第一篇:对中日文化交流的切身感受
中日文化比较这门课我上了大概一个学期了,在老师的积极教学与耐心指导下我对中日的政治、经济和文化都有了初步的认识与了解。在课程学习当中我不仅深刻地明白了文化间的博大精深,而且还进一步地认识到了文化交流也会带来的社会影响。中国和日本,隔海遥遥相望,在现代交通日益发展的今天,简直可以说是近在咫尺啊。但中日关系一直是一个敏感的话题。相当多的国人谈起日本就咬牙切齿,愤愤不平。去年发生的中日钓鱼岛撞船事件更是激化了两国的矛盾。但这都与文化无关,中日文化的交流史源远流长所以,中国和日本开始见交的历史,应该也算是源远流长。
一般的朋友都认为两国的见交开始于唐代,但是中日两国的研究者发现,实际上两国的见交远远早于唐代。很多朋友都学过历史:日本的文字来源于中国,时间是唐朝,大多数朋友认为中日交流起源于唐代。但是,据中日两国学者研究发现,比这个时间实际上还要早。从汉朝时期开始,中日之间就有了相互借鉴的经验。到了隋唐,尤其是唐朝,日本进一步开始了与中国的友好往来。他们不仅用中国文字造出了日语假名,而且在行政、建筑上有很多借鉴了唐朝,甚至行事习惯上也有所影响。众所周知,除了文字以外,日本的都道府县制就是仿造唐朝的“道州郡县”制;日本的饮食上也有诸多在中国文化的基础上演变的地方建筑风格上,日本的京都等地至今仍然保留着唐朝的风格。不仅文化上,思想上也有相互借鉴的影子,中国的首都自南向北逐渐迁移,而日本也是由东向西,最后定都东京;而且于中国 的北京、上海一样,日本也是一个政治中心东京、一个商业中心大阪。总而言之,中日交流有着相当长的一段历史。
正因为中日之间的文化交流已经深深地印上了时代的烙印,我们才能够更清楚的发现,在我们身边方方面面都闪现着文化融合的痕迹。中日文化交流极其丰富多彩,涉及文化的方方面面,无论是从狭义文化概念所包含的哲学、文学、史学、科学、宗教、教育、美术、音乐、舞蹈、书法、体育、建筑、工艺、园林、民俗等领域,或者按广义文化概念所述的物质文化、制度文化、精神文化诸层面,无处不有。日本著名学者内藤湖南曾把中国文化在日本文化形成中所起的巨大作用,比喻为做豆腐时加卤水。至今在日本的文化和社会生活、风俗习惯中还处处可以看到中国古代文化影响的烙印。近年来,双方在商业展演、音乐影视、动漫游戏等新兴文化产业领域的交流与合作蓬勃发展。目前,日本已成为中国最重要的文化贸易伙伴之一。近年来,中日两国举办了众多大型文化交流活动,更是促进了两国的交流。
虽然没有真正去过日本,但从电视剧,纪录片中我都能发现中日文化的相似之处,这也算是我对中日文化的切身感受了。
首先是语言文字方面,电视剧中,看着日本大街上一个个似曾相识的字体,我还曾对盆友说过我会日语,但现在看来,日本文字的形成应该是当时的中日文化交流的产物,据了解,一千多年前,大量的日本来华留学生—遣唐使、遣隋使,将先进的中华文明,包括语言文字带到了日本。日本从此正式开始了使用文字记载语言的历史,最初日语的每一个音,都是由一个汉字表达。公元九世纪,日本人在汉字基础上创造了假名。现在日语中,假名共有71个,最基本的有46个,排列成“五十音图”(字母表)。日本人引入中国汉字时模仿该字汉语发音的读法。由于中国汉字进入日本是一个较长的过程,中国不同朝代的“普通话”有所差异,这在日语汉字的读音上也留下了不同的痕迹。因此,在现代日语中一个汉字的普通读音通常有两种,称为“吴音”和“汉音”
其次是建筑,在我的印象当中,中国,日本,韩国这三个国家的古代建筑总有那么一点相似之处,日本在南北朝时主要以朝鲜半岛为中介与中国进行文化交流。公元588年日本建法兴寺,佛教通过朝鲜半岛东传日本,以后,随着日本佛寺的大量兴建,中国建筑体系也不断传入日本。日本于公元593年建的四天王寺,公元607年建的法隆寺,都是经朝鲜传入的中国南北朝末年式样。公元794年,日本迁都平安京后,唐文化虽仍继续传入,但日本文化(包括建筑)在融合唐文化后,已逐渐走上自已发展的道路,创出自己的风格。
最后是文学方面,日本直到中国的汉字传入之后才开始有书写系统,但在最早汉字尚未能适用于书写日语时,中国文言文仍是唯一的文学形式。直到后来才发展出能够用于表记日语的万叶假名。在日本奈良时代所创作的作品包括712年的《古事记》(为神话与史实参半的史书)、720年的《日本书纪》(以编年体写成,为日本流传至今最早的正史)和759年的《万叶集》。等
第二篇:唐の时代の中日文化交流
唐の時代の中日文化交流
―――遣唐使円仁について
309-2002 陳
高
峰
はじめに:
中国古代史上では、日本との外交関係に於いて、三大ピークがあった。それは(1)漢の時代、日本と緊密な政治、経済の関係を持っていた。この時期、日本と中国は初めて友好的外交をし始めた。(2)隋唐の時代、中国は封建制社会が最盛期に迎え、日本は中国との政治的、経済的、そして文化的交流を一向深まった。(3)明清の時代に入ってから、日中関係は不幸が被りし始め、両国の交流に陰鬱な影を与えたのである。しかし、古代日中交流の三大ピークの中で、日本に一番影響を与えたのはこの第二のピーク、つまり、隋唐時代とりわけ唐の時代である。今でもこのときの影響が日本社会を響いているのである。序論:
日中交流といえば、はじめで述べたように、古代では三大ピークがあり、そして、それぞれに特徴や原因がある。たとえば:
(1)漢 の時代
概況:中国と日本とがわりに頻繁的な政治と経済の交流関係を持ちし始めた。特徴:日本は始めて中国に使者を遣わし、直接接続での緊密な連絡を立てられた。両方の政府特使の連絡先だけでなく、経済、文化の交流をなされた。
原因:①シルクロードの開通で、世界で漢の経済や文化が、世界の先進国を示したし、大きな魅力を世間に展示した。そして統治者が開明的な外交政策を実施したのである。
そのため、後漢の建武中元2年間(57年)の正月には、倭の奴国王が使節を洛陽に派遣して朝貢をしに来た、光武皇帝の劉秀は倭の奴国王を“漢倭の奴国王”を賜り、「漢倭の奴国印」という印綬を授けた。
(2)隋唐の時代
概況:隋、唐王朝は中国の封建社会の繁栄期であり、経済や文化が世界をリードして、対外交通(陸路、海路)は、過去より発達した。政府の奨励と支持の元で、唐王朝は、欧州やアジアの国々との交流が前例のない以上壭大な盛況に達した。その時では、中国はアジア各国の経済や文化の交流のハブとなっていた。
特徴:①範囲が広い。中国の対外経済、文化の交流空間的範囲はかなり拡大し、東アジア、東南アジア、中央アジア、西アジアを除いて、ヨーロッパ、アフリカにも頻繁的な接触があった。②レベルが高い。中国はすでに東方の経済と文化交流の中心となり、いくつかの近隣諸国の経済と文化の交流が、ただ通常の行き来するに限られていなく、人材育成と経済交流の中心になっている。③兼収併蓄。④政策がさらに開放した。中国への外国投資を奨励し、永続的に中国内に居住する;そして中国人との結婚、中国で公式に官職に仕える。⑤対外交通では水陸を同時に行う。
理由:①唐王朝が強いし、安定した政治環境がある。②経済や文化の世界的リーダーの地位にある。③対外交通は、過去に比べて発達された。④外交政策が開放された。(3)、明清の時代(アヘン戦争前):
概要:①明の前期には頻繁に外国と接触し、東南アジアの発展を促進した。②明の中後期、欧米の植民地は東に始めている、中国は外国の侵略の犠牲者となった:日本からの海賊が南東部の海岸に嫌がらせをし始め、北部国境は、ロシアの侵略を受け、オランダ軍が台湾を侵略し占領、ポルトガルがマカオを占有した。明清政府は侵略に対する闘争をし、反海賊とロシアの侵略闘争の勝利を納めた。鄭成功はオランダの植民者を敗れて台湾を回復した。
特徴:対外政策が開放政策から閉国になり、侵略と反侵略は、この期間の対外関係の要素になっている。
原因:前期開放したのは国家の繁栄と賢明な統治のためであった。後期閉国の原因は、内部要因としては、明、清時代の中国の封建制度徐々に衰弱し、崩壊しにいく;外部要因は海賊が中国南東部の海岸に対する嫌がらせ、と西方の植民者の東来である。
しかしだが、本文は漢の日中交流や明清時代の日中交流を述べるつもりはない、ただ述べたいのは唐の時代の遣唐使によっての日中交流であり。その遣唐使の中の一人として、円仁を見てみたいのである。本論:
唐の時代では、日中交流の架け橋の役として中国に渡って、そして長年に長安に在住し、仏教をとことん研究した留学僧としての円仁はいかにどんな人物であり、そして、日本に中国から何を伝えたのだった、どのように中国で長年滞在したのか?それらについて、見ていこう。1、円仁(794-864)その人
1)背景:紀元七世紀、唐王朝は中国の封建社会の繁栄期であり、経済や文化が世界をリードして、対外交通(陸路、海路)は、過去より発達した。政府の奨励と支持の元で、唐王朝は、欧州やアジアの国々との交流が前例のない以上壭大な盛況に達した。その時では、中国はアジア各国の経済や文化の交流のハブとなっていた。日本の大和皇朝は大化革新を経て、中国の隋唐文明を学び、だんだん強くなってきた。
隋唐の時代には、古代の中日交往の最高潮に達し、日本は前後として13回(「『遣唐使の見た中国』古瀬奈津子 吉川弘文館発行 二〇〇三年(平成十五年)五月一日 初版印刷」によれば、全部で20回であるとある。また、『中日外交発展史』 2004 MPA中日関係
王頴芳によれば、全部で18回だという)に渡って中国に“遣唐使”を遣わした。日本の大化改新は唐王朝の制度を手本とし、都城が唐の都の長安の様式を真似し、各クラスの学校では儒学を教えになって、唐王朝との貿易往来も頻繁になっていた。2)円仁の生涯:
その“遣唐使”の中で、円仁という留学僧がいた。円仁は日本仏教の天台宗の開派人である。彼は日本桓武天皇延歴十三年(唐德宗貞元十年)(西暦紀元七九四~八**年)うまれであり、下野縣都賀郡(栃木県都賀郡)出身で、俗姓は壬生氏である。『熊倉系図』の記載によると、円仁の父は首麻呂、かつて都賀郡三鴨駅長を勤め、郡中にある大慈寺の施主であった。円仁の兄は秋主で、従七位下の官職があった。円仁は幼年の時父を無くせ、九歳から兄について「外典」及び「経史」を習って、そのおかげで、彼は小さい時から中国文化と仏教気息の薫陶を受けていた。円仁は「口に俗典を唱え、心に仏乗を慕う」ため、後に原籍の大慈寺名僧である広智の門下で落発した。広智は大慈寺の三祖であり、二祖の道忠の弟子であった。道忠は嘗て平城京に行って日本に東渡ってきた中国天台宗の第四代祖師である鑑真に師事したことがあり、鑑真に「持戒第一」と称される高足であった。同時に広智はまた日本の唐に求法した名僧の最澄に従って密教法を受けた。こんな淵源があったからこそ、円仁は十五歳の時に京都滋賀県にある日本の仏教聖地である比叡山に上り、最澄の膝下に来て、日本天台宗の創作者であった最澄の弟子になった。彼は苦学精進したため、すぐに頭角が露出したし、二十歳に官試に合格し[1]、天台宗仏学研究の高い学位を獲得し、翌年(紀元813年)十二月「遮那業」によって済度された。最澄に従って仏法を習った最前後して十四年間、円仁は最澄の左右について、天台教義を高揚するために厭わずにしていた。弘仁十三年(紀元822年)、最澄は元寂した。それとほぼ同時に、朝廷は最澄が生前に於いて提出された比叡山に大乗園頓戒壇を設立する申請を同意してくれた。そこで、逝去以降に及んで、苦行に励んでいた年がちょうど而立(三十歳)になった円仁は責任を感じて先師の遺志を受け継ぎ、教授師を担当して、壇を開いて法を弘揚した。従って、円仁は入唐して求法巡礼した前に、すでに日本天台宗の知名高僧であった。
承和五年(唐の文宗大和十二年、八三八)勅命を奉じて仏法を求めに入唐し(「『遣唐使の見た中国』古瀬奈津子 吉川弘文館発行 二〇〇三年(平成十五年)五月一日 初版印刷」によれば、円仁が遣唐使として入唐したのは20回のうち19回目のことだった)、唐にいる間で師について仏教の顕密各宗を修習し、長安で長年に住んでいて、唐の名僧に度々教えを習得、また天台山を遊歴し、各地方における密教の奥義を探った。唐の武宗の会昌五年(八四五)に天下の僧侶を俗に返すと命令を下した。唐の宣宗の大中元年(八四七)に日本に帰った。
2、入唐と『行記』
1)円仁入唐:円仁の『入唐求法巡禮行記』は中国唐の時代の社会政治、経済、宗教、文化及び中日両国関係を研究するに貴重な資料であり、日本の学者はこれを「東洋学界の至宝」と称え、玄奘の『大唐西遊記』、『マルコポーロ行記』と並べて世界の三大旅行記と言われ、世界文化史上では名を馳せている。円仁の『行記』は年代が久遠し、古写本、影印本、活字本及び中国語で訳された英、法、日等多種の文字がある。
円仁は鑑真の三代目の弟子であり、日本天台宗を継承と完全された高僧である。日本天台宗の祖庭は中国にあり、日本仁明天皇承和三年(紀元836年、唐文宗开成元年)、すでに四十五歳であった円仁は毅然として政府が仕組んだ遣唐使について、日本比叡山延历寺が未決した天台教義三十条を携えて、「請益僧」の身分として入唐し仏法を求めに行こうとした。しかし、彼は日本第十八回遣唐使藤原常嗣 について二度も西へ渡ったが、失敗したのであった。そして円仁は承和五年、唐の文宗の开成三年(紀元838年)に第三度に船に上り、遣唐使についてまた訪祖求法のために入唐しようとした。今度は成功を納めた。彼らは六月中旬から出発した。円仁たちは離国してから、唐の开成三年(即ち承和五年)七月二日に海の中で十九日間の風浪揺れ動きで、九死一生になってから、揚州の海陵県の白湖鎮桑田郷東梁豊村に到着して、八月二十八日に揚州に着き、岸に上がってから、開元寺に住み入り、揚州で朝貢史を待っていた。翌年の開成四年(839)二月に揚州を離れて、ようやく楚州(江蘇淮安)に北上し、使節団と会合した。円仁は台州へは行けないのだから、策を立ててひそかに唐に残って、朝貢史について日本に戻らなかった。六月七日、円仁一行は登州文登県清寧郷赤山村新罗院について、ここでまた一冬を過ごした。開成五年二月十九日に赤山新羅院から出発して、登州(蓬莱)を経て青州に到着した。四月三日にとうとう五台山へ行った。四月二十八日に天台宗聖地—山西五台山にやっと着いた。赤山新羅院から離れた時より計算すれば、陸上で2300余里の距離を歩いた。日記で書いたように:「虚日を除いて、道中で行くことちょうど四十四日間。」五月一日より、五台を巡礼し、名僧に参謁して、天台座主志遠に延历寺の未決三十条を決釈してもらいたいが、志遠和尚は直接で彼の疑問に答えなかった。円仁らは五台山で二カ月間過ごした。同じ年の七月一日に五台を離れて長安に向かって進発した。八月二十三日に長安に着き、功徳使チ牒状をもらって、暫く資聖寺に寄宿することを許可された。円仁は長安で、元政に従って金剛界大法を受け、義真について胎蔵並蘇悉地法、また法全に師事して胎蔵を受けた。その後また改めて南天竺宝月に従って悉昙をならって、それに少なからず仏典や仏画を収集した。円仁は長安で一年近く滞在して、会昌元年八月頭になって、求法修行活動がほとんど終わった。従って彼は状を書いて功徳使に呈上して帰国を申請した。然し、事情の発展は本願にしかずにして、政治気候が変わったことによって、会昌二年三月、巡院帖報が資聖寺に到着し、原帖状令の保外客僧出寺に対しての処理意見は許可されなかった。もし武宗が廃仏した、天下の僧尼を俗に還させたり、強制出国させたりしなければ、円仁立ちは長安で留らせる時間がもっと長かったのかもしれない。会昌五年三月十六日、円仁一行三人は長安から逃げ出して、淮水(わいすい)を渡って江蘇の煦胎について、もともとここから直接に楚州に赴き、船を探して海を渡りたかったが、県家が許可しなく、必ず揚州に渡さなければならないのであった。江都によって江陽に渡されてから、ようやく楚州へ行くのを許可された。もともと「日本国の朝貢史がここから船に登って海を渡って帰国すると思ったが、円仁たちをここに渡して帰国させ、どうぞここから海を渡ってください」、こうすれば理屈通じるし、問題がないはずだった。しかし、山陽県が「当州はまだ海の極まりではない」と理由づけ、必ず「登州の地極のところに行かせねばならない」。そうして、円仁一行はまた千里の外にある登州に行かせた。会昌五年八月十六日、円仁一行はみすぼらしく二回目に登州に入って、相変わらず赤山新羅院に寄宿した。彼らは本来とりあえず一冬を過ごして、来年春に入ったら渡航帰国しようと考えたのだが、不意に政治気候が多変して、唐の武宗が「会昌排仏」を起こし、官吏たちが横行ばっこしていて、絶えずに遮りを受けさせられた。これは円仁に十分苦難させられて、二年余の苦労顛倒の後、ようやく唐の宣宗大中元年(紀元847年)九月に帰国した。帰国を求めるために、円仁は南北に走ったりしていて、曲折に力を尽くした最終に、やっと新羅の商船に間に合って海を渡って帰国したことができた。会昌七年九 月十八日に博多津につき、鴻臚館に入った。円仁は唐に入って求法巡礼して、承和五年(838)六月出航から、承和十四年(847)九月祖国の土地を踏んだ時まで、指で計算すると、その間に9年と3カ月間隔て、円仁は後期入唐請益僧の中で唐に滞在時間が一番長く、経歴が最も艱難曲折であった記録を作りだした。
もともと円仁は入唐して求法した時、彼の初願は仏教聖地の浙江台州にある天台山の国清寺に行って求法巡礼し、高僧にあって疑惑を解説してもらって、請益僧として(訪問学者)短期留学をしようと考えていたが、開成三年八月の初め、揚州府に到達した直後、急いで州衙に牒文を呈上し、台州へ師を探して疑を解決しようと申し出た。円仁は都に入る使節団のメンバーに入られなかったため、直接揚州から台州に行こうと思ったが許可されなかった。十月の初め、使節団一行35人が都に入って朝見に行った、円仁たちは揚州で大使たちの入京した消息を待っていた。天台禅林寺の僧の敬文が揚州に到達したとき、円仁は彼と筆談で情を通って、そして、敬文はさらに円仁に「先に斬って後に奏上する」、つまり、「先に天台に行って、それから勅許を待つ」という方法を取ろうと進めたが、これに対して、円仁は軽々でこれに従うことを恐れていた。開成四年二月、使節団は楚州に戻って、円仁たちは揚州から北上して楚州で使節団と会合して、台州へ行くことの始末がやっと分かった。当初大使が京に着いた日に、すぐに請益僧が台州へ行くことを奏上したが、礼賓使は「まだ対面する前にはすべてのことを奏聞できない」を意見とした、時間が余り無いので、再三に奏上するように促したが、相変わらず許可されなかった。結局のところ、朝廷の返事は:「使者たちの帰国日が近づいていて、揚州から台州までには、道がはるかに遠く、僧侶はそこに行って帰るときに、だいたい使節団が帰るのに間に合わないだろう、そうするとまた何によって本国に帰還できるか?依然として台州へは許さない。」その後「対面の日にまた奏上」して、「後にまた改めて奏上」したんだけれども、終始として許可されなかった。これで、円仁が台州へ行く計画の渇望は水の泡になった。このように、なかなか唐王朝の許可をもらえなくて、仕方なく予定を変えざるを得なく、もう一つ仏教聖地の山西五台山へ朝拝に行くことになって、その後また唐王朝の都である長安へ行って四年十カ月滞在した。
中国にいた約十年間、円仁の足跡が江蘇、山東、河北、山西、陝西、河南、安徽など七省に渡ったのだ。途中で、彼は灌頂を受け、梵語、中国語及び法華顕教、真言密教を学んで、経巻を書き、並びに曼荼羅買功徳幀を描いた。孜々にして厭わず、力を尽して学を受けた。同時に彼もまたひろく当時中国の上下クラスの官吏、僧呂、百姓と接触して、自分自身の目でその時代で起きた大小の事件を見ていた。この十年間の見聞や感想が、すべて一部の日記体裁で書かれた『入唐求法巡礼行記』の中に凝縮されたのであった。
2)『行記』:円仁は一生では著作が百余部あり、そのなかで最も有名なのは『入唐求法巡礼記』4巻がある。円仁が仏経に関系する典籍著作は甚だ多いのであるが、しかし、彼の特殊な貢献は彼が一つ価値の極めて高い史料である『入唐求法巡礼記』を世に残したことにあるのであった。此の本は日本承和五年(唐文宗開成三年、紀元838年)6月から始め、承和十四年(唐の宣宗大中元年、紀元847年)12月まで終わりのすべての見聞を、日記体裁で記録していたものであり、時間が10年近いほど長く、地域が中国の7省計20余州60余県に広い範囲に渡り、内容が晩唐の時代の社会経済、政治、宗教、文化、僧俗の交わり、季節、風俗及び唐、日、(新)羅関系など諸々方面を含め、広い資料的価値があり、日本の学界では非常に重視されている。
日本の学者の牧田諦亮は、日本の僧侶が日本仏教の母体と祖国である中国を遊歴して残った旅行記は、代表的な文献が大体3種類を挙げられる、天台の慈覚大師円仁の『入唐求法巡礼行記』四卷がその3種類の一つであると言っている。アメリカの著名な東アジア研究学者であって、かつてアメリカ駐日大使を務めたエドウイン•オールドファーザー•ライシャワー博士(Edwin O Reischauer)『円仁の日記:入唐求法巡礼行記』(『Ennin's Diary』)を題目として、1955年にそれを英訳にし、また注釈を付けて、『円仁が唐代中国の旅行』の本を編修し、同時でアメリカで出版したし、独、仏の二カ国語に訳された。赖ライシャワーは評価を言った:「ヴイニス商人のマルコポーロの世界ローミング記録は、それが人々の想像力を喚起するため歴史の長いコースで巨大な足跡を残している。しかし、円仁の旅行記は、今日になっても読んだ人はほとんどいないし、しかも彼の名を知られていない。それでも、円仁はイタリア人よりはるか早めにこの偉大な中国でその足跡を残したのである。ある意味では、彼が旅行記に残された業績はマルコポーロの記録を超えたのだ。」ただ時間的面からみれば、彼は『マルコポーロ行記』より 400年も早かったのである。托鉢僧として、円仁一行は天涯浪跡して、もっと深く社会人情、政治風雤を了解出来た。彼が記録された内容は、正史の不足を補正できるものがたくさんある。たとえば、武宗が廃仏の詳しい事情についてや、寺院の礼懺儀式についてや、唐の書儀尺牘についてや、などなど極めて貴重な資料を残したのである。日本学界は当該の本が「中国旅行記録の中で最も優れた本である」と言え、「東洋学界の至宝」と評価されている。
3)『行記』見聞:
①、運河:円仁は『行記』の中にたくさんの揚州見聞を書いた。彼は『行記』の中で言った:「江中に大舫船が満ちていて……小船等が数えきれない。」しかし、今現在では、河面にはすでに船の姿が見えなくなった。その原因は、当時の運河が確かに塩運、漕運の通路であり、百舸が流れを争いながら、行き来して数えきれないのであった。古い運河が町を避けて通り過ぎて行って、二十世紀五六十年代には、運河が湾頭から直接に揚子江に流れ入り、主航路となって、町区の古運河が既に観光地帯に建てられて、円仁は当時で見た舟船喧嘩の景色が消えてしまったのである。②開元寺:円仁は『行記』の中で書いた開元寺は当時の揚州にある大雲寺のことだった。『唐会要』巻四十八ではこのような言を書いた:「天授元年十月二十九日、両京及び天下諸州にそれぞれ大雲寺一所を置く。開元二十六年六月一日に至って、並びに開元寺に名を改めた。」(按:唐の時代では、都と各州の治所に勅命によって建てられた仏寺が置かれた。このような仏寺は、大幅が当地でもともと著名な大寺院から改称されて来たのである。)則天武后の時では、薛懐義等は『大雲無想経』(竺法念訳本)の中には、「一仏が没後してから七百年の後に女王になって世に降り、天下を威伏した」と語って、そこで『大雲経疏』を作って、武后受命の符とした。全国各州で大雲寺を広く建てられ、武后の統治を固めるために世論を作った。揚州の大雲寺が後になって開元寺に改称し、当然ながら、武后が残した影響を無くすための措置の一つである。円仁はこの古びた寺院で長い時間を渡って住んでいて、数少なくない政府官吏や高僧に合った。然し、開元寺がもう存在しない、ある資料によ れば開元寺はもとの城北郷卜楊村にあったと言っている、上世紀80年代、開元寺遺跡の上に捷康電器工場を建てられた。
4)円仁の功績:日本の比叡山延曆寺が天台宗の大本山であり、此の一系統の成り立つには、前は最澄がいて、後は円仁がいてから発揚拡大されたのである。現在の日本では、天台宗が一番盛んで、当該系統の寺院が三萬二千三百余所ある。円仁は比叡山で潅頂壇を開き、総持院を作って修法道場にし、念仏法門を提唱し、菩薩大戒を宣揚した。彼は日本で最澄に次ぎ天台宗の集大成者であり、比叡山延曆寺の仏教本山の基礎を作った。日本天台宗の弘揚は、その功績が最も大きいし、その影響が甚だ遠い。八五四年に円仁が六十一歲の時、延曆寺の座主(第三任)に勅任され、日本の貞観六年に亡くなられた。『入唐求法巡禮行記四卷』、『金剛頂経疏』、『顕揚大戒論』等を著作し、中国から帰国した時に仏経、儀規等八百余卷を日本に持ち帰った。
円仁は仏教教疏や儀軌、法器を携えて日本に帰った後、深く天皇の信任をもらった。それで、彼は比叡山で灌頂台を設けて、総寺院を建立して密教と天台教義を弘伝した;それで、「常行三昧堂」を設立し、浄土念仏法門を提唱した。854年に円仁は延历寺の第三代座主になり、最澄の遺志を引き継いで大力に大乗戒律を高揚して、寺に住んで10年間、日本天台宗を大きく発展させた。死んだ後に、清和天皇は慈覚大師の謚号を賜った。これは日本仏教史上で僧人が大師という尊称の始まりであった。
結論:
円仁は日本仏教天台宗の最澄に次ぎの集大成者であり、比叡山延曆寺の仏教本山の基礎を作った。日本天台宗の弘揚は、その功績が最も大きいし、その影響が甚だ遠い。彼は遣唐使について、唐王朝に渡って、九死一生を経て、日本の仏教のため、そして日中文化の交流のため、大きな役割を果たした。円仁が10年近い中国での紀行や巡礼して、そしてそのすべてが『入唐求法巡礼行記』に記録を収めったのであり、「東洋学界の至宝」と言われて、世界の三大旅行記の一つでもある。
参考文献:
「古代を考える『唐と日本』」池田 温編 吉川弘文館発行平成四年六月二十日 初版印刷 『遣唐使の見た中国』古瀬奈津子 吉川弘文館発行 二〇〇三年(平成十五年)五月一日 初版印刷
『中日外交発展史』 2004 MPA中日関係
王頴芳
「国際関係当代亜太『中日人員交往の回顧と思考』」譚秀英 1999 年第12 期 『揚州日報』 揚州日報社主催 2008年2月2日
『円仁入唐散論』張志宏 百度貼バー
唐朝バー 2007-4-22 「円仁文化」 中国経済網
『人民日報』(2004年02月28日 第七版)人民網 人民日報 第七版 国际副刊
第三篇:关于中日文化交流的整理与感悟
关于中日文化交流的整理与感悟
众所周知,中日关系现在是最热门的话题之一,日本这个民族在我们生活中无处不在,从相机到手机,从食品到各种各样的生活产品,都出自大和民族。日本与中华民族的渊源已不是两三句话都能表述清楚的。
首先我先声明,我是纯良大学生,忠实爱国者!对于日本的研究只是纯粹对一种文化的执着。日本这个民族的很多东西都来自中国,可是我们却没有好好珍惜。从日本生活中的方方面面都能看到我们国家曾经的东西,曾经的辉煌。我希望能唤醒我们自己对于文化的意识,借鉴当中积极内涵的地方,为我所用。
今天我从五个方面阐述一下我对中日文化艺术交流的几个方面的理解与感悟。
一.从古代中国与日本的往来看文化交流
二.从观念看中日文化交流
三.从环境设计角度看中日文化
四.从学校教育看中日
五.从最初对日本动漫的接触漫谈中日
下面先回顾一下中日交流的历史吧。
一.从古代中国与日本的往来看文化交流
自古以来,中国与日本就是一衣带水的邻国。从时间上看,古代中日文化交流史包括从上古一直到19世纪的漫长岁月。从地理上看,古代中日文化交流从辽东半岛一直到海南岛。下面就让我们来一同回顾一下古代中国与日本的文化交流历程。
自有文字记载的历史起,可以划为以下四个时期:
1. 中国秦、汉、魏、晋、南北朝时期,日本是弥生时代和大和时代前期。公元1世纪时,班固所著《汉书》在《地理志》中提到“乐浪海中有倭人,分为百余国”,即指日本南部九州岛上的人民。据《后汉书》记载,公元57年(光武帝中元2年),日本和中国即开始交往,光武帝赐以印绶。18世纪,在九州北部福冈发掘出的金印上刻有“汉委奴国王”字样,从实物上证明一千九百年以前中国和日本已建立了密切关系。这个时期中日交往的路线大多经过朝鲜半岛,从陆路过海峡或沿岸航行。交流方式主要通过中国移民赴日本传播中国先进文明。交流内容偏重于物质文化层面,如生产工具和生产技术。在这个时期,中日文化交流的著名代表人物是徐福。
2.中国隋、唐时期,日本是大和时代后期、奈良时代和平安时代前期,即公元6世纪至9世纪,这个时期的交流路线则以直接渡海为主,交流方式有使节人员往来,尤其是日本派遣大批遣唐使、留学生、留学僧来华,出现了中日文化交流史上的第一次高潮。交流内容则以制度文化层面为主,如日本学习唐朝律令制度实现 “大化革新”,同时也涉及精神文化如佛教、建筑、雕塑、诗歌等方面。从公元7世纪初至9世纪末的两个半世纪里,日本先后向唐朝派出十几次遣唐使团,其次数之多,规模之大,时间之久,内容之丰富,可谓中日文化交流史上的空前盛举。589年,隋王朝统一中国。当时,日本正值圣德太子摄政。为了加速移植先进的中国文化,圣德太子于公元7世纪开始向中国派遣使节及留学生、学问僧等,从此两国使节往来络绎不绝,两国间的友好关系进入了一个新的阶段。607年,圣德太子任命小野妹子为使节访问隋朝。一般认为,这是日本遣隋使的开始。隋炀帝也于608年任命林文郎、斐世清为使节陪送日使回国。我国唐代经济和文化高度发展,给周围各国以积极影响。据日本史书记载,自630年至894年的二百余年间,共任命遣唐使达19次,其中一次是为了迎接日本遣唐使回国,称“迎入唐使”,3次是为了送还唐朝赴日的使臣,称“送唐客使”,另有两次任命后终止,正式派遣而到达唐朝的共有13次。作为对公元742年,日本政府派人到扬州大明寺邀聘鉴真及其弟子东渡。弟子们害怕渡海风险,起初无人答应,而年过半百的鉴真却毅然说道:“为了弘法传道,何惜身命!”在他的感召下,有21人愿意跟随师父赴日。但是,在12年中,由于海上风浪、触礁、沉船、牺牲以及某些地方官员的阻挠,五次失败,鉴真双目失明,九死一生,但是锲而不舍,百折不挠,终于于753年12月20日抵达日本。日本的官方、民间佛教界对鉴真的到来极为重视,为他设坛授戒。756年孝谦天皇任命他为大僧都,统理日本僧佛事务。759年,鉴真及其弟子们苦心经营,设计修建了唐招提寺,此后即在那里传律授戒,成为日本律宗的 2 始祖。763年鉴真在唐招提寺逝世,享年76岁。
3.中国五代和宋、元时期,日本是平安时代后期、镰仓时代和室町时代前期。即公元10世纪至14世纪,这个时期中、日之间虽然基本上没有正式使臣互聘,但是民间贸易和僧侣往来却十分活跃,两国也通过这些途经进行官方联系和文化交流,尤其是僧人,在宋元时期的中日文化交流中充当了重要角色。这个时期的科学技术交流比较频繁。宋代中日两国的医学、陶瓷、建筑等都有了很大的发展。宋代传入日本的建筑式样有两种,一种叫天竺,一种叫唐式。最早把天竺式传入日本的是日僧重源,最早把唐式建筑传入日本的是日僧“茶祖”荣西。
4.公元14世纪至19世纪,即中国明清时期,日本是室町时代后期、安土桃山时代与江户时代。这个时期交流方式更加多样化,既有贸易(如明代的勘合贸易、清代的信牌贸易),又有移民甚至战争。交流的内容除物质的商品贸易外,更突出精神文化,而且逐渐从佛教这一重点转移到儒学、美术、书法、医学以及政治和经济上来。这种政治和经济方面的交流,反映出日、中两国在向现代社会转化过程中的一些特点。例如,日本的雪舟和尚就是这方面的一个典型人物。他1420年出生在一个下级武士的家庭,12岁入寺为僧,绘画天分极高,在京都相国寺学习禅宗,又 2
学习绘画。他十分向往来中国加强这些方面的学习,在48岁时终于实现了这一夙愿。16世纪以后,由于城市发展和大名领国独立性的加强,文化的世俗性和民众性日益浓厚。这个时期的文艺除了反映大名威武豪华的排场外,主要特点是反映新兴市民的思想意识和生活气息。出现了生动活泼的歌舞剧、诗歌以及风俗画等,如连歌、茶道、水墨画等的兴起。佛教传入日本最晚不迟于6世纪初,佛教的因果报应,主张忍耐、顺从、寡欲、善行,是一种文化体,具有丰富而高度的文化内涵,因而佛教传到日本后就受统治阶级的青睐和扶持,迅速发展起来。大化改新以后,律令制国家全力吸收中国文化,在历次遣唐使中都有不少的学问僧随行,在平城京(奈良建有东大寺,地方各国建有国分寺,此外还有法华寺、西大寺、唐招提寺等许多著名的寺院。
纵观以上4个时期,可以看出,中日之间的交流源远流长,两国人民之间在经济、文化、政治等层面都有着长久的往来。时至今日,中日两国虽然在某些问题上有着分歧,但在经济等方面仍然保持着强劲的发展态势。
作为一名设计学院的学生,现在对比一下中国和日本的设计中的差异。
二.首先说说设计中的禅意
从观念看中日文化交流
禅,是东方传统文化的精髓,现如今,东方禅正在转化成一种人们生活中的智慧,当禅的思考与设计艺术擦出火花之后,便能创造出有灵性的艺术设计。因为,禅不仅仅是用来提高修养、净化心灵、启迪智慧,而且能圆满回答人类文明的根本问题,蕴含着拯救文明危机的智慧,关乎到整个人类文明的起点和归宿。
在禅看来,人类文明的起点,应是“识自本心,见自本性”。
一个漫天飞舞的大雪天,日本一禅师静坐于茶室,凝视着室外纷飞的雪花,坐了一会儿,他便起身进屋,随后将一个陶罐置于庭院中,然后,坐在榻榻米上,陶醉地注视着陶盆与飞舞的雪花。一旁的徒弟很是迷惑,不解其意,茶师答道:“我在欣赏花道”。
这便是禅的妙趣。禅师将深奥的禅宗理论体现在平凡的日常生活之中,不作冗长的说教,只重实际的证悟。不囿于僵化刻板的形式,也不受成法的约束,只注重于自由、活泼的心态,讲究直心是道场,平常心便是道。设计又何尝不是如此?设计有时就是设计师一种游戏心态的流露。当设计师处于一种禅的无心状态时,才能达到设计时的最高境界。这是毫无功利心的设计,也是没有任何欲望的设计。它源于设计师心灵上的自由与精神上的纯净。
日本民族信奉神道教,并理解四季变化中生命的无常和轨迹,感知自然大地中树木必将老去的灭绝之美,从而体会晚秋或寒冬的物哀之情,日本园林景观表现的特色是把心情寄托于云雾飘渺的、望不见的彼岸,然后生起追求幽玄的念头,这都是地理对日本人心理的影响。
日本皇宫建筑,整个建筑的冥想空间与周遭的景观浑然天成,处处流露着清净的禅意。参禅的过程通常是一段宁静、孤寂的精神之旅,人只有在独处的情况下,才会有更多关于自身,关于与这个世界思考的空间,充满着禅味的空间,就是要传达给人们这种感觉。
禅宗以“空无”哲学为理念的现代设计,在现代生活中为我们创造着无尽可能性的精神世界。日本设计师原研哉说:“只有空的容器,才有收藏无尽东西的可能性。”
老子曰:圆气至柔,能婴儿呼。所以,设计师须保持赤子之心和一种回归本心的状态。因为幼儿对一切事物都是那样的好奇、新鲜和纯粹。禅正好是要让人的心态回到尚未蒙受尘垢的状态,以禅的方法使设计师回到最直接、最本质和最佳的心智状态。
北京798一时装展示厅大门,设计师颠覆了门的固有概念,将两扇门转换成对襟的、有口袋的服装形态,设计定位准确,而且颇具慧眼,设计师当下开窍了!
清逸起于浮世,纷扰止于内心。禅意设计的意义就在于,禅的精神是直取事物本质,不为形式所拘束,以纯洁和简朴,表达出空灵之美,给人以遐想。北京798一画廊,建筑即便是运用超现代的钢架结构,或是后现代的清水混凝土建筑中,我们都可以品味出充满着现代意味的“禅境”来。
禅认为“无即是有”,用物质上的“少”,去寻求精神上的“多”。这也是将人引入幽玄的禅宗境界的一种手段,它体现出人对自然的尊重,也体现着东方人传统的沉稳内敛、含蓄的最佳精神气质。这种充满着禅意的设计,已成为一种世界范围内的设计语言,在我国的设计界领域也越来越受到重视。
东京地铁的装饰画,真是独具慧眼。漆黑的墙面上镶嵌着凹凸不平的玻璃,急急匆匆的人流与疾驰而过的车辆映照在带波纹的玻璃上,使玻璃产生强烈的流动感。设计师的一双慧眼,让静止的物体产生动态的效果,这种设计思维可谓是不同凡响。
日本的商品包装,是以“禅的美学”为核心的,是禅所追求的真我境界。它已经超脱了商品品牌的局限,成为一种生活方式的代名词。他们将“禅”作为日本商品包装的核心理念,因而在日本和西方国家大行其道,有深刻的社会文化背景。并且使当代西方人对禅也产生了浓厚的兴趣,把它作为人生与科学的哲学,认为禅悟真正代表了东方关于精神自由的智慧。
禅是不说之说,是触境而生的机趣。设计中的简素
其实,禅的玄妙之处,在于它只是提供一种思维方式,但不下结论;它只是提供源头,却没有一个终结的目标。禅,其实是让每一个人在自己的生活方式中去顿悟与体验。这样一来,禅宗美学便为设计师带来了新的美学智慧与思维:真正揭示出审美活动的纯粹性、自由性,真正把审美活动与创作自由完全等同起来。
禅是直指人心,见性成就的实证方法。通过禅的方法,可以使大脑引爆激情,顿开智慧。禅就是善用大脑,开发智慧,是回归智慧和德行的最快方法。
当下的生活已在不经意之间被我们复杂化了,多余而冗繁的设计常常会掩盖生活本身的使用需要。因为从某种意义上来说,物质的繁盛会凸显出人的精神空无。所以,禅宗倡导简素的美学主张,以达到一种 “空寂”的境界。禅的简素与西方极简主义设计风格似乎一脉相承。极简主义是用减少、否定、净化来摒弃日常的繁琐,去繁从简,用感观上的简约干净,获得物质最本质的元素的再生。它是一种克制的做法,是一种反物欲的精神,当物质向后大 6
步退消时,留下的就是广袤的精神空间,这与禅宗中的“参禅”有着异曲同工之妙。用最少的东西、最简单的方式,创造一种深入人心的美,成为当今设计师探索的主题。
禅宗的简素似乎比极简主义思潮走得更远。禅的简素不仅是一种表象的“极少主义”,它更加注重身心的修为,禅宗崇尚天地万物皆与人同根一体,由之衍化出的俭朴、单纯、自然等理念,通过环境的空寂、幽玄,达到一种“无我”的境界。
禅宗崇尚自然、朴实的风气,同时注重物体的简素之美。现代陶艺家,为了体现泥土的本色,陶艺作品常用素烧,或熏烧等方法来完成,使其呈现出朴茂和雄浑的艺术风格,那粗糙的质地、随意的形态,繁杂与简约的对比,无不体现出陶瓷材料的自然本色之美。这种简素的美学主张将禅宗美学中“空寂”的意境作了现代的发挥。设计中的空寂
日本的花道,只是禅宗一种艺术的表现形式,它常运用艺术对比的手法,将自然界生与死,新与旧的矛盾,通过花道特有的语言表现出来,并引起人们对人生意义的思考。插花艺术不追求植物的华丽,也不注重插花瓶的名贵,只崇尚精神,精神就是一切!不重形式而重精神是禅宗的审美理念。因而,日本花道从不追求物质上的富贵与艳丽,而注重于在粗陋与简朴、甚至废弃的材料中,抒发自己对人生认知的感悟,对自然美的独到体验。日本花道也不以美炫人,而是力求渗入自然深处,表示出纯洁和简朴。
因为受 “无即是有、多即是一、一即是多”禅宗审美意识的影响,日本花道用物质上的“少”,去寻求精神上的“多”,表现出平淡、含蓄、单纯和空灵之美,这是禅宗美学把外在世界看成与内在活动相关照的一种扩展的反映。使观赏 7
者从这自然的艺术形态中体验一种空寂的景象,品味出一种幽玄之美.既重视“心”的表达,张扬其精神表现,以从中寻求空寂的内省,保持一种超脱的心灵境界。
日本现代庭园,注重于景物的洗练和景观的静寂,表现出禅宗淡泊清远的心志和超凡脱俗的理念。现代庭园之美不仅仅停留在视觉上,其实更多的是静思和冥想,这恐怕也是受禅宗理念的影响,从禅宗冥想的精神中演化而来的。
大阪公园的简易公共厕所,建筑之简单,造型之简洁,令人茅塞顿开!单看建筑的本身就带着浓郁的禅房味道。它的设计者定是一个既在佛法中探求生命的本真意义,又在世俗中承担着自己角色的悟道者。使进入这个空间通透、充满灵性的建筑中如厕的游客们,也会在这种清净与自然的顺应中,找回本真的自我。
生活在现代都市压抑的空间之下的芸芸众生,每个人都需要一个精神上的释放,一个可以静思冥想的场所。该建筑就是将东方的禅所强调的“直觉、顿悟”等这些需要用心思考的东西,通过引入自然因素,使纯净空间有了强烈的神秘色彩,从该建筑中我们可以感悟到强烈的禅宗的“空灵”意味。设计中的淡定
东京居酒屋的室内设计,体现着东方人特有的禅雅意境。它放弃一切矫饰,只保留事物最基本的元素。用最少的元素(如原木、竹枝、草编等)来展现空间的全部功能。该设计的意义,强调了消费者的需要才是设计存在的必要,要挖掘出生活中的这些充满着禅意的细节。从这个设计中,其实美感和魅力就充溢在日常的生活当中,就看我们有没有禅心与慧眼!
庄子曰“天地有大美而不言”。日本许多景观设计,是一种既不刻意追求象征意义,又不刻意追求视觉效果的艺术形态。它不过分的嚣张,也不炫耀辉煌,而是尽可能的沉静而低调的,但是同样有着与天地同在的力量。大阪公园的巨石建筑正是用孤寂的美感,“无我”的心态,表达着东方禅的精神格局。
现代设计艺术由于禅宗理念的渗入,显示出独特的灵性和静幽,因为禅意的设计,始终表现出一种自然外物的空寂,它以“象外之象”描绘出一个极静的空灵意境,艺术家们只有内心与外物合一,才能体会到空寂的禅意,方能步入禅宗的“即空即有,非空非有”之境。因而,作为一个现代设计师,仅有技术性的知识是远远不够的,必须要使技巧升华,使设计成为心灵的艺术,是发自于内心的无意识之中。现代设计师如果不精通禅文化,不亲证禅宗的心地法门,就无法真正理解中国传统文化的内涵和精神的实旨和内容。
当今时代竞争十分激烈,每个国家和每个企业、都非常重视创新和发明创造。设计师如果具有先进的设计的理念和好的方法、有发明创造的智慧,并借鉴“禅”的思维方法,就可以帮助开发设计师的智慧,从而提高其设计艺术水平。
以上就是在中日设计师在思想上的文化对比文化交流。
三.从环境设计角度看中日文化
作为环境设计的学生,向来对环境敏感。今天对比一下日本与中国园林设计。
园林,是人们向往自然,亲近自然的栖息之所.中国园林和日本园林同是园林建筑中的经典,体现东方园林精致,典雅,人文的特点.而且中国的园林对日本影响很大,日本园林通过对中国园林有选择,有发展的兼收并蓄,产生具有自己风格的园林形式.中日古典园林按照园林所属都分为皇家园林,私家园林和寺观园林,中国的寺观园林无明显特征,讲究儒道的和谐和诗情画意,突出儒性,体现出宗教的世俗化,日本古典园林中的寺观园林讲究禅思枯意,突出佛性,并影响其他类型的园林,表现出世俗的宗教化.两国的园林都基于道家的道法自然思想,但中国偏于儒,显现出入世治世的特点和仁者的理想观,日本偏于佛,以智者的形象带有出世解脱的色彩.中国园林的布局思维介于具象思维和形象思维之间,日本则在形象和抽象之间.中国园林用文学艺术的手法表达较多,日本则喜欢用拟佛拟神的较为晦涩的语言.中国园林生动形象,表现了乐天爱人的景象,而日本园林则是在荒凉孤寂的山林中体现着孤独的禅意和对短暂人生的寂寞思考.中国园林是山水诗意园林,日本则是枯山水园林,以山代石,以沙为水。枯山水的意思,简单的说就是没有真的山水,而是以白砂代水,以石代山,砂石用细耙梳理出规则的几何花纹,似云浪似波涛。摈弃了一切繁复,回归最简单的禅意,所以枯山水的英文就是zen garden。
从网上借了些图片简单说一下日本庭院的枯山水。我个人认为,日本的枯山水最根本的起源就是中国的禅意,就是上文我提到的中国的原始文化对禅宗的理解。只不过
随着时代的发展,禅宗在日本融入了他们的民族精神与地方特色,相对独立的发展,于是呈现不同的角度与特色。没办法,好的东西我们要接受学习,借鉴,以便更好的超越。
枯山水作为园林设计源于日本,溯其本源却是中国园林、中国水墨山水画以及唐以后的佛教禅宗教义的集中传承。而枯山水在日本最早也是见于寺院,作为僧人禅修的一种延伸,表达着深沉的哲理。后来与茶道的发展出现融合,走进了民间。
从应用的材质上来说,主要有砂、石、苔、木四种材料,通过单一的应用或者几种材料的结合,构造出石庭、苔庭、型木式、书画式等几种枯山水型式。
这几天在网上查阅一些枯山水的图片,幻想着自己的家里也能营造一块这样小小的院子,心里就生出无限的向往和喜悦。家人喜欢在院子里养许多花草,而我也喜欢那些绿色营造的世界。尤其在这萧瑟的冬季,花叶凋零的院子实在让我纷乱的心意更添 12
了几分失落。于是我期待也有这样一个院子,铺满白砂,几方大石零落其间,我耙出一道道同心圆。然后,在走廊上品茗,静静欣赏这荣枯不变的世界。
以后要是有一个自己的家,那就在院子里铺这样一片砂。一沙一世界,一叶一菩提,禅居的地方或许并不要很大。
而我最愉快的劳作,就将是细细的筛净白砂,用细耙在砂上作画。今日天晴,便画出一个流水行云;明天落雨,便画出一圈圈的同心圆,似水落池塘的涟漪。
落雪的时候,我不必担心花木是否被冻死。不必打扫一地落叶。我只是抱着暖壶,欣赏这灰与白的世界。
我的爱人会期待回家,因为一回到这里,外面世界的奔波忙碌、觥筹交错都会被挡在门外。只有我和他呆在这温暖、静谧的家里。诗意、静谧„„不知道有时候在这院子边煮一锅火锅,吃几款亲手做的夜宵,喝一杯咖啡,会不会别有一番风味。
这是一片我自己的世界,也在心灵的世界,与外界无关。不管做什么我都觉得是理所当然惬意的。我可以在这片世界里听歌,听雨,听大地的心跳。我可以作画,写诗,翩翩起舞。我可以排练四季的交替,我可以天天等爱的人回家。因为这是自己的禅意世界。有时院外有花开,姹紫嫣红甚是好看,映着我这院子,犹如得道高人,坐怀不乱。
如果有这样一个家,只希望终老。不徐不疾,一生就这样过完„„
哈哈,说多了~这些都是后话,总之日本的庭院景观设计带给我很多感触,完全不似中国的庭院。我们国家城市以商品房居多,很少有自己的私人空间,景观也主要以公共空间为主,很少能借题发挥。这也是所处环境的区别吧。
咱们国家这方面的景观设计,围绕园林设计。最著名的的园林设计是以苏州园林为代表,园林设计讲究多种技巧,而整体理念始终一贯,即人与环境的和谐。与日本的枯山水主要运用的禅意不同,中国的园林设计虽然讲究意境,但更重要的是考虑风水,考虑中国传统文化,体现了传统文化天人合一的精神内涵,表达了人与自然和谐相处的意蕴。
来说一说一些园林设计原则
1、强调设计与服务意识之间的互动关系。例如苏州园林拙政园,园主人对于“拙政”隐逸的概念,对于自身的文化修养喜好等,产生了对园林作为设计与生活的互动关系。
2、设计的职责是创造特性,正如每个人都以其相貌、笔迹或说话方式上表现其各自独特个性一样,园林景观也是如此。每个人都有喜好,不同的地域也有独特的文化性,所以园林统一中又有独特的性格。比如说北京颐和园的大气和苏州园林的秀气灵气,各有千秋。
3、注重研究地域人文及自然特征,并作为景观形式或语言及内容创新的源泉。忌缺乏人文关怀,不顾人的需要。
4、环境和人的舒适感依赖于多样性和统一性的平衡,人性化的需求带来景观的多元化和空间个性化的差异,但它们也不是完全孤立的,设计时尽可能地融入景观的总体次序,整合为一体。忌忽视与当地环境的和谐统一,破坏整体的生态环境。
5、要充分考虑气候因素,尽量节约建设成本和维护成本。
6,植被配置多种多样,忌只注重一种植物,忽视园林植物配置的多样性。忌只注明园林植物的种类,不明确具体品种和规格。如苏州园林,不仅小桥流水,而且四级植被众多,在不同的季节有不同的特色,使人流连忘返,更不要说住在园林里的古人了,真是一种享受。
四.从学校教育看中日
日本的人口远远没有我们那么多。而且日本特别注重国民素质与教育的普及。他们对于人才的培养非常重视。
日本有很多著名的建筑设计师,比如说安藤忠雄、黑川纪章、妹岛和世、西泽立卫、伊东丰雄、矶崎新、隈研吾、丹下健
三、丹下宪孝、藤本壮介、青木淳、石上纯也、坂茂、坂本一成等等。
日本也有很多艺术学校,比如说日本著名的艺术大学有东京艺术大学、千叶大学工学院、京都市立艺术大学、女子美术大学、武藏野大学,多摩美术大学筑波大学艺术系还有东京大学等综合类大学也有艺术系等。
我觉得设计师他们对于学生的培养可以概括为以下几点:
1,大学的环境相对宽广,资源丰富,独立性强,不像中国的应试教育。老师上课的地点不一定是教室,给学生充足的时间和空间自由发挥,激发灵活性与思维。
2,、借鉴的本领,借鉴是日本大和民族的优良传统,学生们也是充分的发挥了这个优势。首先在文化的基础上进行创作,融入时代精神,充分的发挥。其实设计就是敢为人先的创造与发明、大胆设计、大胆改造,大胆实用新工艺,新材料、新科技的全过程。设计的构思阶段,在某种程度上,实际上是在头脑中进行样式的选择。设计是一种创造,但不是发明,前无古人后无来者的设计是不存在的。因此,设计就必须要借鉴前人。
3,设计的能力。能力很重要,他们的老师不会说一定要求他们怎样怎样,而是根据学生自身条件去安排,每个人都是世界上独一无二的。老师会尽最大的可能去激发他们的创造力,达到最大效果,在每次“压迫”中得到升华。设计是一种造物的过程,有了好的构思后,接着就是如何来完成和实现这个构思,把设计构思画在纸上,不能说是设计的完成,那仅仅是设计的开始。老师基本上都会让学生落实自己的想法,把自己的作品表现出来,有较强的设计质量,较高的工作效率,“快、捷、勤、节、美”。在这个实现的过程中锻炼自己的真本领。
4,深厚的艺术造诣。不管是艺术还是设计,每个人都有与生俱来的天赋与灵感,这是我们不可多得的财富。深厚的艺术造诣决定了设计师们无穷的创造力。但是我们也需要进行后天的熏陶。
5,设计师的人格魅力,日本不过设计师还是老师还是学生,都特别注重自己的形象,行为举止,谈吐,极具大师风范与人格魅力。因为老师本身就是一个代表,他们无时无刻不影响着学生,他们是一个表率。这个后天熏陶的过程,成就了日后在设计领域的出类拔萃。
6,日本的学生上课,根本不会局限在教室课堂上。社会上的任何一个地方都可能成为他们的教学
场所。他们注重实践,有准确地领悟能力,全面地统筹能力,充分的展示能力,注重自我考察了解社会了解资料的过程,在实践中得到能力的提高与升华。并且对社会要有了解,观察、分析、主导与开发的能力,(懂得发现哪些时尚品味,发现哪些还有开发的),深入市场,不能闭门选车,坐享其成,更不能意想天开。有独挡一面的能力。
7,痛痛快快地工作,痛痛快快玩,愉愉快快的学习与生活。前卫、激情、自信、乐观、青春总之,作为一名合格的服装设计师,优秀的品德是首要条件。而且工作积极主动,要全力投入,兴趣浓厚,体现主人翁精神。
8,团队合作精神。日本大和民族是一个超级团结的民族,在生活的各个方面都能发扬这种精神我觉得特别好,不仅能双赢,而且更能适应设计适应社会。
五.从最初对日本的接触漫谈中日
我从小就开始看日本动漫,我特别爱动漫。那时候对日本还是一个模糊的概念,还不知道是一个国家,总以为日本属于我们国家的呢。日本动漫产业通过与国家的“交流”,引人深思。
日本动漫盛行至今。我们90后的都是在日本动漫的熏陶下成长的,从《铁臂阿童木》《一休》《机器猫》到《名侦探柯南》《死神》《网球王子》,日本动漫留下了不可磨灭的印记。还有著名的动画大师宫崎骏,《哈尔的移动城堡》《千与千寻》《虞美人盛开的山坡》等等,这些世上佳作太让人难忘了!怎一个大师了得。
即便大力支持国产动画的现在,特别是大学里,日本动漫的市场也是很大的,原因我看主要是日本的动漫不管在剧情还是在宣传制作上都比国内的要好。日本动漫这种流行是世界范围内的,发展到今日日趋完善,迎合了社会各个阶层不同年龄段观众的欣赏水平和领悟力(不像大多数国产的美国的剧情幼齿,主角不是猴子就是熊猫之流的),且越来越注重精神层面,从不同的角度反映着整个日本社会面貌和精神状态的方方面面。我个人认为,日本动漫完全可以成为了解日本民族精神的一种重要手段。
现在从我看过的一些动漫浅谈日本的民族精神。
一、精神和意志的无限超越性
日本人的基本生存观念就是人的完满,但是物质条件总是有限的,对人的完满和神性 的向往促使日本人无限的拔高自己的精神和意志。要想达到神的无限和全能,只能依靠精神的无限性来激发出巨大的能量,即小宇宙的爆发。几乎所有的动漫,尤其是运动类题材的,积极向上,为了理想而奋斗。风靡全国的《网球王子》中王子们对网球的热情就是他们不断完善自我提高球技的保障,河村隆可以为了网球罔顾自己的手臂。作者许斐刚用夸张华丽的手法表现网球的 18
无限可能性——天衣无缝之极限,但其实能打出这种最强网球的就是最初学习网球的热情。
二、忠诚与报恩,极端的自我牺牲
这些在古代类的题材中非常明显,《遥远时空中八叶抄》中所有的一切都是为了解救龙神,不论需要的是什么,甚至是生命,因为是龙神创造了那片大陆,赐予了后世的一切。欠负——报恩是日本人独特的道德理论体系,就像日本的武士道精神以对天皇的忠。日本真正的民族叙事诗《四十七士物语》赞颂的就是属下对主君的忠义。为了替主君报仇,报答主君的恩情,他们牺牲了自己的一切,包括父亲、妻子、妹妹。当他们为主君报仇后,又在其坟前集体自杀,因为他们的报仇行为虽成全了他们对主君的义,却导致了他们对幕府的不义,他们只有以自杀来偿还。这种抛弃爱情亲情的忠义故事深得日本人的青睐。这种欠负——报恩的伦理体系就造就了日本人性格中的一极:极端自我牺牲的精神。
我不建议大家都这样啊,我们要忠于自己的道德底线,忠于理性爱国!忠于道德。这种精神我们借鉴就好,不能盲从。
三、强烈的自尊
日本人的自尊就是小心谨慎的生活,不是做自己想做的,而是做别人想让他做的,不是成为自己想成为的人,而是要成为别人希望他成为的人。偿还别人的恩情,不辜负别人的期望成了日本人最大的尊严。人与人总是存在着这样那样的联系,几乎所有的人都是为了成为别人心目中的依靠,英雄而存在的。《网球王子》中手冢国光就是为了青学网球部而存在,《棋魂》中进藤光就是因为佐为而开始下棋的。日本的强者就是抛弃个人感情和幸福去履行义务的人。日本人害怕别人眼中的嘲讽和批评,会令他们产生强烈的羞耻感,因此重名誉成为他人心目中的人就是日本人的行为准则。
四、宿命论。
CLAMP创作的《魔卡少女樱》、《翼·年代记》、《xxxHOLIC》就将这种宿命论演绎得淋漓精致,外号有『次元之魔女』及『极东之魔女』等等的『只要能付出相应的代价,便能实现任何愿望』的商店的主人壹原侑子经典名言:
1、世界上没有什么偶然,有的只有必然。他们坚持自我,相信自我。虽然有点主观唯心主义,但何尝不是积极地自我暗示呢。也许有一天自己真的做到了。
五、战争中的“泛正义论”
日本动漫中像《奥特曼》《铁胆火车侠》《火影忍者》《浪客剑心》《海贼王》等等动漫里都有打打杀杀战争的场面。而小朋友么也很喜欢这种“正能量”“阳刚热血”的题材。这些正义的动漫确实传递正能量。日漫里的战争题材并不仅仅是“好人打败坏人”,其中善与恶的界线并没有那么径渭分明。在日本动画中(非弱智的),发动战争的一方往往有着所谓不得已的苦衷,于是便有了为了让人类唾弃战争而去发动战争的杰克斯这类角色。也像《死神》里为了停止战斗而战斗的 19
东仙队长——并没有仇恨,但是为了和平也不会讨厌杀戮。动漫人物都是为了自 己所谓的道义而战。日本动画中对战争的态度始终遮遮掩掩,现在细想来通常都是着力于战争双方人物的活动,有意识的安插一些被侵略的一方做坏事的情节来混淆观众的判断力,让观众以为一切都是活该,是‘正义’的。宣称战争没有绝对的对错,否认着真正意义上的正义的存在,或认为战争的原因只是因为双方互相不能理解。
当然了这些都是动漫,都是假的,但是不管是正义的还是泛正义的,我们要明辨是非,相信正义。维护和平。
六、唯美。
日本民族的唯美是异常执着的,雅致的茶道和浮世绘就是很好的例子。当然日漫的画风唯美也是深受大家喜爱的原因,对唯美的执着最鲜明的体现就是动画人物外型。看着动画中那一个个大眼睛,手脚修长,服饰光艳华丽的的帅哥美女,观众大喊卡哇伊。可以说,日本动画愉悦视觉的功能已经相当完善了。但是日本民族有着追求极端之美的狂热,人们认为最美的时候是樱花凋落的一瞬间。就像《秒速五厘米》新海诚最著名的动漫,也是我最爱的之一。那对感情的描绘,赋予樱花沉着的遐想。这样看来,日本民族就是这样一个崇尚精神和意志,追求人之完满,强烈的“耻感”,报恩的观念,矛盾的性格,善变的伦理,极致的唯美的民族,通过动漫向我们灌输的日式思想观念,有好的,但也有偏激的,需要我们自己来体会。
七、对人生的感悟,对人性的揭露。
像《岁月的童话》,《幽灵公主》,《再见萤火虫》等等这些动漫,通过一些事情来达到对人性的揭露,引起我们的深思。也有引导我们自身保护环境,关注周围的世界等哲理性的动漫,比如说悬崖边的金鱼姬。这些美好的故事更具有说服力不是么。
日本是动漫大国动漫强国,我觉得我们应该吸收借鉴他们的技术与思想,已提高自己的水平,真正做到文化交流共赢的状态。而且不能让商业化垄断我们的动漫市场,使《葫芦娃》《黑猫警长》《舒克和贝塔》这些几百年前的经典作品失去更新换代的能力,不能被新技术超越,使《喜羊羊与灰太狼》这种无营养启示的动漫垄断整个市场,是文化大发展大繁荣落实不到实处。
第四篇:我对安监工作的切身感受
我对安监工作的切身感受
发布时间:2008-07-21 14:40:35 来源:中国安全生产报 作者:常德市安监局 何永军
看完中国安全生产报头版头条《荆山腹地矿工们的亲人——记湖北保康县安监局矿山安全监管股股长周全意》后,心灵受到了很大的震动,久久不能平静。周全意同志16年如一日,他用一双眼睛发现了无数隐患,并及时督促生产经营单位排除事故隐患,用一张铁嘴纠正了矿工无数次违章行为,挽救了无数生命,他有着质朴的品格,有着高尚的情操,他体现出了中国安监战线上干部职工的精神风采。他为保康县矿山撑起了一片蓝天,他的名言“矿山安全人命关天,我宁愿听骂声,也不愿听矿工家属的哭声!”激励着我们每一个安监干部。我们基层安监局的工作人员在平凡工作中承担巨大的精神压力和工作压力,总局和新闻媒体能够大力宣传弘扬安监队伍先进事迹,我个人感到很欣慰,相信安监系统还有很多像周全意式的人物,正是有像他那样的干部的存在和不懈努力,才使我们安监工作卓有成效,使事故发生率逐年大幅度降低,使国家和人民财产损失降到最小限度,他是我们当代安监人学习的楷模。
我作为有着几年基层工作实践的安监员,对安全生产工作有着自己切身的感受,主要表现在以下几个方面:
一、工作做好了会比较欣慰。我从事安监工作五六年了,我也曾患得患失,也曾有过畏难情绪,也曾有过抱怨埋怨;相比之下,我是渺小的,是惭愧的,是小我的。其实安监工作是非常光荣的,因为我们所从事的工作是为人民群众守护生命财产的安全,少逝去一条生命,我们就少了一份自责和遗憾,多了一份欣慰。
二、工作难度较大。一是基层抵触情绪大。目前基层确实存在人手少、任务重的局面,存在一定厌战情绪,不愿意从事安全生产工作。基层同志曾对我们局里说:“我们帮助你们干工作,你们还要追究我们。”“你们安监局除了给我们责任和追究以外什么都没有!”对此很不理解。二是非公有制企业监管较难。这些企业没有主管部门,政府与企业间缺少信息沟通渠道,传统的召开会议、下发文件的方式,很难将信息传递到企业,造成政令不通。三是隐患整改难度大。在隐患整改过程中,历史遗留问题多、欠帐多、隐患治理难度大。有些隐患的整改涉及拆迁问题,需要大量的资金。隐患整改牵头部门做了很多工作,而责任单位乃至个别政府监管部门却互相推诿,致使有些隐患多年存在,成为老、大、难,隐患的存在威胁着我区的安全稳定。
三、工作经费不足。我区是中心城区工作量大、面广,安监局又不同于有些单位和部门,要抓好安全生产工作,就要勤于深入一线,就要勤下乡镇街道、进社区(村)、到企业,把各项工作抓仔细抓落实,车辆的油修费用、机关的办公费用等都是一笔不可缺少的开支等等,区政府下拨的经费有限,可我们却不能不工作,经费明显不足造成的压力大,而我们所负的责任却更大。要解决经费问题,一方面可以争取国家投入,另一方面可以建议国务院给地方政府提要求。国家在煤矿方面投入巨资改善条件,而煤矿本身是有钱企业,但对我们安全监管队伍建设的投入不多,它可能对地方一些领导者产生其他安全监管工作没有煤矿安全监管重要的误导,对我们的工作是不利的。
四、乡镇街道安全生产监管人员配备不足。现在县级以上都设立了安全监管机构,人员配备基本到位,各企事业单位也按有关法律、法规配备了相应的安全员,而乡镇街道一级安全监管人员配备不足,目前我区各乡镇街道安监站均是加挂的,除分管领导外,就只有一个兼职安全员,且这些安全员的工作经费大多数无着落,纷繁复杂且责任重大的安全监管工作仅靠一个安全员还是兼职的安全员是很难做好的,这是当前安全生产监管工作中最棘手的问题。
五、工作装备较落后。面对现代化程度越来越高的生产经营单位,而我们自己的队伍装备却十分落后,向我们县级安监队伍因工作所必须的车辆严重不足,根本满足不了日常的安全监管、检查、执法工作,致使工作效率降低,就全常德市各区县市安监局公务车辆,每县平均为一台,其它技术装备就更少了,我局一台检测仪也没有,导致我们的日常工作全凭最基本、最原始的方法来开展。再者,我们安全监察人员到企业检查工作,发现一些企业该配发的劳动防护用品配发不到位,工人们在无防护用品的情况下冒险作业,安监部门就要求企业整改。而执法人员在检查过程中,没有自身安全防护设备,却还要进入危险场所、隐患环境中去冒险工作,这种情况又如何去整改呢。
六、执法较难。安监人员在日常的工作中经常会遇到执法难的困惑,这些困惑表现在:一是执法手段不硬。例如在日常监管工作中,发现隐患,要求企业整顿,如果企业不整改,按照安全生产的有关法律法规就要处罚,就要求企业停业整顿,但一些企业就是不交罚款、不停业,甚至连封条都可以自行撕掉,我们无法应对,这是我们安监工作的一项难点。二是执法过程操作难。法律、法规、规章明确了处罚、交纳的标准,但在基层监管工作中,被处罚的对象,按标准交不起罚金,但执法时还必须依法按标准处罚,低于标准处罚我们自己违法,按照标准处罚企业交不起,这种现象常常让安监人员左右为难。三是法律法规的修改太慢制约着安全生产工作的开展。如中编办〔2003〕15号文已把作业场所职业卫生监督管理职责划到安监部门,关于职业卫生监督管理职责,2005年卫生部、原国家安全监管局虽有一个职责分工,但《职业病防治法》的监督管理部门和有关职能还没有作出相应修改,市、县等基层安监部门具体操作起来存在一些困难。安监部门负责职业危害申报、职业危害事故和违法行为的查处、有毒物品作业场所职业卫生安全许可证的发放等,但安监部门又不是法定执法的实施主体,工作不好开展,加上要做好这些工作,需要技术服务机构强有力的支撑,而安监部门却没有职业卫生技术服务机构资质认定与监督管理、建设项目职业病危害预评价等方面的职责,难以做到“关口前移”,存在着严重的责、权、事相分离、不统一状态,这是当前制约职业卫生监管工作的主要原因。
七、从事安监工作不后悔。从事安全生产工作几年来,虽然体会了几多艰辛,付出了常人难以想象的努力,牺牲了大量休息时间,但是看到全区安全生产工作一天天步入正轨,广大人民群众安全意识普遍提高,企业安全管理水平有较大提高,事故总量不断下降,安全形势逐步好转,我区连续5年获得全市安全生产工作先进红旗区县。我们全区的安全生产监管人员都觉得从事安全生产工作虽然有很多困难,但不后悔
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假如我是一名安全员,我就要让人人都来重视安全,绝对的 遵章守法,不折不扣地遵操作规程之章,守安全生产之法!我清楚地认识到违章就是走向事故,就是伤害自己、伤害他人,甚至走向死亡。认识到违章的重要性,就不会抱有任何饶幸心理。我还深刻地领悟到:或许一次不经意的违章,造成大的伤害或损失,就变成了违法。
假如我是一名安全员,我会深刻感受到安全的重要性。企业成于安全,败于事故。任何一起事故对企业都是一种不可挽回的损失,对家庭、个人更是造成无法弥补的伤痛,所以我必须在这一刻起认真履行职责。我清楚地认识到违章就是走向事故,就是伤害他人,甚至走向死亡。当一天安全监督员,就要让安全思想牢牢扎根在每个人的心中,让大家知道若责任心不到位就会酿成事故,让我们正确认识到安全不是一个人的问题,而是你中有我我中有你,是一个上下关联人人互保环环相扣的链,是一张错综复杂紧密相连的网。我要让人人成为安全员,我会把公司倡导的“责任连带安全互保”体系真正落实。
假如我是一名安全员,我决不搞形式上的安全,而是要追求内容上的真实。一线岗位安全隐患和死角多,习惯性违章较普遍,从而制约采油一线的安全生产管理水平。如果只在形式上讲安全,应付检查,那么即使是投入再大付出再多,安全环境也不能得到本质改善,安全管理水平永远不能得到本质提升!只有每个职工在每日的工作中相互监督、相互提醒、相互检查,查找漏洞和薄弱环节,防止不安全的因素存在;杜绝事故隐患,从小事做起,点点滴滴汇集在一起,就能筑起安全大堤。无危则安,无损则全。安全就是人们在生活和生产过程中,生命得到保证,身体免于伤害,财产免于损失。安全生产是我们油田企业管理的重点,是我们发展的根本保证,安全就是效益。假如我是一名安全员,我会把这种观点跟植于每个人(包括我自己)的心中。首先武装好自己,熟知熟会各项操作规程安全制度,认真学习安全有关法律法规;其次,养成良好的安全操作习惯,杜绝习惯违章,敢于同身边的甚至是上级的不安全行为较真儿;第三,勤于检查,及时发现整改事故隐患。履行好安全员职责,做好总结,向上级多提合理化建议;最后,从戴好安全帽,扎好安全带,穿好工作服,开好作业票等这些点点滴滴的小抓起,做起,持之以恒。
一线工人是安全生产主力军,没有工人参与监督和管理,安全生产很难搞好。人人当一次安全监督员,并不只要求在当安全员那天才记得安全生产的重要性,才去按章办事,还要求时时刻刻地关注安全,即使并不是安全监督员,也要将“安全生产”铭记心中,如果我们每个人都能真正拥有这样的境界,那么我们的安全生产工作必能做得更好。作为一名安全员,就更应该用一颗赤诚的心,去维护劳动者的安全和健康,用安全的规章制度和周到的服务为人们营造一个良好的生产环境。这样,我们的企业就能长盛不衰,我们个人就能在一个安全和谐的环境中幸福生活。
我当一周安全员”心得系列
(三)发布时间:2010-06-02 16:11 浏览次数:
379次 作者:zgb 来源:未知
地点:太原项目部
时间:2010年4月26日—5月2日
安全员:郑航(安全要实现从“要我安全”向“我要安全”转变)
要做好安全工作,就要实现从“要我安全”向“我要安全”的转变,对于我们全体员工来说,应立足于安全第一,对于安全是永恒的主题,安全是公司各项工作的保障,有了安全才有效益。员工的生命是第一位的,我们只有一次生命,对我们每一个人来说生命都是弥足珍贵的。无论在生活中还是在工作中,我们心中必须时刻谨记:生命第一,安全第一。为了确保生命的安全,在工作中我们必须认真学习安全管理、安全操作、牢记禁令、杜绝三违、反三违,争取把安全隐患消灭在无形之中。要树立正确的安全人生观,安全工作是社会性工作,安全工作做好了,于人、于已、于企业、于社会都得益。反之,安全工作做不好,发生事故,伤到自己,给自己带来痛苦;伤着他人,给他人带来灾难,给企业造成损失,对社会造成不良影响。因此,树立正确的安全人生观,是搞好安全工作的基础;
树立正确的安全法制观,安全为天,法律至上。安全工作是“人命关天”的大事,是企业的首要工作,“安全是„天字号‟第一大事”。
生命只有一次,不要拿自己的生命开玩笑。让我们共同遵守安全规则,做一个珍惜生命的人,做一个文明的人,那么,展现在我们面前的将是一个七彩的世界。让我们携起手来,关注安全,关爱生命。从我做起,共同遵守规则吧!安全员:贺小明(安全要防微杜渐,从小事做起)
在这个春意盎然,万物复苏的季节里!我们的企业,也如同这季节一样,兴旺发达、蓬勃发展!
对我们电力企业来说,安全就是生命,安全就是效益,安全是一切工作的重中之重!与此同时,我们山西太原项目部积极响应公司号召、领悟公司文件精神同时开展“每周安全员”活动,作为其中一员我无比自豪,通过一周时间,我感悟颇深。
人人事事保安全,关键要从我做起,从现在做起。在工作中,“安全第一”,“生产必须安全,安全促进生产”,安全是最大的效益,每当我们不遵守规则时,实际上是在酝酿着一场悲剧。“千里之堤,溃于蚁穴” 更是警示我们,事情的发展是一个由小到大的过程,当存在微小的安全隐患时,如果不给予足够的重视和正确及时处理,就会留下无穷的后患。所以,我们在实际工作中要防微杜渐,从小事做起,及时处理好不安全因素,避免事故或灾难的发生。想一想,生命如此美好,每个人只有一次,我们要是因为不遵守安全规则,不仅会失去自己可贵的生命,还会摧残别人的生命。
安全生产是一项复杂的系统工程,需要全员动手,综合治理,常抓不懈,只要安全在我们心中,没有克服不了的困难。让我们共同努力,心存安全,在每一个个工程竣工同时,同时也要建起一座座平安的丰碑。
安全连着你、我、他。安全就在我心中,在你心中,在大家的手中,我们要牢记心中。
时间:2010年5月3日—5月9日
安全员:赵龙飞(每个安全责任人都要树立“只有满分”的思想)
从公司开展“每周安全员”活动后,作为参与者我感到我们每一个电力施工人员自踏入电力行业的大门,就开始接受安全教育。“安全第一,预防为主,综合治理”,我们牢记在心,我们是时时讲、周周学,月月喊,安全工作规程翻破了一本又一本,安全学习记录是厚厚一大叠,那为什么一出事故进行分析,结果就是“违章”。我想不会有人对安全工作规程、技术操作规程、企业纪律章程有任何怀疑,这些都是鲜血教训的经验凝结,每个人都对这些耳熟能详,它是每一个从业人员的三件法宝,但为什么最终却不能落实到行动上?究其原因就是抱着及格就行的思想,怀着侥幸心理,心里头少了安全生产这根弦,有资料显示,在责任事故中,90%以上的是责任人心存侥幸,安全措施未做到位而造成的。的确,在企业的安全生产实践中正是一些人有了“及格就行”的思想,才导致了事故的发生,轻则设备受损,重则人身伤亡,如果每个安全责任人能够树立“只有满分”的思想,100%严格按安规办事;检查到位,不漏过一个细节;措施到位,不漏过一个疑点,许许多多的事故都是可以避免的。
作为一个每周安全员活动的参与者,使我深深的体会到了“安全第一,预防为主,综合治理”的方针政策是多么的重要。
今后我们要更好的学习安全知识,努力的去发掘隐患,阻挡违章,确保我们的工程圆满结束。
时间:2010年5月3日—5月9日
安全员:赵军(做一名安全员要端正心态)
作为一名安全员,应该用——颗赤诚的心,去维护劳动者的安全和健康;用安全的规章制度和周到的服务为人们营造一个良好的生产环境;以辛勤的工作,为企业的大船护航。应该做到:一,端正自己的思想作风。有“责任重于泰山”的责任意识,从严要求,敢抓敢管,大胆揭露矛盾,果断解决问题;在严格执法的同时热情服务,公正清廉,在安全管理以及检查过程中始终要体现公平、公正、赏罚分明;要不断创新,注重与时俱进,完善自我,增加安全管理的超前性。二,熟练掌握安全专业知识,才能预知危险、分析和控制危险,同时,还必须掌握和熟悉国家、地方、行业有关安全生产的一系列法律、法规和操作规程,以便在安全管理和监督工作中做到依法监督、按章指挥。三,要有系统的管理理论,提高安全管理业务水平,促进安全管理科学的发展。四,要有崇高的敬业精神,做到“三心两意”,即工作上的“专心、细心、耐心”,思想上的“忧患意识、责任意识”,时刻紧绷安全之弦,发现隐患及时组织整改,把事故扼杀在萌芽状态。
一名普通安全员的工作心得
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李雪松 原创 | 2009/9/19 18:38 | 投票
关键字:心得 工作
从事安全管理十年来,接触了大大小小的事故,统计分析有90%以上是由于各类违章所致,虽然在安全生产管理中会出现各类问题,但遏制作业者习惯性违章是安全管理的关键中的重点。我作为一名普通的安全员是怎样理解违章的产生,又应如何开展安全管理工作呢?在此谈一点心得。
1.嫌麻烦,存有省事心理。嫌麻烦,图省事,总想以较少的付出获取最好的效果。但在安全生产方面却常常引起不良后果。许多因违章造成的事故都是在嫌麻烦、图省事、省力气、少出汗、走捷径等心理作用下发生的。殊不知按照安全操作规程作业,才是省力又省事还出效果的真正捷径;因为安全规章制度都是前人用生命和血汗换来的,我们没有必要再去验证。
2.闯大运,存有侥幸心理。有些人在几次违章后没发生事故,就以为永远也出不了事故。这是把偶然性和长期违章迟早要出事的必然性混淆了。
3.盲自信,存有表现心理。有些人技术差、经验少,却喜欢自我表现,以求改变不被人重视的处境。不懂装懂,硬充好汉;有些人自以为技术好,有经验,违章习以为常,满不在乎。虽然预见到违章可能发生危险,但盲目自信,用冒险炫耀自己的技能,把蛮干当本事。有表现心理的人在工作中同时又想引起别人的注意,注意力分配不当,会因失误而造成事故。
4.虚荣心,存有经验心理。习惯性违章是经验心理的一种表现。过分相信直接经验的人,听不进别人的劝告,不容易接受新的防护装置或新的操作法。“这几年都是这么做的,也没出事啊”、“我师傅就是这么做的,也没出事啊”这就是经验心理在作祟。
5.跟随型,存有从众心理。
这是适应群体生活的一种心理反映,不和大家一致就感到有压力。如进入作业现场应该戴安全帽,如果多数人不戴安全帽,少数戴安全帽的人可能受到奚落或嘲笑。为了避免精神上的孤立,于是“少数服从多数”。这种心理像传染病一样威胁安全生产。但如果在一个安全秩序好的单位,从众心理又可以起到巩固安全秩序的作用。
6.情绪人,存有逆反心理。在职工与领导关系紧张的时候,工人常常产生逆反心理:“你叫我这样做,我偏那样做”有逆反心理的人往往负气大于理智,以至违章造成事故。
7.明知者,存有抢时心理。为赶任务、抢时间而违章蛮干。任务越急、时间越紧,越容易出错,越注意安全,越需要专监护。但实际工作中常为赶时间抢任务而省略安全措施,免去必要的检查,因人手紧而取消监护人员,以至因多人违章而造成重大事故,在检修中发生的事故多与此有关。
在处理好对待习惯性违章的同时,应该树立预防为主的科学观。要控制事故的发生,控制人的不安全行为是关健。安全的本质含义应该包括预知、预测、分析危险和限制、控制、消除危险两个方面。无数事实说明,对危险茫然无知、没有预防和控制危险能力的“安全”是盲目、虚假的安全。仅凭人们自我感觉的“安全”是不可靠的,要采用现代的安全管理技术,变纵向单因素管理为横向综合管理;变事后处理为预先分析;变事故管理为隐患管理;变管理的对象为管理的动力;变静态被动管理为动态主动管理;才能实现企业本质的安全。
首先认识到作业者是劳动保护的主体,同时也是生产事故伤害的主体,他们的安全素质和意识高低反映了企业安全生产水平的高低,所以就应该注重以下几个方面的问题:
一要控制人的不安全行为。
从事故的致因理论告诉我们,人的不安全行为是导致事故发生的直接原因。因此,有效地控制人的不安全行为,是现有条件下控制或减少事故最直接、最有效的办法。
二要拒绝违章作业和冒险作业。
有较强的自我保护意识的职工,能够在自己权益受到不法侵害时,运用法律武器,采取正确的方式和途径来维护自身的合法权益。
三要营造安全生产人人有责的氛围。
落实劳动保护措施和实现安全生产目标,落脚点都在职工群众。因此,职工在享有最完整权利的同时,也承担着最重要的义务,履行了义务也就实现了权利。
四要切实贯彻实施依法治企。
在安全生产的问题上,人们往往说起来重要,做起来次要,甚至是不要,导致事故层出不穷,周而复始犯着同样的错误。人死不能复生。我们不能亲身经历了一次事故,一场灾难才能增强安全意识。只有树立了正确的安全生产观,才可能有合理、准确的安全生产组织和管理行为,最终实现安全生产的目标。
认真贯彻实施《安全生产法》,时刻抓好“五大保障”
一是制度保障。安全工作是一项非常严肃的游戏活动,必须严格遵守游戏规则——这就是有关安全生产的规定和法则。一是要建立健全完整的组织领导机构,有完善的、系统的管理考核办法,明确安全生产的法律地位;二是要建立健全并及时修编安全生产规程制度和细则。使其更加具体、实用、明了,便于操作,便于考核,有力地指导现实工作,切实做到规范人的行为,规范物的状态。
二是责任保障。单位的主要负责人是安全管理第一责任人,对安全工作全面负责,各个专业、各个层面,必须各负其责。从上到下,对各项安全生产责任逐级进行分解,分管领导、职能部门、所属车间、车队(调度区)、指导组(班组)分别承担相应的责任,做到人人有责任,个个挑担子,达到不留空白,不留死角,全方位堵住事故的发生。
三是素质保障。以人为本,提高职工技术业务素质,增强职工安全意识,现场作业环境复杂,点多、线长,人员分散型生产经营单位,无论是安全技术管理人员还是现场职工都必须具备相应的业务素质,首先是本身要具备一定的基础,其次是加强岗位练兵,加强教育培训,不断提高技术水平,提高安全资质,做到不犯“糊里糊涂的违章错误”。
四是关口保障。当前全国各行业安全生产,基本上是层层把关。近年来所组织开展的“安全性评价”及其整改,就是关口前移,堵住事故的源头,把住源头关,从源头上消除事故隐患。在生产现场,工作负责人、监护人,都是有明确职责的,只要大家严格遵章,各司其职,一定能够把住关口,使生产活动安全顺利地进行。
五是投入保障。投入保障,就是通过对安全生产的必要和有效投入来保障相应的设备设施满足安全生产的条件。目前,整个社会对安全生产的投入不足,欠帐颇多的矛盾十分突出,主要表现在对设备的更新改造投入不足、不及时,对设备检修维护的费用欠缺,那就是拼设备的耐受力,拼人员的意志和毅力。
当然,作为一名普通安全生产管理人员,对超期的设备,就要用加强巡查检测的频度、加大运行维护的力度,来确保其正常运行。
总之,抓安全,必须从上到下,坚持把工作抓严,抓细、抓实,把握方方面面,把握细枝细节,达到“纵向到底,横向到边”,我们的安全工作水平,就能得到全面提升,安全生产
安全员心得体会-安全在我心中
安全员心得体会-安全在我心中
作者:admin338 资料来源:网络 点击数:
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更新时间:2006-8-10 8:20:45 文章
来源莲山
课 件 w w w.5y K J.Co m 无危则安,无损则全。安全就是人们在生活和生产过程中,生命得到保证,身体免于伤害,财产免于损失。安全生产是企业管理的重点,是企业发展的根本保证,安全就是效益。我们肩负着国家的财产、职工的安全。血的教训,时时刻刻印在我 心中。企业要搞好安全生产工作,就是要时刻把人民和职工的安危放在心上。“安全在我心中”就是要做到“人人事事保安全”。
人人事事保安全,关键要从我做起,从现在做起。作为一名安全员,就更应该用——颗赤诚的心,去维护劳动者的安全和健康;用安全的规章制度和周到的服务为人们营造一个良好的生产环境;以辛勤的工作,为企业的大船护航。应该做到:一,端正自己的思想作风。有“责任重于泰山”的责任意识,从严要求,敢抓敢管,大胆揭露矛盾,果断解决问题;在严格执法的同时热情服务,公正清廉,在安全管理以及检查过程中始终要体现公平、公正、赏罚分明;要不断创新,注重与时俱进,完善自我,增加安全管理的超前性。二,熟练掌握安全专业知识,才能预知危险、分析和控制危险,同时,还必须掌握和熟悉国家、地方、行业有关安全生产的一系列法律、法规和操作规程,以便在安全管理和监督工作中做到依法监督、按章指挥。三,要有系统的管理理论,提高安全管理业务水平,促进安全管理科学的发展。四,要有崇高的敬业精神,做到“三心两意”,即工作上的“专心、细心、耐心”,思想上的“忧患意识、责任意识”,时刻紧绷安全之弦,发现隐患及时组织整改,把事故扼杀
在萌芽状态。
人人事事保安全,还在于领导的重视和安全责任制的落实。为官一任,保一方平安。领导要把安全生产工作摆上议事日程,从人力、物力、财力等方面保证安全生产各项制度、措施的贯彻落实,支持安全监督,维护安全员的权威,控制和杜绝事故的发生。
人人事事保安全,重视安全宣传、教育和培训。只有把职工的安全意识提高了,安全技术能力提高了,才能在生产劳动过程中自觉遵守劳动纪律和安全操作规程。从“要我安全”转向“我要安全”、“我应安全”、“我能安全”、“我懂安全”,这是安全意识的飞跃,这种飞跃只有通过经常的反复的安全再教育。
人人事事保安全,采用科学管理手段,通过危险源的辨识,根据后果的严重程度和发生事故的可能性来进行风险评价,确定重大危险源,再进行重大危险源的有效控制和管理。为了贯彻我国《安全生产法》和执行《建设工程安全生产管理条例》的有关规定,必须制定本单位安全生产事故应急预案,建立应急救援组织或者配备应急救援人员,配备必要的应急器材、设备、并定期组织演练。原创文章,尽在网络络.com网。
安全生产是一项复杂的系统工程,需要全员动手,综合治理,常抓不懈,只要安全在我们心中,没有克服不了的困难。让我们共同努力,心存安全,在建起一幢幢高楼的同时,也建起一座座平安的丰碑。
安全,连着我和你,它在我心中,在你心中,在大家的心中。文章
第五篇:中日文化交流之茶道往来
中日文化交流之茶事往来
茶是当今世界三大饮料之一,而且三者之中茶居咖啡、可口之首。群球现有53个国家种植、加工茶,157多个国家和地区的人群有饮茶的习惯,茶在人际交往中发挥着重要的纽带作用,以茶会友正成为当今社会的一种风尚。纵观历史,茶在中日两国文化的交流过程中扮演着重要角色,作为艺术和文化的载体,茶的东传对中日两国意义深远。
中国是最早用茶饮茶的国家,其渊源最早可以追溯到5000年前的农神时代。最初茶是被作为药物来使用的,人们将其捣碎放入罐盆中烹煮以其为羹二食,这大概算的上是最早的茶食了。到了周代,出现了关于茶的最早记载,据传为周公旦所撰《尔雅·释木》有:“槚,苦茶”;又《周礼·地官·掌茶》载:“掌以时聚茶”;《中国风俗史》云:“周初至周之中叶,......有种种饮料,儿茶其最显著者。”由此可见,茶在中国不仅作为药品,祭品而且作为饮品,其历史至少已有三千年了。此外茶叶还曾被用于贡品和食材,与此相关的事例在《华阳国志·巴志》和《晏子春秋》中均有所记述。
茶的真正盛行是在唐宋时期。因为皇亲国戚视茶为养生妙药,传入民间百姓群起而效仿。为此茶成为中国人生活中的必需品。也正是因为商业繁荣和市场需求,茶叶的炮制技术得到了不断的改进,形成了以“唐煮宋点”为时代特色的饮法。饮茶向高文化层次的发展,促使以茶为主题的诗词歌赋等文学艺术作品大量出现,其中最为著名的就是茶圣陆羽撰写的世界第一部茶叶专著—《茶经》。这部旷世奇作后来也被带到了日本,禅宗大典法师对其进行注释著述了《茶经详说》一书。在民间,茶楼、茶肆也大量兴起,各种茶宴、茶会不断,斗茶成为当时最流行的评选活动。由于中国茶叶生产的不断扩大,饮茶风尚普及,茶种、茶苗及饮茶习俗随着贸易和佛教的传播,带到了世界各地,以茶代酒的文明之礼受到了包括日本在内的很多国家的欢迎,而中日两国的茶事往来也正是以此为起点的。
日本茶源于中国,中国茶传入日本大约是在1200年前的奈良时代,当时日本的茶主要是依靠遣唐使从单方面中国携入,茶叶作为贡品,异常珍贵。《茶经详说》记载了公元729年,圣武天皇召见僧侣并赐茶的事件。[2]公元770~780年(日本宝龟年间),西明寺禅僧永忠作为日本遣唐僧到中国,在唐朝逗留近30个春秋,63岁时返回日本,并带回茶树种子,种植在比睿山麓懂得坂本。平城天皇大同元年(806)六月,永忠上书朝廷,请求斋日必要饮茶,认为这样才是大唐风俗。这是有史料记载的中日两国除遣唐使以外的第一次茶事往来。[1]公元815年即弘仁六年四月二十二日,嵯峨天皇赴近江国滋贺行幸时,永忠在琵琶湖西畔的梵释寺亲手煮茶进献。就因与中国茶的缘分,嵯峨天皇甚为憧憬中国文化。为此他很喜欢京都北部的嵯峨山,在山下造别墅并在此终老。
在中日茶事交流的过程中,很多具有推动性的进步都与佛教的往来息息相关。
[1][ 出自《日本后经》,转译,《日本后经》是日本最早记述饮茶的著作
2]出自《中日饮食文化比较研究·中日茶的履历表》,作者贾慧萱
与永忠同期在唐的留学僧最澄、空海也是热心推广饮茶的人。嵯峨天皇曾与最澄会诗:“羽客讲座亲,山精供茶杯”。弘仁五年闰七月(公元814),空海在奉献给嵯峨天皇的典籍中有“奉献表”,其中写道[1]“(我)观练余暇,时学印度文。茶汤坐来,也读中国书”。最澄、空海还互赠茶叶,可见饮食习俗在留学社鞥中国不仅流行,而且成为一种时尚。
由于永忠在日本在国内对茶的推广只限于宫廷和士大夫阶层,因而在民间没能像大唐一样传播开来,加之日本到公元895年废止了遣唐使制度,饮茶风俗在日本到9世纪末都少有记述,直到宋神宗熙宁五年(1072)五月十三日,日本大云寺僧成寻携弟子七人赴天台山国清寺交流学习,中日两国才又恢复了茶事往来。成寻的出访并不顺利,九年后成寻客死中国开封开宝寺,然其弟子的回归,无疑也将宋朝的饮茶风俗带回了东瀛。
1168年~1191年,继成寻之后,日本的荣西禅师两度入宋求法,成为中日茶道交流史上贡献最为杰出的人。第一次回国时荣西将茶种带回日本,但由于日本民众对茶的功效不甚知晓,只种了两三株。为了鼓舞人们食茶种茶,第二次回国后,荣西编撰了《吃茶养生记》献给镰仓幕府,书的一开头就写道:“茶也,养生之仙药也;延龄之妙术也。山谷之生,其地神灵也。人伦采之,七人长命也。天竺唐土同贵重之。我朝日本曾嗜爱矣,古今奇特仙药也,不可不摘。”从内容 [1] 出自《答澄公奉献诗》,此诗收录于《文化秀丽集》
上看,荣西对茶的解读不无夸大的成分,但同样也表达了荣西对茶的喜爱和在日本传播茶的热情,由于荣西是最早将茶种从中国带入日本的人,并且对茶道的理论思想作出了极大贡献,后人遂将荣西称为日本的茶神或茶师。[1]荣西之后,饮茶在日本逐渐兴盛.起初在禅院中流行,后来日本的公家和武家都欣赏饮茶之趣,在日本兴起了举办茶会之风。根据《吃茶往来》(约为日本南北朝晚期或室町初期的著作)所记,当时高级武士修建了讲究的茶亭,在这里举办茶会。点茶献客之后,要玩一种类似于中国那种比茶味、比茶品的斗荼赌赛游戏叫“四种十服荣”。但当时日本茶的种类没有中国那么多,他们主要是猜测其中哪些是“本茶”(指拇尾茶)、哪些是“非茶“(其他茶),以定胜负。之后,“退茶具,调美肴,劝酒飞杯。先三迟而论户,引十分而励饮。醉颜如霜叶之红,狂妆似风树之动。式歌式舞,增一座之兴;又弦又管,惊四方之听”(《吃茶往来》)。但这种豪华的茶会被认为是“无礼讲”、“破礼讲”、是一种败坏风气的行为。所以到了室町幕府的八代将军足利义政(1449—1473年)时,遂命能阿弥(1397—1471年)创立起在书院建筑里进行的“书院茶”,这是一种气氛严肃的贵族茶仪。之后又命村田珠光(1423—1502年)为主持茶会的上座茶人。珠光在继承荣西茶道思想的基础上把寺院茶礼、民间的“茶寄合”和贵族书院的台子茶相结合,并注入禅的精神,排除一切豪华陈设,形成了朴素的草庵茶风。日文中的“茶道”一词,就是由他开始使用的,在此之前只称 [1]与下文[2]同出自孙机,《中国茶文化与日本茶道》,此文为作者1994年12月16日在香港茶具文物馆的演讲稿,有修订 为“茶汤”而已。
武野邵鸥和千利休等人对日本茶道道义的形成和发展也做出了很大贡献。禅宗对茶道的影响很大,村田珠光、武野邵鸥、都信奉禅宗,可以说他们都是永忠、成寻、荣西一脉的传人。其中武野邵鸥参禅,借用禅制定了茶道的“法度”,成为后来茶人的榜样。[2]千利休将草庵茶进一步庶民化,使之更加普及。他把珠光提出的茶道之四谛“谨敬清寂”改为“和敬清寂”,即将带有严肃意味的“谨”改为冲淡平夷的“和”。但他又强调“敬”,敬体现在茶道的礼法上,这是日本封建等级制度下的人际关系的反映。这种敬意后来逐渐被总结为[2]“四规”“七则”的茶道规范
茶道因为茶会的做法,沏茶技艺以及传承的茶事有所不同,形成不同流派,在日本多达三千流,各派各有自己的宗师“家元”。日本的[1]“家元”制度,均由长子继承父业,沿袭父姓,有点类似于中国的嫡长子继承制。具有代表性的流派如以千利秋为鼻祖的“千家流”,千家流的后继人又细分为表千家、里千家和武者小路千家。三家的家元又分别以不审庵、今日庵和官休庵为三大本营,各自开展茶道活动。其中今日庵里千家流雨中国交流较多,几乎每年都派团访华并并表演
[1] 家元:指那些在传统技艺领域里传承正统技艺、管理一个流派事务、发放有关该流派技艺许可证的家庭或家族。以这样的家庭或家族为核心形成的组织即家元组织。家元组织主要存在于以下三个领域:
1、武家社会,如剑道、柔道等。
2、宗教界。
3、传统的文化技艺领域,如花道、茶道、歌舞伎、和歌、围棋等。
四规指“和、敬、清、寂”,乃茶道之精髓。“和、敬”是指主人与客人之间应具备的精神、态度和辞仪。“清、寂”则是要求茶室和饮茶庭园应保持清静典雅的环境和气氛。七则指的是:提前备好茶,提前放好炭,茶室应冬暖夏凉,室内插花保持自然美,遵守时间,备好雨具,时刻把客人放在心上等。[2]茶道艺术,北京也有里千家流派的同友会。受日本茶道启发,中国大力推广茶道文化,作为中国茶道的两大代表江西婺源和徽州茶系每年都会在海内外进行定期的茶道表演
如今,茶楼茶肆在中日两国已相当普遍。在中国北京、上海等大城市,已出现品味高雅的高档茶肆。而在日本,茶肆的分布则更为广泛,相关数据显示,平均每500个日本居民中间就会有一家茶肆,如果不考虑妇女小孩,这个数字还可以缩小到200人。茶楼茶肆作为人们休闲、小憩甚至是商旅活动的场所已成为社会生活中不可缺少的一部分。除此之外,受佛教思想影响,日本还根据自己的饮食习惯发明了茶食,其中最著名的就是怀石料理(又称大名料理),这也是日本在世界茶文化交流中的又一大创新。
后记:
文章在写作过程中参考了贾慧萱老师的《中日饮食文化比较研究·中日茶的履历表》和孙机老师1994年12月16日在香港茶具文物馆的演讲稿。其中内容多有参考,二位老师的文章内容丰富,其中多有引用,拜读多遍之后,深感所学之贫乏以及做学问之艰辛。中日两国一衣带水,其中茶事往来颇多,所记之处旦有欠缺还请老师多加评点。原题在写作时曾设为中日文化交流之茶道往来,然翻阅书籍,难寻中国茶道遗存,贾慧萱老师曾在著作中也曾提及婺源茶道和徽州茶道,二者虽然也继承了地方文化的一部分,但现在都以表演为主,从形式上远不如唐宋斗茶来的好看,有名无实,难入道、技之流。与之相比,日本茶道在不断吸收唐宋茶文化的基础上亦在不断发展,通过家元制度,日本的茶艺、茶技和茶礼都得到很好地传承。禅茶合一、和静清寂的思想逐渐成为日本民族性格的一大特点。从“四规”、“七则”上我们可以看到日本人对茶道的那份敬意和认真,反观中国茶道,缺少的不就是那份认真的态度和精神么。除了有感于中日茶道的现状外,类似于“家元制度”和“日本的佛教文化”等内容也引起了我的极大兴趣,日本的茶道能够形成发展至今,上述两点因素对其影响颇深。万法归一,我相信这种影响不仅体现在中日茶道文化的交流中,在中日文化交流的其他各个方面,“家元制度”和“日本的佛教文化”都是值得研究的内容。