播音界泰斗—张颂(5篇范例)

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第一篇:播音界泰斗—张颂

个人简介;张颂,河北易县人,1936年7月27日出生,我国播音界泰斗,创立了中国播音学学科体系,曾任中国传媒大学播音主持艺术学院院长,培养了大批优秀的播音员、主持人和教师。2012年11月10日上午10点22分在北京去世,享年76岁。中国播音学学科体系的创立者,中国传媒大学(原北京广播学院)播音主持艺术学院前任院长,是我国最早的播音主持专业博士生导师,现中国传媒大学播音主持艺术学院的中青年老师基本为其弟子。

人物经历:1936年7月27日生于河北省易县,1959年7月毕业于北京师范大学中文系,分配到中央人民广播电台播音组任播音员,后调入国际生活部做编辑。

1963年8月到北京广播学院新闻系开始播音教学生涯,主讲语言逻辑即播音基础,长期坚持自编教材。1969年到1972年在河南省周口地区淮阳“五七干校”劳动。

1973年广院复校后,担任播音基础教研室主任

1983年评聘为副教授,1984年开始招收硕士研究生,1988年晋升为教授。

1984年,荣获广播电视部先进工作者称号,担任中国传媒大学(原北京广播学院)播音系主任。

1985年10月,随团访问了日本大学艺术部。

1986年作为高级顾问,到美国之音中文部指导播音工作半年。

1991年,荣获全国优秀新闻工作者称号,1992年,获得国家有突出贡献专家的政府特殊津贴。

1994年编写出版了中国播音界第一本理论丛书——《中国播音学》。此书的问世标志着又一个新学科的诞生。打破了从前我国“播音无学”的说法。直至今日,此书仍是攻读播音学科的硕士、博士学位的必读书;

1996年担任中国传媒大学播音主持艺术学院院长,1999年开始担任博士生导师,招收中国播音学方向博士研究生;

2000年担任北京广播学院广播电视研究中心广播电视语言研究所所长;2004年担任中国高教学会播音主持艺术教育委员会会长。

2009年11月,受聘为河北传媒学院客座教授。

2009年12月,被广西师范学院聘为新闻传播学院客座教授。

2012年11月10日,因食道癌晚期医治无效,于北京去世,享年76岁

荣誉事迹

张颂老师1959年7月毕业于北京师范大学中文系分配到中央人民广播电台,因工作需要1963年9月调到北京广播学院参加创建播音专业的工作。在很少有前人成果参照的情况下,以张颂教授为带头人和开拓者的播音理论家、播音教育家们,创建了中国播音学学科理论体系和教育教学体系,在国内外独树一帜。目前,中国播音学学科点已成为我国广播电视播音主持艺术学术研究和高层次人才培养的重要基地。我校中国播音学学科已经能够培养博士、硕士、学士等各种学历层次专业人才,这在国内同类专业院校中是独一无二的。

1985年至2000年曾担任“语音发声”、“语言逻辑”、“播音创作基础”、“中国播音学”等本科和硕士课程,在完成教学任务和系主任、播音学院院长行政工作的同时,指导硕士研究生11人;1999年开始担任博导,2000年至2006年为博士生开设“广播电视语言传播前沿”、“中国播音学”、“播音主持艺术专题研究” 等课程,指导博士生21人,现已经毕业5人。承担、完成并获奖的本科及研究生教学改革项目4项,其中他负责的《播音创作基础理论》课程2004年被评为“北京市精品课程”、2005年评为“国家级精品课程”。

近几年来,完成省部级以上项目4项、出版专著9部、发表论文40余篇,其成果获17个奖项。其中,他的专著《朗读学》获1987年广播电影电视部优秀教材一等奖、1987年北京市首届哲学社会科学和政策研究二等奖、1988年获国家教委全国首届优秀教材奖;《朗读美学》获2003年广电总局科研成果评奖著作类一等奖;《中国播音学》获1995年广播电影电视部优秀教材一等奖、1996年北京市第四届哲学社会科学优秀成果二等奖(语言文学类)、1998年教育部普通高等学校第二届人文社会科学研究成果语言学三等奖。

1984年被评为广播电视部先进工作者;1991年被评为全国优秀新闻工作者;1992年国务院授予“有突出贡献专家”称号,开始享受政府特殊津贴;2005年评为《播音创作基础》国家级精品课程负责人。

43年来,除完成专业教学、理论研究、行政管理等工作之外,他把自己的绝大部分时间和精力都用在了青年教师的培养上,带出了一支中青年教师队伍。现在播音系三代教师都曾得到过他的指导。从1999年开始到现在他带的21名博士生中有3/4都是业界名人和我校播音系教师。

播音专业教学有其特殊性,作为专业教师既要懂理论又要会实践;既能讲大课,又能个别指导;同时由于培养出来的学生今后都是社会公众人物,需要有高尚的品质和人格,又由于师徒相承的教学形式,专业教师对学生的思想作风的影响是非常直接非常巨大而且又是非常具体的。因此,他针对这些特点对青年教师既严格要求,又热情鼓励;既在理论上教,又在实践上帮;既在思想上提要求,又在方法上给与悉心指导,同时,又大胆使用,创造条件让他们多实践,在教学的实践中增长才干。

近些年来,青年教师增多,他在系里支持下,采取了举办青年教师讲习班的方式,为每年新留校任教的青年教师讲专业理论、讲教学法,亲自手把手地带他们进行播音主持实践,收到了很好的效果。

2002年,播音主持艺术学院在学校率先成立了有几位老教师组成的教学督导组,当他从学院领导手中接过沉

甸甸的“教学督导”聘书时,深感肩负责任的重大。尽管平时教学科研任务已经很重,但他还是依然乐于承担这一责任,抽出时间听课、评课,帮助青年教师提高教学质量,使他们尽快成长。在老教师的带领下,青年教师们已经逐渐成熟,并开始担负主讲教师的重任。播音系现已形成了一支知识结构和年龄结构比较合理的师资队伍,数年来有的青年教师已经晋升为副教授、教授,有的已经获得博士学位,有的已经走上了领导岗位,现在他们大都成为本学科的学术带头人和学术骨干。

2004年,在中国传媒大学筹建了中国高教学会播音与主持艺术教育专业委员会,他作为首任会长,倡议开办了全国高校播音主持专业师资高级讲习班并亲自授课,为全国各高校培训青年教师70余人。

除了教学之外,他还注重青年教师科研能力、理论学术水平的提高,在他这些年所承担与主持的多项国家、部、校级科研项目中,都吸收青年教师参加,如《中国播音学》(教育部“七五”项目),《广播电视语言艺术》(国家社科基金项目),《播音创作基础》(国家级精品课)等,都有青年教师参加研究。在科研实践中,使他们尽快成长起来。

回想专业教育创办之初,专业师资只有几个人,每年招生二三十人,本专业的招生院校只有北京广播学院一所,到今天,仅中国传媒大学专业师资就有50多人,在校生1000余人。全国招收播音主持专业的院校有近180所,年招生近二万人。他作为播音专业学科和中国播音学理论的创建者、专业教育发展过程的亲历者之一,看到播音专业——这一世界上独一无二的特色专业从小到大、从弱到强的巨大发展变化,看到我们的事业后继有人,张颂老师感到无比的激动和无限的欣慰!

尽管他已年届古稀,但他仍愿“俯首甘为孺子牛”,“不待扬鞭自奋蹄”,继续发扬“红烛”精神,甘为人梯,为党和人民的播音主持教育事业贡献着全部力量!名言寄语

甘于寂寞,志存高远;做名人先做能人;在理论研究和实践探索中,要“乐于在场,勇于出席,善于发言”;“盛名之下其实难副”,鲜花和掌声中隐藏着危机;“仁者无敌”;“海纳百川,有容乃大”,要继承优良传统,汲取域外精华,虚心博采众长,真诚服务人民;才能和机遇是人生的两翼,要只争朝夕地储备才能,一旦机遇到来,就可以脱颖而出;要深化文化底蕴,强化语言功力,在广播电视中,传播老百姓喜闻乐见的、有中国作风和中国气派的精品。

河北传媒学院讲座

“教不严,师之惰”,人民教师是“红烛”,应该“春蚕到死丝不断,蜡炬成灰热犹存”。播音员主持人的创造性,能够催生有声语言表达的“典范”,传承“书同文”,成就“语同音”,让我们的国家通用语言文字,响彻寰宇,光耀千秋。

在湖南卫视天天向上的节目中指出,当代年轻人说普通话有一个通病,就是“男声女气,女声嗲气。”

理解是基础,目的是统帅,感受是关键,感情要运动,声音要变化,变化要自如。

无稿播音,出口成章;有稿播音,锦上添花。

人性的核心是创新和审美。

育人心得

接受师范教育,从事教学工作,是我自觉的选择,无怨无悔,乐在其中。无论是风雨如磐,还是艳阳高照,我

张颂

都以能够“为人师表”而自豪,以投入“灵魂工程”而自律。尤其是培养广播电视语言传播人才,培养播音员、节目主持人,更使我感到责任重大,任务艰巨。我们培养的是公众形象,是广播电视中“出头露面”的名人,我们的心血会融入他们的声音和形象里。因此,我一直坚持“播音有学”的观点,一直坚持“德才兼备,声形俱佳”“以播为主,一专多能”和“有稿播音锦上添花,无稿播音出口成章”的专业培养方针,一直坚持理论与实践相结合、大课与小组课相结合、课堂讲授与大运动量训练相结合的专业培养方法。其中,特别强调语言功力,即观察力、理解力、思辩力、感受力、表现力、鉴赏力、调检力、回馈力。本科生是高校的基础和重心,必须在本科阶段,使学生扩大视野、夯实根基、扬长补短、业精于勤,在学校里,就应努力加强事业心和责任感,养成如饥似渴的学习习惯,提高在话筒前、镜头前“体现时代精神,充满人文关怀”的自觉性。凡是走这条路的,毕业后大都事业有成,许多人已经成为业界名人,如李瑞英、罗京、张政、王世林、王雪纯、周涛、鲁健等。为此,教师也应该力求进取,有所作为,“身先士卒”,率先垂范,实现“教学相长、继往开来”的理念。

逝世

中国播音界泰斗级人物张颂,因食道癌晚期医治无效,2012年11月10日上午10点22分在北京去世,享年76岁。[6]作为中国传媒大学播音主持艺术学院前任院长,张颂[3]生前桃李满天下,哈文等众多传媒界人士都发表悼念,亦有网友回忆他的生平事迹。此外张颂曾参加的《天天向上》节目也表达哀悼。“中国播音主持网”微博透露:“中国播音界泰斗级人物张颂老师,因食道癌晚期医治无效,11月10日在北京去世,享年76岁。”张颂是中国播音学学科体系的创立者,作为中国传媒大学(原北京广播学院)播音主持艺术学院前任院长,他是我国最早的播音主持专业博士生导师,现中国传媒大学播音主持艺术学院的中青年老师基本是他的弟子。

第二篇:【翻译经验】译界泰斗谈如何成为“同传”(日语)

【翻译经验】译界泰斗谈如何成为“同传”

本文作者介绍:

林国本,男,中国日语翻译界权威级人物,原为在日华侨第二代,新中国建国后回到祖国,归国后曾经在国家体委工作,1963年8月起一直在《北京周报》任职,在中译日的岗位上实践了30多年,其在职期间,曾经为周恩来等数位和国家领导人担任过翻译。并且连续25年应邀参加了全国人大及党代会翻译工作,党和国家领导人的许多重要讲稿均是由他翻译完成,至1995年退休后仍担任中国网和《北京周报》日文网改稿专家至今。

今中国の若者の間では、いくつかの職業がたいへん人気となっている。さまざまな切り口によって、いろいろな分類の仕方があり、一概には言えないが、テレビのキャスター、国際会議の同時通訳者、ファッションモデル、弁護士、公認会計士などがよく若者の間で話題となっており、これらの職業につくことを目標としている人もかなりいる。大学などで若者たちと対話する機会があると、いつも若者たちに囲まれて、「同時通訳者」になるには、どうすればよいのか、と質問される。

私は特異なケースで、「同時通訳」は私にとっては余技のひとつで、私の本来の目標はジャーナリストか翻訳家になることであった。ところが、ある日、私の親友、畏友に自分の所属する新聞社と日本の新聞社が国際会議をひらくことになったので、一肌脱いで当時通訳を手伝ってくれと言われ、この親友、畏友にはノーといえないそれまでの経緯があったので、引き受けることにした。なんとそれがまぐれ当たりで、いっぺんに人気者となり、それ以後、余技のひとつとして楽しんできたが、本腰をいれたことはなかった。また、親切な人が、「そこまでできるのなら、それまで勤めていたマスコミ機構をやめてフリーランサーになった方が稼ぎが多いのでは」、といってくれたが、私はあくまでもジャーナリズムの世界に踏みとどまることにした。そして余技の同時通訳で知識の幅を広げ、それをジャーナリズムの世界に生かすことにしてきた。

しかし、フリーランサーになって猛烈に頑張っている人も何人かいる。人生いろいろで、人にはそれぞれ生き方がある。これまた楽しからずやであろう。

この世界で一応認められるには、結局、外国語と自国語を徹底的にマスターし、それは瞬時に置き換えるコツを身に着けることであろう。日本語をベースとする同時通訳の世界を見ると、中国では、レギュラーとして十人ぐらいいるようで、それぞれ自分に適したコツやスタイルを身に着けている。フリーランサーの場合、仕事が途切れないように逐語訳などの仕事も引き受けて、「旅がらす」のように各地を飛び回っているようだが、健康に気をつけることも大切である。私はうわべは元気はつらつとしているが、幼少の頃からそれほど丈夫な体質ではなかったので、セーフティーネットを構築して、なるべく末永くジャーナリズムの世界で人生を楽しむことにしてきた。だから、同時通訳はこれまでの国際ジャーナリズムの世界での蓄積を実証する場としてきた。そして、「旅がらす」のような生活は自分には不向きなので、自宅をベースとした人生を目指してきた。フリーランサーとして同時通訳の世界で頑張っている人たちは、日本人好みの表現を使えば、「一匹オオカミ」の世界で頑張っている人たちである。この人たちはそういう意味で、私より真剣に自分の人生に立ち向かっているといえる。

だいたい、ジャーナリズムの世界でも、同時通訳の世界でも、ずば抜けたレベルに達するには、持続的な努力あるのみだと思う。常識のような話になって恐縮であるが、日本語、母国語においては普通のレベルではやっていけない。

そして、日本という国の特色から、外来語とそのベースである英語、さらにはフランス語、ドイツ語などをいくらかかじっておくと便利なこともたしかだ。そして、政治、経済、文化などもろもろの勉強も必要だ。若い人の間では、日、英、中三カ国の同時通訳をこなす人も現れているが、これは喜ぶべきことだ。時代の進歩ともいえよう。「二兎を追うものは一兎をも得ず」といわれてきたが、堂々と二兎を追っているのだからたいしたものだ。ヨーロッパなどでは、子供の頃から自然に三カ国語以上身につけるケースもあるが、中国の場合、子供の頃から国際学校みたいなところに入れてもらう以外そういう機会はない。

中国の国際的地位の向上により、同時通訳のニーズも増えてくることだろう。これからの若者たちにとっては、まさにチャンス到来である。いろいろの人材が現れてくるにちがいない。

しかし、私はあくまでも、流行を追うのではなく、基礎となることをしっかり勉強しておいた方がよいと思う。そして、日本人がよく言うように、「つぶしのきく」スタイルを構築することが必要であろう。今度の国際金融危機が一つの教訓である。

かっこいい同時通訳者に憧れるのはよいが、肝心な基礎としての勉強を怠らなければ、適応力も身につくし、スムーズに自分の夢を実現することも可能となるのではないだろうか。

【翻译经验】成为“同传”的秘诀是什么?

友人の特別のはからいで全国の外大や、大学の外国学院の本科生、院生たちとの対話の機会に恵まれたときに、院生たちから「同時通訳」の秘訣を教えてくださいませんか、という発言があった。

私はいつも考えているのだが、だいたいのクリエイティブな仕事とか、「職人芸」的な仕事は、長年の模索を経て、自分の感性にもっとも適したスタイルとか、パターンとかいうものを作り上げるものであり、本人としても、感覚的につかんでいるもので、マニュアルのようなものはありえない、と思っている。今、レギュラーとして、「同時通訳」の分野で活躍している十人ぐらいの人も、十人十色で、それぞれ自分のスタイルを作り上げている。なかでも、フリーの通訳として、生活がかかっている人たちは、私より真剣に取り組んでいるようであるので、今の若者たちはそういう人たちの「芸を盗む」ことを通じて自分なりのものをつくりあげていく方が現実的ではないかと思っている。「芸を盗む」という表現は適切でないかもしれないが、つまり、私が言いたいのは、秘訣とかコツとかいうものは、言葉ではとうてい説明しきれないものだからである。

私の場合は、長年、ジャーナリズムの世界に身を置いて、「同時通訳」に必要とされるようなコンテンツを仕事のなかで、自然に頭に叩き込んできたので、宇宙飛行とかバイオテクノロジーとか、よっぽど日常生活からかけ離れたもののほかは、ほとんど毎日仕事の中で触れてきたこととも言え、それをいかに「同時通訳」という舞台で応用していくかという単純な組み換え作業が主だった。会社にはいろいろなデータも蓄積されており、チョモランマ登山にたとえれば前進キャンプからすぐ頂上めざしてアタックできる状態にあった訳だ。フリーの通訳はその点、かなりのものを自力で構築していかなければならないので、ベースキャンプからの作業になりかねないわけである。

私は、たえずいつでもジャーナリズムの世界に戻るという及び腰で、余技として「同時通訳」をこなしてきたので、フリーの通訳に比べると、真剣味が足りなかったことも否めない。しかし、ジャーナリズムの世界も、真剣さが求められるものであり、それには私は真剣に取り組んできた、と胸を張っていえる。

私が若者たちに贈りたい言葉は次ぎのようなものである。

基礎となる勉強と、それと関連のある学習を徹底的に行なうことである。魯迅がかつて言ったように、他の者がコーヒーを飲んでいるときにも、寸暇を惜しんで勉強することである。私はある著名なギタリストの言葉を銘記している。「一応曲が弾けるようになるには十年かかり、みんなの前で演奏できるようになるにはさらに十年、そしてCDを出したり、大ホールでの公演の声がかかるようになるにはさらに十年かかる」。私は幼少の頃に両親にギターを買ってもらって、「ポロン、ポロン」とひいていたが、結局、途中で投げ出してしまった。つまり、私にはギタリストになる才能はなかったのだ。語学とか、文章力をつけるための勉強は、生涯をかけての持続的努力が不可欠であり、あくまで食らいついて投げ出さない決意がかかせない。しかし、「同時通訳者」になるのに、30年はかからない。そんなにかかれば若者は定年間近になってしまう。しかし、大勢のパネリスト、学者の集まる会合で、テキパキと仕事をこなしていくには、それなりの覚悟と勉強が不可欠である。

余談になるが、東京銀座の酒場のバーテンダーになり、お客様に喜ばれるカクテルがつくれるようになるにも10年の修行が必要ということを、ある文庫本で読んだことがある。つまり、何事もそれなりの苦労が必要だということである。

20代の若者は、仕事と家事、育児で、40代半ばまではたいへんであろう。よっぽど経済的に豊かな家庭に育たないかぎり、苦労は避けられないはずである。また、公務員や外資系の職員でありながら、副業の「同時通訳」をこっそりするというような甘い考えは世間で通用しない。職を失うに決まっている。フリーになれば自己責任で、高齢期への備えとしてのセーフティーネットをつくりあげなければならない。真剣味という表現はそういうもろもろのことを適切に処理していくことも含まれるのである。

外国語と母国語のみにしぼって考えても、少なくとも、普通の市民をはるかに、はるかに上回る知識がなければ務まらない世界である。普通のレベルでは競争からふるい落とされるだけである。

秘訣というものがあるとすれば、他のものよりはるかにすぐれたシステムを30代以前に作り上げられるか、ということの中にその答えがあるはずである。以上、あくまでも一ジャーナリストとしての私見にすぎないが、チョモランマ峰にもいろいろな登攀ルート、登り方があるように、若者たちが自分なりのユニークなノウハウを見つけることを願っている。

第三篇:赤热的青春颂 张学可

赤热的青春颂

周庄初中

八(2)班

张学可

激情演奏,唱响嘹亮东方的青春序曲,日月同辉,擦出青出于蓝的精神火花,他不是将军,却立了无数功勋;

他不是文豪,却写下不朽诗文;

他如此平凡,如此年青,象一滴小小的春雨,却渗透亿万人的心!

我想接下来大家应该知道我要赞美的这个人是谁,没错,他就是那逝去的却又永远活在人民心中的——雷锋。

学雷锋重在学习他身上的“螺丝钉”精神,一个美国商人如此说道:雷锋精神是人类应该有的,应把雷锋精神弘扬到全世界。要学习雷锋对待事业的态度,学习雷锋刻苦学习的钉子精神,学习雷锋关心人、爱护人、支持人、理解人的高尚品质。

一个日本企业家这样感叹:“雷锋仅20多岁就做了那么多的好事,成为伟大的英雄,对人类是有贡献的。学雷锋无国界之分,把雷锋精神引进我们公司,运用到生产实践中去,会改变员工的精神面貌,产生巨大的效果。” 西方人和我们一样,给予雷锋最高的表彰:“雷锋精神与上帝共存。”五十多年了,雷锋的名字曾经是激励我们几代人成长的路标,现如今古老而年轻的中国正在蓬勃的发展,然而,雷锋的名字却随着我们生活的美好而渐渐远离了我们。有人置疑,有人嘲笑,有人批判,然而,无论我们经历多少变化和困惑,他的名字应该永远刻在我们的心头,他的精神应该是我们工作和生活中永远的指南。因为,一个人要获得成功与幸福,不能缺少雷锋精神,一个公司要想成功,不能缺少雷锋式的好员工。无论是“马路孝子”刘普林,“麻袋哥”陈晟,“信义兄弟”孙东林、孙水林,烈火中唤醒15条人命的女孩“夏娟”,还是“草鞋书记”杨善洲等。都是当代的雷锋,都是我们行动的标杆。

有时我在想一个没有英雄的民族,是一个悲哀的民族;然而一个有英雄却不知尊重、不知珍惜的民族,则是一个可怜的民族。雷锋是我们这片古老的土地上孕育的一位平民英雄。雷锋从来不会离开我们,而我们却曾经几度远离了雷锋。是的,几十年来,我们的生活发生了翻天覆地的变化,我们再也不要穿带补丁的衣服了,再也不要忍受饥饿了,再也不要像雷锋那样经历那么多苦难了。但是,我们不应该忘记他。任何时候,他还应该是我们的榜样,任何时候我们都需要雷锋精神。我们应该理解他、尊敬他。无论我们的生活多么丰富多彩,我们永远也不能缺乏雷锋身上那种对他人和世界的关怀与爱。

是谁点燃这熊熊烈火?是谁唱响这流芳之歌?又是谁甘愿作螺丝钉用有限的生命去创造无限的价值?他就是雷锋,注定要以短暂的美丽渲染自己的英气,怀着一颗赤热的红心,把生命定格为大亮山上永恒的春天,一辈子天高地阔的豪情化为“捧着一颗心来,不带半根草去”的永恒誓言。

总有一种感动曾让你我暗自流泪,总有一种风格让你我默默追崇,总有一种精神,潜移默化地影响着你我的行动„ 青春是火热的,朴实无华却不失美丽,22岁是短暂的,但足以让他的光辉载入史册。

评语:本文命题贴切,立意新颖,开头借一首赞美小诗直抒心意,感情真挚,主题鲜明突出,文句优美,辞藻无刻意雕琢痕迹,文中引用恰当,行文流畅,意境深邃,是一篇情感非常丰富饱满的文章。

辅导老师: 蔡汉忠

TEL:*** 地址:五河县周庄初中

邮编:233333

第四篇:张颂《朗读学》具体感受和朗读的作用

北京传媒大学张颂《朗读学》具体感受和朗读的作用

具体感受

第一节:形象感受

朗读者对文字作品的分析、理解,必须伴随着感受。朗读者对作品的感受首先取决于作品文字语言的形象性。干瘪枯燥的文字语言,对于具有很强感受能力的朗读者也构不成丰富的形象,引不起具体的感受。这种情况,用得着一句古话“巧妇难为无米之炊”。

文字语言,特别是实词所具有的形象性,是表达思想感情、给人以感染的明显因素。没有形象性,就没有叙述和描写,也就没有什么文学性、艺术性可谈了。形象性更深刻的含义当然远不止于此,不过这不是我们的探讨范围。我们所说的形象性,必须以作品为依据,从已有的文字语言中去挖掘。

王摩洁的“诗中有画,画中有诗”,表明了文字语言与绘画艺术的相遇。杜甫<观公孙大娘弟子舞剑器行>中“爆如界射九日落,矫如群帝骖龙翔,来如雷霆收震怒,罢如江海凝青光”,表明了文字语言与舞蹈艺术的相通,白居易<琵琶行>中,“大弦嘈嘈如急雨,小弦切切如私语。嘈嘈切切如杂弹,大珠小珠落玉盘”,表明了文字语言与音乐艺术的相通。文字语言总是千方百计地去描绘、刻画变化多端、气象万千的客观世界和主观世界的。就是像“制造工具”这比较抽象化的概念,也会产生一定的形象性。从鲁班发明锯,到瓦特发明蒸气机,从石箭、石刀到导弹、飞船,都会为这个概念补充形象化的内涵和外延;更不用说“关关雎鸠”、“采采苤苡”和“云破月来花弄影”、“踏花归去马蹄香”了。文字语言对朗读者的可贵之处,在于它造就了客观事物的整体知觉剌激,反映事物个别属性的感觉已融化在这整体之中了。这就使朗读者在从文字语言中获得感受的时候,完全脱离了认识客观事物的表面的、原始的、蒙昧的、混沌的状态。这要归功于作者的观察、体验、提炼和写作。

朗读者由作品的文字语言中,由其中包含着的形象性中,可以看到、听到、嗅到、尝到、触到文字符号代表的客观世界中的种种事物,也可以知道时间发展、空间移动、事物运动,这是记忆联想和再造想象的过程,我们可以分别给以简单说明。

一、视觉

从作品中的文字语言中“看到”描写、叙述的对象,是一种非直观的视觉想象,或叫内心视象。

〈文镜秘府.地卷.十七势〉中说:“夫臵意作诗,即须凝心,目击其物,便以心击之,深穿其境。”这“凝心,目击其物”,对于朗读者非常重要。只是目击白纸黑字,不能朗读出作品的本意,更不会有高水平的朗读,必须透过文字“目击其物”,才会产生切实的感受。

高尔基也说:“作家的作品要能够相当强烈地打动读者的心胸,只有作家所描写的一切-情景、形象、状貌、性格等等,能历历地浮现在读者眼前,使读者也能够各式各样地去‘想象‘它们,而以读者自己的经验、印象及知识积蓄去补充和增补……。”朗读者首先是作品的读者,他必须把作品中的描写浮现在眼前,并用自己的积蓄去补足,而后朗读出来,才有可能相当强烈地打动听者。

这历历浮现在眼前,正是我们所说的视觉想象,也是刘勰所谓“视通万里”的意思。

“今天清早,雪停丁,天也晴了。一轮红日升起来,把雪后的大地照得分外耀眼。茫茫田野一片雪白,巍巍群山遍身银装。” 看这一段文字,引起我们对作品描写的对象进行不同侧面的“审视”。这画面是以静为主的,静中有动的。就像截取一个镜头,让客体定住不动,容我们把它一样一样地看个仔细,并清晰具体地感受到它。凡是作品中的肖像、环境、景物等描写,都要用“审视”引起感受。虽然“审视”的时间、感受的深浅各人不同,可是这在视觉想象中是比较简单和容易的。山很陡,鲁班抓住树根和杂草,一步一步往上爬。他的手指忽然被一根小草划破了,流出血来。一根小草怎么会这样厉害?鲁班仔细一看,发现小草的叶子边上有许多小齿。他试了试,在手指上一拉就是一道口子。这可把他提醒了。他怒,如果照小草的叶子那样,用铁打一把有齿的工具,在树上来回拉,不是比用斧子砍强多了吗?他马上回去打了一把,拿到山上去试,果然比斧子又快又省力。“ 鲁班的动作是连贯的,可以简化为”抓-爬-破-看-试-想-打-拿“这种文字叙述,使朗读者”看“到连续的画面,当然是浮现在脑海里的。我们的视觉想象跟得上,人物行为敏捷时,要及时看清,人物行为停止时,也要看到”想“的表情。这是一种”扫视“,以动为主,动中有静。凡是作品中有连续行为、发展情节等的叙述、描写,我们必须用”扫视“的视觉想象尾追不放,纵观全貌。

眼睛是心灵的窗户,是指通过眼神能看到内心世界。事实上,内心世界的变化由视觉诱发,对朗读者来说更重要。由视觉想象开启的生活图景在脑海中的再现,有时会比作品的文字语言打开的天地更开阔、包容量更大。因为缺少布景、道具、人物交往等舞台气氛,朗读者的视觉想象就比演员的内心视象更难于捕捉,也更难于把握。

二、听觉

从文字作品的描写、叙述中”听到“某些声音,属于听觉想象,由此而能使朗读者获得听觉感受。

当我们看文字语言的时候,字的音会给我们造成有声语言的感觉,一方面,发音器官会有微弱的活动,另一方面,又似乎可以听到这个字的声音。这是心理学中的问题,不是我们所说的听觉想象、听觉感受。既然不是真实的什么声音刺激了我们的听觉器官,而是文字语言所描述的声音,这显然也是第二信号系统的间接刺激造成的。歌唱演员看到乐谱不由自主地听到了曲调,乐队指挥翻看乐谱的时候,小提琴、小号、单簧管等各种乐器的特有音色会自然而然地涌流进他的耳际。朗读者在看作品的文字语言的时候,就需要有更多的经历和体验,才能引起听觉想象。这听觉想象并非简单地再现语言的声音变化,而是那字里行间表现的现实生活的复合音响,犹如歌曲和乐曲里表现的军队行进、鹏啭蝉鸣、牧童短笛、丰收锣鼓那样,是一种间接的、想象的声音。这正是艺术创作的共同特征。〈晚祷〉是画,不可能有声音,但它可以表现声音。我们看着那虔诚地低着头的农妇,看着那暮色里依稀可辨的教堂,一串悠扬、深沉的钟声就会在脑际回响。从〈琵琶行〉中对弹琵琶的描写,我们不是也可以听到那曲调的抑扬吗? 请看〈红岩〉中这一段文字:

”一阵狂风卷过,寒气阵阵袭来,崛立在签子门边的余新江浑身发冷,禁不住颤抖了一下。屋瓦上响起了哗哗的声音,击打在人的心土。是暴雨?这声音比暴雨更响,更加嘈杂,更加猛烈。‘冰雹!'余新江听见有人悄声喊着。他也侧耳听那屋瓦上的响声,在沉静的寒气里,在劈打屋顶的冰雹急响中,忽然听出一种隆隆的轰鸣。这声音夹杂在冰雹之中,时大时小,余新江渐渐想起,刚才在冰雹之前的狂风呼啸中,似乎也曾听到过这种响声,只是不如现在这样清晰,这样接近,因为他专注地观察敌人,所以未曾引起注意。这隆隆的轰鸣,是风雪中的雷声么?余新江暗自猜想着:在这隆冬季节不该出现雷声啊!难道是敌人在爆破工厂、毁灭山城了么?忽然,余新江冰冷的脸上露出狂喜,他的手心激动得冒出了汗水,他忽然一转身,面对着全室的人,眼里不可抑制地涌出滚烫的泪水:

‘听!炮声,解放军的炮声!'“ 为了表达出余新江的听觉反应,朗读者必须细心体会作品中的具体环境和微妙的心理描写。先是哗哗的声音,在听中判断,不是暴雨,是冰雹。接着听到轰鸣,不是雷声,不是爆炸声,而是炮声。事实上,我们耳畔什么声波也没有,完全是”哗哗“、”击打在人的心上“、”冰苞“、”轰鸣“、”喊着“等词语传递给我们的形象,我们从中感受到了具体的声音。由于种种声音的具体性,我们的感受也不完全一样。就说”雷声“和”炮声“吧,虽然都可以用”隆隆的轰鸣“来形容,但雷声是一种轰隆-隆-隆的响声,炮声是一种轰-隆,轰-隆的响声,在距离远、有冰雹急响的环境中,不太容易分辨。更不用说炮的不同型号有不同的声响,在渣滓洞集中营四周有山,炮声还可以有回音。听觉经验和听觉国限是有很大作用的。在分析理解和具体感受作品的过程中,要充分展开听觉想象,使我们切实感受到具体声音的剌激。

三、嗅觉

作品中关于嗅觉的描写也是经常出现的。这时,我们要用嗅觉想象加以感受。如:

”我望着这个擦得很干净的苹果:它青豆透红,发出诱人的香味。“ ”我推开窗户,一股泥土的清香迎面扑来。“ 气味有多种多样,我们要善于在想象中辨别。都是”香“,也各有差别,更需要细心地加以分辨。”苹果香“和”泥土香“是不同的,但如果没有”泥土的清香“的体验,也就分辨不出二者的不同,那感受也就不易很具体。斯坦尼斯拉夫斯基在哥尔多尼的剧本〈女店主〉的演出中,曾扮演骑士的角色,当骑士闻到密兰多林娜以出色的厨艺给他弄出来的纸做的炖肉的香味而大喜若狂的时候,作为角色的斯坦尼斯拉夫斯基并没有真的闻到什么香味,那炖肉的香味是在他想象中剌激他的嗅觉的。可是,朗读者连纸做的炖肉的形象也看不到,但他应该从”炖肉的香味“这五个字中,就像真的闻到了那具体的、与其它香味不同的肉香。

嗅觉的一个特点,是同吸气、屏息紧紧联系在一起的。有时深吸、有时猛吸,那一定是给人以快感的气味;有时屏息,有时掩鼻,那肯定是一种难闻的气味。我们感受作品中的嗅觉方面的描写时,呼吸的作用不是消极的,它可以帮助我们加强感受,加深体验。

四、昧觉

食物在口腔内咀嚼,人们可以感觉到某种滋味,苦、辣、酸、甜、咸都是。婴儿能区别母亲的奶和牛奶,也能区别母亲的乳头和奶瓶的奶嘴,因为味觉在起作用,不能不说这味觉国限已经开始变得微小了。长年一日三餐的味觉体验更给人们以丰富的经验积累。

人们从语词中获得的味觉刺激是古已有之的。最典型的例子就是”望梅止渴“的故事。士兵们并没有看到梅子,只是听到曹孟德说前面就是默林,口腔里便产生了酸的味觉,唾液分泌出来,缓和了口干舌燥的苦况。越王勾践死了这么多年,一提到”卧薪尝胆“,还会引起人们”苦不堪尝“的味觉想象。福楼拜口中那砒霜的味道,不但为作家刻画人物提供了有益的体验,同时对朗读不是也有很多可借鉴的意义吗?

当然,味觉想象中,也有快感和恶感的区分,也有各种具体味觉的辨别。味觉的快感与”馋涎欲滴“"狼吞虎咽”相联系;味觉的恶感与“味同嚼蜡”“令人作呕”相联系。

在作品中,那种直觉的描写虽然也有,但为了突出人物的精神境界,往往运用相反相成的手法。我们可以从下面的例子中加以考察:

“„„说完,我先咬了一口,把苹果传给步话机员小李。小李放到嘴边,咬了一小口,交给了身旁的小胡。小胡咬了一口,传给了小张。这样一个挨一个传下去,转了一圈,苹果还剩下大半个。” 七天没有喝过水的人,怎样对待苹果呢?只咬一小口。是不想吃吗?不可能。但为什么不“狼吞虎咽”呢?因为别人比自己更需要。在自然需要与社会需要的矛盾中,走向了先人后己的崇高境界。朗读者必须产生这种矛盾的感受:渴得受不住了,看见苹果,马上产生了“就是十个二十个,我也能一口气吃完”的强烈欲望。但是,看看身边的同志们,马上又产生了“他们更渴,更应该多吃”的深切感受。这两种感受,在交叉中立即升华为先人后己的思想,而味觉想象中的兴奋与抑制发生了巨大的作用,自己吃的欲望消失了,让别人吃的愿望强烈了,于是,关心别人比关心自己为重的高尚情操随之溢于言表。这个过程中,“咬了一口”的味觉,其甜美程度是可想而知的,比那谁也不肯吃的描写更真实、更深刻,我们的味感想像也就更确定、更丰富了。

五、触觉

当外界刺激使身体各部分的神经末梢产生“冷热”、“软硬”、“平滑”、“刺痛”等感觉时,那就是触觉。由文字语言引起的触觉想象在朗读中的作用也是很大的。

“猎人带着我折来许多枞树枝。他又把火堆移到一边,把枞树枝铺在烤热的地面上,铺了厚厚的一层。热气透上来,暖烘烘的,我们睡得很舒服,跟睡在炕上一样。” “她在一座房子的墙角里坐下来,蜷着腿缩成一团,她觉得更冷了。” 这两段文字,一段写“暖烘烘”,一段写“更冷了”,都是触觉想象的对象,它经过触觉想象,引起我们不同的感受,“暖”使全身舒展,“冷”使身体蜷缩。这不同的感觉,造成了不同的心理状态,将来会直接表露在有声语言中。

当然,“春风扑面”和“北风刺骨”是相反的,容易区别。但“火烤胸前暖,风吹背后寒”对游击战士的感觉岂止在冷暖的直觉上?而抚琴、抚剑、抚桌、那触觉想象当更加复杂。这时,简直已经超出了触觉范围,进入到高一级的感情中去了。

六、时间觉、空间觉

对于时间、空间的知觉,在感受中十分重要。“思接千载”是时间想象,“视通万里”是空间想象。我们可以统称为时空想象。

正如孟德斯鸠在〈论趣味〉中指出的:“人们总想扩大自己的眼界,愿意看到尽可能多的空间,精神总是想逃避界限;日常生活中很难达到这个目的,只能借助于艺术的帮助。”美术作品的构图很能说明这一点。在满纸上画出大大小小的骆驼,总有屈指可数的局限,不过是拙劣的画技;而只画一只、两只骆驼,前有一尾,后有一头,反而造成了无限大、无数多的空间物态,真是懂得艺术真谛的大手笔。在空间想象中,朗读者的眼界开阔到什么程度,就会对作品描绘的空间认识到什么程度,以至感受到什么程度。“采菊东篱下,悠然见南山”,必须有“东篱”和“南山”之间的高低、远近的感受;“上穷碧落下黄泉,两处茫茫皆不见”,对这种天上、地下的感受应比“九重天上”和“九泉之下”还要具体。莎士比亚在〈仲夏夜之梦〉里那段精彩的台词中这样写道:“诗人的眼睛在神奇的狂放的一转中,便能从天上看到地下,从地下看到天牛。想象会把不知名的事物用一种形式呈现出来,诗人的笔再使他们具有如实的形象,空虚的无物也会有了居处和名字。”朗读者也应该同诗人一样,透过形象看到天地之间去,即使是空虚的无物,在我们的想象里,在我们未来的有声语言朗读中,也应该有它的居处和名字。“路漫漫其修远兮,吾将上下而求索”,不但空间宏大,而且那“漫漫”、“修远”、“上下”,竟给人以雄浑、坚毅的感受,好像对我们探求朗读的奥妙也有一种巨大的推动力了。

“日出而作,日入而息”,用太阳的升落表示时间概念,虽然不如今天的钟表精确,但当时这巨大的发现不是使后人仍然感到合理吗?直到经过多少年以后,还有“黎明即起,洒扫庭除”的训育,现在的“作息时间”也还是古代延续下来的时间观念。

时间想象是一种对客观事物发展运动的延续和顺序的感受的积累,及其在具体语境中的新的组合。“春天来了”,应是经历了多少个春天,也听过别人描写春天的体验在具体时间中的凝聚。“冬天来了,春天还会远吗?”那深刻的哲理正寓于冬去春来的时间推移的必然性中。时间想象在作品和朗读中的意义远远不像“日月如梭”“白驹过隙”那样简单。

时空想象必须强调具体性。作品里表现的内容总不会是“自从盘古开天地,三皇五帝到于今”和“宏观无限大,微观无限小”这种包罗万象的东西。“折载沉沙铁未消,自将磨洗认前朝”有具体性,“一骑红尘妃子笑,无人知是荔枝来”也有具体性。因此,朗读中的时空想象不能漫无边际,必须找到它们的限度,找出它们的形象确指性,以揭示作品的主旨,否则时空想象只能造成空洞、浮泛的感觉。

七、运动觉

运动觉,是说客观物体在一定的空间、以一定的时间进行的有机活动。对朗读者的刺激,比这更深一层。物体下落有加速度,流水下行有落差,虽是活动,却本身无感觉。朗读者却要从作品的描述中运用运动想象使自己接受它们的刺激,产生相应的形象感受。飞机升降,给机上人以运动觉,小船起落,给船上人以运动觉。如果作品中有这些描写,我们朗读者就要以运动想象,造成自己也在升降、起落的感受,产生身体各部分肌肉程度不等的张弛、血液流动时快时慢的变化这些生理、心理过程。语言是有动作性的,有些动作还要靠语言指示。“立正!”“举起手来!”这种口令和命令,“到终点了,冲刺!”“敌人进入了射击范围,打!”这些呐喊和呼唤,有时并不形于声,只是心中想,可也支配了行为动作。我们看文字作品的时候,凭着经验,往往产生与人物动作相应的运动觉,那就毫不奇怪了。

“在这万分紧急关头,董存瑞昂首挺胸,站在桥底中央,左手托起炸药包,顶住桥底,右手猛地一拉导火索。……” 我们看着这文字也要用心体会人物的心情和动作。当董存瑞“左手托起炸药包,顶住桥底”的时候,我们似乎也举起了左手,用力托着炸药包;当董存瑞“右手猛地一拉导火索”的时候,我们似乎也用右手猛地一拉导火索。虽然我们手里并没有炸药包,没有导火索,但左手和右手应该有这种感觉;虽然左手也没有真的抬,右手也没有真的拉,但应该觉得两只臂膀的肌肉好像在伸缩。这种运动想象,真实、具体,对于此时此地的人物心情,会由此而获得更真切、更深刻的体会。

运动想象帮助我们扩大体验的范围,增加感受的深度。我们没有参加过二万五千里长征,但从〈草地夜行〉这一篇作品里可以体验“身子一沉,掉进了草地的泥沼里”的情景;我们没有打死过老虎,但从〈景阳冈〉这一篇作品里可以体验到武松同吊睛白额大虎搏斗的情景,这是动用了生活经验中“一脚踩空”的记忆和武术比赛的联想等积累形成的。而结合实际作品之后,那记忆和联想的材料就变得活跃起来。在记忆和联想的帮助下,作品中的描写也就显得实在和可感了。

事实上,我们的形象感受已经更为深广了。文字作品中的一切形象性内容不是被我们具体地感知着、深入地感受着了吗?我们并不是被动地承受着刺激,我们正在一步一步主动地寻找着、捕捉着刺激,反复地探究着、开掘着感受,并进而走向深邃、广大的拢界中去。

八、综合感知

诸种感知觉,视、听、嗅、昧、触、时、空、运动等各种知觉的想象,完全不是孤立的、单一的,在作品中总是错杂的、综合的表现出来。它们不但互相联系,而且互相结合。即使是某种单一的刺激,我们也会用其它感知觉给以补充和丰富,使我们对这种刺激的反应显得色彩纷呈,生气勃勃。这正是人类高级神经活动的特点和优点。

我们从作品中运用的多种比喻不是可以看到综合感知的丰富例证吗?“铁石心肠”、“火爆脾气”,是对不易表述的事物的说明;“空中撒盐差可拟”、“未若柳絮因风起”,是对不易形容的事物的描绘;“背着因袭的重担,肩着黑暗的闸门,放他人到开阔光明的地方去气”,“飞流直下三千尺,疑是银河落九天”,是在比喻中造成突出的意境,给人以深思遐想,令人感到余味无穷。

综合感知有混合交错和融合一体两大类。

混合交错是指既有视、听,又有嗅、触等可分的感知,经常用“看到了”、“听到了”这类词语。融合一体是指几种感知同时出现,互相缠裹,不可分割。经常有“眼观六路,耳听八方”、“千头万绪,百感交集”之类的感受。

但是,在朗读中我们特别重视融合一体的感知,它不但有利于抓住本质特征,还更有利于引发情感因素。

“见到我们,主人们立刻拨转马头,欢呼着,飞驰着,在汽车左右与前面引路。静寂的草原热闹起来:欢呼声、车声、马蹄声响成一片。” “朝辞白帝彩云间,千里江陵一日还。两岸猿声啼不住,轻舟已过万重山。” 一段文章,一首诗,都比较容易理解和感受。但是,如果想从字面上一一区分感知类别,不但太迂腐,而且很可能是朗读刻板的先兆。文中的“热闹”,仅以声音为例,似乎只是听觉想象,可是仔细想来,其中必定包含着视觉、运动觉、味觉、触觉等多种感受。这样的描述,已经成为不言而喻的常法。“两岸猿声啼不住”一句,仅仅看作听觉想象也不合适。“两岸”显然是指船过处沿江两岸,不是一个固定的地点;“啼不住”也不只是猿多、声长。这种时间、空间、运动的感知想象造成了融合一体的丰富感受。

在分析作品的过程中,最忌就字讲字,只停留在表面了解上,因为形象感受是来源于对文字语言的深层理解的,“只有理解了的东西才更深刻地感觉它。”正是这个道理,综合感知是感知的深化,而不是一般感知的相加。

从朗读的全过程看,综合感知只是分析理解阶段的组成部分,还没有完全转化为情感运动,不能解决形象感受进一步发展的问题。不过,形象感受已经为自身的发展准备好了有利的条件。

第二节:逻辑感受

分析理解文字作品的过程中,除了形象感受之外,还有逻辑感受的问题。

长期以来,凡谈到“逻辑”,就一定是冷静、理智的,似乎与感受无关。至少,从朗读的角度来说,这个认识是片面的。事实上,作品中的形象性可以感受到,作品中的逻辑性也可以感受到。

逻辑,作为思维规律,与语言的关系极为密切。概念、判断、推理、证明,离开语言几乎就无法表述和进行。任何文章,如果“前言不搭后语”,“驴唇不对马嘴”,“辞不达意”,“挂一漏万”,那就不成其为佳作;更不会作为朗读的材料。好的作品在逻辑上也会是严密的,如行云流水,天衣无缝。过去写文章,讲求“起、承、转、合”,虽然走进了“八股”的绝路,但对文章脉络的清晰度的要求还是有一定意义的。即使灵活如“散文”、“杂文”,那也应达到“散文不散”“杂文不杂”的水平,而不能散乱一片,杂乱无章。

作品中的逻辑关系,主要指全篇各层次、各段落、各语句之间的内在联系。这种内在联系,犹如文气,顺畅地贯穿全篇;犹如经络,紧密地布满全身。不仅指组合的先后顺序,还指为什么这样结构。不论是时间顺序、空间顺序、观点顺序,还是情节、矛盾、问题的连绵起伏,都应在朗读者的头脑中形成强烈的感受,而不应仅仅是“清楚”、“明白”。这种感受,不同于形象感受,缺少形象性是一方面,但在文字语言上,更多地从虚词中获得。虚词,似乎不可捉摸,但是,由于上下文气的贯通,由于与实词的多样结合,经络的感觉又并非虚无缥缈。

逻辑感受有两大范畴:一是语言本质要准确,不能含糊其辞;二是语言链条要清晰,不能模棱两可。

语言本质,包括思想感情的目的性、具体性。必须抓准语句、篇章的真正含意。我们已经讨论了朗读一篇作品的整体目的,语句的具体目的将在语气部分再加以说明。目的,与逻辑感受是有关系的。特别是主次方面,更能体现本质,本质把握不住,链条也就必然会被割裂、扭曲。语言链条,包括上下衔接、前后呼应的连贯性、流动性。因此,逻辑感受要成为一种纳入作品贯穿线的“潜流”,每一个环节之间都要如胶似漆,不可随意变更。

语言本质与语言链条是点与线的关系。所谓点,犹如大珠、小珠;所谓线,犹如明线、暗线。语言的丰富性,造成了“珠子”的色彩斑斓,大小参差;语言的完整性,要求着“珠子”的有机串连,我们必须具体感受到点的特色和线的走向。这点,可以从几方面说明。

一、主次感

目的的落实要抓住重点。重点与非重点的关系就是主次关系。我们对作品主次关系的感受,可以叫主次感。

〈周易.系辞〉有“精义入神、,以致用也”的话,郑伯康注:“精义,物理之微者也。神寂然不动,感而遂通。”我们对作品进行了精细的分析,对于主次关系有了比较透彻的了解,头脑里变得充实了,似乎发现了什么,进而察觉到了作品的精神实质、主要之点,重点对我们的刺激好像“一石激起千层浪”,使我们对全篇作品豁然感通。这个情况,对我们驾驭作品进行朗读是十分重要的。作品中的重点与非重点、主与次是对立的统一,没有重点,就没有非重点;没有次,也就无所谓主。重点与非重点,主与次,二者是相辅相成的,朗读者必须善于抓住重点,以重点带动非重点,就像衣之提领,网之提纲。

重点不宜过多,多则蔓;重点也不宜太少,少则粗。作者创作,与画家作画相似,画家有点睛之笔,作者有神来之会。不管像陆游说的“妙手偶得之”,还是像贾岛说的“二句三年得”,那重点处总是“泼墨如云”,非重点处总是“惜墨如金”的。朗读者要在作品中的重点处花气力,充分发挥重点的作用。所谓重点,无非是最能体现主题和目的的段落、语句,思想最深刻丰富、感情最炽烈饱满的段落、语句。抓不住重点,全篇作品就会像过眼云,耳旁风,飘忽即逝,不得要领。

所谓非重点,并不是可有可无的段落、语句。非重点,犹如扶红花的绿叶,烘明月的白云,不应欠缺,不可移易。非重点部分,也有主次之分,不可能同等次要。但是非重点中的主,不应超过重点中的主,比起重点来,它永远居于次要地位。就像重点中的次,不应轻于非重点中的主,比起非重点中的主,它仍然要居于主要地位,是一个道理。当然,主次之间并非刀切斧断、整齐划一。

作品中的主次关系,总是多层次的,好比电影里的特写、近景、中景、远景,好比绘画里的远小近大、远淡近深,有时,比这类层次还要复杂。这个多层次,包括全篇作品的部分、层次、段落、小层次、语句、词组和词之间的主次关系,也包括重点部分、重点层次、重点段落、重点小层次、重点语句、重点词组和重点词内部的主次关系,还包括各个非重点内部的主次关系。在具体作品中,只要有两个词,甚至某些词的内部有两个以上的音节,就存在主次关系问题。从全篇作品看,从最主要的到最次要的,难以计算有多少个主次层次,但是,层次再多,也完全可以感受到,可以使它们完全成为朗读者自己思维过程中的有机组合。鳖脚的朗读者,似乎对主次关系很清醒,“这里是主,那里是次”,好像很明确,但却缺少主次感。原因恰在于他是主和次的旁观者,主次关系竟如手中的玩物,而没有化为心中的珍品。

重点的分布随作品而异。但是,只在篇首的比较少见,只在一两个语句上的也不多。绝大部分作品的重点,表现在文字语言上,往往是浓墨重彩、细致入微。这又有两种情况。一种情况,重点集中,或集中在由几个段落组合成的一个层次、一个部分,或集中在一个层次、一个部分中的某几个段落。另一种情况,重点分散,在全篇的各部分、层次中,几乎都有几个段落和几个小层次属于重点,甚至有各段都有一两个小层次、以至两三句话属于重点的。当然,也有交叉的情形。重点散见于全篇,重点集中于某层,这是因文而异的。主次感对朗读者来说,要发展成为吃透作品深意之后的语言反应,这在给技巧以依据和形成有声语言的流动方面是十分重要的。

二、并列感

在作品结构中,在全篇的语言链条中,有并列部分、并列层次、并列段落、并列小层次、并列语句、并列词组和并列词。所谓并列,就是只有先后的顺序而没有主次的区分。

从数量上讲,有二重并列,三重并列、四重并列等;从内容上看,有时间并列、空间并列、人物并列、论点并列等。.在分析作品的过程中,要注意并列感,就是说,并列成分作品的这一客观存在必须转化为朗读者的主观感受,才能在有声语言中流露出来。时间并列感

对于时间的感知,这里先要强调具体时间单位的形象感受,如“早晨”,要获得符合作品目的的感受,一般情况大约是:清新的空气、东方的旭日、苏醒的朝气,一日之计在于晨的珍惜等。但逻辑感受不在此落脚,它更注重各个具体时间单位并列关系的相应感受。

并列的时间单位的表述虽然不相同,如“早‘中、晚”“春、夏、秋、冬” “去年、今年、明年”,“十岁、二十岁、三十岁”,“唐朝、宋朝、元朝”,“还有三十秒,还有十秒”等,但是,在感受上,一定突出并列关系。空间并列感

空间并列感,主要是指方位感。具体方位上具体的事物会给人以具体的形象感受,但各方位的关系,不同方位的指向、位臵,却要有并列感。如“东、南、西、北”,“英国、美国、德国、日本”,“天上、地下”,“长城内外、大河上下”,“教室里、操场上、小河边、田里”,“太阳、月亮、地球”,“口腔、食道、胃、肠”都是。有了方位感,人物的活动,事件的发展,场面的转移,环境的特点,也就有了具体居处和各居处之间的关系。人物并列感

不同的人物如果在作品中处于并列地位,我们就要感受到他们之间的并列关系。有的作品分述不同的人物,有的作品有不同人物的行动,不少作品都有不同人物的对话、议论。具体人物都有其具体的思想、心情、行为,这要仔细分辨和体会,但就他们的出现、相互关系、交叉活动方面说,有时,应该从中获得并列感受,以便造成都是事件的同等参与者的印象。不能因为有的并列中的人物处于次要地位、陪衬地位,或处于被贬斥的地位,就任其并列感被淹没、削弱。

论点并列感

在议论性、论说性作品中,一个主要论点或中心论点,可能有几个并列的分论点或小论点。描写或报道--个人物、一个事件,也许需要从几个侧面去描述,如人物、事件通讯、报告文学中常见的那样。这种情况下,论点或侧面的并列关系会使朗读者产生相应的并列感受。这种并列感,对中心论点与并列分论点来说,犹如湘、资、沅、澧之于洞庭湖;对人物、事件与并列侧面来说,犹如左、右、前、后之于全身像。由于有融会贯通的核心,并列感不会显得各个孤立,更不会有风马牛不相及之感。诸如此类的并列感,使我们在朗读的准备中就胸有成竹,不论大的并列、小的井列、多种并列或简单并列,都可以在有形的语流中加以把握。

三、递进感

递进关系在语言链条中往往使内容愈显明朗,推动感情进入高潮,它的总趋势是向纵深发展。但那“黄河之水天上来,奔流到海不复回”的气势,或一泻千里,或逆流而上,会给人一种山外有山、天外有天之感,一层接一层,一句接一句,步步逼进,绵延不断。

递进感的核心是“进”,因此,递进感给我们的力量是意不可止,情不可遏,“ 长江后浪推前浪,世上新人换旧人”,欣欣向荣,蒸蒸日上。作品内容本来就是递进的,开头、发展、高潮、结尾,不就是逐层展开的么?但,递进又不是到此为止。递进是具体的,不是笼统的。只有具体化了的递进才有可能产生递进感,才有希望在有声语言中具体把握。递进的具体化,基本表现为二:

其一是直进,如“一”之后为“二”,“二”之前为“一”,读到“一”时,知道后边还有“二”,读到“二”时,知道是从“一”来,不能只知其一,不知其二。

“我们的事业是正义的,正义的事业是不可战胜的。”这就是一种直进。“山重水复疑无路,柳暗花明又一村”,这是一种旋进。是递进的第二种表现。

旋进,是在行进中稍作回旋,既不显得单直,又可利于深入。所谓退一步、进两步的笔法,可以此类推。它的核心还是“进”,根本不发生行进趋势、行进方向上的转变。可以说,旋进是小退大进,稍退后进。这“退”,并非掉转身,而是“一挫身”的感觉。

递进感经常采用“不但……而且……”,“先是……进而……”,“……还……”,“……甚至……”等句式。我们抓取作品内容中的递进感,当然不应只凭这些表面的文字,但无疑,这也不失为一种方法。

递进感与主次感关系密切,一般来说,递进关系是由次到主的发展关系。

四、总括感

作品中那些有领起作用和综合作用的段落、语句,是逻辑关系的重要体现。我们为了在语言链条中给以显露,就得努力获取领起、综合的感受,这两方面可以统称为总括感。

领起,像大队人马到来之前的先遣队,不但使人了解它的出现意味着“老鼠衔木欣-大头在后边”,人们还可以从先遣队的构成上看到后续部队-主力部队的概貌。对一件事的领起,如:“但有一件小事,却于我有意义,将我从坏脾气里拖开,使我至今忘记不得。”在后面的叙述中体现出的事件的性质给人以勇气这一点也就不言自明了。

对分述的领起,如:“我们的文艺工作者对于这些,以前是一种什么情形呢?我说以前是不熟,不懂,英雄无用武之地。”接着就分述“什么是不熟?……“"什么是不懂?……”“英雄无用武之地……”当然,分述的三个问题又是并列关系。

领起的后面,我们的总括感中应包含“下面我详细说”这样的念头。因此,对于领起什么,应该产生一种预感。在领起的段落、语句结束了,脑子里还是一片空白,说明并没有获得总括感。

综台,有“总之”的意思。如“所有的这一切,有力地说明……”是对上文的综述。“这事到了现在,还是时时记起。……”是对回叙作结。“有的……,有的……,真是千态万状,维妙维肖”。一个“真是”,正显示了综合的意思,我们也恰可从中取得总括感

总括感在语言链条中的启下、承上的作用非常明显。只有加强总括感,才可以造成有分有合、以一当十的严密布局,才利于形成探幽发微、珠联璧合的有声语言。

如果说,雨露甘霖是作品洒向人间的主体,那么,观音施雨,仙人承露,也是作品伴随着主体呈现的神思。领起时,施雨在前;综合时,承露于后,更显得内容的巧夺天工,完美无缺。即使只有领起或只有综合,总恬感也会产生或先声夺人,或余味无穷的效果。

五、转折感

转折感是对作品文气跌宕的感受。上文正说某人、某事,或某一论点,本应顺势而行,却出其不意向另一方向转去。这是一种需要,完全为作者意图左右,为作品主题服务。如:“……越飞越近,眼看就要赶上了,王母娘娘拔下头上的玉簪往背后一划,牛郎面前立刻出现了一条河。……” 在“眼看就变赶上了”之后,不是牛郎织女相聚的欢欣,而是王母娘娘的蛮横阻隔,这是突然发生的情况,是事与愿违的转折。这种转折,由对欢聚的渴望,立即变为痛昔的郁闷,强化了阻隔者的恶行引起的愤怒。这种转折,正达到了作者的目的。

转折感所表现的思维过程,在“眼看就赶上了”后面,隐含着“可是,不幸的事发生了”这样的意思,是文字语言所无,而应是朗读者心中所有。这样的思维过程,把转折前后有机地联系在一起,既不是平铺直叙,也不是前后无关。

由于任何作品的脉络、文气都一定是曲折回环的,绝不是径情直遂的,转折感对于朗读者简直是不可缺的。转折感本身也是复杂多样的,绝非一个“可是”,一个“但是”所能囊括的,我们必须紧密结合作品的语言链条,因势利导,随风转舵,不能笼统地处理。

六、对比感

对比感是由不同的客观事物各自质的规定性的区别与联系决定的。表现在作品中,从内容上说是正反对比,从结构上说是前后对比。如果说,某一客观事物必须有区别于其它事物的质的规定性,那么,这一事物与那一事物的共同存在与变化本身就是一种对比。“相克相生”“相反相成”,正是一种辩证的表述。这是一个普遍的规律,作品如实地反映了它,就不会没有对比。“月有阴晴圆缺,人有悲欢离合”,这里的“月”与“人”是并列,而阴与晴、圆与缺、悲与欢、离与合就都是对比。律诗的第三句与第四句,第五句与第六句是对仗的,这种艺术上的对比,已经是人们的常识了。

对比感,首先来源于内容的背反。真与假、善与恶、美与丑,在对比中更加显示出它们各自的规定性。在作品中,事理对比,人物对比(包括心情、言谈、行为等的对比)、环境对比……多属内容背反的范围。对比感也要从形式的背反中获得。前与后(呼与应、上与下等对比也在内)、顺与逆、显与隐,常常在对比中表现出形式上的特色。当然,形式上的对比感与内容上的对比感不可截然分开,但是也不可掉以轻心。“冬天的百草园比较的无味。雪一下,可就两样了。”这就是内容上的对比,我们应该获得雪前雪后的”两样了“的对比感。

”不在沉默中爆发,就在沉默中灭亡。“这类选择复句,往往采取更换主要词语的办法,许多词都相同,只是主要词语处于对立地位,所造成的形式上的对比感恰恰反映了内容的背反,在内容背反基社础上的对比感受,又可以完美地表现形式上的对比。

像〈岳阳楼记〉中:”若夫霪雨霏霏……感极而悲者矣。至若春和景明……其喜洋洋老矣。“两段,内容的”悲“与”喜“,形式的某本对应,造成了较强的对比感,并由上文的”得无异乎?“领起,至下文的”嗟夫“综合,使这两段的对比感成为语言链条中的相反相成的有机组成部分,不会有南辕北辙之感。

综上所述,逻辑感受帮助朗读者沿着作品本身的结构”亦步亦趋“ ”登堂入室“,形成有机的语言链条。只有理性上的认识,不把这种认识深化为逻辑感受,并列、转折、递进、对比、总括及其上次也不化为语言发出的”需要“,肯定心口不一,达不到准确表达的要求。为此,作品的文路,要化为朗读者的思路,并落实为古路,朗读者必须加强自己的逻辑感受。

为了让我们的朗读从”死气沉沉“的”字音“,变成”生机勃勃“的”话语“,我们既要注重形象感受的”面“,又要注重逻辑感受的”线“,让我们从分析作品伊始,在理解、感受过程中形成内心的”语流",一旦诉诸有声语言,便如飞瀑流泉,汹涌奔泻!朗读的作用

为什么朗读会发展起来,并能成为一门独立的学科呢?我们不能不研究朗读的作用。朗读的效果决定于朗读者和听众两方面,但这不是绝对的,朗读者有听的因素,听者也可以进行朗读;在一次朗读中当然有各自的差异,从总的情况看,都共享着朗读的妙处。

一、朗读有利于深入体味文字作品

文字作品是诉诸视觉的,可以反复看、经常看,无疑是一种优势。可是,看,仍有一定局限,除去一目十行的粗读不说,就是细读,也只是凭借一条渠道传入大脑,留下的印象,远不如多条渠道来得深刻,这正如看舞台演出比看文字剧本收益更大,道理是一样的。朗读,不但要看,反复看,还要变为有声语言,从而增加了传入大脑皮层的剌激渠道,同时,更须要认真领会、准确表达文字作品的语词涵义和精神实质。这样,对体味作品就提出了更高的要求,在深入体味中所得也就更多了。通过朗读,自会发觉“对味儿”或“不对味儿”,“贴切”或“不贴切”的问题,于是再看、再体味、再读。这种精益求精的反复,就意味着对文字作品的更深的理解、更深的感受。不应忽视的是,诉诸声音之后,声音出口时负载的思想感情,比蕴含在文字之中、文字背后的,更为可感,因此,由于朗读者的再创作,听者可以比自己去看文字作品体味更深,他的判断、品评也就会更为切实。这样看来,就使我们认识到:朗读既有再感受的魅力,又有再体验的动力,更有自我检验的活力。应该说,朗读引导着朗读者和听者走向文字作品更深的去处。

<朱子训学斋规>提到:读书有三到,心到眼到口到,三到之中心到最急。朱熹从背诵的要求指出:心不在此,则眼不看仔细,心眼既不专一,却只漫浪诵读,决不能记,记亦不能久也。这些话,重视心到是对的,一方面是对文字作品的用心思索、用心体会,一方面又是对自己朗读的用心品味、用心检验。当然,认为朗读只是为了记,为了长久不忘,就显得太狭窄了,朗读的目的和作用远比记住、背诵来得丰富和深广。叶圣陶先生从教学的角度,在更深的意义上提出:“令学生吟诵,要使他们看作一种享受,而不看作一种负担。一遍比一遍读来入调,一遍比一遍体会亲切,并不希望早一点能够背诵,而自然达至纯熟的境界。抱着这种享受的态度是最容易得益的途径。”这“享受”二字用的何等得好啊!循着这种途径进行朗读,可以使朗读进入更自觉的境界,可以使体会深入,使表达更准确,使广大听众获得更大的美感享受。

边看边读,最有利于从遣词造句到思想感情的融汇贯通,步步深入,乐趣丛生。正如吉林省特级教师魏治明所说:“从诵读入手进入对文章内容的理解,在理解内容的基础上再进一步熟读以至背诵。这样循环往覆,逐步加深体会,对一篇文章才能晓其理、感其情,品味其精当美妙之处。”不少语文教师都有同感。

二、朗读有利于提高语言表达能力

对文字作品的深入体味,为有声语言运用与追求奠定了基础,为用有声语言表现文字作品的思想性、艺术性提供了依据。朗读者如果不能把内心的依据通过有声语言体现出来,传达给听众,就说明他不具备一定的语言表现力。朗读者只有具备一定的表现力,才可能把对作品的理解感受形之于声。因此,朗读就应该包含着对语言表现力的要求,诸如层次感、主次感、对比感、形象性、逻辑性、丰富性;都要体现在有声语言中。

由于对文字作品的深入体味,那准确的词语慨念,生动的语法修辞,巧妙的构思布局,感人的情景描写,严谨的逻辑序列,优美的韵律配臵等,总是十分具体地启迪着我们的思路;而用有声语言将这些表达出来的愿望又迫使我们不能不运用各种技巧,尽可能完美地表现出文字作品的精妙。这种对语言表现力的要求,无论对我们从事文字写作,抑或对有声语言的表达,都起着自觉学习运用和潜移默化的作用,久而久之,自然而然地就贮存了许多可资借鉴、可供取用的表现手段,并在需要时或召之即来,或妙手偶得。这一切是仅仅通过分析、讲解文字作品所不易得到的,也是只靠眼看手写所不易达到的。表现力和鉴赏力是相互关联的、互相促进的。有的人听别人朗读可以品头评足,大发议论,很可能语语中的,相当正确。但当他自己朗读时,也许不及别人朗读水平的十之五六。这正是“耳高口低”造成的,是缺乏朗读实践的结果。相反的情况自然也会有:自己朗读水平较高,但听别人朗读,觉得似乎也还可以,却指不出优劣,虽然也模糊感到某些不足之处,却说不真切,更说不清原委。这是“口高耳低”造成的,是缺乏朗读理论的结果。这两种情况告诉找们,表现力和鉴赏力不同。但表现力和鉴赏力完全相背的情况几乎没有,就是说,凡有鉴赏力的人,也肯定具有一定的表现力,而有表现力的人,也肯定具有一定的鉴赏力。这又告诉我们,提高表现力,对鉴赏力的提高有益,提高鉴赏力,对表现力的提高也很有帮助。这两种能力的提高,都可以通过在朗读理论指导下的朗读实践来实现。

朗读,一般是以别人写的文字作品为依据,朗读过程正是在广泛汲取表现力的营养。古今中外的名家高手,究竟是怎样以他们的生花妙笔反映现实、表现世界、阐明事理、抒发感情的?这些文字作品作为朗读材料被我们仔细分析、深入体味,通过自己的有声语言加以表达,绝不仅只是“念字出声”的无思维活动,而是动员了自己全部精力的再创作。于是,朗读多少篇之后,多少次朗读之后,那潜移默化的成果就会日益显露出来:不但可以在自己写作时摹仿、消化那文笔,还可以在说话时对照、应用那词章,从而使我们的思维精密、情感丰富,文字表达和口头表达词趋于准确和生动。虽然我们写作时是边想边写,说话时是边想边说,可是,在“想”时,便会融合进前人的创造,在“写”或“说”时,也会吸取过去的经验,积累多了,写作、说话、朗读等的表现力必然明显提高。随着表现力的提高,辞不达意、言不及义的现象就会越来越少,随着语言技巧的丰富,当会逐步改变心虚笔拙、木讷无文的窘状。语言表现力的提高,完全可以使“下笔千言,倚马可待”和“七步为诗,出口成章”的阶段尽快到来,到那时,更高水平的朗读也便会出现了。这样,听、说、读、写相辅相成、相得益彰,我们的语言表现力便纵横驰骋,无往而不适了。这是从不涉足朗读领域的人所难以体验的。

三、朗读有利于发挥语言的感染力 文字语言逝有感染人的力量,“爱不释手” “掩卷遐思”都是被感染的表现。可是,当把文字作品变为有声语言的时候,那感人的力量应该更强烈。这也就是说,朗读,应该比作品本身给人的东西更多。为什么要说朗读是一种再创作呢?就因为在朗读语言里饱含着、浓缩着朗读者的深刻体味、独特感受、熟练技巧、音声魅力。高水平的朗读会使文字作品的作者惊喜:我写的东西里还有如此深刻的意味哪?!当然也就会使听者动容:比我自己看作品可好多啦!所以列夫.托尔斯泰说: “不但感染性是艺术的一个肯定无疑的标志,而且感染的程度也是衡量艺术价值的唯一标志。”作为语言艺术的一个品种的朗读,当然不能例外。当1949年9月30日,毛泽东同志在天安门广场宣读人民英雄纪念碑碑文的时候,他那高亢有力、雄浑豪壮的声音是多么富有强烈的感染力啊!这声音里凝聚着人民当家作主的时代自豪感,回响着历史上叱口宅风云的英雄们的胜利召唤。今天再听当时的录音,仍然今人心神飞动!当郭沫若同志在保卫世界和平大会上宣读发言稿的时候,他那抑扬顿挫、铿锵悦耳的声音是多么沁人心脾啊!不但表达出中国人民热爱和平、捍卫和平的强烈愿望和坚强信念,而且使人深刻体味到汉语的优美待色。苏联诗人吉洪诺夫就说过,听了郭沫若的发言以后,认识到只有用音乐才能形容汉语的优美。

在“四五”运动中,朗读那些脍炙入口、震撼人心的诗文,那充满了忧国忧民、无私无畏的浩然正气的声音,回荡在天安门广场,传播到四面八方,唤起民众,伸张了正义,打击了邪气,鼓舞了斗志、把朗读的作用发挥得相当充分,到今天人们还记忆犹新、心驰神往!

要使朗读内容和朗读技巧都有大幅度提高,在各级各类学校加强朗读是一条重要途径。可是,现在我们的大学、中学、小学和幼儿园,人们往往忽略朗读对学生、儿童的感染作用。其实,优秀的文字作品通过朗读对情操的陶冶、对心灵的感染,以及对思想的启发教育作用,往往比单纯讲解更细致入微,更感人至深,更能增添人们的前进的勇气和希望。大量的白话文,字面上的较易理解,但字里行间的蕴含有时又不可言传,通过朗读,就能溢于言表,使入心领神会,获得极大的满足。我们应该努力发挥朗读的感染作用,就是政治课、历史课、地理课、生物课等,在教学中朗读一些精选的材料,对达到教学目的也是有百利而无一害的。

四、朗读是一种高尚的精神享受

朗读者进行朗读,听者听别人朗读,都是一种高尚的精神享受。今天,在建设社会主义精神文明中,朗读也一定能产生巨大的能量,激励人们蓬勃向上、奋发有为;人们将在朗读中获得日常生活中不易得到的那样集中、明确、生动的高尚精神享受,使思想更加纯净、生活更加充实,使那些旧的污垢、那些低级趣味显得更加卑微,无处藏身。

日常生活中往往遇到这样的情况:一件平常小事,由讲话生动的人叙述,便使人觉得有趣;一件奇闻,由讲话呆板的人说,却使人颇感平庸。其原因是明显的。朗读,当然同朗读内容有关,但朗读者的水平也非常重要。即使在作学术报告、宣读学术论文那样的场合,听众除了解其中的学术价值外,同时,从报告人或宣读者词语的清晰、口齿的流利、语气的生动中,直至声音的自如、音调的悦耳,不也承受着无限乐趣和美感享受吗?如果竟因为不善于朗读,精彩的内容被读得吭吭哧哧、支离破碎、结结巴巴、索然无味,朗读者自己汗流挟背,听众也都昏昏欲睡,哪里还有什么享受可言?崇高如共产主义理想,迫切如精神文明建设,诸如此类的重要内容,也会被蹩脚的朗读把人们的兴味降低,甚而在朗读大门之前望而却步,反去专注于其它方面了。这难道不值得我们深思么?

作为教师,不论教哪一门课,都存在朗读一定材料的问题,包括公式、定理等在内。因此,教师都有一个朗读水平高低的问题。待别是语文教师,自己不善于朗读,当然不可能指导学生学习朗读,如果连课文都读得平板吃力,怎么能带领学生进入文字作品的佳境,去领略文字作品的意味,去追求语言表达的完美呢?其结果,往往使学生对语文学习感到乏味和学习爱好的转移,更谈不上对朗读有什么兴趣了,那的确是十分可惜的。殊不知,由朗读引起的、强化的对语言文学的爱好,也许能够造就出一代语言艺术大师!

作为父母,当孩子开始听懂话语的时候,不要只满足于教给他们那些日常生活的用语,欣喜之余,确实应该着意选择那些有益于他们身心健康发育的文艺作品、科普读物给他们朗读,使他们领略语言的美感,加强他们的听音、辨音、发音的语言训练,迅速提高他们的语言素养,这是提高人口素质的重要环节。

幼儿园的老师们,如果能给小朋友们多朗读一些文艺作品、科普读物,更是孩子们所需要的。大班的小朋友,已经是小学生的后备军了,能够摹仿老师朗读一些儿歌、小故事、小童话,甚至背诵出来,这也是极好的语言训练。在这个过程中,家长、老师、周围的人们有意无意带给孩子们的不良词语、不良语言习惯,将会被优美的词藻、良好的语言习惯所代替。

从入学的第一天起,孩子们就开始了朗读课文的准备和学习。这时的朗读,已经是正规的训练了。在朗读中,他们不仅可以更多地识字、更好地接受课文内容的教育,而且可以逐渐认识到应该通过自己的声音表现出课文的思想感情,并在实现这个基本的要求之中享受着再创作的乐趣。当他们把一篇课文顺畅地朗读出来以后,那欣喜的心情中,饱含着对示范朗读教师的钦敬,同时,也会在比较中意识到,老师的示范朗读给了自己很大鼓舞和极大乐趣,自己也一定要像老师那样,朗读得十分动人!在闯过第一次当众朗读的怯场之后,他们便会发现,在羞涩帷幕后面,竟有如此心旷神怡的情景,一股初出茅庐的心志自会奔突而起,不可遏止。由此,进一步体味到有声语言的神奇功能,接着又产生了更上一层楼的愿望。在循着肯学苦读的道路前进中,更多的人获得了高尚的情操,走上了不同的岗位,有的人用着铁杵磨针的功夫,一步步登上了语言艺术的峰巅,并召唤着后继者!即令不是专攻文科专业的学生,在校时老师示范朗读留下的印象,也是终生难忘的。

这一切,在朗读中,伴随着声音传入耳鼓,那深邃的思想、高尚的情操、美好的憧憬、纯真的心灵,也同时流入听者的心田,激荡着他们的胸怀,陶冶着他们的性情,在高尚的精神享受中,在生动的美感愉悦中,提高着他们的精神境界。

不论是听别人朗读,还是自己朗读,都需要具有一定的语言艺术素养和造诣;这不但包括从文字语言到有声语言的转变能力,从有声语言推及文字语言的判断能力,还包括着深广的学识、熟练的技巧,更包括着语言的感受力和对语言完美的鉴赏力。语言的美感给人的高尚精神享受常常使人津津乐道、乐此不疲!如果没有一定的语言素养和造诣,即使听到好的朗读,尽管旁人在那里拍案叫绝,自己也只是茫然,又怎能领会有声语言的精妙!没有这种素养和造诣,尽管朗读时全力倾注,字字认真,也表达不出原作的精髓,文字作品中那些画龙点睛、一唱三叹的妙言警句就会黯然失色,朗读的作用也便付诸东流了。因此我们说,听者和朗读者的造诣越深,才越能体会到和体现出朗读是一种高尚的精神享受。

今天,广插、电视、戏剧、电影、朗诵等日益普及,并成为人们业余生活的重要组成部分,没有一定的语言艺术素养和造诣,就不会从中得到高尚的精神享受,或者只取其末节,或者只感其皮毛,甚或会反其主旨,接受某些消极的东西。如果在朗读中加深了语言艺术的基本规律的认识,提高了语言艺术的表现力和鉴赏力,力求达到高尚的精神享受的境界,那所得就全然不同了,不但可以明其是非、辨其瑕瑜,而且修身养性,其乐无穷。这样看来,重视朗读,学习朗读,对每一个人都是十分必要的。

五、朗读是达到语言规范化的途径

我们的朗读,必须使用普通话。普通话,以北京语音为标准音,以北方话为基础方言,以典范的现代白话文著作为语法规范;从语音上要求标准,从词汇、语法上要求正确。虽然文字作品的多种多样、古今中外都有,朗读时要尊重原作,但是,声、韵、调、轻重格式、儿化、音变以及语句的声音样式,不能不讲究规范。这是历史发展的要求、时代的要求。1958年12月4日中华人民共和国第五届全国人民代表大会第五次会议通过的<中华入民共和国宪法>第一章总纲第十九条明确规定:“国家推广全国通用的普通话。”朗读,是推广普通话的重要形式,是达到语言规范化的途径。不学习普通话,不掌握普通话,就不是一个合格的朗读者。而学习朗读的过程,同时就是学习普通话的过程,通过朗读学习普通话,是非常有效的方法。朗读者要朗读某篇文字作品,这作品里的每个字、每个词、每句话,都要首先解决声母、韵母、声调、轻重格式、儿化、音变等问题,真是字斟句酌、不能马虎的事。初学普通话时,在朗读中比较容易发现问题,也比较容易纠正错误。诸如把“南方”读成“兰帆”;把“农村”中的“村”字的调值读成33或22,而不是55;把“战士”读成中重格式,而不是重中格式;把“好啊(哇)”读成“好呀”„„这都不标准,不能说是普通话。在说话时,既没有文字依据,语流又快,口腔再松软无力,就不容易感觉到存在的问题,事过境迁,纠正起来也实在困难。如果加上方言土语掺杂其间,与普通话的距离拉大,当面校正更觉吃力。因此,在朗读文学作品中使语言规范化,就成为朗读的重要作用之一。自己朗读,不能闭门造车,一定要同听别人朗读结合起来。听标准、正确的朗读,同自己的朗读加以对照,就可以在比较中认识到什么是普通话的标准音,什么是方言上语,怎样读才对,怎样改正不正确的读法,等等。相当多的人是从听电台、电视台的普通话播音,听朗读唱片或录音磁带中学习普通话朗读的。正因如此,周恩来同志于1958年l月10日,在政协全国委员会举行的报告会上的报告<当前文字改革的任务>中就强调指出:“北京语音是个标准,有个标准就有了方向,大家好向他看齐。„„比方对广播员、电影和话剧演员、师范学校的语文教师就应该要求严些„„”这方面的专业人员应该是人们学习普通话的榜样。1955年10月26日<人民日报>发表的<为促进汉字改革、推广普通话、实现汉语规范化而努力>的社论持别指出:“每年有上千万儿童进入小学,训练普通话应该从他们开始。从小学到中学到大学,成百万的教师是普通话最直接的教学者和宣传家”,应该“使学生不但在语音方面,而且在书面语言的语法、修辞、逻辑方面都能得到有系统的规范化的教育,消除目前很多学生在中学甚至大学毕业以后还不会说普通话、不会写通顺文字的现象。”这个要求在今天看来仍显得十分迫切。

语言规范化当然不是一朝一夕的事情。朗读在推动语言规范化方面的作用是不容忽视的。有的人,日常说话中带有明显的方言,可是一拿起文章朗读,却能基本上符合普通话的标准,这不是恰恰说明了朗读在语言规范化中所起的作用么?学习和掌握普通话,达到语言规范化,完全可以通过朗读率先实现,这是一条快捷方式,我们应该把它充分利用起来!

从以上五个方面来认识朗读的作用,也还可能并不完全,但我们可以从中看到:朗读活动对朗读者,除需要严格的识字、组词、造句、谋篇方面的分析综合能力、理解感受能力、积极思维能力、感情引发能力、语言驾驭能力之外,还需要声音运用能力、语言表达能力、对象交流能力、把握状态能力、自我调节能力等。这些能力的培养、提高,离开了朗读是不能获得的。此外,如作品体裁、文章风格方面的鉴赏审美能力、独特感受能力、艺术创新能力等,更是高水平的朗读所不可缺少的。朗读活动对朗读者来说,是厚积薄发的过程。这“厚积”,当然是长期朗读实践的沉积作用的表现,正是这沉积作用,才造就了读者语言艺术的深厚功底,从而才有可能由“必然王国”走近“自由王国”(要走进“自由王国”那是很难很难的),无论在任何场合下,捉襟见肘的朗读者总是远不及游刃有余的朗读者,这不及,正是在认识和发挥朗读作用上存在着明显的差距造成的。有出息的朗读者必定是在经历了众多痛苦的磨炼之后才飞进声情并茂的高境界的。

这里,我们还要强调朗读应用范围的广泛性,破除对朗读作用的某些狭隘理解,更进一步加深对朗读作用的认识。

朗读的应甩范围是相当广泛的,幼儿启蒙,语文教学、念信读报,宣读论文、讲稿,念剧本、歌词,都离不开朗读的应用。

首先,随着全民族科学文化水平的提高,教育的普及,在大学、中学、小学的语文教学中,朗读教学应该是重要环节;理工科也开始设置语文课,有的文科、师范院校正在准备开设朗读课。尤其令人高兴的,普通话观摩表演、朗读比赛、口头表达比赛,几乎遍及全国各地,这真是一派令人鼓舞的景象!其次,我们的电台、电视台、广播站、广播室的播音员、广播员,都是从事普通话播音工作。如果他们从小就受到朗读的训练,如果十分重视朗读的作用的发挥,一定会播送出更加优美动听的有声语言。广播电视事业已处在大发展的时期,听广播、看电视,已经成为广大人民群众精神生活不可缺少的一个重要方面。加强朗读的基本训练、学习朗读的理论,是每一位播音员、广播员不可忽视的课目。而随着朗读水平的提高,党的方针政策的宣传将更深入人心,在精神文明的建设中,播音员、广播员必能发挥生力军的作用。与此同时,播音队伍的壮大也一定会不乏后起之秀。

再者,话剧、电影演员如果在训练时忽视朗读的作用,同样会带来明显的弊病。多少年来,口齿不清晰、语言不规范的台词,不是屡见不鲜么?国产影片还需要普通话配音,这些演员的朗读水平是可想而知的。欧阳予倩先生说:“据说法国人认为演员在台上语言不肖是对观众的不礼貌„„。”老舍先生说: “咱们演的是话剧,可不能搞成“话锯”,拿话来锯人家的耳朵。”欧阳予倩先生指出:“关键还是要我们演员把台词念好。”有人说演员不是“国文教员”,不必有标准的北京语音,我们认为这种说法是欠妥的。演员之成为“语言艺术大师”,绝不仅仅是创造了鲜明的角色,他完全应该同时创造个性化的角色语言,这其中就应该包含着对普通话的要求。有人说演员不能用朗读来训练,因为朗读与创造角色是两码事。虽然朗读与创造角色并不完全相同,光用朗读训练演员是不对的。但是,如果把朗读和创造角色看成水火不兼容的对立物,培养演员时,不从名著的朗读中体验各样的人物、锤炼精确的语言,基础不坚实,那台词又怎能说好呢?不改变“重表演、轻语言”的状况,“表演艺术家”是不会与“语言艺术家”统一起来的,语言不过关,表演就必然受到很大的局限。戏剧演员的唱、念也不能离开朗读的训练。有的京剧演员的道白,韵味十足,令人百听不厌、经久难忘,难道只是这几句道白的功夫么?“千斤道白四两唱”,其中凝聚着多少朗读的心血啊!

当你作为领导干部向群众宣读文件或讲话稿的时候,当你给孩子读儿童文学作品的时候,当你为邻居大娘念她的亲人来信的时候,当你被大家推举读报纸上一条重要消息的时候,当你朗读自己的作品、论文的时候,„„你的朗读能力和水平不就呈现在听者的面前了么?难道可以用“我不是干这一行的”之类的遁词为自己开脱么?

我们会看到,朗读的巨大作用,将随着精神文明建设的不断推进而愈益真切地显露在每个人的现实生活之中。

第五篇:张志和教授撰写的中华颂全文(最终版)

國家行政學院教授、中國書法家協會理事 張誌和教授撰寫的《中華頌》全文

《中華頌》

壯哉中華,雄踞東方。

五嶽崢嶸,柱立禹甸,攜群峰聳蒼疊翠;

四瀆浩蕩,橫貫九州,納百川東流入海。

麗象美景,展畫卷層層無盡;

沃野桑田,育斯民生生不息。

韶山杜鵑,渠江清流,仰勝跡胸懷激蕩; 樓宇參差,殿閣巍峨,煥人文舉世稱奇。放眼望,巨壩出高峽,長橋臥清波; 舊時窮鄉矗廣廈,昔日僻壤接康莊。

車水馬龍,穿梭於神州大地;

箭飛船發,遨遊乎玉宇蒼穹。

更有菽禾飄香,花木爭艷,山河處處披錦繡;恰值政通人和,笙歌滿衢,人民聲聲唱和諧。

華夏血脈,源遠流長。燧人取火,人猿自此揖別; 神農播谷,文明於茲肇始。堯立典章,克明俊德; 湯武革命,講信修睦。春秋百家爭鳴,戰國雄才輩出。自秦壹統,以迄後世,人文煥彩,光耀千秋。

雖有幹戈玉帛、興衰治亂,終歸民族融和、骨肉壹家。

迨乎近世,列強入侵。

金甌殘缺,大地陸沈。

賴無數英烈,拋頭顱、灑熱血,挽狂瀾於既倒,扶大廈之將傾。

救亡圖存,重整山河。豐功偉業,彪炳千秋。

今日中華,欣逢盛世。

改革、開放、創新,致力科學發展;繼承、弘揚、借鑒,構建和諧世界。且看我炎黃子孫,放眼未來,大展宏圖,和衷共濟,共襄盛舉,定實現民族之偉大復興!

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