新年贺词学习心得感想文集(5篇模版)

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第一篇:新年贺词学习心得感想文集

新年贺词学习心得感想文集

【导语】学习作为一种获取知识交流情感的方式,已经成为人们日常生活中不可缺少的一项重要内容,尤其是在二十一世纪这个知识经济时代,自主学习已是人们不断满足自身需要、充实原有知识结构,获取有价值的信息,并取得成功的法宝。今天东星资源网为各位搜集整理了新年贺词学习心得感想文集,供您查阅。

【篇一】新年贺词学习心得感想文集

岁月不居、时节如流。转眼之间就到了2020年底,回顾一年来,我们既经历了疫情防控、特大洪涝灾害的万千风险,也经历了嫦娥探月、“奋斗”潜底的万千豪情;既答好了脱贫攻坚“必答题”,也答好了疫情汛情的“加试题”,在这非凡之年,用非凡之举创造了人民满意、世界瞩目、可以载入史册的非凡答卷。总结我的2020,没有豪言壮语,也没有伟大壮举,只是默默地,在担当中奉献、在旅行中感悟,在努力中前行。

2021年,是建党100周年,是“十四五”的开局之年,“2021”,极具张力,令人遐想。站在新的起跑线上,我们又该怎样去追赶喷薄而出的太阳、迎接未来的挑战呢?

像“2021”那样,斗志昂扬,蓄势待发。看,“2021”,像不像勇士出征前的队列?“2”是一个个精神饱满、斗志昂扬的勇士,“0”就是他们背负的行囊,为了胜利,他们做足了准备,未来征途,他们必将背水一战。2021年也是脱贫攻坚决后的关键之年。在脱贫攻坚这场伟大的战役中,我们不能有丝毫懈怠,更不能沾沾自喜、麻痹大意。逆水行舟用力撑,一篙松劲退千寻。我们要一鼓作气、尽锐出战,不获全胜决不收兵,以只争朝夕的精神,抢抓分秒、夺取战机,集中优势兵力,扫平前进道路上的一切障碍。

像“2021”那样,群雁列阵,振翅高飞。“天高云淡,望断南飞雁。不到长城非好汉,屈指行程二万。”毛泽东同志《清平乐·六盘山》描绘了一幅群雁高飞的的壮丽画卷。看,“2021”中那两个“2”,不正像一字排开、引亢竞飞的大雁么?回顾中国共产党诞生、发展、壮大的艰苦历程,无论遇到多大的困难和险阻,我们党都矢志不渝、坚若磐石,始终追寻着心中的梦想奋勇前行,无惧无畏。党的十八大以来,以习近平同志为核心的党中央描绘了实现“两个一百年”奋斗目标的宏伟蓝图,为中国人民谋幸福、为中华民族谋复兴成为新时代主旋律,广大党员干部、劳动者积极投身实践、追梦筑梦,凝聚起强大的社会主义现代化建设洪流。粤港澳大桥、天眼、嫦娥四号、5G、北京大兴国际机场……这些成就令世界瞩目,凝结着新时代奋斗者的心血和汗水,彰显了不同凡响的中国风采、中国力量,同时,涌现出一大批“大国工匠”和“时代先锋”,他们是中华民族复兴路上的脊梁。

像“2021”那样,同心同德,共创辉煌。“2021”中的“20”“20”象征朝气蓬勃的青年。青年兴则国家兴,青年强则国家强。习近平总书记指出,青年一代有理想、有本领、有担当,国家就有前途,民族就在希望。如果是“00后”,今年刚好满“20”,正是长知识、长身体的年龄阶段,在未来的15年内,他们将逐渐踏上新长征之路,成为社会主义现代化建设的实践者、推动者、见证者。志之所趋,无远弗届;穷山距海,不能限也。广大青年要立下青云志,守初心、担使命、经风雨、壮筋骨,在新长征路上阔步前进,行稳致远。要像“2021”那样,心往一处想,劲往一处使,同心同德,同向发力,把最美好的青春年华献给党和人民壮丽的事业。

让我们迎着新年的第一缕阳光,奔跑吧!

【篇二】新年贺词学习心得感想文集

今年的新年贺词语言朴实亲切,内容真切实在,字字如金。贺词中说到,一年来,许多人和故事感动着我们,他们用简单的行动成就了伟大事业,以普通人的平凡书写了不平凡的人生,地诠释了用实干造就人生高光时刻的奋斗理念。

平凡的故事感动温暖着你我他。各领域、各行业涌现出来的先进典型,把个人追求与国家发展、民族复兴紧密地联系在一起,立足在自身平凡的工作岗位上干出不平凡的成绩,成为了新时代最可敬的人

伟大出自平凡,实干造就高光。回首2020,我们用汗水浇灌收获,用实干笃定前行。我国国内生产总值再上新台阶,三大攻坚战取得关键性进展,1000多万人实现脱贫摘帽,北京大兴国际机场凤凰展翅……上到天空,下到深海,中华大地的每一个角落都有中华儿女奋斗拼搏、实干的身影。嫦娥四号探测器成功在月球表面着陆,并传回第一张近距离月球背影像图,这样的高光时刻,凝聚的是嫦娥四号团队人员万众一心,追梦永不停止的时代力量,仰望星空,脚踏实地,中国航天人在实干中坚持创新,成就国人的航天梦……无数伟大成就高光时刻的背后都是许许多多中华儿女用实干筑起的钢铁长城。无论时代如何变迁,都无法改变幸福是奋斗出来、实干出来的伟大真理。没有等来的辉煌,只有拼出来的精彩。2021年注定是中国历不平凡的一年,冲锋号已经吹响,让我们以普通人的平凡书写不平凡的人生,用实干拼搏成就事业的高光时刻,用日复一日的坚持,不忘初心,牢记使命的追梦信念,让平凡变得伟大,普通变得高贵。无论在这里还是在哪里,无论过去、现在还是将来,实干拼搏犹如一道星光,闪烁在时光的长河中,闪烁在中华大地璀璨的天空中,激励着中华儿女奋勇向前,勇敢追梦。

把小事做好就是不平凡,把简单事做精就是不简单。功成不必在我,因为功成依赖于时间的沉淀;功成必定有我,是因为每个人平凡的坚守与点滴的付出,终将汇聚成灿烂的星河,每一个中华儿女要把本职工作岗位当做履行使命的“主阵地”,提升能力的“磨刀石”,实现人生价值的大舞台。无论工作岗位是多么平凡,一定要干出精彩,在脚踏实地中做好每一件事,做好每一项工作,点滴积累,滴水石穿。九层之台,起于累土;千里之行,始于足下。成功都是从一件件小事,一个个小细节做起的,把一件件简单的事做好就是不简单,把一件件小事做得有意义就是不平凡,把简单的招式发挥到极致,一针一线织好服务人民的宏伟蓝图,涵养“咬定青山不放松”的定力,保持一往无前的冲锋状态,坚守工作初心,时刻清醒地认识到“我是谁,依靠谁,为了谁”,牢记使命勇担当,善作为,用实干奋斗成就精彩人生,在平凡的工作岗位上爆发高光。

2021的时光大道已打开,奋斗正当时,高光时刻适得其势,让我们一起从平凡的小事做起,用实干实现梦想。时不我待,让我们只争朝夕,不负韶华,乘风破浪,在2021年新时代长征路上实现最初梦想,奋斗拼搏,进取人生,用实干造就人生高光。奋斗的号角已经吹响,让我们撸起袖子加油干吧!

【篇三】新年贺词学习心得感想文集

俗话说:一年之计在于春。新年伊始,尽管时值数九寒天,但是新年贺词时刻回响在耳边,就像春天的音符在神州大地间跳跃,春天的赞歌也早已在人们心中奏响。重温2021新年贺词,其中“硬核”一词给人留下极为深刻印象。那么,新的一年里,广大党员干部的“硬核”在哪?又当如何掀起“硬核”盖头来,展示不一样的“硬核”力量呢?

“万众一心加油干,越是艰险越向前。”2021年新年贺词中殷切嘱咐我们不惧风雨、不畏险阻,奋力前行。中国自古崇尚马,认为马具有忠诚、勇敢、拼搏等高贵品行。千百年来,从传说到诗歌、绘画,马的文化经久不衰,马的精神成为推动人类发展进步的一种宝贵精神财富。新的一年,我们要涵养马的品行,以“骏马精神”踏破前途坎坷,以“铁蹄”征服前进征程上的“波涛汹涌”,在奋斗中铸就新的辉煌。

2021年到来之际,新年贺词言语间充满着笃定、自信、深情,回顾过去一年,饱含为民情怀,以实干笃定前行;展望未来之路,激荡奋进豪情,不惧风雨再出发。挥别收获满满的2020年,迎来百年梦想的2021年,广大身处基层一线的青年干部要自觉肩负起新时代的重托,不忘初心,不负人民,用汗水、智慧和理想构筑起中华民族的脊梁,为实现第一个一百年的奋斗目标担当奋进、砥砺前行。

爱国,是人世间最深层、最持久的情感。对于广大青年干部而言,爱国是基于自身对祖国依赖关系的深厚情感,是勇于走向基层、敢于扎根农村、乐于奉献群众的热情,是将振兴中华为己任的崇高追求。2021年是极其特殊的一年,是“十四五”的开局之年,这就要求我们自觉增强爱国精神,自觉履行爱国责任,自觉实践爱国行动,立足一线岗位,珍惜并抓住宝贵的发展机遇,将爱国主义精神化为建设祖国的实际行动,走好中国道路,呈现中国风采。

爱民,是为政者最根本、最初始的追求。作为青年干部,更该如此,心里有百姓,脚下方能走远方;眼里有民情,奋斗方能有方向,不驰于空想,不骛于嘘声,在奔跑中凝聚力量,追逐梦想。

爱岗,是日常中最不凡、最出彩的源泉。“许许多多无怨无悔、倾情奉献的无名英雄,他们或许不被人所熟知,但他们用无悔的奉献擦亮着那个不可或缺的岗位,因为他们心中有爱。新时代里,青年干部不仅要崇尚英雄,更要争做英雄,以信仰的力量,在基层一线上创造佳绩,实现自己的人生价值,进而提高中国价值。2021年是一个新的起点,青年干部要敢于融于这个节点,始终记住一线工作是人民群众所需要的、是党和国家所需要,从而奉献于人民、国家、民族,即使无名,也是时代之重、民族之幸。

2021是历史长河中流淌的一个瞬间,或风平浪静,或破涛汹涌,面对未知的前方,我们不忘初心使命,不惧风雨阻挡,以“爱”为名加油干,越是艰难越向前。

【篇四】新年贺词学习心得感想文集

作为基层选调生,这份人民情怀、历史担当、奋斗作为也激励着我们扎根基层,让蓬勃青春与家国情怀共振,让人生梦想汇入时代洪流。

见贤思齐,接续奋斗展初心。部分年轻人由于觉得基层存在感“不强”,价值观“较弱”,在平时常常是拈轻怕重,避重就轻,将“经历”变成了“经过”,把本应干事创业的朝气变为了退缩不前的暮气。对照榜样,我们不妨问问自己有“下得去”的勇气和决心,有没有“待得住”的毅力和定力;有“想干事”的初心豪情,又有没有“干成事”,将之做精、做实、做细的行动力度。开启直击灵魂的初心之问,我们才能消散内心“小我”迷雾,以舍我其谁、时不我待的奋斗姿态融入人民“大我”。

减负增能,只争朝夕强担当。我们是幸运的,没有了文山会海,没有了过度检查,更多是“四不两直式”的直奔基层、直面问题,更加提倡是减负不减效,让实干成为标杆。作为基层干部,我深深体会到,只要你有干事创业、服务群众的激情初心,基层都能满足。随着基层社会治理的提升,在基层,有时间的保障,脱离了形式主义的束缚,我们可以有更多精力倾听民声、了解民意;有资源的依托。大党委制度等的建立,让党建资源量汇集,让民生服务见效;还有制度的依靠。组织部门不断完善激励关怀机制,为敢于担当、勇于改革的干部撑腰打气,解决后顾之忧等等。“神州大地,处处都有新变化新气象”,基层天地欣欣向荣充满生机,它需要青春力量青春奋斗。但是换句话说,如果不负韶华,不负时代,我们又何尝不是更需要来到这基层广阔天地,来勇挑重担、勇克难关、勇斗风险呢。

奋斗作为,不负韶华话复兴。行百里者百九十,2021是“十四五”的开局之年,面对着最后的堡垒,面对着难中之难、坚中之坚,我们应放下架子,扑下身子主动融入到人民群众中去,把问题调研得更深些,把举措抓得更精准些,把成果巩固得更牢固些。这需要我们培养斗争的意识、系统的思维,需要“事不避难,勇于担当”的魄力,更需要“守正笃实,行稳致远”的实干。群众的不解,问题的反复,心态的疲倦等,这些风风雨雨是我们追梦道路上的常态。但保持风雨无阻的状态,熬过“热锅上的蚂蚁”的日子,度过爬坡过坎、风雨兼程的时光,我们的经历才更有故事有质感,最后成果才更加丰硕更显实效。

“踏平坎坷成大道,斗罢艰险又出发”。夺取全面建成小康社会伟大胜利还要继续付出艰苦努力,实现民族复兴的追梦之旅,更需要我们不负韶华,只争朝夕。希望我们能牢记总书记嘱托,万众一心加油干,越是艰险越向前,最终迎来放眼昆仑绝顶来的明天。

【篇五】新年贺词学习心得感想文集

2020年匆匆远离;踏着新年的浪花,2021年姗姗来迟。2020我们有多么不容易,2021我们就要有多么荣耀。2020我们经历了新冠肺炎疫情阻击战、防汛抗洪抢险战、脱贫攻坚“验收战”,一个又一个“战斗”的胜利,无不证明了我们党集中力量办大事的制度优势和我们党员干部不忘初心、砥砺前行的奋斗意志。2020即将结束,2021又会遇到什么呢?你准备好了吗?

新年贺词时刻提醒我们要有与时代同步的紧迫感、要有与初心同振的使命感、要有与人民同步的责任感,始终保持艰苦奋斗、戒骄戒躁的状态,汇聚力量、挥洒汗水、共筑新梦。

要有时不待我、只争朝夕的紧迫感。2021年是中国共产党百年华诞,更是“十四五”的开局之年,是一个时代与另一个时代的交汇处,如何能时刻保持清醒的头脑和时不待我的紧迫感,要始终保持坚定的政治立场,树立崇高而坚定的理想信念,高举伟大鲜明的政治旗帜。要始终保持团结一致、万众一心的奋进动力,做到劲往一处使、心往一处想、事往一处干,高举“众人拾柴火焰高”的团结旗帜。要始终保持奋斗不息、脚步不停的奋斗热情,激发内涵最深、感情最久的硬核力量,高举礼赞中国的爱国旗帜,是时代给予我们的机遇和挑战。

要有初心不改、砥砺前行的使命感。过去的一年,这一年让我们更加懂得了生命的含义和时间的珍贵。新年伊始,一场新冠肺炎突如其来,打破了生活的平静,一时间席卷全球,平安成了所有人的共同愿望。在这危难之际,党中央高瞻远瞩、审时度势,带领全中国迎难而上,创造了属于中国的辉煌,为世界防疫工作推进树立了模范榜样。第一段长征路已经出现在我们的眼前,必须立场坚定、不惧诱惑永向前,成为中国共产党信得过、靠得住的好成员;必须担负使命、不惧风雨永向前,成为国家能打仗、打胜仗的好战友;必须撑起梦想、不惧色变永向前,成为人民和民族能放心、暖人心的好朋友。

要有念兹在兹、心系于民的责任感。过去的一年,许多时代楷模、党员榜样用他们的故事感动着我们,用他们平凡的一生写下了不平凡的人生。是什么让他们无怨无悔、倾情奉献?正是那一腔为民请命的热血、一份为民解忧的热情、一颗为民服务的热心,让他们用自己的青春诠释了何为责任、何为奉献。“全心全意为人民服务”是党亘古不变的理念。要真正具备心系百姓的责任感必须在业务能力上下功夫,稳扎稳打、脚踏实地,练好服务基本功,铸牢为民服务的责任阵地;必须在改革创新上下功夫,逃离舒适圈、勇闯深水区,开创服务新秘籍,盘活与民同乐的服务资源。“始终与人民同呼吸、共命运、心连心。”这就是我们的责任,是我们日夜坚守、辛勤劳作的美丽中国梦。

第二篇:日本留学感想文集

日本留学感想文集

――半年間の留学生活を振り返って

目次

留学の感想……………………………………………0401班 陳 靖

日本の印象…………………………………………0401班 陳 迪思 東瀛との出会い……………………………………0401班 丁 建萍 日本での感触そして感動…………………………04甲班 耿 貝妮 特別な体験、貴重な経験…………………………04甲班 胡 麗芳 ――日本留学について

留学体験について…………………………………04甲班 蒋 玲玲 留学の感想……………………………………………0401班 李 頴 滑走、離陸、飛行………………………………………0401班 繆 嬋 思い出せば……………………………………………0401班 王 琳 半年の留学を振り返って……………………………0401班 王 洋 「さようなら」から「ただいま」へ……………0401班 徐 哲紋 私の日本留学…………………………………………0401班 叶 楠

私の留学日記………………………………………0401班 張 叔傑 半年の留学生活を憶う……………………………04甲班 周 倩倩

浙江工商大学日本日本語言文化学院

留学の感想

日本語学科0401班 陳 靖

2008年3月1日、広い関西空港のターミナルビルの中で、私は出発口に一番近い席に座りながら、12時30分発の中国杭州行きの飛行機を待っていた。再びこの場所に来た時、日本に到着した時のことが突然脳裏に浮かび、同時に私は再び原点に戻るという錯覚を覚えた。正直、自分が今どんな気持ちなのかよく分からなかった。興奮、焦り、未練、困惑…。日本での生活は奇妙、感動、そしてとても魅力的だったと思う。

2007年9月10日、二時間を経て日本の地面を自らの足でしっかり踏みしめた時、私のハラハラした気持ちはやっと落ち着いた。初めて飛行機に乗る時の感覚と同じで、日本での生活がすぐに現実になると考えると、自分の興奮する気持ちを抑えならなかった。他のクラスメートを見ても、みんなとても興奮しているようだった。

カートに積まれた重い荷物を押して、綺麗な地面を踏みしめながら、私はこれからの生活へと歩いていった。私の吐息と歩みの中には僅かな不安と焦りがあった。教科書やテレビの中での「日本」、そして憧れていた日本での留学生活が皆現実になる。初めて中国から出て、初めて日本人の世界へ入って、初めて日本の学校で勉強して、初めて……。ひょっとしたら数え切れないほどの「初めて」がこの半年の間に起る。

大阪へきたばかりのころ、天気はまだ暑かった。しかし、青空と綺麗な空気は私にとってはとても久しぶりだった。私たちが生活するところは羽曳野市というところだった。寮は日本人の住宅団地の中にある。寮の建物はあまり大きくなかったが、家の前に小さな庭があって、とても綺麗だ。

来たばかりの時、まだ夏休み中だったのだが、毎日二人のルームメートと一緒にスーパーへ買い物に行くことが日課になった。夜の八時ごろ、寮は急に賑やかになる。それはその時間帯にスーパーでは商品を半額で販売し始めるため、みんながそれを買いに出掛けるからだ。肉はもちろん、果物は一つ一つで販売ずる。これらは中国人の私たちにとっては初めはかなり不慣れであった。

寮で生活を始めて十数日が過ぎ、新学期がやっと始まった。私たちの科目はうちの学校と一致しなければならなかったので、四天王寺大学での科目もほとんど規定された。しかし、ほかの科目も学生は自分のレベルに基づいて選べる。日本の大学から私が受けた印象は自由であるということだ。科目を選ぶ前に先生の授業を先に受けることができる。専門の課程以外に、日本文化、歴史、文学などの科目があり、学生は自分の好みによって自由に選べるのだ。こんな形で、学生には大きな選択の自由が与えられ、個性と趣味も発揮できる。半年の学習生活で私が受けた一番大きな印象は、日本人の先生は普段の学習を重視する反面、テストは意外に簡単であるということだ。ほとんどの先生は新学期の初めての授業でどうやって成績を評定するのかを学生にはっきり伝える。

実際に日本で生活してみて、教科書から学んだ「日本」に関する私の知識が如何に貧弱であるかということに気が付かされた。日本人はみんな電車で狸寝入りしたり、漫画を読んだりだけではない。私は一体右側を歩いているのか、それとも左側なのかよく迷った。また使い終えた電池を捨てたいけど、捨てる日をいつも忘れてしまう。しかも、何度も恥を掻いたことがある。最も印象深かったことは横断歩道での出来事だった。日本に行ったばかりの頃、横断歩道で人が道を渡っているときに、車とあたりそうになると、人が先に浅いお辞儀をしてから通る光景をよく目にした。中国には「郷に入っては郷に従う」という諺がある。さすが礼儀正しい国だなあと感じながら、今度、私も私を先に通してくれた 2 車に対し、九十度以上のお辞儀をしてしまった。

10月12日、私は人生初の仕事を始めた。仕事先はあるレストランだった。そして、3ヶ月ぐらいのアルバイトの経験を通して、私は日本人の生活に一歩近づいた気がした。アルバイトをして、ひとつのことに気がついた。耳に入る最も多い言葉はおそらく「すみません」だろう。日本人は人に迷惑をかける時はもちろん、ほかの場合にも「すみません」と返事することが多いようだ。アルバイトを始めたばかりのころ、客に料理を出すとき、私が想定していた「ありがとう」という返事ではなく、意外にも「すみません」という言葉を頻繁に耳にした。別に客が私に謝る必要はないのに、なぜ私に謝るのかどうしても理解できなかった。

それは日本人が恩を感じることを重視するのだとひとつの授業で習ったことがある。日本人は「比較的に縁の遠い人から、図らずも恩恵を蒙ることは、最も不快に感じるところである」と。たとえ私のような縁もない店員であっても、日本人に見れば、恩を蒙ることになるのだろう。

大学祭の中華カフェー、反省会のたこ焼きパーティー、京都の紅葉、優しい先生方、バイト先の友達……。たった半年だったが、日本での生活は私にとって一生忘れられない思い出である。

日本の印象

日本語学科0401班 陳 迪思

光陰矢のごとし。半年間の日本での留学生活があっという間に過ぎてしまった。この半年間は長いようで短い時間だったが、日本や日本文化について学ぶことができ、またいろんな人と出会い、いろんなことを経験し、これからの長い人生にとって、すばらしい経験であったと思う。収穫の多い半年間であると同時に、感慨の深い半年間でもあった。ある国の言葉と文化を勉強するには、自分でその国に行き経験せねばならぬとある学者はそう言っていた。私もそう思う。留学前に遊学という形で半月ぐらい日本に滞在した。飛行機から降りた瞬間のあの感動と言ったら、「あ、ここが日本、自分が勉強している日本語の母国なんだ!」と興奮してたまらなかった。半月はさすがに短かったため、残念ながら見聞できたことはそれほど多くはなかったが、今回は前回と違って新しい日本を感じた。まずは日本人の謹厳実直な仕事振りである。計画から実施までどんな細かいところでもきちんとしている。参加者全員の行動の一致を求めるために何度も説明会や会議をすることが多い。大学祭の時、日本人の学生たちと一緒に中華茶館を開いた。当日接客用の台詞まで皆で考えて、そして何度も演習した。そんなに細かくしなくても勝手にやればいいのではと思ってしまうこともあるかもしれないが、その拘りがあるからこそ、例えば日本のバスや電車がいつも時間厳守で遅刻があまりないとか、電車に乗り込むために走ってる人以外慌てている日本人をあまり見かけないとか、そういう状況が生まれるのである。それはすべて計画通りだから。それに、日本の電気製品など品質がいいという評判もそれとかかわっているのだろう。中国の場合は効率が大切だ。つまり速くやれ、よくやれと二つの意味を持っている。しかし、日本人の場合はスピードよりも出来栄えのほうが大事である。日本人の仕事ぶりを見ていると、なぜそんなにのんびりでいられるのだろうと思うことがよくあるが、その素敵な出来栄えを見てたら、さすが日本人だとまた思わず感心してしまうのだ。私が感じたのは、日本人はアクシデントとか想定外の出来事とかあんまり好きではないようだ。たぶん、起り得るアクシデントもすでに前もって計算されていて、それを防ぐための計画も立っているのだろう。そういう謹厳なところはわれわれの参考にもなるのではないかと私は思っている。日本は優しい国である。バスは乗客がきちんと座ってから動き出す。電車には冬になると座席にも暖房が入る。トイレには、予備のトイレットペーパーがいつも置いてある。それに、赤ちゃん連れのお母さんのために、オムツ替えのシートもある。そういう細部に至るまで人のために考えているところがすごく優しいと思う。日本のサービス業界の「顧客第一」の考えもすばらしいと思う。買い物に行ったら、店員さんの笑顔がいつも素敵だ。釣りを出す時は、ちゃんと一枚ずつ数えながらお客さんに渡す。それはどんな店に行っても同じである。それに、販売されるものにはいつもサンプルがついている。アイスクリームの場合、各味各サイズ、全部サンプルとなって羅列されていて、実物とほとんど同じように作られている。包装のある商品もちゃんと中身を示すサンプルがついている。それに、試食できるものもよくある。お客さんがその品物をよく知ってから購入するため、騙されることも少なくなる。一つすごく印象に残ったことがる。それは日本に行ったばかりの時だった。みんな揃ってソフトバンクの営業店に携帯電話を買いに行った。でも、外国人登録証とか銀行口座の都合とかいろいろな理由で、なかなか順調に契約を結べなかった。しかし、次の日またその店に行ったら、店の中に一つの本が増えていた。「中国語入門」の本だった。それに店員さんが何かを説明してくれる時、時々変な中国語の単語が出たりし 4 て、びっくりした。ただ私たち十何人のためにそこまでしてくれるなんて、その気持ちに本当に感動した。中国では「お客様は神様」という言い方があるが、それは日本にこそ当てはまる言葉であると感じた。

この半年間、いろんな人と出会った。親切な方々ばかりだった。中国からの留学生だと分かって、親切に声をかけてくれる人もいた。バイト先のラーメン屋さんで、ラーメンを食べながら中日文化を語っているお客さんもいた。それを聞いて、みんなかなり中国文化に熱心だなと感心した。しかし、こんな質問をされたこともあった。「中国の人って、やはりみんな日本人のこと嫌い?」とか「日本に留学に来て、両親に反対されてない?」とか。どうしてと尋ねてみたら、テレビのニュースで反日のデモを見たと答えてくれた。わたしが何度もそうではないと言っても、相手は半信半疑のようだった。

テレビをよく見てから、こんなことに気づいた。日本のテレビは、中国の悪い事情を放送するのが好きなようだと。例えばダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地とか中国でも周知されていない話について、むしろ日本人のほうがテレビを通じてよく知っているようだ。日本人の中には中国のことが好きな人、中国文化に興味を抱いている人は結構いるが、実際に中国に来られる人は少ない。そこで、テレビなどのマスコミに頼る人が多い。もしマスコミがマイナスなものばかり放送したら、人々に相当な悪影響を与えてしまう。中国の話をすると、ダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地、偽者のブランド品のバックとか、まるで中国が偽者や悪者のパラダイスみたいに言われている。私が見た広州の偽バッグのニュースも、カメラマンがわざわざ広州までやってきて、取材したものだそうだ。そこまでするのなら、もっと積極的なものを調査したほうがいいのではないかと私は思った。もちろん否定できないのは、中国のマスコミも同じく日本の悪いニュースを流す傾向があるということだ。悪いことだからこそニュースになるのであるが、中国と日本の間にはやはり歴史の影が重いと思う。もし両方のマスコミがお互いに攻撃するのをやめて、もっと積極的に交流し、活躍すれば、きっと良い状況が生れると思う。

最後に、この長いようで短かった旅の間に出会ったみんなに一言。本当に楽しかった。ありがとう、そして、またね。

東瀛との出会い

日本語学科0401班 丁 建萍

日本に行く前、留学をする甲斐が果たしてあるのかどうかずっと迷っていたが、今この半年を振り返ると、あっという間な感じで、もっと長く滞在できれば良かったのにと思っている。一つの言葉を勉強するのには、その国についていろいろ学んだりしても、実際に行ってみないと、抽象的なイメージに過ぎないと思う。行く時は、今回の留学が自分の語学力のアップにどのぐらい助けになるのかぐらいのことしか気になってなかったのだ。今考えると、語学力の上達はもちろん重要だけど、私が一番大切だと思ったのは実際に自分の目で見たり、心で感じたりして、様々な日本人と接することができたことだ。日本人の考え方についてもいろいろ勉強になった。

異国での生活は充実しており、新鮮だった。楽しいことがたくさんあった反面、困ったことも決して少なくなかった。コンビニでのバイトを始めた時「御袋ご利用ですか」と言ってしまって、店長に笑われたことがある。切符の販売機に向かった時、うっかりして「呼び出し」というボタンを押してしまった。すると隣の小さな窓が開き、或る人の頭がまるで童話の啄木鳥のように、ぎゅっと窓から出て来て、心配そうな顔で「どうしましたか」と私に聞いた。さすがに私は驚かされた。あれから、友達と寮までずっと笑いながら帰った。東京に着いて、トイレに行ってきたら、訳もわからなく急に警察に取り囲まれて、パスポートを出してくださいと言われたこともある。また、私が自転車で怪我したお陰で、病院に行く経験もできた。保険に入ってない場合は、さすがに診察費も高かった。それから、日本人の友達ができてから、一緒にカラオケに行ったり、ボーリングをやったり、USJに遊びに行ったりした。割り勘にはまだちょっと慣れていなかったけど、遊びながらお互いの感情が深くなるのが感じられた。私がずっと感心しているのは日本人の熱心な仕事ぶりである。一緒に働いていた人は私ができるまで、皆熱心に何回も教えながら、なぜああせずに、こうすべきかもちゃんと説明してくれた。皆いつも一生懸命仕事をやっていて、人に迷惑をかけないという意識がすごく強かった。そのため、学生は学校をサボることはあっても、バイトを休むことは非常に珍しい。また仕事中、彼らはいい加減に対処することなく、強い責任感を持って頑張っている。時々、駅で勤めている人や宣伝をやっている人がずっとお辞儀をしながら、大声で 「ありがとうございます」、「ありがとうございました」と言っている場面を見ると、感動で胸が熱くなった。中国では多くの学生が自分の勉強に情熱的に取り組むのに対して、日本の大学生はクラブ活動をやるときが一番やる気満々に見える。特に私を驚かせたのは、車で学校に通っている学生が結構多い事、大勢の女性が持っているのはLVのかばんであるにも拘らず、学費を払えないとか言って、学校を辞めようとする人がいる事、また家に帰りたくなくて、外で一人で一晩中お酒を飲んだりする人がいる事などである。自分の国から出ると、母国への深い愛情さえ感じられるとある先生がおっしゃったように、日本へ行ったら、何かをやる前に自分自身のことだけではなく、母国の体面にかかわることもよく考えるようになった。普段、ルームメートと私は中国人の顔に泥を塗らないためにも、遅刻してはいけないとお互い注意しあったりした。またルームメートがバイトを始めた時、オーナーがご飯を持ち帰ることはできるけど、多く持っていってはいけないと言った。なぜなら、それはあの店で働いていた一人の中国人がよくたくさんのご飯を持って帰っていたからだ。ルームメートはそれを聞くと苛立って、一回もご飯を持って帰らなかった。私も賛成した。私たち中国人の名誉のために、お米がいくら高くても、持って帰ってはいけないと思った。今振 6 り返ると、その時ちょっとやりすぎだったかもしれないと思うこともあるけど、もう一度こういう状況に直面しても、たぶん同じようにするだろう。このようなことは日本にいた時よくあった。正直に言うと、日本人の中国に対するイメージは決してよいものではないと感じられた。そのため、自分がちゃんとできていてなかったら、日本人の中国人に対する悪い印象を更に強めるだろうという心配がずっとあった。異国に住んでいる時、自分の国の悪口を耳にするほど恐ろしいことはないと思う。スナックで働いている中国人女性が多いと聞いた時、またバイト先の店長から中国が現在直面している一番の問題は経済発展と環境保護のバランスを考慮することにあると言われた時、自分の気持ちは複雑だった。帰国してから、私たちは日本の先進的な面から学ぶべきだとよく口にするけど、日本にいた時には自分の国に様々な問題があると分かっていても、なかなか口に出せなかった。留学の最後の一ヶ月、餃子中每の事件について毎日何度も放送されていた。その時は一刻も早く中国に帰って、そのニュースから遠ざかりたくて堪らなかった。

一方、私たちは中国人として、違う文化を持っている国に行き、違う教育を受けて来たわけだが、中国人も日本人も同じ人間で基本的には共通しているということも感じた。日本人の国民はみんな優しかった。初めて会話を交わした時、私はいつも両国の違うところをよく口にしてしまったが、実は多くの考え方もやり方も一緒だと感じられるようになった。何と言っても、中国も日本も同じアジアの一員であり、そして日本は中国からの影響を深く受けてきた国だからだ。お互いの国境を忘れた上で、より深いコミュニケーションができれば、お互いの文化をより深く理解できると思う。

日本での感触そして感動

日本語学科04甲班 耿 貝妮

日本に行った半年間は、喜びもあり涙もあり、寂しさもあり激情もあったが、今振り返ればそれら全ては感動であった。

考えのきめ細かい大阪人

9月10日、私達14人はM875フライトに乗り20年間生活してきた馴染み深い杭州を離れ、日本に向かいました。日本語と日本の文化を3年間学んで、ずっと日本を憧憬の眼差しで眺めてきた私にとって、日本に対するイメージを教科書の内容から思い描くだけで終わらせたくはないとずっと思ってきました。初めて自分の国を離れた時は、ドキドキ緊張していました。でも、その緊張感は空港までわざわざ来られたIBU国際交流センターの先生達の笑顔を見た瞬間、一気に解れました。私達の荷物を持ってくれて、私達は旅行中の見聞について話しました。関西空港は海岸に位置しており、海の景色を鑑賞しながら先生達と話しているうちに、すぐ寮に着きました。寮は二階建ての別荘のようでした。寝室は小さいけど、必要なものが全部準備してありました。電子レンジ、湯沸かし器、エアコン、カラーテレビ、冷蔵庫、包丁、ハンガーまで何でも揃っていました。まるで自分の家のように感じられました。ちょっと整理して休んでから、先生達は私たちを連れて一番近いスーパーに行き、必要なものを買ってくださいと言いました。先生たちは私達の買い物が終わるまでずっと外で待っていてくれました。みんなの買い物が終わってから先生達は私達を寮まで送ってくれました。そして、先生はその後一週間のスケジュールを私達に紹介し、私達を連れて銀行カード、健康保険、携帯電話などの手続きをしてくれ、自転車の購入にも付き合ってくれました。初めて日本に行って、感じたのは9月の強い日差しと考えのきめ細かい大阪人でした。

情熱的、友好的な仕事仲間

10月、人生で初めての仕事を始めました。コンビニでの仕事です。偶然買い物に行った時、入り口に従業員募集のポスターが貼ってあることに気が付きました。是非やってみようと思い、私は人生で初めての履歴書を持って、オーナーとの面接に臨みました。オーナーは主に私がアルバイトの未経験者であることを心配し、また5ヶ月しかできないので、最初は少し悩んでいるようでしたが、私にアルバイトのチャンスを与えてくれました。仕事も日本語も頑張ってと私に言ってくれました。最初は「いらっしゃいませ」という簡単な言葉も口に出せませんでした。私が一人前になる為にまず必要なのは自分自身の努力ですが、更に欠かせなかったのは同僚達助けでした。最初は何をどうやるのかよく分からなくて、いつも間違いました。同僚にもいろいろ迷惑をかけました。しかし彼らは毎回私のことを親切に助けてくれて、更にはお詫びの気持ちでいっぱいの私を慰めてくれたりもしました。床掃除、商品の補充、レジ、郵便小包など仕事のやり方を覚えられたのは彼らのおかげです。仕事以外の時間に彼らはいつも私をカラオケに誘ってくれて、食事をしたり、旅行に行ったり、私の生活を豊かにしてくれました。日本人との付き合いを通して日本の風習と日本人の考え方を更に深く理解しました。中国人という理由から差別されたりすることは全くなくて、彼らは完全に私を仲間に加えてくれました。日本を離れる前にオーナーに別れの挨拶をした時、彼は私にまたもし大阪に来る機会があるならぜひうちの店で働いてくれと言い、その話を聞いて私はすごく感動しました。私の5ヶ月の仕事に対して高 8 く評価してくれたものと思っています。

無私な先生達とかわいい学友達

日本の先生は私達の特殊性まで考慮して、私達14人のために単独で多くの授業をしてくれました。このような教授法は確かに私達に多くの収穫を齎してくれました。いつも満面の笑顔の矢羽野先生、厳格ですが私達を最も愛してくれた南谷先生、博学で面白い高原先生…。先生たちのおかげで私達は多くの知識を身に付けることができました。ちょうど日本に行く私達には現地に友達がいないから、授業を受けることだけで、他の課外活動はほとんど何もありません。先生達は多くの活動の方案を制定し、日本の学生と私達が一緒に活動できるように、中日の学生の交流の場を準備してくれ、また一方では私達の課外活動を豊かにして、私達の日本語のレベルの向上に気を遣ってくれました。先生達の献身的な努力と学友達の積極的な協力のおかげで、歓迎会、神宮旅行、京都旅行、送別会など様々な活動を行うことができました。私達はそれらの活動を通して日本人の情熱に深く心を打たれました。

謙虚で環境保護意識の強い日本人

日本に行ってから、毎日日本を経験する中で、以前教科書で学んだ「礼儀の国」という4文字が最も完璧な解釈を得ました。エレベーターではみんな右側に整然と一列になって立ち、急いで行かなければならない人のために左側通路を開けておく点、バス停では秩序を重視し一列に並んで待つ点、ゴミを厳格に分類する点、街にゴミ箱は多くないにもかかわらず、道はきれいで衛生的である点、犬の散歩時に責任を持ってフンの後始末をする点などなど。全てが整然と秩序立てて行われているのには感銘を受けざるを得ませんでした。「申し訳ありません」は日本で使用頻数が最も多い一句であり、自分の行為が他人に迷惑をかける場合にはどんな些細なことでも相手に謝罪をする。

目がくらむ美食とアクセサリー

日本に行く前、日本はショッピングの天国であると聞いていたがまさにその通りであった。どこに行っても見られるたこ焼き、お寿司、おにぎり、そして装飾がとてもかわいい商店。私は知らず知らずのうちに吸い込まれるようにして中へ入ってしまった。中へ入った後そこから出たくなくなる。精巧に作られたペンダントなど小さなかわいらしい商品を見た時、私は思わず日本人のアイデアと構想に感嘆させられた。

半年間はあっという間に過ぎてしまったが、それは私にたくさんの財産、たくさんの美しい記憶を残してくれた。これらは私のこれからの生活の中できっと役に立つと思う。

特別な体験 貴重な経験

――日本留学について

日本語学科04甲班 胡 麗芳

半年の留学生活はあっという間に過ぎてしまいました。生活にしても、勉強にしても、非常に充実して過ごしました。思い出す度にいろいろな感情が心に湧いてきます。

四天王寺大学が私達留学生のために開設した課程は浙江工商大学日本言語文化学部の課程と同じように、日本文化、日本経済、日中翻訳などの科目を含んでいます。それらの中で、日本人の学生さんと一緒に受ける授業がある一方、私達十四人で受ける授業もあります。そのような形式により、日本人の学生さんと交流することができるだけでなく、私達交換留学生の語学レベルによって効果的に授業を受ける事ができました。日本で授業を受けて感じたのは、日本人の先生が非常に学生の勤勉性を重視しているということです。それこそ中国と欧米の成果主義とは異なっているところだと思います。中国で三年間も日本語を勉強してきましたが、日本に来てから、日本社会と日本人の国民性の奥にあるものを理解できるようになってきました。日本人はいつも「恩」、「情」、「恥」などの礼儀を大切にします。他人から何かを受けたら、恩返しをしなければなりません。それに、他人との関係の親しさによって、恩返しの仕方も変わります。また「恥」というものも常に意識されています。日本人の国民性の特徴については日本文化の授業でいろいろと学びました。それらはわれわれ中国の学生にとってとても興味深い内容でした。日本人と日常生活で接する中で、「日本人は礼儀正しい」という言葉が一層理解できるようになりました。日本人は「立場」をどのように認識するかということにいつも気を配ります。どんな職場でもその地位に相忚しい「立場」を正く意識し、出来る限り自分の能力を発揮し、努力しようとします。このように「日本人はいつもこつこつと働く」という印象を外国人に与え、強い責任感を持っていると外国人に感じさせます。日本語と文学を専攻している私たちは、日本社会に実際に身を置いて、自ら体験する必要があると思います。この半年間、生活を通して体験し、感じたものは本で学んだ知識よりも遥かに貴重です。「体験が成長の糧」と言われるように、その社会に身をおいて実践的に体験してこそ、その社会の奥にあるものを心で感じ取ることができます。教科書から学ぶことはあくまでも知識の習得であり、実践することこそが本当の勉強だと思います。生活の面において、半年の日本滞在期間中はずっと四天王寺大学の先生方から至れり尽くせりのお世話になりました。寮の中には何種類もの電気製品が設置されており、生活する上ではとても便利でした。それに、先生方がいつもいろいろ配慮してくれて、生活の面で何か不便なところがあるとすぐ解決してくれました。そのおかげで、半年の留学生活は本当に楽しく過ごせました。

生活といい、勉強といい、非常に細やかな問題であっても、先生方がいつも非常に熱心に解決してくれました。

授業と日常生活の両方で日本語を勉強し、日本社会を体験することができただけでなく、半年の留学生活の中で色々な貴重な体験もできました。クラスメートは皆それぞれ自分なりの人生の目標を持っており、半年の留学生活の中でどのようにすれば時間を無駄にしないで、自分の目標に少しでも近づいていけるかということがとても大切でした。みんな半年という時間を有効的に利用し、日本社会の奥に潜む魅力的なものを発見し、その面白さと美しさを吟味しようと夢中でした。また日本人との日常生活上での交流を通じて、会話力が一層よくなってきただけでなく、日本人の話の運び方、思考方式など前から理解し難 10 かったことも、日本に来てから理解できるようになってきました。四天王寺大学は静かなところに位置していますが、生活の上ではとても便利でした。寮の近くにはバス停があって、町に行くのも便利です。とりわけ、日本は交通網が非常に整備されている国で、各駅の間は電車線で繋がれていて、電車のスピードも速く、時間の節約にもなります。それらは日本人の「よく働く」、「時間を無駄にしない」という意識にも関わっていると思います。この半年の留学生活は、勉強と経験を同時にする過程であったとも言えます。二つの面に分けると、授業中の勉強と体験、実践中の勉強と体験に分けられます。授業中には言語と文学を勉強しますが、日本人と接すると日本人が持っている勤勉性、謙虚性、責任感といったものがひしひしと伝わってきます。それこそ日本人が人格を重視している原因だと思います。もう一つは、日本人が自国の尊厳を大切にしているということです。日本の街を歩く時に、いつも日本人の友好さに胸を打たれます。

例えば、道に迷ってしまった時、近くにいる日本人に道を聞いたら、すぐに返事をしてくれます。知らなくても、他の日本人に聞いてから教えてくれます。日本人のそのような友好さに感動してしまうのは当たり前のことでしょう。だから、日本人は「他人に対する礼儀を重んじ、良い印象を与えてくれる」とよく言われます。それこそ「日本が住みやすい」と言われ、日本人が誠実で友好的な性格であると言われる有力な証拠です。現在、日本のあらゆる町に数えきれない程の外国人が住んでいます。日本は大いに外来の文化を受け入れつつ、自国の経済を発展させてきました。僅か半年という短い期間ではありましたが、日本を自らの足で歩き、その魅力をじっくり味わうことが出来て本当に良かったと思います。たくさんの日本人の友達が「日本は住みやすい国だ」と言っていましたが、私は日本の国民の積極的、友好的そして前向きな態度をいつまでも覚えていると思います。日本に対する感情が認識から理解に変わり、理解から熱愛に変わりました。日本でのいろいろな出来事を思い出す度に、日本が私の第二の母国だという気がします。半年の留学生活でいろいろな勉強ができたことに満足している一方、日本に対する熱愛の感情で今は胸がいっぱいです。

留学体験について

日本語学科04甲班 蒋 玲玲

去年の九月、学校の手配により、私たち14人は大阪に交換留学に行くチャンスを手に入れた。半年間はあっという間だったけど、私たちはいろいろ貴重なものを得ることが出来た。

大阪に着いたばかりの時は、大阪弁がすごく苦手で、勉強した標準語が全然役に立たないと痛感した。それに、周りの人は皆早口で、私はあまり聞き取れなかった。だから、最初は言葉のせいで私はさびしくて、強い孤独感があった。早くこの半年を過ごして、家に帰ろうと思っていた。でも、時間が経つにつれて、私はだんだんその環境に馴染んできて、帰国したいという気持ちもそんなに強くなくなってきて、逆にこの国に好感が持てるようになって来た。その理由の一つが国際交流センターの先生方から多くの支援とお世話も頂いたことである。両親のように、至れり尽くせり私たちの生活の面倒を見てくれて、その親切は私たちの心に深く刻まれた。したがって、言い換えると、この半年間もし国際交流センターの先生方の十分な忚援がなかったら、私たちはそのように楽な留学生活を過ごせなかったと思う。

半年の留学のおかげで、私たちは日本的な学習生活を十分に体験した。日本人の学生と一緒に授業を受けて、交流することはすごく楽しかった。学校ではどこにでも日本的な雰囲気が満ち溢れている。私たちが体験した日本文化は学校の教科書とぜんぜん違っていて、授業だけでは学べないものである。日本の教育は学生の個性の発展を強調する。発表、スピーチ、論文など先生方は大きなスペースを提供し、学生に自由に個性や能力を発揮させる。こういう方法を通じて、学生の考えや意見などを聞くことが出来たのは私の中で一番深く印象に残っている点である。特に南谷先生の日本文化論は私たちに日本文化について詳しく理解させてくれた。いくつかの論文を通じて、日本文化に対する私たちなりの考え方が生まれた。そして、この方法で先生とやりとりしてよく交流した。これは日中交流に役に立つのではないかと思う。文化論を勉強する前に日本文化は私たちにとって抽象的で理解しにくいものだと思っていたが、先生は具体的な事物を使って説明してくれた。日本人の学生は休日にはそれなりに有意義な生活を送っているようだ。特にクラブ活動が大部分の時間を占めている。普段、学校で学生たちは三々五々クラブのこと等について話してよく笑っている。その光景を見て彼らの集団主義を強く感じた。彼らの集団に入るのは難しいけど、彼らと付き合ってみたら、いろいろ勉強になるかもしれないと思った。特に日本でのアルバイトの経験は私にとって一番大切な思い出である。やさしい同僚、店長そしてお客さん、皆は私に親切にしてくれた。初め自分が外国人だから偏見があるのかなとずっと心配していた。長い時間が経って、皆は私が彼らの集団に入れるように支援してくれていることが分かった。日本に好奇心をいっぱい持っている私はバイトを通じて、様々な生活を体験した。もし多くのやりとりがあれば、日中の交流はもっと順調になって、両方の距離が縮まるかもしれない。

そして、計画を重視する日本人にも深い印象を受けた。学習でも生活でも仕事でも、一般の日本人は事前に計画を作ることが好きだ。彼らは計画が急に変更することを嫌う。そのことを私はバイトの過程を通じてよく分かった。初めはこういう方式にぜんぜん慣れていないから、いろいろなミスを犯した。しかし、彼らの生活を理解した後、私もこういう習慣を身につけるようになっていった。半年は短いけど、いい習慣を身につけることができたと思う。

日本人の部屋は大体皆きれいである。日本人の先生の家に一回行ったことがあるが、非 12 常に清潔であることに私たちは驚いた。私はこういうような日本人の国民性に心から感心した。そして、日本のゴミは燃えるごみと燃えないごみ二種類に分けて、捨てる時間も決まっている。最初は慣れなかったけれど、このようなやり方は地球にやさしくて、リサイクルにもいいと言われているから、できるだけ協力すべきだと意識するようになった。確かに、日本には多くの長所があると認めなければならない。誰にでも長所があるように、どんな国にでも優秀なところがある。この半年、私は人の長所を学んで自分の短所を改善するということがよくわかった。この半年いろいろな経験をした。また海外にいる時、自分は中国人であるということを強く意識するようになった。祖国のために栄光を勝ち取るというのが私たちの使命になった。

私たちの成長は私たちだけで感じられるものである。日本語の勉強はただの資格証明書取得のための知識や教科書の知識だけでなく、忚用や実践力を伴うものでなければならない。留学はその近道だと言われる。確かにその通りだ。いろいろな人と出会って、自分の経験が豊かになるなど、私たちの成長に大きな影響を与えたと思う。今回の留学経験は私の今後の生活に影響をもたらすに違いない。自分の人生は自分の力で作るということをちゃんと痛感した。どんなに辛くても、頑張っていればきっといいことがあると信じているし、私はこれからの人生に自信をいっぱい持っている。また、学校にもう一度感謝したい。学校のおかげで、この留学は私の大学生活における最高の宝物になった。

留学の感想

日本語学科0401班 李 頴

半年の留学生活はあっと言う間に終わりました。本当に短かったです。日本に行った日の光景が今でも目の前に浮かぶようで、私はあの時のはらはらどきどきした気持ちを昨日の事のようはっきり覚えています。20年間、一度も親元を離れたことのない私にとってこの留学生活は一種の挑戦であったとも言えます。何もできない私には留学生活を前にして不安がたくさんありました。

日本に来る前日、興奮と不安とで私は全然眠れませんでした。次の日、親と挨拶を交わし、ついに門出の時を迎えました。しかし私は決して一人ではありませんでした。私の周りにはたくさんの友達がいました。留学とは私にとって夢でしかなかったけど、学校のおかげでそれは現実になりました。向こうの学校からこのような貴重なチャンスをいただいて、本当にありがとうって言いたいです。特に国際交流センターの先生たちが優しく、いろいろお世話をしてくれました。初めて親元を離れるわけですから、時々寂しさや悲しさを感じることもありました。もし先生方そして友達の支えがなければ、この寂しさを克服しようという勇気は湧いてこなかったと思います。皆が傍に居てくれたから、留学生活は幸せでした。

また留学してから、以前当たり前のように親にして貰っていたことがどれだけ尊く、また家族とは如何に掛け替えのない存在であるのかが分かるようになり、親のありがたさ、親の優しさを身に沁みて痛感しました。でも日本にいる時、私の友達は皆まるで私の家族のようでした。留学が終れば友達とまたばらばらになると思うと突然落ちこんでしまいました。あの時、私は中国に帰りたいけど、帰りたくないという複雑な気持ちでした。日本に滞在している時、いろいろな所に行きました。例えば奈良には何度も行きました。先生のおかげで、奈良の観光地やお寺や公園にもよく行きました。奈良といえば、今でも鹿を思い浮かべます。奈良では街中にも公園にも、鹿がたくさんいます。まるで奈良の主人公見たいな存在です。鹿煎餅を持っていると、すぐ鹿に取り囲まれてしまい、この静かな動物は急に獰猛な動物に豹変したかのように餌を追いかけます。奈良は不思議で綺麗な町です。京都にも行きましたが、奈良と京都とでは趣が全然違います。京都の美しさはもっと深い感じがします。嵐山の紅葉は人の心に染み入るほど美しかったのを覚えています。一番思い出に残っている所は東京のディズニーランドです。音楽もいいし、キャラクターもかわいかった。まるで物語の世界にいるような感じがしました。

それぞれの場所を巡り歩いて感じたことは日本が本当に綺麗な国であるということです。この綺麗な国にいる間、私は色彩にとても敏感になりました。例えば化粧品の色使いです。日本に行く前、私は全然化粧しなかったけど、日本の街を歩いている時に見かける女の子は皆必ず化粧しています。だから、私も化粧を始めました。化粧することによって人に好感を与えられるということが分かり始めました。そして、ご飯の作り方も習いました。私は女の子なのに掃除や料理など全然できなかったけど、日本に来てから毎日自分でこれらの家事をしました。将来いい女にならなきゃとあの時はそう思いました。でも残念なことに今中国の家に帰って、また元に戻ってしまいました。日本にいる時、日本の学生さんにいろいろお世話になりました。私たちの寮に来てくれて、遊びにも付き合ってくれました。いろいろ話し合う中で、言っている事が通じない時もあったけど、気持ちは言葉なくても通じるのだと信じています。また大学際の時、彼らは私たちを助けてくれて、私達の催し物である中華茶館は大成功でした。あの時のうれし 14 さはいつまでも忘れられません。

今の私は日本に行けて本当に良かったと心からそう思っています。日本の先生方、友達などいろいろな人と出会えてよかったです。もう二度と会うことはないかもしれないけど、一生に一度きりの出会いであったと思うと尚更会えて良かったという気になります。

また日本でいろいろなことを初めて体験することができました。親元を離れての自炊生活や家族のいない中で初めて過ごす旧正月等等…。この半年間で私は大きく成長したと思います。

滑走、離陸、飛行

日本語学科0401班 繆 嬋

飛行機は滑走して、離陸して、空に飛び立つ。私の大学時代も、三年の努力と準備で、この6ヶ月の交換留学のチャンスを勝ち取った。工商大学、先生方そして両親と離れて、自分の期待や夢を胸に抱き、憧れの日本へと飛び立った。

この短い半年の中で私たちは寂しさやホームシックなど外国生活の苦しさを時々感じたが、周りの新しさと充実感はすぐに私たちを楽しい勉強と生活へと戻らせた。

四天王寺国際仏教大学で日本文化論、中日通訳、経済常識などの科目を勉強して、日本語能力にも、日本についての知識にも、もっと自信を持つようになった。授業でとても厳しい南谷先生はいろいろな本や雑誌を贈ってくださったり、何回も私たちの論文や宿題を直してくださったりした。今は本当にありがたい気持ちでいっぱいだ。矢羽野先生はいつも親切な笑顔をしておられて、授業でも生活でも皆と仲良くなった。何でもきちんとする高橋先生は皆の希望した内容を真面目に準備して教えてくださった。皆の聞き取りや読解、作文能力も上級日本語の授業を通じ、進歩してきたと信じている。熱血の中原先生はいつも無味乾燥な経済循環や金融危機を面白く皆に伝えてくださった。忘れられない元気さだ。いろいろすばらしい先生方のおかげで、皆ずっと頑張ってきて、期待に背かないような成績が取れたと思う。

国際交流センターの村上センター長、氏家課長、夢田さん、三輪さんは私たちの留学生活を充実させるために、職場以外でも「サービス残業」をたくさんしてくださり、皆に家族のように信頼された。滞在中、私たちのわがままと油断によってすっかりご迷惑をかけたが、国際交流課の職員たちはいつも親切に手伝ってくださった。私も他の留学生たちのように、日本語能力を高めるために、また日本各地を旅行するために、授業以外の時間を利用して、寮の近くの藤井寺特別養護老人ホームにアルバイトに行った。園長は長い時間の面接をして、初めて外国人のバイトさんを採用した。老人ホームの仕事は大変だし、老人たちと介護たちの連絡や報告もちゃんとしなければならないし、初めての時、次長も主任もすごく心配してくれた。いつも「慣れますか」、「行けますか」と聞いてくれた。私は一生懸命仕事をしたが、介護の経験がぜんぜんなかったし、老人たちの性格も知らなかったし、何回もやめようと思った。しかし、外国で「中国人は駄目だ」とか絶対に言われたくないから、頑張って最後まで続けた。1ヶ月後、私は老人ホームの仕事に詳しくなった。老人たちが手招きしたら、私はすぐ欲しい物が分かるようになった。5ヶ月ぐらいのバイト経験のおかげで、一緒に仕事をした介護たちや老人たちと仲良くなった。いろいろな人生の哲理を教えてくれるお婆ちゃんたちは私がすぐ中国に帰ることを聞いて、涙をぼろぼろ流した。介護たちは心暖まるアルバムを作ってくれた。日本に行ったばかりの時、日本人というと冷たいイメージを持っていた。しかし、今の私から見ると、人間は一緒だ。私が正直に精誠を込めて日本人と付き合えば、相手も心の戸を開けてくれる。

帰国してから、もう1週間だ。日本の先進技術や礼儀作法などは中国人にとって勉強に値する。もうすぐ卒業して社会に入る私にとって、この半年は専門知識を高めることができ、肌で感じた日本の感触はこれからの人生でもきっと役に立つに違いない。

日本はすばらしい国だ。高層ビルが林立している新宿、山が赤く染まる紅葉、立派な世界遺産の姫路城……。さまざまな画面が今でもはっきりと私の脳裏に刻まれている。滑走して、離陸して、空に飛び立つ私はこの美しい思い出を連れて、またあの笑顔と汗を残した島国に行くだろう。

思い出せば

日本語学科0401班 王 琳 「光陰矢の如し」と言うように、半年間の留学生活が知らず知らずのうちに終わってしまった。この半年間を振り返ってみると、とても充実した時間だったと思う。日本語を三年間も勉強したけど、今まで日本語を実際に話す機会が多かったとは言えない。授業や日本語コーナー以外に、日本語を話すチャンスはほとんどなかったと思う。留学のおかげで、思いっきり日本語を話す機会を手に入れることができて、本当にうれしかった。私は日本に着いたばかりの日、迷子になってしまった。「すみません。ここに行きたいのですけど」と小さい声で地図を見てもらった方にそう言った時、胸がどきどきした。「ああ。まっすぐに行って、二番名の信号を左に曲がったらすぐ目の前にあるよ」と教えてくれて、私は「ありがとうございます」と答えた。私にとってこれは初めての海外生活であり、全て順調にいくと思っていたのだが、着いた翌日たこ焼屋さんの早口関西弁にすっかり参ってしまい、自分の考えは甘すぎたと分かった。自分の日本語はまだまだで勉強すべきところがいっぱいある。関西弁は東京弁と比べ、否定形の言い方やアクセント、イントネ-ションなどの面で違いがある。始めは全然わからなかった私だが、この半年間で関西弁もちょっと分かるようになった。それは優しい関西の方々のおかげだと思う。通じなくて焦っているこの私を見て、向こうはいつも微笑みながら、普段よりもゆっくり話してくれたり、略語や外来語を丁寧に説明してくれたりしたからだ。この半年間、友達もいろいろできた。其の中には若者ばかりではなく、お年寄りもいる。若い友達は主に大学祭の時できた。日本の大学祭というのが私には何となく分かるようでありながら、今一ピンと来ない感じがあった。それは私が見たドラマやアニメの中に大学祭と関わるシーンがよく出てきて知ってはいたものの、実際に参加したことがなかったからだ。せっかくのチャンスだし、その雰囲気を是非感じてみたかった。そして、中国に関する情報をできるだけ多く日本人に伝えるために留学生の私たちは参加させていただいた。先生たちは初めて大学祭に参加する私たちの為にわざわざボランティアの学生を募集してくださった。テーマの決定から最後の片付けまで、彼らは積極的に助けてくれて、私たちの催し物である「中華茶館」は大成功だった。一緒に道具や服装を準備したり、見所を考えたり、会場を飾ったり、ボランティアで集まった日本の学生達の創造力にはとても驚かされた。私たちの方が先輩なのに私たちの方が遥かに不器用で恥ずかしかった。そして、ディスカッションする時まめにメモを取る姿も、またリハーサルの時根気よく敬語の正しい使い方を教えてくれる姿も印象深かった。そういう一所懸命やる姿に深く感服させられた。他人の意見に熱心に耳を傾けながら任された仕事を真面目にやる彼らのそういうところを私たちも学ぶべきだと思った。藤井寺には日本語教室がある。そこではボランティアで集まったお年寄りたちが日本語の話せない在日外国人に日本語を教えている。またそのお年寄りたちも外国人から外国の情報をいろいろと得ているようだ。それは一種の異文化コミュニケーションとも言えるだろう。日本語教室のおじいさんやおばあさんたちはみんなやさしくていい人たちだった。一緒に伊勢神宫に行った時伊勢神宫のことを教えてくれたり、クリスマスの時料理を作ってくれたり、帰国の前には送別会を催してくれたりして、家のような暖かさを感じさせてくれた。本当にありがたかった。人生は一期一会と言っても、人と人の縁が結ばれればそれは一生の宝だと日本語教室のおじいさんが言っていた。私もそう思っている。今は日本にいた時のように頻繁に会えなくても、インターネットを通じて連絡している。今回の留学で、私は生活の勉強もした。17 今まで、料理がほとんどできなかった私はカレーやチャーハンもできるようになった。帰国してから、両親に作ってあげて、両親は大変喜んでくれた。この半年間は両親の元から卒業する準備期間であったとも言えるかもしれない。この半年間いろいろな方にお世話になった。それらの方々の恩に直接報いるチャンスがないかもしれない。しかし私もいつか誰かの為に奉仕し、誰かを助ける事を通して、この恩に報いたいと思う。それを心に刻んで、これからも頑張っていきたい。

半年の留学を振り返って

日本語学科0401班 王 洋

帰国して二ヶ月。親戚と友人に会う時によく「日本での留学生活どうだった?」と聞かれる。日本での半年の生活を思い出すと、僕はいつも懐かしく思うのだ。その新鮮さと楽しさと孤独、それに感動に溢れた日々を。

日本に到着し、日本の土を踏みしめ、日本の空気を呼吸している僕は、学校の宿舎行きの車に乗っている間中、ずっと夢のような青い海を眺めていた。僕は海を見るのが初めてだったのだ。興奮の中にも少し緊張。なぜなら、これは僕にとって初めての異国体験だから。20年間暮らしていた母国を離れて、異国で生活するのは人生の中で初めての体験である。「僕は今後の半年の間に、どのような学校で勉強するのか、どのような環境に住むのか、そこの先生やスタッフはどんな人たちなのか、それに日本人の生活様式と飲食習慣に慣れることができるのか」などの沢山の疑問は僕を不安な気持ちにさせた。ラッキーだったのは接待していただいた国際交流センターのスタッフたちがとても親切だったことだ。空港まで迎えに来ていただいたお姉さんの笑顔は素敵だった。そしてもう一人のスタッフさんは僕らが車から降りた後、部屋までスーツケースを運びながら、僕らの住む環境について紹介してくれた。結構ユーモアな人だった。話の中に冗談が多かった。まるで初めて会うという感じがしなかった。これは僕の心の底にある不安感を少し和げてくれた。その後の半年を通じて僕の第一印象は正しいと分かった。国際交流センターのスタッフたちと学校の先生たちは皆親切でまじめだった。僕らの半年の留学の間に色々細かいところまで助けていただいた。最初の頃は大変だった。見知らぬ環境の中で生活するのは確かに大変なことだ。バスや電車の乗り方、日常用品の使い方、ごみ処理のやり方、すべて分からなかった。コンビニの自動販売機で電話カードの買い方さえ店員さんに聞かないと分からなかった。その上、学校はまだ始まっていないので、暇なときはいつも家族や学校の友達に会いたくなるのだ。孤独感が強かった。

学校が始まってから皆忙しくなった。僕も少しずつ日本での生活に慣れてきた。新しい学習環境は留学生の僕らにとっては新鮮で面白かった。三年も勉強した言語や文化の知識はいよいよ役に立つのだ。「暇な時が多すぎると皆退屈じゃないか」と学校側が考えてくれて、僕らの意見と合わせて授業の数を予定より少し増やした。その授業の中で、五つくらいは日本人の学生たちとともに受ける。僕が一番難しいと感じたのは日本文学史Ⅱと日本文化論。理解するのに時間がかかる。通訳理論と実践や上級日本語及びビジネス日本語などは留学生向けの授業だから、人数が少ない。授業の雰囲気は比較的楽だった。運動や友達作りのため、僕は放課後の時間を利用して学校のバスケ部に入った。毎週クラブのメンバーたちと二回練習していた。週末は時々彼らと関西のバスケのリーグ試合に参加し、各学校のクラブ文化を体験し、関西周辺の学校で遊びまくる。年末の頃も彼らと忘年会に参加した。

日本に着いた二ヶ月後僕はアルバイトを始めた。日本料理店だった。店長は楽天的な性格で、いい人だった。休憩の間はいつも僕とおしゃべりしていた。僕に中国の社会事情を尋ねた。それによく生活の中であったことについてアドバイスしてもらった。お正月の時もわざわざ家まで招待してもらった。映画も誘ってもらった。初めてのバイトなので、僕も普段自分のできるかぎり頑張っていた。餃子を作るのは僕には苦手だったが、帰国直前、感謝の気持ちを込めて中国式の水餃子を作ってあげた。それに、中国ではいい縁起を象徴 19 する「中国結」という飾り物をあげた。店の人は特色のある調味料やおやつを送ってくれた。最後の日は皆涙を流しながら別れを惜しんだ。とても感動的だった。今だに時々店のたまご丼が食べたくて仕方がない。

留学の半年はバイトの給料で沢山の旅をした。たとえば、京都の金閣寺、清水寺、平等院、宇治上神社、奈良の橿原神宮、三重の伊勢神宮、大阪市内の大阪城…。それ以外に東京と神戸に旅行に行ったこともある。僕が一番好きなのは清水寺。秋の紅葉は今までの人生で見たこともない美しい赤色だった。大学での活動にも沢山参加した。一番印象深かったのは大学祭。僕らは日本人の学生たちと中華茶館をやった。中国の女の子たちはチャイナドレスで、日本人の女の子たちは浴衣の格好をして、国際交流センターのスタッフたちと学生皆の努力の下で、中華茶館は大成功だった。お祝いの為、その後皆でたこ焼きパーティーをやった。

半年の留学生活は充実していたけど、とても忙しかった。でも、本当に勉強になったと思う。つらい事もあったが、楽しかった。

帰国直前、沢山の人が送別に来てくれた。感動的だった。親切な学校の先生方、交流しに来た学生たち、それといつもお世話になっていた国際交流センター、教務課、総務課、図書館のスタッフさんたち及びバスケ部の友人たち、バイト先の人たち、それからいつも国際交流活動を行っていただいた藤井寺市国際交流協会のスタッフたちに、心から感謝している。

帰国前最後の夜。一人で帰りの最後の電車に乗っていた。車窓からの夜景はいつもと同じように美しかった。気持ちは言葉で表せないほど複雑だった。半年はあっという間に過ぎってしまった。桜満開のキャンパスを見るチャンスは結局なかった。残念だった。しかし、半年の短い留学生活は桜が散るのと同じようだった。花びらが枝から離れて散ってしまうのは確かに残念だが、それより重要なのは開花してから散るまでの短く美しい過程なのだ。それで僕は満足できた。そんなに悲しく思わなくなった。

将来またいつか会えることを期待している。最後に心から挨拶したい言葉がある。「どうぞお元気で!ザイジェン!(またね)」

「さようなら」から「ただいま」へ

日本語学科0401班 徐 哲紋

2008年3月1日、私たち14人はアモイ航空MF875便の飛行機に乗って杭州に帰りました。これで半年の留学生活は完全に終わりました。

帰国する前、私たちは忙しい日々を送っていました。部屋掃除、送別会、帰国手続き、お土産買いなどなど。本当に心の整理の余裕もないぐらいでした。お世話になった一人一人にちゃんと「さようなら」、「ありがとう」を言うこともできませんでした。飛行機が離陸した途端に日本への名残惜しさがこみ上げてきました。

正直、大学四年生の時に交換留学するなんて今でも信じられないと思います。去年、王宝平先生がそのビッグニュースをみんなに知らせてくれた時のエピソードを今でも覚えています。当時はクラスで誰もが皆信じられないといった表情でした。あれから四ヶ月、申し込み、選抜、出国手続き、一歩一歩進んできて、最後にビザを取った後ようやく自分が留学へ行くことを実感しました。私にとって、今回は日本との初めての出会いです。こんなに長期間家を離れるのも初めてです。ですから、どこに行っても、何をしても全部新鮮で、新しい物ばかりの毎日でした。日本で初めてスーパーに行った時、様々なお菓子に惹かれた私はルームメートに料理をするための物をまず先に買うべきだと窘められました。日本で初めて旅行のコースに悩んだ時、先生が路線の調べ方を教えてくれました。日本で初めて地震に遭い、興奮している矢先に、阪神大震災の遺跡を見て改めて命の大切さを感じました。

私は今回の留学を旅だと思いたかったんです。短い半年の間にたくさんの名所を訪れました。大阪城公園はもちろんですが、奈良公園、伊勢神宮、清水寺、神戸の中華街、北海道の流氷、旭山動物園、東京ディズーニーランド、富士山、伊豆半島などなど。日本人が誇りに思う場所には皆私の足跡が残っています。旅を通して、自分は今日本という社会に、そして日本人という集団に属して輝いているということをしみじみ感じました。

たとえ日本語学科の学生でいつも日本のことを勉強しているとしても、実際に日本に行けば、やはり想像以上のことがいっぱい出てきます。

例えば、日本人はすごい恥ずかしがりやであること。来る前もずっと知っていたけれど、まさか若者までそうだとは知りませんでした。それに、日本社会で活躍しているお年寄りのこと。一番印象深いのは、藤井寺国際交流協会の皆様です。みんな、できるだけ自分の力を出し、国際交流に非常に熱心で、特に私たち中国人の留学生と熱心に付き合ってくれたことは本当にありがたいと思っています。

中国に帰ってきてもうすぐ2ヶ月になりますけど、正直に言って初めて日本に行った時よりも、むしろ今の方がこちらの環境に慣れ親しめないようで不自然です。特にあのきれいな空気が懐かしいです。バスを待つ時に日本のバスが時間通りに来ることをいつも思い出しています。今の中国は他の国に習わなければならないところがまだたくさんあります。もちろん、人それぞれ自分なりの欠点があるわけですけど、自分の短所から目を離してしまったら、自分も上達できないはずです。他人の長所を見つけて、自分の欠陥を補ってこそ、国も人生も発展できると思います。

帰国してから、まだたくさんのことをやらなければなりません。今回の留学は終わりましたけど、私たちの人生はまだまだ続いていきます。「人生は不思議です。」一人の先生が日本に戻る時こう言いました。何も分からないままで、一年後日本へしかも彼女が住んでいる近くに、留学に行きました。ですから、今の私はその人生の不思議さに興味を持っています。次はどこへと。

ただ一つ信じているのは、日本との付き合いはこれからです。だから、さようならではなく、よろしくお願いします。最後に若干遅いけれど、半年ぶりの杭州にも「ただいま」って。

私の日本留学

日本語学科0401班 叶 楠

税関で検閲を受けて、飛行機に乗りました。疲れたせいかすぐ寝始めました。再び目覚めると、もうすでに海の上にいました。キャビンアテンダントのアナウンスの声が聞こえてきました。ついに日本に着いたということが分かりました。

初めての留学生活に対する憧れと心配の気持ちを同時に心に抱き、荷物を持って飛行機を降りました。日本に対する第一印象は「静」でした。荷物を待っている人がたくさんいたものの、がやがやと騒ぐ姿はあまり見えません。友達と話す時もわざと声を小さくして話します。大学で授業を受けた時よく先生方から日本の電車はとても静かだよと聞いていたけれど、実際に乗ってみると、本当にそうでした。偶に騒いでいる若者たちが見えるけど、皆本を読んだりメールをしたり居眠りをしたりしていて、確かに静かです。日本の住宅街も静かで人があまり多くなく、夕方にお年寄りが犬を連れて散歩している姿がよく見えるくらいです。一番驚いたのは、日本人はけっこう犬を飼っていると思いますが、犬の吠えている声があまり聞こえません。その原因を友人と何度も考えましたが、残念ながらなかなか答えが見つかりませんでした。

国内にいた時も日本文化などの授業を受けたけれど、実際こちらに来て、毎日の新しい発見を楽しみにしていました。もし2006年の夏の旅が観光であるなら、今回のテーマは生活で、些細なことで日本を感じ、日本人の生活を体験することです。大阪の冬は杭州と同じで寒かったです。毎朝、厚着してもぶるぶる震えながら学校へ向います。そんな時、よく見かけたのは真冬に半ズボンを履いて生き生きとしたとても元気な小学生や中学生たちです。昔新聞で見たあることを思い出しました。日本人の親は冬に生まれたばかりの子を水にいれて、その子の根性を鍛えます。中国の親なら絶対子供にできるだけ多くの服を着せるでしょう。それは中日の家庭教育の違いではないかなと思っています。

また、日本の街を歩いてみると、時々着物を着ている女の人の姿が見えます。美しいと思う一方で、ちょっとうらやましいです。日本の代表的な服といえばやはり着物でしょう。結婚式や成人式など正式な場合だけではなく、普通に着ています。中国の代表的な服というと必ずチャイナドレスと答えるでしょう。残念ながら、中国では普段の生活の中でチャイナドレスはほとんど着ません。また、京都や奈良に行くと、すごく日本の伝統的な美しさが味わえ、伝統的なものと現代的なものが意外と良いバランスをとっています。そして私が一番感じたのは日本人は細かいところにも気を使うということです。街がきれいで、ゴミがあまり見えないのはもちろんのことです。どこのトイレに行っても、トイレットペーパーがちゃんと置いてあります。切符販売機でも盲人専用の点字があります。普通のお弁当でも必ず花や葉っぱで飾っています。それらは極普通なことですが、もうちょっと考えたら、その裏にはきっと誰かの努力があるはずです。最近、テレビでよくやっているソフトバンクのコマーシャルでも「ぷぷぷっと聞こえたら、相手の方がソフトバンクだと分かります」と宣伝しています。電話をかける時の音にまで気を使っています。だからこそ、日本の商品は世界中に人気があるのだとあらためて感心しました。最後に言いたいことはテレビなどのマスメディアについてです。偶にテレビをつけると、中国のことが放送されます。興味津々で見続けると、残念ながら中国の悪いところばかり流れています。同じく残念なことなのですが、中国の新聞でも日本に関するニュースではよくない面だけを載せることが多いです。マスメディアが事実を報道する一方、意識的或いは無意識的に視聴者の関心を惹きつけやすい悪い側面だけを強調する傾向があるよう 23 です。でもお互いの国の人々は大体マスメディアから情報をゲットし、そしてイメージします。それは両国の人々の交流の障壁になる一つの原因ではないかと私は考えます。この半年間でどれぐらい日本語能力が上達したかはっきり言えないですが、確かに成長していると思います。言葉や知識だけでなく、いろんな面で勉強になりました。日本で初めて作った料理の味はまだ心に残っています。まずかったです。最初の時はフライパンを持って慌てて取り乱しましたが、今は普通に料理ができるようになりました。初めて自転車に乗って家へ向ったこともまだ覚えています。迷ってしまって、近くの坂で何回も行ったり来たりして、家に着いた時外はもう真っ暗でした。でも今は目を閉じても家のまわりの風景がはっきりと頭の中に浮かびます。一人でもよく旅に出て、日本の美しさを味わいました。最初は日本人の友達と話す時とても緊張しましたが、今はぺらぺらとまではいきませんが、普通に会話ができるようになりました。長いようで短かった半年、日本での留学生活がもう終りました。異文化ショックを受けたこともありますが、楽しいことがたくさんありました。やはり日本へ来て自分の目でその国を見ていろいろと体験できたことは本当によかったと思います。

卒業する前の半年にこんな貴重な機会をいただいて日本を感じることができ、心から学院の先生方、日本の先生方に感謝の言葉を申し上げたいと思います。この半年間の思い出は人生の中で貴重な経験だと思います。

私の留学日記

日本語学科0401班 張 叔傑

1月25日(晴)新幹線で東京へ

日本に来て初めて話に聞いていた新幹線に乗り、とても興奮しました。中国国内で「和諧号」に乗ったことはありますが、それともだいぶ違う感じでした。当たり前のことですが、周りは誰もが日本語を話す日本人で、私は中国語を話す中国人だからです。新幹線で約三時間、途中の主要な駅は京都、名古屋、静岡、新横浜で、そして最後に日本の首都――東京に到着しました。東京駅を出て目を向けると、誰もが慌ただしい出で立ちのようでした。日本人に恥じない、毎分毎秒を浪費しない働きマンです。

1月26日(晴)東京めぐり

朝食 お粥定食。初めて日本でお粥をすすり、ザーサイを食べました。故郷の味がしました。郷愁。

チーム活動では第4組に。メンバーは井口光吉、池田昭博、張穎、顧雅芳、金暁環、張叔傑、付穎です。チームで皇居の写真をたくさん撮りましたが、集合写真を撮りそびれました。残念。遠くの東京タワーにカメラを向け、数回「カシャカシャ」。その時、集合の合図が聞こえました。浅草の雷門では26人の集合写真を撮影。「デン」の音にみんなが笑いました。

チームは解散、雷門で北京放送の付さんの取材を受けました。生まれて初めて記者の取材を受けたので、それはそれは緊張しました。取材される感覚というものはこういうものなんだなと思いつつ、これからはもっとうまくできるようになりたいと思いました。自由活動。渋谷109、NHK、代々木体育館前の街頭音楽フェスタ、明治神宮、原宿、レインボーブリッジ、お台場、フジテレビそして観覧車。いずれも外側から一度ざっと見るだけでしたが、日本の学生との交流で、日本の若者の文化をより多く理解することができました。新しい体験でした。中日学生交流会では、おのおの自分の意見を述べて、言いたいことを思う存分言いました。言葉の壁もなく、国籍の違いもなく、若者と若者がふれあいました。一日の東京での体験を全て言葉に出し尽くしました。その後、東京タワーとレインボーブリッジの夜景が見える船の科学館でビュッフェ。幸せ。

1月27日(雤)東京から沖縄へ

3時間ほど飛行機に乗り、ついに那覇空港へ到着。ずっと行きたかった沖縄。気温19度。空気の分子一つ一つに海の匂いが溢れていました。暖かな幸せ。ただいま、沖縄。

1月28日(雤)沖縄

ひめゆり平和記念資料館は、戦後に生まれ育った子供である私たちに戦争の残酷さを教えてくれました。一枚一枚の絵や写真、一文一文の文字に胸が締め付けられ、言葉にできない沈んだ気分に。ただ黙祷を捧げて亡くなった方々の冥福を祈り、世界平和と中日友好を願うことしかできません。

首里城はどこかで見たことがあるような感じがして、古代王朝を夢に描きました。沖縄は中国ととても密接且つ複雑な関係を持つ地域で、ただ生い茂る桜の木の陰だけが、ここは日本だと気づかせてくれました。

海辺では大きな子供も小さな子供も砂浜で思いきりはしゃぎ、駆け回り、写真を撮りました。蒼い空と海、白い雲と砂。夢に見た冬の沖縄をついに自分で体験できて、本当にこの上ない幸せでした。誰もが喜び、はしゃいでいました。砂浜全体にさわやかな笑い声が響いていました。すばらしい風景を享受すると同時に、私たちも風景の一部になっていました。食後、波の音をバックに私たちは自由討論を行いました。日本について、訪日について、よいところ、改めるべきところ。いつの間にか1時間半も経っていました。余韻は尽きません。最大の成果は「川流会」を結成したことです。私たちの友情も「川流会」とともにたえず育っていくと思います。

1月29日(曇)神戸

10:05離陸、さようなら、親愛なる沖縄。大阪に到着…。有馬温泉は、日本三大温泉の一つです。日本人の温泉好きは来日のだいぶ前から耳にしていました。今回、天然の温泉を自ら体験できたことは、本当に私たちを興奮させました。唯一残念だったことは、温泉玉子がなかったことです(笑)。三十分ほどお湯につかると、バスや旅の疲れが吹っ飛びました。日本人が何故ここまで入浴好きなのかがやっと理解できました。一日の仕事から帰ってお風呂に浸かると、仕事の悩みや疲れを解消できます。入浴の習慣がない国の人も試してみることはできるし、効果的だろうと思います。

1月30日(晴)京都

金閣寺。天気予報では雪が降るとのことでした。雪が大好きな私としては甚く期待していました。金閣寺は前にも一度、訪れたことがありますが、白い雪が黄金の屋根を覆い、水に映える金閣には別格の風情があるに違いありません。しかし天気は思うようにならず、雪景色の中で金閣寺を見たいという期待は空振りに終わりました。ですが、皆と一緒に金閣寺を見学するのは慰めにはなりました。まあ楽しかったからいいです。清水寺。日本には大小の寺院がたくさんありますが、清水寺はそれでも一見に値するところです。景色は同じ景色ですが、見る人は違います。今こうして清水寺を見学する時の気分は2年前とはっきり違い、単純だったものがより複雑になりました。まさに「毎年花は同じように咲き、年々人は変わってゆく」ということです。

以上のシーンは留学生活のほんの僅かな一部分です。日本滞在中の半年間、一日一時一刻一分一秒も、たくさんの人と事物を記録すべきだと思います。四天王寺大学の先生方、国際交流課の職員さんたち、学園祭の「中華茶館」で一緒に盛り上がった日本人の学生たち、バイト先の同僚たち、ずっとたこ焼きを奢ってくれたおばちゃん…。私が知っているそしてまた私のことを知ってくれた皆さん、ありがとうございます。皆さんと出会ったことこそ日本での最高の思い出です。海の向こうのもう一つの国で出会った人々をきっと忘れません。きっと、ずっと、永遠に。

僅かな半年でしたけど、日本と日本文化を体験し、深く理解した外に、どうすれば様々な日本人と付き合うことができるかもよく分かり、同時に日本人との触れ合いにより一層の自信が持てたと思います。日本での生活の断片的なものまで記録できればと思いますが、文字にするとここまで無味乾燥な文になってしまいます。けれど、記憶の奥に大事にしまいこまれたこれらの記録を私は永遠に忘れることはないでしょう。

半年の留学生活を憶う

日本語学科04甲班 周 倩倩

時間が経つのは本当に早く、半年の留学生活はあっという間に過ぎてしまいました。留学のチャンスを得て、異国の生活を体験し、自分はなんてラッキーなのだろうと思っています。この半年の生活を有意義に過ごす事ができて、いろいろな人に出会って、今まで体験した事の無い事をたくさん体験して、昔はテレビでしか見る事のできなかったものを自分の目で直に見る事ができて本当に良かったです。日本人の先生方と学生さん達と一緒にいろいろないい思い出を作りました。今振り返ると、本当に懐かしく思います。

到着したばかりの興奮

9月10日、私たち14人は関西国際空港に到着し、以前訪問し時と同じく、かわいくて親切な三輪さんが空港まで迎えに来てくれました。高速道路周辺の景色は前回の訪問時と一緒で、空はいつもの青で、空気はとてもおいしかったのを覚えています。この半年の留学生活に対してずっと憧れを胸に抱いていた私はその時非常に興奮していました。和交寮に着いて、私たちは生活設備が完璧に用意されていることに気づき、日本に着いた第一日目から日本人の周到さとまじめなやり方を深く感じました。学校の授業が始まるまでにはまだ時間があったので、到着後の数日間は学校と寮の周辺をよく散策しに出かけました。また国際交流センターの先生が私たちを連れて銀行の口座を作りに行ってくれ、また私たちは中古の自転車と携帯も買いました。そうしたら、生活ももっと便利になり、活動の範囲も幅広くなりました。日本に着いたばかりなので、いろいろな新しいものに好奇心を抱きました。そこから、私たちは一歩ずつ日本人の生活に慣れるように頑張り始めました。

ファッションを感じる

学校が始まりました。静かなキャンパスは活気に溢れるようになりました。キャンパスではハイヒールを履き、髪を黄色く染めて、綺麗に化粧をしている女子学生達がどこに行っても目に入りました。日本は女の子だけでなくて、男の子もとてもお洒落です。そんな若者達を見て、いつか見たファッション雑誌に自分が入り込んだような感じがしました。心斎橋は大阪で一番賑やかなところで、お洒落な若者がいっぱい集まっています。ファッションの為ならどんなに暑くても帽子を被って、長いブーツを履いて、寒さや暑さに構わず、自分のかわいさ、カッコ良さをアピールするそんな光景を見た時、さすが日本はファッション大国だと思いました。私の中では日本はファッションの代名詞と言ってもいいくらいです。

大阪弁

大阪にいるから、学校でも公共の場所でも耳に入ってくるのは全部大阪弁です。最初は分からなくて、慣れなかったのですが、帰国前には私もついに大阪弁で喋ることもありました。

十一月の大学祭

大学祭。前はただ日本のドラマで見たことがあっただけでしたが、やっと自分も体験できることになりました。大学祭前には、学生さんが学校のあちこちに集まって、相談したり、看板を作ったり、大学祭のためにいろいろ準備していて、やはり日本っていうのは集団主義だなあとつくづく思いました。もちろん、私たち14人も国際交流センターの先生 27 方と何人かのIBUの学生さん達のおかげで、「中華茶館」というイベントを行うことができました。中国結、龍井茶、向日葵の種、月餅、春聯、飾り物など、また浴衣を着ている日本人の学生さんとチャイナドレスを着ている私たちは開催の日にいろいろな市民と学生さんを引きつけました。参加してくれた人数は私たちの予想を遥かに超えるものでした。今度のイベントによって、日本には中国の文化と歴史に興味を持っている人がいっぱいいるということが分かりました。またこのイベントの成功ぶりを見て、悠久な歴史と文化を持つ自分の祖国中国を誇らしくも思いました。中華茶館は大成功でした。

伊勢神宮の見学

藤井寺のおかげで、私たちはバスツアーで伊勢に見学に行きました。十一月はちょうど秋なので、赤に染まり始める紅葉と清らかな川がお互いに引き立てあっています。伊勢神宮は二十年に一回遷宮します。式年遷宮と呼ばれます。内宮へと向かう通路で、日本の伝統文化を感じながら、まわりの立派な木々を楽しんでいました。一緒に参加している藤井寺の市民は皆すごく親切で、バスで私たちに話しかけてくれて、日本の文化と歴史についていっぱい教えてくれました。この旅で、日本人の市民文化も体験しました。

アルバイトの生活

日本の学生はほとんど皆バイトしています。社会経験を積めるだけでなく、新しい人間関係の形成や責任感の向上にも大いに役立ちます。12月の中旬に私もバイト生活を始めました。忚募したところは24時間営業のコンビ二です。テキパキと仕事をやっている厳しい店長、優しいマネージャ、高校生の女の子と夜勤で働いている背の高い男の人数人が私の仲間でした。まさに「ファミリーマート」という店の名称に相忚しい家族的な雰囲気でした。店の皆さんは私に非常に優しくしてくれました。経験がまったくない私はお釣りを間違ったりとか、お客様が欲しいものが探せなかったりとか、よくミスをしました。でも店の人はいろいろ親切に教えてくれて、私のミスを直してくれました。そのバイトのチャンスを与えてくれた店長、そしていろいろ教えてくれた店の皆さんが今ではとても懐かしいです。三ヶ月にも満たない短い期間でしたが、お互いの心が通じ合えたと思います。

半年の間いろいろな人と出会って、その中の一部の人とは一期一会かもしれないですが、私はきっと彼らのことを私の宝物として、忘れずにすっと覚えていることでしょう。

最後に今回の貴重な留学の機会を作ってくれた本校の学院の先生方にまずはお礼を申し上げたいです。また四天王寺仏教大学国際交流センターの先生方にも心よりのお礼を申し上げたいです。日本の先生方は私たちの生活の面でも勉強の面でもいろいろ助けてくれて、その助けがあったからこそ今度の留学が順調に進み、いっぱい素晴らしい思い出を作ることができたと思います。今度の留学で私たちは視野を広げ、大きく成長できました。

第三篇:做作文集的感想

做作文集的感想

这一部作文集,我还是尽了很大努力才能完成的。刚开始写作时,我总不知道该写什么,该怎样下笔;而灵感也躲起来了,不和我见面。那时我很苦恼,不知该怎么办才好。过了几天我还是没写出任何东西。那时我真想放弃,不在写下去了。但是,我的妈妈说我不应该遇到这一点小小的困难就放弃,并鼓励我,要我坚持下去。我听了她的话,坚定了我的信心,再继续努力做这本作文集。结果,我成功了,我把我的作文集制作完毕,我完成了我原以为不可能完成的事。

通过做着一本作文集,我懂得了很多事情。现在,我能让我的作品呈现在大家的面前,我觉得很高兴,也很满足。我觉得这本作文集是很值得珍藏和留恋的,它将会成为我一生中最珍贵的事物,我会好好地珍惜它。

其实多写作文,对自己的水平能提高很多,虽然我们的语言还不够精美而简练,但是如果能吃的话会越写越精彩的,其实我觉得一本作文集,不光是一些图片可以装饰的,更是能体现出一个人的观察能力。

虽然这篇文字不多,却包含着自己的努力!

嗑瓜子是我的嗜好。

当你磕细长的葵花籽时,首先要将瓜籽放在两齿之间,用舌头轻轻托起,一点点向尾部磕去,发出悦耳的声音,在我耳中仿佛是贝多芬,莫扎特的杰作,然后用舌轻巧一卷,仁儿便顺利滑进嘴,顿时塑像满口,回味无穷!

当你磕西瓜子时,可跟葵花籽是完全两样了,那需要十分精湛的技术,你若是急性子,耐不得园园瓜子的诱惑,一口下去,结果必是皮碎仁段,兴也会扫去半瓣儿,如果采取软磨硬泡的办法,结果也会令人烦恼,原本好好地一颗瓜子,就会被人碾得“粉身碎骨”连皮带子一股脑吞下,这种吃法也品不出其中的味道,而且也不大美观。

有一次,我看见父亲正在嗑瓜子,很有兴趣的请教他嗑瓜子的经验,爸爸不慌不忙的为我演示了他嗑瓜子的过程,然后对我说:“对待西瓜子,你既不急,也不可拖,要拿到十分的火候将那瓜子放在两齿之间,否则就是皮碎籽断的结果。接下来就是最关键的一步了,这时要用两指轻轻夹住瓜籽,要做到不送不紧,采取闪电战术的方法,“嘎”的一夹,皮破仁出,只剩下雪白丰厚的瓜子仁了。要是加上绿茶,效果会更加好。“爸爸说着深喝了一口茶。

我不禁惊叹道:“吃个瓜子还要这么多过程!”

爸爸对我说:“对!重要的是过程!有谁喜欢大把大把的抓仁吃呢?”

一副好画之所以打动欣赏者,是在于欣赏者本身的体味过程。一个真理产生是由于生活过程的积累,而不是生命枯竭那一刻得出的,十年寒窗,不仅为了金榜题名那一天,更是日积月累,博览群书的一段求索过程。

人生亦是如此,人为了生活过程而活,而不是为了死亡的那一天,如果你只重视结果而忽略了享受过程,那么你纵然付出很大代价而实现目标,回头看看,你的收获仅是结果了,而缺少生命过程中沉淀。

所以,我们有一切理由去真爱现有的一切,珍爱这个无比珍贵的生活过程。这就是嗑瓜籽的哲理。

秋天的遐想

秋天终于来了.我生长在南方,对南方的秋天有着不一般的喜爱和依恋.在南方,夏季来得漫长,以致秋天的到来总会比北方晚些.然而,南方秋与夏之间区别还是明显的.秋天是寒暑交替的季节.一场秋雨一场凉,前几天一场秋雨过后,不再有酷热难熬的气温,肆虐的秋老虎倏忽不见了踪影.人们可走出家门,走进大自然,尽情享受秋天别有一番的风景;秋天不再有放射灼人的紫外线,晒得皮肤火辣辣的,秋天的阳光给人的感觉是柔和妩媚的;淫威的台风,狂啸的暴雨也已远去,秋风给人的感受是爽快和惬意.秋与夏的区别除气候外,还有许多.比如树叶,秋和夏树叶的颜色反差彼大.一到秋季,树上的绿叶没有那么鲜绿了,慢慢地由绿变黄,随着秋天的深入大部分树种的树叶一片金黄,辉煌璀璨,在阵阵秋风扫荡下,片片黄叶也开始纷纷飘落大地,颇为壮观.乡村小道上,泥土气息渐渐浓郁起来,晨练和傍晚散步时,习习吹来的风带有丝丝的凉意.秋夜,月色不再朦胧,月亮皎洁明亮,清辉溢耀.郊外,散发出野花杂草阵阵清香;林中夜莺声声,清脆动听;树木花丛中,小鸟叽叽的叫,赏心悦耳.伴随秋而来的天籁之音美妙极了,疏落的蛙声,稀弱的蝉鸣声,似乎传递着夏天的离去.骤雨的停歇,鸟儿的歌唱则告诉人们秋天开始了.秋天是成熟收获的季节.乡村里,一片金灿灿的稻浪;山坡上,遍野的柑,橙,橘,柿等果实;瓜棚上,攀满瓜果藤芋与成熟的瓜果,等待着播种者的采摘,收割.我喜欢秋天.是因为它没有病菌,害虫的侵袭;是因为它没有暴风骤雨,没有雷电的打击;是因为它没有烈日和酷暑的炼狱;是因为它没有冰冻和寒冷的冷酷.我喜欢秋天的秋高气爽,喜欢秋天的硕果累累.秋天给我的印象,一幕,一幕,明朗,清晰……

我喜爱秋天,赞赏秋天,依恋家乡的秋天,期盼每年的中秋在家乡与远方的亲人团圆.前言

这是我第三本作文集,也是我第三次续写,这本作文集收录了我平时的练笔和一些课堂作文,都是自己的一些看法,感受,或许比法有些稚嫩,语音也不够流畅、优美,但是还是能不断完善的,通过不断练习,相信会越写越好。

古人云:读书破万卷,下笔如有神

作文水平的提高,固然不一定读书破万卷,但只要多读书吸取一些好的语句,思想便会更丰富;只要多笔耕,笔端便会如泉涌,让人感觉到快乐。

写作更多的是感受,当你学会大大方方的投入大千世界的怀抱世界必将回馈给你更灵动的文章。作为一名青少年,如果学会了写作,就是学会了独自面对生活,学会了独自面对自己,学会了思考人生,学会面对宇宙和未来,这是个人成长的声音,是生命拔节的声音。

我相信这第三次的写作必将会带来以后一次次的突破,越来越好,越来越美,越来越流畅,越来越棒!我用文字记录下自己生活,学习、思想中的点点滴滴,相信会更好更棒!

父爱在细微

有那么一个夜晚,我哭了,“他也哭了”,但那时我们并不是为甚么事哭!---题记

刚把我生下来的时候,也许它们在庆幸我的到来,也许它们再难过。还记得那是我刚生下来的时候就下了病危通知书,父亲在外面看着我,母亲却不知道,在那个夜晚,天上也许很黑,父亲不知哭了多长时间,而我却渐渐睡着了。

第二天,爸爸拿着钱,跟医生说一定要救我,医生问了爸爸很多遍,但是爸爸依然是那么坚定的说着,医生看见爸爸的坚定也就同意了,经过几天的抢救下,“我终于从阎王爷那回来了”,爸爸当时把我抱在怀里,高兴地感谢着医生。

就这样,我回到了我的家,这个很温馨的家,那个家真的很温暖、很快乐!

从幼儿园到小学我慢慢的长大了,父亲也慢慢的在变老,而那时我把我所有的精力都放在了学习中,从小学那时我已学会了如何感恩。

在这几年来,我渐渐的学会关心父亲,也让他知道我很爱很爱他。

虽然爸爸的脾气很不好,但是很少跟我生气,我知道他也是很爱很爱我这个女儿的。

为了感谢父亲,为此我编了首小诗:

父亲,您如一缕阳光,照耀着我。

父亲,您如一条大河,宽容着我。

父亲,您如一把伞,把我所有的委屈都丢掉。

父亲,您如一棵树,为我撑起一片阴凉。

父亲,您如一朵云,让我在天空中自由飞翔。

父亲,我感谢有你的日子。

父亲,我感谢是你给了我“生命”。父亲,我永远爱您。

一朵花,会永远为你盛开着,它会带给你无穷的快乐,让今后的我们父女感情更加好。---后记

读书的快乐

在我读书的岁月中,虽有老师的言笑,虽有异国朋友的真情友谊,但在我灵魂深处,仅有一扇开向心灵的小窗---我看得见长江的点点白帆,也可以看得见门前慈母的眼泪。总有一天,我我不再做枝上的夜莺低吟,我会像云雀那样一翅冲天,为中国唱出我赞美的诗章。___题记

我坐在水塘旁,静静看着那本书,我读到杨万里那首“泉眼无声惜细流,树阴照水爱晴柔 ”。泉眼默默,好像爱惜它那涓细的水流声,树阴映照着水塘,仿佛很依恋这晴丽的温柔。

“梅子金黄杏子肥,麦花雪白的水流声”,夏天梅子金黄,杏子肥而嫩。而麦穗花儿雪白,菜花却很稀少,这首诗仿佛把我带到田园生活里。

“等闲识得东风面,万紫千红总是春”,百花齐放,万紫千红,春意傲然的风景像让人总能闻到一缕缕扑鼻的花香。

“个个花开淡墨痕,只留清香满乾坤”朵朵梅花开放时显出了淡淡的墨痕,只求那清香气味充满天的见,令人回味无穷在读书中,虽没有金色的沙滩,但有真诚的情谊,在我记忆里,仅有一扇开向心灵的小窗---我能知道读书可以获取更多的知识,也知道读书增长智慧,总有一天,我不会再,再做一个平凡的人我要学会笨鸟先飞的方法,我要一翅冲天,因为读书可以获取知识、可以唱出我赞美的诗章。

我们每个人都要读书,但是读书地方法却截然不同,有的会有效的接受新的知识和内容,然而有的人则会吸收的很慢,我们虽然都读书,但是都有着不同的感受和快乐,在读书总也可以体会到友情的味道,爱国的味道,思念的味道。

让我们在读书中能收获一份惊喜、一份感动、一种人生的美丽哲理。

让我们为明天唱响。

读书就像滔滔不绝的大海,让我学会了许多知识;

读书有像一盏明灯,点亮了人生的辉煌;

精彩读书行,精彩了我的生活,丰富了我的知识。___后记

泪是有颜色的

泪是有颜色的,虽然它透明的像空气,但它的的确确背负着每个人背后的故事。

我笔下的泪,是苦的,是承载着伤痛与失望,是孕育着不得不发泄出来的悲哀,是用言语表达不出来,是用心体会的一丝雨点。它需要人们去理解去信任去感受,因为不是每个人都能笑过一生,有时,泪需要发泄,需要让它将你的痛楚完全展现,不要欺骗自己,其实,你很伤心,一味的逞强只是坚强的背后的懦弱罢了。一个人静一静,心里就不会那么痛了。

每个人都做过这样的梦,考试考了个第一名,老师夸奖,同学羡慕,家长喜欢。那是,是不是你的小世界都开花了,感受到的幸福是骄傲,是自豪。我也是这样的一个小女孩,喜欢把梦想放在现实之前,但是,每次都如曹操般“大失荆州”,但我毕竟只是个爱做梦的女孩子,一次次认为自己很努力,但是一次次的变成空气,沉淀到了如丝般得雨点中。

又是一次考试,又是一次失败,那个晚上,她给我打电话声音很小的说,多多,你这次考试不是很好。我心一惊,但马上又平静了下来,静静的等着她的下言。多多,你要努力啊,我知道你也很想好好学,但是我们支持你,你要好好的努力了。我僵硬的扯了一个比哭还难看的笑,不言。

我转过身,不言,过了许久,那个同学稍稍叹了口气,走了。

突然感觉,风好像很大,扑向柳枝,柳枝发疯了似的左右摇摆。不知怎么的,心竟然哭了。泪水不断的涌出来,伴随“淅淅沥沥”的雨水一同涌进我那干涸的心中。发丝厌倦的萎缩在皮肤上,模模糊糊的,看不清是喜是哀。泪水在手臂上滚动着,湿润着。我的心在慢慢的滋润着。

过了不知道多久,我停下了无止境的悲伤,总感觉,心好像放晴了,每每的现在,我都是放松的。我深吸了一口气,累了也倦了,躺在柔软的手臂上,渐渐的闭上了眼睛。

我梦见了,我梦见了,我梦见在一片广阔的草原上,我在奔跑,在拉着宿友们的手,笑着,嬉戏着,奔跑着,我们仿佛互相能够看到内心,纯净的,无任何隔阂的,总有一缕阳光在照射着我们,那时,我笑了,笑的事那么的灿烂,连花儿都失去了颜色,月亮都遮住了脸庞。

多多,醒醒,醒醒。我垂了垂头,渐渐的清醒了。

好好的哭一场,让内心无憾!

好好的哭一场,让内心无憾!

小结

作文集已经出炉了.初二的下学期结束了,初三的上学期也快开始了.我惊异最崭新的面孔去迎接初三上学期的到来.再见了,初二下!

你将成为我最美好的回忆,愿我们的作文集能做得更好!目录 前言 2 秋天的遐想父爱在细微处 4 读书的快乐 5 泪是有颜色的 6 品味嗑瓜子 7 做作文集的感想 8 小结 我的作文集 包美多

第四篇:《马克思恩格斯文集》和《列宁专题文集》学习心得

《马克思恩格斯文集》和《列宁专题文集》学习心得

哲学社会科学工作者的强大思想武器

在党中央的高度重视和大力支持下,由中央编译局专家们精心编选和新修订的《马克思恩格斯文集》和《列宁专题文集》正式出版了。这两部文集作为中央决定实施的马克思主义理论研究和建设工程的重大成果,对推动我国亿万人民和广大干部学习和运用马克思主义理论具有重要意义,特别是对我们哲学社会科学战线的工作者提供了强大 思想武器。这里,谈一些学习的粗浅体会。

一、哲学社会科学要坚持以马克思主义为指导,首先需要认真学习经典原著,完整准确地理解和把握马克思主义

改革开放以来,我国哲学社会科学一直保持正确方向蓬勃发展,取得丰硕成果,呈现一片繁荣的局面,其基本经验归结为一条就是始终坚持以马克思主义作为指导思想。为什么必须以马克思主义为指导?因为它是产生于实际又在实际生活中被反复证明了的科学真理。马克思主义是现代无产阶级的世界观和方法论,是无产阶级争取自身解放和整个人类解放的理论,它深刻地揭示了人类社会发展的客观规律,论证了资本主义被社会主义、共产主义取代的历史必然性,并阐明了无产阶级在这一伟大社会变革中承担的历史使命。马克思主义又是博大精深的科学体系,是关于自然、社会和人类思维的普遍规律的学说,其丰富的内容涵盖社会的经济、政治、文化、历史、军事以及意识形态等各个方面,向人们提供正确的历史观、价值观、人生观和认识方法,对哲学社会科学研究的一切领域都具有普遍的指导意义,是帮助我们认识世界和改造世界的强有力武器。实践是检验真理的唯一标准。马克思主义诞生以来一百多年世界历史进程已经雄辩地证明,唯有马克思主义才是现时代的真理,它不仅是代表进步人类的革命理想,而且早已通过革命实践得到实现,对人类社会发展和变革产生了巨大而深远的影响。中国革命的胜利和中国特色社会主义建设的辉煌成就都是在马克思主义理论指导下取得的,这就是马克思主义的真理性和科学性的最有力的证明。

要在哲学社会科学研究中贯彻以马克思主义为指导,必要的前提是首先要真正弄懂什么是马克思主义,要求能够完整准确地理解和把握马克思主义的科学体系。有人想走什么“捷径”,仅仅根据二三手材料的转述或寻章摘句式地引用片言只语去讲马克思主义,这是最要不得的,不仅不可能帮助人们正确地理解马克思主义的科学体系和精神实质,反而会导致片面的认识、甚至完全错误的曲解。毛泽东同志早就说过,马克思列宁主义是科学,科学是老老实实的学问,任何一点调皮都是不行的。因此,唯一切实可行的办法就是老老实实地认真刻苦阅读和钻研经典原著,直接向经典作家们求教,弄清楚马克思主义革命学说的原意和精髓所在。列宁在十月革命后曾不止一次地提倡阅读经典原著,谆谆教导年轻同志要克服畏难情绪,花些时间至少要读几本马克思和恩格斯的主要著作。我们党和几代领导人也历来倡导学习马列主义著作,重视翻译出版经典著作,并把一些重要著作列为干部学习理论的必读书,对提高全党的马克思主义理论水平起了积极的推动作用。马克思、恩格斯、列宁留给我们的文献遗产极其丰富,他们的著作全集篇幅浩瀚,对于马克思主义专业研究者来说,自然是应该尽可能多读和熟悉他们的所有著作,而对一般哲学社会科学工作者来说,学习的主要目的是能全面准确地理解马克思主义的基本原理和科学体系,用来指导自己的专业研究工作。认真学习经典著作是为了能够分清哪些是必须坚持的马克思主义基本原理,哪

些是需要结合新的实际加以丰富发展的理论判断,哪些是必须破除的对马克思主义的教条式的理解,哪些是必须澄清的附加在马克思主义名下的错误观点。这样,就使我们能更好地把马克思主义运用于哲学社会科学的研究,明辨是非,拒斥和反驳形形色色的敌人对马克思主义的一切歪曲和攻击。《马克思恩格斯文集》和《列宁专题文集》收入了经典作家各个时期的最重要的著作和论述,凝聚着马克思主义的精华,可以说是哲学社会科学工作者案头必备的、适合于现时代需要的学习和研究马克思主义的必读书。

二、马克思主义是发展的科学,学习经典著作要采取历史的科学的态度,必须理论联系实际,不是把理论当作教条而是当作行动的指南

哲学社会科学研究工作者不仅要通过学习弄清楚什么是马克思主义,而且必须用正确的态度去对待马克思主义。恩格斯曾批评某些人用学理主义和教条主义的态度去对待马克思主义理论,以为只要把它背得烂熟,就足以满足一切需要,对他们来说,理论是教条而不是行动的指南。恩格斯不止一次地坚决反对这种对待马克思主义的错误态度,强调指出“我们的理论是发展着的理论,而不是必须背得烂熟并机械地加以重复的教条”(《马克思恩格斯文集》第10卷第562页)。在马克思主义看来,理论来源于实践,又为实践服务并指导实践,由于实践是不断发展的,因此理论本身也必须随着实践而发展创新。所以说,坚持一切从实际出发,理论联系实际,与时俱进,在实践中检验真理和发展真理,是马克思主义最重要的理论品质。它必须跟着时代的步伐前进,而决不能停滞不前,如果发展停止了,思想僵化,把理论变成僵死的、一成不变的神圣教条,固步自封,满足于老一套,它就没有生命力了。这一点,对哲学社会科学研究来说尤其重要。学习马克思主义决

不在于熟练地背诵经典著作中的个别论断和现成的结论,而在于学会掌握马克思主义的立场、观点和方法,深刻地领会其精神实质,善于灵活地和创造性地运用马克思主义基本原理去研究和解决实际问题。马克思主义之所以能够永葆革命青春,始终保持强大的活力,就是因为它永远和实践保持密切联系,总是能够适应于新的历史条件,对出现的新问题作出新的回答而不断地丰富和发展自己。马克思主义最富于探索精神,勇于创新,永不满足于现状,这正是哲学社会科学研究者最需要学习的品质。马克思主义不承认有什么绝对的终极真理,它公开申明自己并没有结束真理,只是为探索真理和认识真理提供了科学的手段,为人们在实践中日益接近真理开辟道路。正是有了这样强大的思想武器,我国哲学社会科学才能在探索建设中国特色社会主义的道路上不断前进。

对于哲学社会科学来说,十分重要的是马克思主义提供了科学的研究方法。恩格斯曾经说过,马克思的整个世界观不是教义,而是方法。它提供的不是现成的教条,而是进一步研究的出发点和供这种研究使用的方法。他还告诫说,“如果不把唯物主义方法当作研究历史的指南,而把它当作现成的公式,按照它来剪裁各种历史事实,那它就会转变为自己的对立物”(《马克思恩格斯文集》第10卷第583页)。这里所说的方法,就是唯物辩证法和唯物史观。根据经典作家们的论述,这种研究方法的要旨有以下几点:第一,科学研究不应从抽象的原则出发,而应从现实出发,以顽强的事实作为根据;原则不是研究的出发点,而是它的最终结果。第二,科学研究要求对每一特殊的历史情况进行具体的分析,列宁把具体地分析具体的情况,看作马克思主义的活的灵魂,真理总是具体的,切忌用抽象的概念来代替具体的东西。第三,在分析任何一个社会问题时,马克思主义理论的绝对要求,就是要把问题提到一定的历史范围之内,不能脱离历史条件和具体时间、环境去考虑问题。第四,在阶级社会里,只要存在着阶级斗争,就应采取阶级分析的方法,人们的思想、意识、社会活动无不带有阶级的烙印。第五,历史和逻辑的辩证的统一,思维的发展归根到底只是客观现实的反映,在科学研究中逻辑的方法必须以历史的实际发展为基础。马克思主义经典作家运用这种科学方法取得了辉煌的成功,为我们树立了典范。但要牢记,马克思主义的立场、观点和方法是统一整体,三者是密不可分的。因此,在哲学社会科学的研究中学习运用这种科学方法,也就是学习掌握马克思主义立场、观点和方法的具体体现。

三、学习马克思主义经典著作,根本目的在于运用,必须密切结合中国的实际,以我们正在做的事情为中心,解决中国特色社会主义建设中的新问题,推进马克思主义的中国化

马克思主义是放之四海而皆准的普遍真理,但要在人们的实践中发挥作用,必须与各国的具体实际相结合。马克思主义的创始人完成了哲学社会科学中的伟大变革,发现了关于人类社会发展的客观规律和基本原理,然而他们明确指出,这些原理的实际运用,随时随地都要以当时的历史条件为转移。列宁也十分强调要根据各国的不同情况去独立地探索马克思的理论,因为它所提供的只是一般的指导原理,而这些原理的应用具体地说在各国都是不同的。这不仅适用于无产阶级革命,也同样适用于夺取政权后的社会主义建设。列宁创建了世界上第一个社会主义国家,但他从不认为建设社会主义的所有国家都应遵循统一模式。他指出,一切民族都将不可避免地走到社会主义,但走法却不完全一样,每个民族都会有自己的特点。中国革命和社会主义建设的伟大胜利,完全印证了马克思主义经

典作家的上述思想。以毛泽东同志为代表的中国共产党人独立自主地、创造性地把马克思主义普遍真理同中国革命的具体实际相结合,找到了农村包围城市武装夺取政权的道路,取得了继十月革命后又一个具有世界历史意义的胜利。早在1938年,毛泽东同志就提出“马克思主义中国化”的任务,就是要把马克思主义应用到中国具体环境的具体斗争中去。而毛泽东思想作为马克思主义与中国实际相结合的成果,是马克思主义理论在中国的进一步丰富和发展。新中国成立以来,我国社会主义建设的经验也证明了马克思主义普遍真理与中国实际相结合的重要性,凡是结合得好的,就能在工作中取得成功,反之就会遭到挫折、走弯路。正是在总结我国社会主义建设经验教训的基础上,我们党开辟了中国特色社会主义道路,形成了中国特色社会主义理论体系。中国特色社会主义理论体系内容极其丰富,包括邓小平理论、“三个代表”重要思想以及科学发展观等重大战略思想在内的科学理论体系,是创造性地把马克思主义普遍真理与当代中国实际相结合的产物,是马克思主义中国化的最新成果。中国特色社会主义理论体系回答了当代中国社会主义建设中的重大问题,即什么是社会主义,怎样建设社会主义,建设一个什么样的党,怎样建设党,实现什么样的发展,怎样发展。我们开展哲学社会科学研究,归根到底目的是为了解决中国社会所面临的实际问题,为当前正在进行的社会主义现代化建设服务。因此,要把学习研究马克思主义经典著作和阐释宣传中国特色社会主义理论体系紧密结合起来,用马克思主义中国化的最新成果来武装哲学社会科学工作者的头脑。

四、学习研究经典著作,要以经典作家为榜样,学习他们科学的严谨的治学精神,树立马克思主义学风

在建设中国特色社会主义的宏伟事业中,哲学社会科学承担着重要的使命,要促进哲学社会科学繁荣发展,就需要端正我们的学风。在这方面,马克思主义经典作家为我们树立了典范。

哲学社会科学研究本质上是一种创造性的复杂劳动,它要求研究者必须实事求是,尊重科学,尊重事实,把真理作为科学最高的价值追求。通往真理的道路往往是曲折的,充满荆棘险阻、崎岖难行。科学研究要取得有价值的成就,就要有开辟新天地的精神,需要付出大量辛勤的劳动。研究者不仅要有矢志于科学、锲而不舍、坚韧不拔、百折不挠的坚强意志,而且要有思想解放、独立思考、勇于探索的创新精神。科学研究本身又是来不得半点虚假和浮夸的,研究者必需具备深厚的学术知识积累、宽广的视野和严谨的治学精神。而所有这些都体现在了马克思主义经典著作里。今天,我们哲学社会科学工作者需要学习的正是这种马克思主义学风。

做学问、从事科学研究决不能有浮躁心理,切忌急功近利,浅尝辄止,哗众取宠,要甘于寂寞,持之以恒,根据科学研究的规律办事。恩格斯曾经说过,“即使只是在一个单独的历史事例上发展唯物主义的观点,也是一项要求多年冷静钻研的科学工作,因为很明显,在这里只说空话是无济于事的,只有靠大量的、批判地审查过的、充分地掌握了的历史资料,才能解决这样的任务。”(《马克思恩格斯文集》第2卷第598页)只有采取这样严谨的治学态度,才能有真正理论上的创新。

理论创新需要研究者有不畏艰险、知难而进的理论勇气,《资本论》就是光辉的例证。马克思在该书法文版序言中说:“在科学上没有平坦的大道,只有不畏劳苦沿着陡峭山路攀登的人,才有希望达到光辉的顶点。”(《马克思恩格斯文集》

第5卷第24页)马克思的这一名言,我们每一个哲学社会科学工作者都应永远铭记在心。(

第五篇:读陶行知文集的感想

有一天,小主人放学回家了。他走进自己得书房,拿出文具盒,从里面拿出一枝铅笔,写起作业来,一不小心,写错了一个字,小主人又拿起橡皮,这下橡皮可高兴了,把那个错字擦了,擦完后,小主人又拿起了铅笔,这时铅笔似乎也很高兴,在作业纸上跳起了优美的舞姿。经过一天又一天,铅笔越来越瞧不起橡皮了。于是,铅笔和橡皮边吵了起来。铅笔带着轻蔑的口气,对橡皮说:“你这个没用的东西,瞧!小主人天天用我做作业,如过没有我,小主人就完不成作业,老师就会批评他的,我的本领是文具里最大的,哈哈。”橡皮听了铅笔的话,立刻把眼睛瞪了起来,气呼呼地说:“如果没有我,小主人如果写错了字,又没有东西擦掉那个错字,即算是把作业做完了,老师还是会批评他的。”“我才是最有的,我才是最有用的。”他们就这样你一言,我一语的争着。最后,他们分开了,橡皮走进了文具盒的底层,上层只留下了铅笔。第二天,小主人做作业的时候,写错了字,没看见橡皮,更正不了错字,只好把错的作业放进了书包。当小主人去上学的时候,受了老师的一顿臭骂。这时,文具盒对铅笔和橡皮说:“看见了吧!你们谁都是不可缺少的。还有铅笔,你只看见了自己的长处,没看见自己的短处„„”铅笔听了文具盒的话,羞愧的低下了头。

从此以后,铅笔和橡皮成为了一对好朋友,密切地合作着,再也没发生过吵架的事„„

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