第一篇:荆州城墙&万寿宝塔日语导游词
荊州城壁(じょうへき)
荊州古城は、すでに2000年余りの歴史があり、秦漢に、城の周囲を作り、五代十国の後で、煉瓦で城を建てました。宋、元、明には何度も壊れては、修繕しました。現在完全な城壁は、清順治3年(1646年)建てられた物です。東西3.75キロメートル、南北1.2キロメートル、敷地面積が4.5キロメートル、周囲が10.28キロメートルで高さが9メートルです。ちゃんと保存されてきたので、「我が国の南方に完璧な物だ」と呼ばれています。我が国に時代を越える数量が一番多くて土で築いた城から発展してきた唯一の城壁です。春秋戦国時代の楚国は411年もの間に、ここに都を定めていて、色々な遺跡を残してました。
荊州古城が三層で、外側には護城河があり、中間は煉瓦の城壁、内側は土の城です。城門が地元の地理や風俗などに繋がっています。城壁に元々城門が六つあります。改革開放の後、経済発展のために新たな南門、北門と東門を建てたので、都市の交通状況を改善したとともに文物の保護にも役立っています。そして、軍事施設が整っている防御工事として、今までも重要な役割を果たしています。この寅賓門が通称「大東門」ともいいます。使者と賓客を迎える城門としてその上の櫓(やぐら)が非常に立派です。賓陽楼と呼ばれて明朝に初めて建てられて清朝に改めて建てられました。1987年、国家文物保護所に修繕されて当年に公衆に公開しました。賓陽楼の中に有名な三国人物があります。例えば、劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、諸葛亮(しょかつりょう)などの銅像(どうぞう)がずらっと並んでいて生き生きとしています。三国誌全部で120章だが、荊州に関する章が72もあります。道理で荊州の至る所に三国人物の息吹(いぶき)が満ち溢れています。
荆州万寿宝塔(ばんじゅほうとう)
万寿宝塔は湖北省にもう一つの重要な古い建築として、1956年に全省の重点文物保護対象になりました。これは天下第一磯として長江の堤に聳え立つものです。そこから遠方の立派な風景がみえます。
宝塔は高さ40.76メートル、八面で七階で、宝塔の上に色々な素振りをしている仏像が88尊あります。そして、煉瓦の種類も複雑で、その上に色々な図案もあれば、仏教の経典もあり、宝塔の天辺(てっぺん)に金剛経(こんごうきょう)が全部刻まれました。それで、その歴史文化価値が計り知れないかも知れません。この塔は他の塔と比べて最大の特色が塔の体が長江の堤より約7メートル低くしています。
西暦紀元1548年、皇帝の誕生日を祝うために建てられました。それに、洪水を抵抗し、人民の幸福を祈るという意味も含めます。
第二篇:荆州博物馆日语导游词
荊州博物館について^^^
1958年に建てられて約四十年が経って、地方総合的な博物館になりました。敷地面積が4.8万キロメートルだが、約12万余りの文物を収集しています。民族文化を広めるために荊州博物館が何度も欧米各国に文物を運送して展覧会を開いました。それは社会的に良い響きを齎しました。国内に開いた主な展覧会は以下のように簡単に解説しましょう。荊州博物館は、その豊富な展示品で国内外の観光客を引きつけ、毎年、観光客は延べ60万人に達しています。
まずは『古代漆器上等品展覧会』です。中国に漆器の製作と使用は7000年前の新石器時代から始めたものです。とりわけ、春秋戦国時代の楚国は漆器商業が繁盛していました。収集された楚国と秦朝と漢代との竹簡が全国に首位に立って、それに、この漆器の出土数量が全国で一番多いだけでなく、種類の複雑さ、手工芸の巧みさ、価値の高さなどが疑いなく中国の歴史上に画期的な意義があります。例えば、皆さんの見る通りに、この虎座鳥架鼓(こざちょうかこ)は楚国の重要な楽器種類としてちゃんと保存されてきました。頭を上げ、足を曲げて背を向ける二頭の虎を台座(だいざ)として、虎の背中に一羽ずつ鳳(おおとり)が歌っているように立って彼らの真ん中に一面の鼓が紐で締められて鳳の冠(かんむり)から垂れています。この漆器は本物そっくりで、楽器でも芸術品でも、その歴史文化価値も計り知れないものです。因みに、この意気軒昂(いきけんこう)の鳳と小柄で縮こまる虎との組み合わせからして、楚国人の落ち着いた生活に憧れる願望と強暴の事物にめげない精神というのも分かっています。
次には、『楚漢絹織物(きぬおりもの)展覧会』です。東周時代、楚国の刺繍(ししゅう)技術が長らく発展していたので、織物の種類が段々増え、主に絹、紗、錦、羅などを生産していました。それに、特殊な織り込む方法を採用して労働時間も短縮しました。飾り模様が主に鳳、竜と花草などで鮮やかな色彩で独特なスタイルが表現できます。これらの念入りな図案が当時に最高水準に達した絹織り技術を反映した御陰で、荊州の馬山一号墓は「古代中国のシルク宝庫」と呼ばれています。
最後は『鳳凰山(ほうおうざん)168番の漢代墓の展覧会』です。この漢代墓は1975年に掘り出されて、500余りの文物が展示されています。その中に注目されているのは出土した2000年も前の西漢【前漢(ぜんかん)】男性の木乃伊です。彼の棺桶が内棺と外棺からなるので、当時に彼が地位のある人だというのも容易に分かっています。確かに彼は生前が大夫で各種の病気で約60歳に死んでしまいました。墓室が三つの部分に分けられて彼の生前の居室に模倣して作られたものです。棺が全部最高級の楠木(クスノキ)で作られて一塊でも千キログラム程重いくらいです。皆さんの見る通りに、この木乃伊は体重が52.5キログラムで身長が1678センチです。彼の側にその小さい箱に置いてあるのは脳髄で大きくて四角い箱に置いてあるのは内臓です。2000年も経ったにも関わらず、木乃伊がちゃんと保存されてきました。肌の弾性力もあり、四肢の関節も自由に動けます。棺を開けた時に、木乃伊が十数種の漢方薬で作られた真紅色の液体にどっぷり浸かっていました。それが腐らない原因が一体何だかという疑問があるだろう。研究結果に基づいて、主な原因が三つあります。一つは墓穴(ぼけつ)が地下十メートルにあり、一つは棺が麻布(あさぬの)と生漆(きうるし)に密封(みっぷう)されて酸素を遮断しました。最後は漢方薬で作られた液体の殺菌防腐作用です。この木乃伊を発見した後、2000年前に、我が国の人民が医療と防腐などの方面で、相当高かった水準に到達したというのも了解しました。しかも、医学理論に新たな資料を加えて、古代医薬についての不足も補います。
他に、意匠を凝らした開発項目として、1992年に「楚樂宮」(そがくきゅう)が建てられてきました。それは楚国の音楽と踊りを世間の前に展示し、2000年前に楚国の見事な宮廷芸術を再現しています。
第三篇:荆州导游词
荆州导游词1
荆州市位于湖北省中南部、江汉平原腹地,东望省会武汉、西接长江三峡,南与湖南常德、岳阳、益阳交界、北与荆门毗邻,辖荆州、沙市两个区和公安、监利、江陵三个县及松滋、洪湖、石首三个市。总国土面积483平方公里,总人口630万。
荆州城早在四千多年前的夏代就已经形成,它是大禹治水定天下,定下来的九州之一,因为它管辖范围很大,包括湖北、湖南,两广边界和河南南阳盆地,而且靠的是湖北省南漳县西边的荆山山脉,当时古人按照依山傍水定地名的惯例定它为荆州。这个城市的特点就是一城二名,既叫荆州城,又叫江陵城,江陵城的来历是两千六百多年以前成立了江陵县,江陵这两个字的意思就是“远处无高山,近处皆陵埠”,也就是远处没有高山,近处都是丘陵和水的意思。“千里江陵一日还”的诗句,说的就是这个城市。
现在咱们所在的位置是荆州市的沙市区,不知道在座的朋友有没有来过我们沙市的呢?沙市原先是个轻工业城市,特别是纺织业比较发达,而且还有几个比较有名的企业,比如说活力28我想大家应该都知道吧。另外呢,沙市最早的时候也不叫沙市,叫沙石,可能是因为原来这里石头比较多的原因吧。原来它是长江上比较热闹的一个码头,早在1895年,清政府跟英国签定的(马关条约)里面有一条就是在长江上开辟五个通商口岸,那么沙市就是这五个通商口岸中的其中之一。
荆州市是楚文化的发祥地,中外闻名的三国古战场,湘鄂西革命根据地的中心,是国务院首批公布的全国24座历史文化名城之一,地处长江三峡旅游线、古三国旅游线、楚文化旅游线上,人文景观很多,历史遗迹遍布全市,现有国家级重点文物保护单位5处:鸡公山遗址、楚纪南城、八岭山古墓群、荆州古城墙、湘鄂西革命根据地旧址;省级重点文物保护单位32处,市9(县)级重点文物保护单位500余处。荆州自古为兵家必争之地。三国时,魏、蜀、吴为夺取荆州,不是留下了“刘备借荆州”、“关羽大意失荆州”等许多动人的故事,而且留下了大量的三国遗址。主要有江陵的关公点将台、马跑泉,洪湖的曹操湾、乌林寨,监利的子龙岗、华容道,石首的绣林镇、刘郎浦,公安的孙夫人城等。荆州城有保存完好的古城墙,历经1800多年,古貌犹存。现存城规模之大保存之好,为我过南方所仅有,在全国也为数不多。城内有建于唐代的开元观、玄妙观,建于明代的太晖观,建于清代的文庙、关庙和铁女寺。据考古发现、,荆州早在五千年前就是原始人类生存的地区,城北的鸡公山就是五万年至二十万年前的一处旧石器时代的遗址。五、六千年前,人类在荆州大地上创造了灿烂的屈家岭文化和石家河文化。春秋战过时代,青铜器冶炼技术,煅铸铁技术,丝织刺绣技术和漆器工艺技术都处于世界领先水平;老庄哲学、楚辞文学和音乐舞蹈也都登上了古代世界文明的殿堂。楚故都纪南城及其周围,有楚城遗址5座,楚文化遗址83处,大型古墓800多处,其中包括18个楚王的葬墓。三国时期,诸葛亮称荆州“北据汉沔,利尽南海,东连吴会,西通巴蜀,此用武之过也。”魏、蜀、吴三国的众多政治家、军事家围绕荆州斗智斗勇,留下了无数脍炙人口的故事和许多三国胜迹。
荆州自古人杰地灵,素有“唯楚有才”之誉。世界四大历史文化名人之一的屈原,就曾在这里任职20余年。屈原是世界四大文化名人中的一员,也是我国杰出的大文豪,最早的伟大爱国诗人,还是伟大的政治家、思想家、外交家和改革家。屈原,名平,字原,又名正则,表字灵均。“正则”即“平”,以法天:“灵均”即“原”,以法地。战国时期楚国人,故里汉寿沧港。约生于公元前340年正月初7日(有说初5日),逝于公元前278年,5月初5日,享年62岁。屈原是楚武王熊通之后,“屈”是楚国(昭、屈、景)三族中第一个大旺族。武王把次子“瑕”分封在屈的地方,即今日的汉寿境地。“瑕”就以“屈”为他的派称,以后便成了“屈”姓。从“瑕”到屈原已有5百多年的历史。屈原的祖父屈宜恤,做过宣王时的司马,威王时的“莫敖”,是威震诸侯的大将军,屈原的父亲屈丐,字伯庸,是统帅楚国最精锐“申息”之师的大将军。
屈原幼年,入公侯子第学校读书,资质聪颖,过目不忘,又日夜苦读,积累了不少文、史、神话和天文方面的知识,加之其父母教育甚严,公认他是王族子弟中的姣姣者,
屈原青年时,就明于治理,娴于辞令。德才兼备,又是武王的后裔,怀王很器重他。约18岁就选入王室,20岁就奉命第一次出使(使者相当大夫)齐国,出色地完成了六国联盟的重任。约22岁被任为左徒(太傅,即国王的秘书长)仅次于令尹(宰相),职位极大,并与楚怀王“成言”,即对天盟誓,君臣志同到老。便参与怀王内政外交的重大决策。他积极主张明王法度。举贤荐能,联齐抗秦,统一中国,实现“美政”,怀王乐意采纳。然而以南后郑袖为首的贵族集团嫉妒屈原,反对改革,尽力谗毁,昏君糊涂地把他流放,此时屈原约30岁。
屈原离京后,前往江南途中,因秦魏攻楚时,怀王想起屈原,便派人找回了他,怀王命他第二次出齐,联齐抗秦,凭自身的才名和三寸不烂之舌,一举说服齐宣王。但是,张仪又勾结南后再次诋毁屈原,怀王勃然大怒,改任他为三闾大夫,此职是掌管王族三姓的有关事务,负责谱牒,祭祀和教育等。虽职位较高,但不能面见国王。当怀王出秦赴约时,容颜憔悴的屈原,跪在路边哭劝,反被奸臣靳尚推倒在地,飞车而去,其恶果怀王被扣,囚禁三年,死于秦国,这时屈原已42岁。
屈原听说怀王灵柩已回,赴京扶柩痛哭,并奉劝襄王与秦断交,襄王已动心而未成行,反娶秦王之女,认贼作父,屈原竟拼命求见,在宫门口却碰上子兰,他大声怒骂子兰。第二天,子兰向襄王极力 屈原,襄王大怒,便撤了他三闾大夫之职,流放江南很久他已50余岁了。
屈原离开郢都,沿长江而下,满怀悲愤,忧愁交加,便写下了《离骚》。在流浪中写了《招魂》,还设灵位诵此诗祭祀怀王。以后过洞庭、逆沅水,回到汉寿沧港故里住了很久。在此期间他每天在河边湖畔走来走去,独吟诗歌。他已面黄肌瘦,形若枯槁。一天在沧浪河畔遇渔父相交谈心,便写下了《渔父》。尔后,他离家行至湘水时,秦军破郢都,闻此消息,他更忧国忧民,心似火焚,就写下最后一首《怀沙》诗,表明他坚守忠洁、誓死不屈的决心。于5月5日自沉汩罗江,年62岁,故里沧港人民一听到屈原投河,立刻去汩罗捞尸,并将包好的粽子投入河中,以免鱼龙伤害尸体。年年如此,便成了端午龙舟竞渡和包粽子的传统风俗。
1953年,农历5月初5日,我国广泛开展了纪念屈原的活动。同年9月,世界和平理事会开会纪念屈原,号召全世界人民向他学习。
屈原创造了与日月争光的楚辞25篇,其中23篇是在故里沧港写就。《离骚》是中国诗坛的杰作。也是世界著名的史诗,译成许多国家的文字。在很多国家的图书馆里还挂着屈原的画像。《国风》和《离骚》合称为“风骚”,连诗人也称“骚人”。抗日时期,曾一时定5月5日为“诗人节”。
屈原虽已离我们2283周年了,但他的著作是全世界人民的精神财富,具有深远的历史意义。和伟大的现实意义。我们不仅要世代缅怀他,而且要广泛宣传和认真学习他。我们要学习他坚持奋进的思想,忠诚高洁的品德,宁死不屈的意志和爱国爱民的伟大精神。
明朝“宰相之杰”张居正,字叔大,号太岳,湖广江陵(今属湖北)人,又称张江陵。明代政治家,改革家。嘉靖二十六年(1547年)进士,由编修官至侍讲学士令翰林事。隆庆元年(1567年)任吏部左侍郎兼东阁大学士。隆庆时与高拱并为宰辅,为吏部尚书、建极殿大学士。万历初年,与宦官冯保合谋逐高拱,代为首辅。当时神宗年幼,一切军政大事均由居正主持裁决,前后当国20xx年,实行了一系列改革措施,收到一定成效。他清查地主隐瞒的田地,推行一条鞭法,改变赋税制度,使明朝政府的财政状况有所改善;用名将戚继光、李成梁等练兵,加强北部边防,整饬边镇防务;用潘季驯主持浚治黄淮,亦颇有成效。万历十年(1582年)卒,赠上柱国,谥文忠。死后不久即被宦官张诚及守旧官僚所攻讦,籍其家;至天启时方恢复名誉。著有《张太岳集》、《书经直解》等。“公安派”文学才子三袁,当代著名文学家曹禺、邹荻帆、欧阳山等,都是荆州人。
荆州水陆交通发达,通信设备日趋完备。有干支公路1569条,全市在网通车里程4099.18公里,中心城区公交线路28条,运营线路网长度138公里。207、318国道和宜黄公路贯穿全境。焦枝、荆沙铁路穿越其间。以长江、汉江为主航道,水上运输便利。拥有程控电话、光纤通讯、彩色电视电话、数字微波等现代化通信设备,同时受世界上150多个国家和地区的邮电业务。
荆州导游词2
亲爱的游客和朋友们:
大家好!欢迎参观荆州古城!我叫x x x,我很高兴成为你的导游。我希望我的服务会给你留下深刻的印象。
江陵,古称荆州,离中国方圆九州太古寺很远。荆州是一个国家的中心。春秋战国时期,楚国将楚国迁到江陵,成为楚国的政治、军事、文化和经济中心。楚国在这里建都400多年,历经20代。
江陵是中国少有的拥有古城墙的城市。传说是“刘备借荆州;关羽所建。秦汉以来,江陵一直是北方去长安洛阳,南方去广东广西,西部去四川云南贵州的必经之路。城南有长江水运便利,有“自古以来,兵家就重视荆州。说。据《三国演义》记载,赤壁之战后,曹操回到黄河流域,孙权占领荆州巩固长江下游的统治权力。孙刘和孙刘之所以结盟,原本是出于此刻对利益的考虑。为了夺取荆州这个地方,双方展开了激烈的内斗。孙权采纳了属下鲁肃的想法,为了共同抵抗曹操,把荆州借给了刘备。刘备得川后,不还荆州,派二弟关羽守川。关羽出兵襄樊恫吓曹操。孙权成空取荆州,遣吕蒙攻荆州,擒杀关羽。历史上“刘备借荆州;“吴栋失去了妻子和士兵。“关羽不慎失荆州;当所有的故事都发生在那里。孙刘联盟破裂后,刘备、张飞攻打吴,张飞不出兵,被张达、杀死。“头埋云阳,身埋阆中”。刘备兵败“夷陵”,白帝城托孤。
荆州古城城墙保存完好,东西径3.75公里,南北径1.2公里,总面积4.6平方公里。
荆州护城河,又名水区,是古城的第一道防线。护城河长10500米,宽30米,深4米。护城河西接太湖,东接连长湖,与古运河相连。它可以从内河直接乘船到达武汉。
“位于荆州市;荆州博物馆;出土了120多件文物和传世文物,其中最珍贵的是王月的勾践剑和西汉男尸。王月勾践剑,剑厂68.8厘米,剑身饰以菱形图案,剑柄附近刻有鸟印铭文“勾践,一把自动剑”八字,剑柄两侧镶嵌三色玻璃和绿松石。虽然在它下面埋了三千多年,刀刃依旧锋利,绿光闪闪,但如新如新。据墓中竹简记载,西汉一具男尸,葬于汉武帝十三年(前167年)五月。死者的名字是“然后”江陵县李阳人,60岁,武大福(相当于或略高于当时的县级官员),身高1.678米,体重52.5公斤。
说到这里,大家一定对荆州古城有了初步的了解。此时此刻,请跟随我一起走进荆州,更深入的了解荆州古城。
荆州导游词3
荆州市地处江汉平原腹地,长江自西向东横贯全市。东与武汉市相连、西与宜昌市交界、南与湖南省接壤,北与荆门市毗邻。总面积万平方公里,其中平原湖区占%,丘陵低山区占%,耕地面积万公顷。
荆州市辖荆州、沙市2区和江陵、公安、监利3县,代管松滋、石首、洪湖3市。末,全市总人口万人,人口密度448人/平方公里,占湖北省总人口的%。市内居住有汉、回、蒙、土家等30个民族。中心城区面积54平方公里,人口75万。
荆州属亚热带季风气候区。光能充足、热量丰富、无霜期长。多数年份降雨量在1100—1300毫米之间。4—10月份降水量占全年80%,太阳辐射量占全年75%,≥10℃的积温为全年80%。全市河流交错、湖泊密布,有大小河流近百余条,均属长江水系,主要有长江干流及其支流松滋河、虎渡河、藕池河、调弦河等。全市有千亩以上湖泊30多个,总面积8万公顷,其中洪湖为湖北省第一大湖,总面积万公顷。
荆州是中国历史文化名城,禹划九州,始有荆州。春秋战国时期,20代楚王定都于荆州,长达4,楚先民“筚路蓝缕,以启山林”,创造了堪与古希腊雅典文化相媲美的楚文化。特别是荆州出土的战国丝绸、越王勾践剑和整套石磬编钟,更加折射出楚文化的熠熠光辉。灿烂的楚文化造就了一批对人类社会产生深远影响的杰出人物。伟大的爱国主义诗人屈原,“一鸣惊人”的政治家楚庄王,楚国名相孙叔敖等等,都是从荆州这块土地走上历史舞台的。荆州是三国文化的发祥地。“闻听三国事,每欲到荆州”。长达120回《三国演义》,有82回写到荆州。市内三国胜景遍布,保存完好且长达公里的荆州古城墙,被誉为“中国江南不可多得的完壁”。1992年发掘的鸡公山文化遗址,经考古界鉴定为“中国第一,世界罕见”。荆州还是中国龙舟文化和凤凰文化的发源地,一年一度的“龙舟节”和“凤凰音乐节”,已成为荆州独具特色的文化品牌。
荆州旅游资源得天独厚,文化旅游、生态旅游蔚为大观。市内有闻名遐迩的荆州古城,脍灸人口的三国故事,古老纯朴的江汉民俗。纪南城、关公庙、章华寺、乌林古战场、华容道等人文景观底蕴深厚,荆州博物馆被评为国家首批“4A”博物馆,位居全国地市级博物馆之首,馆藏文物达12万余件,其中西汉古尸等国家一级文物近300件(套)。“一曲洪湖水,唱遍天下知”,洪湖湘鄂西革命根据地的瞿家湾、周老咀等革命旧址已列入国家级爱国主义教育基地。境内山青水秀,湖泊纵横,是典型的水乡园林城市。近年来新建开发的松滋危水风景区、洪湖渔家度假区和石首天鹅洲麋鹿自然保护区等自然景观令人流连忘返。
荆州导游词4
亲爱的游客朋友们:
你们好!欢迎大家前来参观荆州古城!我叫***,很高兴能成为大家的导游,期望我的服务能给大家留下深刻的印象。
江陵,古称荆州,远在太古,中国方圆九州,荆州就是一个州的中心之地,春秋战国时,楚国把楚国都迁到江陵,那里便成了楚国的政治、军事、文化、经济的中心,楚在此建都400多年,历经20代。
江陵是我国为数不多的有古城墙的城市之一。相传为“刘备借荆州”时关羽所筑。秦汉以来江陵北至长安、洛阳,南下两广,西去四川、云贵的陆上通道必经之路。城南又有长江水运之便,向有“自古兵家重荆州”之说。据《三国演义《载:赤壁之战以后,曹操退回黄河流域,孙权为巩固长江下游的统治势力,占领荆州。孙刘之间的联盟本来就出于一时利害关系上的思考,双方为了夺取荆州这一块地方,展开了激烈的明争暗斗。孙权采纳了部下鲁肃的主张,把荆州借给刘备,以便联合抗御曹操。刘备取得四川后,不归还荆州,派二弟关羽据守,关羽出兵襄樊,威逼曹操,孙权乘荆州空虚,派吕蒙袭取荆州,俘杀了关羽。历史上“刘备借荆州”、“东吴赔了夫人又折兵”、“关羽大意失荆州”等故事都发生在那里。孙刘联盟破裂后,刘备、张飞兴兵伐吴,张飞未曾出兵,被部将张达、范疆所杀。“头葬云阳,身葬阆中”。刘备兵败“彝陵”,白帝城托孤。
荆州古城又保存完好的护城墙,成内东西直径3.75公里,南北直径1.2公里,总面积4.6平方公里。
荆州护城河,又称水域,时古城的第一到防御线,护城河全长10500米,宽30米,水深4米。护城河西通太湖,东连长湖,与古运河相连,驾舟从内河可直达武汉。
位于荆州城内的“荆州博物馆”,又出土文物和传世文物1多件,其中最稀世的珍宝是越王勾践剑和西汉男尸。越王勾践剑,剑厂68.8厘米,剑身饰满菱形花纹,近柄处刻有鸟篆铭文“越王勾践,自作用剑”八个字,剑柄两面分别镶嵌有三色玻璃和绿松石。虽然在底下埋藏了三千多年,仍剑刃锋利,青光闪烁,换然如新。西汉男尸,据墓中竹简记载,该人葬于汉文帝十三年(前167年)五月,死者名“遂”,江陵县市阳里人,终年60岁,生前为五大夫(相当与或略高于当时的县一级),身高1.678米,体重52.5公斤。
说了这么多,大家对荆州古城必须有了初步的认识,此刻,大家请跟着我,一齐走进荆州,更深入的了解荆州古城吧!
荆州导游词5
皆さん、おはようございます。今日は有名な荊州古城を見学します。
三国の話を聞いて、荊州に行きたいと思った。荊州といえば、小説「三国志演義」の劉備が荊州を借り、魯粛が荊州を借り、呂蒙が荊州を襲い、関羽が荊州を失ったなどの三国の物語を思い出すのは当然だ。千百年来、荊州古城で三国の歴史煙雲古跡の手がかりを探る人、訪問者、ユーモアのある人が絶えない。皆さんの現地ガイドとして、荊州古城の二千年以上にわたる発展の歴史絵巻をお見せする機会があり、大変光栄に思います。
私たちは今、荊州城東門の外に位置しています。皆さんの目の前にあるこの数十メートルの幅の川は堀です。戦争時に敵の城を攻撃する天然の障壁である。現在この川では毎年盛大な国際ドラゴンボート招待試合が行われている。入城前に、まず荊州古城の歴史的背景を紹介させていただきます。
荊州城は江陵城とも呼ばれている。現在、我が国南方で最も完全に保存されている古城池であり、1982年に国務院が初めて公表した全国24の歴史文化名城の一つである。、荊州の古い城壁は国務院によって全国の重点文物保護単位として公表された。
荊州の歴史を振り返ると、中国の上下五千年の文明史と密接につながっているといえる。周知のように、中華民族は炎黄の子孫であり、黄帝と炎帝の部族が合併して中国を統一した後、九州(冀、鈃、青、徐、揚、荊、豫、梁、雍)を画定し、荊州はこの古い九州の一つである。
荊州という名称は、戦国時代の典籍『尚書·禹貢』において、荊及び衡陽は荊州だけであったが、当時の荊州は面積が大きく、春秋戦国時代の楚国は荊州地域で興った。史料によると、周庄王8年(紀元前689年)、楚文王は現在の荊州城の北5キロの紀南城に遷都した。楚国はここに建都して4、前後20人の国王を経て、黄河流域の中原文化の輝きに伴い、古代ギリシャ、古代ローマ文字文化に匹敵する楚文化を創造した。楚成王(紀元前671525年)が在位していた時、揚子江を遊覧するため、荊州城区に飛楼百尺照湖を建設し、燕趙千華月眉諸宮と宮船埠頭を建設したと伝えられている。この諸宮と宮船埠頭が今日の荊州城の原形です。秦昭王二十九年(紀元前278年)、秦名は白起率兵を率いて楚国を攻撃し、江漢間の地域を占領した。秦は楚都に南郡を設置した。当時の全国三十六郡の一つである。その後、秦は今日の荊州城地区に江陵県を設立した。地は川に面しており、近州には高い山はなく、丘陵阜だらけだ。だから江陵と呼ばれています。紀元前1、漢武帝は荊州刺史部を創立し、全国13州の一つであり、荊州は行政区画の名称となった。
秦漢以降、荊州は歴代王朝王置府の重鎮となり、州郡の一級治所となってきたが、ある王朝はここに都を建てた。三国の時、ここは覇権を争う要津で、孫劉連盟は赤壁で曹軍を大破した。劉備は翌年、孫権に荊州を借り、それを基に蜀の勢力を急速に発展させた。その後、東晋末安帝、南朝斉和帝、梁元帝、後梁宣帝、隋後梁王、唐末五代十国時南平国王など11の紛争王侯がここで帝(王)を称え、1以上続いた。唐代の荊州は陪都で、南郡と呼ばれ、長安城の南北に呼応していた。宋代に建てられた後、ここに江陵府を設置した。元初に江陵府を出発総管理府に変更した。明日初めに荊州府を再設置する。清朝は明朝の制度を踏襲した。民国時、荊州は湖北省第4行政都察区に属していた。中華人民共和国成立後、荊州城は湖北省荊州地区専員公署と江陵県人民政府機関の所在地であった。1994年、元荊州地区と沙市は合併して荊砂市を設立し、に荊州市と改名し、荊州城は荊州市六県市二区の荊州区所在地となった。
荊州城は天下のトップに位置している。江湖の会は、昔から兵家の必争の地だった。諸葛孔明はかつて、荊州の北は漢の氷に頼って、南シナ海を利尽して、東は呉、会、西は巴、蜀を通じて、武を使う国だと言った。漢の実直で忠烈で知られる宰相李固、三国の名将関羽、周瑜、呂蒙、陸遜、晋代の文武両道の大司馬陶侃は荊州を鎮守したことがある。晋代詩人の謝霊運、鮑照、唐代宰相の張九齢、張雍野、大文学者の韓越、元稹、宋代政治家の王安石などの歴史上の人物も務めたことがない。同じ職務上、歴代の多くの重大な農民蜂起は、荊州を重要な攻撃目標としている。例えば、前漢末の王匡、王鳳、唐末の黄巣、元末の陳友諒、明末の李自成、張献忠などの農民蜂起軍が荊州城を攻略した。
荆州导游词6
荆州古城墙作为古时的一项大型军事防御工事,在建筑美学和军事防御上都堪称典范。 荆州位于湖北省中南部,人们时常说的俗语“大意失荆州”,出典就在这里。在荆州,有许多古迹都是跟三国故事有关的。
荆州保存着众多的名胜古迹,其中最有名的就是荆州古城,该城保存完整,里面有玄妙观、关帝庙及铁女寺等。 古城保存着完好的古城墙,它始建于东汉末年,现存城墙为明代所建,在南方极为罕见。城墙全长10.5千米,高8.8米,依地势而起伏,蜿蜒伸展。城墙四周,原有城门6座,即东门、小东门(亦称公安门)、北门、小北门、西门、南门。
每座城门均设“双保险”,前后两道门,二门之间建有瓮城,以便“瓮中捉鳖” ,致攻城之敌于死地。 古城墙除高大坚固的墙体和瓮城等建筑外,城墙之上还有众多配套的军事设施,如今尚存且最具作战防御功能、最有特色的要数暗设的四座藏兵洞,东西南北各一座,每座长10.5米,宽6.3米,深6米,分上下两层,可容100多人。
作为楚文化的发源中心之一,荆州古城的周围出土了大量珍贵文物,属于国宝级文物的有西汉古尸、战国丝绸、越王勾践剑等。此外,荆州还是一个自然风光优美的地方,松滋风景区内湖山掩映、溶洞成群。城外江边还有一座万寿宝塔,据说塔基是低于长江水平面的。
荆州导游词7
荆州古城又名江陵城。是我国历史文化名城之一。南邻沙市,傍倚长江。城墙盘旋于湖光水色之中,依地势而起伏,顺湖池而迂回,蜿蜒伸展,状若游龙。巍巍古城,已有多年历史,自秦汉起,耸有城廓,五代十国后,始建砖城,宋、元、明几毁几修。现保存完好的古城墙,为清顺治三年(公元1646年)依明城垣所建,近年来,沿城墙内外修建了许多新景点。
大家都知道《三国演义》里的刘备假意哭荆州、关公大意失荆州的故事。这里就是“兵家必争之地。”的荆州。这个著名的.文化名城,座落在辽阔富饶的江汉平原的西沿。汉朝的时候,全国划分为三十六州,这里因北有荆山而得名。东晋以后,有几个皇帝在这里建都,使这座城池成了历代王朝屯兵置府的重镇、兵家必争之地。
荆州城由于地处江湖之会,是连接东南西北水陆交通的枢纽,这里土地肥沃,气候温和,特产丰富,而且还曾是全国重要的商业中心之一,在西汉时期,名列南方五郡之冠。
荆州这个名称,是上古大禹治水时所定的九州(冀、衮、青、扬、荆、豫、梁、雍)之一,以当时境内荆山得名。三国以后,荆州城一直是州、郡一级的治所,有的还曾在此建都立国。
荆州古城分为三层,外边是水城,中间是砖城,里面是土城。据说当年为防止城基下陷,洪水泛城,右城脚条石缝中浇灌糯米浆,因而城墙特别坚固。传说三国蜀将关云长镇守荆州,忽遇九位仙女下凡。传王母娘娘旨意,说荆州刀兵动得太多,要收回置于神地,不准凡人争夺。关公忠于其兄不让荆州,于是想了一个计策,说:“你们在西北,我在东南,各筑一城,城周五千步,天黑始,鸡鸣止,谁先筑好,谁就管理这个地方。,九仙女用衣裙兜土,关公伐芦苇筑城。关公城就,九仙女城差一隅,鸡尚未鸣。关公振动鸡笼芦席,公鸡啼鸣,九仙女羞愧地上天去了。这就是现在荆州城北门外九女琢的来历。又传说张飞也挑担土来帮二哥筑城,可是来晚了,便将土倒在东门外,现今人们都把这两座小口山似的土叫“张飞一担土”。这些都是神话传说,然而关公为了防范东吴,在汉代旧城旁筑了一座新城,都是有历史记载的。
荆州城北十华里,是春秋战国时代中国南方最大城市的遗址——“楚纪南故城”。楚国有二十个国王,前后四百一十一年在这里建都。故城地上、地下、城内、城外,蕴藏着丰富的楚国文化。在这里随手都可以拣到两千多年前的瓦片和陶片。
在荆州古城内有关三国的古迹,还有关公行军的大铁锅、养马槽;有吕蒙袭荆州时,守军丢盔弃甲的掷甲山等等。城外,八岭山中有关众多有关三国关羽传说的遗址。我们步下八岭山南端的落帽台,向山中进发,穿过层层松林,来到关公刨泉处。泉边碑文记载:“刘先主困当阳时,关公引师救之,取道过此,人马俱困,忠义感泉涌出,传诵至今。”现在,这口泉的泉水,或为茶亭取水泡茶以待游人;或为酒厂取水酿酒,以款宾客。
悠久的历史,给荆州留下了难以数计的古文物,现保存在荆州博物馆内的就有三千多件。以卧薪尝胆闻名的越王勾践,他所使用的一把宝剑,一九六五年在荆州城北出土。剑上有乌篆铭文:「越王勾践,自作用剑」八个大字。剑身满是菱形花纹,镶嵌著三色玻璃和绿松石。剑刃极其锋利,至今仍能吹毛断发,削铁如泥。
由于上学的原因,来到了这个古城,荆州虽不能与北京,上海那些大城市比,但它有它独特的韵味,在荆州,最常见的就是它的古城墙了.这里共有7个城门,整个城市就是被城墙包围着的.三月里,春暖花开,结伴一起骑着脚踏车,迎着暖暖的春风,把我们青春的脚步留在城墙脚下,也留下我们美好的回忆!
荆州还有很多有名的景点:桃花岛,荆州长江天鹅洲白暨豚国家级自然保护区,万寿宝塔,春秋阁,金凤腾飞,三国公园,荆州博物馆等等.现在正是去桃花村的大好时机呀,品尝着农家菜,看着片片桃花,心情豁然开朗的许多,在这里远离城市的喧闹,好似来到了世外桃源呀!
荆州导游词8
在荆州,“刘备借荆州”的故事就发生在这儿呢!那里有一座雄伟壮观的古城墙,许多游客都去攀登它古老宽阔的脊背。
春天,小朋友在城墙边放着五颜六色的风筝,有的像在空中翱翔的小鸟,有的像正在觅食的老鹰。古城墙在形态各异的风筝的衬托下显得格外美丽。
夏天,古城墙热闹非凡。有的人在清凉的护城河中游泳,有的人拿着相机“咔嚓、咔嚓”照个不停,为古城墙留下了美丽的瞬间,还有的人在城墙旁的柳树下乘凉,一排排像一位位少女在微风中摆动着柔顺的长发。
秋天,树叶翩然落下,红色飞上了枫树的枝头,金色跑遍了无边的田野,古城墙也变的美不胜收。一阵微风吹过,城墙两侧的爬山虎就像下起了“树叶雨”,一片片叶子就像一只只蝴蝶快乐的舞动着。看!护城河上漂浮着落叶组成的小舰队,在风姑娘的助威声中争先恐后的驶向岸边。
冬天,雪花漫天飞舞,房子上、树上、地上都堆积着一层厚厚的雪,整个古城仿佛变成了一个白色的世界。许多树枝被厚厚的积雪压弯了腰,人们都到屋子里围着温暖的炉火喝茶、聊天,只有古城墙还坚强的矗立在雪地上,像一条白色的巨龙守护着这片土地。
荆州导游词9
荆州古城,是位于湖北省荆州市的一座名胜古迹,有东南西北4个老城门门以及一个新南门,城内有玄妙观、关帝庙及铁女寺等。荆州古城始建于春秋战国时期,曾是楚国的官船码头和渚宫,后成为江陵县治所,出现了最初城廓。作为楚文化的发源中心之一,荆州古城的周围出土了大量珍贵文物,属于国宝级文物的有西汉古尸、战国丝绸、越王勾践剑等。荆州古城历史悠久,不仅有刘禹锡、李白、张九龄等人写诗称赞,更有荆江麻鸭、雪里藏凤、鱼糕的特产令人念念不忘。
荆州位于湖北省中南部,人们时常说的俗语“大意失荆州”,出典就在这里。荆州是国务院首批公布的全国历史文化名城,保存着众多的名胜古迹,其中最有名的就是荆州古城,该城保存完整,有东南西北4个老城门门以及一个新南门。城内有玄妙观、关帝庙及铁女寺等。在荆州,有许多古迹都是跟三国故事有关的。城北5公里处的纪南城是春秋战国时期楚国的都城,保存得也较好。荆州市位于东经111°150—114°050,北纬29°260—31°370。地处湖北省中南部,江汉平原腹地,长江自西向东横贯全市,全长483公里。荆州东连武汉、西接宜昌、南望湖南常德,北毗荆门、襄樊。总面积1.41万平方公里,其中平原湖区占78.7%,丘陵低山区占21.1%。全市辖荆州、沙市2区和江陵、公安、监利3县,代管松滋、石首、洪湖3市,下设119个乡镇,18个街道办事处,共有3398个村(居)委会,24835个村民小组。
荆州市政府高度重视荆州城墙文物保护和环境整治工作,共筹集资金1.3亿元,用于荆州城墙保护范围内约30万平方米违章建筑的拆除、内外环道的建设、护城河的疏竣和污水治理及周边环境整治。从20xx年开始,就一直着手世界文化遗产申报工作。20xx年,通过湖北省政府正式向国家文物局递交“世界文化遗产预备名单”。20xx年1月,国家文物局同意将荆州城墙与西安、南京、兴城共四个明清城墙列入《中国世界文化遗产预备名单》。
荆州导游词10
荆州博物馆是一座地方综合性博物馆,占地4.8万平方米。该馆以其优美的环境、丰富的馆藏文物和独具地域特色的文物珍品陈列,以及考古研究的丰硕成果而享誉海内外。1994年经国家文物局专家评选,该馆荣获全国地市级“十佳博物馆之首”的美誉。
荆州博物馆配合各项工程建设,发掘出土珍贵文物12万余件。其中,有史前巧夺天工的各种玉饰;有绝无仅有、质数堪称国内之最的战国丝绸;有寒光闪烁、成色如新的四代越王剑、吴王夫差矛;有色彩斑斓、工艺精湛的战国秦汉漆器;有目前所知我国也是世界上最早的数学专著《算数书》和萧和“二年造律”的《二年律令》等汉初简牍;有迄今为止保存年代最久远、最为完好的西汉男尸。这些稀世珍宝吸引着众多的中外游客,荆州博物馆也因此而成为荆州市旅游观光的“第一窗户”。
荆州博物馆现陈列展出的数千件文物,是该馆馆藏文物的精华,可谓宝中之宝。文物陈列分前院、后院两大展区。前院展区的陈列楼为基本陈列,即按历史发展顺序选择有代表性的文物,展示了荆州地区从新旧石器时代到秦、汉期间的文明发展史。共设两个专题展览:《江汉平原原始文化展》和《江汉平原楚汉文化展》,后者被评选为全国十大文物精品展。陈列大楼还专门劈出展室,长年举办有影响、有特色的文物专题陈列,适时地奉献给观众。现设有《传世文物展》、《楚汉简牍展》和《天星观二号墓出土文物展》。后院展区的珍品馆,内设3个专题展。《荆州凤凰山168号汉墓》专题陈列,展出的是该馆1975年在楚故都纪南城内出土的一具西汉男尸及其棺椁、随葬物品。据墓中出土文字记载,死者名“遂”,江陵人氏,官居“五大夫”,下葬于汉文帝十三年(公元前167年),早于长沙马王堆汉墓女尸。
该男尸在地下埋葬20xx多年而不腐,世所罕见。其主要原因在于深埋、密封,墓室长期处于缺氧和恒温的稳定环境中,内棺10万毫升含硫化汞等成分的棺液,具有抑、杀菌作用。装殓男尸的一椁二棺亦保存完好,大型椁室及二套棺表明了主人的高贵身份。陈列展出的数百件随葬物品中,有称为“天下第一”的两件式样别致、保存年代最久至今仍完整无损的物品:麻裙和麻鞋,异常珍贵。
荆州导游词11
荆州市地处江汉平原腹地,长江自西向东横贯全市。东与武汉市相连、西与宜昌市交界、南与湖南省接壤,北与荆门市毗邻。总面积1.41万平方公里,其中平原湖区占78.8%,丘陵低山区占21.2%,耕地面积43.15万公顷。
荆州市辖荆州、沙市2区和江陵、公安、监利3县,代管松滋、石首、洪湖3市,全市总人口630.12万人,占湖北省总人口的10.5%。市内居住有汉、回、蒙、土家等30个民族。中心城区面积54平方公里,人口75万。
荆州属亚热带季风气候区。光能充足、热量丰富、无霜期长。多数年份降雨量在1100—1300毫米之间。4—10月份降水量占全年80%,太阳辐射量占全年75%,≥10℃的积温为全年80%,全市河流交错、湖泊密布,有大小河流近百余条,均属长江水系,主要有长江干流及其支流松滋河、虎渡河、藕池河、调弦河等。全市有千亩以上湖泊30多个,总面积8万公顷,其中洪湖为湖北省第一大湖,总面积3.55万公顷。
荆州旅游资源得天独厚,文化旅游、生态旅游蔚为大观。市内有闻名遐迩的荆州古城,脍灸人口的三国故事,古老纯朴的江汉民俗。纪南城、关公庙、章华寺、乌林古战场、华容道等人文景观底蕴深厚,荆州博物馆被评为国家首批“4A”博物馆,位居全国地市级博物馆之首,馆藏文物达12万余件,其中西汉古尸等国家一级文物近300件(套)。“一曲洪湖水,唱遍天下知”,洪湖湘鄂西革0据地的瞿家湾、周老咀等革命旧址已列入国家级爱国主义教育基地。境内山青水秀,湖泊纵横,是典型的水乡园林城市。近年来新建开发的松滋危水风景区、洪湖渔家度假区和石首天鹅洲麋鹿自然保护区等自然景观令人流连忘返。
荆州导游词12
亲爱的游客朋友们:你们好!欢迎大家前来参观荆州古城!我叫黄诗棋,很高兴能成为大家的导游,希望我的服务能给大家留下深刻的印象。
说到荆州,你们一定会想到三国演义吧,那里面有许许多多脍炙人口的故事,多次提到荆州,如刘备借荆州,吕蒙袭荆州,关羽失荆州等等。荆州一直以来都是行军打仗的必争之地,千百年来,到荆州古城来探寻三国历史烟云的人们络绎不绝。
现在大家眼前的这条几十米宽的河流,就是护城河,在打仗时它是抵御敌人攻城的一道天然屏障。荆州古城一共有六道门,分别是东门,小东门,北门,小北门,西门和南门,每座城门均设有“双保险”,前后两道门,两门之间均设有瓮城,可致攻城之敌于死地,有如“瓮中捉鳖”。六座城门原都建有城楼,现在只有东门和北门有城楼,因此,我们游览古城风采的最好去处就是东门和北门。东门又称“寅宾门”,它是迎接来使和宾客的地方,所以城门最壮观,瓮城也是最大的。北门又称“拱极门”,是古代通往中原和京城的栈道出口,人们在这里送亲友远行,祝福平安。
说了这么多,大家对荆州古城一定有了初步的认识,现在,大家请跟着我,一起走进荆州,更深入的了解荆州古城吧!
荆州导游词13
亲爱的游客朋友们:
你们好!欢迎大家前来参观荆州古城!我叫黄诗棋,很高兴能成为大家的导游,希望我的服务能给大家留下深刻的印象。
说到荆州,你们一定会想到三国演义吧,那里面有许许多多脍炙人口的故事,多次提到荆州,如刘备借荆州,吕蒙袭荆州,关羽失荆州等等。荆州一直 以来都是行军打仗的必争之地,千百年来,到荆州古城来探寻三国历史烟云的人们络绎不绝。
现在大家眼前的这条几十米宽的河流,就是护城河,在打仗时它是抵御敌人攻城的一道天然屏障。荆州古城一共有六道门,分别是东门,小东门,北门,小北门,西门和南门,每座城门均设有“双保险”,前后两道门,两门之间均设有瓮城,可致攻城之敌于死地,有如“瓮中捉鳖”.六座城门原都建有城楼,现在只有东门和北门有城楼,因此,我们游览古城风采的最好去处就是东门和北门。东门又称“寅宾门”,它是迎接来使和宾客的地方,所以城门最壮观,瓮城也是最大的。北门又称“拱极门”,是古代通往中原和京城的栈道出口,人们在这里送亲友远行,祝福平安。
说了这么多,大家对荆州古城一定有了初步的认识 ,现在,大家请跟着我,一起走进荆州,更深入的了解荆州古城吧!
荆州导游词14
各位嘉宾,大家上午好!今天我们将参观著名的荆州古城。
“闻听三国事,每欲到荆州”。一提起荆州,您一定会自然而然地想到小说《三国演义》中刘备借荆州、鲁肃讨荆州、吕蒙袭荆州、关羽失荆州那些脍炙人口的三国故事,一百二十回《三国演义》,就有七十二回的内容涉及荆州。千百年来,到荆州古城探询三国历史烟云陈迹的凭吊者、访古者、探幽者络绎不绝。作为大家的实地导游,我很荣幸能够借这样一个机会把荆州古城逾两千年来演变和发展的历史画卷展现给大家。
我们现在所处的位置是荆州城东门外,大家面前的这条几十米宽的河流就是护城河,在打仗之时,它是抵御敌人攻城的一道天然屏障,而如今在这条河上,每年都会举办隆重的国际龙舟邀请赛。入城之前,首先请让我给大家介绍一下荆州古城的历史背景。
荆州城,又名江陵城。是目前我国南方保存最为完整的一座古代城池,也是1982年国务院首批公布的全国24座历史文化名城之一;,荆州古城墙被国务院公布为全国重点文物保护单位;XX年时,以荆州古城为中心的荆州市又被国家旅游局命名为中国优秀旅游城市。
回顾荆州的历史,可以说与华夏上下五千年的文明史紧密相连。大家都知道,中华民族是炎黄子孙,黄帝和炎帝部落合并统一华夏后,“割地布九州”(冀、兖、青、徐、扬、荆、豫、梁、雍),荆州即为这古老的九州之一。
“荆州”这个名称,最早见于战国时期的典籍《尚书?禹贡》中的“荆及衡阳惟荆州”,当时荆州的区域面积是很大的,春秋战国时期的楚国便是兴起于荆州域内。据史料记载,周庄王八年(即公元前689年),楚文王将都城迁往今天荆州城北五公里处的纪南城,楚国在此建都长达4XX年,前后经历了二十个国王,创造了与黄河流域中原文化辉映并重,并可与古希腊、古罗马文化相媲美的楚文化。相传楚成王(公元前671至525年)在位时,为了毕览长江胜景,在荆州城区营建了“飞楼百尺照湖水、上有燕赵千娥眉”的诸宫和宫船码头,这诸宫和宫船码头就是今天荆州城的雏形。秦昭王二十九年(即公元前278年),秦国名将白起率兵攻打楚国,占领了江汉之间的地域,秦随即在楚都设南郡,为当时全国三十六郡之一。后来,秦又在今天荆州城的地方设立江陵县,“以地临江”、“近州无高山,所有皆陵阜”,故称“江陵”。公元前1XX年,汉武帝建立荆州刺史部,为全国为十三州之一,从此,荆州开始成为行政区划的名称。
自秦汉以后,荆州成为历代王朝封王置府的重镇,一直是州、郡一级治所,有的朝代还曾在此建都立国。三国时,这里是争霸的要津,孙刘联合在赤壁一战大破曹军,刘备遂于次年向孙权借得荆州,并以此为根基迅速发展蜀国势力。此后,东晋末年的安帝,南朝时的齐和帝、梁元帝、后梁宣帝,隋时的后梁王以及唐末五代十国时的南平国王等,先后有11个纷争王侯在此称帝(王)建都,长达100余年。唐代的荆州是陪都,称“南郡”,与长安城南北呼应。宋朝建立后,于此置江陵府。元初改江陵府为上路总管府。明初又改设荆州府。清代则沿用明朝制度。民国时,荆州属湖北省第四行政都察区。中华人民共和国成立后,荆州城是湖北省荆州地区专员公署和江陵县政府机关所在地。1994年,原荆州地区和沙市市合并成立荆沙市,更名为荆州市,荆州城为荆州市六县市二区的荆州区所在地。
荆州城地处天下之中,江湖之会,历来就是兵家必争之地。诸葛亮曾说:“荆州北据汉沔、利尽南海,东连吴、会,西通巴、蜀,此用武之国”。汉代以耿直忠烈闻名的宰相李固,三国名将关羽、周瑜、吕蒙、陆逊,晋代文武双全的大司马陶侃都曾镇守过荆州;晋代诗人谢灵运、鲍照,唐代开明宰相张九龄、张柬之,大文学家韩愈、元稹以及宋代大政治家王安石等著名历史人物,也都曾在荆州担任过大小不同的职务。此外,历代的许多次重大农民起义,也都把荆州作为重要的攻夺目标,如西汉末年的王匡、王凤,唐末的黄巢,元末的陈友谅,明末的李自成和张献忠等领导的农民起义军都曾攻占过荆州城。
除了是军事要地,古代荆州城的经济与文化也是非常活跃和繁荣的。由于交通便捷、土地肥沃、气候温和、物产丰富,早在西汉时期,它已发展成为全国十大商业中心之一,名列南方五郡之首。南北朝时,便成为“长江中游第一城”,与下游著名的商业城市扬州齐名,史称“江左大镇莫过荆、扬”。虽然在西魏时期曾一度毁于战难,但到中唐又逐渐恢复繁华且其规模约十倍于以前,所以荆州城在当时被定位“陪都”,与长安、洛阳并称。
·天门旅游景点介绍 ·大水井旅游景点介绍 红楼旅游景点介绍 ·木兰天池旅游景点介绍 ·武汉长江大桥旅游景点介绍荆州是楚文化的中心,是“钟鸣楚天”的音乐、舞蹈之邦,享有“惟楚有才”的盛誉。千百年来,这里文化昌盛,人才辈出,孕育有楚国著名爱国诗人屈原、唐代著名边塞诗人岑参、宋代“小万卷”朱昴等一大批江陵才子。在政坛,从荆州走出的宰相有唐代刘洎、段文昌和“一门三相”的岑之本、岑长清、岑羲祖孙三代,最为著名的是明代宰相张居正,他力主革除弊政,发展经济,在当时起到了一定的积极作用,为后人所崇敬。同时,荆州城旖旎的自然风光和深厚的文化底蕴,还吸引了历代众多知名文人志士前来观光游览、咏诗会友,汉代的司马迁,魏晋南北朝的王粲、陶渊明,唐代的王维、孟浩然、李白、杜甫、刘禹锡、李商隐、杜牧,宋代的苏轼、陆游及明清的袁宏道、王士祯等都曾游历过荆州城,并留下大量的诗文佳作,其中最负盛名的当属李白《下江陵》一诗中“朝辞白帝彩云间,千里江陵一日还”的绝句了。xxx 3
好了,说了这么多,大家对荆州古城的过去一定有了进一步地了解吧。现在就让我们一起去来看看现在的荆州城里到底是个什么样子。请大家紧跟着我沿着右边的人行道上城,左边是马道,如果您留意的话,就会发现砌成马道的砖上刻有文字,这就是荆州古城墙上极为珍贵的铭文砖,又叫文字砖,它们记载了历代修建荆州城墙的漫长历史过程,反映了荆州所管辖的行政区域的变迁状况,具有重要的历史研究价值。
相传在汉代荆州就筑有正规的城墙,后经蜀将关羽、东吴守将朱然和东晋荆州刺史桓温及梁元帝等12次维修扩建,使荆州城更加坚实壮阔,但这都是土城墙。据史料记载,荆州最初的砖城墙始建于五代十国时期,荆南节度使高季兴出于割据荆州自立为王的目的,于公元9XX年动用十几万军民大修荆州砖城墙,筑城的砖不够,就下令四处挖取墓砖,方圆五十里内的坟墓尽遭挖掘。据说城墙筑成后,每到深夜,墙上便游荡出无数的磷光,看上去像“鬼火”,令人毛骨悚然。北宋末年,因“靖康”战火焚烧,城墙大毁。到了南宋时,荆州安抚史赵雄为了加强荆州防御,上奏淳熙皇帝准许,于公元1187年大兴土木,在11个月的时间内重修起砖城墙,还在城墙上建造战楼一千余间,这次筑城的砖为政府下令烧制的“专用城砖”,砖上有责任铭文,但没有年号记载。后来,元兵攻占荆州城,忽必烈下令将城墙全部拆除。朱元璋建立明朝后,再次依旧基修复,并在城周开掘护城河。明末张献忠率领农民起义军攻进荆州城后,城墙又被愤怒的义军所拆除。直至清顺治三年(即公元1646年),第三次在旧基上筑起城墙,这就是留存至今的荆州古城墙。城池构筑十分坚牢,为了防止城墙因水侵腐蚀而下陷,城墙基脚全部用条石垒砌,墙面均用石灰糯米浆灌缝,尽管曾遭三毁三建,且历经三百多个春秋寒暑,该城墙依然保存完好。新中国成立以后,国家和当地政府对荆州古城进行了重点保护,对荆州城及周边环境加以改造、整治、修缮和扩建,修建了内环道和外环道,疏通治理了护城河,在东门外和新北门分别建起了凤凰广场和天问广场,使荆州古城更加美丽、雄伟、壮观,这就是各位今天看到的荆州城古老而新鲜的面孔。
另外,据专家考证指出,到目前为止,荆州城墙上发现最早的、有年号的文字砖是明洪武二年(即公元1369年)的,距今已有六百多年的历史,此砖比新华社报道的、在万里长城上发现的万历年间的文字砖要早2XX年。更令人称奇的是,从文字砖上记载得知,这些砖不仅仅出自江汉平原,还有的来自省内其他地方及省外的湖南、陕西、江西等地,由此可见当时筑城工程之巨大。古代筑城,还体现出一种质量管理的思想,历代建筑或维修城墙所留下的或详或简的责任铭文,实际上都是一种公开的责任状。从城砖上文字记载的内容看,是十分细致严格的,除了记录有制砖的时间和地点外,还有关于监造人、制砖人、烧窑人、制砖费用、承担者姓名和具体负责的地方官员的详细铭文。可见在当时修筑荆州城墙时采取了“全民动员、上下动手、分工明确、责任到人”的做法。荆州之所以在古代一直被誉为“铁打的荆州”,与这种“责任制”是分不开的。这也是我们今天需要从先贤那里学习和借鉴的。
大家仔细的观察这些文字砖,细心的朋友还会发现在文字刻法上,既有阴刻,也有阳刻,还有阴阳兼刻;在书法字体上,既有行书,也有楷书;在字的写法上,则既有繁体字,又有简化字。因此,这些文字砖还有重要的艺术研究价值,值得进一步开发和利用。
现在,我们登上了东门城楼,凭栏远眺,遥想关羽当年,朱颜长髯,手握青龙偃月刀,您是否也壮心勃发,能够体验到“一夫当关,万夫莫开”的豪情呢?
从空中鸟瞰,荆州城墙就像一条游龙绵亘在水泊湖沼之中,呈不规则的椭圆形。整个城墙东西长3。75公里,南北宽1。2公里,周长10。5公里,城内面积4。5平方公里。城墙高8。83米,顶面宽3至5米不等,底座宽10米左右。城墙上建有城垛4567个,炮台26个以及藏兵洞4个。这些都是古代战争防御进攻的工具。
荆州古城共建有六座城门,东北各两座,西南各一座。东门名叫寅宾门,小东门名叫公安门,大北门名叫拱极门,又名柳门,小北门名叫远安门,南门名叫南纪门,西门名叫安澜门。每座城门的名称都与荆州的地理、历史和习俗有关,如小东门,当年刘备把油江口改为公安,迎娶孙夫人后乘船回荆州,在此门下舟登岸进荆州城,故名公安名;又如大北门,古时候城北有通往京都的大道,仕宦迁官调职时,皆出此门,官员友朋送行时,在此折柳相赠,故又称柳门。为什么古人不折桃李,却偏要折柳相赠呢?这可是有来由的,据史书记载,我国自汉代起,亲友临别时折柳相赠渐成习俗,是因“柳”是“留”的谐音,折柳相赠有“挽留”、“留恋”之意。除小东门之外,其他五座城门均有闾门,为二重门,二门之间有瓮城,二重门各设一个木质对开门,木门内还有一道10厘米厚的闸板,以防水患。此外,六座城门上原来都建有城门楼,东门城楼叫宾阳楼,小东门城楼叫望江楼,大北门城楼叫景龙楼,小北门城楼叫朝宗楼,南门城楼叫曲江楼,西门城楼叫九阳楼,由于朝代更替,历史变迁,加上战火的破坏,原有的城楼除大北门上的景龙楼为清朝道光十八年(即公元1838年)重修保存至今外,都已不复存在了。我们现在所在的东门宾阳楼,是国家为了发展荆州旅游事业,修缮和保护荆州古城于20世纪80年代拨款仿古重建的。
荆州城内外还零星散落着一些历史遗迹,也是值得大家前往一游的地方,如城内的开元观、玄妙观、铁女寺、文庙、关帝庙,城外的太晖观、关公点将台、张飞一担土等,除了城墙和这些历史遗迹外,在荆州城内再难看到古老的建筑,取而代之的是鳞次栉比的高楼大厦。随着时间的推进,昔日荆州城内的小街小巷也有宽阔的马路代替,形成纵横交错、井然有序的公路网。为了适应现代交通工具的需要,在东、南、北三面的城墙上又开凿了适合公交车辆通行的三座新城门,使今天荆州城的城门变为了9座。荆州古城内四处透射着现代气息,商业氛围非常浓郁,大型的商场有荆州商场、荆州百货大楼、荆州华联商厦、荆州楚天大楼等,在这些商场里各类商品应有尽有,如果您想购买一些荆州的土特产品带回家作为纪念或馈赠亲朋,我在此可以如数家珍地把荆州风物介绍给大家,请大家用心听好喽:在聚珍园这座有着百年历史的老饭店里可以买到正宗的江陵八宝饭,在荆州百货大楼里可以买到香酥可口的江陵九黄饼,在荆州丝绸厂里可以买到称心如意的织锦缎、仿古绸等丝绸产品,在荆州工艺美术厂还可以买到品种各异的仿古漆器……
好了,荆州古城的有关情况就给大家介绍到这儿了。现在给大家一刻钟的时间自由活动,大家可以在此拍照留念。
荆州导游词15
尊敬的各位嘉宾:
大家上午好!
今天我们将参观著名的荆州古城。
“闻听三国事,每欲到荆州”。一提起荆州,您一定会自然而然地想到小说《三国演义》中刘备借荆州、鲁肃讨荆州、吕蒙袭荆州、关羽失荆州那些脍炙人口的三国故事,一百二十回《三国演义》,就有七十二回的内容涉及荆州。千百年来,到荆州古城探询三国历史烟云陈迹的凭吊者、访古者、探幽者络绎不绝。作为大家的实地导游,我很荣幸能够借这样一个机会把荆州古城逾两千年来演变和发展的历史画卷展现给大家。
我们现在所处的位置是荆州城东门外,大家面前的这条几十米宽的河流就是护城河,在打仗之时,它是抵御敌人攻城的一道天然屏障,而如今在这条河上,每年都会举办隆重的国际龙舟邀请赛。入城之前,首先请让我给大家介绍一下荆州古城的历史背景。
荆州城,又名江陵城。是目前我国南方保存最为完整的一座古代城池,也是19xx年国务院首批公布的全国24座历史文化名城之一;19xx年,荆州古城墙被国务院公布为全国重点文物保护单位;20xx年时,以荆州古城为中心的荆州市又被国家旅游局命名为中国优秀旅游城市。
回顾荆州的历史,可以说与华夏上下五千年的文明史紧密相连。大家都知道,中华民族是炎黄子孙,黄帝和炎帝部落合并统一华夏后,“割地布九州”(冀、兖、青、徐、扬、荆、豫、梁、雍),荆州即为这古老的九州之一。
“荆州”这个名称,最早见于战国时期的典籍《尚书.禹贡》中的“荆及衡阳惟荆州”,当时荆州的区域面积是很大的,春秋战国时期的楚国便是兴起于荆州域内。据史料记载,周庄王八年(即公元前689年),楚文王将都城迁往今天荆州城北五公里处的纪南城,楚国在此建都长达xx年,前后经历了二十个国王,创造了与黄河流域中原文化辉映并重,并可与古希腊、古罗马文化相媲美的楚文化。相传楚成王(公元前671至xxx年)在位时,为了毕览长江胜景,在荆州城区营建了“飞楼百尺照湖水、上有燕赵千娥眉”的诸宫和宫船码头,这诸宫和宫船码头就是今天荆州城的雏形。秦昭王二十九年(即公元前278年),秦国名将白起率兵攻打楚国,占领了江汉之间的地域,秦随即在楚都设南郡,为当时全国三十六郡之一。后来,秦又在今天荆州城的地方设立江陵县,“以地临江”、“近州无高山,所有皆陵阜”,故称“江陵”。公元前xx年,汉武帝建立荆州刺史部,为全国为十三州之一,从此,荆州开始成为行政区划的名称。
自秦汉以后,荆州成为历代王朝封王置府的重镇,一直是州、郡一级治所,有的朝代还曾在此建都立国。三国时,这里是争霸的要津,孙刘联合在赤壁一战大破曹军,刘备遂于次年向孙权借得荆州,并以此为根基迅速发展蜀国势力。此后,东晋末年的安帝,南朝时的齐和帝、梁元帝、后梁宣帝,隋时的后梁王以及唐末五代十国时的南平国王等,先后有11个纷争王侯在此称帝(王)建都,长达100余年。唐代的荆州是陪都,称“南郡”,与长安城南北呼应。宋朝建立后,于此置江陵府。元初改江陵府为上路总管府。明初又改设荆州府。清代则沿用明朝制度。民国时,荆州属湖北省第四行政都察区。中华人民共和国成立后,荆州城是湖北省荆州地区专员公署和江陵县人民政府机关所在地。19xx年,原荆州地区和沙市市合并成立荆沙市,19xx年更名为荆州市,荆州城为荆州市六县市二区的荆州区所在地。
荆州城地处天下之中,江湖之会,历来就是兵家必争之地。诸葛亮曾说:“荆州北据汉沔、利尽南海,东连吴、会,西通巴、蜀,此用武之国”。汉代以耿直忠烈闻名的宰相李固,三国名将关羽、周瑜、吕蒙、陆逊,晋代文武双全的大司马陶侃都曾镇守过荆州;晋代诗人谢灵运、鲍照,唐代开明宰相张九龄、张柬之,大文学家韩愈、元稹以及宋代大政治家王安石等著名历史人物,也都曾在荆州担任过大小不同的职务。此外,历代的许多次重大农民起义,也都把荆州作为重要的攻夺目标,如西汉末年的王匡、王凤,唐末的黄巢,元末的陈友谅,明末的李自成和张献忠等领导的农民起义军都曾攻占过荆州城。
除了是军事要地,古代荆州城的经济与文化也是非常活跃和繁荣的。由于交通便捷、土地肥沃、气候温和、物产丰富,早在西汉时期,它已发展成为全国十大商业中心之一,名列南方五郡之首。南北朝时,便成为“长江中游第一城”,与下游著名的商业城市扬州齐名,史称“江左大镇莫过荆、扬”。虽然在西魏时期曾一度毁于战难,但到中唐又逐渐恢复繁华且其规模约十倍于以前,所以荆州城在当时被定位“陪都”,与长安、洛阳并称。
荆州是楚文化的中心,是“钟鸣楚天”的音乐、舞蹈之邦,享有“惟楚有才”的盛誉。千百年来,这里文化昌盛,人才辈出,孕育有楚国著名爱国诗人屈原、唐代著名边塞诗人岑参、宋代“小万卷”朱昴等一大批江陵才子。在政坛,从荆州走出的宰相有唐代刘洎、段文昌和“一门三相”的岑之本、岑长清、岑羲祖孙三代,最为著名的是明代宰相张居正,他力主革除弊政,发展经济,在当时起到了一定的积极作用,为后人所崇敬。同时,荆州城旖旎的自然风光和深厚的文化底蕴,还吸引了历代众多知名文人志士前来观光游览、咏诗会友,汉代的司马迁,魏晋南北朝的王粲、陶渊明,唐代的王维、孟浩然、李白、杜甫、刘禹锡、李商隐、杜牧,宋代的苏轼、陆游及明清的袁宏道、王士祯等都曾游历过荆州城,并留下大量的诗文佳作,其中最负盛名的当属李白《下江陵》一诗中“朝辞白帝彩云间,千里江陵一日还”的绝句了。
好了,说了这么多,大家对荆州古城的过去一定有了进一步地了解吧。现在就让我们一起去来看看现在的荆州城里到底是个什么样子。请大家紧跟着我沿着右边的人行道上城,左边是马道,如果您留意的话,就会发现砌成马道的砖上刻有文字,这就是荆州古城墙上极为珍贵的铭文砖,又叫文字砖,它们记载了历代修建荆州城墙的漫长历史过程,反映了荆州所管辖的行政区域的变迁状况,具有重要的历史研究价值。
相传在汉代荆州就筑有正规的城墙,后经蜀将关羽、东吴守将朱然和东晋荆州刺史桓温及梁元帝等12次维修扩建,使荆州城更加坚实壮阔,但这都是土城墙。据史料记载,荆州最初的砖城墙始建于五代十国时期,荆南节度使高季兴出于割据荆州自立为王的目的,于公元xxx年动用十几万军民大修荆州砖城墙,筑城的砖不够,就下令四处挖取墓砖,方圆五十里内的坟墓尽遭挖掘。据说城墙筑成后,每到深夜,墙上便游荡出无数的磷光,看上去像“鬼火”,令人毛骨悚然。北宋末年,因“靖康”战火焚烧,城墙大毁。到了南宋时,荆州安抚史赵雄为了加强荆州防御,上奏淳熙皇帝准许,于公元1187年大兴土木,在11个月的时间内重修起砖城墙,还在城墙上建造战楼一千余间,这次筑城的砖为政府下令烧制的“专用城砖”,砖上有责任铭文,但没有年号记载。后来,元兵攻占荆州城,忽必烈下令将城墙全部拆除。朱元璋建立明朝后,再次依旧基修复,并在城周开掘护城河。明末张献忠率领农民起义军攻进荆州城后,城墙又被愤怒的义军所拆除。直至清顺治三年(即公元1646年),第三次在旧基上筑起城墙,这就是留存至今的荆州古城墙。城池构筑十分坚牢,为了防止城墙因水侵腐蚀而下陷,城墙基脚全部用条石垒砌,墙面均用石灰糯米浆灌缝,尽管曾遭三毁三建,且历经三百多个春秋寒暑,该城墙依然保存完好。新中国成立以后,国家和当地政府对荆州古城进行了重点保护,对荆州城及周边环境加以改造、整治、修缮和扩建,修建了内环道和外环道,疏通治理了护城河,在东门外和新北门分别建起了凤凰广场和天问广场,使荆州古城更加美丽、雄伟、壮观,这就是各位今天看到的荆州城古老而新鲜的面孔。
另外,据专家考证指出,到目前为止,荆州城墙上发现最早的、有年号的文字砖是明洪武二年(即公元13xx年)的,距今已有六百多年的历史,此砖比新华社报道的、在万里长城上发现的万历年间的文字砖要早xx年。更令人称奇的是,从文字砖上记载得知,这些砖不仅仅出自江汉平原,还有的来自省内其他地方及省外的湖南、陕西、江西等地,由此可见当时筑城工程之巨大。古代筑城,还体现出一种质量管理的思想,历代建筑或维修城墙所留下的或详或简的责任铭文,实际上都是一种公开的责任状。从城砖上文字记载的内容看,是十分细致严格的,除了记录有制砖的时间和地点外,还有关于监造人、制砖人、烧窑人、制砖费用、承担者姓名和具体负责的地方官员的详细铭文。可见在当时修筑荆州城墙时采取了“全民动员、上下动手、分工明确、责任到人”的做法。荆州之所以在古代一直被誉为“铁打的荆州”,与这种“责任制”是分不开的。这也是我们今天需要从先贤那里学习和借鉴的。
大家仔细的观察这些文字砖,细心的朋友还会发现在文字刻法上,既有阴刻,也有阳刻,还有阴阳兼刻;在书法字体上,既有行书,也有楷书;在字的写法上,则既有,又有简化字。因此,这些文字砖还有重要的艺术研究价值,值得进一步开发和利用。
现在,我们登上了东门城楼,凭栏远眺,遥想关羽当年,朱颜长髯,手握青龙偃月刀,您是否也壮心勃发,能够体验到“一夫当关,万夫莫开”的豪情呢?
从空中鸟瞰,荆州城墙就像一条游龙绵亘在水泊湖沼之中,呈不规则的椭圆形。整个城墙东西长3.75公里,南北宽1.2公里,周长10.5公里,城内面积4.5平方公里。城墙高8.83米,顶面宽3至5米不等,底座宽10米左右。城墙上建有城垛4567个,炮台26个以及藏兵洞4个。这些都是古代战争防御进攻的工具。
荆州古城共建有六座城门,东北各两座,西南各一座。东门名叫寅宾门,小东门名叫公安门,大北门名叫拱极门,又名柳门,小北门名叫远安门,南门名叫南纪门,西门名叫安澜门。每座城门的名称都与荆州的地理、历史和习俗有关,如小东门,当年刘备把油江口改为公安,迎娶孙夫人后乘船回荆州,在此门下舟登岸进荆州城,故名公安名;又如大北门,古时候城北有通往京都的大道,仕宦迁官调职时,皆出此门,官员友朋送行时,在此折柳相赠,故又称柳门。为什么古人不折桃李,却偏要折柳相赠呢?这可是有来由的,据史书记载,我国自汉代起,亲友临别时折柳相赠渐成习俗,是因“柳”是“留”的谐音,折柳相赠有“挽留”、“留恋”之意。除小东门之外,其他五座城门均有闾门,为二重门,二门之间有瓮城,二重门各设一个木质对开门,木门内还有一道10厘米厚的闸板,以防水患。此外,六座城门上原来都建有城门楼,东门城楼叫宾阳楼,小东门城楼叫望江楼,大北门城楼叫景龙楼,小北门城楼叫朝宗楼,南门城楼叫曲江楼,西门城楼叫九阳楼,由于朝代更替,历史变迁,加上战火的破坏,原有的城楼除大北门上的景龙楼为清朝道光十八年(即公元18xx年)重修保存至今外,都已不复存在了。我们现在所在的东门宾阳楼,是国家为了发展荆州旅游事业,修缮和保护荆州古城于20世纪80年代拨款仿古重建的。
荆州城内外还零星散落着一些历史遗迹,也是值得大家前往一游的地方,如城内的开元观、玄妙观、铁女寺、文庙、关帝庙,城外的太晖观、关公点将台、张飞一担土等,除了城墙和这些历史遗迹外,在荆州城内再难看到古老的建筑,取而代之的是鳞次栉比的高楼大厦。随着时间的推进,昔日荆州城内的小街小巷也有宽阔的马路代替,形成纵横交错、井然有序的公路网。为了适应现代交通工具的需要,在东、南、北三面的城墙上又开凿了适合公交车辆通行的三座新城门,使今天荆州城的城门变为了9座。荆州古城内四处透射着现代气息,商业氛围非常浓郁,大型的商场有荆州商场、荆州百货大楼、荆州华联商厦、荆州楚天大楼等,在这些商场里各类商品应有尽有,如果您想购买一些荆州的土特产品带回家作为纪念或馈赠亲朋,我在此可以如数家珍地把荆州风物介绍给大家,请大家用心听好喽:在聚珍园这座有着百年历史的老饭店里可以买到正宗的江陵八宝饭,在荆州百货大楼里可以买到香酥可口的江陵九黄饼,在荆州丝绸厂里可以买到称心如意的织锦缎、仿古绸等丝绸产品,在荆州工艺美术厂还可以买到品种各异的仿古漆器……
好了,荆州古城的有关情况就给大家介绍到这儿了。现在给大家一刻钟的时间自由活动,大家可以在此拍照留念。
第四篇:南京城墙导游词(范文)
南京城墙导游词
南京明城墙是“人穷其谋、地尽其险、天造地设”,此言不虚。下面是,仅供大家参考。
篇一:南京城墙导游词
各位游客,我们现在来到了中华门城堡。城是人类社会由野蛮向文明发展的标志之一。城在古代是重要的战略、防御工事。也是人类生活的基本空间屏障。我国有三千年的建城史,有两千多座大小城池。建于600多年前至今基本保存完好的南京城垣全长33。676公里,比巴黎城墙还要长,是世界至今保存最好最大的都城城垣,是全国重要文物保护单位。1356年朱元璋攻下元朝统治的“集庆路”,改名“应天”,他听取了谋士朱升的建议“高筑墙,广积粮,缓称王”。花费21年的时间兴建了这城池。
当年朱元璋在修筑明城墙的时候,用了黄金600万两,这样的巨资一半是由国库所拨款,另外一半是由江南的富户摊派的。而江南首富,沈万三认领了将近三分之一的建城费用。
修城所用的砖都是来自湖南、湖北、江西、江苏、安徽五省,由20多万工匠烧制。使用五省烧制的城砖3。5亿块,砖的规格长40cm、宽20cm、厚10cm、重约15-20kg。每块砖的侧面都刻有烧砖工匠、提调官等人的名字以及烧制时间等字样,以示责任到人,也正因为如此严格的责任制才使600多年前的这座明城墙历经战火依然保留至今。城墙上的字揩书、行书、草书、篆书、隶书均可见到,刻字方法有阴刻和阳刻,城砖上的字数最多的达69字。南京明城墙中还使用了六朝、南唐旧城砖。
南京城墙的建设可分为四个阶段,第一阶段是对六朝和南唐以来遗留下来的部分旧城加以整修和扩建,疏浚河道;第二阶段是与凤阳中都并建时期,对旧城垣维修加固,并向北拓宽到江边;第三阶段是集中南京建成,改造聚宝、三山、通济等城门,这时南京城已初显规模;第四阶段开始修建外廓,周长百里,有外城门十八座。
朱元璋于1366年到1386年建造南京城垣,建造的这座城堡打破了传统建筑中轴方位对称的模式,而是因地制宜,负山绕水,采取沿岗垅之脊筑城;利用天然河湖,挖土方填充城墙形成高城深壕,以实战的需要而建造的。明京城形状似葫芦(又说似芭蕉扇)南北长10千米,东西长5。67千米。数十万人耗时21年建的南京城垣,周长33。676千米(今存23。743千米)。南京城墙高14-26M,城基宽14M,上宽4-9M;外层墙上设有雉堞(箭垛)13616个,藏兵洞200多座。除岗丘外,城下部以石灰石条石为础,上部砌城砖,砌砖用蓼草浆、石灰、细沙、桐油拌成的夹浆粘合。明城墙之所以600年屹立不倒,正是因为使用了这种黏合剂。
城墙的顶部用砖砌成外高内低的斜坡,城墙两边内侧有水槽。女墙每间隔60米,就设一个出挑70cm的石水槽,将城墙上的水排到城内石明洞,再由排水沟将水排出城外。这个排水系统同时也可以将城内地面涝水排出城外。
“内十三,外十八,城门栓子向外插。”这句南京的谚语正好说出了南京的城门数目。南京城十三个城门可以用清朝吴敬梓的歌诀来说:“三山聚宝连通济,洪武朝阳达太平,神策金川临钟阜,仪风(定)淮清(凉)到石城”,瓮城有一瓮、二瓮、三瓮;外郭设门18座,由于外廓的城门多是由黄土夯制,民间俗称“土城头”,因此没有保留至今的的外廓城门;但如尧化门、麒麟门、仙鹤门、安德门、江东门等仍旧做为地名使用。
中华门城堡原名叫“聚宝门”,因为正对着城南的聚宝山而得名,1931年因在它的北面修了一条中华路,而更名为“中华门”。这门上的三个字,是蒋介石先生手书的。中华门是内外秦淮河距离最近的地方,地势极为险要,易守难攻,能起到一夫当关,万夫莫开的作用。城堡南北长129米,宽118米,占地一万六千五百多平方米。中华门一城三瓮,它的平面呈一个“目”字型,两侧有二道登城马道,城堡内有27个藏兵洞。
中华门城堡由三个瓮城组成,8。5米高的内城墙将城堡内三座瓮城相连,三道瓮城形成“目”字型封闭格局。城堡的东西两侧,有两条宽11米的登城马道,是战时运送军用物资上城的快道,也是将领驱马直上的通道。马道、内墙使守兵可居高四面向下攻击,令突入之敌无处遁逃。在中华门城堡内,有27个大大小小的藏兵洞,藏兵洞是供士兵休息及摆放一些备战的物资的地方,南面第一道城门的底层两侧各有3个,登城马道下各有7个藏兵洞,第二层还有7个藏兵洞,可以藏兵3000。在从两侧的马道继续走,可以到达第三层平台,明代时第三层上建有镝楼,现在我们已经看不到了,它毁于日本侵略者的战火。现为平坦楼台。中华门城堡每道瓮城都有一门一闸。每道拱式门都是双扇铁皮包裹的木质大门,洞内设有可以上下启动的千斤闸,每道瓮城上正中原原都设有一个小城楼,楼内有升降千斤闸的绞盘车,现在升降千斤闸的绞盘车已无存。现在城门洞两侧可以见到从底到顶宽20厘米的石槽就是当年升降千斤闸的长槽。但我们任然可以想象出,在冷兵器时代。敌军攻破城门,涌入城内,城门里的千斤闸就会迅速降落,切断敌人退路,将敌军困在瓮城之中,然后藏兵洞中伏兵四出,或万千齐放,或礌石滚木齐下,歼敌于封死的瓮中,恰如“关门打狗”“瓮中捉鳖”
中华门城堡在军事上是古城的一大屏障,对守护南京起着重要作用,西有外秦淮,西南至北为长江,故此门极为重要。1853年太平天国洪秀全率太平天国起义军和清军的一次次激战、1911年辛亥革命时期江浙联军司令徐绍桢指挥部队与张勋的清军殊死搏斗、最惊心动魄的是抗日战争中的南京保卫战,国民党将领唐生智率领守军84师顶住了日军30多次进攻,与日军展开肉搏战谱写了中华民族的正气之歌。中华门城堡西面还有沈万三故居。研究古代京城的宫城、皇城、京城、外郭可以了解古人生活的都城及建城的思想观念有重要意义。
篇二:南京城墙导游词
南京城的城墙高度一般在14米到21米之间,城基的宽度为14米左右,顶部的宽度在4米到9米之间。大部分的城墙都先用花岗岩或石灰岩的条石做基础,上面再用大砖垒砌内外两壁和顶部,内外壁之间常用碎砖,砾石和黄土层层夯实。城墙顶部和内外两壁的砖缝里,都浇灌一种“夹浆”。这种夹浆用石灰,糯米汁(或高粱汁)或再加桐油掺和而成,凝固后粘着力很强,使城墙能够经久不坏。墙顶用砖铺成地面并砌成“雉堞”(指城墙顶部靠外一侧的锯齿状矮墙),并有石制的泄水槽以排出雨水。城基部分每隔一定距离也设有排水洞,将城墙内侧的积水排出城外。因此,南京城的基础工程和防护工程都是比较牢固的,故能屹立至今600多年之久。城墙现存21。35公里,仍然是我国最大的一座砖城,并被定为全国重点文物保护单位。
现存南京明城墙为应天府城即京城,城门计有13座,水关两座。城墙上还有垛口13616个,窝铺200座,以供军事防守之用。在城的中央还建有钟楼和鼓楼。
这13座城门的上部,都建有高耸的城楼,而以聚宝门最为雄伟。聚宝,三山和通济三座城门各有城墙四道,每两道之间的空间称为“瓮城”,可作为战时的防守之用。聚宝门是这些城门中最坚固的一个,城楼以下部分基本保存完整,而且有所谓“藏军洞”的特殊设施。“藏军洞”实际上就是里端封闭的砖券门洞,在战时可供兵士休息和用来存放军事物资。这种“藏军洞”在聚宝门最南一道的城墙上计有两层共13个,左右两侧的城墙下部又各有7个,加起来有27个。据说,每洞可容纳兵士100人以上,共可藏兵达3000人以上。这种设施在我国古代的其他大城中是极为少见的。每座城门都有内外两道门,外面一道是从城头上放下来的“千斤闸”,具有坚固的防御作用;里面一道则是木质再加铁皮做成的两扇大门。在平时,行人车马都从城门洞里通过。
南京明城墙的防,排水系统科学适用,功能包括城垣自身防,排水和对城区的防,排水两部分。城墙填层上部,采用桐油,石灰,黄工拌合的灰浆封顶夯实,厚约1—2米,在其上面和沿墙体两侧直至墙根用灰浆砌筑5—10余层城砖;墙体顶面设置了石质排水明沟,在其明沟约50米距离设置石质出水槽将水排出墙体。城区的防,排水系统,主要是利用城墙底部设置的水关,涵闸。在秦淮河出,入口处分别建有东水关和西水关,水关设有闸门3道,前后2道为木闸门,中间设铁栅门以防潜水入城之敌。东水关内侧还设有33座瓮洞,分为3层(上面两层为藏兵洞),下层(中洞可通船)通水。此外,还设有金川河闸,玄武湖的“通心水坝”(即武庙闸),前湖的半山园闸与琵琶湖的琵琶闸等多处涵闸。这些涵闸,设有铜,铁管和铜水闸,只能进水不可进人,设计巧妙,结构合理。
篇三:南京城墙导游词
“城门城门几丈高?三十六丈高。骑白马,带把刀,城门底下走一遭。”我从小喜欢明城墙,周末总要缠着爸爸带我去城墙上玩。几年时间,我玩遍了南京的各处城墙及城门,它给我的课余生活带来了许多乐趣。
有一次,爸爸带我经过富贵山隧道附近时,我突然眼睛一亮,发现前面露出了少许城墙。我们顺着城墙根,骑车缓缓前行,然后顺着一级一级的台阶走下去,如诗如画的琵琶湖如世外桃源般出现在我们眼前。带着“柳暗花明又一村”的惊喜,我们发现琵琶湖的四面除了入口,其他都被城墙围了起来,我想在古代这应该是个易守难攻的军事要塞吧!
还有一次,我们在一座城墙下发现了一个隐蔽的洞口,里面可黑了。好奇的我坚持要爸爸带手电筒陪我进洞瞧瞧。带着既害怕又好奇的心情,我们曲折前行,有些地方要弯腰才能通过,十几分钟后才到尽头。后来,我才知道这是明城墙所特有的藏兵洞,每个藏兵洞能容纳一百多名士兵呢,真想不到古人设计城墙时考虑得这么周全呀!在城墙的城砖上我还发现了许多字或符号,还有鬼脸,真有趣。
亲爱的朋友,如果你也喜欢南京明城墙的话,就和我一起去探究吧!
第五篇:西安城墙小学生导游词
导游词,是导游人员引导游客观光游览时的讲解词,是导游员同游客交流思想,向游客传播文化知识的工具,也是应用写作研究的文体之一。特点是口语化,还具有知识性、文学性、礼节性等特点。今天小编就为大家提供了西安城墙小学生导游词,希望能给您带来帮助。
西安城墙小学生导游词
各位游客:
中国拥有数百座古代城墙,其中以北京、南京、西安的古城墙的规模最大,但是北京、南京古城墙先后被拆毁或严重的残缺,而始建于公元1370年的西安古城墙迄今仍保存完整。日本皇访华来西安时,放着“世界第八大奇迹”秦俑坑不看,却登上了始建于600多年前的西门城楼,领略了这座古代城墙的雄姿。下面请大家跟我一起实地去参观西安古城墙。
【城墙的起源】
各位游客,这几天我们已经在车行晨曦或晚霞中领略了古城墙的多彩多姿和古朴深沉。现在我们来到城墙脚下,请大家走上城墙游览。
大家一定想知道城墙的真正含义是什么。“城墙”一词原是从“城”字引申而来。“城”按《说文》解释,是“盛”的通假字,“盛”是纳民,所以“城”字的本义是土围民而成国,由此引出城墙一义。被誉为中华民族脊梁的万里长城的“城”宇,同样是城墙的意思。只是后来随着社会的发展,“城”字又包含了今天城市的解释。“城”字最早出现在周朝的金文中,从字形看活生生地体现了古代城墙的军事用途。城墙的军事作用是保卫私有制,而在意识形态上看,城墙的形体规模又是等级森严的宗法制的严格体现。显然统治者营造城墙,是用它来保护自己,宣示国威。现在我们看到的西安城墙,是中国历史上最著名的城垣建筑之一。它从明洪武三年(公元1370年)朱元璋下诏修城开始动工,至洪武十一年(公元1378年)完工,历时8年,是在隋唐京城的皇城基础上扩筑而成的,经过历代修葺,基本上保持着完整的封建社会城垣建筑的面貌,反映了中国古代筑城技术的杰出成就。
【城垣规模和结构设施】
各位游客,那么西安城墙到底有多大呢?它的结构又是怎样的?据测算,西安城墙周长11。9千米,其中东城墙2590米,西城墙2631。2米,南城墙3441。6米,北城墙3241米。这样的规模在国内外都是比较少见的。
大家看见城墙四门外筑有护卫城门的小城,那叫做瓮城。所谓的瓮城,意为敌人一旦进入,就会受到瓮城城墙上面的四面夹击,犹如瓮中之鳖,无法逃脱的。瓮城外还筑有拱卫瓮城的小城,古称羊马城。古时候大城门的启闭有规定时间,关闭城门后尚未回城的人可连同自己牵的羊、赶的马等,进入羊马城以及今环城公园地带歇息,等候开城门后再进城。西安的羊马城在清末已全毁。记得1986年在西安城安定门(西门)瓮城北门外约17。5米处发现羊马城北侧门道,长5。5米,宽2。4米。现在大家能看到南门瓮城外侧已修复的羊马城,墙体长198米,高9。5米。
护城河外曾有拱卫四城门的四个夯筑土城叫郭城。据《西安府志》卷九记载:唐天祐年间,韩建筑东郭小城和西郭小城。宋、金、元皆因之。明洪武年间拓城时,东郭小城大部分被包在大城内,留在城外的即为东郭新城。明后期西郭小城记。目前,四关郭城墙体仅存部分残段,郭门仅在地名上留有其名称。
现在我们来到西安城内东北处,这里曾经是明秦王府城,简称王城。明初,朱元津封其次子为秦王,命其坐镇西安,加强对西北的控制。整个秦王府城分为两重城墙。外城墙称萧墙,全系土筑成。内城墙因外砌青砖,故称砖墙。明灭后,萧墙被毁。清雍正年间,西安修庙宇,秦王府的建筑多被拆除,砖城改为八旗教场。目前秦王府砖城只存夯土城残段若干处。
明代建西安城时,全城城门有4座:“长乐”、“永宁”、“安定”、“安远”。门名刻于大城门洞外的青石门据上。大城城门上所建的楼房称城楼,也叫正楼,是守城指挥官的指挥所。瓮城城门洞上所建之楼称箭楼,因楼壁辟有箭窗,是当时发箭防御之用。到了民国时又开辟了4座城门,俗称小四门:中山门(小东门),在现在的东新街东端,是为纪念孙中山修建的;勿幕门(小南门),在今天的四府街南端;玉祥门(小西门),在莲湖路西端,解放后,此门被拆;解放门(小北门),原名中正门,在解放路北端,当年因为陇海路通车到西安而修建,到了1952年因扩建火车站而被拆除。西安在解放后也开辟了新城门,南墙有建国门、和平门、文昌门、朱雀门、含光门。北墙有尚德门。东墙有朝阳门。
一般游客知道明代建筑西安城墙时有98座敌台,台上均建有敌楼。但1982年西安市城墙管理所实地调查发现,那些古敌楼没有留下一个,只有部分尚存础石。之后,西安重建敌楼12座,为砖木结构,歇山顶式,重檐二层楼,底层周设回廊。
古代城垣设施不仅修建敌楼、箭楼作用武之备,还修建魁星楼以祭把主宰文运之神魁星。西安魁星楼建在南门城楼东,后遭兵火毁坏。后来在原址上复建魁星楼,值得看一看。
【焕发新颜的古城墙】
各位游客,经过十多年的整体开发,古都西安已把位于市中心的残破的明代城垣,改造成颇具特色、中外罕见的环城旅游风景区。1983年,西安市开始了建国以来规模最大的文物保护开发,到1997年底累计投资2。27亿元,不仅全面修缮了城墙,填补了大小洞穴1650个,还重建敌楼四座、角楼2座以及南门月城、闸楼、吊桥各一处,同时对环城河、林、路进行了全面的整治。现在,从14条被修复的马道缓步登城,能见到长1334o米的城垛,还有11500米的女儿墙也全部修复。站在高12米的城头上举目远眺,南边的终南山、北部的渭水河遥遥相望;俯首四顾,城内城外市容尽收眼底。城上还陈列弓弩。滚木、擂石等防卫工具,城下复设吊桥、云梯,供人使用参观。从城墙下到环城河边,修建了20多座桥,城河到城脚之间的环城绿化带,成了西安最大的绿化公园,茅屋瓦舍,仿古亭廊,诗碑雕塑,应有尽有。