第一篇:日语系毕业论文2011 《论丰田的成功之道》(共)
题 目 丰田公司的成功之道
外语 系 日语 专业 学 号 07113431 学生姓名 赵 悦 指导老师 顾 伟 坤 起讫日期 2010年11月— 2011年4月 设计地点 上外贤达经济人文学院
丰田汽车公司的成功之道
概要
丰田汽车公司经历了70多年的风风雨雨,从一家小型本土制造商变成了现如今世界第一的汽车制造商。和丰田同一时代开始发展的日本汽车公司还有很多,本田,铃木,日産等,但是随着不断地发展,大部分公司都出现了各种各样的问题,尤其是领导人的更替更是容易给公司发展带来不可预料的改变。然而,在丰田将近3/4世纪的发展史中,我们可以看到丰田的领导人与别的公司领导人的不同之处。领导人的决策制定;面对危机时的心态和如何采取正确的处理措施;得到机遇时,如果更好的把握机遇,创造财富;领导人更替时,如何保证公司的发展在正确的方向上。这一个个问题,不仅是丰田曾经面对过的,也是我们中国企业现在正在面临的。本文,通过剖析丰田领导者的思想和领导艺术,希望能够给予我们中国本土企业的发展带来一点帮助。
关键词:丰田 发展 领导人 思想 改变
豊田自動車株式会社の成功について
概要
トヨタ自動車株式会社は70年の時間を経って、一つの小規模の現地メーカーから世界一番の自動車製造商になる。トヨタの同じの時代から発展し始める会社が多くて、ホンダ、鈴木、日産などは発展に続いて、大部分の会社は様々な問題が出る。その中に特にリーダーの交替は会社の発展に大切な問題をもらうかもしれない。でも、3/4の世紀の発展歴史に、トヨタのリーダーとほかの会社のリーダーの違ったものが見えできる。リーダーは、発展政策を決定する事、リスクを直面するときの考え方と採用すべきする正確な処理方法、チャンスを直面する時に、機会を把握して会社に利益をもらうこと、リーダー層を交替する時に、どうして会社の発展は正確な道に維持すること。そのシリーズの問題は、以前トヨタは直面するだけじゃなくて、今の中国企業も直面している問題である。この論文を通して、トヨタのリーダーの思想とリーダーシップを分析して、中国企業の発展に尐なくても助けをあげたいと思う。
キーワード:トヨタ 発展 リーダー 思想 変更
始めに
1973年に創立したトヨタ自動車株式会社は、フォード会社と通用会社を超越した後、もう世界一番大きい汽車製造会社になってしまって、全世界の汽車会社に大家になっている。様々の名誉があるのに、豊田汽車会社はいつも順風に帆を上げるはずではない。70年間の努力と時間を経って、その間にリスクもあるし、チャンスもあって、でももっとも重要なのは代々リーダーの揺るがない信念と卓越した努力である。この論文に、トヨタ自動車株式会社の発展歴史を通して、会社のリーダーたちはリスクとチャンスを会ったときに採用した処理方法を分析して、彼らは企業、リーダー、従業員を管理する時の管理芸術を勉強している。その中に日本リーダーの独特な内容を探している同時に、中国の企業管理と未来発展に勉強すべき内容を提供したいと思う。
1.トヨタ自動車株式会社の由来
豊田佐吉、豊田自動織機製作所と豊田家族の創立者である。1/4世紀の時間の中に、彼はこの織機を研究し続けて、最後に全自動織機を発明してしまった。佐吉が発明した自動織機は一瞬のインスピレーションでだけじゃなくて、試験の時に絶えなくて修正と改善を追求したのがもっとも重要なものである。豊田佐吉が発明した織機で得る収益は、豊田家族の発展に十分の資本をもらってしまった。
豊田佐吉の最後の何年間に、息子喜一郎は豊田自動織機製作所の工事と製品の開発に責任を負いていった。彼のリードーで、製作所が織機の方面の32の特許をもらって、喜一郎も「発明家」の称号を得た。でも、自動織機を取って代わる新製品を発明しなければ、織機製作会社として製作所は結局に苦境に陥るはずであると、喜一郎の心にこのことをはっきり分かった。1929年から、彼は精良な織機を発明しなければならないと思って、仕事の中に時間がかかって、高精度の織機を研究した。高精度織機を研究したときに、彼は製作所の未来は汽車の製作であるかもしれないと思った。織機の部品とボディーを製作する技術が汽車のエンジンーを製作できると、そしてそれは汽車の核心であるとはっきり分かった。汽車産業に入ることが趣味であるじゃなくて、彼も商人の角度から真剣に汽車産業のことを考えしてしまった。彼はものごとを着実に一歩一歩進めると準備して、会社を汽車産業に引導した。その同時に、彼も発明家として織機の領域に真剣に勤めました。
1937年、豊田自動車株式会社が成立した時に、第一任の社長は豊田喜一郎じゃなくて、彼の妹の夫の利三郎だった。企業の核心支柱は人力、原材料、資金と時間である。当時の豊田会社に誰も汽車製造に関する技術がわからないので、喜一郎は始めから一歩一歩に簡単な知識を社員に教えなければならなかった。喜一郎の長所は社員の積極性を動かせることだった。彼は社員が自分の責任を負わなければならないと要求しながら、社員の心と気持ちを気にかけた。そのために、彼は社員に関心してられたリーダーになった。
1941年1月まで、健康のせいで、利三郎は社長の位置から退職することを決まった。喜一郎は利三郎を代わって、第二任の社長にした。喜一郎は社長にするとすぐ、豊田家族は全力を尽くして、汽車製造の領域に入るということを宣告した。喜一郎が汽車製造の領域に第一歩を踏み出したときに、彼の理念はほかの人から見て、まるで夢だった。「我われは単純に汽車製造の技術を学ぶだけじゃなくて、日本の知恵と腕前を利用して、たゆまない努力を通して、世界に一番の汽車を発明しなさい。」社長にした時から、喜一郎は悲劇のような社長の旅行に足を踏み始めた。シリーズの事故を起こしたのせいで、当時の12月に、太平洋戦争が爆発していった。日本本土の政治環境は会社の運営に巨大な障害とストレスをもらって、喜一郎は揺るがない意志があったけど、それを阻止できなかった。喜一郎の「日本人の研究技術で世界一番の汽車を発明する」の夢は消えうせるのようになった。
2.トヨタのリスク
1943年12月、日本が負けるの結局は明々白々だった。これ以来、豊田汽車会社の運営は次第に坂を下りた。1949年はもっとも悪くなった。会社の販売の金額が40億円があるだけど、総資本はただ1.2億円だって、高額なローンがあると、山ほどの利子を返しなければならないので、会社は苦境に陥った。佐吉の遺志と遺言を無視して、人員を削減ししか、会社は倒産の結局を避けできなかった。1950年、倒産の苦境に直面して、喜一郎はやむを得ず人員を削減することに決めた。それの代価として、彼は社長の位置を辞めた。1950年7月31日の午後、石田退三は豊田汽車会社の第三任の社長を担当した。
喜一郎は社長にした時に、フォード会社と協力して車を開発したくて、交渉も非常に順調だった。朝鮮戦争の爆発したので、アメリカ政府は極端な措置をとって、トヨタ自動車株式会社フォード会社の合作が中止しなければならなかった。でも、協議草案の条件として、トヨタ自動車株式会社は二名のエンジニアをフート会社へ見学に送って、彼らは豊田英二と斋藤正一だった。一ヶ月半の見学が終わって、英二は日本に帰った。英二は喜一郎に自分の意見を示した。「規模以外、技術に関して、二つの会社は根本的な格差がない。だから、ある日会社の規模を拡大できると、私達はアメリカ式の生産系統をやすやすと把握できます。」英二はフート会社の巨大な規模に驚かされなかった、それに対して、彼は極めて冷静な心情で、フォード会社の真実の状況を観察した。国外の会社を公正な立場から観察して、トヨタ会社に揺るがない自信があると、それは英二の最大な優勢だった。
会社の社長として、主要な仕事は社員に会社未来の発展目標を制定することである。トヨタ自動車株式会社を創立した時に、喜一郎は「日本の知恵と腕前を利用して、たゆまない努力を通して、世界に一番の汽車を発明しなさい。」という目標を制定した。石田が社長にした時まで、喜一郎はその夢を捨てられなかった。でも、石田はその重任を負うことができなかったらしい。喜一郎だけはこの夢を実現できた。石田は、喜一郎のために、理想を発揮できる舞台を作ると、それが彼の重任だと意識した。このアイディアがあると、石田はいくつか喜一郎を訪問した。でも、喜一郎はトラックだけを生産するトヨタ会社に戻ることにぜんぜん興味がなかった。最終に、「あなたはトヨタ会社に戻って、社員をリードーして夢の自動車を生産しなさい」と言われて、喜一郎は会社に戻ることを同意した。でも、喜一郎の人生は運命に弄ばれたみたい。彼は自信満々に帰りたいとき、夢の自動車を作り始めたいとき、死の神が来た。1952年3月21日、喜一郎はあの世界に行った。
喜一郎の突然な逝去によって、石田の計画は水の泡になった。この前、喜一郎と石田は英二が次任の社長であると思った。でも、今の英二はただ39歳で、エンジニアの彼は管理の経験が尐なくて、自分の集団もなかった。それを見て、英二はまだ若すぎた。社長を担当する前に、英二は自分の能力を鍛えなければならなかった。石田は自分の意志で社長を辞めることができなかった、彼の責任は社長を担当し続けて、英二を合格のリーダーに引導した。
3.トヨタのチャンス
朝鮮戦争のせいで、軍用の註文書が多くなって、日本の経済に活力を注ぎました。それも短時間にトヨタ会社に豊かな利益をもらった。管理層にとって、独立に自動車を開発することがトヨタ会社の未来関するの大切なことだった。10年間の戦争の影響で、日本の会社は自動車製造に関する技術がゼロだった。その時、日産を始めての多くの会社は外国の会社と同盟を結ぶことを決めて、トヨタ会社は完全に自分の力で発展することを決めた。
その会社の未来の発展に関する重要な段階に、中村贤哉という人がみんなの視線に入った。彼は豊かな経験があるし、独特な個性があるし、長い年月に汽車の工場に培養されたリードー能力があって、それでみんなの心に、彼は喜一郎の箴言の代言人だった。その中に彼のリーダー能力は英二から高く評価してもらった。中村は首位のエンジニアとして、自動車を開発する時に、コストを見積もることから、利益を計画することと市場のフィードバックを総括することまで、責任を負わなければならない。新式の自動車を開発する時に、英二は中村を影響される意見を出さなくて、中村がしきたりを打ち破って、まもなく到来する自動車時代の兆候を注意できることをほしかった。中村の始めの仕事は休憩の時に、トヨタの最重要の販売商と東京と大阪に位置するタクシー会社を訪問することだった。自動車に関して、喜一郎は、普通の人に向けての自動車は、もっとも重要なのが性能と功能であると思った。中村は、この自動車はファッションの流れを代表できる優雅な気質があるはずだと思った。長い時間で熱く討論して、チームは六つのデザイン原則を決めた。(1)アメリカの風格とリラックスの運動感;
(2)小型の規格範囲でできるだけ車のボディーを大きくなる;(3)すばらしい操作感と心地よい座席;(4)タクシーとしてコストが安い;
(5)悪い道路を引き受けできる堅実なボディー;(6)最高スピードは一時間に100キロに至る。
絶え間なく修繕して、1955年1月1日に、トヨタ自動車株式会社の第一輌の「クラウン」が誕生した。
4.トヨタは日本を出て、世界に入る。
それ以来、時代の変化と市場の改革に伴って、トヨタと日産の「CBの戦」後、1966年に二つの会社は再び戦争を始めた。日産が開発した商品は大衆に向かうパーソナル自動車「SUNNY」で、トヨタ開発した商品は全ての社員の心血を注いた自動車「カロラ」だった。トヨタのカロラより、日産のSUNNYが半年前に市場に入った。それで、トヨタは十分な時間があって、自動車を修繕して、カロラの優勢を広大してしまった。予想通り、カロラは完全に勝った。今、全世界に16個の工場が毎日続けてカロラを生産して、生産総量はもう3200万輌をオーバーしてしまった。カロラの巨大な成功は、フォードのT車とフォルクスワーゲンのビートルの昔の輝かしい成功を完全に覆ってしまった。
第一回と第二回の石油危機が爆発したことに伴って、全世界の自動車市場の動向は巨大に変化した。アメリカ三大会社の要求をスタンダードとしての自動車が、次第に「低価格」、「低燃費」、「優れた性能」の要求に変化して、その要求は日本の自動車のスタンダードだった。予想通り、全世界の自動車戦争は「日米の自動車戦争」になった。結局は、アメリカの三大会社は惨敗した。着実な発展することに伴って、トヨタ自動車株式会社は日本の第一の全ての負債を支払ってしまった会社になった。1982年6月まで、トヨタの資金充足率が61.4%になって、自由に支配できる資金は5789億円になった。十分な資金、先進的な研究能力、広大な市場、そのときのトヨタはもう世界の自動車市場のライオンになった。それ以来、トヨタは全世界に生産拠点の設立した。1984年、米国でのトヨタ・GM合弁会社が生産開始、1988年、米国 TMM工場が生産開始、1992年、英国 TMUK工場が生産開始、2000年、中国 四川トヨタ自動車工場が生産開始、2001年、フランス TMMF工場が生産開始、2001年、中国に天津トヨタ自動車工場が生産開始。トヨタのグローバル帝国は誕生した。
前世紀の80年代から、トヨタ会社は豪華な自動車の領域に入りたかった。でも、人の心にトヨタへの印象は「安くて、性能が良くて、燃料消費量が低くて、使用時間が長い」だった。新しいイメージを樹立するために、従来の考え方の限界を打破して、新しい会社を創立した。このブランドの名前は「レクサス」だった。21世紀に入って、グローバルの環境意識が進歩して、世界の流れを迎えるために、トヨタ会社は大量の人力と金を尽くして、グリーン電気自動車の「プリウス」を開発した。
トヨタ自動車株式会社の創立者豊田喜一郎は会社を創立した時から、「日本の知恵と腕前を利用して、たゆまない努力を通して、世界に一番の汽車を発明しなさい」の信念があった。3/4世紀の時間を経って、トヨタ会社はもう全世界の一番大きくなってしまう。でも、彼の発展はいつも順調ではなくて、困難や障害が山ほどだ。戦争、労働争議、創立者の突然死、金融资本市场の開放、資産の再編、石油危机、日米貿易紛争、国際化プロセス、環境問題……トヨタは毎回の障害を解決するだけじゃなく、それをチャンスとして会社の発展を推進した。トヨタの歴史はもがく、成長、飛躍の三つの階段がある。毎回の段階に、杰出したリードーがある。もがく段階に、創立者喜一郎と会社の修復者石田があって、成長の段階に、喜一郎の生徒豊田英二があって、飛躍の段階に、豊田家族の後輩豊田章一郎と天才のリーダー奥田硕がある。トヨタ自動車株式会社のネクストの目標はグローバル自動車市場の15%割り当てを得る。その同時に、現在の社長の奥田硕は個人で名前の「3-3-3」というトヨタ目標を作る。この三つの3の意味は、売上高が30万億円になって、運営の利益が3万億円になって、ボーナスの支払い率が30%になる。
5.トヨタの知恵
トヨタ自動車株式会社の成功に、代々リーダーの知恵が満ちる。
まず、豊田綱領。創業以来今日まで、トヨタの経営の「核」として貫かれてきたのが「豊田綱領」である。トヨタグループの創始者、豊田佐吉 の考え方をまとめたもので、「トヨタ基本理念」の基礎となっている。当初は確固たる形があったわけではない。しかし関係会社の規模が拡大するにつれ、従業員に周知徹底すべく明文化する必要性が出てきた。そこで草創期の豊田利三郎、豊田喜一郎らが佐吉の遺訓としてまとめ、世に出たのが「豊田綱領」である。佐吉の6回忌に当たる1935年10月30日のことだった。(1)上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を挙ぐべし。(2)研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし。(3)華美を戒め、質実剛健たるべし。
(4)温情友愛の精神を発揮し、家庭的美風を作興すべし。(5)神仏を尊崇し、報恩感謝の生活を為すべし。
次は、企業理念。会社を創立するときに、会社の目標を設定すべきで、代々リーダーを交替しても、それを指導として時代の流れに合う目標を変えて、会社の活力を持ちます。第一代のリーダーの喜一郎と石田退三の目標は、日本人の知恵で自分の自動車を製造することだ。第二代のリーダーの豊田英二の目標は、トヨタ自動車株式会社は日本一番の会社になることと世界の市場に入ることだ。第三代のりーだーの丰田章一郎と奥田硕の目標は永遠に世界一番の位置を持つことだ。
(1)内外の法およびその精神を遵守し、オープンでフェアな企業活動を通じて、国際社会から信頼される企業市民をめざす
(2)各国、各地域の文化、慣習を尊重し、地域に根ざした企業活動を通じて、経済・社会の発展に貢献する
(3)クリーンで安全な商品の提供を使命とし、あらゆる企業活動を通じて、住みよい地球と豊かな社会づくりに取り組む
(4)様々な分野での最先端技術の研究と開発に努め、世界中のお客様のご要望にお応えする魅力あふれる商品・サービスを提供する
(5)労使相互信頼・責任を基本に、個人の創造力とチームワークの強みを最大限に高める企業風土をつくる
(6)グローバルで革新的な経営により、社会との調和ある成長をめざす(7)開かれた取引関係を基本に、互いに研究と創造に努め、長期安定的な成長と共存共栄を実現する
トヨタ会社の成長を木の生長を比喩して見れば、「豊田綱領」と「企業理念」は木の肥沃な土壌と強いフェンスである。
終わりに トヨタ70年間の発展歴史を見渡して、会社の規模が多いと小さいにせよ、発展の間にいろいろなリスクとチャンスに会うはずである。1950年の労働争議のせいで、トヨタ会社が破産に直面した。あの時、喜一郎は従業員を解雇しなくては、たぶん今の世界にトヨタ自動車株式会社があり無い。前世紀の60年代の朝鮮戦争で、日本政府はトヨタ会社に非常に多い注文書をあげて、トヨタ会社の発展に充分な資金をもらった。今度の注文書がなければ、たぶんトヨタ会社は銀行に返済を強く要求られて、それでは、今日のトヨタは今の規模がありない。管理層はいつも会社を自分が設定した目標に向かわせることを確認すると同時に、目標を向かう時、何のような進歩を得ることと、何のような挫折に遭うことを深く了解しなければならない。リスクを直面する時に、会社のリーダーとして、落胆することがいけないことだ。問題の本質を探しなければならなくて、問題を解決に頑張り続ける。チャンスを直面する時に、会社のリーダーとして、鋭い見識が必要なもので、鋭い意識と豊富な経験を利用して、毎回のチャンスをつかまって、会社の発展のためにより良い環境を作らなければならない。
中国の自動車産業はただ何十年発展して、国外の自動車会社に比べると、目立つ優勢がない。でも、俺たちは落胆することがいけない。真剣に振り返ると、前世紀の30年代に日本国内の自動車産業が始めるときのことを考えて、あの時のトヨタはトラックだけを生産する会社だった。でも、代々実業家の信念と代々リーダーの努力で、100年間の時間をたって、日本の自動車産業は欧米の会社を勝つと、世界の一番の会社になってくる。装飾することと誇張することが必要ではなくて、ただ事実から多いことを学ぶことができる。良好な心理状態、穏やかな心、落ち着く気持ち、目前の功利を求めるに急ではない、それは大切なものである。その同時に、理想的な目標を設定して、この目標を向って、何年間でも真剣に努力しなければならない。10年間、30年間、50年間、百年間、代々リーダーはその目標を向って、努力し続けて、絶対ある日、世界に中国から一番の会社が出る。いや、多い一番の会社が出る。
トヨタの過去はもう歴史になって、彼も世界の一番の自動車製造会社になる。トヨタは今も頑張り続ける。今、私達中国の企業は努力している。ある日、私達の今のことが歴史になったときに、私達の次の目標は:歴史を創造する。
参考文献
[1] 《丰田领导者》 佐藤正明 著
王茁、顾洁 译 [2] 《丰田生产方式》 大野耐一 著 谢克俭、李颖秋 译 [3] 《领导的艺术》 于保政 著 [4] 《日本纵横》 学习研究社 著
网络:
[1] 丰田公司官网
第二篇:日语系毕业论文
长沙理工大学 本科毕业设计(论文)
目 次
日本語アウトライ……………………………………………………Ⅰ 中国語アウトライ……………………………………………………Ⅱ 日本語要旨……………………………………………………………Ⅲ 中国語要旨……………………………………………………………Ⅳ 第一章 序論…………………………………………………………1 第二章 諺と民族性格の定義………………………………………1 第三章 中国と西洋からの諺………………………………………2 第四章 日本本土の諺………………………………………………6 第五章 諺の意味の変遷と言語構造………………………………7 第六章 結論…………………………………………………………8 参考文献………………………………………………………………9
目 录
日文提纲………………………………………………………………Ⅰ 中文提纲………………………………………………………………Ⅱ 日文摘要………………………………………………………………Ⅲ 中文摘要………………………………………………………………Ⅳ 第一章 引言……………………………………………………………1 第二章 谚语与民族性的定义…………………………………………1 第三章 来自中国与西方的谚语………………………………………2 第四章 日本本土谚语…………………………………………………6 第五章 日本谚语意思的变迁与语言结构……………………………7 第六章 结论……………………………………………………………8 参考文献……………………………………………………………… 9
アウトライン
論文主旨:日本の諺の起源、発展、変遷から、日本の諺の民族性格を研究する。第一章 序論
第二章 諺と民族性格の定義 第三章 中国と西洋からの諺 3.1 中国からの諺 3.2 西洋からの諺 第四章 日本本土の諺 4.1 地理の影響 4.2 宗教の影響 4.3 生活方式の影響
第五章 諺の意味の変遷と言語構造 第六章 結論
提 纲
论文主旨:从日本谚语的起源,发展,变迁发面,探究日本谚语中的民族性。第一章 序论
第二章 谚语与民族性的定义 第三章 来自中国与西方的谚语 3.1 来自中国的谚语 3.2 来自西方的谚语 第四章 日本本土谚语 4.1 地理因素 4.2 宗教因素 4.3 生活习惯因素
第五章 谚语意义的变迁与语言构造 第六章 结论
要 旨
諺は、人間の言語と知恵の結晶と言われている、日本の諺も同じである。日本が島国としての特別な地理、文化伝統が諺の形成、発展及び内容形成などに対して深く影響を与える。諺の中に日本民族の特有な民族性格と文化が特別な言語形式を通して完壁に現われている。言語と文化を結び付ける視点から見ると、日本の諺の起源でも、発展でも、変遷でも、十分な研究と探求の価値がある。諺が国の文化を表すのみならず、さまざまな価値観、人生観、世界観も表現している。その中に、日本人は独立した民族として、独自の文化を持ち、諺も言うまでもなく独自の民族的特色を持っている。ここで、民族性格に対して考察してみたい。
キーワード:諺;民族性格;諺の起源;諺の変遷;言語構造
摘 要
谚语是人类语言和智慧的结晶。日本谚语也是一样的。日本作为一个岛国,其独特的地理位置,文化底蕴对谚语的形成,发展及内容形式,产生了深远的影响。日本民族特有的民族性,文化特质在谚语着这特殊的语言形式中得到了完美的体现。从语言和文化相结合的角度来看,无论是日语的起源,发展,变迁,都是极具研究和探讨价值的。谚语不仅可以反映该国的文化与社会,同时也反映了也反映各民族的多种多样的价值观,人生观与世界观。其中,日本作为一个独立的民族,其民族性独具特色。本文想对谚语中反映的日本民族性进行探究。
关键词:谚语;民族性 ;谚语起源 ;谚语意思的变迁;语言结构
日本の諺から日本の民族性格を探求する
第一章 序論
言語と文化は密接な関係がある。どんな言語でも文化と離れて独立して存続することが出来ない。言語は文化の中に存在すると同時に文化の基盤である。だから、言語表現形式として一番の宝物挙げられる諺は、世界で最も豊富で多彩な成語、諺の大宝庫を持っている。
まず、私たち知るべきのは、日本の諺が庶民から生まれるものである。諺には、人々の哀楽だけではなく、自然と人間の関係、動物、植物までなどの内容もふくめている。人間の生活経験から作られたさまざまな知恵は、漢字で記録されではなく、諺の形式として口で代々に伝えていく。今、私たち本で見た諺は、後輩の収集と整理したものである。これは、めいめいのながい人生経験から悟った知恵と結晶である、ただの人生の教訓、処世の学問ではなく。日本の国民も豊かな諺を持っているが、その中に外国からの諺もすくなくない。もし、外国からの諺がないとしたら、日本人の民族性格も分からず、諺の中の借りる文化、外来文化も不自然になるだろう。もう一つ強調したいのは、諺がいつも変わっていくということだ。特に若者たちは現代の視点から理解と解釈している諺が新しい生命力を感じている。東洋でも西洋でも、諺が自分国の文化と社会を表すのみならず、さまざまな価値観、人生観、世界観も読まれる。その中に、日本人は独立した民族として、独自の文化を持ち、その中の諺も言うまでもなく独自の民族的特色を持っている。ここで、諺の中の民族性格に対して考察してみたい。
第二章 諺と民族性格の定義
日本の辞書について次のような定義を下している。「広辞苑」;
古くから人い々に言い習わされてきた言葉、教訓、風刺、等の意を寓し短句や秀句。
「日本国語大辞典」;
昔から世間に広く言い習わされてきた言葉で、教訓や風刺などを含んだ短句。以上の定義が次のような諺の基本的な特徴を示していた。諺は口頭で代々言い伝えられてきたものである。諺は広く民間で使われている通俗な言葉である。
諺は明快で簡潔な言い回しにより教訓、風刺、等の意を寓したものである。民族性格とは、ある民族が持つ性質、心理的特質、気風、思潮、精神、心性のこと。私は、日本諺の起源、発展、変遷、構造の研究に通して、日本人の特民族性格を探求する。
第三章 中国と西洋からの諺
人間健全な理性が世界的にも共通なので、国が違っても、民族が違っても、各国の諺の中に論を待たなく同じものを持っている。日本では、、仏典、漢籍、英文学、聖書、など国外の原典に由来するものが日本独自のものとして誤解されている場合も多い。
3.1 中国からの諺
①詩からの諺
国破れて山河あり(杜甫の詩 春望)
春宵一刻値千金(蘇試の詩 春夜)
少年老い易く学成り難し(朱熹の詩 偶成)②原典からの諺
彼を知り己知れば百戦怠からず(孫子 謀攻)教うるは学ぶの半ば(礼記 学記)③熟語からの諺
行尸走肉(拾遺記 六)自暴自棄(孟子 離篓上)④伝説からの諺 絵に描いたピン
蛇に睨まれた蛙
3.2 西洋からの諺
友と酒は古いほどいい(Old friends and wine are best)
一石二鳥(to kill the two birds with one stone)
便りのないのはよい便り(No news is good news)時は金なり(Time is money)(1)(2)以上の例から、一つ事実が分かるようになった。日本は優秀な外国の文化を吸収して、自分のものにするのが得意である。その原因といえば、日本が弧島で海に囲まれているから、日本人がずっとこの封閉な状況から飛び出し,外界と接しようと強く願っている。したがって、日本が劣らないように、謙虚に外国文化を吸収して、世界の先進国を超えようという民族性格も読まれる。
第四章 日本本土の諺
日本本土の諺、ある種類の教訓、警戒、風刺、またはその他の視察経験による知識をいいあらわしたものである。年取りたちは、めいめいのながい人生経験から悟った知恵を諺に託して若者たちに示す。島国に住んでいる日本人は、自然と共存して、謙虚で、勤勉で本気で働いていること、よく知られている。長年の労働と農耕生活から形成した諺が多いだけじゃなく、日本人の民族性格もうまれている。
4.1 地理の影響
日本の特別の地理と環境のおかけで、さまざまな諺も生み出した。その諺から、日本人の民族性格も分かるようになった。4.1.1 自然と共存する日本人
日本が豊かな自然環境に囲まれているから、いつも自然を尊敬し、平和の共 存を求めている。
動植物から見た日本の生活理念
動物;
植物; 猿も木から落ちる
柳に風邪 蛙の子は蛙
青菜に塩 猫の手も借りたい
独活の大木
気象に敏感な日本人 暑さ、寒さも彼岸まで
梅の花上向きに咲く年は晩霜あり 青夕焼けは大風邪となる
から見たら、日本がきれいな自然環境に恵まれて、四季がはっきりと分れている。この美しい環境に住んでいる日本人が自然に特別な好感を持っている。日本人に対して、自然がき征服された対象ではない。日本の諺には、いきいきとした動物や植物から変わった自然現象まで、自然と密接に関係している内容が沢山ある。自然に守ろうとする日本人が 細かい観察を通して多くの生活観念と教訓をまとめている。4.1.2 島国の日本人
日本は島国で、太平洋暖流と千島の影響の下で、海洋漁業が発達している。だから、日本人が海産物と接する機会が多く、海と魚に関する諺も多い。海に千年川に千年
河豚は食いたし命は惜しし 腐っても鯛 魚心あれば水心
以上の例とおり、さまざまな魚を比喩として物事及び生活道理を示す。だから、日本の飲食文化は、尚魚、愛魚の文化と言えるだろう。昔から、魚が日本社会に重要な位置を占めている。さまざまな魚に関する諺は、日本人の心理特徴と生活習慣を表し、一つの民族性と言えるだろう。
4.2 宗教の影響
日本の伝統社会は、その奥深くに仏教の物の考え方が流れている。仏教の中 で日本人が最も重視して受け入れたものは「無常観」である。この無常観というのは何も仏教だけがもたらしたのではなく、日本の自然そのものが教えてくれたものでもある。宗教観
今際の念仏誰でも唱える 見ぬは極楽知らぬは仏 因果応報 死にがけの念仏 無常観
会うは別れのはじめ 朝顔の花一時
朝に赤顔あり夕べに白骨となる
6世紀に、仏教が中国から日本に伝えられている。そして、その後日本の文化全体に大きな影響を及ぼす。古代の日本人が儒教と仏教に影響されて、淡泊、漂泊、無常な国民性格になった。そのような性格は、運命に面するとき、明らかに表れている.日本人は次々の困難を乗り越えるとか、目的を叶わなければならないとか、あまり好きではない。逆に、融通が利かなくて、拘る処世態度より、楽観で朗らかで天に任せるの方がもっと好きである。
それに、儒教も日本の生活、思考、行動に大きな影響を与える。儒教の仁愛、神道の調和、仏教の自慮自醒、因果応報も日本人の生活態度に対して、ある程度の影響が出て役に立っている。
4.3 生活方式の影響
4.3.1 勤勉で辛抱強い日本人
日本は、農耕な民族で、古いから「昼で働き、夜で休む」という農耕生活を形成している。そのところから、勤勉で辛抱強い民族性格が現れている。石の上にも三年 桃栗3年、柿8年
一日作さざれば一日食らわず
稼ぐに追い付く貧乏なし
以上の諺の中に、日本人を特別に持っている勤勉で辛抱強い民族性も見える。それに、日本人の堅忍不抜の精神のみならず、富と生活に追求する態度も体現する。この古い諺から、古代社会の勤勉な耕作の生活画面が目の前にいきいきとしたようだ。
4.3.2 慎重な日本人
生活中の日本人がいつも言動が慎重と言われている。なんに事に対すしても、いろいろ考えた抜いてから、決める。石橋を叩いて渡る 浅き川も深く渡れ 君子危うきに近寄らず
「石橋」でも、「浅き川」でも、以上の諺が日本人の慎重性を表れている。この人々に教訓、警戒を与える諺は、民族性を体現するとともに、日本人の小心翼翼の処世態度と落ち着いた処世作風も分かるようになる。全体から見ても、日本民族性の重要な部分となる。4.3.3 曖昧な日本人
日本人が「曖昧な人」と評価されるは、よく耳にする。その曖昧もさまざまな形で現れる。
開いた口に団子 足下に火がつく 足を洗う
日本語には、身振りに関する用い方が多い。諺には、体の器官を利用して表す例も少ない。昔から島国で生まれて農耕で活きている日本人が「自然と周りの物事との接触、融和」を重視している。言語から見ると、自然と体の各器官を通して人の行為や人生道理を暗示する傾向が明らかになる。その他、自分の気持ちをはっきりしないで、体の器官と周りの物事を通して、自分の考え、態度を表すのは日本人の特別な民族性である。4.3.4 沈黙な日本人
日本人が「沈黙好き」と言われている。彼らはが口数の少ないことを崇める。お互いに譲り合って衝突を避けるからこそ、集団の存続と個人の安定があると思う。「言わぬは言うに勝る」、「言わぬは花」などのような日本人の処世術は沢山の諺の中に表れる。病は口よりいづ 口は災いの元 口は人傷付ける斧
以上はみんな長期の社会的な実践の中で日本人によって作り出されたものである。それは「雄弁,多言」などに対する一種の軽蔑といえるだろう。「以心伝心」「勘でわかる」という日本人のイメージが生き生きと現れる。
第五章 諺の意味の変遷と言語構造
言語が社会文化の一部分として、変わらないわけにはいかない。社会発展と進歩と共に、人の観念も言語の意味も変わっていく。言語の知恵としての諺は、時代につれて変わっていきつづけている。
5.1諺の意味の変遷
1、「一姫二太郎」は、はじめに女の子を産んでから、次に男の子を生むという意味である。この原因は、男の子が家業を受け継ぎのは期待されているが、死亡率とか、子とも育てる経験とかを考えると、はじめに女の子を産む方が育てやすい。大きくなった女の子は、家事を手伝って弟にも世話にする。その上に、男を生む戸、すべてうまくいって、一番いい選択である。
しかし、時代が変わった。少子化がますますひどくなる日本では、子ともを期待する日本人に次のように解釈される。「家族には、女の子が一人、男の子が二人、子とも三人でどんな幸せなことだなあ!」という意味に変わった。このような解釈がもとの意味から大きくずれている。それで、日本社会の変化のき傾向と人々の思いも読まれる。
2、「子を持って知る親の恩」は、親になってからはじめて親の苦労と恩を知 るということだ。しかし、いまの日本人は、もっといい説明がある。自分が子供を持ってから、自分の親たちが孫に甘えてたまらなかった。きれいな服、バック、値段が高いオモッチャ、力を尽してできるだけものを買ってあげるといってもいいだろう。はじめて親になる若者たちにとって、精神と物質からいろいろ助けてくるる親たちは、感謝している。思わずに「子を持って知る親の恩」ということばを感嘆する。親の恩は、子を持ってから、ようやく分かるようになった。
5.2 諺の言語構造
諺の表現形式が豊富多彩である。
1、古文型
時は金なり
急がば回れ
2、音韻とリズム
人は人、我は我ちんぷん かんぷん
以上の例からみると、日本の諺は 古文型を多く使われているとともに、音韻とリズムも求めている。「短期は損気」「亀の甲より年の功」のように、同音を重ねたものあるかと思えば、「聞くは一時の恥、聞かぬ一生の恥」「桜折るばか、かき折らぬばか」のようのにな対句形式のものもあり、また、「好き腹にまずいものなし」(五七音)「かわいい子に旅させよ」(七五音)「帯に短し、たしきに長し」(七七音)のように、音数の重ねかたで調子を整えたものも、少なくあらない。諺には、音韻とリズムが日本の諺の美しさを作り出す。諺には、短くて、口調がいいものが多いだ。その言語形式から、日本人の好みも分かるようになった。
第六章 結論
以上をまとめて言うと、長い歴史を経て作り出された労働人民の知恵の結晶である諺は、労働人民を主体とする文化と強く繋がっている。そのため、外 国文化を探求しようとする時、その国の諺を勉強するのもいい方法の一つであるだろう。
今の世界は、国際的に大きな環境の中にいる。もし、この国を理解したいとしたら、まず、この国の民族性、文化特色を把握しなければならない。この理由と言えば、五つがある。
1、国際化社会の中に、国と国お互いに理解できるようにになるのは、新たな要求である。
2、会の変化、発展とともに、民族性の角から国の存在を探索するのも世界の趨勢である。
3、国際社会の各国の行動を予測と把握するため、民族性に基づいた行動考察は、もっと充実である。
4、各国の世論の趨勢を把握しようとする時、民族性も不可欠な要素となる。
5、文化に対する研究には、民族性を参考の標準にすべく。
諺は、国の言語芸術として、音韻とリズムを豊富に含めるだけではなく、思想的な人生哲学も伝えてくれる。だから、人々に日常行動の指針と方向になって、その国の民族性も読まれる。文章は、さまざまな方面から日本の諺の文化的特色について触れたが、これを機会にこれから更に理解を深めて生きたいと思う。日本語学習者として、言語についての勉強は確かに重要だが、言語に関する日本文化、民族性、歴史などの考察も抜いてはいけないことである。この文章の中に、不観客と足りないところまだあるので、これからの研究中に進んで上達になりたいと思う。それに、、本章は、日本文化に関わった部分が少なくて、これからその面について研究していきたい。
参考文献
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第三篇:日语系毕业论文
毕业设计(论文)
(20 届大学本科)
题 目:
学 院:外国语学院
专 业:日语
班 级:
姓 名:
学 号:
指导教师:
年 月
Declaration
I,(), the undersigned, hereby declare that this dissertation does not contain any material which has been accepted for the award of any other degree or diploma in any institutions of higher learning and that, to the best of my knowledge and belief, this dissertation does not contain any material previously published or written by another person, except when due reference is made in the text of the dissertation.Signed:
Date: 2009年6月
诚 信 宣 言
我,郑重宣布:除了参考文献所标明引用的资料和内容之外,本论文中不包含有任何已经被其他高等教育机构所接受的学位或学历论文资料,也不包含有其他任何人已经正式出版的资料内容。
签字:
日期:2009年6月
摘 要
动漫产业作为新兴的文化产业已受到世界各国的广泛关注,动漫产业作为能耗低、无污染、利润高的一个新兴产业被称为是继IT产业后的又一绿色环保产业。日本的动漫产业则是非常的发达,已经成为日本的第三大产业,对日本政府的财政收入做出了很大的贡献。日本的漫画和动画片等不仅在日本本国受到欢迎,在世界各地也很有人气。当然,日本现如今的动漫产业规模并不是一朝一夕之间形成的,在它成功的背后是有许多必要因素的。本文以近两三年来取得极大成功的《死亡笔记》为参考,分析日本动漫产业的成功原因。
第一、日本动漫在内容上充满人性与生活性,题材丰富、大胆。日本动漫把漫画定位在“国民全都可以看”的位置上,儿童、成人都可以看。
第二、日本动漫产业已形成完备的产业链,产业的运营方式也走在世界的前列。
第三、日本动漫产业宣传方式的多样性与长期性。
第四、政府对动漫产业大力支持,不仅仅重视,还制定了各种优惠政策。
与之相比,中国的动漫产业存在许多问题。虽然有内容单调,宣传方式落后,没有形成产业和政府的过度干预等问题,但从长远来看,中国的动漫产业在市场、文化和发展空间上还是拥有很大的优势。中国的动漫产业不断吸取日本的先进运营方式及经验,结合本国的发展优势,其腾飞指日可待。
关键词:动漫产业;宣传方式;产业化经营;《死亡笔记》
Ⅰ
要 旨
漫画産業は新興な文化産業として、世界各国に広く注目された。漫画産業は消耗が低く、汚染がなく、利潤が高い新興産業として、IT産業に次いでの第二番目のグリーン産業と称される。世界範囲から見れば、近年、漫画産業を代表とする日本文化産業の発展は目覚しく、漫画産業はもう日本の支柱産業になりつつあるといっていい。日本の漫画産業の成功は文化と商業の完璧な結合から来ている。日本の漫画は産業化が完成し、そして、完備な産業チェーンと成熟な市場が形成されている。日本では、漫画産業は非常に発達していて、すでに一種の産業となり、国家の財政収入に大きな貢献をしている。日本の漫画は日本国内だけではなく、世界のほかの国でも大変人気がある。もちろん、日本現在の漫画産業の規模は一朝一夕で形成したものではなく、漫画産業の成功にはいろいろな要素が要る。日本の漫画産業の成功に以下の理由があると思われる。
第一、日本の漫画は内容の面で人間性と日常性に満ち、題材も豊かで、大胆である。日本の漫画産業は漫画を「年齢、性別を問わず、全国民のもの」に位置づける。
第二、日本漫画産業はすでに完備した産業チェーンが形成され、運営方式も世界の先端を走っている。
第三、日本漫画産業の宣伝方式が多様で、長期にわたるものである。
第四、政府は漫画産業を重視し、支持するだけではなく、様々な優遇政策も出している。
これに対し、中国の漫画産業はかなりの問題を抱えている。内容の単調化、宣伝方式の立ち遅れ、産業チェーンの不備と政府の過度な介入などがあるが、将来性から見れば、中国の漫画産業はやはり市場、文化、発展空間などの有利な面もある。中国の漫画産業は日本の漫画産業から先進的理念と経験を取り入れ、わが国の漫画産業の自立発展を目指せば、中国の漫画産業のテークオフもそう遠くはないだろう。
キーワード:漫画産業;宣伝方式;産業化経営;「デスノート」
Ⅱ
目
次
はじめに„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„1 1日本漫画産業の現状について„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„1 1.1日本漫画の発達史および国の関連政策„„„„„„„„„„„„„„„„1 1.2日本の漫画産業の現状――『デスノート』を例に„„„„„„„„„„2 2中国の漫画産業の現状„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„4 3日本の漫画産業発達の理由分析及び中国への示唆„„„„„„„„„„„„„6 3.1日本の漫画産業発の理由„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„6 3.2 中国への示唆„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„7 終わりに„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„8 参考文献„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„9 引用文„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„10 謝辞„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„„11
Ⅲ 日本の漫画産業及び中国の漫画産業への示唆について
はじめに
私は小さい頃から、ずっと漫画が大好きである。名探偵コナン、ドラえもん、犬夜叉 など相当の漫画とアニメを読んだり、見たりしていた。私の読んだ、見た漫画とアニメはほとんど日本のものである。中国のアニメも見たことがあるが、あまり好きではない。なぜ日本の漫画産業はそんなに成功しているか。中国もアニメがあるが、なぜ中国の漫画産業は日本に及ばないか。日本の漫画産業の成功の教訓を中国の漫画産業に紹介し、中国の漫画産業の発展に助言したいと思って、本論文を作成するわけである。日本の漫画産業の現状について
日本の漫画産業は日本国内にも国際にも、大きな影響力を持っている。日本の漫画とアニメは、圧倒的な魅力でマレーシア、韓国、シンガポールなど世界各地で、はやっているが、中国では、更に大きいブームを起こしている。
1.1 日本漫画の発達史および国の関連政策
日本の現代漫画産業の発生は歴史上の特殊な事件とは密接な関係がある。第二次世界大戦後、米軍は日本の戦時の法規、法令を廃止し、日本は国民経済の非軍事化を実行すると同時に米国の文化を代表した西洋文化の影響を深く受けた。その時米国の漫画産業はとても発達していた時期であり、これは直接日本の漫画産業の発展を刺激し、そしてその後の日本漫画産業の全面的な発展に強固な基礎を打ち立てた。
一方、戦後、日本は急速な発展に入り、人々は高い効率を求める社会で生きている。競争も激しくなった。これを背景に、漫画とアニメなどはその人間性と生活性のあるストーリー、気楽な表現形式と簡潔な視聴覚効果で、国民の心身をリラックスする需要に迎合し、戦後の世界平和の発展の潮流にあって、人々がより早く、よりよい情報を得ることができた。そのため、日本の漫画などは日本社会で高い人気を得た。現在では、日本の漫画産業はすでに一種の産業チェーン、完備した産業チェーンも形成された。人材も豊富だし、技術も市場(国内市場と国際市場)も成熟である。「デスノート」はその大きな背景において、成功と遂げた。
政府の積極的な推進:アニメーション映画の国際上の販路を拡大して、海外で日本文化の伝播と影響を加速して、壮大するために、日本政府と東京政府はすべて日本のアニメーション産業に対して支持政策を実施する。日本政府はアニメーションを重要な輸出産業とするだけではなくて、独立な文化として育成して、政策、資金、組織で大きく手伝う。4月10日の「朝日新聞」によって、日本外務省はまた「政府開発援助」中の24億円の「文化無償援助」資金を利用してアニメーション製作商からアニメーションの放送版権を買って、そしてこれらの買って来たアニメーションを無償で発展途中の国のテレビ放送局に提供して、巨額の資本を使ってアニメーションの放送権を買うことができない発展中国も日本のアニメーションを放送できるということを決定した。外務省はこうすれば、海外に日本のアニメーションの文化を広めるだけではないことができて、更に日本は外国の青尐年の間での影響を広げることができて、更に多くの「日本流」を育成いて、一挙に多いと思っている。
1.2 日本の漫画産業の現状――『デスノート』を例に
まず、ストーリー自身から見れば:中国の新聞「新京报」2006年11月25日の「《死亡笔记》:“灰色”也能走红」という文章の中で「デスノート」の成功原因については、以下のように述べた。ストーリーの設定は非常にユニークである。名門校の優等生夜神ライトは自分の方法と能力で世界に公正を獲得させようと思って、しかし彼が「私が新世界の神になる」と言い出す時、悪と正義の区分がそんなに明らかではないということになった。「法律の外で制裁を加える」のような極端のやり方は一方では反逆を尊ぶ青尐年を満足させ、一方も大人の観衆に心配と感じさせる。幸いに映画は単に恐怖の元素を強調していなくて、多くの深さのある思考も加えた。陰気な灰色のストーリーはまさに「デスノート」の超人気の原因である。
それで、「ミステリーの物語として結構トリックが効いてたりして、とても尐年誌の漫画とは思えないところもある」と日本の小説家乙一が高く「デスノート」を評価した。
それから、漫画を描く小畑健は非常に有名な漫画家であって、優れた才能を持っている。彼は「500光年の神話」で第30回手塚賞準入選(1985)。2003年、手塚治虫文化賞新生賞受賞。作者の知名度もある程度で作品の人気を高める役割を果たしている。最後、華麗な画風と先進の制作
技術によって、「デスノート」の漫画とアニメの画面が非常にきれいである。
「デスノート」の成功から日本漫画産業の成功原因を分析する研究が今はほとんどない。本稿では、「デスノート」の成功をきっかけに、四つの方面から、日本漫画の成功原因を分析する。
「そのノートに名前を書かれた人間は死ぬ」という力を持つ、死神が落とした恐れるべき「デスノート」。天才的な頭脳を持ち、退屈を持て余していた高校生 夜神ライトがそれを拾った時から、すべてが始まった。デスノートを使って、世の中に溢れる犯罪者たちに次々と死の制裁を下ろしていくライトは、いつしか「キラ」と呼ばれるようになる。殺された人数の増加につれて、FBIに頼まれた天才ともいえるLが殺人事件の真実を調べ始めた。天才VS天才の戦いが始まった。果たしてライト=キラは、世界を救う救世主なのか、それとも独裁的な殺人者なのか。キラを崇拝するもの、その行為を否定するもの。世界は大きく揺れ動いていく…。①
第一、「デスノート」の内容は非常に大胆で、ユニークである。まず、名前を書き、人を殺すこと自身は非常に不思議で、想像できないことだと思われる。人を殺すことはそんなに簡単なことなのかと人々に深く考えさせる。それから、被害者が犯罪者で、そういう人たちを法律外で懲罰することはいったい正義なのかと人々が読めば読むほど自然にそういう問題を考えるようになる。最後、死神の神秘的な存在も「デスノート」の高い人気の原因の一つ。
第二、内容には残酷と血なまぐささが満ち、ある程度で現代人のストレスが解消できる。現代社会の速い発展のため、競争が激しくなる。激しい競争の中で、自分の発展を図る人々の圧力も大きくなる。毎日忙しく働いている人々が一種の重苦しい状態の中にあり、ストレスのはけ口が尐ないといわれている。「デスノート」の内容には残酷と血なまぐささが満ち、それを見て、ある程度で心理的には一種のストレスのはけ口となる。
第三、主人公は二人の優秀な男を設定し、今の尐女たちの「BL情緒」に想像の空間を与える。今、「耽美」という言葉がよく見られる。「耽美」はもともと「美にふけり楽しむこと」の意味である。でも、60年代から、この語はだんだん漫画用語となり、「耽美漫画」つまり「BL漫画」の意味である。そのような漫画は尐女たちの中で非常に人気がある。インターネットで「デスノート同人」を入力し、検索したら、数ページが出てくる。「デスノート」の同人誌を売るオンラインショップも多い。Lとライトは立派な男であり、それを見ている尐女たちは二人の間の「ピンク」を探し、二人は何か曖昧な関係にあると思ってしまった。漫画のそういうところはちょうど尐女たちの「BL情緒」に想像の空間を与え、尐女たちの目を集め、最後、作品の人気も高まってくる。
第四、ストーリーが込み入り、複雑である。警察とキラの戦い、ライトとLの頭脳戦が非常に観客の目を集めた。ライトのまとまった殺人計画とLの殺人事件を分析する能力はみんなポイントである。Lはライトを疑ったが、証拠がないので、ライトを監視する行動をとった。ライトはLの監視行動を知ったので、Lの疑いを解消するように、対策もとった。監視されているが、ライトはポテトチップスを取るふりをし、パッキングに手を伸ばし、その中にあるデスノートの紙に、犯人の名前を書き、人を殺した。この作品の中で、このような心理戦と頭脳戦が何回もあり、大変受けがよい。
第五、青尐年の心理問題も反映された。ライトは非常に優れている学生で、どうしてそんなに極端な手段をとったのか。外見から前向きで、優等生であるが、内心は黒い。このようなアニメ 映画を見ることによって、社会は青尐年の心理教育を考え始めた。
日本漫画産業はすでに産業チェーンが形成された。
「デスノート」の成功から、日本漫画の産業化経営も見られる――週刊尐年ジャンプ で連載→単行本の出版→映画「デスノート」前編→アニメーション―映画「デスノート」後編→文化関連商品とその二次元商品:本(漫画、雑誌、同人誌など)、映像化商品(ビデオ、VCD*OVAなど)、キャラクター商品、カレンダー、ノート、ポスターなどの販売→「デスノート」の大成功。②
漫画雑誌と漫画の単行本の出版を通じ、人気のある漫画が出てくる。そして、その過程の中で、書類の販売によって、第1ラウンドの値上がりが実現できる。その後、それらの人気漫画をOVAあるいはTV版のアニメーションに改編し、成功の後でも劇場版のアニメーションを作って映画館で放送することができる。改編する時に、広告会社は若干放送前で広告を差込みたい企業を組織して共に出資することができる。資金の一部分は広告費として、他の部分はテレビ局がアニメーション会社に手渡して制作費として、第2ラウンドの値上がりが実現できる。同時に、アニメーションの音響製品、ビデオ製品、アニメーション形象の使用権、ゲームの改編権もアニメーション製品の価値をその他の市場に連れて入り、またもう1ラウンドの値上がりができる。これが日本漫画産業の運営モードつまり産業チェーンである。中国の漫画産業の現状
中国の漫画産業は完備した産業チェーンがない。人材が乏しく、漫画を描く人材を養成する学校が尐ない。消費市場が十分に開発されていない。中国では、「動漫」(アニメ 漫画)というと、まだまだ「子供のもの」というイメージが強い。
中国政府もアニメを「国の産業」と認識し、国産アニメの保護と育成に力を入れ始めた。2004年3月31日に国家広電総局は各省、自治区、直轄市の広播影視局及び新疆生産建設兵団広播電視局に、「子供チャネル開設に関する通知」を出した。この中で、2004年の内に三分の一の省級テレビ局及び副省級テレビ局が、子供チャネルを開設、そして、2005年の年末までに、更に三分の一の省級テレビ局及び副省級テレビ局が、そして2006年年末までには全国すべての省級 副省級テレビ局が子供チャネルを開設するよう目標つけられている。③ この発表から五、六ヶ月の間に、天津、上海東方,南京,江蘇で子供チャネルがスタートし、更に湖南、北京、上海で大型のアニメ専門チャネルがすでに放送を開始した。しかし、中国では アニメは子供が安心して見られるコンテンツでなければならない ため、アニメの描写(性的なもの、暴力的なものなど)に対して厳しく制限が設けられている。2004年の通知は、単にアニメを中心とする子供番組のコンテンツの推進を図るだけではなく、子供が大人向けの番組を見て成長に有害な影響を受けないよう、子供向けの良質なコンテンツを専門に放送するチャネルを開設する目的が大きいといえる。その結果、大人向けの市場が無視された。
海外のコンテンツを中国に輸入するためには、輸入の審査や申請が繁雑な上に時間がかかる。更にテレビ放送においては、海外コンテンツの放送はアニメ番組全体の4割以内と規定されている。また、ソフト販売、キャラクター商品販売においては海外版問題も深刻である。海外のアニメの輸入については、その内容審査が厳しいだけではなく、輸入できる機構も広電総局が指定した機関、もしくは批准された機構と厳しく規定されている。そして、輸入できる量も、自社で制作している国産アニメの量を超えることができない。また、輸入だけではなく、放送に関しても、海外アニメは総アニメ放送の4割を超えてはならない、という規定があり、輸入 放送ともに厳しく制限されている。あまりにも自国の漫画産業を保護し、あえて新しい技術、経験を学ぶチャンスがなくなる。海外からの競争と刺激が尐ないので、発展する意欲がだんだん弱くなってくる。中国は今漫画産業発展の必要性を認識したが、かなりの問題点もある。視聴者の位置づけとか、政府の過度介入とか、自国漫画産業の過度保護など、これらの問題を解決しないと、中国漫画産業の十分な発展はありえない。中国では、漫画産業があるが、産業チェーンがまだ形成されていない。日本ではまず漫画雑誌での連載があり、単行本になり、人気の新作がアニメやドラマになり、更に映画になり、その過程でキャラクター商品がヒットするというアニメ業界が連鎖して一つの作品に関わっているのに対し、中国ではどれでも単発的である。早く産業チェーンを形成しないと、発展はそのまま足踏みだけである。日本の漫画産業発達の理由分析及び中国への示唆 3.1 日本の漫画産業発達の理由
日本漫画産業の成功には共通の原因がある。その共通の原因については、中国の研究者が以下のように分析している。
1.文化の特性:日本漫画産業の発展は、まずその文化の単一性のおかげである。日本は単一民族とも言え、99%以上の国民が大和民族の人である。単一民族は統一の文化観と価値観が形成しやすく、人々により広い範囲と高い程度で同じものを受けることができる。日本漫画産業の発展はまさに日本国内で広範囲の普及度と頑丈な基礎を前提にしている。また日本漫画産業の発展はその文化の開放性のおかげである。日本の漫画などは、様々な外来文化を吸収し、その中で、中国の古典文化の影響が一番大きい。
2.強力な運営モード:普通、漫画産業チェーンはアニメ•漫画の出版物と音響映像製品、アニメの放送あるいは上映とキャラクター商品を含んでいると思われる。
日本の漫画産業の発展戦略はテレビ番組の広告の収入を漫画•アニメの創作資金に当て、玩具などの二次元商品の巨額利潤でテレビ局のアニメーションの番組制作に投資し、更に再度新しい漫画•アニメのキャラクター商品の開発を動かし、映画、テレビ、音楽、出版、テーマパークの発展を推進する。④
現在日本の漫画産業はすでに完備した産業チェーンと熟した産業の運営モードができた。そして巨大な経済利益を得る。
3.すばらしい製作: 漫画の製作は秒の価値によって計算する高い投入産業である。宮崎駿、大友克洋、押井守のような漫画大家達の投入製作した漫画映画はややもすれば数10億円のである。漫画の吹き替えをした人員(日本で声優と称される)も専門的な訓練を受けて、スターとして舞台に登る。全ての日本の漫画は細かい点の処理の上でも完璧に近い。唯美的な流暢的な画面、空いっぱいに飛び舞う桜と羽、主人公の生き生きとしている顔の表情など、いずれも人に深い印象を与える。それの外に、いいアイデアのあったシナリオも漫画の強大な核心と支柱である。日本の漫画は近年なぜそんなに人気があるか。美しい画面という原因の外に、よいシナリオは一番重要な原因である。情熱、夢想、奮闘などいつもあり、また忠誠、裏切り、妥協、選択、愛と恨み…こもごも入り交じる。「犬夜叉」、「頭文字D」、「名探偵コナン」、「EVA」などの作品は多くの中国人の好感を得ている。日本の漫画と比べて、中国で放送された漫画はまったく幼稚園の水準で
ある。画面が粗雑で、生気がなく、段階が鮮明ではない。青尐年にとって、魅力はぜんぜんない。政府の様々な規定があるから、中国の漫画は多くの制限を受ける、4.漫画のとらえかた:日本の漫画の内容はあらゆるものを網羅していて、童話、サイエンス フィクション、冒険、愛情、スポーツ、歴史、科学、経済、宗教、娯楽から文芸小説、ノンフィクション文学、政府の文献、学生の課外指導材料…ないものはない。日本漫画作品の影響力の巨大さと販売量の多さは世界でも前列に並ぶ。
1990年の統計によれば、日本で漫画週刊、隔週刊は78種類、月刊が2246種類、合わせて2324種類もあるという。毎月、漫画の単行本は約300種類出版される。年間漫画の書籍と雑誌の販売量は35,889,全部の書籍と雑誌の販売量の45%をしめる。⑤ 漫画の読者の年齢構造は幼児から40歳ぐらいの中年人までである。日本の出版界で有名なスローガンのひとつには「三歳から八十歳までの人にはすべて漫画を見させる」というのがある。日本の漫画は20世紀八、九年代から題材が三つのタイプに分けられた。それはつまり尐年のアニメ、尐女のアニメ、成人のアニメで、実際はそれは三つの視聴者の価値指向を代表しているので、非常に重要なことである。中国の漫画はまだ説教の程度に止まり、子供の漫画と捉えられている中国漫画は大部分の青年、成年を含む社会主流群体の承認を得られないのも無理がない。
3.2 中国への示唆
日本の漫画とアニメは読者と観客によって、明確に分類されている。児童向け漫画、尐年漫画、尐女漫画、青年漫画、レディースコミックと青年向け漫画(18禁漫画)に分けている。⑥ 漫画とアニメは日本では全国民が誰でも見るものである。でも、中国では、漫画の内容は主に神話とか寓話とかのような教育性の強く、子供向けのもので(《大闹天宫》、《海尔兄弟》など)、大人はあまり見ないのである。それゆえ、中国の漫画の対象は子供たちに限られ、内容も狭まっている。もっと、幅広い範囲で、すべての人に向ける漫画を作ることが求められている。また、中国では、漫画とアニメから改編した映画が尐ないし、漫画のため、わざとホームページを作ることも尐ない。「デスノート」の宣伝方式から見れば、まずインターネットでの宣伝が非常に重要になった一環である。漫画や映画などのため、公式サイドを作ることは中国ではほとんどない。それから、日本国内と海外香港での同時上映もポイントの一つ。日本国内だけではなく、海外の人気も集まった。最後、「デスノート」の宣伝日記によると、「デスノート」の宣伝活動は非常に緊密で、計画性がある。最新情報は3月14日のことである(検索した日は3月20日である)。
2006年に上映された映画だが、今も情報を更新している。中国の映画の宣伝と違って(中国の映画の宣伝活動は主に上映直前と公開中に集中している)、長期間の宣伝である。
中国の漫画産業はもっとインターネットを利用し、まとまった宣伝計画を立て、自分の作品を中国全国あるいは世界に広げるべきだ。
中国の漫画産業の発展も自分にとって有利な面もある。
1.市場の未来性:中国の漫画産業は十分に発展していないため、発展の空間も大きいし、他の国から経験を汲み取ることもできる。マスメディアの発展はアニメーションに巨大な発展のチャンスを与え、映画からテレビまで、また、インターネット、移動通信まで、アニメーションはメディアの一つの内容として巨大な需要に直面している。非常に未来性があるし、多様な可能性がある。
2.文化の奥深さ。文化の方面、中国は豊かな文化資源を持ち、アニメーションの題材の最大の基地となった。中国の文化は長い歴史の発展の中で、外来の文化の長所を吸収し、ずっと自分の独立性も維持し、世界の独特な文化のタイプになっている。その影響は世界の文化にも巨大な貢献をもたらした。日本のアニメ・漫画は多くの方面で中国の文化から受ける影響が見える。また、中国のアニメーションの制作者は米国のアニメーションの製作技術を中国の民族の芸術を結合し、各種のその他の手法(水墨画、折り紙芸術、人形など)を試みる。これも中国のアニメーション制作の大きな優位である。
終わりに
中国と日本は、国の事情が大いにことなっている。もちろん、漫画産業の背景も違っている。したがって、中国はこれらの新しいメディアのプラットフォームの上に巨大な創作の基礎があり、また、巨大な市場の消費空間があり、更に一歩一歩完備されている政策とあいまって、中国の漫画産業のテークオフが遠くないと思われる。
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私はこの拙い卒業論文の完成に当たり、ご指導の海洋大学日本語学科の張秀梅先生に心から深く感謝を申し上げます。最初の論文の構想から論文テーマーの確定、論文資料の準備、疑問の解答、論文の修正まで、張先生はずっと熱心に辛抱強く指導してくださいました。この半年の長い間、張先生は何回もわざわざ時間を作って、論文についていろいろ指摘してくださいました。張先生のおかげで、私の卒業論文は計画通りに完成いたしました。張先生のご指導は私にとって、大きな助けになってきました。もう一度感謝のことばを述べさせていただきます。
第四篇:论海尔成功之道
论海 尔 成 功 之 道
姓名:周 犹 领
学号:20110530127
专业: 信息管理与信息系统 系别:信息工程学院
论海尔成功之道
周犹领2011053012711信息管理信息管理与信息系统
摘要:任何一个成功企业的背后都是经过曲折迂回的变更和思考,都经历了数以万次的探索和进取。企业能够成功就需要领导人有超凡的过人之处,不管在任何情况下都能冷静妥善的处理,这是走向成功的重要部分。毛泽东之所以能领导共产党打下天下,就是由于毛泽东有聪明机智的头脑。同样海尔能够有今天的成就也是由于当时海尔执行官张瑞敏的敢想敢干,不断优化管理机制,同时在商场上坚持质量和诚信为准则,能够找准自己的位置
关键字:企业;成功;诚信;管理;找准位置
从今中国人民大学李义平教授说:软实力对企业的发展相当的重要。比尔盖
茨、邱继宝即使什么也没有,但只要有软实力,企业就会快速的发展起来。硬实力是一种武器,软实力是一种方法、它包括共识力、管控力、感召力、执行力、规划力、原动力。海尔之所以有今天,就是由于海尔长期形成的软实力。那种软实力长期形成了海尔文化,他的文化内涵深入到每一过员工的心理,那就是真诚到永远,海尔文化党的核心就是不断的创新,我们都知道只有不断的创新企业才会有活力,它就像人体血液一样,缺少了它,将会枯萎死亡。现在是一个不断竞争的社会,竞争的对象就是科技,科技的发展就是创新。因此,海尔就是不断的创新,才会赢取国内外的好评,屹立于世界之峰。不管怎样文化作用的好与坏就需要员工认同度,海尔在这一方面做的很好,得到职工的主动参与,这是海尔文化的最大特色。海尔的战略思想就是以观念创新为先导,以战略创新为方向,以市场创新为目标,以组织创新为保障。这也充分说明海尔始终坚持创新这一主线。同时海尔领导者有着聪明的头脑,不管在哪一方面都亲自把关,做好客户后期的服务工作坚持诚信经营。张瑞敏严格要求每一道工序。他说:在市场这道关上谁出现了问题谁就从自己的腰包里掏钱,生产到销售。经过若干工序最总落到客户的手中,人人都有上过市场人人都是一个市场—下道工序时你的市场,你又是上一道工序的市场。由此感觉到这正和青岛滨海学院的管理模式相似严格要求每一个学生,正像海尔严格要求自己的员工一样,所以学校这一管理模式是和企业的管理模式是相符合的,这有助与滨海学子毕业后能够更快的适应社会,适应企业环境。同时学校应该鼓励学生创新,奖励创新,让学生们积极发挥自己的聪明才
智。在课堂上让学生自由发挥自己的想法,让学生养一个良好的生活作风习惯,更重要的是坚定目标,大胆的去想大胆的去干,求变创新勇敢奋斗。海尔的管理思想正向逻辑方向转变。整个20世纪,企业经营管理指导思想经历了
三个典型的阶段——生产观念、推销观念和市场营销观念。其中,从“生产观念”
到“推销观念”是企业经营管理指导思想的量变,从“推销观念”到“市场营销
观念”是企业经营管理指导思想的质变和飞跃。20世纪70年代至今,针对市场营
销观念的缺陷,人们提出了许多新的经营管理指导思想,例如社会营销观念、生
态营销观念、绿色营销观念等,但是都没有取得理论界和企业家的一致认可,其
根本原因是它们没有解决市场营销观念的本质缺陷:单纯企业利益最大化。
战略营销观念继承和发扬了以往所有经营管理指导思想的优势,根据现代社
会环境的要求,建立了自己独特的、适应21世纪需要的思维逻辑框架。它的最突
出优势是改变了企业经营管理指导思想的出发点,即由原来“单纯企业利益最大
化”转变为“企业与社会整体长期利益同时最大化”。这是对以“市场营销观念”
为代表的传统企业经营管理指导思想的“扬弃”,是企业经营管理指导思想的又一
次质变和飞跃,是企业经营管理指导思想演变的逻辑延伸。
每一种新观念及其理论的产生与发展无不与当时企业所处的客观社会经济环
境紧密相联,甚至可以说这些观念及其理论就是当时企业所处的客观社会经济环
境的产物。生产观念、推销观念、市场营销观念的产生和发展是这样,战略营销
观念产生和发展依然是这样。可以断言,昨天处于主导地位的企业经营管理指导
思想和理论必将也必须被新的经营管理指导思想和理论所取代。
海尔集团从一个亏损147万元涉临倒闭的小厂发展到今天成为中国家电行业
名列前茅的国家特大型企业集团,其间除改革开放给企业创造的发展机遇,以及
其创造了一整套缜密的经营管理方式之外,更重要的也许是海尔管理的特色。
一. 高科技质量占据市场制高点海尔的高质量有着丰富的内涵,它不是仅仅符合工厂或国家规定的标准即可,而是适应市场的需求,利用高科技创造高质量,有了技术上的高起点,才有质量的高起点。自1996年以来,海尔集团加大以科技为核心的技术创新工作的力度,明确技术创新三原则,即技术创新目标国际化、技术创新课题市场化和技术创新
成果商品化。于是,海尔人的技术创新支撑起海尔集团13个门类、600多个规格
品种的产品质量大厦,让产品站在了高新技术开发与应用的肩膀上。
二. 以无形盘有形,专吃“休克鱼”海尔盘活企业有三招:一是投入资金,全盘改造;二是投入资金,输入管理,扩大规模,提高水平;三是以无形资产盘活有形资产,以海尔名牌及海尔的OEC
管理模式转变观念、转变机制,实现精神变物质。这第三招是一个奇招。
在兼并原青岛红星电器公司时,海尔首先派企业文化、资产管理、规划发展、资金调度和咨询认证五大中心的人员开赴红星,开始贯彻和实施“企业文化”先行的战略。随后,张瑞敏总裁亲自到红星解释“80/20”管理抽,灌输“关键的少数决
定非关键多数”这个“人和责任”的理念。进而,他们从分析企业亏损引伸出OEC管
理方式,简称:日事日毕,日清日高,即今天的工作必须今天完成,今天完成的事情必须比昨天有质的提高,明天的目标必须比今天更高一点。员工每人都有一
张“三E卡”,每天按要求填写,收入以这张卡为依据。全新的海尔观念,使原红
星员工受到强烈震憾。集团还组织员工参观海尔冰箱公司,使他们亲眼目睹了海
尔科学有序的管理现场,领略到其精髓“责任到人”的涵义。还地原来红星厂那些
人,还是那些设备,海尔也没注入资金,只是派来几位领导,红星厂在被兼并后
三个月开始扭亏为盈。
三. 国际星级量条龙服务海尔集团于1996年向裕推出“国际星级一条龙服务”。其核心内容是从产品的设计、制造到购买,以上门设计服务到上门安装,从产品使用到回访服务,不断
满足用户新的要求,并通过具体措施使开发、制造、售前、售中、售后、回访个
环节的服务制度化、规范化。这种“国际星级服务”细致到上门服务时先套上一副
脚套,干活时先在地上铺一块垫布,以免弄脏地面,服务完毕后,再用不着抹布
把电器擦干净。由于海尔在提供“化用户烦恼为零”的星级服务方面达到国际先进
水平,1996年海尔集团通过“不满意率为零”,获得了美国优质服务科学协会颁发的五星钻石奖。
四.“三分天下”两分在外张瑞敏从宏观角度,把世界经济格局分为十大经济协作区,由此确定“三分天
下”的市场全球化战略布局,即国内市场销售1/3,海外市场销售8/3,境外建厂
辐射1/3。这里的1/3不是指销售量,而是三种不同的经营方式。
在出口及市场国际化方面,海尔一反常规先在发达国家创出名牌,将自己置
身于与强手的竞争中,获得迅猛的发展,再占领发展中国家。目前海尔已分别在北美、欧共体、中东等重点市场发展了30多家海尔专营点、5500多个经营点,并通过这些专营商使海尔在国际市场上的市场份额及声誉不断提高,取得良好的市场效果。同时,海尔以设备与技术作为投资在印尼建立起拥有51%股份的合资厂,这将对海尔产品打入印尼及马来西亚等东南亚周边国家起到很好的促进作用。
海尔的成功经历,让我知道必须提高自己,努力学习成功经验,不断地提升
自己,现在有差距不要紧,要的就是有那种不甘的决心和毅力,那样才会离自己成功的巅峰才不会太远。我们要相信自己的实力,时刻对自己说别人能做到的自己也一样能够做到,有不甘落后的劲,时刻奋斗着。
参考文献:
[1] 海尔企业文化中心编 《海尔品牌之路》 青岛出版社 出版时间2005
[2] 泰志华著《CEO—首席执行官》 中国人民大学出版社出版时间2004
[3] 孙健著 《海尔的管理模式》 企业管理出版社 出版时间2002
第五篇:论王老吉的成功之道
论王老吉的成功之道
摘 要:随着现代经济社会的发展,许多具有悠久的历史、丰富的文化内涵,巨大的无形价值和天然的品牌优势的老字号却面临经营困难甚至破产的巨大挑战。本文运用SWOT分析法研究了王老吉的优势与劣势、机会与威胁,从营销方面探讨了它在品牌建设方面的一些成功经验,希望能对老字号品牌的推广有所助益。
关键词:老字号,王老吉,SWOT分析
一、王老吉的基本介绍
凉茶是广东、广西地区的一种由中草药熬制,具有清热去湿等功效的“药茶”。在众多老字号凉茶中,又以王老吉最为著名。王老吉凉茶发明于清道光年间,至今已有184年,被公认为凉茶始祖,有“药茶王”之称。到了近代,王老吉凉茶更随着华人的足迹遍及世界各地。1984年解放后,成立王老吉联合制药厂,2004年3月4日更名为广州王老吉药业股份有限公司。王老吉这个老字号,在“中华老字号名牌价值百强榜”中排行第五,品牌价值22.44亿无人民币。
王老吉药业拥有先进的厂房设备,管理规范、获得国家药检局颁发的GMP证书。主要产品有王老吉系列、保济丸、保济口服液、小儿七星茶、清热暗疮片、克感利咽口服液、痰咳净、藿胆丸等,其中王老吉清凉茶、王老吉广东凉茶颗粒、保济丸、痰咳净等都被评为“广东省、广州市名牌产品”和“中国中药名牌产品” „„
王老吉药业拥有先进的厂房设备,管理规范、获得国家药检局颁发的GMP证书。主要产品有王老吉系列、保济丸、保济口服液、小儿七星茶、清热暗疮片、克感利咽口服液、痰咳净、藿胆丸等,其中王老吉清凉茶、王老吉广东凉茶颗粒、保济丸、痰咳净等都被评为“广东省、广州市名牌产品”和“中国中药名牌产品” „„
二、王老吉SWOT分析
2003年,来自广东的红色罐装王老吉,突然成为央视广告的座上常客,销售一片红火。2003年,年销量激增到6亿元,2007年猛增到50亿元。然而在这之前,王老吉饮料的销售业绩连续六七年都处于不温不火的状态之中。现进行如下分析:
(一)优势(Strengths)1.品牌历史悠久,产品质量可靠
在众多老字号凉茶中,以王老吉最为著名。王老吉凉茶发明于清道光年间,迄今已有175年,被公认为凉茶始祖,有“药茶王”之称。到了近代,王老吉凉茶更随着华人的足迹遍及世界各地。王老吉凉茶这样的百年老字号产品在质量和信誉度上无可厚非,在消费者挑剔的眼光下和时间的考验里能顽强地生存到今天的产品当然是值得信赖的。
2.精准的市场定位,成功占领细分市场
王老吉在市场洞察方面可谓下了苦功,在定位上摆脱了“凉茶”概念的纠缠,跳入海量的“饮料”市场中竞争,并在海量的“饮料”市场中区隔出一个新品类——“预防上火的饮料”!“怕上火,喝王老吉”成为核心诉求,把凉茶的功能删繁就简归纳为“预防上火”,使其通俗化和时尚化。同样的产品,同样的功能,同样的包装,仅仅因为“概念”不同,不仅破解了“凉茶”概念的地域困局,更开创了一个“凉茶”的蓝海。
3.直接竞争者尚不构成威胁,已形成竞争壁垒
作为国家级非物质文化遗产的“王老吉”凉茶,目前是国内凉茶的第一品牌,在凉茶市场上还没有形成能够与王老吉凉茶相抗衡的第二品牌。
在研究消费者对竞争对手的看法中,发现凉茶饮料的直接竞争对手,如菊花茶、清凉茶等由于缺乏品牌推广,仅仅是低价渗透市场,并未占据“预防上火”的饮料的定位。而可乐、茶饮料、果汁饮料、水等明显不具备“预防上火”的功能,仅仅是间接的竞争者。
(二)劣势(Weakness)1.消费者对王老吉产品认知混乱
作为“清热解毒去暑湿”的中草药饮料,“凉茶”这一概念是典型性的地域概念,除了两广,其他地区的消费者对于“凉茶”这一概念几乎一无所知,在上火的时候也从没有想到喝凉茶,都是通过牛黄解毒片之类的清热解毒类药品来解决问题,这成了王老吉打入广东市场难以逾越的障碍。
2.产品线单一,产品线拓展受限
王老吉产品线单一,只有红色罐装这一个品项(盒装王老吉属于广州王老吉药业),导致对终端的谈判力相对比较弱。由于“王老吉”的品牌在中国大陆归广州王老吉药业股份有限公司所有,生产罐装王老吉的加多宝集团是一家位于东莞的港资企业,它只是向广州王老吉药业购买了罐装王老吉在大陆的独家生产、经营权,所以在拓展产品线方面比较受限。
(三)机遇(Opportunity)
1.广东饮料市场结构性调整提供的机遇
“十一五”期间,广东着重调整饮料产品结构,降低碳酸饮料的比例。饮料行业生产总量继续提高,重点发展果蔬汁饮料、植物蛋白饮料和茶饮料等产品,适度发展瓶(罐)装饮用矿泉水,逐步降低可乐等碳酸类饮料的发展。因此在利好政策的推动下,未来5年将是软饮料行业框架结构重构时期,功能饮料、果汁饮料、茶饮料等健康饮料将组成框架结构的主体。追求健康价值,是未来中国饮料发展的必然方向。
2.日益细分化的消费群体为红色王老吉开展目标营销提供机会
不同饮料群体有着不同的饮料消费需求,这些差异表现在对口味、品牌、价格、包装、促销和广告风格等一切消费者接触产品及信息的领域,高度细分化的市场为红色王老吉进行市场拓展提供无限空间。
3.消费者需求多元化为饮料新产品开发提供广阔的市场空间
随着社会的进步和生活水平的不断提高,消费者开始更多关注自我发展,主要表现为对饮料产品的营养成分以及是否天然健康、绿色环保和时尚品位等更高层面的心理需求。
(四)威胁(Threats)
最大威胁和挑战主要是来自跨国饮料品牌的鲸吞蚕食和本土饮料品牌之间的同质化竞争。广东其它较有影响力的如邓老凉茶、潘高寿、和记黄埔口炎清、黄振龙、春和堂、宝庆堂等纷纷整装出击,凉茶品牌团队也初步形成。这些比王老吉起步晚的企业对区域市场的觊觎是可见一斑。因此,凉茶的局部市场有可能被它们蚕食。这些源自广东的凉茶品牌几乎都在效仿王老吉的成功模式,它们基本都以罐装的形式,以防上火或者滋补为诉求,同质化竞争已经很严重。此外,同质化竞争态势不仅表现在产品的同质化,也表现为广告塑造品牌形象的同质化,从而将不利于红色王老吉品牌个性的形成和实现市场的区隔
SWOT分析法制定计划的基本思路是:发挥优势因素,克服弱点因素,利用机会因素,化解威胁因素;考虑过去,立足当前,着眼未来。王老吉老字号要扭转内外不利因素给自身发展带来的限制,就需在变化了的市场营销环境中,捕捉机会,扬长避短,实施创新的营销战略。而要建立一个品牌,首要任务就是品牌的定位,它是一个品牌能否长久生存和腾飞的基石。王老吉到底是什么,不解决这个问题,就等于没有找到目标消费群,就打不开全国市场。企业迫切意识到要打开全国市场,就必须给王老吉凉茶这个产品重新进行品牌定位。
三、王老吉进行品牌再定位
(一)品牌定位的含义和作用
品牌定位是指企业在市场定位和产品定位的基础上,对特定的品牌在文化取向及个性差异上的商业性决策,它是建立一个与目标市场有关的品牌形象的过程和结果。向消费者承诺一个产品的功效更能突出品牌的个性,获得成功的定位。
王老吉不温不火的最根本的原因不在于市场推广,而在于品牌定位。王老吉虽然经营多年,但其品牌缺乏一个清晰明确的定位。由于产品定位诉求一直模糊不清,品牌外延没有得到有效扩张和提升。
(二)王老吉定位创新
原本凉茶是广东的一种地方性药饮产品,用来清热解毒祛暑湿。在两广以外,人们并没有凉茶的概念。而且在广东省,凉茶业内竞争也相当激烈,凉茶品牌黄振龙,阿贞等也占据了一部分市场。由此看来,如果把红色王老吉作为凉茶卖,显然这个市场容量不令人满意。
为了摆脱这种尴尬的境地,就必须对产品进行重新定位。他们在调研中发现,多数人认为凉茶给予消费者的心理暗示是:适合各种人群,何时饮用都可以清热、去火。这些观念在消费者头脑中根深蒂固。这些消费者的认知和购买消费行为均表明,消费者对红色王老吉并无治疗要求,而是作为一个功能饮料购买,购买红色王老吉真实动机是用于预防上火。红色王老吉的直接竞争对手,如菊花茶、清凉茶等由于缺乏品牌推广,仅仅是低价渗透市场,并未占据预防上火的饮料的定位。而碳酸饮料、果汁、水等等明显不具备预防上火的功能,是间接的竞争者。
至此,问题迎刃而解。首先明确红色王老吉是在饮料行业中竞争,其竞争对手应是其他饮料;品牌定位--预防上火的饮料,其独特的价值在于——喝红色王老吉能预防上火,让消费者可以尽情享受生活。红色王老吉顺应现有消费者的认知而且没有与之冲突。作为一个功能性饮料,购买红色王老吉真实动机是用于 “预防上火”。品牌定位的准确与新颖使产品曾相互矛盾的双重身份得到完全有机的结合,使产品和竞争者能有效地区分开来。
四、配合品牌再定位所采取的措施
为了保障凉茶王老吉作为预防上火的饮料成功销售,企业在广告宣传、渠道、促销等方面也下足了工夫。
(一)广告宣传
一则好的广告,能起到诱导消费者的兴趣和感情,引起消费者购买该商品的欲望,直至促进消费者的购买行动。王老吉原来的广告语“健康永恒,永远相伴”其实是一个较模糊的概念,企业无法回答王老吉是什么,消费者更无法回答。企业赋予王老吉的品牌再定位是“预防上火的饮料”,因此在广告宣传中尽量凸现红色王老吉作为饮料的性质。一句“怕上火,喝王老吉”广告语,一针见血地抓住了消费者的潜在需求,从而使以前不温不火的凉茶饮料开始迅速走红。
大规模的广告是企业的一项重要竞争策略。王老吉的广告对市场可谓是狂轰乱炸,为了开拓全国市场,红色王老吉的电视媒体选择从一开始就主要锁定覆盖全国的中央电视台,并结合原有销售区域的强势地方媒体,在2003年,利用非典这个特殊时期,投入巨资进行宣传。这种投放方式保证了红色王老吉在短期内迅速进入人们的头脑,给人们一个深刻的印象,并迅速红遍了全国大江南北。另外,随处可见的商店、公交车上贴着大量广告,路边上大屏幕放的是王老吉。2004年8月,电视剧《岭南药侠》开始在中央电视台及一些地方台火热播出。该剧以王老吉创始人为题材,以“隐性广告”的形式有力地提升了王老吉的品牌形象,收到了不凡的宣传效果。
王老吉强大的广告宣传攻势引爆了其销量的井喷,王老吉的销售额以几何倍数直线飙升,一个默默无闻的区域性品牌短短几年里攻城略地、遍地开花,迅速飙红大江南北,成为全国性的主流饮料。
(二)渠道策略
在销售渠道上,王老吉大胆创新,开辟销售渠道的蓝海。传统的饮料产品销售渠道是商场、超市,王老吉在开辟销售渠道时,寻求新的突破口,不仅进入传统的商超等,还进入餐饮店、酒吧、网吧等场所。
在针对中间商的促销活动中,加多宝除了继续巩固传统渠道的“加多宝销售精英俱乐部”外,还充分考虑了如何加强餐饮渠道的开拓与控制,推行“火锅店铺市”与“合作酒店”的计划,选择主要的火锅店、酒楼作为“王老吉诚意合作店”,投入资金与他们共同进行节假日的促销活动。红色王老吉迅速进入餐饮渠道,成为主要推荐饮品,同时加多宝可以根据现场的特点布置多种实用、有效的终端物料。在提升销量的同时,餐饮渠道业已成为广告传播的重要场所。
(三)事件营销
老字号应该确立自己的品牌个性,加大传播力度。王老吉取得大发展此同时,敏锐地意识到过于强调产品功能,很容易被竞争对手模仿(如后期出现的和其正凉茶),只有强化情感诉求和事件营销,才能让消费者有长期稳定的归属感。
“5.12汶川大地震后,加多宝捐赠一亿给灾区帮助灾区人民重建家园,这一患难时刻的真心善举得到了广大网民的一致好评。一夜之间,王老吉凉茶伴随着“要捐就捐一个亿,要喝就喝王老吉”这一网络口号席卷中华大地,王老吉崇高的民族品牌形象迅速在全国饮料消费者心中树立起来。随后几天全国多地出现王老吉断货的情况,可见其团队对当今网络生活中病毒式营销的理解和运用已达到极致。
王老吉通过赞助广州亚运会和配套媒体宣传,增加产品的运动和健康概念。作为广东凉茶的代表,王老吉与亚运的结合可谓水到渠成,这也意味着中国领先饮料品牌与国际顶级赛事的强强联合。王老吉看准了文化理念的认同将带来急剧膨胀的的品牌效应。2009年,王老吉跻身第16届亚运会的高级合作伙伴之列,成为占领亚运制高点的饮料巨头。依托着本土的屏障,王老吉的触角开始迈出国门,伸向世界。在契机与品牌战略重合之下,王老吉已然获得了又一个发展的黄金机会。
五、王老吉成功总结
王老吉的成功,关键在于确定了自己独特且能打动消费者的品牌定位——“预防上火”,体现红色王老吉的独特价值,建立先进的品牌经营理念和规范的运作模式。这一定位具有高度差异性,同时避开了同可乐等国内外饮料巨头的直接碰撞竞争,开辟了自己的生存空间,为王老吉迅速引爆凉茶市场奠定了良好的基础。
参考文献:
1.哈虎,品牌研究院 王老吉的品牌价值【I】 http://infa.china.alibaba.com.2006-08-23
2.菲利普科特勒,市场营销原理【M】机械工业出版社。2006:36-37 3.郭国庆,市场营销学【M】北京:中国人民大学出版社,2004:195-197