第一篇:日本の酒文化
日本文化に酒文化が深くかかわっている事に異論はない。縄文時代(6000年前)から今にいたるまで米は日本人の食の中心をなしており、つまりは日本酒も日本人の生活に文化に深くかかわり、ほかの世界各地とは違う独特の文化を形成しているということになる。
「浪漫・亀の尾列島」で尾垣淳治氏は次のように述べている。
日本酒の醸造方法は「併行複醗酵」と呼ばれるものであります。澱粉の糖化には麹菌の糖化酵素を用いて行い、生じたブドウ糖や少糖類からタンクに共存させた「清酒酵母」によりアルコール、その他の日本酒の「味」を構成するいくつかの成分が醗酵過程で生成されてくる訳です。つまり、澱粉の糖化と糖のアルコールへの変換と云う二つの反応が同時進行して酒(アルコール)が作り出される事が「複醗酵」と云われる由縁であり、ビールを醸造する場合の様に、別々の工程で醸造するのではなく、一つのタンク、一つの系で反応させる事が「併行」と云われる由縁となっています。この技法は、「単醗酵」のワインや「複醗酵」のビールと対比しても、極めて効率的なアルコールの製造方法であり、アルコールの濃度が最も高い製法と云われています。私たち日本人の祖先はそんなにお酒が好きだったんでしょうか。その驚異的に高度な技術は、すでに、東アジアにおいては数千年も以前から培われて来たもので、この気候を巧く利用した麹黴の活用法を大陸から導入して瑞穂の国「日本」で完成されたものです。悠久の歴史の中で日本人は高度な醸造技術を創り出し、社会生活の中で進歩発展させて来ましたし、はたまた日本人の遺伝子の中には、恐らく「米の酒」に対する親和性を示すいくつかの遺伝子情報さえ組み込まれていると言っても過言ではないと思います。
如何であろうか、製造方法からの酒文化についての考察を記載させていただいたが、尾垣淳治氏はさらに、人社会における「酒」の位置付けからはワイン(飲料水の代わり)と異なり主食穀類から造られる穀物酒「日本酒」は「酔い」や「酩酊」による「非日常」を容認し、それを神の世界との接触点と位置付ければ、それは取りも直さず、日本における「神事、神社での直会(なおらい)」となるとして「酒」にたいする理由づけがあるとし、「酒」と人との関わりからは日本語でいう「宴」を取り上げ、「集まり酒食」しかつ「楽しむ」ものとし、「酒と人と肴(つまり食)」が日本人社会における一つの「生活の基本単位」でありこの三要素のうちどの一つが欠けても、元来、日本における「宴」はなりたたないものとして「酒」を説明している。酒文化と食文化がお互いに相乗しあい今の日常生活に日本文化に大きく影響していること、また日本人として誇りに思える文化でもあるということは言うまでもない。
第二篇:日本の企业文化
日本の企業文化
番号:200801305252年級:08日本語2番氏名 :周楚玲
国によって、文化が違う。だから、日本によって、自分の企業文化を持つはずだ。
前世紀80年代の円の経済が全世界を打ち負かす時、日本企業は広い称賛を獲得して、終身雇用制と集団主義は国際企業の見本になる。しかし日本の経済がなくす10年に陥る時、日本企業は革新を欠乏して反応を鈍くて批判された目標になる。しかし今まで、財産の500強のランキングの中で、たくさんのは日本企業だ。近代的な市場経済の体系の下でほとんど重要な業界の中で、すべて有名な日本企業の影を見ることができる。日本企業はどうやってそんなことができるか。
もちろん、これは日本の企業文化とは深い関係がある。それで、一緒に日本の企業文化を勉強しよう。
厳しく速い米国の企業文化と比べて、日本の企業文化はその自身の特色があって、これは日本企業が世界の中で覇をとる動機だ。それに、日本企業の一層の発展の束縛を制約するんだ。ここで日本の主流の企業文化の潜む規則を調べてみよう。
規則一:従業員の最も重要な標準を評価するのは企業に対する忠誠度だ。個人の能力と協力の意識は決して大切なものではないではなく、しかし評価の体系の中の権力は再び前者より低いだ。中国の企業界のエリートたちは個人の履歴書の中で異なる会社の経歴を積み重ねることに熱中して、それに通して、個人の能力は強いことを示せるそうだ。日本のホワイトカラーからすると、これはちょうど職業生活の禁忌だ。終身雇用制の名目上はすでに取り消するが、しかしまた多くの人はそれを選んで、多くの会社また主動的に社員を削減にならないの1つの基本的な準則のでしょう、もし従業員は本当にあまりに欠けるならば、昇給しない方法で情報を伝達する。くら替えはしてはいけなくなくて、あまりに頻繁になることができなくて、しかも次に招聘に応じる時納得できる理由を提供する。日本の企業家からすると、前の会社に対して易くあきらめる人は絶対に信頼できない。
規則二:企業の中で発展していきたいのは、しっかりとして中流の位置にするのが1番上等の策略だ。これが特に初めて職場に進む大学の卒業生に対して正しい規則だ。日本会社の中で長期にわたり発展して、必ずなくてはならないのは根気良いだ。多くの日本人の潜在意識の中で、他人より遅れていないのは一番いい状態だ。もし一人は自分を示しすぎことに熱中するならば、同僚の反感と排斥を招くだけではなく、その上上司も恐らくそれによって非情に抑圧することを脅すと感じる。ぼうっとしているショーは林で、風の必ず破壊した中国の哲理は同様に日本企業に適用する。
規則三: 人を使って疑わないで、人が使わないことを疑う。一般的に新入社員は会社に入ったばかり、小さいことをする。多くの人はすべてつまらなくてたまらないと感じて、事実の上で、これは管理者の従業員を試す第1歩だ。これを通して、特にある中小会社の管理者はよく従業員にとても大きい自由をあげて、それに思い切って行って一つの重要なことをさせる。これで、従業員
は圧力に対して各方面の資源を調和して各方面関係の能力を考察する。いったん従業員はこの試練を通したら、恐らく重用されて、さもなくば非常に大いに使うラベルを貼り付けられる。このようなことは成功するかどうかによって、つきの事が特定の従業員に任せるかどうかを決める。一見を見ると間違いを犯す従業員のもう一度機会にあげない、人情と道理に合わないことに見えるが、実は従業員が力を集中して一つの任務を完成することを求めるので、それによって会社の効率を高めることに役立つ。
規則四:真っ先に革新しないで、しかし小さいことを力を尽くしてやり遂げる。経済学の用語から言えば、日本の企業家は多くリスクを逃げるもので、彼らは革新の危険性が高いコストを払いたくないて、しかし日本企業を尊敬をさせるところのは、まねることを実現したことにある時滞っていて最小化。よく欧米企業が新技術を開発するのが間もなくて、日本企業は巨額の資本で買って、しかもきわめて短い時間の内で学んで吸収する、それから全世界でリードする技術で迅速に完成品を生産して、その上その製品は品質あるいは価格がすべて欧米に比べてより優れる。そのように広めて、あの知識を持って能力を持つがちいさいことを見落ちる人たちは、日本企業でよくあまりに良い発展が得られない。これは上司たちはちいさいことから従業員の業績を考察することに慣れるからた。いわゆる悪魔はちしさいことの中で。
規則五:女性は依然として重用を受けにくいだ。日本の企業界と政界の高層で、女性は依然としてきわめて少ないだ。大多数の日本の男女は、女性は結婚する後、仕事をやめて家庭を配慮するのは当たりのことだ。日本で、女傑という言葉はもっと多く悪い意味だ。聞くところによると、日本女性大学の卒業生は就業の時依然として努力して仕事を探す。しかし目的は事業と金銭のためそうではなくて、お金持ち人の伴侶を探すためだ。いったん良いあなたを探し当てたら、結婚後仕事をやめて楽しい生活を享受する。
以上から見ると、日本の企業文化と中国の企業文化はかなり違う。私たちの中国人にとって、自分の文化を知るだけでなく、外国の文化を知るべきだ。私は日本企業に入りたい人にとって、日本企業の文化を詳しく了解するのは大切なことだと思う。
第三篇:日本の食文化
日本社会与文化期末论文
日本の食文化
姓名:张晓
学号:20110203331 学院:新闻传播学院
人们常说,饮食是文化的基石,是民族特性的象征。饮食结构体现了民族的文化水平、宗教信仰、地理环境、经济体制等。日本菜发展至今已有三千多年的历史。据考证,日本料理借鉴了一些中国菜肴传统的制作方法并使之本土化,其后西洋菜也逐渐渗入日本,使日本料理从传统的生、蒸、煮、炸、烤、煎等基础上逐渐形成了今天的日本菜系。日本料理即“和食”,主食以米饭、面条为主,副食多为新鲜鱼虾等海产,常配以日本酒。和食中最有代表性的是刺身、寿司、天妇罗、火锅、石烧等。比较有名的料理有:怀石料理、卓袱料理、茶会料理、修行料理、本膳料理等 日本料理特色:
清淡、不油腻、精致、营养、着重视觉、味觉与器皿之搭配,是为日本料理的特色。
因为日本是岛国,加之资源缺乏,又无接壤之领国,这一自然环境使其危机意识浓重,总怕遇有什么天灾人祸难以度过,使日本民族灭绝。为此日本尽量不用或少用油烹制菜肴,久而久之发展为以清淡新鲜为主流的日本菜肴。
日本受儒教思想影响较大,特别是“和为贵”的思想根深蒂固。日本人崇敬的圣德太子就极为重视“和”,在他主持制定的十七条宪法中第一句话就是“和为贵”。有鉴于此,日本人对屠宰大的牲畜食用,以为不仁。加之日本平原少,牲畜难于饲养,日本人很少食用牛羊肉。
中国菜讲究“色、香、味”,日本菜讲究“色、形、味”。变了一个“形”字,日本饮食文化的特征就出来了。日本菜肴虽不讲究吃出什么滋味,但很注重“形”,所以说日本菜肴是用眼睛吃的。这种比喻形象地道出了日本料理的特点。日本菜首先吸引人的就是它清爽的颜色和独特的造型:用鲜嫩的蔬菜和肥美的海鲜制成的各式各样的精巧食品,保持着原料天然的色彩,每一款都像一件精巧的艺术品,让人久看不厌,迟迟不忍动口。用餐方式:
用餐前后 :日本人在用餐之前及之后都要高声表达两种感受,用餐前要说 “Itadakimasi!”,意思是欣赏这顿饭食;用餐后要说 “Go-chiso-samadeshita!”,意思是感谢款客者预备这顿极美味的饭食。
用餐期间 :日本人的一餐饭食包括一碗饭、一碗味增汤、两道或三道菜肴,配菜越多,那顿饭便越够体面,若有数道菜肴端上餐桌,已令客人颇难选择先品尝那一道。用餐的正确次序是先喝小口热汤,后吃那道菜也可,但不要只集中吃光同一道菜肴,应顺序循环吃每道菜肴,使各份比例均等,才可同一时间吃光所有菜肴。
用餐方式: 日本人的用餐礼仪似乎严厉,但日本人容许狼吞虎咽式吃法,这吃法甚至令其他国家的人感到惊讶。例如吃寿司,日本人习惯赤手拿著寿司浸一浸豉油,然后直接放入口中,他们不会用筷子吃寿司;又例如吃面,日本人直接从汤碗把面吸啜入口,且必会发出响声,依据日本人的习俗文化,吃面时发出响声是表示面食很美味,亦是对厨师表示赞赏的方式。日本社会与文化期末论文
日本人的饮食习惯
日本人养成了清洁卫生的饮食习惯,在家吃饭一般实行分餐。经常吃海产品、豆腐、酱汤等传统食品,加上西方的牛奶、酸奶等,搭配蔬菜,保持了膳食的平衡。吃生鱼片用的佐料日本芥末(天葵),像中国的大蒜一样,具有强烈的杀菌作用。日本大力提倡减盐运动,配合药物治疗。日本人的三餐大体可归纳如下:
一、早餐:普通的日式早餐通常是,一个鸡蛋,一碗米饭,1块烤鱼或火腿肠,一盘蔬菜与水果,一小碟咸菜,一碗酱汤。当然也有一部分人,尤其是年轻人,习惯于西式早餐,往往是一片面包涂上黄油或果酱,一杯牛奶或果汁、咖啡。
二、午餐:多为快餐,如拉面;咖哩饭;盒饭;面包加牛奶/咖啡。
三、晚餐:一碗米饭,豆腐,天妇罗,海虾,生蔬菜,啤酒或清酒,餐后水果,酸奶,茶。日本四大料理:
1、怀石料理
怀石料理,最早是从日本寺庙的寺庙中传出来,有一批修行中的僧人,在戒规下清心少食,吃得十分简单清淡,但却有些饥饿难耐,于是想到将温暖的石头抱在怀中,以抵挡些许饥饿感,因此有了“怀石”的名称。演变到后来,怀石料理将最初简单清淡、追求食物原味精髓的精神传了下来,发展出一套精致讲究的用餐规矩,从器皿到摆盘都充满禅意及气氛。
怀石料理的“不以香气诱人,更以神思为境”,更加体现了日本料理的美轮美奂。
日本料理注重新鲜,其中更以怀石料理为上乘。其每一道菜都是在客人点餐后,才开始现制作的,更加体现了其料理的新鲜度和口感,因为是现制作,所以客人在点餐后一般需要等上一段时间(通常情况下,点餐后到第一道菜的上菜时间是10--15分钟;每类菜之间的过渡时间是5--10分钟)。因此,客人在等餐时需要保持平静的心态,勿以烦躁之心进食而败坏了怀石料理的神思之境。
由于怀石料理沿袭禅宗思想发展而成,也因此得来“净心料理”之美谓。
2、卓袱料理
中国式料理,其特色是客人围着一张桌子,坐的是靠背椅子,所有饭菜放在一张桌子上。这种料理是起源于中国古代的佛门素食,由隐元禅师作为「普茶料理」(即以茶代酒的料理)加以发扬。由于盛行于长崎,故又称「长崎料理」。料理师在佛门素食内采用了当地产的水产肉类,便创立了卓袱料理。
卓袱料理菜式中主要有:鱼翅清汤、茶、大盘、中盘、小菜、炖品、年糕小豆汤和水果。小菜又分为五菜、七菜、九菜,以七菜居多。一开始就先把小菜全部放在桌子上,一边进食,一边将鱼翅清汤及其它菜肴摆上桌。
3、茶会料理
室町时代(十四世纪)盛行茶道,於是出现了茶宴“茶会料理”。初开始茶会料理只是茶道的点缀,十分简单。到了室町末期,变得非常豪华奢侈。其后,茶道创始人千利休又恢复了茶会料理原来清淡素朴的面目。茶会料理尽量在场地和人工方面节约,主食只用三器──饭碗、汤碗和小碟子。间中还有汤、梅干、水果,有时还会送上二、三味山珍海味,最后是茶。
4、本膳料理
属红白喜事所用的议式料理。一般分三菜一汤、五菜二汤、七菜三汤。烹调时注重色、香、味的调和。亦会做成一定图形,以示吉利。用膳时也讲究规矩,日本社会与文化期末论文
例如:用左手拿着左边的碗,用右手把盖放左边。反之则用右手揭盖。先用双手捧起饭碗,放下右手,右手拿筷。每吃两口饭,就要放一下碗,然后双手捧起汤碗,喝两口再放下碗。之后一样方式,喫两口饭再夹一次菜。
源自室町时代(约十四世纪),是日本理法制度下的产物。现在正式的「本膳料理」已不多见,大约只出现在少数的正式场合,如婚丧喜庆、成年仪式及祭典宴会上,菜色由五菜二汤到七菜三汤不等。
寿司:
寿司是在饭里放醋做主材料的日本料理,寿司和其他日本料理一样,色彩非常鲜明。制作时,把新鲜的海胆黄,鲍鱼,牡丹虾,扇贝,鲑鱼籽,鳕鱼鱼白,金枪鱼,三文鱼等海鲜切成片放在雪白香糯的饭团上,一揉一捏之后再抹上鲜绿的芥末酱,最后放到古色古香的瓷盘中„„如此的色彩组合,是真正的“秀色可餐”。吃寿司,讲究的是食用的完整,就是整块寿司要一口吃下,唯其如此,才能真正的品味出寿司的美味,寿司的饭香与生鱼片的香味才能完全相融,将齿颊间填得满满,不留一丝缝隙,那浓香的滋味无处可逃,在口中久久徘徊,一波三折。
早在公元前3至4世纪,中国就有寿司的记载,《尔雅.释器》,其中记载“肉谓之羹,鱼谓之鮨。”鮨,就是寿司。寿司的另一写法“鲊”出现在五百多年后,公元2世纪中国汉朝刘熙的《释名.卷二.释饮食第十三》中。
后来寿司随汉字一同流传到日本,鮨、鲊两字已混为一谈,成为日本人中的寿司,在外邦发扬光大,中国却在明朝时从菜谱中消失。
一千八百多年前(即后汉年代),寿司已在中国流传,至公元700年寿司开始传入日本。当时是一些商旅,用醋腌制饭团,再加上海产或肉类,压成一小块,作为沿途的食粮,后来广泛地流传日本,当时的配料更用上各种剌身,并名为“江户散鮨”亦称“握鮨”,即是现今最受欢迎的寿司。
寿司“SUSHI”、“酸”即是酸腌制的食物。公元700年,即奈良年代,当时的日本人,用一些醋腌制过的饭团,加上一些海产或肉类,压成一小块,整齐地排列在一个小木箱之内,作为沿途的食粮。直到公元1700年,即江户年间,寿司才于日本广泛流传,经久不衰,成为一种普通美味的食品。并受到人们的欢迎。
最早的寿司是用米饭生鱼和酱汁做成的一口就可以吃掉的小型食品,现在的寿司则很多种,可以放一大堆东西,不过必须是一口可以吃掉的。日本寿司在公元九二七年完成的平安时代法典「延喜式」中,就己有记载。当时的寿司指的是一种保存鱼的方式。在鱼身上抹上盐,用重物压紧,使之自然发酵。当产生酸味后,即可食用,其味甚佳。这种方式起源于日本本土。这种方式费时费力,不久便发 展成干脆用醋泡鱼肉的方式。现在,所谓寿司则是指凡是在拌过醋的饭内加进其他馅的食物。现在的日本寿司,除「握鮨」外(即现在我们常吃到的寿司),还有「卷鮨」与「箱寿司」。「卷鮨」是把饭、小黄瓜、鲔鱼、鸡蛋与腌萝卜等用紫菜包着,此外可分为大卷与细卷,即大小之分。寿司卷通常一根用米九十克,煮成饭大约二百克,用紫菜包后食用。有时也可用薄炒蛋皮替代紫菜。用一整张紫菜 包的寿司卷叫「太卷」(即粗卷),只用半张包的就叫「细卷」。寿司卷里一般夹煮过的甜寒天,黄瓜,香肠,蘑菇,炒蛋皮,鱼松或鸭儿芹。
刺身: 日本社会与文化期末论文
刺身(“さしみ”,日语音“沙西米”,即生鱼片),是日本料理的著名菜式。刺身,就是将新鲜的鱼、贝肉或牛肉等,依照适当的刀法切成,享用时佐以酱油与山葵泥(日语音“瓦沙比”,即芥末)调和之沾酱的一种菜式。以前,日本北海道渔民在供应生鱼片时,由于去皮后的鱼片不易辨清种类,故经常会取一些鱼皮,再用竹签刺在鱼片上,以方便大家识别。这刺在鱼片上的竹签和鱼皮,当初被称作“刺身”,后来虽然不用这种方法了,但“刺身”这个叫法仍被保留下来。刺身是日本料理中最具特色的美食。
据记载,公元14世纪时,日本人吃刺身便已经成为时尚,那时的人用“脍”字来概括刺身和类似刺身的食品。当时的“脍”是指生的鱼丝和肉丝,也可指醋泡的鱼丝和肉丝,而那时刺身只是“脍”的一种烹调技法。直到15世纪,酱油传入日本并被广泛使用以后,刺身才逐渐演变成现在的格式。
刺身至少在十四世纪末已经产生,并已相当流行。最早使用“脍”(namasu,也作鱼会)字来概括刺身和类似食品。“脍”是指生的鱼丝、肉丝,也可指醋泡的鱼丝、肉丝。而sashimi(刺身)在那时只是指“脍”的一种烹调技法。只是到了酱油传入日本并广泛使用后,“刺身”(sashimi)才发展成指称类似目前刺身的名称。
面食料理:
日本的面条主要有切面、荞麦面条、龙须面条以及拉面等。另外,日本全国各个地方有代表性具有特色的面条——山梨县的地方菜“甲州名产面条”、秋田县的“稻庭面条”、香川县的“赞岐面条”、冲绳地方的“冲绳面条”等。1.荞麦面
荞麦面(日语:そば soba 或 荞麦切り sobagiri)是一种日式食物,类似中国的饸饹,是用荞麦面粉和水,和成面团压平后切制的细面条,煮熟食用。七成荞麦面粉和三成小麦面粉混合而制的叫“七割荞麦”(“七割”是日语“七成”的意思),口感较滑嫩,只用荞麦面的叫“十割荞麦”或“生荞麦”,香味较强。食用时加上各式不同的佐料,如热吃的汤面可用柴鱼片、海带、酱油、清酒等浇制的汤和葱花、七味粉等,凉式面或拌面,用比热吃时较浓的酱汁,加上葱花、山葵糊、生鹌鹑蛋、紫菜丝等。也可以配上许多不同的菜,如天妇罗、红烧油炸豆腐、生鸡蛋、萝卜泥等等。比较特殊的也有紫菜卷、咖喱荞麦面条等不同风味的食品。
在日本,除了正式面馆以外,在火车站站台等也有供应荞麦面条的小面摊,也有干面和保丽龙杯装的方便面条出售,可以在许多种不同的场合吃到荞麦面条。比较特别的场合,如年底过年时吃荞麦面条、祝长寿、搬家到新房子时向邻居送荞麦挂面等,也离不开荞麦面条 2.拉面
拉面本来是中国的一道美食,据说日本的中华街的中餐馆是日式拉面的发祥地。为了适合日本人的口味,逐渐用本来没有使用的干鲣鱼和海带等材料做汤,诞生日本独自的拉面。作为地方特色的有代表性的拉面是札幌拉面、喜多方拉面、京都拉面、东京拉面、博多拉面等。喜欢吃拉面的人很多,为了只吃拉面从远方特意去各个地方的人也不少。3.乌冬面
乌冬面是最具日本特色的面条之一,是日本料理店不可或缺的主角。乌冬面是用盐水来活的面,促使面团内快速形成面筋,然后擀成一张大饼,再把大饼迭日本社会与文化期末论文
起来用刀切成面条。其口感介于切面和米粉之间,口感偏软,再配上精心调制的汤料,就成了一道可口的面食。最经典的日本乌冬面做法,离不了牛肉和高汤,面条滑软,酱汤浓郁。
日本饮食五大禁忌: 1.招待客人用膳时,不能把饭盛得过满或带尖。当着客人的面不能一勺就将碗盛满,否则被视为对客人不尊重。2.用餐时,不能把筷子插在盛满饭的碗上。因在死者灵前的供桌上往往筷子摆成这种形式。
3.给客人盛饭时,禁忌把整锅饭一下分成一碗碗的份饭,因过去给囚犯盛饭时多采用这种方法。
4.作为客人就餐时,忌讳只食用一碗就说够了,第二碗饭即使是象征性的,也应要求添饭。因为只吃一碗则寓意无缘。
5.吃饭时禁忌敲饭碗,据说这是因为人们迷信敲碗声会招来饿鬼。使用餐具的注意事项:
1、持酒杯的方法(男女不同)
2、吃拉面要出声才代表好吃,但是吃怀石时,喝汤还是避免出声。
3、筷子横摆,不能正对他人。
4、不可用口去舔筷子
5、用餐完毕,要将筷袋入原来的纸套巾,摆回筷枕上。
从日本的饮食文化中,我们能够看到日本人的生活习惯于处世之道。生活在岛国,加之资源缺乏,又无接壤之领国,难以不被环境所影响,而自然清淡、营养、精致成为了日本料理的特征。同样日本人平均寿命的增长同此也并不是毫无关系,而在中国我们口味丰富的饮食习惯是否也应该少许借鉴一下日本呢?
日期:2012年5月26日
第四篇:日本の老人问题
日本の老人問題―家庭関係から見て
内容摘要:
在人类迈入21世纪的今天,人口老龄化、老年人问题正成为世界关注的焦点之一。老年人问题不仅是简单的人口结构问题,而且还是一个复杂的社会性问题。在不同国家,由于人口数量、经济发展水平及社会文化条件的不同,老年人问题在社会各个层面所反映的强弱也不尽一致。自20世纪70年代初以来,日本开始步入老龄化社会,老年人问题日益突出。由于具有东方特色的传统文化的影响,无论是在现实生话中还是有关社会保障制度上,日本的老年人问题都与家庭紧密地联系在一起。
关键词: 老年人问题 家庭 养老 高龄化 社会保障制度
要旨:
21世紀におくの今日は、人口高齢化、老人問題が世界注目の焦点になっている。老人問題は簡単な人口結構問題だけではなく、複雑な社会問題である。20世紀70年代の初めから、日本は高齢化社会にはいって、老人問題が一日と深刻になっている。東方特色の伝統文化の影響によって、現実の生活であっても社会保障制度の面であっても、日本の老人問題と家庭が緊密に繋がっている。
キーワード: 老人問題 家庭
養老 高齢化
社会保障制度 はじめに:
敬老は昔からずっと日本人誇っている倫理道徳スタンダードであるが、時代のかわり、それに、いろいろな原因でこれは昔話になった。高齢化社会の現在の日本では、老人問題は深刻になる一方である。本論文は主に家庭の面から老人問題を論じる。
1、日本の高齢化の現状
平成22年版高齢社会白書によると日本はすでに5人一人65歳以上の高齢者世界で高齢化が進んでいる国となった。日本の総人口は、2009年10月1日時点で、1億2751万人で、前年に比べて、約18万人の減少となった。一方で、65歳以上の高齢者人口は、過去最高の2901万人となった。
さらに、現在は約3人で一人の高齢者を支えているものが,2025年には,2人で1人の高齢者を支えなければならない社会になると推計されている。このような社会となれば,社会福祉関連の支出になる財政の硬直化,労働人口の減少による経済規模の縮小など、負のスパイラルに陥り,国家運営は困難となり,日本全体が地盤沈下して行く可能性が極めて高いと予測される。超高齢社会を形成する要因となる日本の男女の平均寿命は,<平成20年簡易生命表の概況について>によれば、2008年で、男子が79.29年、女子が86.05年となり共に過去最高を記録した。これによれば,第二次世界大戦直後は約50歳が平均寿命で先進国の中でも最も低い水準であった。その後、戦後復興とともに経済が発展するに伴い、社会保険制度の設立、食生活といったさまざまな要因になり、順調に平均寿命が延びていた。現在では、50年前に比べて30年以上長生きする社会になっている。2、老人問題
高齢者及び老年期に関連する社会問題の総称。年をおいた者には貧乏と病気が大敵である。彼らを社会的弱者であるとする認識は古くからあった。子供の出世数が多く平均寿命も短い時代には、多くは家族制度と祖先崇拝や敬老思想によって老後の生活が安定していたから、社会問題として顕在することはなかった。
高齢化社会の到来によって、老人問題は目立っている。老年期の長期化は、老年人口の量の拡大だけでなく、老後の生活の多様化をもたらし、貧困や疾病の他に精神的孤独や生きがい喪失など、人間関係的諸問題を社会的に顕在化させてきた。人口の高齢化とともに心身に障害を持つ介護を必要とする高齢者も増えたが、比較的健康で自己実現や社会活動へのニーズの高い高齢者も大幅に増えたのである。
3、日本の家庭の変遷と老人問題
3・1、老人の基本ニーズと日本の伝統の家族の作用
高齢者は特定の歴史条件下の社会属性のあるグループ、または自然属性を持っている人である。社会の経済体制と価値観の急速な変化にともなって、伝統的な家庭のモードが徐々に解体するし、老人群体の文化の心理や価値システムも変わっている。彼らが健康、長寿、知識、幸せが心からほしいがっていて、精神的な慰めも需要である。自分は家庭や社会に融合して、尊敬や関心を求めていろいろな面から美しい生活を楽しむ。
一般的に、高齢者の生活の基本的なニーズは主に次の四つの面でと考えられる:
(1)、安定な経済 人生の物質的面の満足と安定を求めることを指す。これは人生の中で最も基本的なニーズである。(2)、健康な身体 この二―ズは経済安定のニーズと密接に関連している。生命を維持するには最も基本的なニーズである。(3)、精神の面の安定 こういうニーズは親しい人間関係の中で思いの表しを通して自分が認められて受けられて尊敬されるのことである。(4)、自己価値の実現 自分のある行為あるいは自身の存在を持って、有意義な社会地位と役割をもらうこと。
もちろん、実際の生活でこの四つの基本ニーズは大勢の場合に重ねている。もし、高齢者にこのニーズを満たされるなら、彼らは自立や融合の状態に生活する。老人問題は単に年齢によって生理の老化が社会生活の反映だけでなく、人間は必ず老いていく。社会として、高齢者の自立、融合の資源や援助のシステムを完善するべきである。高齢者問題はこの資源及び援助システムの機能とは深い関係がある。高齢者の福祉は老人の生活の自立と融合を保障すること。老人の資源、援助システムが老人の生活老人の生活の状況を決まっているから、福祉を実現する鍵は資源援助システムが保障されるかどうかのことである。
日本では、老人の家庭及び親戚ネットが老人の資源や援助の核心である。第二次世界大戦の終わりまでには、日本の家族制度は主導的な役割を果たしていて、家庭は老人資源、援助の核心である。高齢者の生活に必要な資源と援助がほとんど家庭から提供していた。日本の家族は一つの現実の家庭の代表するだけでなく、家族の過去と現在の総合でもあり、一種の制度である。このような家族制度で長子が家業を継承して、跡継ぎの子が結婚したあと、両親と同居して、三世代の大家族になる。家族制度で、家は上から次の世代に渡され、永遠に存続していく。長男夫婦の義務は両親と一緒に暮らして、共同の家庭を構成すること。親と同居する子供は家族の継承人であるから、親を養う引き受けるのは当然のことである。家業の継承と年を取った親を養う義務が関連していて、家の道徳はこういう関係に存在する。家の道徳というのは親孝行ということで、両親の教えが何でもまもあなければなりません。自分を犠牲しても親孝行をする。親孝行の鍵は両親の絶対の権威で、すなわち、子供は自分の親に対して、絶対に丁寧に従順する。親孝行というイデオロギーは生活規範として、人の心に刻んでいる。養老の倫理意識はしっかり家族に根ざしていたが、戦前、家庭で老人を扶養方式を支えていた。同時に、戦前の日本では農林漁業の個人経営と小規模の工業者が大半数を占めていた。家には大部分世代から世代への家業がある。家には老人の肉体老いても、豊かな経験や知識技能などを持っていて、彼らは家族にとって貴重な存在である。これは当時日本の家庭は老人扶養を当然な事としての生活基盤である。3.2、戦後の日本家族
第二次世界大戦後の日本の家族は、核家族、直系家族、単独世帯がその主要な部分となっている。第二次世界大戦前では長男がその妻子とともに親と同居して扶養・介護にあたるという直系家族が、家の観念や「家」制度に支えられて理想の姿と思われていたが、第二次世界大戦後になって家の観念が希薄化し、「家」制度を支えた法的規制がなくなるとともに、夫婦本位の核家族の観念が優勢となり、法の統制もまた核家族をモデルとするものに変わった。その後、都市化・産業化の進展とともに核家族は増加し、代表的な類型となっていった。しかしその後、高齢化が進むなかで3世代同居の直系家族も一定の割合を占めていたので、核家族との競合的並存という点に特色が認められた。とはいえ、高度経済成長以降、農村部においても世帯分離は活発化し、3世代同居の直系家族の割合が急速に減少し始めたことも事実である。
なお今日の直系家族は、もはや以前のように家イデオロギーに支えられたものでなく、その意味において任意的直系家族あるいは合意的3世代家族とよぶこともできる。老親との同居の慣行をもたない欧米の家族では、日本のような、それなりに相当な割合の直系家族は存在しない。核家族率の増加に伴い、世帯人員は減少し、5人、6人といった多人数世帯はかなり減少し、2人の世帯が増加しつつある。老親との別居あるいは分居、少産による子供数の減少、就学・就職などによる他出家族成員の増加、離婚などによる単身世帯の増加などが世帯規模の縮小に寄与しているとみられる。戦後、日本は新しい憲法を実施した。1947年、大幅に改まった民法を発布して、専制の家長制や長子制を廃止し、夫婦双方は婚姻、継承などの問題での平等を強調した。家族の制度は破れたが、新民法によって、直系親族や兄弟姉妹がお互いに扶養の義務があることになった。特別な場合に、他の親戚までも扶養義務もある。全ての子供が親孝行する義務があることになった。日本の新憲法と民法の実施に伴って日本の伝統家族制度がなくなったが、伝統的な家庭倫理と家族規範がまだ一定の期間内に役割をはたしている。
3.3、家庭の形式や機能の変化
(1)家庭が高齢者を負担する能力の低下
大勢の人は高齢時期の収入はあまりゆったりしていないし、それに、程度で差異もあるし、高齢者は経済的に子供に依頼せざるを得ない。身体の衰退を加えて、日常生活の中で子供に面倒を見てもらうことが多くになるから、家庭は老人に対して心理や現実生活の関係が深い。日本社会の高度都市化、現代化、産業化のせいで、高齢者はなかなか思うようにいかない。未婚の老人と子供のない老人が一日と増えて、子どもがあても、ある事情でたくさんの高齢者が世話をもらえない。その原因の一つは都市化と現代化と産業化の発展につれて、頼りになる子供がしきりに減少すること。大戦終わりの初期に結婚した人が、現在高齢者に入っている。大部分の人は一人あるいは二人の子どもがあり、日本では、女性が結婚した後、自分の親の面倒を見えない。前の十年に比べて頼りにならない老人がはっきり増加した。第には、産業化の発展に従って子供が仕事のせいで両親から遠く離れるとこるに住んでいる。他に家事に上手なお嫁や娘が仕事に行くから、老人の世話をできない場合がたくさんある。
(2)表面化の親子関係を維持するのはなかなか難しい
中年以上の日本人は儒教の影響を受けて、老人と子供の関係が理想的に思っているらしいが、現実の親子関係とは別のことである。親はちゃんと子供の面倒を見てやったが、子供が大人になったら、親を尊敬しない。こういう親子の薄い感情が都市化の産物そうで、ますます明らかになっている。(3)嫁と姑の関係
高齢者と家庭の関係を論じるなら、必ず嫁と姑の関係に至る。嫁と姑の矛盾がさまざまな原因あり、複雑である。日本では嫁と姑の間の問題が目立っている。実際に行って親と子供の間でもギャップがある。それに下、一旦嫁と姑は食い違いがあれば、普通嫁が批判されることが多い。日本では、儒教の影響で、嫁が姑の話を絶対に聞かなければならないのを要求する。このような状況で、嫁が社会規範を背いて譴責されると思われる。嫁と姑が毎日一緒に行って摩擦を起こる機会が多い、この条件で悪循環を生じしやすい。(4)家庭内部の矛盾
日本では、嫁と姑の問題が特別な問題として存在しているようである。こんなことになった根本的な原因は日本の老人が普通嫁と共に暮らして、嫁を無料な雇い人とするのは習慣になるから。紛争を生じる背景は一般的に老人が高齢化に適応するのには難しいし、子どもが中年になると、社会責任を負うとか、課長を担任するとかの年である。嫁もかなりの社会経験があり、物事に対して自分の考えもある。老人は心身から衰弱して、知識経験があ時代遅れになって、だんだん後代の負担になる。老人が後輩から尊敬と従順してほしい、権威を守るためである。一方で、後輩に頼り程度がつよくなる。普通の三世帯家族にはギャップがある。この世帯ギャップは時代の変わりに連れて強化するかもしれない。4、高齢者の虐待
日本は今、超高齢社会になりつつある。数年前より、介護保険制度も始まった。その介護に関してであるが、介護されている高齢者が虐待を受けるケースが後を絶ちない。
その原因は、介護する家族が疲れ果てていることなど、様々な要因がある。虐待事件は、最悪の場合「介護殺人」にもなるケースがある。高齢者虐待問題は今、避けては通れない問題となっている。
「高齢者虐待」は、暴力的な行為(身体的虐待)だけではない。暴言や無視、いやがらせ(心理的虐待)、必要な介護サービスの利用をさせない、世話をしないなどの行為(介護・世話の放棄・放任)や、勝手に高齢者の資産を使ってしまうなどの行為(経済的虐待)が含まれる。また、中には、性的ないやがらせなど(性的虐待)もある。5、老人問題の対策
このように高齢者対策は老人問題の諸局面に対応して考えなければならないが、国家レベルの対策として行うものは、年金による所得保障、就労対策、保健医療対策が根幹となる。2001年(平成13)1月に厚生省と労働省が一体化して厚生労働省となったことからも、高齢者の就労支援や所得保障と保健医療政策を連動させることが容易になったはずである。老いてもなお働きたいという高齢者が増えている現在、その就労支援対策は国としても全力を投入すべき時期にきているといえる。働くことが生きがいに通じる高齢者に対して就労の機会を与えることは、その精神的・身体的健康を高めることになるのは疑いを入れないところである。(1)年金による所得保障
1961年(昭和36)の国民皆年金制度の施行によって、すべての国民はいずれかの年金保険の加入者となったが、制度の未成熟や制度的分立によって多くの問題が存在している。まず第一に、権利として保障されるべき公的年金水準と国民の生活水準との乖離の問題があり、とりわけ生活保護法による保護基準と比較して、その見直しが問題となる。第二に、厚生年金と国民年金は基本的には「給付・反対給付均等の原則」という受益者負担の個人主義の原理が固持されているところから、老後の所得保障としての実質をもちえない状況がある。また、比較的高い給付水準を維持している各種の公的共済年金は雇用政策的性格をもっており、民間部門と比べて社会保障の公平性や公共性を損なうという指摘もある。また、厚生年金や共済年金の場合は遺族である配偶者に支給される年金がほぼ半額であったが、諸条件の違いにもよるものの現在では約4分の3となるように改正されている。とはいえ、家計支出の実態からみれば、これとてもきわめて論拠が薄弱であるという指摘もある。年金制度のもつ問題点はこのほかにも多々あるが、この制度の改革の基本を老後の所得保障に置くことから考え直さなければならないともいえよう。近年噴出した「年金問題」は、こうした本質的なものではなく、年金記録の正確さや記録の保持の問題に発しているものであり、ずさんな記録管理を指摘されなければならないとしても、年金は老後のにかかわるものであってその基本的性格からして、職業の有無や種類にかかわりなく、高齢者の経済的自立を可能とする必要生活費が社会的権利として保障されなければならないという点を再認識べきであろう。(2)就労対策
老人問題における喫緊の課題は就労機会の拡大・充実であろう。その対策の基本は定年制の延長にあるともいえるが、定年到達後の高齢者に対する対策に限定してみれば、一般の雇用になじむ労働力として把握されるおおむね65歳以下の高齢者を対象とした労働行政的対策と、一般的な定年到達後の就労機会の確保になじまない、65歳以上の高齢者を対象として福祉事業の一環として行われる民生行政的対策があるといえよう。さらにこれらの中間的性格をもつ対策もある。こうした中間的性格をもつ対策として高齢者事業団事業が1974年(昭和49)に発足(1980年シルバー人材センターに移行)し、各種事業を展開している。
労働行政的対策の具体的なものとしては、高年齢者雇用率制度(法定雇用率6%)に基づく雇用の促進、職業訓練による能力開発や求職条件の向上、職業相談・紹介事業による雇用機会の確保などがあるが、就労機会の確保およびそこでの定着は依然として困難な状況下にある。高齢者雇用は景気に左右されることなく今後は拡大することが期待されるが、とくに規模の大きな企率制度を側面的に補完するものとして助成金制度があるが、これらは中小企業に対しては一定の効果があるとしても大企業に対しては実効性に乏しく、これからは大企業に対しては助成金制度とあわせて罰則制度が検討されてもよいであろう。
(3)保健医療対策
高齢者保健医療対策の嚆矢(こうし)ともいえるものは、1963年(昭和38)に施行された老人福祉法によって実施されることとなった老人健康診査である。それ以来、さまざまな形で高齢者の保健医療対策が実施されてきたが、なかでも老人が医療保険で受療した場合の自己負担相当額を公費負担する制度として1973年に発足した医療費支給制度は、老人の受療を保障するものとして保健医療対策の中心的役割を果たしてきた。しかし、この制度の実施に伴い発生した医療と保険の間の負担の不均衡を是正することと各保健医療サービスの総合的実施の必要から、従来の具体的諸対策を統合する老人保健法が制定され1983年2月施行された。
この老人保健法による制度的改革は大別して二つの問題を内包していた。一つは医療費自己負担相当額の一部再有料化問題である。医療費支給制度が開始されるとともに高齢者受療率の上昇がみられたが、これは高齢者の健康に対する不安の顕在化によるものといってよい。もしこの「健康保持のニーズ」を再有料化によって抑制することになれば、罹患(りかん)率の高い高齢者特有の疾病に対する受療機会の抑制につながることになり、それはとりもなおさず高齢者が期待する健康保障、いい換えると医療保障の後退につながるはずである。
老人保健法に基づいて統合された諸対策は、在宅老人に対する保健医療サービスのうちでも疾病の予防、早期発見、早期治療に重点が置かれており、その限りでは、保健・医療の統合化として一定の評価ができた。しかし、在宅老人に対する保健と医療サービスの実質をなす看護と介護、およびそれらにかかる費用は、老人保健法によっても依然としてカバーされない領域であった。老人福祉法による在宅要援護老人に対する介護サービスの多くは適用範囲が所得によって制限されており、高齢者の福祉と保健・医療の統合性や日常性は実現しがたく、高齢者のニーズに対応した対策としてはなお不十分なものがあった。
こうした課題の解決を目的として、1997年(平成9)12月に介護保険法が国会で成立し、すべての国民は介護が必要となったときには法が定める手続を経て、介護サービスを受けることができるようになったことはよく知られるところである。介護保険法は2000年4月から実施されているが、安定的なスタートが切れたとはいえず、さまざまな問題を抱えており改善が望まれていることも明らかである。その問題については他項に譲ることとする。
なお前述したような老人保健法と老人福祉法の谷間にひそむ高齢者医療を確実に担保する意味で、2008年(平成20)4月から老人保健法を「高齢者の医療の確保に関する法律(高齢者医療確保法)」に抜本的に改正し、新たな高齢者医療制度を発足させたのは時宜を得たものといえよう。おわりに:
時代の流れ、社会経済の発展に伴って、家庭も従来の大家族からだんだん核家族になっていて、老人養老モードも変わった。日本の高齢化が加速化につれて、老人問題は深刻になりつつある。政府は一定の保障制度をとったが、養老に家族の役割を発揮すべきだと思われる。
参考文献:
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[10] 木村汎 高橋重宏编 家族と福祉の未来―現在家族と社会福祉提言 [11] ロバーツ 著 三浦文夫监訳
老人問題
第五篇:日本の茶道 原创日语作文(范文模版)
日本の茶道
――茶道から見出された日本の文化
茶道の歴史
抹茶は中国から日本へ来たのは、鎌倉時代と言われています。鎌倉時代のお坊さん栄西が日本に伝え、僧侶の間で睡魔を取り除く薬として広まりました。室町時代になると僧侶の村田珠光(むらたじゅうこう)が内面的な心を追求した「わび茶」をはじめ、その後、その心を受け続いた武野紹鴎(たけのじょうおう)が禅の奥義にも徹し、その弟子利休がこれを推し進め、新しい茶の在り方を開きました。
珠光から紹鴎、さらに利休によって日本の伝統的な詩情を加えた茶道が大成したと言えます。
茶道の道具
茶道の席には「掛物」「茶花」が飾られます。そしてお茶を点てるために「釜」「風炉」「水指」「茶入」、または「茶器」「茶碗」「建水」「茶杓」「茶筅」などさまざまな道具が不可欠であります。そして道具へのかかわり方は実用性を超えています。
歴史的には茶の湯の成立期禅宗の影響を受けて中国の器物、いわゆる唐物に対する関心が高まり、唐物数寄の時代もありました。しかしおよそ15世紀後半から数寄の対象が和物へ移行し始めました。立派な唐物よりも素朴な和物のほうがかえて味わいがあると思われます。村田珠光が「月も雲間の無きはいやにて候」といったと伝えられていました。雲ひとつなくこうこうと照る月よりも雲の中に少し隠れている月のほうがもっと情調があります。このような素朴なものへの数寄がさらに徹底され現れるのがわび数寄であり、わびの美意識でもあるのです。
茶道の精神
日本の茶道は「日常茶飯事」という言葉をもとずいて発展しました。茶道は日常的な行動と宗教、哲学、倫理と美を一体になって、総合的な文化活動でもあります。
そして茶道は物質的の楽しむだけではなくで、茶会を通して茶礼を学ぶ、性情を陶冶し、審美眼と道徳観の育成にとっても、とても大事なことだと思われます。
茶道のお茶は「わび茶」と呼びます。わびは静寂意味があります。友何人集まって、静かの茶室の中にお茶を飲みながら軽いお話をする。世間の紛争を問わず、憂いもない、心配もない、ただ自分の身を修めて、心身を浄化します。これが利休さんが言った「茶禅一味」の意味です。そしてこの静寂の心は茶の湯の心でもあるのです。
茶道はいろいろな規定があります。たとえば、季節によって風炉と水指の位置が変わります。これは人に対する心掛かりです。茶室には必ず茶花が飾られます。でもたくさんの花を採って飾られません。これは命に対する心掛かりです。茶室の中に縁を踏むのはいけません、皿を畳の上にズラと動かすのもいけません。これは物に対する心掛かりです。このようにたくさんの心掛かりは日本茶道の「和」と「敬」の精神を現しています。そして前が言った「静寂」の心を合わせて、「和敬清寂」は茶の湯の大成者利休さんが唱えた茶道の根本的な精神です。
金沢の茶道
金沢の茶道は前田利家によって発展されました。利家は織田信長や豊臣秀吉の影響を受けで茶の湯に関する関心を持ち始めました。茶道の大成者である千利休や織田長益に学び、加賀藩に茶道の文化を定着させ、諸大名などを招いて頻繁に茶会を開くようになりました。そして江戸時代になると、利休から派生した茶道は三人の孫に引き続かれ:表千家、裏千家、武者小路千家の三派に別れました。加賀藩三代目藩主利常は裏千家の千宗室(千叟)を指南として招いたことで、加賀藩に裏千家が普及しました。五代目藩主綱紀のころになると、職人や町人までもお茶の作法を身につけるほど幅広い層にまで広かっていました。今の金沢でも茶道が好きな人は少なくありません。金沢の茶室もたくさんあります。
お茶は中国から日本へ来て、日本人によって発展され、日本独特の風景いなっています。最近欧米の人も日本や中国からお茶を持って帰って、欧米で茶文化を開こうとやています。これはとでもめでたいことだと私が思います。お茶はもともとただの
飲みんものにすぎないが、人々は自分の考え、理想、思いを加えてお茶は飲み物から文化になります。私だちはお茶を飲みながら、この茶道の歴史、茶器の美、和敬清寂の精神を感じています。このようなものを茶道の中に溶けていたこそ茶道が文化たるゆえんだと私が思っています。