西安旅游名迹日语导游词

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第一篇:西安旅游名迹日语导游词

西安碑林博物館

西安碑林博物館は西安の南城門の東にある三学街にあります。碑林とは石碑が林のように立ち並んでいることから、名づけられたそうです。西安碑林博物館は唐には太学でしたが、宋の時代に西安の孔子廟として建てられました。1950年に陝西省歴史博物館として増築されましたが、新しい陝西歴史博物館の開設とともに、出土文物がそちらへ移されたために、現在、ここは完全に石碑の博物館となりました。碑林博物館は敷き面積が三万平方メートルあまりで、陳列内容が西安碑林と石刻芸術の二つの部分に分けられています。展示されている作品は三千点もあるそうです。中国の伝統的な習慣によれば、門は南向きであるはずなのに、この門はどうして東向きとなっているのか、皆さんはたぶん不思議に思われるかもしれません。それは孔子廟だからなのです。ここだけではなく、すべての孔子廟の門は東西にあります。これは「礼門儀路」と言われ、「礼儀の門」と言う意味だそうです。

東の門を入ると、まず目に入ってくるのは日本の鳥居みたいな建物です。これは中国では「牌楼」と言われるもので、徳望のある人の功績を称えるために造ったものです。最初の門を入ると、東西両側には展示室が続いています。前は真ん中の小道の両側には馬を繋ぐ用の石柱が28個ありました。ここは昔は今の駐車所みたいなところだそうです。

もっと奥のほうへ行きますと、もう一つの門があります。そのもんを入ると、両側にはそれぞれひとつの亭があります。東の亭には大きな鐘が置かれ、唐の景雲年間に造られたもので、「景雲鐘」と呼ばれています。景雲鐘は重さが6トン、鐘の銘は18行、292字、内容も道教の神秘さを称えたもので、唐の睿宗の真筆、文章も睿宗のです。中央ラジオ放送局から放送される「除夜の鐘」はこの景雲鐘の録音だそうです。西の亭にはある石馬は424年に造られた夏の時代のものです。夏は21年しか続かなかったので、この石馬はきわめて珍しいものです。もうちょっと前のほうへ行きますと、碑林のシンボルとなっている石碑が見えます。それは皆さんによく知られている石台孝経です。この石碑は高さ、5.7メートル、四つの石から成り立っていて、碑林博物館の中では一番大きな石碑だと言われています。「孝経」は孔子の弟子の曾参と言う人が書かれた親孝行についての本です。唐の玄宗皇帝が孝経を注釈し、序を寄せ、隷書で書いたもので、自ら「孝」と言う思想で国を治めたいということを表しています。碑額の題字は皇太子・李享の書だそうです。

これから石碑の展示室をご案内します。あわせて七つもありますが、それぞれ大きさも内容も違っています。展示の石碑は漢の時代から清の時代までの各時代の代表作が揃っています。石碑には歴史実録や、仏教、古代の名作などが刻まれています。

第1陳列室には、「開成石経」が収められています。それは唐の文宗の開成2年に長安城の国子監、つまり皇族、貴族の子弟の教育機関・太学に立てられました。これは、封建社会の知識人の必ず読書・学の経典12経の全文65万252字を114の石碑の両面に彫ったもので、清代に「孟子」3万余字が17面に彫り加えられ、あわせて13経68万字余となりました。学の経典には「周易」「尚書」「詩経」「周礼」「儀礼」「礼記」「春秋左氏伝」「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」「論語」「孝経」「爾雅」など12経が含まれています。「開成石経」わが国における唯一完全保存されている石刻経典です。

第2陳列室に展示されているのは唐代の有名な書道家が書いた石碑です。後世の書法の手本となったものばかりです。初唐の欧陽 が書いた「皇帝誕碑」、その息子の欧陽通の「道因法師碑」顔真卿の書「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。

第3陳列室には歴代の各種の書体があります。篆書、隷書、楷書、行書、草書の五つの書体が含まれています。これらの石碑を通じて、中国文字の変遷が分かっていただけます。「偏旁部首字源表」は『説文』の中の部首で、偏旁540が篆書で書かれ、楷書で注釈をついています。宋の時代の夢英という和尚の書です。また、「千金文」「大観聖作之碑」などが保存されています。第4陳列室には、主に歴史を記録している有名な石碑が展示されています。これらの石碑は明・清時代の苦しい生活と陝西省の人民が奮起し抵抗した反抗の歴史を表しています。第5陳列室には宋、元、明、清の各時代の寺院の改修記録、功労の記録、橋や城壁改修の記録や詩文など、当時の地方史研究における貴重な資料があります。第6陳列室には、元明清の各時代の詩文の石碑があります。第7陳列室は、1982年建てられたもので、「宋淳化秘閣帖」を専門に保存しています。全部で10巻ですが、前の5巻は歴代帝王と名臣、有名な書家の楷書、草書、と古書各体で、後の五巻は王羲之と王献之の草書です。

石刻陳列館は1963年に建てられたもので、先生省各地に散在していた前漢時代から唐代までの作品70点余を集め、墓石と宗教石刻に大別し、年代順に並べました。陳列室には石棺、仏像、石刻の動物などの貴重なものが集められています。漢、唐の石刻は質量とも抜群で、中国彫刻史上飛びぬけて高い地位に立っています。中国における石刻芸術の起源を示す貴重な資料となります。

簡単ですが、以上は碑林博物館にいての説明です。ご静聴,どうもありがとうございました。

大雁塔

大雁塔は西安の南の郊外にある「大慈恩寺」の境内にあります。「大慈恩寺」は648年に唐の高宗・李冶がその亡くなった母親の冥福を祈り、慈恩を報いるために建立したお寺です。当時の「大慈恩寺」は僧侶部屋が千八百九十七室で、僧侶三百人が住んでいたが、唐代の末期の戦火のために焼き払われてしまったので、今大きさはそのときの十分の一に過ぎません。現在の境内のある建物は大雁塔だけが唐のもので、後はほとんど明や清の時代の造りなおしたものです。さて大雁塔が建てられた由縁は何でしょうか。皆さん中国の古典名作の「西遊記」をお読みになったと思いますが、その中の主人公の玄奘三蔵法師ははるばるインドへから持ち帰った経典をここで翻訳したのです。大雁塔はその貴重な経典を保存するために当時このお寺の住職さんだった玄奘三蔵法師の提案と皇帝の援助によって652年に境内の西院に建てたものです。「大慈恩寺」の中にあるので、「大慈恩塔」とも呼ばれています。皆さんご存知のように「大雁塔」の本名は「慈恩寺塔」ですが、なぜ今の「大雁塔」という名前に変わったのですか。それについては二つの言い方があります。その一ですが、『慈恩寺三蔵法師伝・巻三』にマガダ国に寺があり、ある日、雁が群れを成して、空中を飛びすぎたが、突然その中の一羽が地に落ちて死んだ。僧侶たちはこれに驚き、それを菩薩だと思い、衆議の末、雁を埋め塔を建てようと決めたと記されています。このことからこの塔を大雁塔と呼ぶようになったと伝えられています。もう一つの言い伝えですが、仏教には大乗教と小乗教がありますが、大乗教は肉を食べてはいけないことですが、小乗教は食べても構わないことになっているそです。そのころのインドで、ある日小乗教の僧侶たちが肉の無いことに悩んでいる時、、誰か一人が“今日はお釈迦様が貧しい人に施しをする日だ”と思い出した。そこで、皆で「お釈迦様、お助けください。」と唱えました。そのとたん、一羽の雁が彼らの目前に落ちてきました。これを見て、僧侶たちはびっくりして、まさか彼らの食欲を満たすためにお釈迦様が自分の身を捨てて、雁に変身されたではないかと悟りました。お釈迦様が私たちのために自分の身も捨てましたが、私たちもお釈迦様のために何かしないといけないと思って大乗教を信じ、肉を食べないことにしました。そして、その雁の落ちたところに、「雁塔」を建て、お釈迦様の慈悲の心を後代に伝えようということです。以上はいずれも美しい伝説ですが、資料によりますと、唐のこの大雁塔が玄奘三蔵法師がインドの雁塔に基づいて設計したものなので、「雁塔」と名づけられたそうです。その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられましたが、これは小さかったので、「小雁塔」と呼ばれ、「大慈恩寺」の「雁塔」を「大雁塔」と呼ばれるようになったのです。

先ほど申しました玄奘三蔵法師が日本人の中でも馴染み深いの高僧ですが、彼は629年に27歳のとき、皇帝の許可ももらわずに一人で長安を立ち西へのたびを始めました。シルクロードを通って、西域百二十カ国を歴訪し、インドでの遊学を終えて、16年後の657年に彼は115粒の仏舎利、八体の仏像と657部の経典とともに長安に帰り着き、持ち帰った経典はこの寺で十二年間にかけて翻訳されました。唐代は仏教のとても盛んな時代でしたから、仏教に力を尽くした玄奘法師も非常に人望がありました。彼の功績を称えるために、唐の高宗と太宗はそれぞれ絶賛と感謝の意を込めた文章を書かれました。この文章は唐の有名な書道家・ちょ遂良によって石碑に刻まれ、今も大雁塔の上に保存されています。彼が著した『大唐西域記』は後世の人々に西域諸国研究、特にヨーロッパの考古学調査

研究に対して、欠かせない貴重な資料となっているものです。いわば、『世界考古案内・天竺篇』と言ったところでしょう。前にご案内したように大慈恩寺の中の建物は大雁塔を除いて、大体は明清のものです。中の鐘楼と鼓楼はお寺に住んでいる僧侶たちに時刻を知らせるために造られたものです。お寺には二つの建物がありますが、一つは「大雄宝殿」と呼ばれ、その中にはお釈迦様の三身佛が祭られております。もう一つは法堂という建物で、その中には阿弥陀仏の像が祭られています。特に法堂の東の壁には玄奘三蔵法師が昼も夜も休まずに歩き続けてインドから帰国するときの拓本が掛けてあります。この拓本を見たら玄奘が一生懸命仏教にしたありさまを偲んでいただけると思います。法堂を通って、大雁塔の真下に着きます。史書によりますと、大雁塔は最初に煉瓦で外側を固められた五重の正方形の建物でしたが、則天武后の長安年間に大改造を行ったので、十層になりました。しかし、その後の戦乱などで七層から上が崩壊し、残った七層をレンガで表を固めて修復し手、今の姿になったのです。現在の塔は高さが64メートルで、中には螺旋状の階段が付いており、一番上まで登って頂いたら、西安のきれいな町風景が見られます。大雁塔にはすでに千三百年の歴史があり、その間震度七級以上の地震に二度見舞われていますが、無我氏の雄姿をそのままに見せています。

大雁塔と同じ毎日数多くの国内外の観光客を迎え、その大唐の雄姿を見せています。

華清池

華清池は西安の東にある驪山の麓にある観光地です。ここは都にも近いし、温泉も沸いているから昔から皇族たちの行楽地として栄えてきたのです。

ここで、温泉に入ったりして行楽を始めたのが今から3000年ほど前の西の周――西周時代の国王・周幽王でした。しかし、当時はまだ宮殿などの建物がなく、お風呂も「露天」の状態で、星が見えていたので、「星辰湯」と呼ばれていました。これが華清地の初めての名称でした。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の愛情物語は誰でも知っているでしょう。そのラブストーリの舞台はここ華清池でした。

華清池は西、中、東の三つの部分からなっています。九つの龍の池――九龍池を中心とした西の部分は20世紀の50年代に再建されたのです。

九龍池は面積5300㎡で、九龍という堤防に分けられ、上下二つの部分になっています。一つの大きいな龍と八つの小さいな龍の頭が造られ、水が龍の口から池へと流れ込んでいます。これが、九龍池の名称の由縁でもあります。九龍池の北には、「飛霜殿」を中心とした建築群があります。それは玄宗皇帝と楊貴妃の寝殿――と言われています。両側にあるのは「沈香殿」、「宜春殿」です。

1982年4月、ここで建築工事を始めたところ、華清宮御湯遺跡が発見されたのです。後の考古学発掘では、4200㎡に及ぶ範囲内において、星辰湯、蓮花湯、海棠湯、太子湯、それに尚食湯という五つの温泉風呂があったことが判明しました。1990年10月に「華清宮御湯遺跡博物館」がオープンしました。

蓮花湯は皇帝専用で、蓮の花の形をしています。

海棠湯は楊貴妃の専用のものだから、貴妃池ともいいます。また満開した海棠の花のような形もしているから、どこからとなく女性らしさが漂っています。

太子湯は文字通り太子が入浴する場所で、尚食湯は大臣など皇族以外の人が使うお風呂です。星辰湯はいわば露天風呂のことであるが、唐の時代から使い始めたものではありません。

現在、温泉の泉は四つあり、一時間あたり112トンのお湯が湧き出ています。

昔からここの温泉が皮膚病やリュウマチには治療効果があることに気づき、利用してきました。

望湖楼の北側には蓮池があります。池の中に造られている高殿も「蓮花閣」と呼ばれてきました。「蓮花閣」の南西にある建物は「飛霜殿」です。また、楊貴妃が温泉からあがるたびにここで髪の毛を乾かしていたと伝えられきました。

秦の始皇帝陵

秦の始皇帝陵は、西安市の東に臨潼という町から東へ5キロ行った所に位置しています。2200年ほど前に造られた秦の始皇帝陵は長年風雨にさらされ、地上の建築などほとんどなくなってしまったが、関中平野を見下ろすその威容はいまだに始皇帝の栄光と威厳を物語っています。秦の始皇帝陵は中国史上初めての皇帝の陵であり、世界おいても最大級のものです。また、これに埋められている珍しい文物はいったいどれほどあるかは計り知れなくて、いまだに未知数のままです。

秦の始皇帝陵を見学するに当たって、まず秦の始皇帝はどういう人物かを知っておく必要があるでしょう。秦の始皇帝姓は名は嬴政で、紀元前259年に生まれ、13歳で国王になりました。しかし、10年後22歳で自ら政務を執り始めたのです。実権を手にした秦の始皇帝は改革を断行することによって、国力を急速に強め、10年というわりと短い期間で、他の六つの国を滅ぼして中国全土統一という快挙を成し遂げ、自ら始ての皇帝――始皇帝と称しました。紀元前210年7月、地方視察の途中で倒れてしまい、50歳で亡くなりました。

秦の始皇帝は傲慢で、決断力があり、権力闘争に長じていると同時に非常に冷酷的で残忍でした。一方、秦の始皇帝が歴史上最も勤勉な皇帝の一人です。秦の始皇帝に対する評価は昔から分かれており、今でも論争の対象となっています。しかし、これだけは弁論の余地のない事実でしょう。彼は中国歴史の進行に極めて重大な影響を与えた人物であり、2000年も続いていた中央集権政治の創始者で、史上始めての皇帝です。

秦の始皇帝陵の平面図はほぼ正方形しています。底辺の長さは、南北350m、東西は345mです。もちろん、この数字は現存の陵墓のものであるから、当初はもっと大きかったにちがいません。

秦の始皇帝陵は、実は敷地面積が200万㎡を超えた巨大な霊園でした。漢字の回数の「回」という形をしている二重の城壁がありました。城壁の東西南北にはそれぞれ城門が一つずつ、四つの曲がり角には「角楼」という建物が造られていました。当時天下無敵の秦の軍隊がこの城壁で物々しく警備していたでしょう。

内側の城壁に囲まれていた部分は内のお城――「内城」といいます。内城の中心は言うまでもなくし皇帝の陵墓です。秦の始皇帝は、狭い寝殿が天下始ての皇帝という身分にはふさわしくないと思ったでしょう。

内側の北側では寝殿遺跡のほか、「便殿」という格式のランクが一つ低い宮殿の遺跡も発見されています。

では、秦の始皇帝がなぜ国を挙げて陵墓を造ったのでしょうか。それは昔中国では、「死ぬ」とはもう一つの世界に旅たつことであり、「死んだ後」でもあの世で暮らしをすることができると考えられていました。秦の始皇帝陵はあの世における秦の都であるといえるかもしれません。

兵馬俑

兵馬俑は秦の始皇帝陵から東へ1.5キロのところにあり、1987年、ユネスコによって世界文化遺産に指定されたのです。皆様のご存知のように、兵馬俑は秦の始皇帝が自分の陵墓の東に造った大規模な「軍隊」です。それを造った目的は何だったでしょう。「死後の世界」を固く信じていた秦の始皇帝は自分の陵墓を「地下の都」のように造り、あの世でも皇帝をやり続けたいと思っていました。

兵馬俑を保存して、展示するため、遺跡の発見された現場に「秦の始皇帝陵兵馬俑博物館」が造られています。これは中国における最大級の遺跡博物館であり、一号館、二号館、三号館と言う三つの遺跡現場展示室と、出土文物展示室や秦の始皇帝陵銅車馬展示室など、五つの部分からなっています。

秦の兵馬俑の発見は偶然とも言えるでしょう。1974年、西安一帯は激しい日照りになりました。干害に悩まされていた地元の農民たちが井戸を掘りました。工事を始めた農民が3Mほどの深さまで、掘ったときに、まず焼かれた土がそれから炭や灰が次から次へと出てきました。ちょっと不思議に思った彼らは昔の煉瓦を作る窯元に出会ったと思い、井戸を掘り続けていました。ところが、5mの深さまで行くと、今度は西側の壁から人間の顔をしている埴輪の破片が現れてきました。時は1974年3月29日のことでした。秦の兵馬俑がこのようにして見つかったのです。この大発見を記念するため、一号館には農民たちが掘った井戸も遺跡として保存されています。パッチファイルセット

さいきん

秦の始皇帝陵については「史記」や「漢書かんしょ」などの史書ししょがその記録を残しているが秦の兵馬俑については何の記録もありません。そのため、兵馬俑坑の正確な建造年代がわからないです。しかし、兵馬俑坑から出ている煉瓦から手がかりをつかむことができるでしょう。兵馬俑坑の地面が大量の煉瓦によって舗装されています。これらの煉瓦の製造元はいずれも秦の始皇帝が中国統一した後の宮廷専属の窯元ですから、兵馬俑坑の工事が中国統一してからのことであると考えられます。もし、兵馬俑坑の工事が中国統一したの紀元前221年から始まって、農民蜂起が全国に広まった年の紀元前209年に終わったとすると、およそ10年間続いていたことになります。

兵馬俑坑は発見された順序に一号坑、二号坑、三号坑と名づけました。今、皆様がご覧になっているのは一号坑です。

一号館は秦の始皇帝兵馬俑博物館最初の建物で、1979年10月1日の国慶節に博物館は正式に開館しました。東西210m、南北62mの長方形をしているもので、発見された三つの俑坑の中では規模の最も大きい遺跡です。地面から4.5m~6.5mの深さに1000あまりの兵隊の埴輪が立っています。戦闘馬車8台と馬の埴輪32体も出土しています。九つの行列になっています。現在、ここの発掘はまだ継続中なので、埴輪の数が正確には分からないが、今までの調査結果から推定すると、たぶん6千体くらいあるだろうと思われます。線を引くかれる

一号館の兵馬俑は、歩兵ほへいを中心とした主力部隊です。その役割から見ると、先頭部隊や主力部隊、それから側面部隊や後衛部隊に分けられます。戦闘部隊は文字通り一番先のほうにあります。秦の兵馬俑は当時の軍隊をモデルにして造られたものだから、軍の階級なども埴輪はにわからはっきり判断できます。階級の一番低い兵士は、髪の毛を高く束ねて、短い戦闘服を着、鎧よろい(铠甲)を着けず、ゲートルを巻いています(扎裹腿)。これより階級ちょっと高い兵士は、髪の毛を高く束ねたばね、小さい丸い帽子をかぶり、長い戦闘服を着て、黒の長い鎧をつけています。最も目立つのは何いっても将軍俑です。将軍は、先端が巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためのリボンが顎の下で丁寧に結ばれ、胸まで格好よく垂らされています。また、鎧も独特な形をして両肩と胸のところでリボンによって結ばれています。

次に、入るのは二号館です。二号館の兵馬俑はの遺跡はゕルフゔベットの「w」の形をしており、東西最も広い所の幅は96mで、南北は84mです。四つのブロックに分けられています。弓を持っている努兵、戦闘馬車、歩兵、騎兵からなっています。この陣立ての形は攻めることも守ることも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい場所がありません。二号館の建物は秦の始皇帝兵馬俑博物館における最も近代的な建物で、1994年竣工し、オープンしたのです。

1987にオープンした三号館で展示されている兵馬俑は1976年に発見されたものです。三つの兵馬俑坑の中で、唯一発掘が完成したのが三号館のほうです。三号館の兵馬俑坑が東西が17.6m、南北が21.4mで、規模としても一番小さいほうです。

ここからは馬車1台、馬の埴輪4体、武士の埴輪68体、それに34点の青銅製兵器が出土されています。専門家たちは三号館の遺跡は宿衛軍全体の統帥する司令部であると推定しています。一号館、二号館の兵馬俑坑はみな激しく焼かれた痕跡あります。これは項羽が咸陽に入って阿房宮とともに焼いたのではないかと推測されています。しかし、不思議なのはこれと違って三号館の兵馬俑坑が焼かれた痕跡はまったくありません。そのおかげで、ここの兵馬俑が出土されたとき、皆鮮やかな色彩が着いたままでした。残念なのはこれらの色を保存する技術が無く埴輪が出土してから三日ほど経つと、水分が蒸発して色が全部落ちてしまったのです。

1980年12月、秦の始皇帝をさらに掘り進めて見ると、陵の西側20mのところから、副葬の銅製の馬車が二台発見されました。大きさは実物の二分の一です。始皇帝は皇帝になってから5回全国を巡視したが、その時使用した乗り物はこのような銅車馬であったことだろうと伝えられています。

1号車は先導車で、「高車」と呼ばれます。車体は長方形です。御者は、馬の手綱を手にし、前方を望んで立っています。腰には剣、頭に冠をかぶっています。車の中には鏃、弓、盾などがあります。ここに装備されるものから、この1号車は2号車の安全を守る護衛の車だということが分かります。車体には傘がついており、鍵で開いたり、閉じたりできます。二号車は「安車」と呼ばれ、壁によって、前の御車席と後ろの主人席の二つの部分に分けられています。車体には、小さいな窓が三つあり、温度によって開閉する自動式です。扉はハンドルであけるようにしていますので、現在の自動車のドゕと同じ仕掛けなのです。銅車馬は大きさが実物の二分の一ですが、実物の車や馬、人物をモデルにして、製作されたものなので、まったく実物の馬車と同じです。馬も御者も生き生きとしています。銅車馬は3400点の部品から組み立てられています。構造が複雑で、細工は精巧を極めています。車体には、金銀のメッキが施され、車体の彩色画も色鮮やかで、上には四角形、雲、龍、鳳凰などが浮き彫りにされています。2号車の屋根の面積は2.3㎡で、青銅で一度鋳造されて最も薄い所で1cmで、厚い所でも4cmです。車馬の装飾に使われている銅線は、直径0.5ミリから1ミリほどしかないです。これで当時の伸線技術がたかったことが

分かるが、いったい、どのようにして太い銅線を細くしたのか、まったくの謎です。銅馬で注目されるのは、金銀の飾り物です。金は747点、銀は847点ありますが、特に、金銀だんだらの管の環は、どのようにして溶接されたものか、想像がつきません。金銀は溶解点が異なるので、当時の溶接、冶金技術の高度さが注目されるわけです。銅車馬は中国における最も大きな青銅器としてますます世界に広く知られるようになっていくでしょう。

陝西歴史博物館

皆様、今日見学のは陝西歴史博物館です。陝西歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の国立歴史博物館です。皆様のご存知のように、陝西省は都として1100年の歴史があり、また、周、秦、漢、唐のような繁栄していた時代でした。ですから、陝西の歴史はある程度中国の歴史を演じています。

館内に入って、まず目につくのは、大きな石の獅子ですが、これは則天武后の母親の墓・順陵の獅子の模造品です。

第1展示室は、約115万年前の旧石器時代、藍田猿人から始っています。藍田猿人は西安市東南の藍田県から出土しました。西安市東郊外の半坂村から発見された半坂遺跡は、仰韶文化の村落遺跡です。約6000年くらい前のものと推定されています。その集落が居住区、製陶区、埋葬区などに分かれていることです。彼ら、は農耕作業をし、家畜を養い、魚を釣り、弓矢で獣を捉えるなど、生産のための道具を駆使しています。陶器は、彩りの鮮やかな彩色陶器です。半坂人は、母系会社です。獣の骨で、こしらえたネックレス、そして、ブレスレット。また、人面魚紋を始とする美しい陶器の模様。

今から約5000年ほど前の龍山文化は、新石器時代の晩期に当たり、父系社会の始まりでした。この時代において、男性は女性に代わって社会の中心となり、支配地位を占めるようになりました。

ここに展示されているのは、旧石器時代や新石器時代の代表的な文物で、先史時代の人々の生活ぶりを現しています。

周の時代は、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時代なので、「青銅器時代」とされています。青銅器は、銅や錫との合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになりました。博物館に展示されている青銅器は祭礼の楽器、生産、生活用具、実戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文内容の重要さなど、世界美術史上も貴重なものです。陝西省から出土した青銅器は全部で3000点あまりで、そのうちの2000点あまりがこの博物館に保存されています。青銅器のほかに、鉄製農具の使用によって農業生産力が増大し商工業が発達したこともこの時代の特徴なのです。

この展示室では、秦の足跡を展示しています。春秋戦国時代の秦の都は、雍(現在の風翔県の南)でした。秦は、戦国時代末期(前221年)6国を制覇して、中国最初の封建統一国家です。時の秦王・嬴政は自ら始皇帝と号し、郡県制、通貨統

一、度量衡統

一、文字統

一、法令統一を始、車の轍まで統一すると言う、徹底した法治主義を貫き、思想言論にも、弾圧を加えました。

展示品の中には、雍城の遺跡や咸陽の宮殿遺跡から発掘した瓦、煉瓦などの建築材料をはじめ、鉄や青銅の生産用具、武器などが並んでいます。始皇帝の事業の一つ、通貨の統一をあげることができるが、当時の貨幤関係の資料も展示されています。

秦が滅亡してから、西暦前202年、漢王朝の時代となりました。漢代の都・長安城は中国の歴史における初めての国際的大都会で、当時、ローマ帝国の都・古ローマより2倍ぐらい広かったと言われます。ここに展示されている陶製の水道管は、漢の長安城遺跡からの出土品で、現在我々が使っている水道管とよく似ています。そこから、当時の長安城はすでに立派な排水システムを用いたことが分かります。紙の発明はかなり古く、西安・灞橋の漢墓などからも、植物織維で造った紙が発見されていますが、さらに、良質の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。漢の第7代皇帝・武帝の時に開かれたシルクロードは、東西文化交流のかけ橋としてよく知られています。シルクロードを通じて中国から、絹、漆器、鉄器の作り方や井戸の掘り方などが西方に伝えられ、西域、中央ゕジゕからは、ザクロ、ブドウ、胡桃、蚕豆、香料、宝石などが大量に入ってきました。

西暦220年から581年にかけてのこの時期は、強力な中央政権を欠き、王朝の交替がしきりであって、社会的な混乱に明け暮れた時代でした。220年から280年にかけては三国時代でした。263年、蜀は魏に滅ぼされ、ついで魏と呉は晋に滅ぼされて三国時代は終わりました。戦乱に苦しむ庶民の解脱願望によって、仏教は大幅に広め、大変盛んになり、したがって、陝西省からこの時期の石窟、仏像などが数多く発見されたのです。ここにある仏像はいずれも傑作です。

隋は、589年の成立です。隋は短命で、わずか2代38年で、滅びます。李淵が子の李世民に勧められて挙兵、長安を占領し、618年に唐を建国し、初代皇帝・高祖となりました。唐は引き続いて、長安城を完成しました。日本の古代都市平城京や平安京はもともとこの長安城をモデルとして、造営されたといわれています。しかし、その規模を比較すると、長安城は平城京の約4倍、平安京の約4倍の広があり、都長安は唐の盛時には人口100万、世界最大の都市として繁栄しました。

隋・唐展示室では、金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など当時の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。特に、1970年に西安南郊外から発見された大量の金銀器具は唐代の絢爛ぶりを示すものです。中でも、五足の銀の透かし彫の薫炉は、実用品でありながら、極めて芸術性の高いものになっています。

法門寺から出土した大量の唐代の宝物も陳列されています。これらの金や銀の細工物は、精巧、華麗で、思わず嘆声が洩れるほどです。唐三彩は、西安、洛陽一帯に分布していますが、出土数が大変少なく、大変珍しいものです。陳列されている馬、駱駝、宮女、各種生活用品など、題材も豊富です。工芸水準も大変高いものです。葬式の行列に使う冥器などでも、工芸水準は大変高いものです。

宋元明清の時代は、政治、経済、文化の中心が東に移りましたが、陝西地方は重要な軍事地区であり、西北地方の政治、軍事、経済、文化の中心でした。

展示品の中では、宋の磁器が注目されます。上薬は青が主で、蓮花の紋様が最も多く、そのほかに、牡丹、鶴、鳳凰、魚、鴨などもあります。

皆様、陝西歴史博物館の解説はこれで、終わりました。ご静聴ありがとうございました。

第二篇:西安旅游导游词

秦始皇兵马俑秦始皇兵马俑是在1974年发现的,随后在这里建了一个规模宏大的博物馆,于1979年国庆节开放。举世罕见的秦兵马俑博物馆开放后,很快就轰动了中外,被认为是古代的奇迹,是当代最重要的考古发现之一。秦兵马俑以其巨大的规模,威武的场面,和高超的科学、艺术水平,使观众们惊叹不已。兵马俑坑在秦始皇陵东侧约1公里半,先后发一、二、三号三个坑。一号坑是当地农民打井时发现的,后经钻探先后发现二、三号坑。一号坑最大,东西长230米,宽612米总面积达14260平方米。在这个坑内埋有约6000个真人大小的陶俑,目前已清理出的有1000多个。在地下发现形体这么大,数量这么多,造型如此逼真的陶俑,实在是一件令人难以置信的事。走进博物馆的大厅,只见在地下5米深的地方,整齐地排列着上千个像真人大小的武士全身呈古铜色,高1.8至1.97米,一个个威武雄壮,真是气象森严,令人望而生畏。陶俑具有鲜明的个性的强烈的时代特征。这批兵马颂是雕塑艺术的宝库,为中华民族灿烂的古老文化增了光彩,也给世界艺术史补充了光辉的一页。

西安城墙西安唐时称长安城,元朝时曾一度叫奉元城,现在的西安城墙是明洪武三年(1370年)至洪武八年(1375年)在唐长安城的基础上改建的。西安城墙周长13.7公里,东西长约2.6公里,南北长4.2公里,呈长方形。城高12米,顶宽12—14米,底宽15—18米。城墙的外侧是护城河。有4座城门:东为长乐门,西为安定门,南为永宁门,北为安远门。在4座大城门外各建有1座半圆形瓮城即月城。在月城和大城门上各建有1座宏伟高大的歇山式城楼,两楼相对,严密监守着城周围一切动态。城墙上隔120米有延伸出城墙12米、宽20米、和城墙顶齐平的墩台98个,俗称马面。其作用是便于观察敌情,作战时能三面杀敌。城墙上还有垛口5984个,作了望、射击之用。另外还有登城马道10处。整个城墙是用石灰、土和糯米汁混合砌成的。西安城墙已有600余年的历史,规模大,保存较完整,很值得一游。

华清池位于西安临潼县骊山北麓。相传西周的周幽王曾在这里建离官。秦、汉、隋各代先后重加修建,到了唐代又数次增建。名曰汤泉宫,后改名温泉宫。到了唐玄宗时又大兴土木,治汤井为池,环山列宫殿,此时才称华清宫。因宫在温泉上面,所以也称华清池。唐代华清池是帝王妃嫔游宴的行宫,每年十月到此,年终返回。华清池大门上方有郭沫若书写的“华清池”匾额。进了大门就见两株高大的雪松昂然挺立,两座宫殿式 建筑的浴池左右对称,往后是新浴池,由新浴池往右行,穿过龙墙便是九龙湖,湖面平如明镜,亭台倒影,垂柳拂岸,湖东岸是宜春殿,北岸是飞霜殿为主体建筑,沉香殿和宜春殿东西相对,西岸是九曲回廊。由北向南过龙石舫,再经晨旭亭、九龙桥、晚霞亭,便到了仿唐“贵妃池”建筑群。在星辰汤后面还有温泉古源。出了贵妃池向前行便进望湖楼,先见荷花池然后经飞霞阁,传说此阁是贵妃浴后观景及凉发之处。接着来到五间亭,震惊中外的西安事变发生时蒋介石曾在此居住过。后面骊山的半腰间虎斑石处还有一座“兵谏亭”,高4米,宽2.5米,水泥钢筋结构,兵谏亭匾额是用贵重的蓝田玉制成。走出望湖楼,向右可沿着一条砖砌的台阶上行,直登苍翠葱绿、美如锦绣的骊山游览。

再现唐诗山水园林新意境

西安曲江曾是中国历史上久负盛名的皇家园林,兴起于秦汉,繁盛于隋唐,是历史留给西安最宝贵的文化遗产。曲江新区就是建立在这块中华历史文化故地之上的新兴城区。经过近5年的快速发展,曲江新区充分挖掘历史文化内涵,塑造盛唐文化品牌,成为以盛唐文化为特色定位、构筑盛唐文化风格的城市新区。曲江新区管委会将历史与今天、传统与现代、古典与时尚有机结合起来,先后投入资金80多亿元,开发建设了大雁塔北广场、大唐芙蓉园等一批重大项目。7月1日同时向市民和游客免费开放的曲江池遗址公园、唐城墙遗址公园、唐·大慈恩寺遗址公园就是最重要的组成部分。

三大遗址公园总占地面积2100余亩,总投资25亿元,均是在唐代的古迹旧址之上重新规划建设的,恢复重现的历史景观与现代自然人文景观结合的浑然天成,呈现出曲江新区的历史风貌和唐诗意境,从而达到“青林丛复,绿水弥漫”的独特景观体系。

曲江池,是古都长安最著名的风景区,是中国历史上久负盛名的皇家园林和京都公共区。盛唐时期,曲江池的繁盛达到了顶峰时期,当时的皇亲国戚、达官贵人、文人墨客、平民百姓常聚于此,是京都游人的最佳去处。曲江池遗址公园依循山水格局,以秦、汉、隋、唐曲江池遗址为基础,最大限度地恢复了曲江池历史水系的原貌。整个公园以曲江池水面为中心,分为八大景区,总占地面积1500亩,水域面积近700亩。

唐城墙遗址公园位于唐长安城外郭城的东南部,是在唐长安城外郭城遗址上建成的开放式城市公园。在历经1400多年风雨的唐城墙遗址之上,曲江新区立体构建了以唐诗为主线,以书法、雕塑、绘画、工艺美术、园林景观为表现手段,以唐诗人物和唐诗意境展示为主题,集诗歌、哲学、美学体验、生态园林为一体的休闲文化长廊。

唐·大慈恩寺遗址公园坐落在唐代大慈恩寺遗址上,具备得天独厚的历史价值、景观特色和宗教意蕴。园区前身是曲江春晓园,经曲江管委会重新进行艺术定位、改造,更名为唐·大慈恩寺遗址公园。经过建筑大师张锦秋的悉心指点和参与设计,园区充分结合了传统北方景观、皇家园林和佛教境界与深意。

书院门570多米长的街道,集中了上百家店铺。在二三层雕栏楼阁上,挂着一色的黑底金字牌匾,书写着文萃阁、醉书轩、聚香斋、皓月宫等店名。这里的店铺门面既不像江南商号那样纤巧秀丽,也不同于北京大栅栏那样富丽堂皇,而是古朴敦厚,门面很少有繁琐的装饰,牌匾、楹联,还有深狭的门道,显示了一种儒雅祥瑞、深藏若虚的氛围。商家所售的商品有各种旅游纪念品、工艺品等。然而墨香的古文化街最能体现特色的商品当属种类繁多的文房四宝、书法字幅、国画卷轴、碑帖拓片、蓝田美玉,以及古老的乐器“埙”。

懂行的人到书院门是看“书”的。这“书”涵盖书、画及相关的一切。这里卖字画的店铺多,里面不仅有许多民间书画爱好者的作品,也有不少名家名作;但是也有赝品。略往书院门的街深处走,卖字画的店铺便越来越多。还有许多临街摆设的摊位,其实就是张书桌,上备文房四宝以及展示有主人写画好的作品。主人就在此或写字,或作画,也出售作品,但是更享受这种陶冶情操和相互切磋技艺的生活。其中不乏功力深厚、作品绝佳的高人。每年都会大批书画名家会聚西安,在这里举办各种展览陈列数十次。

书院门与关中书院

书院门的地名起源于在街内的关中书院。关中书院是明、清两代陕西的最高学府,也是全国四大著名书院之一,西北书院之冠。古时明代工部尚书、经学大师冯从吾得罪皇帝被革职回家,在宝庆寺讲学。后来又与陕西省当时的最高行政长官汪可受一同进行“联镳会讲”,听讲人数多达数千人,长安府长官便下令在寺中划出一块地修建“关中书院”。之后,向东又陆续修建了长安县学、西安府学和文庙(今碑林所在地),形成了文化一条街。书院建筑规模宏大,中间讲堂6间曰“允执堂”,左右房间众多。讲堂后有假山,三峰耸翠,宛若小**。讲堂前半亩方塘,竖亭于中,砌石为桥。书院有门两重,大门二楹,二门四楹,郡丞刘孟直书“八景诗”以壮其观,学者王大智书隶字为书院题名。

关中书院建成以后不久,魏忠贤灭了东林书院,关中书院也被殃及。熹宗时,关中书院被下旨拆毁。到康熙3年,关中书院重建。光绪时,改建成陕西省师范大学堂,成为当时西北5省的最高学府。民国时改为省立师范学校,直至解放。现在的关中书院依旧古色古香,遗憾的是作为西安师范学院及附小的所在地,谢绝非校内人员进入参观的,只能从大门外感受一下里面的古韵书香。

回民街历史

说回民街过去是商业繁华之街,商贾云集,风光无两,街上名店鳞次栉比,名产驰誉全国。据说有108家粮行,有宰牛、宰鸭、宰驴的数10位,无论是不是赶集,都热闹非凡。现在,矮矮的民居屋顶,如蜘蛛网一样的电线,四通八达纵横交错,却又那么触手可及:触到的是木板里遗留的草根气质,但那种人声鼎沸的鼎盛场面,早就无法企及。

这条街的历史也已经很久了,据说,原来国外的使节和来长安做生意的商家们聚居在这里,不断地繁衍生息,现在的坊上人大都是这些古老移民的后裔。他们用自己的宗教形成了高度的凝聚力,在汉人占主流的社会中,顽强地坚持了自己特有的文化生活圈子,他们的血液中还保留着精明商人和贵族的遗传因子,一直到了今天。在一千多年前的汉朝,这里就曾经作为丝绸之路的起点,迎来了回民的先民--来自古阿拉伯、波斯等地的商人、使节、学生。历史记载,许多人沿着丝绸之路来到繁华热闹的长安城后,在这一区域经商、留学和做官,一代代繁衍生息。今天,这里成为6万多回族穆斯林群众的聚居区。

作为伊斯兰文化的传承之地,这一区域今天仍然有唐代含光门、明代西城门楼群、众多保存完好的清真寺和道教城隍庙、佛教西五台、喇嘛教广元寺等众多文化遗迹。街区内众多街道具有浓郁的伊斯兰风格,清真饮食城、民族购物中心和清真寺、回民生活区“相映成趣”。

西安钟楼是我国目前规模最大,建筑最宏伟,保存最完整的明代建筑之一。它以其金碧辉煌的雄姿踞于西安城中心,东西南北四条大街的交汇处,是古城西安的标志建筑,被誉为“古城明珠”。

明洪武十七年(1384),明太祖朱元璋下令在全国各城市兴建钟楼,以镇天下。西安钟楼初建时原址在今西安大街广济街迎祥观,与鼓楼东西对峙。当时此地与南北城门正对,是城中心之所在。后扩建西安城,随着城中心的东移,钟楼的位置就与中心偏西,故明神宗万历十年(1582)在陕西巡抚龚懋贤主持下,命咸宁、长安二县县令将其迁建于现址。迁建时“楼惟筑基外,一无改创”。钟楼落成后,龚懋贤写了《钟楼歌》刊石嵌于钟楼内。以后清乾隆五年(1740),楼又经巡抚张楷重修,仍按明初年的原结构修建,唯将原室内悬挂的唐代“景云钟”移出室外,以使报时之声远扬。此外,楼上奉祀文昌帝君。钟楼的命名,也因每天清晨击钟报时,故称之。

钟楼是一座重檐三滴水四角攒尖木结构建筑,面积1377平方米。建筑基座为正方形,高8.6米,宽35.5米,用青砖、白灰砌筑而成,四面正中各有高、宽6米的券形门洞,与四条大街相互惯穿。钟楼从地面至金顶通高36米,基座上面有四面空透的圆柱回廊,楼分两层,重檐三层,屋顶覆以绿琉璃瓦,楼体为木质结构。由砖台阶踏步上到砖基座大平台而进入一层大厅,面阔7间,进深3间,大厅四面有门,周为平台,顶有方格彩画藻井。由第一层大厅内东南角扶梯,可盘旋登上四面有木隔扇门和直通外面回廊的二层大厅。二层梁架结构,采取砌上明造,用通柱,攒尖顶采用抹角梁和井口枋,梁柱节点有宋元做法痕迹。

整个建筑通体彩绘,楼内贴金彩绘,画梁雕栋。四面漆红大门,各层门扉还有64幅精美的木雕故事,有“木兰从军”、“嫦娥奔月”、“西厢听琴”、“伯乐相马”、“柳毅传书”、“八仙过海”等,构图优美,雕工精细,有很高的艺术价值。楼翼角飞翘,下悬铎铃。楼顶端琉璃莲花宝座上置有6米高的圆形鎏金宝顶,更显庄严和富丽堂皇,显示了明代建筑艺术的独特风格。

钟楼在国民党反动派统治时期,曾成为拘押进步人士和革命青年的临时牢狱,楼上驻扎军队。鎏金宝顶的铜叶被人揭去盗卖,楼体累遭破坏。1953年至1958年,国家对钟楼进行了大规模的全面维修,加固了楼的台基座,拆换了楼梯、地板和部分柱子,增添了栏杆,翻修了全部门窗。楼的内外进行粉刷油漆,并按原样装置了鎏金顶和增加了避雷设施。1980年以后,又进行了多次维修。1996年西安市为进一步开发,利用文物资源,促进文化事业的发展,决定仿制唐景云钟。唐景云钟铸于唐景云二年,原为唐景龙观所用,唐睿宗李旦亲自为其撰书铭文,明初移至钟楼用以报时。该钟现为国家级文物,现藏于西安碑林。西安市文物管理局多次走访有关单位,商讨仿制事宜。仿制的景云钟外观与原钟近似,通高2.45米,重6.5吨,钟裙外径 1.65米,纹饰、铭文酷似原钟,音质嘹亮雄浑,可与原钟媲美。经多方努力,1997年1月30日,沉寂了数百年的晨钟暮鼓再次在古城响起。仿制的景云钟现挂于楼基座的西北角。

1956年8月6日,陕西省人民委员会公布钟楼为省级文物保护单位。1996年11月20日国务院公布钟楼为全国重点文物保护单位。同时公布保护范围:其重点保护区为钟楼基座四周边内;一般保护区为由重点保护区外延36米;建设控制地带为由一般保护区再外延72米。

鼓楼

西安鼓楼位于西安城内西大街北院门的南端,东与钟楼相望。

鼓楼始建于明太祖朱元璋洪武十三年(1380),清康熙三十八年(1699)和清乾隆五年(1740)先后两次重修。楼上原有巨鼓一面,每日击鼓报时,故称“鼓楼”。历经岁月沧桑,如今巨鼓早已不存,惟余鼓楼巍然耸立。

西安鼓楼是目前所存在全国最大的鼓楼。它的建筑形式是歇山式重檐三滴水。高台砖基座东西长52.6米,南北宽38米,高7.7米,南北正中辟有高和宽均为6米的券洞门。楼建筑在基座的中心,面阔7间,进深3间,四周另有走廊。第一层楼身上置腰檐和平座,第二层楼重檐歇山顶,上覆绿琉璃瓦。楼的外檐和平座都装饰有青绿彩绘斗拱,使楼的整个建筑层次分明,浑雄博大。登楼的青砖阶楼设在砖台基两侧,在第一层楼的西侧有木楼梯可登临楼的第二层。在楼的南檐下正中,悬挂有“武盛地”蓝底金字匾额,是陕西巡抚张楷重修此楼峻工后,摹仿乾隆皇帝的“御笔”。北檐正中悬挂有“声闻于天”匾额,笔力挺拔,相传系咸宁李允宽所书。两匾不仅说明了建筑物的意义,而且犹如画龙点睛,使楼生气盎然,更显得宏伟壮丽,但在“文革”十年浩劫中遭毁,现文物管理部门已着手修复。

从50年代开始,人民政府曾多次修缮鼓楼,90年代又贴金描彩,进行了大规模的维修,为进一步开发和利用文物资源,促进文化旅游事业的发展,恢复“晨钟暮鼓”,1996年西安市决定重制鼓楼大鼓。重制的大鼓高1.8米,鼓面直径2.83米,系用整张优质牛皮蒙制而成。鼓腹直径3.43米,重1.5吨。上有泡钉1996个,寓意1996年制,加上4个铜环共2000年,象征公元2000年,催人奋进,跨入21世纪。该鼓声音宏亮、浑厚,重槌之下,十里可闻,是目前中国最大的鼓。在钟楼和鼓楼之间,开辟为钟鼓楼广场,绿草红花点缀其间,造型独特的声光喷泉不时变换,是古城人民休闲、娱乐的好去处。

] 回民街在西安鼓楼的边上,街的北头是一座厚重的城墙。它斑驳的拱门、大块大块的城砖,总是使人联想到那种大块吃肉大碗喝酒的豪爽侠气。曾有人说过,只要到过回民街,你对西安的小吃就不会有遗憾。

回民街不长,也就500米左右,两旁开满了正宗的回民饭店。大多数店家门口,总是能见到几个戴着回民白帽的小伙子在扇火烤肉羊串,阵阵的烤肉香味足以令你垂涎欲滴,然后决定进去大爽一把,以饱口福。

牛、羊肉泡馍:用优质牛(羊)肉、牛(羊)骨,配以花椒、大茴、草果、桂皮等调料,入锅内煮至内酥烂、汤汁浓备用。用优质水调面团烙成馍,掰成碎块。炒锅置入浓汁汤,再添适量水煮开,放切好的熟牛(羊)肉和适量湿粉丝稍滚,再将掰好的馍块倒入,加调味品煮1—2分钟,淋熟羊油盛人碗中。食用时佐以糖蒜、辣子酱、芝麻油、香菜等。传统作法有三,一曰“干泡”,通过煮制,汤汁完全入馍内。此馍筋而韧、粘而滑;二曰“口汤”,煮的馍酥绵光滑,吃完碗内留汤一口;三曰“水围城”。宽汤煮馍,碗四

黄桂稠酒:源于唐代,是以优质糯米特酿而成,纯天然发酵,色泽如玉,酒味醇香,酸甜可口,具有止喝、生津、活血、健脾、开胃、润肤、滋肺、营养等功效,冷热均可饮用,是老幼皆宜的上等饮品。杜甫诗中“李白斗酒诗百篇,长安市上百家眠”所言之酒即指此酒。

千层油酥饼:唐僧历经艰险,从印度取经回到长安后,即专心致志翻译经书。唐高宗李治为表彰唐玄奘百折不挠的毅力和一丝不苟的精神,当唐僧译经达千卷时,特命御厨做“千层油饼”予以赏赐。这种饼就在长安风靡起来。后经历代相传至今。此饼以层次分明,色泽金黄,脆而不碎,油香不腻而著称,被誉为“西秦第一点”。

凉皮:又称“酿皮子”,从唐代冷淘面演变而来。其面皮选料精良,工艺严谨,调味讲究,以“白、薄、光、软、筋、香”而闻名,味酸、辣,凉爽可口,宜于夏天食用。如今是关中西府的重要名吃。

黄桂柿子饼:以临潼特产“火晶柿子”和特粉搀和作皮,再配以黄桂、玫瑰、桃仁、白糖、冰糖、青红丝,上等板油搅拌作馅,用木炭火架起整锅烘烤而成,表面呈金黄色,吃在嘴里,绵软香甜,是每年秋冬季节时令佳品。相传明末李自成起义,在西安建立大顺政权后,立即率义军进攻北京。时值荒年,粮食短缺,农民便把临潼的火晶柿子和面粉烙成饼子,供给义军食用,以充军粮。后来农民为了纪念闯王李自成,每年都烙柿子饼,经多年加工改进而成为西安的独特风味。

梆梆面:是汉中市的风味食品,由上等面粉精制而成。用酱油、醋、味精、花椒等佐料调入面汤,捞入面条,淋上猪油即成。其特点是酸辣鲜香。真正的陕西话叫做“biangbiang面”。是很地道的秦地风味(辣),吃起来十分过瘾!

炒粉鱼:一种形似小鱼,状如蝌蚪的食品,是西安市有名的风味小吃,也是夏令时节理想的消暑食品。其风味特点是滑润绵软、葱花喷香、物美价廉。扯面:关中地区的传统面食小吃,已有300多年的历史。主要原料为上白面粉、鸡蛋、菠菜、红萝卜、调味品等。制作时先将面粉用盐水和好,用湿布盖好放置1小时以上,再调到较软程度后擀成较厚较宽面片,然后手拿两端,扯成薄而未断的面片,入沸水锅煮熟捞出,加调料和辣子粉,用烧热的油泼后搅拌食之。特点是色泽协调、光滑柔韧、淡雅清香。

锅盔:始创于唐代。传说修乾陵时,工程浩大,人数众多,造膳难,工士自用头盔烙食而成,现用铁锅烙制。料选精粉,细面压杆,慢火浅锅烘烤,体呈圆状,直径尺多,厚约寸许。锅盔外表斑黄,切口砂白,酥活适口,能久放,便携带。

贾三灌汤包子:名头最大、字号最为响亮的西安小吃之一。贾三灌汤包子形状就像石榴,特具西安特色,饱含着对人们的美好祝愿。包子烹制工艺考究,以秦川牛肉为馅,骨髓配汤,皮薄如纸,晶莹剔透,馅嫩含汤,佐料浓香。以小笼强火快速蒸熟,趁热上桌,再配以八宝粥或黑米羹,将美味尽皆包裹,色香味俱全,妙不可言。

酸汤水饺:是一种历史古老的风味小吃,具有1000多年的历史。酸汤水饺是把羊肉水饺放在特制的酸汤内食用。酸汤含虾皮、熟芝麻、香菜末、韭菜末、牛油、香油、鸡油、甜醋、酱油等13种调料。肉夹馍:在西安,老樊家几乎成了腊汁肉的代名词。腊汁肉起源于战国,当时称“寒肉”,经世代流传、演变,遂成今日之秦味腊汁肉。樊记腊汁肉已有近百年历史,由一姓樊小贩所创。由于其选料精、调味全、火功到,又经长时间煨制,颜色红润、软烂醇香、久贮不变。食者有“肥肉吃了不腻口,瘦肉无渣满口油,不用牙咬肉自烂,食后余香久不散”之赞誉。近年来,在制作工艺上严格执行操作规程,加大了瘦肉比例和香度,使其更加浓郁喷香,深受食者欢迎。用刚出炉的白吉馍夹着吃,则馍香肉酥,回味无穷。

歧山面:陕西的臊子面历史悠久,清代已经很驰名。以薄、筋、光、煎、稀、汪、酸、辣、香而闻名,用精白面粉、猪肉、黄花菜、鸡蛋、木耳、豆腐、蒜苗等原料和多种调味品制成。其基本制作工艺是:面条要用手擀成,并达到面薄条细、筋韧光滑、软硬适度的标准。做臊子是先将猪肉切成薄片,入热油锅烹炒,同时加入生姜、食盐、调料面、辣面和陈醋炒透即成。把豆腐、黄花菜、木耳炒好为底菜,鸡蛋摊成蛋皮,切成棱形小片,加切小的蒜苗做漂菜。吃时先将面条煮熟捞入碗内,打入底菜,再浇汤,放臊子和漂菜。

岐山面要求宽汤,即汤多面少,并突出酸辣味。所谓煎、汪即面条要热的烫嘴、油要多,才能体现此面的特色。岐山面是一种高碳水化合物、高饱和脂肪酸的地方特色面食。

西安有名小吃全功略~ 1.羊肉泡馍

a 弘伊兴泡馍馆。位于长安南路西侧,陕西师大对面。走进饭馆,找一个靠墙的位置坐下(便于防贼。没有菜单。又多了半斤酸汤水饺。后来一问,5元钱半斤,30个,泡馍要羊肉的还是牛肉的?普通的还是优质的?馍要不要小炒?汤多还是汤少?水盆,口汤还是干拷?

b 西安本地人最喜欢的是北广济街的老刘家和小皮院的老米家泡馍,绝对正宗,5元一碗,吃泡馍普通的即可,除非很爱吃肉。北广济街是西大街向北的一条路,从鼓楼向西走大概200米就到。进去不远就能看到老刘家的泡馍,再向北一直走大概150米就是老米家泡馍。两者相比老米家要更好些。最好不要饭口去,人很多。菊花园老马家得最好吃,南稍门的“建基”也不错。

c 南大街和湘子庙街口有一牛羊肉小炒泡馍,5元一碗两个馍,汤浓味正,特好吃。d去胡家庙菜市场对面的泡馍馆去吃!要优质得!打车去都知道司机!8元/碗 e 同盛祥的羊肉泡馍(13.80元/份), 很腻, 吃了1/3就放弃了, 感觉还是它附送的蒜头好吃些, 还点了水盆羊肉(13.80元/份), 尽管羊肉蛮多的也烧的很酥, 因为好象和羊肉泡馍的汤是一样的, 还是觉的腻味, 据说同盛祥的口味还算是清淡的了。f 回民街上“老四家的牛羊肉泡馍店”,他家烤的羊肉又新鲜又大块,咸辣适中。2.2.贾三灌汤包子

贾三汤包位于回民街。6元一笼10个小包子,馅只有羊肉、三鲜、牛肉等。贾三灌汤包子老店 西羊市西段121号 7279114 贾三灌汤包子新店 北院门111号 7257507 八宝甜粥★2.5元是最好的。除糯米外有百合、莲子、荸荠、红豆、花生仁、枸杞、山楂等,还有一种叫不出名字的植物柔软的细根。回民街已经拆迁,原有许多小吃店都搬迁了,现在那里十分荒凉。贾三灌汤包搬到中间一条小街了。2.3.肉夹馍

a“老樊家”是正根,“樊记”有欺名盗世之嫌,而“老樊家”不好找,“樊记”就在竹笆市,乘由长安芙蓉园开往火车站的610,在鼓楼站下车即是(千万别坐反了,这段路是单行)。普通馍2.5元一个,优质的4元一个。樊记腊汁肉夹馍:钟鼓楼广场南丽晶酒店西侧第一个路口往南拐,阿房宫电影院旁边。建议吃优质馍,4元一个,里面有叫捞糟,实为酒酿。配上鸡汁馄饨 1.5元/碗, 再加上杯热稠酒(1元/杯, 它家的也很好喝)。

西安樊记腊汁肉店(鼓楼对面)竹笆市45号 7273917 b 王老三肉夹馍,就在杨家村口,普通的1元一个。

c竹笆市王恒肉夹模。一个肥瘦的,一个全瘦的,各五块和四块五。

d 秦豫肉夹馍,搬到骡马市街上了。秦豫肉夹馍(东木头市,碑林北面)、刘峰肉夹馍(南门外振兴路口)2.4.新华甜食店

新华甜食店:大麦市街。

直到那碗镇店之宝的蜜汁八宝稀饭端出来后 用宫廷式的碗装着,里面的米一粒粒清晰可见 八宝就是葡萄干,枸杞,莲子,山楂,红枣

东南亚甑(zèng)糕王:北广济街和西羊寺交叉的路口。

用枣泥和着糯米,有新鲜的还有真空卖,这家店斜对面有一家很小的甜点店,很有名。豌豆黄,是用豆泥夹着枣肉,切成三角形一块。“甑”字—主要是指蒸糕的容器,据传在原始社会后期已经产生。

滚雪球牌小奶糕,号称是钟楼牌新包装,有五种口味,香竽、原味最浓郁,个人觉得是用羊奶做的。柿饼,用柿泥煎的饼,像南瓜饼的做法。2.5.葫芦头泡馍

a西安最有名的葫芦头泡馍当属“春发生”,位于粉巷,南大街向南走。“春发生”最有名的是“肥肠葫芦头泡馍”,12元一碗,两个馍。吃葫芦头有一点要注意,不能像羊肉泡馍那样把馍掰的那么碎,只要掰成蒜瓣那么大就好了。较之羊肉泡馍,葫芦头的要清淡许多,更适合口味较轻的人食用。葫芦头的菜单和其他炒菜的菜单是分开的,但有意思的是葫芦头菜单一概没有定价,不嫌麻烦,您就挨个问服务员吧。平心而论,炒菜的味道还不错,尤其是以肥肠为原料的那几种,但如果您就是为了吃葫芦头,路边小店5元一碗,百分之九十的可能性比“春发生”强。从竹笆市向南走到头到粉巷右拐100米就到了。2.6.红红酸菜炒米

(在鼓楼的仿古街中间)——就是牛肉丝、青辣椒以及白菜做的泡菜炒米饭,4元一份。另外酸梅汤杯子比较有特色;酸梅汤: 1元一杯,不过还是“红红”家的最好喝。

2.7.定家小酥肉 8元。(在大皮院尾)—羊肉切成一条条的,然后每条都有用淀粉裹住,用纱布包好上蒸笼蒸。一般都是一瓷盆肉加一碗米粉。建议在西安的第二天之后再去吃,比较能品出滋味来。这家店另外一个亮点是饮料—酸梅汤。2.8.饺子宴

a德发长,位于鼓楼边上,以饺子宴和新派海菜著称。一楼大厅就是饺子快餐,配零星凉菜。可是以饺子宴著称的德发长一楼,却只供应三鲜和羊肉两种馅。一盘三鲜(6元15个),一盘羊肉(5元15个),然后拿着取饺子的条就坐在位子上耐心等待。一会儿,一个服务员推着一辆装满饺子的小车就过来了,车上挂着一个牌子,上书“羊肉”两字。服务员接过饺子条,很麻利地拿起一个空盘子,往里就倒了一盘子饺子。

挑了那家鼎鼎大名的德发长 结果,这家是我西安行中最最失望的一家!!2.9.烤肉

a高家烤肉馆(在大皮院口)据观察来这里吃的都是当地人,而且他们家的东西很便宜,比如烤鱼,人家一条就卖15元,他们家两条串在一起算一串,才10元。另外,他们家不是那种在街边有门面的,在路边你只能看到一个窄窄的路口,有个灯箱写着高家烤肉馆,顺着巷子走进去,会看到一户人家,这里就是了。羊肉0.2元一串,牛肚0.3元一串,酸梅汤1元,八宝稀饭2.5 b平娃烤肉馆(仿古街中间)最少十串!烤肉评价不高

c 西安的烧烤是很有名的,北院门一条街都是烧烤,烟熏火燎,呛得你喘不过气来,烤肉、烤鱼,只要有胃口,你就吃吧。我挺喜欢吃烤马面鱼,就是贵点,15元一条。

注意:北院门的几乎所有店铺都不免费提供餐巾纸,好像是五毛一包。

d 强烈推荐文艺路建西街路口的山羊烤肉庄, 价格和平娃一样, 量却是平娃的一倍, 而且口味适中, 羊肉1元/串, 牛肉0.5元/串,涮牛肚0.5/串 , 还有很好吃的烤油饼2元/个, 胃口好的还能点个烤羊排, 凉菜里的黄瓜蘸酱(酱是甜的, 很特别),凉拌金针菇和蕨菜凉粉都不错, 也就6,7元/盆, 手抓羊肉(20元/小份)和狗肉锅仔(20元/锅), 还有超好喝的汉斯菠箩味果啤(3元/瓶),青岛啤酒出的, 很清爽的口感。

2.10.乌家小炒

(在大皮院中间)—其实就是泡馍,羊肉丁、西红柿、青菜、碎馍等放在一起,对于吃不惯西北泡馍的朋友来说这是不错的改良泡馍。比老孙家吃的要好多多了。

2.11.岐山面

建国路上北头的一家岐山面馆。服务员介绍的时候说一份6碗10元钱,结果面上来是汤碗一样大的6个碗,红红的,酸酸辣辣的汤。还好后来发现里面的面条果然只有两大口的样子,其余都是各种各样菜和肉的臊子。胖嫂面馆★:在东大街靠近钟楼北边一条案板街。鲜艳的橙红色汤面上漂浮着四季豆、土豆、胡萝卜、肉丁、豆腐丁、西红柿等,红黄白黑青,花花绿绿。贾平凹的“ 西安小吃小识录”,文章里写到歧山面有九字令:韧柔光,酸辣汪,煎稀香。韧柔光是指面条之质,酸辣汪是指调料之质,煎稀香是指汤水之质。在钟楼国际青年旅社里可以叫到正大歧山臊子面的外买,是偶然发现,味道很好。他家还有臊子夹馍,非常好吃。不过这里送外卖没有碗,要自己借大面碗。外卖是用塑料袋装的。2.12.清真小吃

从鼓楼仿古街直下走到头是市政府,向西拐就是大皮院。

清真小吃街在鼓楼的北面,也叫北大街,而汉民的小吃街,在城东的东新街上。西安的清真小吃街在鼓楼的到市政府那街上。

牵人麻辣粉:就在德福巷口,很好吃的麻辣粉,在西安开有好几家分店,粉巷这家是总店,虽然门面很小。

卤汁凉粉:大皮院走到头正对着那家。天冷了不卖的。

糊辣汤:是很多西安人最爱吃的早点。西安到处是卖糊辣汤的,但还是回民坊上的好吃。老李家糊辣汤非常好,记住,是早点。回民街里有一种叫肉丸糊辣汤的,很多见,也是泡馍吃的。汤呈藕粉状,里面有肉丸、土豆丁、胡萝卜丁等等,算是蔬菜最多的一种面食了,而且很便宜,加上馍一共2元钱。

清真炒菜:小庭院比较好,价格公道,味道不错,吃不惯别的就去他家吧。需要注意的:西安的回民街有不少回民小吃(别在回民的地方吃猪肉和喝酒)。回民街中间有一个炸柿子饼的!0.5元/个,有各种味道的!它是用面活柿子榨成的!

一分利面馆的牛肉哨子面。

回坊人家,回民街里最大的一家餐馆,价格比其他家稍贵,但很干净。

回民不用点菜下单的,服务员端来什么你想吃就拿,不分客人进来的先后,所以有些点了也等不到。土特产在回民街买价格较便宜,品种也较多。象核桃(买28元/斤的较好吃),弥候桃干,清真腊牛肉,大枣。2.13.冰峰汽水

冰峰汽水,除了大饭店,到处都有卖的,1块钱1瓶。是西安本地产几十的汽水了。

2.14.小奶糕

冷饮:在东大街把口的开元商城下面买的钟楼小奶糕,真的很好吃,特别推荐花生的,也很有特色。5毛钱的价格很值。2.15.米皮&粉蒸肉&其他

南大街第一个向西去的巷子,朱选民米皮。

在一家很老的回民馆吃了粉蒸肉,一碗大概有3两多,是牛肉块和江米面蒸出来的,需要趁热吃,味道很有特色。

还有杂羔汤,就是羊杂碎汤泡馍。一大碗3块5,特实惠,里边有很多大块的羊杂,味道鲜极了。

抵达北广济街,沿街向北,在广济街与庙后街交界路口 其他:

回味楼,大盘鸡、丁丁炒面、碎肉炒面、一品蛋酥,都不错。凉糕是糯米粉做的,上下两层糕中间夹着枣泥,和另一种白糯米做成大个粽子状,切成一块块的,涂上很多蜂蜜和豆沙放入饭盒,可以用牙签边走边吃,也不错!八宝镜糕2元。镜糕是糯米粉蒸熟后压在小模具里,放在小屉上蒸几分钟,熟了后放点蜜饯,蘸上白糖,虽然只有薄薄圆圆的一片,桂花香飘,遍地都有,很随意的小吃。蜂蜜凉糕、蜜汁凉粽子,3元一份,还不错。

老徐家柿子饼铺子★:从百盛旁边的北广济街去回民街。贾永信柿子饼★★:走过西羊市来到北院门。

柿子饼是用西安临潼产的新鲜火晶柿子(比核桃略大,无硬核),去皮摘蒂和上面粉成火红色面胚,再包裹上豆沙、核桃仁、芝麻、花生、枣泥等各种馅料双面油煎而成。柿子饼金红色,拿在手上小巧可爱,轻轻咬上一口,面饼外脆里软,桂花香气飘溢,蕴涵着十分明显的柿子味道,馅甜而烫嘴,要小心!因为要用新鲜柿子制作,而柿子的保存时间有限,所以柿子饼一般只有秋冬两季才有供应。绿豆糕,5角一块,好吃。粉巷的家乐超市的思乡绿豆糕★。

醪糟,那种感觉有点像豆汁,初尝不太适应,一旦习惯,难以割舍。油酥千层肉饼,挺脆的。

陕西的柿子,玉米和苹果都非常好吃。

石子饼:从兵马俑出来等车的地方。擀成一分钱硬币厚薄、盘子大小的圆饼,平铺在铁锅里加热的黑色小鹅卵石上,再盖一层黑石子,烘焙数分钟即成。发现超市里有袋装的卖,每个只有巴掌大小,分咸、辣、果、甜等口味,只买了咸味的带回来尝,也非常香酥,是方便携带。擀面皮:案板街的胖嫂面馆 长条宽扁状而呈鲜亮的透明色,凉拌佐以辣椒、芝麻、油盐等,咬起来十分筋斗,口感厚实又滑爽,当地人是很爱吃的。2.17.小吃名店

中华小吃城 南大街113号 7265635 西关牛羊肉泡馍馆 西关正街 8626308 同盛祥牛羊肉泡馍馆 钟鼓楼广场 7272170,13.8一碗,量大,水围城。麻酱凉皮,是面皮做的,口感很厚实,又浓又香又辣,只要3元钱。春发生葫芦头泡馍馆 南院门20号市委对面 7272680 鼓楼锅贴馆 西大街钟鼓楼广场 7277465 刘记 南院门大车家巷内 3067077 王大妈面屋总店 南二环朱雀路什字西南角 5260145 三原老黄家西安分店:文艺路建设西街副16号 火劲柿子和石榴,以及那家老兰家烤肉 西安小吃自助餐:

在东大街(距钟楼一站地)有个西安饭庄★是专门吃西安小吃的,19元/人。楼上也可以点菜, 强烈推荐。西安凉粉,蜜汁大枣,枣末糊。五一饭店(东大街回走100多米。)的中式快餐很诱人,各色小吃至少有二、三十种,令人垂涎,当街外卖的“五一大包”(饭店的特色包子,虾肉包最好吃)味道更佳。本地人大都在这里吃而不去回民一条街。

回民街并没有在地图上明示,它应该是指鼓楼北侧的北院门、西羊市、大皮院、北广济街等围绕清真寺的一带回民居住地。2.18.超市

1)钟楼往南走有个粉巷,那里有个家乐超市算是大的了。

2)大型超市里有专门的陕西特产柜台, 象水晶饼, 绿豆糕, 野核桃, 四味枣等等 比机场里要便宜许多, 也比回民街的要干净, 可以多买些。还有饮用水, 可以买农夫山泉和娃哈哈的, 千万别买康师傅的, 一股怪味。世纪金花地下一层的超市买水是最便宜

3)回民街上从市政府那个街口进去的贾永信超市里东西很贵,同样的特产在钟楼开元超市里比他要便宜。

第三篇:精选西安旅游导游词

西安是我国六朝古都所在地,文化历史悠久,以下是小编整理的西安旅游导游词,欢迎参考阅读!

西安旅游导游词

1西安,古称长安,是当年意大利探险家马可·波罗笔下《马可·波罗游记》中著名的古丝绸之路的起点。西安,这座永恒的城市,就像一部活的史书,一幕幕,一页页记录着中华民族的沧桑巨变。早在 100 多万年前的旧石器时代,以西安的蓝田猿人为代表,揭开了人类文明的一页。到六、七千年前的新石器时代,先民们在此建造了村落——半坡村,成为中**系氏族公社繁荣时期的典型代表。西安的建城史已有 3100 多年。历史上周、秦、汉、唐等十二个王朝在此建都,历时 1100 多年。中国意为中央之国,中国的中心之点或叫大地原点就在西安,难怪“秦中自古帝王州”!秦始皇在此建造了中国建筑史上的杰作阿房宫,在骊山建造了规模巨大、埋藏极为丰富的历史宝库秦始皇陵,在汉唐时期,西安就是中国政治、经济、文化和对外交流的中心,是当时人口最早超过百万的国际大都市。“东有罗马,西有长安”是西安在世界历史地位的写照。至今,西安与世界名城雅典、开罗、罗马齐名,同被誉为世界四大文明古都。西安无愧于华夏文明的发源地。

“西安文物甲天下”,深厚的历史文化积淀和浩瀚的文物古迹遗存使西安享有“天然历史博物馆”的美称。

秦始皇兵马俑坑被誉为“世界第八大奇迹”,秦始皇陵是最早列入世界遗产名录的中国遗迹,明代古城墙是至今世界上保存最完整、规模最宏大的古城墙遗址。近年,汉阳陵的开发又一次造成了世界的轰动,其出土的裸体彩俑被誉为“东方维纳斯”。市内有 6000 多年历史的半坡遗址;明代建立的藏石碑三千多块、被誉为石质历史书库的碑林博物馆;文物储藏量全国之最的陕西历史博物馆;唐代著名高僧玄奘法师译经之地大雁塔;西北历史最长的清真寺化觉巷清真大寺,以及西安旅游区内的华夏始祖轩辕黄帝之陵黄帝陵;汉武帝刘彻之墓汉茂陵;唐女皇武则天与唐高宗李治的合葬墓唐乾陵;释伽牟尼佛指舍利存放之处法门寺等驰名中外的景点。

自然景观峭拔险峻,境内及附近有西岳华山、终南山、太白山、王顺山、骊山、楼观台、辋川溶洞等风景名胜区,更有周边的森林公园十余个。人文山水、古城新姿交相辉映,构成古老西安特有的神韵风姿。

西安的旅游商品生产具有浓厚的地方特色,秦俑仿制品、仿古青铜器、秦绣、玉器、丝绸、工艺瓷器、户县农民画、唐三彩、瓷板画、景观表、麦杆画、关中剪纸等民间工艺品十分丰富。全市有推荐旅游购物商店 15 家,可以较好满足游客不同层次的购物需要。同时,西安的餐饮业可以供应全国八大菜系及欧美西餐、日本料理、韩国烧烤、东南亚风味、清真等各式美味佳肴,发掘仿唐菜 120 多种,形成以唐菜为主的传统菜和以陕菜为主的现代菜。在全国饮食业优质产品评选中西安的饺子宴,羊肉泡馍等八个品种荣获金鼎奖,特别是西安独具特色的地方小吃吸引着八方宾客。

西安自古以来就是交通要道,是中国东部通往西北、西南以及西亚各国的咽喉。如今铁路、公路、航空交织成网,四通八达,把西安与全国连成一体。中国四大国际空港之一的西安咸阳国际机场与国内各城市开辟有 100 多条航线。

如今的西安,又是一座以机械、电子、电工、航空航天、轻工工业为主,拥有 500 多个科研机构、40 余所大专院校,经济繁荣、环境优美、文明整洁的现代城市。

西安旅游导游词

2西安碑林创建于公元1087年,是收藏我国古代碑石时间最早、数目最大的一座艺术宝库,陈从汉到清的各代碑石、墓志共一千多块。这里碑石如林,故名碑林。西安碑林内容丰富,它既是我国古代书法艺术的宝库,又汇集了古代的文献典籍和石刻图案;记述了我国文化发展的部分成就,反映了中外文化交流的史实,因而驰名中外。

西安碑林是在保存唐代石经的基础上发展起来的。唐代人所称的石经,包括公元745年唐玄宗李隆基书写的《石台孝经》和公元837年刻成的《开成石经》。

碑林第一陈列室前是专为陈列《石台孝经》修盖的碑亭。《石台孝经》是碑林最大的石碑,刻于公元745年,是唐玄宗李隆基亲自书写的。孝经是孔子的学生曾参编篡,专门讲孝道的。前面一部分是李隆基为孝经作的序。玄宗为孝经写序的目的是表示自己要以“孝”治理天下。后面是孝经原文,小字是玄宗为孝经作的注释。底座由3层石台组成,上刻有生动的线刻画,有蔓草、狮子花等,是唐中期比较有代表性的,上面是浮雕卷云瑞兽。此碑由4块石头组成,底下有石台,因而称“石台孝经”。

碑林第一陈列室主要陈列《开成石经》,内容包括《周易》、《尚书》、《诗经》、《周礼》、《仪礼》、《礼记》、《春秋左氏传》、《春秋公羊传》、《春秋谷梁传》、《论语》、《孝经》、《尔雅》等12部经书,计650252字,用石114方,两面刻文。清代补刻的《孟子》17面3万余字也陈列于此,合称《十三经》。12部经书是封建社会知识分子必读之书。因为当时印刷术不很发达,为了避免文人学士们在传抄经书时出现错误,并能永久保存,就把这12部经书刻在石碑上,作为范本,立于长安城国子监内,供人们校对。我国自东汉开始,曾先后7次刻经。《开成石经》是目前仅存的一套完整的石刻经书。

西安旅游景点导游词范文1:南泥湾

位于延安城东南45公里处。南泥湾是中国共产党军垦事业的发祥地,是南泥湾精神的诞生地。百年前,这里人烟稠密,水源充足,土地肥沃,生产和经济都十分繁荣。到了清明中期,清统治者挑起回汉民族纠纷,互相残杀,使这里变成野草丛生、荆棘遍野,人迹稀少,野兽出没的荒凉之地。

抗日战争进入相持阶段以后,蒋国队向共产党、八路军抗日根据地发动了大规模扫荡,并调集几十万队包围陕甘宁边区,实行严密的军事包围和经济封锁叫嚣着要“饿死八路军,困死八路军”。当时,边区地广人稀,土地贫瘠,仅有140万群众,要担负起几万干部、战士和学生的吃穿用,实在是一件难事。正如毛泽东说的那样“我们曾经弄到几乎没有衣穿,没有油吃、没有纸、没有菜、战士没有鞋袜,工作人员在冬天没有被盖……我们的困难真是大极了”。

在这严峻的历史关头,1939年2月党中央、毛泽东及时地提出了“发展经济、保障供给”的总方针和“自己动手”、“丰衣足食”的号召,动员广大军民开展大生产运动。1940年,朱德总司令根据中共中央关于开展大生产运动的指示精神亲赴南泥湾踏勘调查,决定在此屯垦自给。1941 年春,八路军一二0师三五九旅长兼政委王震的率领下,奉命开进南泥湾,披荆斩棘,开荒种地,风餐露宿,战胜重重困难,量的物质财富。

西安旅游导游词

3黄河是中华民族的母亲河,黄河壶口瀑布是镶嵌在九曲黄河之上的一颗璀璨的明珠,是北方最富有特色的大型瀑布奇景,名列全国第二大瀑布。1988年被列为国家级自然风景名胜区,1991年被国家旅游局评为“中国旅游胜地四十佳”之一。

河水流经此地,以其巨大的力量,泻入河谷,冲入深槽,顿时,涛声轰鸣,水雾升空,惊天动地,气吞山河,显示出“黄河之水天上来,奔流到海不复回”的宏伟气概。壶口瀑布呈现出“水底冒烟”、“霓虹戏水”、“晴空洒雨”、“旱天鸣雷”、“山飞海立”等奇特幻景。抗日战争时期,革命诗人光末然,音乐家洗星海,就是在黄河壮丽情景的激励下,谱写出鼓舞人民斗志的《黄河大合唱》。1987年9月,黄河漂流队探险队员王来安乘坐由40个汽车轮胎缠结成的密封舱,顺瀑布而下,揭开了人类在壶口体育探险的序幕,人称“黄河第一漂”。其后,天津勇士张志强在黄河大桥跳悬索,人称“中华第一跳”。

1996年8月,河南冯九山横跨壶口走钢缆,创下高空走钢缆最长的世界吉尼斯纪录,被誉为“华夏第一走”。1997年6月1日为迎接香港回归,“亚洲第一飞人”柯受良驾车飞越壶口,创下世界跨度最大的飞车世界纪录,被称为“世界第一飞”,中保财产保险有限公司的冠名巨幅广告被载入世界吉尼斯纪录大全,同时创造了另一项新的世界之最。1999年6月20日,山西吉县青年农民朱朝辉骑摩托车飞越壶口,又创下了新的奇迹。这些奇迹的创造,和壶口瀑布的惊世气魄相得益彰,使名景和名人的知名度急骤升高,吸引着越来越多的国内外专家、学者及游客到此观光、考察。

第四篇:西安钟鼓楼日语导游词

鐘楼の案内

鐘楼は西安のシンボルの一つで、東西南北の四つの大通りの交差点にあり、西安の中心です。

鐘楼が建てられたのは西暦1384年で、明の時代でした。最初は西大街の迎祥観にありましたが、当時そこは西安の中心地だったからです。西暦1582年西安城が拡大されたため、鐘楼の位置は中心でなくなり、すこし西側のほうになってしまいました。それで、もとの鐘楼を壊して、拡大された西安城の中心地、つまり、現在の所に鐘楼を造りなおしたのです。

西安の鐘楼は中国の数多くの鐘楼の中で、形が一番大きく、一番よく保存されているものです。明の時代の西安は首都でもないのに、なぜ鐘楼の規模が一番大きいなのかということついては、いつも人々に不思議に思われていますが、それにまつわる面白い話があります。

明の時代の西安では、何回か大地震がおこりました。それは西安城の下を流れている川の中に蛟竜(こうりょう)がいるから、よく地震がおこるのだという噂がありました。西安府の知事はそれを聞いたら、大変信じていたので、蛟竜を鎮めるために、鎖で蛟竜を縛り、それを川の底まで沈め、その上に大きな鐘楼を造ろうと命令しました。それで、大きな鐘楼ができたのだそうです。不思議なことに、鐘楼ができてから、西安では大きな地震がおこったことはありません。

それはでたらめな伝説だと思われるかもしれませんが、できたわけがぜんぜんないとは言えないと思います。明の初代の皇帝朱元璋は貧しい家の出身で、いろいろな苦労をなめて、やっと皇帝になったのです。ですから、皇帝になってから、真竜天子に権力を奪われはしないかと深く恐れていました。それで、「竜気」を押しつぶそうとして各地に鐘楼を次々と建てさせました。特に西安は皇帝のよく出るところですから、もっとも大きな鐘楼を造らせたそうです。

鐘楼と鼓楼は古代に中国都市の特別の建築です。鐘と鼓は中国ではもともと打楽器で、約3000年ぐらいの歴史があります。最初は礼器と楽器として使われていましたが、春秋時代から(紀元前8世紀)から、軍事指揮に使われるようになりました。中国の古代の都市はみな軍事的お城という特色を持っていました。周囲は城壁で囲まれ、外堀や跳ね橋が造られ、それらを一体に組み合わせたのは中心地にある鐘楼です。鐘楼は指揮中枢部なのです。普通は晨鐘暮鼓として時間を知らせるのですが、緊急の時には、警報をしらせ、都市の防衛を指揮していました。このような防御システムは明の時代になって最盛期になり、明の時代の西安は西北地区の軍事中心でした。

鐘楼は敷地面積は11260平方メートル、建築面積は1378平方メートル、高さは36メートルです。土台は正方形で、高さは8.6メートル、レンガ造りです。その上は木造造りで、釘は一本使われておりません。外からみれば3階に見えますが、実際は二階建ての建物です。

鐘楼の二階の西側の壁に「鐘楼記」という石碑が嵌められています。鐘楼全体が移されたことについて記されています。

元の鐘楼にかかっていた鐘は唐代の景雲年に作られた景雲鐘ですが、不思議なことに、今の鐘楼に移されたら、音が出なくなってしました。仕方がなく、もう一つ作りました。いまの鐘は重さ5トン、周りに八卦図案が刻んであり、明の成化年(1465-1487)に作られたのです。

建国後、鐘楼は三度修復され、昔の面影がそのまま残されています。鐘楼の上にのぼると、西安市の全景を一望できます。

鼓楼

鐘楼の西側約1キロあたりのところに鼓楼があります。明の洪武13年(1380年)に造り始め、鐘楼より4年早く着工したのです。清の康煕38年(1699年)、乾隆5年(1740年)二回ぐらい修復しました。鼓楼の上に大きな鼓が置いてありますので、鼓楼と名づけられたのです。いまの鼓は1996年に作られたのです。

昔は朝、鐘楼の鐘をつき、暮れるとき、鼓楼の鼓を叩いて、人々に時間を知らせていましたので、晨鐘暮鼓と呼ばれていました。この鼓楼は敷地面1999平方メートル、建築面積は1804平方メートル、高さ33メートル、南北向きに通路のような門があり、鐘楼と同じように、土台はレンガ造りで、それより上は木造作りです。鼓楼の楼閣の南側に「文武盛地」という大きな扁額があり、それは清の乾隆の親筆です。

今の鐘楼と鼓楼の間に広場ができて、いつも観光客と市民でにぎわっています。

鐘楼と鼓楼の案内はこれで終わらせていただきます。お疲れ様でした。

城壁

西安の城壁は中国に現存する古代の城壁の中では唯一の完全なもので、唐代の城壁を明代に造りなおしたものです。

明の太祖巣朱元璋が「高く城壁を造り、多く食糧を貯め、帝王を称するのを延ばす」という提言に基づき、全国に城壁を造らせました。今の西安の城壁はその時代に改修されたもので、明の洪武三年から洪武十一年(1370年――1378年)まで行われましたが、初唐の規模のおよそ9分の1に縮小されました。

明代に造られた城壁は、高さ12メートル、上の幅は12メートルから14メートル、土台の幅は15メートルから18メートル、周囲は13.9キロです。最初の城壁は層に分けて黄土を突き固められたのです。一番下の部分は土、石灰ともち米汁でつき固められ、非常に丈夫にできたのです。後にレンガで城壁の内外とてっぺんを敷き詰めたのです。

城壁には120メートルごとに敵台が一つ造られ、城壁の外に突き出ていて、高さは城壁のてっぺんといっしょです。これは城壁を攻める敵を防ぐために造られたのです。敵台の間の距離はちょうど弓矢の有効射程の範囲内なので、横から攻めた敵を殺すことができます。城壁には敵台が98あり、いずれも兵士を駐在させる敵楼が造られていました。

城壁の城門は城内に入る唯一の道なので、もっとも工夫に工夫を考えて造られたものでした。西安の城壁は東西南北に四つの城門があり、それぞれ正楼、箭楼、闸楼(こうろう物見やぐら)の三重の城門あります。闸楼は一番外側にあり、跳ね橋の上げ下ろしのコントロールを管理するところです。闸楼には窓がたくさんあり、外に向けて射撃するために造られたのです。闸楼の三面が城壁とつながり、羊馬城と呼ばれ、半月形の立体空間となっています。敵が闸楼城門に入ったとしても甕の中に入ったように、周りから攻撃されるので、甕城とよばれたのです。

二番目の城門には箭楼があり、城門を守るもう一つの防御工事です。闸楼と同じように箭楼の三面が後ろの城壁とつながり、正楼との間がもう一つの甕城となっています。箭楼の上には窓がぎっしりあり、射撃するために造られたのです。箭楼は第一城門と第三城門の間にあるので、敵が第一甕城にはいっても第二甕城に入っても、そこから攻撃することができます。

正楼は城門の第三番目の城門であり、正門でもあります。正楼と箭楼の間は甕城となり、兵士を駐屯させるところでした。甕城には城壁を上がる馬専用の坂道があり、城壁には馬専用の坂道が全部で11あります。

城壁の四つの角には物見やぐらが一つあり、城壁の外側に突き出ています。その役割は敵台と同じです。城壁を一周すると、きっと不思議に思われることがあると思います。ほかの角がみな直角形なのに、ただ西南の角だけが半径12メートルの円形となっています。それはなぜでしょうか。1983年の修復でその謎が解明されました。明の城壁は隋唐の城壁をもとにして造りなおされたものですが、西南の角だけが唐の皇城の円形のままにしておいたのです。

城壁の外側に姫垣が築かれ、それに切れ込みあり、全部で5984あります。、矢を射ったり、見張ったりするために造られたのです。内側の姫垣には切れ込みがなく、行ったり来たりする兵士が落ちないように造られたのです。

城壁の上に40――60メートルごとにレンガで造られた水槽があり、排水に用いられています。それは城壁の長期保護には大いに役立ちました。

城壁の外側には壕があり、城門には跳ね橋があります。跳ね橋をあげると、城内にはいることができなくなります。城門は東門が長楽門、西門が安定門、南門が永寧門、北門が安遠門と呼ばれています。

西安の城壁はかつて規模の大きい軍事防御システムでした。また中国に現存しているお城の中でもっとも完全な形をしているお城でもあります。明の時代の歴史、軍事および建築の研究には非常に貴重な実物資料を提供してくれました。

1983年に城壁の修復工事をしました。そのおかげで、いまの城壁はみなつながるようになりました。城壁と外堀の間は環城公園となっています。夜になりますと、城壁がライトアップされて、とてもきれいです。それは西安でしか見られない独特の夜景です。楽しみにしてください。

第五篇:西安景点导游词 日语

お出迎え

皆様、ようこそ西安にお出でになりました。長い旅、本当にお疲れ様でした。私はガイド兹通訳朱栄と申します。これから、皆様の西安のご滞在中、お世話をさせていただきますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

論語に「朊あり、遠方より来る、また楽しからずや」とありますが、今私の気持ちは全くその通りでございます。私は弊社を代表致しまして、皆様のご来訪を心より歓迎致します。何か要望や不行き届きな点などございましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。

皆様の西安の旅がこの上なく、楽しいものとなりますよう一生懸命努めてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

皆さん、西安はなんと言いましても悠久の歴史を持っている中国最古の都でございます。紀元前11世紀の西周から、秦、漢、隋、唐など約十三の王朝がこの一帯2000年にわたり都をおきました。特に唐の時代の長安は、様々な国からたくさんの人々がこの長安に集まり、当時としては最大の「100万都市」として栄えました。有名なシルクロードの出発点はこの西安でございます。これから、***を見学していきましょう。

大雁塔と大唐芙蓉園

皆さん、西安の名所旧跡の中では一番にあげられるのは大雁塔です。大雁塔は日本の皆さんにもなじみの西遊記に書かれた玄奘三蔵と関係があります。唐時代の高僧玄奘は、さかのぼること629年に生まれ、27歳の時、長安から西域への旅に出ました。そして、16年に経った657年に仏舎利や仏像、そして多くの経典を携えて長安に戻りました。玄奘は、その後大慈恩寺の住職となり、仏教に力をつくしました。唐の太宗と高宗はこの功績をたたえ、そのことは当時の書道家楮遂良の手によって石碑に刻まれ、今もそれが大慈恩寺の中の大雁塔に保存されています。この寺は、唐の高宗李冶が、母親文徳皇后の冥福を祈って648年に建てたものといわれ、西安の南郊外にあります。当時、この寺は現在の7倍以上の広さをほこり、今では大雁塔だけになりました。大雁塔は当初、五重の正方形のものでしたが、その後、レンガで7重にし、775年には、さらに十層のものに改築されました。今皆さんご覧になっている高さ63mの大雁塔は七層ですが、これは後の戦争で上の三層が崩れ落ち、残った下の部分を修復したものです。

ところで、皆さんは大雁塔が建てられた由来をご存じでしょうか。

玄奘がインドから多くの経典を持ち帰ったことは先に申しあげましたが、玄奘はそれを翻訳し、それを保存するために、当時の太宗皇帝に進言して654年建てられたのが大雁塔です。初めは慈恩寺塔と呼ばれ、それを大雁塔と呼ぶようになったひとつの説を紹介しますと、『慈恩寺三蔵法師伝券三』によりますと、「摩掲陀国に、ある寺があり、ある時、雁が群れをなして、空を飛んでいたところ、突然そのうちの一羽が境内に落ちて死んでしまった。これを見て驚いた僧侶たちはその雁を菩薩とみなし、その雁をとむらうために塔を建てた」ということです。

こうして、慈恩寺塔は雁塔と呼ばれるようになりましたが、その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられたため、慈恩寺のものは「大雁塔」、薦福寺のほうは規模が小さかったから、「小雁塔」と呼ぶようになりました。なお、現存する大慈恩寺の中の建物は大雁塔を覗いて明の時代のものですが、お寺の大雂宝殿には、釈迦如来の三身仏と十八羅漢、法堂には阿弥陀仏の像が祭られています。法堂の東側の壁には玄奘の拓本がかけてあり、これを見ますと玄奘法師が、一所懸命仏教に身をささげた様子が伺い知ることができます。また、塔身の南側には、唐の太宗皇帝李世民の勅令による、「大唐三蔵聖教序記」の石碑が嵌め込まれ、いずれも唐代の大書道家楮遂良の手による傑作として知られています。さらに、塔の入り口のところに刻まれている唐代の建築図案は、中国古代建築を研究するうえで、重要な資料を提供するものといわれ、大雁塔の北に位置する、最近新しく建てられた玄奘三蔵院には三蔵法師の頭の骨や自筆の経典が納められています。

このように、「大雁塔」は現在、最もよく保存されている唐代の建物ですが、古都背西安のシンボルとしていつまでも人々の心に残り続けることでしょう。

大唐芙蓉院は西安の曲江新区に位置しており、敷地面積は約66万平方㍍、その中、水域面積は300平方㍍を占めます。中国の西北地域で最大の文化公園です。

華清池

皆さん、前方の右側をご覧ください。山が見てきましたね。その山はどんな形に見えますか?そうですね、遠くから見ると青い馬のように見えます。ですから、驪山を名づけられています。驪山の麓にある華清池は私たちの目的です。

皆さん、いよいよ華清池に到着します。この温泉と風景の美しさで有名な華清池は3000年あまり前に発見され、歴代王朝により離宮や浴槽を作られました。毎年、寒さを避けるため皇帝はここを訪れました。唐の玄宗皇帝と楊貴妃によりロマンスが有名ですが。絶世美人楊貴妃が美し肌を洗った様子は白居易の「長恨歌」にも歌われています。なお、お湯遺跡博物館は楊貴妃を使った海棠湯をはじめ蓮花湯、太子湯、尚食湯、星辰湯などの温泉の遺跡が発見できます。ちなみに、湯殿の奥にある五間庁は西安事件の時将介石が泊まったところです。ここもあわせてご案内致します。

はい、華清池に着きました。ここでの見学は2時間となっております。今ちょうど9時ですから、11時に必ずバスに戻ってきてください。ここは観光実は多いですから、できるだけ一緒に行動するようお願いいたします。万が一道に迷ったら、ご自分でバスにお戻りください。だから、バスナンバーとバスの色をよく覚えておいてください。では、貴重品をお持ちになって、バスを御降りください。はい、皆さん、お手洗いへ行きたい方はどうぞ、そちらへ。

はい、じゃ、華清池の観光ルートは飛霜殿、九龍池、お湯遺跡博物館、それから階段を登って西安事件の舞台である五間庁です。皆さん、参りましょう。

ここは玄宗皇帝と楊貴妃の寝室―飛霜殿です。冬になるた玄宗皇帝は楊貴妃をつれて華清池へ寒さを避けに来ます。この飛霜殿に源泉に引き込んであっため冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。ここぁら驪山の美しい風景が眺められるし、それに、雪が降ると周りは全部白くなり、飛霜殿の前の九龍池には温泉が湧いて、湯気が立ち上がりますので、とてもきれいです。もちろんこれは今立て直されたものです。白居易の『長恨歌』の中に楊貴妃の風呂上りを「春寒くして、浴を賜う(たまう)華清池、温泉の水溜(みずため)らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う。死児たすけ起こせば嬌(きょう)として力無し」と書いてあります。じゃ、皆さん、御湯遺跡博物館へ参りましょう。そこには楊貴妃が入った浴槽があります。蓮花湯は先に申しあげましたが、楊貴妃の浴槽は海棠の花の形をしているので、海棠湯というのです。ちょっと見た目は今の浴槽ほど豪華ではないですが、その時は大理石でつくっていますから、豪華なはずですよ。

次の見学するところへ移動しましょう。ここは五間庁といって、西安事変の時蒋介石はここに泊まりこんでいました、1936年12月、ここにいた二人の将軍に檄(げき)を飛ばすため西安にきました。12日朝5時突然の銃声で目を覚ました蒋介石は着の身着のまま逃走しましたが、山腹(さんぷく)の岩陰に隠れているところを張学良の護衛兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。ここの五間庁にその時の銃弾にうたれた跡が残っています。

皆さん、これで華清池の見学が終わりました。ちょっと10分間休憩しましょう。写真を撮りたい方は撮ってください。10分後車の方へ戻ってください。

兵馬俑

秦の始皇帝陵は西安の東36kmのところにあります。その壮大の墳墓は2200年ほど前に作られ、中国史上初めての皇帝のお墓で、世界でも最大級のものです。秦の始皇帝は紀元前259年に生まれました。13歳の若さで王位につき、紀元前221年に中国統一という大事業を成し遂げましたが、中央集権政治を实施し、文字や貨幣、度量衡を統一したほか、北方の騎馬民族対策に長城を築くことはあまりに有名です。一方専制君主として人民に苛酷な負担を強いることになり、ついに始皇帝の死後、大規模な農民蜂起もあって、秦王朝を滅亡しました。

ところで、始皇帝陵は始皇帝は即位する当時に作り始めました。そのため、動員図70万人述べ、实に、38年間わたる巨大な土木工事でした。それについて、有名な司馬遷も「史記」の中に建設規模と豪華さに触れています、それによると、「三たび水脈達する深くほり、銅版を下に敷い柩を納めるようにし、また、この陵の中宮殿、望楼を作り、百官の席を設け、奇器、奇物でいっぱいにした。百の川、大海を作り、機械の仕掛けて絶えず、水銀が流れるようにした。上の方は太陽、天体の形を作り、下は山、川、地の形を整えた」と記されています。この陵墓の壮大は最新技術を使った、今の調査結果でもそう確かめられています。

もう一つ、今日の目的である「兵馬俑博物館」はこの陵から1.5km離れたところにあります。「兵馬俑」は、1974年に用水工事をしていた農民たちが偶然発見したもので、「兵馬俑」とは、兵士や馬の形をした土偶のことですが、始皇帝陵の死後、陵に埋められ、いわば始皇帝の近衛兵というべきものです。

今のところ、兵馬俑は現在三つ発掘されていて、その総面積は20000㎡にものぼろスケールの大きいものです。陶俑と陶馬は8000代、木造の戦車は100両ほど、青銅製の兵器は40000件も見つかっています。さらい感心させられたことは、实物大の兵士が一体ずつ表情や髪型が違い、どれ一つとも同じものはありません。このことから、秦の軍隊が様々な民族から編成された混成部隊だったことがわかります。このように、兵馬俑は、兵士の指先や靴底まで繊細に作られていて、馬の鬣や尾までもリアルに再現さてれているのを目の当たりすると、当時に千人以上だったといわれる職人のこだわりが感じられます。こうして、秦の始皇帝陵全体としては、この兵馬俑坑のほかにいろいろなものが発見され、最近の発掘では兵馬だけでなく、宮殿の实物大のレプリカや文官や芸人などの俑も発掘されており、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るための軍隊と思われていたこの遺跡は、实は、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうをするねらいがあったとも推測さらています。

兵馬俑一号館

1979年10月にオープンした一号館は始皇帝兵馬俑館最初の建物です。東西230m、南北62mの長方形をしていて、発見された三つの俑坑の中では規模の最も大きいものです。1000あまりの兵隊の俑、戦闘馬車とそれを牽引する馬の俑32体が出土しました。一号館の兵馬俑は歩兵を中心とした主力部隊ですが、先頭は武士俑が並び、ついて歩兵と戦車の隊列が続き、その左右両側と後ろにはそれぞれ1列ずつ武士俑が配置されています。

皆さん、これらの兵馬俑はよくご覧になっていただくとわかりますが、兵士たちは、その容貌だけでなく、朋装もくらいによって、それぞれ違います。最も目立ったのは将軍俑で、将軍は先端を巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためリボンが顎の下で丁寧に結ばれ、胸まで格好よくたらしています。また、戦闘朋も二枚着ており、鎧も独特な形をしていて両肩と胸のところでリボンで結ばれています。現在、ここでの発掘はまだ継続中で、埴輪の数は推定で6000体ぐらいあるだろうと推測されています。

兵馬俑二号館

昔、戦争では陣立ては勝負を決める重要な要素でした。軍事家たちが多くの陣立ての形を考えました。しかし、その内容がずっと最高の軍事秘密で現在その記録がほとんど残っていません。

1976年、最初に発見されました兵馬俑坑の周りを発掘したところ、その北側から大量の俑が新たに発見されました。これは現在の二号館で展示されている兵馬俑です。

二号館の面積は約6000㎡、陣立ては陶俑と陶馬は合わせて1300体余りあり、ほかに戦車、歩兵、騎兵など編成された「W」の形をした曲陣で、それと騎兵集団で構成されていますが、御者が手綱を引き、片方の手に弓を持っています。戦車集団のほうは、4頭立ての馬車一台に御者が1人が付き、両脇の兵士二人は武器を手にして、戦車に登る姿勢を示しています。

先頭部隊は弓弩兵器を携えた射手で、右側に戦車、中央には歩兵と戦車が交互に左側には騎兵が配置されており、最後の方は騎兵と歩兵をいった陣容の混合部隊です。この陣立ての形は攻めることも守りことも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい弱点がありません。

兵馬俑三号館

三つの兵馬俑館中で唯一発掘が完成したのが三号館です。三号館の面積は376㎡の凹字型となっており、規模として一番小さいほうですが、地下の大軍を統帥する指揮部です。ここからは馬車一台、馬、武士の俑、それに青銅製兵器が出土されています。

大清真寺

現在西安には6万人の回民族イスラム教の教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教徒の宗教活動の場所である寺院―モスクがたくさんあります。清真大寺は鐘楼の西側の鼓楼のすぐそばにある化覚巷にあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺の中に保存されている石碑の記載によれば、この寺は唐の742年の建立ですが、明代の1384年に大修理を行われました。

寺院は楼、台、亭、堂の四つの部分に分かれ、敷地は一万二千平方㍍、建築面積はやく四千平方㍍、ほぼ完全な建築群で構成されています。壮観なドームや尖塔、モザイクなどを特徴とするアラブ式のイスラム寺院とは異なり、清真大寺の造りいぇ装飾は伝統的な中国式です。その特徴は塗装された梁や柱の彫刻を持つ中国特有の楼に色濃く見られます。

前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛縁な木牌坊があります。第二院には石碑が一ヶ所あり、石碑には明代、清代この寺を修復したことが記載されています。第三院の中央に省心楼という建物があります。ここは礼拝の時、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿とも呼ばれており、信者は毎日5回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前にシャワを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方㍍、1回千人以上の礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用して、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んでいます。この寺は全て中国のイスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼、台、亭、堂四書類を形成しています。また、寺の建物は全部対称しています。

人々の生活習慣と風俗などが民族によって異なることはいうまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。

ムスリムは豚肉もお酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。

結婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読む、メッカに生涯を誓います。女性は他の民族と結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣があります。

葬式の時も読経します。棺は使わず、28mの木綿の織物で遺体を包んで埋葬します。

回民族の朋装は漢民族と変わりませんが、年配で回族意識の高い男性は白いフチのない帽子をかぶる習慣があります。

碑林博物館

碑林博物館は、西安の南城壁のすぐそばにある孔子廟遺跡の場所に建てられていて、その敷地面積は3万平方㍍、「西安碑林」と「石刻芸術」と二つの部分からなっています。

皆さん、ご存じのように中国の正門は一般に南に向いていますが、碑林博物館はの正門だけは東に向いているのはなぜでしょう。それは孔子廟には必ず西と東の門があり、これを「礼門義路」と言って、いわば「礼儀の門」という意味があります。

さて、まず、正門に入りますと城壁と向かい合って「孔廟」の大きいな文字が見えてきます。それから、目の前に鳥居型の門が見えますが、これは「牌楼」ともいい。功労があった人の徳をたたえるために建てられたものです。更に、もう一つの門をくぐると中央に小さい道があり、その両側に馬をつなぐ「杭」があります。これは明、清時代からのものと言われ、これらの杭は、昔、この地方の大金持ちや官僚の邸宅の門にあったもので、訪れた実の馬をつなぎとめるものでした。なお、石柱の頭部には、邪悪を鎮め、縁起の良い動物や人物のデザインがほどこされております。もうちょっど足を進めますと、東西の方向に亭が見えてきます。東の亭には、大きいな種が置かれていますが、この鐘は711年、唐時代の景雲2年に造られたもので、「景雲鐘」と呼ばれています。この「景雲鐘」は銅で鋳造され、重さ6トンもあり、表明に凸凹の乳首のようなものがついていますがこれは鐘の韻律を調整するもので、種に音色はまるで鳳凰の鳴き声のようとも言われています。

西安碑林、総数が2千基にのぼる「碑林」は文字通り石碑は林のように立ちならんでいるところからこのように名づけられました。碑林は歴史的にも芸術的にも価値が高く、中国最大の「石の書庫」とも言われています。ここで展示されているのは漢時代から唐、明、清時代にかけてのものまで、ここで注目されますのは、特唐代の有名な書道家が書いた書道作品です。

皆さん、目の前に「碑林」の文字が見えてきましたね。これは中国の民族英雂、林則徐が書いたものです。ここに碑林の最大の石碑であります「石台孝経」が展示されていますが、「孝経」とは、孔子の弟子曾参が編集した親孝行について書かれた本ですが、この石碑には「孝経」の内容だけでなく、唐の玄宗李隆基が書いた解説、序なども刻まれています。なお、石碑は高さ約6m、頭部、碑文、台座の三つの部分からなり、台座は三層で、その上の石碑は四つの石からなっています。頭部には生き生きとした蔓草や縁起の良い動物の線刻が刻まれていますので、ご注目ください。

第一陳列室 ここに展示されているのは「開成石経」です。114の石碑の両面に儒学の経典13経に全文が刻まれています。「開成石経」は唐の文宗の開成2年に立てられましたが、その石碑も戦争や自然災害によって大きいな被害を受け、40余りの石碑のうち、壊れた部分に文字を今度は前より小さい石碑に刻まみこみ、1588年には「開成石経」の傍に置くようになりました。いずれにしましても、これらは我が国でただ一つの完全に保存されている石刻経典といえます。

第二陳列室

この陳列室には、唐代の有名な書道家がかいた石碑で、後世の書法の手本となったものばかりが展示されております。初唐の欧陽詢が書いた「皇帝誕碑」、その息子の欧陽通の「道因法師碑」、顔真卿の書「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。「大唐三蔵聖教序碑」は長安の弘福寺の和尚懐仁が王義之の書を集めて作ったといわれる「千金帖」です。また、ここには、大書道家の大作のほかに、古代ローマからキリスト教が伝来したことを伝える「大秦景教流行中国碑」はよく知られています。碑文は、中国とシリア両国の文字で書いてあり、唐王朝と外国との交流を研究するうえでも、貴重な資料となるものです。

第三陳列室

ここで篆書、隷書、楷書、行書、草書の書体で刻まれた石碑が展示され、中国文字の変遷を理解するには格好の場となっております。碑林の石碑の中で、最も古いものは「漢曹全碑」です。これは後漢の曹全が隷書で書いたものです。また、「千金文」は昔から児童の啓蒙書となってきました。

石刻芸術陳列室

1963年に建てられた石刻陳列室は、陝西省各地に散在していた前漢時代から唐代までの墓石と宗教的な石刻作品70点余りと集められ、陳列室には石棺、仏像、石刻の動物などの貴重なものが展示され、中には、丸彫り、浮彫、線彫りなどの石刻があります。なお、「牛耕図」は後漢時代の画像石の代表なものです。そして、唐の太宗李世民の愛馬を浮彫した「昭陵六駿」は唐代石刻芸術の代表的な作品として評価が高いです。

陝西歴史博物館

陝西省歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の国立博物館です。西安の南に位置しており、敷地面積7万㎡です。所蔵する文化財は11万3千あまり、陝西省から出土した周、秦、漢、唐時代からの文化遺産です。展示されているのは、その中から選ばれたきわめて稀なものばかりで、約3,000点余りです。すべてのものが一品ぞろいです。展示室の面積は1100平方㍍、建物は代表的な唐代の宮殿様式で、『中央は殿堂、四隅は高楼』という伝統的な構造になっております。

展示品 館内に入って、まず目につくのは、大きな石に獅子ですが、これは則天武后の母親の墓 順陵の獅子に模造品です。

第一展示室は、約115万年前の旧石器時代、藍田猿人から始まっています。ここに展示されているのは、旧石器時代や新石器時代の代表的な文物で、先史時代の人々の生活ぶりを現しています。

現在、確認されている最も古い王朝は殷です。殷代には占いため亀甲と獣骨に刻まれ文字があります。これを甲骨文字といい、漢字の最も古い形になっています。周の時代、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時代なので、「青銅器時代」をされています。青銅器は銅と錫と合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになれました。博物館に展示されている青銅器は、祭礼の楽器、生産、生活用具、实戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文内容の重要さなど、世界美術史上も貴重なものです。

この展示室では秦の足跡を展示しています。展示品の中には都咸陽の宮殿遺跡か発掘した瓦、煉瓦、土管などが並んでいます。始皇帝の事業の一つ、通貨の統一をあげることができるが、当時の貨幣関係の資料も展示されています。漢代の都、長安城は、中国の歴史における初めての国際的大都会で、当時、ローマ帝国より2倍ぐらい広かったと言われます。当時の冶金、製鉄技術では、既に石炭による送風式溶鉱炉を使用していました。農機具だけでなく、兵器や日用品なども大量に鋳造、生産していたのです。紙の発明はかなり古く、西安覇橋の漢墓などからも、植物繊維で造った紙が発見されていますが、さらに良質の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。ここに展示されている、1965年咸陽市の東約25キロの陽家湾で発見された彩絵陶俑群で、計2500個以上が出土しました。絢爛たる文化の華咲く唐代で、注目していただきたいのは壁画です。陵墓から運ぶ出された唐代の巨大な彩色壁画の展示が来館者を圧倒します。例えば則天武后の孫娘永泰公主の墓から出土した「侍女図」という壁画の女性を見ると胸元を緩やかに広げ、いわゆる詰襟の中国副の硬さがありません、足元を纏足ではなく大きな沓を履いています。いかにも自由闊達と見える、これらの女性たちが馬に乗るも横座りでなく、跨って大路を駆け抜け、闊歩したとも伝えられています。隋 唐展示室では金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など当時の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。唐三彩は西安、洛陽一帯に分布していますが、出土数が大変少なく、大変珍しいものです。陳列室されている馬、駱駝、宮女、宦官、各種生活用品など、題材の豊富です。葬式の行列に使う冥器などでも、工芸水準は大変高いものです。

黄帝陵

黄帝陵は中華民族の始祖黄帝軒轅氏のお墓です。陝西省の延安市黄陵県の橋山の上に位置しております。「天下第一陵」と言われています。橋山、海抜980メートルです。ここは歴代帝王と有名人たちが祭るところです。

黄帝は原始時代の優秀な部落首領です。土の徳を尊ぶ(とうとぶ)、土の色は金色ので、黄帝を呼ばれるようになりました。黄帝は天下を統一して、天下共主と言われいています。後人は自分を「炎黄子孫」また「華夏子女」と呼びます。黄帝は伝説的な人物ですが、後世に「人文始祖」と称えております。

ここは軒轅広場です。黄帝陵を祭りの出発点です。軒轅広場は5000枚秦嶺天然河の玉石で敷き詰めてきて、中華民族の5000年の悠久の歴史を代表しています。目の前の池は「印池」と呼ばれて、伝説によりますと黄帝が筆を洗いところです。今、私たちが通ったこの橋は「軒轅橋」を呼ばれて、印池を横断して、全長66メートル、幅が8.5メートルで、全部花崗岩(かこうがん)で造りして、中国近代全石材第一橋と知られています。北端に95段階の石段があります。九五の尊の崇高(すこう)な地位を代表しています。

軒轅橋を突っ切ると軒轅廟です。軒轅廟は唐の代宗に建てられ、敷地面積約6666平方㍍、入りますと、左にコノテガシワがあって、高さ約19メートル、世界コノテガシワの父と言われて、遡ること、4700年もあります。

人文初祖大殿は正殿で、全廟の本館です。中には黄帝の浮彫全身の彫像があります。神棚の周囲は四つの縁起のよい動物の図案が刻まれています。左は蒼龍、右は白虎、上は朱雀、下は玄武です。

黄帝陵区は約4平方㍍、四隅は山と水、樹木が茂っています。頂上に登って、まず、石碑が見えてきて、「文武百官ここに馬をおお降りください。」が刻まれています。黄帝陵は山頂の真ん中に位置しており、南に向いて、高さ4メートル、周長約50メートルです。陵の前に「漢武仙台」が刻まれていた石碑があります。これは漢武帝が造たものです。

崋山

陝西省の華陰県にあって、西岳とも言われています。中国五岳の一つで、崋山主峰海抜2160メートルで、北は黄河を俯瞰し、南は秦嶺に連なります。崋山は「天下第一険」と言われ、雂大さと険しさで古くから中国五山の一つとして広く知られています。

東峰は崋山の奇峰の一つで、峰頂に美しい景色や「日の出」を見ることができる朝陽台があるので朝陽峰とも言われています。北峰は「雲台峰」をも呼ばれて、海抜1500メートルで、四方は断崖絶壁で、ただ1本しか山道が南側の連峰に通じていません。映画「智取崋山」はここから取材したものです、それは筆のように屹立して、千刃の断崖をなし、頂上から俯瞰すると秦川がぼうぼうと流れ、その間に渭水と洛水が龍のように曲がります。頂上には劈山救母石があり、聞くところによると中国有名な神話「宝蓮燈」の中の沈香が山を切り開いて、母親を救った物語はここで発生したと言い伝えられています。南峰はすなわち「落雁峰」崋山の主峰で海抜2083メートルもあります。崋山の最も険しい峰で、峰には深緑の松とコノケガシワ、林がうっそうとしています。東に雲を突いて架設した長空桟道があります。中峰は玉女峰をも呼ばれ、東、南、西峰に通じる要路です。

崋山は険しさが特色で「険」という文字があちこちにあります。山に至るところに断崖絶壁があり、山道は険しく景色も美しいのです。山道に沿って、玉泉院から蒼龍嶺まで多くの景勝地を見ることができます。

崋山の麓から青珂坪までの道中は風景が静寂で、谷間が鮮やかな緑色に染められて、鳥がさえずり、花が香り、泉が流れて、人々の心をゆったりとさせます。青珂坪の東からこそは本当の登山になります。ここに「回心石」の文字が刻まれた大きな石があります。これから先が崋山の危険なところです。この文字を見て体力の無いもの、肝っ玉の小さいものは引き返します。回心石を過ぎると崋山の咽喉、「千尺棟」に着きます。ここは険しい崖の小道両で、370段に石段があり、両側にあるロープを掴んで一歩ずつ登らなければなりません。「千尺棟」の幅はとても狭く、下を見ると深い井戸です。更に進むと、もっと険しい「百尺峡」に突き当たり、その後、仙人橋を通り、一段と険しい「老君梨溝」に至ります。ここは海抜1500メートル、史方は断崖絶壁で、570段の石段があり、その突き当たりは「狐孫愁」というところで、文字通り、猿でさえ困惑していて、断崖絶壁がどんなに険しいが想像できます。「狐孫愁」を過ぎると崋山の北峰に到着します。

見送り

皆さん、いよいよ西安を離れる時間が迫ってきました。もう一度身の回りをチックしてください。今から、空港へ向かいますので。

この3日間行き届かない点が多くて、ご迷惑をかけたかと思います、3日間の観光はあっという間に過ぎました。本当にお名残惜しいです。

私は皆様のお供をさせていただき、大変楽しく、いろいろと勉強させていただきした。こうして無事に快適な旅行ができましたのも、皆様のご協力のおかげです。この次、お出でになる時もぜひ私どもの旅行社をご利用ください。それまでに、私ももっと日本語を勉強しておきますので、また、ご案内させていただければ有りがたいと思います。

皆様、ここでお別れです。どうぞお元気で、さようなら。

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