流れ込んでいます。これが、九龍池の名称の由縁でもあります。九龍池の北には、「飛霜殿」を中心とした建築群があります。それは玄宗皇帝と楊貴妃の寝殿――と言われています。両側にあるのは「沈香殿」、「宜春殿」です。
1982年4月、ここで建築工事を始めたところ、華清宮御湯遺跡が発見されたのです。後の考古学発掘では、4200㎡に及ぶ範囲内において、星辰湯、蓮花湯、海棠湯、太子湯、それに尚食湯という五つの温泉風呂があったことが判明しました。1990年10月に「華清宮御湯遺跡博物館」がオープンしました。
蓮花湯は皇帝専用で、蓮の花の形をしています。
海棠湯は楊貴妃の専用のものだから、貴妃池ともいいます。また満開した海棠の花のような形もしているから、どこからとなく女性らしさが漂っています。
太子湯は文字通り太子が入浴する場所で、尚食湯は大臣など皇族以外の人が使うお風呂です。星辰湯はいわば露天風呂のことであるが、唐の時代から使い始めたものではありません。
現在、温泉の泉は四つあり、一時間あたり112トンのお湯が湧き出ています。
昔からここの温泉が皮膚病やリュウマチには治療効果があることに気づき、利用してきました。
望湖楼の北側には蓮池があります。池の中に造られている高殿も「蓮花閣」と呼ばれてきました。「蓮花閣」の南西にある建物は「飛霜殿」です。また、楊貴妃が温泉からあがるたびにここで髪の毛を乾かしていたと伝えられきました。
秦の始皇帝陵
秦の始皇帝陵は、西安市の東に臨潼という町から東へ5キロ行った所に位置しています。2200年ほど前に造られた秦の始皇帝陵は長年風雨にさらされ、地上の建築などほとんどなくなってしまったが、関中平野を見下ろすその威容はいまだに始皇帝の栄光と威厳を物語っています。秦の始皇帝陵は中国史上初めての皇帝の陵であり、世界おいても最大級のものです。また、これに埋められている珍しい文物はいったいどれほどあるかは計り知れなくて、いまだに未知数のままです。
秦の始皇帝陵を見学するに当たって、まず秦の始皇帝はどういう人物かを知っておく必要があるでしょう。秦の始皇帝姓は名は嬴政で、紀元前259年に生まれ、13歳で国王になりました。しかし、10年後22歳で自ら政務を執り始めたのです。実権を手にした秦の始皇帝は改革を断行することによって、国力を急速に強め、10年というわりと短い期間で、他の六つの国を滅ぼして中国全土統一という快挙を成し遂げ、自ら始ての皇帝――始皇帝と称しました。紀元前210年7月、地方視察の途中で倒れてしまい、50歳で亡くなりました。
秦の始皇帝は傲慢で、決断力があり、権力闘争に長じていると同時に非常に冷酷的で残忍でした。一方、秦の始皇帝が歴史上最も勤勉な皇帝の一人です。秦の始皇帝に対する評価は昔から分かれており、今でも論争の対象となっています。しかし、これだけは弁論の余地のない事実でしょう。彼は中国歴史の進行に極めて重大な影響を与えた人物であり、2000年も続いていた中央集権政治の創始者で、史上始めての皇帝です。
秦の始皇帝陵の平面図はほぼ正方形しています。底辺の長さは、南北350m、東西は345mです。もちろん、この数字は現存の陵墓のものであるから、当初はもっと大きかったにちがいません。
秦の始皇帝陵は、実は敷地面積が200万㎡を超えた巨大な霊園でした。漢字の回数の「回」という形をしている二重の城壁がありました。城壁の東西南北にはそれぞれ城門が一つずつ、四つの曲がり角には「角楼」という建物が造られていました。当時天下無敵の秦の軍隊がこの城壁で物々しく警備していたでしょう。
内側の城壁に囲まれていた部分は内のお城――「内城」といいます。内城の中心は言うまでもなくし皇帝の陵墓です。秦の始皇帝は、狭い寝殿が天下始ての皇帝という身分にはふさわしくないと思ったでしょう。
内側の北側では寝殿遺跡のほか、「便殿」という格式のランクが一つ低い宮殿の遺跡も発見されています。
では、秦の始皇帝がなぜ国を挙げて陵墓を造ったのでしょうか。それは昔中国では、「死ぬ」とはもう一つの世界に旅たつことであり、「死んだ後」でもあの世で暮らしをすることができると考えられていました。秦の始皇帝陵はあの世における秦の都であるといえるかもしれません。
兵馬俑
兵馬俑は秦の始皇帝陵から東へ1.5キロのところにあり、1987年、ユネスコによって世界文化遺産に指定されたのです。皆様のご存知のように、兵馬俑は秦の始皇帝が自分の陵墓の東に造った大規模な「軍隊」です。それを造った目的は何だったでしょう。「死後の世界」を固く信じていた秦の始皇帝は自分の陵墓を「地下の都」のように造り、あの世でも皇帝をやり続けたいと思っていました。
兵馬俑を保存して、展示するため、遺跡の発見された現場に「秦の始皇帝陵兵馬俑博物館」が造られています。これは中国における最大級の遺跡博物館であり、一号館、二号館、三号館と言う三つの遺跡現場展示室と、出土文物展示室や秦の始皇帝陵銅車馬展示室など、五つの部分からなっています。
秦の兵馬俑の発見は偶然とも言えるでしょう。1974年、西安一帯は激しい日照りになりました。干害に悩まされていた地元の農民たちが井戸を掘りました。工事を始めた農民が3Mほどの深さまで、掘ったときに、まず焼かれた土がそれから炭や灰が次から次へと出てきました。ちょっと不思議に思った彼らは昔の煉瓦を作る窯元に出会ったと思い、井戸を掘り続けていました。ところが、5mの深さまで行くと、今度は西側の壁から人間の顔をしている埴輪の破片が現れてきました。時は1974年3月29日のことでした。秦の兵馬俑がこのようにして見つかったのです。この大発見を記念するため、一号館には農民たちが掘った井戸も遺跡として保存されています。パッチファイルセット
さいきん
秦の始皇帝陵については「史記」や「漢書かんしょ」などの史書ししょがその記録を残しているが秦の兵馬俑については何の記録もありません。そのため、兵馬俑坑の正確な建造年代がわからないです。しかし、兵馬俑坑から出ている煉瓦から手がかりをつかむことができるでしょう。兵馬俑坑の地面が大量の煉瓦によって舗装されています。これらの煉瓦の製造元はいずれも秦の始皇帝が中国統一した後の宮廷専属の窯元ですから、兵馬俑坑の工事が中国統一してからのことであると考えられます。もし、兵馬俑坑の工事が中国統一したの紀元前221年から始まって、農民蜂起が全国に広まった年の紀元前209年に終わったとすると、およそ10年間続いていたことになります。
兵馬俑坑は発見された順序に一号坑、二号坑、三号坑と名づけました。今、皆様がご覧になっているのは一号坑です。
一号館は秦の始皇帝兵馬俑博物館最初の建物で、1979年10月1日の国慶節に博物館は正式に開館しました。東西210m、南北62mの長方形をしているもので、発見された三つの俑坑の中では規模の最も大きい遺跡です。地面から4.5m~6.5mの深さに1000あまりの兵隊の埴輪が立っています。戦闘馬車8台と馬の埴輪32体も出土しています。九つの行列になっています。現在、ここの発掘はまだ継続中なので、埴輪の数が正確には分からないが、今までの調査結果から推定すると、たぶん6千体くらいあるだろうと思われます。線を引くかれる
一号館の兵馬俑は、歩兵ほへいを中心とした主力部隊です。その役割から見ると、先頭部隊や主力部隊、それから側面部隊や後衛部隊に分けられます。戦闘部隊は文字通り一番先のほうにあります。秦の兵馬俑は当時の軍隊をモデルにして造られたものだから、軍の階級なども埴輪はにわからはっきり判断できます。階級の一番低い兵士は、髪の毛を高く束ねて、短い戦闘服を着、鎧よろい(铠甲)を着けず、ゲートルを巻いています(扎裹腿)。これより階級ちょっと高い兵士は、髪の毛を高く束ねたばね、小さい丸い帽子をかぶり、長い戦闘服を着て、黒の長い鎧をつけています。最も目立つのは何いっても将軍俑です。将軍は、先端が巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためのリボンが顎の下で丁寧に結ばれ、胸まで格好よく垂らされています。また、鎧も独特な形をして両肩と胸のところでリボンによって結ばれています。
次に、入るのは二号館です。二号館の兵馬俑はの遺跡はゕルフゔベットの「w」の形をしており、東西最も広い所の幅は96mで、南北は84mです。四つのブロックに分けられています。弓を持っている努兵、戦闘馬車、歩兵、騎兵からなっています。この陣立ての形は攻めることも守ることも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい場所がありません。二号館の建物は秦の始皇帝兵馬俑博物館における最も近代的な建物で、1994年竣工し、オープンしたのです。
1987にオープンした三号館で展示されている兵馬俑は1976年に発見されたものです。三つの兵馬俑坑の中で、唯一発掘が完成したのが三号館のほうです。三号館の兵馬俑坑が東西が17.6m、南北が21.4mで、規模としても一番小さいほうです。
ここからは馬車1台、馬の埴輪4体、武士の埴輪68体、それに34点の青銅製兵器が出土されています。専門家たちは三号館の遺跡は宿衛軍全体の統帥する司令部であると推定しています。一号館、二号館の兵馬俑坑はみな激しく焼かれた痕跡あります。これは項羽が咸陽に入って阿房宮とともに焼いたのではないかと推測されています。しかし、不思議なのはこれと違って三号館の兵馬俑坑が焼かれた痕跡はまったくありません。そのおかげで、ここの兵馬俑が出土されたとき、皆鮮やかな色彩が着いたままでした。残念なのはこれらの色を保存する技術が無く埴輪が出土してから三日ほど経つと、水分が蒸発して色が全部落ちてしまったのです。
1980年12月、秦の始皇帝をさらに掘り進めて見ると、陵の西側20mのところから、副葬の銅製の馬車が二台発見されました。大きさは実物の二分の一です。始皇帝は皇帝になってから5回全国を巡視したが、その時使用した乗り物はこのような銅車馬であったことだろうと伝えられています。
1号車は先導車で、「高車」と呼ばれます。車体は長方形です。御者は、馬の手綱を手にし、前方を望んで立っています。腰には剣、頭に冠をかぶっています。車の中には鏃、弓、盾などがあります。ここに装備されるものから、この1号車は2号車の安全を守る護衛の車だということが分かります。車体には傘がついており、鍵で開いたり、閉じたりできます。二号車は「安車」と呼ばれ、壁によって、前の御車席と後ろの主人席の二つの部分に分けられています。車体には、小さいな窓が三つあり、温度によって開閉する自動式です。扉はハンドルであけるようにしていますので、現在の自動車のドゕと同じ仕掛けなのです。銅車馬は大きさが実物の二分の一ですが、実物の車や馬、人物をモデルにして、製作されたものなので、まったく実物の馬車と同じです。馬も御者も生き生きとしています。銅車馬は3400点の部品から組み立てられています。構造が複雑で、細工は精巧を極めています。車体には、金銀のメッキが施され、車体の彩色画も色鮮やかで、上には四角形、雲、龍、鳳凰などが浮き彫りにされています。2号車の屋根の面積は2.3㎡で、青銅で一度鋳造されて最も薄い所で1cmで、厚い所でも4cmです。車馬の装飾に使われている銅線は、直径0.5ミリから1ミリほどしかないです。これで当時の伸線技術がたかったことが
分かるが、いったい、どのようにして太い銅線を細くしたのか、まったくの謎です。銅馬で注目されるのは、金銀の飾り物です。金は747点、銀は847点ありますが、特に、金銀だんだらの管の環は、どのようにして溶接されたものか、想像がつきません。金銀は溶解点が異なるので、当時の溶接、冶金技術の高度さが注目されるわけです。銅車馬は中国における最も大きな青銅器としてますます世界に広く知られるようになっていくでしょう。
陝西歴史博物館
皆様、今日見学のは陝西歴史博物館です。陝西歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の国立歴史博物館です。皆様のご存知のように、陝西省は都として1100年の歴史があり、また、周、秦、漢、唐のような繁栄していた時代でした。ですから、陝西の歴史はある程度中国の歴史を演じています。
館内に入って、まず目につくのは、大きな石の獅子ですが、これは則天武后の母親の墓・順陵の獅子の模造品です。
第1展示室は、約115万年前の旧石器時代、藍田猿人から始っています。藍田猿人は西安市東南の藍田県から出土しました。西安市東郊外の半坂村から発見された半坂遺跡は、仰韶文化の村落遺跡です。約6000年くらい前のものと推定されています。その集落が居住区、製陶区、埋葬区などに分かれていることです。彼ら、は農耕作業をし、家畜を養い、魚を釣り、弓矢で獣を捉えるなど、生産のための道具を駆使しています。陶器は、彩りの鮮やかな彩色陶器です。半坂人は、母系会社です。獣の骨で、こしらえたネックレス、そして、ブレスレット。また、人面魚紋を始とする美しい陶器の模様。
今から約5000年ほど前の龍山文化は、新石器時代の晩期に当たり、父系社会の始まりでした。この時代において、男性は女性に代わって社会の中心となり、支配地位を占めるようになりました。
ここに展示されているのは、旧石器時代や新石器時代の代表的な文物で、先史時代の人々の生活ぶりを現しています。
周の時代は、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時代なので、「青銅器時代」とされています。青銅器は、銅や錫との合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになりました。博物館に展示されている青銅器は祭礼の楽器、生産、生活用具、実戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文内容の重要さなど、世界美術史上も貴重なものです。陝西省から出土した青銅器は全部で3000点あまりで、そのうちの2000点あまりがこの博物館に保存されています。青銅器のほかに、鉄製農具の使用によって農業生産力が増大し商工業が発達したこともこの時代の特徴なのです。
この展示室では、秦の足跡を展示しています。春秋戦国時代の秦の都は、雍(現在の風翔県の南)でした。秦は、戦国時代末期(前221年)6国を制覇して、中国最初の封建統一国家です。時の秦王・嬴政は自ら始皇帝と号し、郡県制、通貨統
一、度量衡統
一、文字統
一、法令統一を始、車の轍まで統一すると言う、徹底した法治主義を貫き、思想言論にも、弾圧を加えました。
展示品の中には、雍城の遺跡や咸陽の宮殿遺跡から発掘した瓦、煉瓦などの建築材料をはじめ、鉄や青銅の生産用具、武器などが並んでいます。始皇帝の事業の一つ、通貨の統一をあげることができるが、当時の貨幤関係の資料も展示されています。
秦が滅亡してから、西暦前202年、漢王朝の時代となりました。漢代の都・長安城は中国の歴史における初めての国際的大都会で、当時、ローマ帝国の都・古ローマより2倍ぐらい広かったと言われます。ここに展示されている陶製の水道管は、漢の長安城遺跡からの出土品で、現在我々が使っている水道管とよく似ています。そこから、当時の長安城はすでに立派な排水システムを用いたことが分かります。紙の発明はかなり古く、西安・灞橋の漢墓などからも、植物織維で造った紙が発見されていますが、さらに、良質の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。漢の第7代皇帝・武帝の時に開かれたシルクロードは、東西文化交流のかけ橋としてよく知られています。シルクロードを通じて中国から、絹、漆器、鉄器の作り方や井戸の掘り方などが西方に伝えられ、西域、中央ゕジゕからは、ザクロ、ブドウ、胡桃、蚕豆、香料、宝石などが大量に入ってきました。
西暦220年から581年にかけてのこの時期は、強力な中央政権を欠き、王朝の交替がしきりであって、社会的な混乱に明け暮れた時代でした。220年から280年にかけては三国時代でした。263年、蜀は魏に滅ぼされ、ついで魏と呉は晋に滅ぼされて三国時代は終わりました。戦乱に苦しむ庶民の解脱願望によって、仏教は大幅に広め、大変盛んになり、したがって、陝西省からこの時期の石窟、仏像などが数多く発見されたのです。ここにある仏像はいずれも傑作です。
隋は、589年の成立です。隋は短命で、わずか2代38年で、滅びます。李淵が子の李世民に勧められて挙兵、長安を占領し、618年に唐を建国し、初代皇帝・高祖となりました。唐は引き続いて、長安城を完成しました。日本の古代都市平城京や平安京はもともとこの長安城をモデルとして、造営されたといわれています。しかし、その規模を比較すると、長安城は平城京の約4倍、平安京の約4倍の広があり、都長安は唐の盛時には人口100万、世界最大の都市として繁栄しました。
隋・唐展示室では、金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など当時の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。特に、1970年に西安南郊外から発見された大量の金銀器具は唐代の絢爛ぶりを示すものです。中でも、五足の銀の透かし彫の薫炉は、実用品でありながら、極めて芸術性の高いものになっています。
法門寺から出土した大量の唐代の宝物も陳列されています。これらの金や銀の細工物は、精巧、華麗で、思わず嘆声が洩れるほどです。唐三彩は、西安、洛陽一帯に分布していますが、出土数が大変少なく、大変珍しいものです。陳列されている馬、駱駝、宮女、各種生活用品など、題材も豊富です。工芸水準も大変高いものです。葬式の行列に使う冥器などでも、工芸水準は大変高いものです。
宋元明清の時代は、政治、経済、文化の中心が東に移りましたが、陝西地方は重要な軍事地区であり、西北地方の政治、軍事、経済、文化の中心でした。
展示品の中では、宋の磁器が注目されます。上薬は青が主で、蓮花の紋様が最も多く、そのほかに、牡丹、鶴、鳳凰、魚、鴨などもあります。
皆様、陝西歴史博物館の解説はこれで、終わりました。ご静聴ありがとうございました。
第三篇:福建福建金门县导游词
金门县,历史上属泉州所辖。旧名浯洲,又称仙洲、浯岛、沧浯、浯江、浯海。古为荒岛,晋元帝建武年(265),中原发生五胡乱华,原居中原的苏、陈、吴、蔡、吕、颜等六姓民众,不甘受异族的统治,于是搬迁于此,这是金门最早有民众定居的记载。……1937年被日军侵占,1945年光复。金门本岛沦陷后,县政府迁大嶝乡。1949年,大、小嶝岛及角屿解放后,成立大嶝区,由南安县代管。1955年,成立金门县人民政府。1970年,大嶝公社归同安县管辖。1985年地市合并,金门县归属泉州市。现金门县由台湾当局暂时管辖。现辖有金城镇、金沙镇、金湖镇、金宁乡、烈屿乡等。
历史沿革
金门,旧名浯洲,又名仙洲、浯江、沧浯等。
明洪武二十年(1387年),明太祖朱元璋派江夏侯周德兴经略福建,防御倭寇侵犯。周德兴在福建沿海筑五卫十二所,以加强海防,金门守御千户所,此其一也。因与厦门共扼福建东南海口,有“固若金汤,雄镇海门”之称,故取名为“金门”。
明末,郑成功以金厦为基地,抗清复台,行政中心设在厦门,军事大本营设在金门。南明永历十八年(清康熙三年,1664年),清兵攻占金厦,实行迁界政策,把人民迁到距海30里外,金门成废墟。康熙十三年至十八年(1674-1679年),金门复为郑成功所踞,此时郑氏政权中心仍在台湾,金门成为双方拉锯作战的突出部。
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清康熙十九年(1680年),清兵入金门岛后,仍沿袭旧制,隶属于同安。乾隆四十一年(1776年),金门通判移马巷,其时,金门的都增至六个(十五至二十都),并辖有大嶝、小嶝、刘浦、仓湖、后浦、烈屿六个保。1914年,废除清制,厦门成立思明县,金门隶属思明县,派分治员驻金门。
1915年,金门按原有四岛置县,名金门县,归厦门道管辖。
新中国成立后,金门列入泉州区划内。气温气候
金门四面临海,风力强大无阻。每年9月中旬起,东北季风渐强,海面风浪较大,至翌年4月风力转弱,5月至8月为西南风,年平均风速为每秒3.5米以上。
因丘陵起伏,雨量不均,金门年平均雨量为990毫米,4-9月为雨季。
第四篇:福建金门县导游词
金门历史悠久,古称“仙洲”或“浯洲”,自古有“海上仙洲”、“桃源胜景”之美称。岛上古有珠江夜月、丰莲积翠、啸卧云楼和仙阴瀑布等八景;今有太武雄峰、玉柱擎天、汉影 金门县
云根和金汤剑气、榕园绿阴、龙山瑞霭等24景。而登临太武山颠或伫立于马山之顶。又可远眺对岸的厦门。
金门通行闽南语,腔调近于同安腔,也是一种漳、泉混合口音(偏泉腔)。
金门岛面积150多平方公里。金门岛形如锭,东西长约20公里,南北最长处约15.5公里,中部狭窄处仅3公里,太武山雄踞东部,海拔253公尺。金门西面环海,环岛多港湾口岸,可停泊船艇者计30余处,潮高水深。
金门与厦门、同安遥遥相对,纬度相同,均属亚热带海洋性气候。全年降雨多集中于四至八月,台风多生于七、八月,全年风向东风占8个月,每年五至八月为东南风及南风。
由于花岗片麻岩是构成金门岛的基岩,岛上土壤概以砂土及 裸露红壤土为代表。前者沙层厚、保水保肥力均差;后者表土薄、酸性重,腐植质少,皆不宜耕作,故岛上农作仅宜价值较低之耐旱性杂粮:如高粱、玉米、花生、蕃薯。
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第五篇:福建水帘洞导游词
朋友,大家好。今天,我带各位游览水帘洞及其附近的几个景点,就是;一洞,水帘洞;一峰,莲花峰;一寨,刘官寨;三块石头,青狮岩、龙峰岩和碧石岩。各位朋友,我们继续往前走。左边就是青狮岩。它像一只蹲着的狮子,十分威武。由于青狮岩远离景区中心,一直到明嘉靖年间(公元1522-1566年),才被一个叫范子虚的人发现。范于虚十分留恋这个地方,不肯离开,在这里隐居40多年。岩壁上有几段残垣,就是当年的狮岩旧址。西面有一个数十米宽的石坪,叫月台。据说,每当月明之夜,嗜酒如命的范隐士,就在这里举杯饮酒,自得其乐。东面钓台下面有个虚灵洞,洞内可装几十人。洞旁有个孔,像天然的窗户,探头下看,但见云烟袅袅,深不可测,仿佛处在空中楼阁。据《武夷山志》记载,原来岩上有先春园、桃花林和来禽坞等几处胜景,可惜今天都已废弃。朋友,眼前看到的这股清泉,穿石而过,形成九口一串的天然水井。一井汲水,九井波动,饶有情趣,这就是所谓的九星泉。大家抬头看,上面有一块岩石,岩因泉名,又叫九井岩。我们沿着九井岩前的山路继续前行,但见石关、石垣横立,这就是南宋时崇安五夫名人刘衡、刘甫父子屯兵的地方,故名刘官寨。刘官寨北面石壁皑皑,长数十米,名为白崖。宋代崇安高士赵泌涟兄弟曾隐居此处。白崖南面,与三仰峰相连的俗称长岭,为古时候崇安、邵武的交通要道。南面田庐当中有一个洞,犹如世外桃源,唐末扣冰和尚曾隐居洞中。朋友们,请大家抬头看,在白崖附近有一座山峰,四周松竹苍翠,环境清丽,像一朵盛开的莲花,故名莲花峰。上面一排排岩洞,就是武夷山红层地貌中典型的层面岩洞。岩洞中有一个莲花寺,山高路险,崎岖难行,很少有人能爬上去。继续往前走,前面这座山叫做龙峰岩。龙峰岩是武夷山北部最大的一座峰峦。这块巨石如舌头上翘,叫做龙舌。路窄难行,悬崖峭壁,大家要走好。龙舌上面是龙头,翻上龙头,就走到龙脊,这里古木参天,修竹青翠。小路的尽头是几间就崖叠架的房子,幽雅别致,这是神仙居住的好地方。在座的是否有人愿意留下来修炼成仙?从龙峰岩往西走几里路,有一座隐藏在绿树丛中的山岩,名叫碧石岩。岩上有一座建筑精巧的寺院,很破旧,但门额上“碧石精舍”四个字,仍清晰可见。朋友,今天我们在武夷山北部的游览就全部结束了,谢谢大家的配合!
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