西安钟鼓楼日语导游词

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第一篇:西安钟鼓楼日语导游词

鐘楼の案内

鐘楼は西安のシンボルの一つで、東西南北の四つの大通りの交差点にあり、西安の中心です。

鐘楼が建てられたのは西暦1384年で、明の時代でした。最初は西大街の迎祥観にありましたが、当時そこは西安の中心地だったからです。西暦1582年西安城が拡大されたため、鐘楼の位置は中心でなくなり、すこし西側のほうになってしまいました。それで、もとの鐘楼を壊して、拡大された西安城の中心地、つまり、現在の所に鐘楼を造りなおしたのです。

西安の鐘楼は中国の数多くの鐘楼の中で、形が一番大きく、一番よく保存されているものです。明の時代の西安は首都でもないのに、なぜ鐘楼の規模が一番大きいなのかということついては、いつも人々に不思議に思われていますが、それにまつわる面白い話があります。

明の時代の西安では、何回か大地震がおこりました。それは西安城の下を流れている川の中に蛟竜(こうりょう)がいるから、よく地震がおこるのだという噂がありました。西安府の知事はそれを聞いたら、大変信じていたので、蛟竜を鎮めるために、鎖で蛟竜を縛り、それを川の底まで沈め、その上に大きな鐘楼を造ろうと命令しました。それで、大きな鐘楼ができたのだそうです。不思議なことに、鐘楼ができてから、西安では大きな地震がおこったことはありません。

それはでたらめな伝説だと思われるかもしれませんが、できたわけがぜんぜんないとは言えないと思います。明の初代の皇帝朱元璋は貧しい家の出身で、いろいろな苦労をなめて、やっと皇帝になったのです。ですから、皇帝になってから、真竜天子に権力を奪われはしないかと深く恐れていました。それで、「竜気」を押しつぶそうとして各地に鐘楼を次々と建てさせました。特に西安は皇帝のよく出るところですから、もっとも大きな鐘楼を造らせたそうです。

鐘楼と鼓楼は古代に中国都市の特別の建築です。鐘と鼓は中国ではもともと打楽器で、約3000年ぐらいの歴史があります。最初は礼器と楽器として使われていましたが、春秋時代から(紀元前8世紀)から、軍事指揮に使われるようになりました。中国の古代の都市はみな軍事的お城という特色を持っていました。周囲は城壁で囲まれ、外堀や跳ね橋が造られ、それらを一体に組み合わせたのは中心地にある鐘楼です。鐘楼は指揮中枢部なのです。普通は晨鐘暮鼓として時間を知らせるのですが、緊急の時には、警報をしらせ、都市の防衛を指揮していました。このような防御システムは明の時代になって最盛期になり、明の時代の西安は西北地区の軍事中心でした。

鐘楼は敷地面積は11260平方メートル、建築面積は1378平方メートル、高さは36メートルです。土台は正方形で、高さは8.6メートル、レンガ造りです。その上は木造造りで、釘は一本使われておりません。外からみれば3階に見えますが、実際は二階建ての建物です。

鐘楼の二階の西側の壁に「鐘楼記」という石碑が嵌められています。鐘楼全体が移されたことについて記されています。

元の鐘楼にかかっていた鐘は唐代の景雲年に作られた景雲鐘ですが、不思議なことに、今の鐘楼に移されたら、音が出なくなってしました。仕方がなく、もう一つ作りました。いまの鐘は重さ5トン、周りに八卦図案が刻んであり、明の成化年(1465-1487)に作られたのです。

建国後、鐘楼は三度修復され、昔の面影がそのまま残されています。鐘楼の上にのぼると、西安市の全景を一望できます。

鼓楼

鐘楼の西側約1キロあたりのところに鼓楼があります。明の洪武13年(1380年)に造り始め、鐘楼より4年早く着工したのです。清の康煕38年(1699年)、乾隆5年(1740年)二回ぐらい修復しました。鼓楼の上に大きな鼓が置いてありますので、鼓楼と名づけられたのです。いまの鼓は1996年に作られたのです。

昔は朝、鐘楼の鐘をつき、暮れるとき、鼓楼の鼓を叩いて、人々に時間を知らせていましたので、晨鐘暮鼓と呼ばれていました。この鼓楼は敷地面1999平方メートル、建築面積は1804平方メートル、高さ33メートル、南北向きに通路のような門があり、鐘楼と同じように、土台はレンガ造りで、それより上は木造作りです。鼓楼の楼閣の南側に「文武盛地」という大きな扁額があり、それは清の乾隆の親筆です。

今の鐘楼と鼓楼の間に広場ができて、いつも観光客と市民でにぎわっています。

鐘楼と鼓楼の案内はこれで終わらせていただきます。お疲れ様でした。

城壁

西安の城壁は中国に現存する古代の城壁の中では唯一の完全なもので、唐代の城壁を明代に造りなおしたものです。

明の太祖巣朱元璋が「高く城壁を造り、多く食糧を貯め、帝王を称するのを延ばす」という提言に基づき、全国に城壁を造らせました。今の西安の城壁はその時代に改修されたもので、明の洪武三年から洪武十一年(1370年――1378年)まで行われましたが、初唐の規模のおよそ9分の1に縮小されました。

明代に造られた城壁は、高さ12メートル、上の幅は12メートルから14メートル、土台の幅は15メートルから18メートル、周囲は13.9キロです。最初の城壁は層に分けて黄土を突き固められたのです。一番下の部分は土、石灰ともち米汁でつき固められ、非常に丈夫にできたのです。後にレンガで城壁の内外とてっぺんを敷き詰めたのです。

城壁には120メートルごとに敵台が一つ造られ、城壁の外に突き出ていて、高さは城壁のてっぺんといっしょです。これは城壁を攻める敵を防ぐために造られたのです。敵台の間の距離はちょうど弓矢の有効射程の範囲内なので、横から攻めた敵を殺すことができます。城壁には敵台が98あり、いずれも兵士を駐在させる敵楼が造られていました。

城壁の城門は城内に入る唯一の道なので、もっとも工夫に工夫を考えて造られたものでした。西安の城壁は東西南北に四つの城門があり、それぞれ正楼、箭楼、闸楼(こうろう物見やぐら)の三重の城門あります。闸楼は一番外側にあり、跳ね橋の上げ下ろしのコントロールを管理するところです。闸楼には窓がたくさんあり、外に向けて射撃するために造られたのです。闸楼の三面が城壁とつながり、羊馬城と呼ばれ、半月形の立体空間となっています。敵が闸楼城門に入ったとしても甕の中に入ったように、周りから攻撃されるので、甕城とよばれたのです。

二番目の城門には箭楼があり、城門を守るもう一つの防御工事です。闸楼と同じように箭楼の三面が後ろの城壁とつながり、正楼との間がもう一つの甕城となっています。箭楼の上には窓がぎっしりあり、射撃するために造られたのです。箭楼は第一城門と第三城門の間にあるので、敵が第一甕城にはいっても第二甕城に入っても、そこから攻撃することができます。

正楼は城門の第三番目の城門であり、正門でもあります。正楼と箭楼の間は甕城となり、兵士を駐屯させるところでした。甕城には城壁を上がる馬専用の坂道があり、城壁には馬専用の坂道が全部で11あります。

城壁の四つの角には物見やぐらが一つあり、城壁の外側に突き出ています。その役割は敵台と同じです。城壁を一周すると、きっと不思議に思われることがあると思います。ほかの角がみな直角形なのに、ただ西南の角だけが半径12メートルの円形となっています。それはなぜでしょうか。1983年の修復でその謎が解明されました。明の城壁は隋唐の城壁をもとにして造りなおされたものですが、西南の角だけが唐の皇城の円形のままにしておいたのです。

城壁の外側に姫垣が築かれ、それに切れ込みあり、全部で5984あります。、矢を射ったり、見張ったりするために造られたのです。内側の姫垣には切れ込みがなく、行ったり来たりする兵士が落ちないように造られたのです。

城壁の上に40――60メートルごとにレンガで造られた水槽があり、排水に用いられています。それは城壁の長期保護には大いに役立ちました。

城壁の外側には壕があり、城門には跳ね橋があります。跳ね橋をあげると、城内にはいることができなくなります。城門は東門が長楽門、西門が安定門、南門が永寧門、北門が安遠門と呼ばれています。

西安の城壁はかつて規模の大きい軍事防御システムでした。また中国に現存しているお城の中でもっとも完全な形をしているお城でもあります。明の時代の歴史、軍事および建築の研究には非常に貴重な実物資料を提供してくれました。

1983年に城壁の修復工事をしました。そのおかげで、いまの城壁はみなつながるようになりました。城壁と外堀の間は環城公園となっています。夜になりますと、城壁がライトアップされて、とてもきれいです。それは西安でしか見られない独特の夜景です。楽しみにしてください。

第二篇:西安钟鼓楼导游词

西安钟鼓楼导游词范文

作为一名尽职尽责的导游,时常需要编写导游词,借助导游词可以更好地宣传景点,引导游客观光游览。那么应当如何写导游词呢?以下是小编精心整理的西安钟鼓楼导游词范文,仅供参考,希望能够帮助到大家。

西安钟鼓楼导游词1

各位游客:

大家好!

今天我们将去参观西安城墙、钟楼和鼓楼。很荣幸能为大家服务。

我们现在看到的这座古城堡就是明西安城墙,是明初在唐长安皇城的基础上建筑起来的。它是我国中世纪后期历史上最著名的城垣之一,是世界上现存规模最大、最完整的古代军事城堡防御设施。

西安作为千年古都,历代曾多次修筑城墙。它们多数被历史的尘埃掩埋。我们现在看到的城墙可追溯到隋代。公元1369年,明王朝大将徐达从山西进入陕西,将原来的奉天路改为西安,意为“西方长治久安”。拉开了明在西安修筑城墙的序幕。历时8年修筑完的城墙外形是一座长方形。城墙高15米,顶宽12—14米,底宽16—18米,周长13。9公里。最底层用黄土与石灰、糯米汁拌合而成,干燥之后,异常坚固。

西安古城墙包括护城河、吊桥、闸楼、箭楼、正楼、角楼、敌楼、女儿墙、垛口等一系列军事设施。好了,现在让我们亲自来感受这座科学、严密、完整的军事防御体系。

城墙最外围是护城河,也叫“城壕”,是城墙的第一道防线。它可以阻滞敌人进攻,甚至可以利用有利地形把敌人趁机消灭。环绕西安城墙的护城河宽20米,跨过护城河就是城门,而连接护城河与城门的唯一通道就是吊桥。平时,守城士兵听从晨钟暮鼓的指挥,早晨降下吊桥,开启城门;晚上升起吊桥,断绝交通。一旦发生战争,吊桥升起,城门紧闭,城门就成为坚固封闭的战斗堡垒。

城门是城防体系的重点,也是薄弱点。平时,它是出入城市的通道。战争时,又是攻守双方争夺的首要目标。因此,明代十分重视完善城门防御设施。尤其值得注意的一大技术突破是采用了券拱式城门,以防止敌人火攻。明西安城的城门非常坚固,门扇用厚达16厘米的木板制成,一扇城门用木材2。8立方米,门扇上下横匝着铁条加固,每两道铁条的间隔处,钉有180枚铁蘑菇针。整个门扇上共有1800枚铁蘑菇针。这样就挤密了门扇的木材,增加了门扇刚度,使箭矢无法射入。

为了提高城门防御的保险系数,城门实际上由三重组成,即:闸楼、箭楼和主楼。闸楼在最外,它的作用是升降吊桥。兼用来打更。敌人攻入闸楼城门,好似进入瓮内,会受到来自四面居高临下的攻击,因此楼下这一空间也叫“瓮城”。箭楼在正中,正面和两侧都有窗户,供射箭用。箭楼与箭楼之间用围墙连接起来的也叫“瓮城”,可屯兵。正楼在最里,正楼上面的城楼是城门的主体建筑,是主将镇守指挥所在。城墙外侧,每隔120米有一个突出于城墙主体之外的敌台,俗称“马面”。整个城墙上共有“马面”98座,“马面”上面的建筑叫敌楼,两个敌台之间相距120米,而它的一面为60米,为“一箭之遥”。这样的布局便于从侧面射杀攻城的敌人。因此,古人有评论说:“有城无台,亦如无城,是城所以卫人,台又所以卫城也。”。城墙上外侧有矮雉,又称“垛墙”,上有垛口和方孔,可供射箭和嘹望。内侧的矮墙称为“女儿墙”,是为了防止士兵行走时坠入墙下。在西安城墙四角各有一座城楼叫“角楼”。在箭楼与正楼形成的瓮城中,有通向城头的马道,便于战马上下。战争期间,这里是调兵遣将的咽喉要道,必须保证畅通无阻。因此守卫异常严格。

随着岁月的变迁,现在我们可以看到西安城墙的长乐门、安定门、朱雀门、含光门、玉祥门等等,这些名称的来历也从一个侧面反映了古城沉浮衰兴。明西安城墙显示了我国古代劳动人民的聪明才智,好了,西安城墙就参观到这里,我们将继续带大家去参观钟鼓楼。

钟楼和鼓楼是古代中国城市的特有建筑。钟与鼓本是中国最早出现的打击乐器,有3000年以上的历史。最初作为礼器和乐器。大约自春秋时期,开始用于军事指挥。古代中国城市兼有军事城堡性质,除城市四周构筑城墙,挖掘城壕,设置吊桥外,与之配套的还有在城市中心修筑钟鼓楼作为指挥中枢。平时以晨钟暮鼓报告时辰,定时启闭吊桥,紧急状态时用以报警戒严,指挥城防。这种严密的城市防御系统在明代时期发展到顶峰。西安是明代西北军政重镇,它的钟楼和鼓楼无论从建筑规模、历史价值或艺术价值各方面衡量,都居全国同类建筑之冠。

我们现在看到的这座建筑就是钟楼,位于西安市东西南北四条大街的交汇处,它建于明洪武十七年,最初位于西大街的迎祥观,随着城市中心的`东移,到了明神宗万历10年,将钟楼来了个整体拆迁,迁至今址。

钟楼呈典型明代建筑艺术风格,楼高36米,重檐斗拱,华丽庄严。由基座,楼身和楼顶三部分组成。基座是正方形,全部用青砖砌成。楼身为正方形木质结构,外面以回廊环绕,里面为二层楼,楼内有木梯盘旋而上。楼内上下两层正方形大厅里,陈列着明代以来各种名贵瓷器及红楠木家具,四面门上布满浮雕画,风格厚朴生动。楼顶为四角攒尖结构,上面覆盖着碧绿色的琉璃瓦,顶端大圆顶高5米,金光闪闪,辉煌灿烂。

钟楼的西北角上陈列着一口明代铁钟,重5吨,钟边铸有八卦图案。它比钟楼早先悬挂的铜钟小得多。钟楼原先悬挂的巨钟是唐代景云年间铸造的“景云钟”。现在这口钟收藏于西安碑林。据说,钟楼从迎祥观迁到今址后,虽然楼的式样大小并没有改变,但景云钟却怎也敲不响了。没有办法,只有另换。为了将景云钟移到新建的钟楼上,当年在西大街西段搭起一座斜桥,利用桥面斜坡把景云钟运到了钟楼上。据说“桥梓口”也因此而得名。

钟楼内西墙上嵌刻有《钟楼歌》和《钟楼记》碑刻。《钟楼歌》是当年修建钟楼的陕西巡抚龚懋贤在解职赴京时登楼所赋。诗中对钟楼做了热情的赞颂。《钟楼记》是督修过钟楼的巡抚张楷所作,详细记述了钟楼的身世。在钟楼的门上有木刻浮雕故事画共64幅,其中有木兰从军、嫦娥奔月、柳毅传书、八仙过海等等。建国后,西安市人民政府又对钟楼进行了三次大规模修葺,使这座古建筑又焕发了昔日的风采。

与钟楼遥遥相对的是鼓楼,楼底门洞为南北向,北通北院门,南达西大街。鼓楼建于明洪武十三年,与钟楼是姊妹楼。在鼓楼的第一层北面有一面巨鼓,与钟楼上的晨钟形成暮鼓,所以称为鼓楼。楼体呈长方形,基座的门洞高与宽均为6米,洞深38米。鼓楼建筑为重檐歇山式,琉璃瓦覆顶,重檐三滴水。楼分上、下两层。南北檐下各有一块匾,南为清乾隆皇帝御笔刻书:“文武盛地”,北为咸宁县书生李允宽书写“声闻于天”。在鼓楼的外檐都饰有斗拱,四面有回廊。天花板上油漆彩绘云形图案,古色古香,十分美丽。钟鼓楼交相辉映,使古城西安更加美丽壮观。好了,钟鼓楼的参观到这里就结束了。谢谢大家!

西安钟鼓楼导游词2

各位游客:

大家好!

我是钟鼓楼及城墙沿途讲解的导游xx,钟楼的钟声诠释了西安古城的古朴和这座历史古城的浑厚。那么接下来的时间里大家会在欣赏钟鼓楼城墙沿途风景的同时,也能够感受到西安这座古城风韵的另一面,那就是西安的饮食文化,说起西安的饮食,大家能否说出西安有哪些比较有名的小吃吗?

西安的饮食文化洋溢着浓郁的西北风情,品尝西安的风味小吃是游西安的一大乐事,无论是一直被西安人钟爱的羊肉泡馍,还是名扬海内外的“西安饺子宴”,都带有鲜明的地方特色。

在我的右手边有两幢仿明清的建筑,不知道大家有没有注意到建筑上很醒目的一句话“千古风味饺子香,传奇品质德发长”,对,这就是享誉海内外的中华老字号德发长,德发长是以饺子宴而著名的。大家如果想去品尝的话可以在我们旅行完之后互相结伴去感受一下德发长的非同寻常之处,同时也告诉大家一件很不幸的事:我也没品尝过这里的饺子!不过我想它既然打出了千古风味这一名号,想必一定实至名归吧!说完了饺子那么有的人就要问了羊肉泡馍在哪个地方有卖的?那么请大家随我来,我们可以清楚的看到德发长隔壁有个同样建筑风格的酒家——同盛祥。在同盛祥的门口我们会不经意留意到一个雕塑,那么大家能说出这个雕塑展示了陕西八大怪中的哪一怪呢?(凳子不坐蹲起来)同盛祥主营牛羊肉泡馍、各种特色小吃,而且将传统特色与现代时尚融为一体,所以来这个地方来就餐的话我想大家会感受到西安文化的多姿多彩吧!

穿过钟鼓楼广场,我们现在到了雄健宏大、古雅优美的鼓楼,鼓楼的街道两边都是古色古香的仿古建筑,各种知名的西安小吃应有尽有,那么我想问一下大家,西安最有名的小吃一条街是什么街?不言而喻,就是回民小吃一条街,来到西安的游客如果有机会来回民一条街的话都认为西安回民街有它很独特的一面,那么为什么这么说?我想不光是因为街道两旁大量的美食店铺和饰品店带给我们无限的吸引,更是因为这条街道深厚的文化内涵吧。

回民街一般指的是鼓楼到北院门一线,南北走向的街道,不过有时也会把相连的化觉巷、西羊市还有大皮院一同算进去。回民街顾名思义就是回民聚居之地。西安回民街是回民区的一条街道,大约500米左右,特点是青石铺路,绿树成荫,路的两旁是古色古香的仿明清建筑物,两边的商铺主要是以经营餐饮和一些具有陕西特色的饰品为主的,而且都是由回民经营的,具有浓郁的清真特色,深受外来游客的的喜爱。

大家现在看到的街道两旁的饭店都是正宗的回民饭店。其中有几家比较有名的饭店如清真平娃烤肉店、贾三灌汤包、红红酸菜炒米、大皮院的老孙家羊肉泡馍等等。其中关于西安的羊肉泡馍还有一段比较风趣的传说,相传大宋皇帝赵匡胤在称帝前受困于长安,终日过着忍饮挨饿的生活,有一天他来到一家正在煮制牛羊肉的店铺前,掌柜见到他非常的可怜,所以就让他把自带的干馍掰碎,然后掌柜就浇了一勺滚热肉汤之后放在火上煮透。接着赵匡胤就大口大口的吃完了那顿饭,当时他感到这顿饭是天下最好吃的美食。后来,赵匡胤做了皇帝。有一天,他路过长安时,仍忘不了当年在这里吃过的牛羊肉煮馍,就同文武大臣专门找到这家饭铺吃了一碗牛羊肉煮馍,吃完之后仍然感到鲜美无比,所以就重赏了这家店铺的掌柜。从此皇上吃泡馍的故事一经传开,牛羊肉泡馍便成了长安街上的著名小吃。北宋大文学家苏东坡曾有“陇馔有熊腊,秦烹唯羊羹”的赞美诗句。所以有机会大家可一定要品尝一下当地的民俗风味。

其实在回民小吃一条街上,还有很多的具有地方特色的饰品供大家选购,大家可以看到这些饰品可谓是琳琅满目,种类多样,比如这里还摆放有世界第八大奇迹的兵马俑饰品,那么大家可以买上一两个作为来西安的纪念。于此同时我们可以注意到这里的有很多有卖小孩穿的老虎鞋、大红帽子等等,大家都知道红代表吉祥与如意,所以我想大家还是有必要在回民街选购一些纪念品的。

刚才我们说到回民小吃一条街具有深厚的文化内涵,那么大家谁知道它的来源吗?早在一千多年前的汉朝,回民街曾经就作为丝绸之路的起点,迎来了来自古阿拉伯、波斯等地的商人、使节、学生。那么这些人也就是后来的回民。据历史记载,许多人沿着丝绸之路来到繁华热闹的长安城后,在这一区域经商、留学和做官,一代代繁衍生息。到了今天,这里成为6万多回族穆斯林群众的聚居区。作为伊斯兰文化的传承之地,这一区域今天仍然有唐代含光门、明代西城门楼群、众多保存完好的清真寺和道教城隍庙、佛教西五台等众多文化遗迹。街区内众多街道具有浓郁的伊斯兰风格,清真饮食城、民族购物中心和清真寺、回民生活区相映成趣。

大家现在看到这座寺庙位于化觉巷内,始建于唐玄宗天宝元年,距今已经有1200多年的历史,之后经过了宋、元、明、清的几次重修和扩建,逐渐形成了规模宏大、楼台亭殿布局紧凑和谐、庄严肃穆的具有明清风格的巨大古建筑群。其建筑风格体现了伊斯兰文化与中国传统建筑艺术的有机统一,是迄今为止我国最具特色、保存最完整、最典型的中国式清真寺之一。全寺分5进院落,占地13000平方米。经过政府和寺院前后30年的重修,不仅保持了寺院的原貌,而且还新增了不少与寺院风格相一致的明清建筑。

相信通过对这一地带文化的有效保护,西安回民历史街区将会成为一个能够体现我们西安的文化特色、黄土文化、穆斯林文化特色的旅游景点区。

接下来呢,我们将赶往我们的下一站——西安古城墙。在去古城墙的路上我会简单的为大家介绍一下沿途的景区,那么值得一提的是古文化一条街,从西安钟楼南行,快到南门时然后往东拐,便是书院门古文化街,街口有一座古韵十足的高大牌楼,牌楼上方是“书院门”三个金色颜体大字,两旁是“碑林藏国宝,书院育人杰”的醒目对联,从这幅对联我们很容易就可以看出这条街的主题。显而易见,书院门比我们刚才介绍的回民小吃一条街多了几番诗韵在其中,如果大家有兴趣的话可以去书院门游览,或许大家会在这里有更多的收获。

那么从钟鼓楼到城墙沿途的讲解就到此为止,如果大家还有什么不懂得地方尽管来问我,我会尽量为大家解答。同时衷心希望大家能够在西安玩的愉快、开心!

第三篇:西安城墙钟鼓楼沿途导游词

各位游客大家好,我是钟鼓楼及城墙沿途讲解的导游xx钟楼的钟声诠释了西安古城的古朴和这座历史古城的浑厚。那么接下来的时间里大家会在欣赏钟鼓楼城墙沿途风景的同时也能够感受到西安这座古城风韵的另一面,那就是西安的饮食文化,说起西安的饮食,大家能否说出西安有哪些比较有名的小吃吗?

西安的饮食文化洋溢着浓郁的西北风情,品尝西安的风味小吃是游西安的一大乐事,无论是一直被西安人钟爱的羊肉泡馍,还是名扬海内外的“西安饺子宴”,都带有鲜明的地方特色。

在我的右手边有两幢仿明清的建筑,不知道大家有没有注意到建筑上很醒目的一句话“千古风味饺子香,传奇品质德发长”,对,这就是享誉海内外的中华老字号德发长,德发长是以饺子宴而著名的。大家如果想去品尝的话可以在我们旅行完之后互相结伴去感受一下德发长的非同寻常之处,同时也告诉大家一件很不幸的事:我也没品尝过这里的饺子!不过我想它既然打出了千古风味这一名号,想必一定实至名归吧!说完了饺子那么有的人就要问了羊肉泡馍在哪个地方有卖的? 那么请大家随我来,我们可以清楚的看到德发长隔壁有个同样建筑风格的酒家——同盛祥。在同盛祥的门口我们会不经意留意到一个雕塑,那么大家能说出这个雕塑展示了陕西八大怪中的哪一怪呢?(凳子不坐蹲起来)同盛祥主营牛羊肉泡馍、各种特色小吃,而且将传统特色与现代时尚融为一体,所以来这个地方来就餐的话我想大家会感受到西安文化的多姿多彩吧!

穿过钟鼓楼广场,我们现在到了雄健宏大、古雅优美的鼓楼,鼓楼的街道两边都是古色古香的仿古建筑,各种知名的西安小吃应有尽有,那么我想问一下大家,西安最有名的小吃一条街是什么街?不言而喻,就是回民小吃一条街,来到西安的游客如果有机会来回民一条街的话都认为西安回民街有它很独特的一面,那么为什么这么说?我想不光是因为街道两旁大量的美食店铺和饰品店 带给我们无限的吸引,更是因为这条街道深厚的文化内涵吧。

回民街一般指的是鼓楼到北院门一线,南北走向的街道,不过有时也会把相连的化觉巷、西羊市还有大皮院一同算进去。回民街顾名思义就是回民聚居之地。西安回民街是回民区的一条街道,大约500米左右,特点是青石铺路,绿树

成荫,路的两旁是古色古香的仿明清建筑物,两边的商铺主要是以经营餐饮和一些具有陕西特色的饰品为主的,而且都是由回民经营的,具有浓郁的清真特色,深受外来游客的的喜爱。

大家现在看到的街道两旁的饭店都是正宗的回民饭店。其中有几家比较有名的饭店如清真平娃烤肉店、贾三灌汤包、红红酸菜炒米、大皮院的老孙家羊肉泡馍等等。其中关于西安的羊肉泡馍还有一段比较风趣的传说,相传大宋皇帝赵匡胤在称帝前受困于长安,终日过着忍饮挨饿的生活,有一天他来到一家正在煮制牛羊肉的店铺前,掌柜见到他非常的可怜,所以就让他把自带的干馍掰碎,然后掌柜就浇了一勺滚热肉汤之后放在火上煮透。接着赵匡胤就大口大口的吃完了那顿饭,当时他感到这顿饭是天下最好吃的美食。后来,赵匡胤做了皇帝。有一天,他路过长安时,仍忘不了当年在这里吃过的牛羊肉煮馍,就同文武大臣专门找到这家饭铺吃了一碗牛羊肉煮馍,吃完之后仍然感到鲜美无比,所以就重赏了这家店铺的掌柜。从此皇上吃泡馍的故事一经传开,牛羊肉泡馍便成了长安街上的著名小吃。北宋大文学家苏东坡曾有“陇馔有熊腊,秦烹唯羊羹”的赞美诗句。所以有机会大家可一定要品尝一下当地的民俗风味。

其实在回民小吃一条街上,还有很多的具有地方特色的饰品供大家选购,大家可以看到这些饰品可谓是琳琅满目,种类多样,比如这里还摆放有世界第八大奇迹的兵马俑饰品,那么大家可以买上一两个作为来西安的纪念。于此同时我们可以注意到这里的有很多有卖小孩穿的老虎鞋、大红帽子等等,大家都知道红代表吉祥与如意,所以我想大家还是有必要在回民街选购一些纪念品的。

刚才我们说到回民小吃一条街具有深厚的文化内涵,那么大家谁知道它的来源吗?早在一千多年前的汉朝,回民街曾经就作为丝绸之路的起点,迎来了来自古阿拉伯、波斯等地的商人、使节、学生。那么这些人也就是后来的回民。据历史记载,许多人沿着丝绸之路来到繁华热闹的长安城后,在这一区域经商、留学和做官,一代代繁衍生息。到了今天,这里成为6万多回族穆斯林群众的聚居区。作为伊斯兰文化的传承之地,这一区域今天仍然有唐代含光门、明代西城门楼群、众多保存完好的清真寺和道教城隍庙、佛教西五台、喇嘛教广元寺等众多文化遗迹。街区内众多街道具有浓郁的伊斯兰风格,清真饮食城、民族购物中心和清真寺、回民生活区相映成趣。

大家现在看到这座寺庙位于化觉巷内,始建于唐玄宗天宝元年,距今已经有1200多年的历史,之后经过了宋、元、明、清的几次重修和扩建,逐渐形成了规模宏大、楼台亭殿布局紧凑和谐、庄严肃穆的具有明清风格的巨大古建筑群。其建筑风格体现了伊斯兰文化与中国传统建筑艺术的有机统一,是迄今为止我国最具特色、保存最完整、最典型的中国式清真寺之一。全寺分5进院落,占地13000平方米。经过政府和寺院前后30年的重修,不仅保持了寺院的原貌,而且还新增了不少与寺院风格相一致的明清建筑。

相信通过对这一地带文化的有效保护,西安回民历史街区将会成为一个能够体现我们西安的文化特色、黄土文化、穆斯林文化特色的旅游景点区。

接下来呢,我们将赶往我们的下一站——西安古城墙。在去古城墙的路上我会简单的为大家介绍一下沿途的景区,那么值得一提的是古文化一条街,从西安钟楼南行,快到南门时然后往东拐,便是书院门古文化街,街口有一座古韵十足的高大牌楼,牌楼上方是“书院门”三个金色颜体大字,两旁是“碑林藏国宝,书院育人杰”的醒目对联,从这幅对联我们很容易就可以看出这条街的主题。显而易见,书院门比我们刚才介绍的回民小吃一条街多了几番诗韵在其中,如果大家有兴趣的话可以去书院门游览,或许大家会在这里有更多的收获。

那么从钟鼓楼到城墙沿途的讲解就到此为止,如果大家还有什么不懂得地方尽管来问我,我会尽量为大家解答。同时衷心希望大家能够在西安玩的愉快、开心!

第四篇:西安钟鼓楼英文导游词

西安鼓楼始建于明洪武十三年(公元1380年),比钟楼的建造时间稍早。鼓楼建于高大的长方形台基之上,台基下辟有高和宽均为6米的南北向券洞。以下是西安钟鼓楼英文导游词,欢迎借鉴!

西安钟鼓楼英文导游词

Good morning Ladies and Gentlemen:

Today we will have three places to visit—the Bell Tower the Drum Tower and the City Well.First we come to the Bell Tower.The Bell Tower, a classical building with carved beams and painted rafters, has been served as the symbol of Xi’an.It stands in the center of the downtown area where the north street, the south street, the west street and the east street meet.And the tower house a huge bell which in ancient times was use to strike the time every morning.This is how the tower got its name.now it is an important historical monument in shaanxi Province.The Bell tower was first built in Ying Xiang temple in 1384 during the Ming dynasty.It was moved to its present site in 1582 as a result of the city‘s expansion program.Ladies and gentlemen, There is a story about the Bell Tower.It’s said that the first emperor of Ming dynasty , Zhu yuanzhang , he was born in a poor family.Both his parent died when he was young, and he had to live a hard life.Later, he went to a temple to become a monk.When he ascended the throne, he was afraid of being deposed by someone of “real dragon”.Therefore, he gave orders to build bell tower all over the county to repress the “dragon spirits”.Xi’an has been the imperial capital city since ancient times.So the “dragon spirits ” must be very strong here.That’s why the bell tower in Xi’an was not only built earlier, but also bigger than the other ones in the country.The base of the tower is 1,337.4 square meters in size, 8.6 meters high and 35.5 meters wide.It was laid with blue bricks all over.The whole building is 36 meters above ground.It is a brick-and –wood structure.The eaves are supported by colored “dou gong” a traditional structural system in which brackets are used to join columns and crossbeams, the use of dou gong made the whole building firm and beautiful.Well, next we will visit the Drum Tower nearly.The Drum Tower stands 500 meters to the northwest of the Bell Tower.It was built in 1380.There used to be a huge drum in the tower, which told the time at dark, and that is how the tower got its present name.Besides marking the time, the drum was also used to give warnings to people in times of war.The base of The Drum Tower is 1,924 square meters in size, and 34 meters in height.It was built with blue bricks.The Drum Tower has a rectangular shape and shows tier and the outside eaves are decorated with networks of wood arches.At last, we will visit the famous city wall of Xi’an.The most complete and the best preserved city wall in china.The city wall of Xi’an is an extension of the prior Tang dynasty structure.It was stared in 1370 and finished in 1378 and has a rectangular –shaped construction.It is over 4 kilometers from the east to west and about 3 kilometers from the north to south.And the total length is 13.7 kilometers.It stands 12 meters high, 12-14 meters wide across the top and 15-18 meters thick at the button.On the top of the city wall, there is a rampart every 120 meters, which extends out from the main wall.The top of the rampart is at the same level as the top of the wall.The ramparts were built to allow soldiers to see those enemies who would try to climb up the wall.The distance between every two ramparts is just within the range of arrow shot from either side.This allowed soldiers to protect the entire wall without exposing themselves to the enemy.There are altogether 98 of them on the city wall and each has a sentry building on top of it.There are four main gates of the city wall-one on each side-named the east gate, the west gate, south gate and north gate.The four gates of the city wall were the only way to go into and out of town.In Xi’an, each of the four gates consists of three gate towers.The main gate tower is called ZhengLou which is located on top of the main part of the city wall.It is the inner one and is also the main entrance to the city.Zha lou is the gate tower which a suspension bridge and located outside of the city wall.It’s used to lift and lower the suspension bridge.Jian lou is the arrow tower and located in between the Zhenglou and Zhaloutowers.There are square windows in the front and on the two sides to shoot arrows.Jianlou and Zhenglou are connected by walls and the encircled area is called Wongcheng in which soldiers could be stationed.From Wongcheng, there are also horse passages leading to the top of the wall.There are altogether eleven horse passages around the city.A watch tower is located on each of the four corners of the wall.The one at the southwestern corner is round, probably after the model of the imperial city wall of the Tang dynasty.But the other three are square and are higher and larger than the sentry building on the ramparts.This shows the strategic importance of the corners of the city wall.All right, we have finished visiting the famous city wall of Xi’an.Thank you.

西安钟鼓楼简介

西安鼓楼是所存在中国最大的鼓楼,位于西安城内西大街北院门的南端,东与钟楼相望。鼓楼始建于明太祖朱元璋洪武十三年,清康熙三十八年和清乾隆5年先后两次重修。楼上原有巨鼓一面,每日击鼓报时,故称“鼓楼”。

鼓楼横跨北院门大街之上。鼓楼和钟楼是一对孪生兄弟,相距仅半里,互相辉映,为古城增色。鼓楼是明洪武十三年(公元1380年)建成的,比当初的钟楼早建4年。楼基面积比钟楼楼基大738.55平方米,通高34米,雄杰秀丽不亚于钟楼。古时楼上悬挂一面大鼓,傍晚时击鼓向全城居民报时,故称鼓楼

古时击钟报晨,击鼓报暮,因此有“晨钟暮鼓”之称。同时,夜间击鼓以报时,“三鼓”,就是“三更”,“五鼓”就是“五更”,一夜共报5次。明代的西安城周长11.9公里,面积是8.7平方公里,鼓楼地处西安城中部偏西南,为使鼓声能传遍全城,就必须建造高楼,设置大鼓。明、清两代,鼓楼周围大多是陕西行省、西安府署的各级衙门,这些衙门办公和四周的居民生活都离不开鼓声,鼓声亦成为当时人们最熟悉的悦耳之声了。李允宽所书写的“声闻于天”的匾额,画龙点睛,说明了鼓楼的实际意义。

现在楼内设有楼梯,登临楼上,凭栏便能眺望全城景色。西安鼓楼是城内明清建筑物的主要标志和代表之一。

从50年代开始,人民政府曾多次修缮鼓楼,90年代又贴金描彩,进行了大规模的维修,为进一步开发和利用文物资源,促进文化旅游事业的发展,恢复 “晨钟暮鼓”,1996年西安市决定重制鼓楼大鼓。重制的大鼓高1.8米,鼓面直径为2.83米,系用整张优质牛皮蒙制而成。鼓腹直径3.43米,重1.5 吨。上有泡钉1996个,寓意1996年制,加上4个铜环共2000年,象征公元2000年,催人奋进,跨入二十一世纪。该鼓声音洪亮、浑厚,重槌之下,十里可闻,是中国最大的鼓。在钟楼和鼓楼之间,开辟为钟鼓楼广场,绿草红花点缀其间,造型独特的声光喷泉不时变换,是古城人民休闲、娱乐的好去处。

第五篇:西安景点导游词 日语

お出迎え

皆様、ようこそ西安にお出でになりました。長い旅、本当にお疲れ様でした。私はガイド兹通訳朱栄と申します。これから、皆様の西安のご滞在中、お世話をさせていただきますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

論語に「朊あり、遠方より来る、また楽しからずや」とありますが、今私の気持ちは全くその通りでございます。私は弊社を代表致しまして、皆様のご来訪を心より歓迎致します。何か要望や不行き届きな点などございましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。

皆様の西安の旅がこの上なく、楽しいものとなりますよう一生懸命努めてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

皆さん、西安はなんと言いましても悠久の歴史を持っている中国最古の都でございます。紀元前11世紀の西周から、秦、漢、隋、唐など約十三の王朝がこの一帯2000年にわたり都をおきました。特に唐の時代の長安は、様々な国からたくさんの人々がこの長安に集まり、当時としては最大の「100万都市」として栄えました。有名なシルクロードの出発点はこの西安でございます。これから、***を見学していきましょう。

大雁塔と大唐芙蓉園

皆さん、西安の名所旧跡の中では一番にあげられるのは大雁塔です。大雁塔は日本の皆さんにもなじみの西遊記に書かれた玄奘三蔵と関係があります。唐時代の高僧玄奘は、さかのぼること629年に生まれ、27歳の時、長安から西域への旅に出ました。そして、16年に経った657年に仏舎利や仏像、そして多くの経典を携えて長安に戻りました。玄奘は、その後大慈恩寺の住職となり、仏教に力をつくしました。唐の太宗と高宗はこの功績をたたえ、そのことは当時の書道家楮遂良の手によって石碑に刻まれ、今もそれが大慈恩寺の中の大雁塔に保存されています。この寺は、唐の高宗李冶が、母親文徳皇后の冥福を祈って648年に建てたものといわれ、西安の南郊外にあります。当時、この寺は現在の7倍以上の広さをほこり、今では大雁塔だけになりました。大雁塔は当初、五重の正方形のものでしたが、その後、レンガで7重にし、775年には、さらに十層のものに改築されました。今皆さんご覧になっている高さ63mの大雁塔は七層ですが、これは後の戦争で上の三層が崩れ落ち、残った下の部分を修復したものです。

ところで、皆さんは大雁塔が建てられた由来をご存じでしょうか。

玄奘がインドから多くの経典を持ち帰ったことは先に申しあげましたが、玄奘はそれを翻訳し、それを保存するために、当時の太宗皇帝に進言して654年建てられたのが大雁塔です。初めは慈恩寺塔と呼ばれ、それを大雁塔と呼ぶようになったひとつの説を紹介しますと、『慈恩寺三蔵法師伝券三』によりますと、「摩掲陀国に、ある寺があり、ある時、雁が群れをなして、空を飛んでいたところ、突然そのうちの一羽が境内に落ちて死んでしまった。これを見て驚いた僧侶たちはその雁を菩薩とみなし、その雁をとむらうために塔を建てた」ということです。

こうして、慈恩寺塔は雁塔と呼ばれるようになりましたが、その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられたため、慈恩寺のものは「大雁塔」、薦福寺のほうは規模が小さかったから、「小雁塔」と呼ぶようになりました。なお、現存する大慈恩寺の中の建物は大雁塔を覗いて明の時代のものですが、お寺の大雂宝殿には、釈迦如来の三身仏と十八羅漢、法堂には阿弥陀仏の像が祭られています。法堂の東側の壁には玄奘の拓本がかけてあり、これを見ますと玄奘法師が、一所懸命仏教に身をささげた様子が伺い知ることができます。また、塔身の南側には、唐の太宗皇帝李世民の勅令による、「大唐三蔵聖教序記」の石碑が嵌め込まれ、いずれも唐代の大書道家楮遂良の手による傑作として知られています。さらに、塔の入り口のところに刻まれている唐代の建築図案は、中国古代建築を研究するうえで、重要な資料を提供するものといわれ、大雁塔の北に位置する、最近新しく建てられた玄奘三蔵院には三蔵法師の頭の骨や自筆の経典が納められています。

このように、「大雁塔」は現在、最もよく保存されている唐代の建物ですが、古都背西安のシンボルとしていつまでも人々の心に残り続けることでしょう。

大唐芙蓉院は西安の曲江新区に位置しており、敷地面積は約66万平方㍍、その中、水域面積は300平方㍍を占めます。中国の西北地域で最大の文化公園です。

華清池

皆さん、前方の右側をご覧ください。山が見てきましたね。その山はどんな形に見えますか?そうですね、遠くから見ると青い馬のように見えます。ですから、驪山を名づけられています。驪山の麓にある華清池は私たちの目的です。

皆さん、いよいよ華清池に到着します。この温泉と風景の美しさで有名な華清池は3000年あまり前に発見され、歴代王朝により離宮や浴槽を作られました。毎年、寒さを避けるため皇帝はここを訪れました。唐の玄宗皇帝と楊貴妃によりロマンスが有名ですが。絶世美人楊貴妃が美し肌を洗った様子は白居易の「長恨歌」にも歌われています。なお、お湯遺跡博物館は楊貴妃を使った海棠湯をはじめ蓮花湯、太子湯、尚食湯、星辰湯などの温泉の遺跡が発見できます。ちなみに、湯殿の奥にある五間庁は西安事件の時将介石が泊まったところです。ここもあわせてご案内致します。

はい、華清池に着きました。ここでの見学は2時間となっております。今ちょうど9時ですから、11時に必ずバスに戻ってきてください。ここは観光実は多いですから、できるだけ一緒に行動するようお願いいたします。万が一道に迷ったら、ご自分でバスにお戻りください。だから、バスナンバーとバスの色をよく覚えておいてください。では、貴重品をお持ちになって、バスを御降りください。はい、皆さん、お手洗いへ行きたい方はどうぞ、そちらへ。

はい、じゃ、華清池の観光ルートは飛霜殿、九龍池、お湯遺跡博物館、それから階段を登って西安事件の舞台である五間庁です。皆さん、参りましょう。

ここは玄宗皇帝と楊貴妃の寝室―飛霜殿です。冬になるた玄宗皇帝は楊貴妃をつれて華清池へ寒さを避けに来ます。この飛霜殿に源泉に引き込んであっため冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。ここぁら驪山の美しい風景が眺められるし、それに、雪が降ると周りは全部白くなり、飛霜殿の前の九龍池には温泉が湧いて、湯気が立ち上がりますので、とてもきれいです。もちろんこれは今立て直されたものです。白居易の『長恨歌』の中に楊貴妃の風呂上りを「春寒くして、浴を賜う(たまう)華清池、温泉の水溜(みずため)らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う。死児たすけ起こせば嬌(きょう)として力無し」と書いてあります。じゃ、皆さん、御湯遺跡博物館へ参りましょう。そこには楊貴妃が入った浴槽があります。蓮花湯は先に申しあげましたが、楊貴妃の浴槽は海棠の花の形をしているので、海棠湯というのです。ちょっと見た目は今の浴槽ほど豪華ではないですが、その時は大理石でつくっていますから、豪華なはずですよ。

次の見学するところへ移動しましょう。ここは五間庁といって、西安事変の時蒋介石はここに泊まりこんでいました、1936年12月、ここにいた二人の将軍に檄(げき)を飛ばすため西安にきました。12日朝5時突然の銃声で目を覚ました蒋介石は着の身着のまま逃走しましたが、山腹(さんぷく)の岩陰に隠れているところを張学良の護衛兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。ここの五間庁にその時の銃弾にうたれた跡が残っています。

皆さん、これで華清池の見学が終わりました。ちょっと10分間休憩しましょう。写真を撮りたい方は撮ってください。10分後車の方へ戻ってください。

兵馬俑

秦の始皇帝陵は西安の東36kmのところにあります。その壮大の墳墓は2200年ほど前に作られ、中国史上初めての皇帝のお墓で、世界でも最大級のものです。秦の始皇帝は紀元前259年に生まれました。13歳の若さで王位につき、紀元前221年に中国統一という大事業を成し遂げましたが、中央集権政治を实施し、文字や貨幣、度量衡を統一したほか、北方の騎馬民族対策に長城を築くことはあまりに有名です。一方専制君主として人民に苛酷な負担を強いることになり、ついに始皇帝の死後、大規模な農民蜂起もあって、秦王朝を滅亡しました。

ところで、始皇帝陵は始皇帝は即位する当時に作り始めました。そのため、動員図70万人述べ、实に、38年間わたる巨大な土木工事でした。それについて、有名な司馬遷も「史記」の中に建設規模と豪華さに触れています、それによると、「三たび水脈達する深くほり、銅版を下に敷い柩を納めるようにし、また、この陵の中宮殿、望楼を作り、百官の席を設け、奇器、奇物でいっぱいにした。百の川、大海を作り、機械の仕掛けて絶えず、水銀が流れるようにした。上の方は太陽、天体の形を作り、下は山、川、地の形を整えた」と記されています。この陵墓の壮大は最新技術を使った、今の調査結果でもそう確かめられています。

もう一つ、今日の目的である「兵馬俑博物館」はこの陵から1.5km離れたところにあります。「兵馬俑」は、1974年に用水工事をしていた農民たちが偶然発見したもので、「兵馬俑」とは、兵士や馬の形をした土偶のことですが、始皇帝陵の死後、陵に埋められ、いわば始皇帝の近衛兵というべきものです。

今のところ、兵馬俑は現在三つ発掘されていて、その総面積は20000㎡にものぼろスケールの大きいものです。陶俑と陶馬は8000代、木造の戦車は100両ほど、青銅製の兵器は40000件も見つかっています。さらい感心させられたことは、实物大の兵士が一体ずつ表情や髪型が違い、どれ一つとも同じものはありません。このことから、秦の軍隊が様々な民族から編成された混成部隊だったことがわかります。このように、兵馬俑は、兵士の指先や靴底まで繊細に作られていて、馬の鬣や尾までもリアルに再現さてれているのを目の当たりすると、当時に千人以上だったといわれる職人のこだわりが感じられます。こうして、秦の始皇帝陵全体としては、この兵馬俑坑のほかにいろいろなものが発見され、最近の発掘では兵馬だけでなく、宮殿の实物大のレプリカや文官や芸人などの俑も発掘されており、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るための軍隊と思われていたこの遺跡は、实は、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうをするねらいがあったとも推測さらています。

兵馬俑一号館

1979年10月にオープンした一号館は始皇帝兵馬俑館最初の建物です。東西230m、南北62mの長方形をしていて、発見された三つの俑坑の中では規模の最も大きいものです。1000あまりの兵隊の俑、戦闘馬車とそれを牽引する馬の俑32体が出土しました。一号館の兵馬俑は歩兵を中心とした主力部隊ですが、先頭は武士俑が並び、ついて歩兵と戦車の隊列が続き、その左右両側と後ろにはそれぞれ1列ずつ武士俑が配置されています。

皆さん、これらの兵馬俑はよくご覧になっていただくとわかりますが、兵士たちは、その容貌だけでなく、朋装もくらいによって、それぞれ違います。最も目立ったのは将軍俑で、将軍は先端を巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためリボンが顎の下で丁寧に結ばれ、胸まで格好よくたらしています。また、戦闘朋も二枚着ており、鎧も独特な形をしていて両肩と胸のところでリボンで結ばれています。現在、ここでの発掘はまだ継続中で、埴輪の数は推定で6000体ぐらいあるだろうと推測されています。

兵馬俑二号館

昔、戦争では陣立ては勝負を決める重要な要素でした。軍事家たちが多くの陣立ての形を考えました。しかし、その内容がずっと最高の軍事秘密で現在その記録がほとんど残っていません。

1976年、最初に発見されました兵馬俑坑の周りを発掘したところ、その北側から大量の俑が新たに発見されました。これは現在の二号館で展示されている兵馬俑です。

二号館の面積は約6000㎡、陣立ては陶俑と陶馬は合わせて1300体余りあり、ほかに戦車、歩兵、騎兵など編成された「W」の形をした曲陣で、それと騎兵集団で構成されていますが、御者が手綱を引き、片方の手に弓を持っています。戦車集団のほうは、4頭立ての馬車一台に御者が1人が付き、両脇の兵士二人は武器を手にして、戦車に登る姿勢を示しています。

先頭部隊は弓弩兵器を携えた射手で、右側に戦車、中央には歩兵と戦車が交互に左側には騎兵が配置されており、最後の方は騎兵と歩兵をいった陣容の混合部隊です。この陣立ての形は攻めることも守りことも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい弱点がありません。

兵馬俑三号館

三つの兵馬俑館中で唯一発掘が完成したのが三号館です。三号館の面積は376㎡の凹字型となっており、規模として一番小さいほうですが、地下の大軍を統帥する指揮部です。ここからは馬車一台、馬、武士の俑、それに青銅製兵器が出土されています。

大清真寺

現在西安には6万人の回民族イスラム教の教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教徒の宗教活動の場所である寺院―モスクがたくさんあります。清真大寺は鐘楼の西側の鼓楼のすぐそばにある化覚巷にあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺の中に保存されている石碑の記載によれば、この寺は唐の742年の建立ですが、明代の1384年に大修理を行われました。

寺院は楼、台、亭、堂の四つの部分に分かれ、敷地は一万二千平方㍍、建築面積はやく四千平方㍍、ほぼ完全な建築群で構成されています。壮観なドームや尖塔、モザイクなどを特徴とするアラブ式のイスラム寺院とは異なり、清真大寺の造りいぇ装飾は伝統的な中国式です。その特徴は塗装された梁や柱の彫刻を持つ中国特有の楼に色濃く見られます。

前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛縁な木牌坊があります。第二院には石碑が一ヶ所あり、石碑には明代、清代この寺を修復したことが記載されています。第三院の中央に省心楼という建物があります。ここは礼拝の時、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿とも呼ばれており、信者は毎日5回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前にシャワを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方㍍、1回千人以上の礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用して、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んでいます。この寺は全て中国のイスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼、台、亭、堂四書類を形成しています。また、寺の建物は全部対称しています。

人々の生活習慣と風俗などが民族によって異なることはいうまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。

ムスリムは豚肉もお酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。

結婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読む、メッカに生涯を誓います。女性は他の民族と結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣があります。

葬式の時も読経します。棺は使わず、28mの木綿の織物で遺体を包んで埋葬します。

回民族の朋装は漢民族と変わりませんが、年配で回族意識の高い男性は白いフチのない帽子をかぶる習慣があります。

碑林博物館

碑林博物館は、西安の南城壁のすぐそばにある孔子廟遺跡の場所に建てられていて、その敷地面積は3万平方㍍、「西安碑林」と「石刻芸術」と二つの部分からなっています。

皆さん、ご存じのように中国の正門は一般に南に向いていますが、碑林博物館はの正門だけは東に向いているのはなぜでしょう。それは孔子廟には必ず西と東の門があり、これを「礼門義路」と言って、いわば「礼儀の門」という意味があります。

さて、まず、正門に入りますと城壁と向かい合って「孔廟」の大きいな文字が見えてきます。それから、目の前に鳥居型の門が見えますが、これは「牌楼」ともいい。功労があった人の徳をたたえるために建てられたものです。更に、もう一つの門をくぐると中央に小さい道があり、その両側に馬をつなぐ「杭」があります。これは明、清時代からのものと言われ、これらの杭は、昔、この地方の大金持ちや官僚の邸宅の門にあったもので、訪れた実の馬をつなぎとめるものでした。なお、石柱の頭部には、邪悪を鎮め、縁起の良い動物や人物のデザインがほどこされております。もうちょっど足を進めますと、東西の方向に亭が見えてきます。東の亭には、大きいな種が置かれていますが、この鐘は711年、唐時代の景雲2年に造られたもので、「景雲鐘」と呼ばれています。この「景雲鐘」は銅で鋳造され、重さ6トンもあり、表明に凸凹の乳首のようなものがついていますがこれは鐘の韻律を調整するもので、種に音色はまるで鳳凰の鳴き声のようとも言われています。

西安碑林、総数が2千基にのぼる「碑林」は文字通り石碑は林のように立ちならんでいるところからこのように名づけられました。碑林は歴史的にも芸術的にも価値が高く、中国最大の「石の書庫」とも言われています。ここで展示されているのは漢時代から唐、明、清時代にかけてのものまで、ここで注目されますのは、特唐代の有名な書道家が書いた書道作品です。

皆さん、目の前に「碑林」の文字が見えてきましたね。これは中国の民族英雂、林則徐が書いたものです。ここに碑林の最大の石碑であります「石台孝経」が展示されていますが、「孝経」とは、孔子の弟子曾参が編集した親孝行について書かれた本ですが、この石碑には「孝経」の内容だけでなく、唐の玄宗李隆基が書いた解説、序なども刻まれています。なお、石碑は高さ約6m、頭部、碑文、台座の三つの部分からなり、台座は三層で、その上の石碑は四つの石からなっています。頭部には生き生きとした蔓草や縁起の良い動物の線刻が刻まれていますので、ご注目ください。

第一陳列室 ここに展示されているのは「開成石経」です。114の石碑の両面に儒学の経典13経に全文が刻まれています。「開成石経」は唐の文宗の開成2年に立てられましたが、その石碑も戦争や自然災害によって大きいな被害を受け、40余りの石碑のうち、壊れた部分に文字を今度は前より小さい石碑に刻まみこみ、1588年には「開成石経」の傍に置くようになりました。いずれにしましても、これらは我が国でただ一つの完全に保存されている石刻経典といえます。

第二陳列室

この陳列室には、唐代の有名な書道家がかいた石碑で、後世の書法の手本となったものばかりが展示されております。初唐の欧陽詢が書いた「皇帝誕碑」、その息子の欧陽通の「道因法師碑」、顔真卿の書「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。「大唐三蔵聖教序碑」は長安の弘福寺の和尚懐仁が王義之の書を集めて作ったといわれる「千金帖」です。また、ここには、大書道家の大作のほかに、古代ローマからキリスト教が伝来したことを伝える「大秦景教流行中国碑」はよく知られています。碑文は、中国とシリア両国の文字で書いてあり、唐王朝と外国との交流を研究するうえでも、貴重な資料となるものです。

第三陳列室

ここで篆書、隷書、楷書、行書、草書の書体で刻まれた石碑が展示され、中国文字の変遷を理解するには格好の場となっております。碑林の石碑の中で、最も古いものは「漢曹全碑」です。これは後漢の曹全が隷書で書いたものです。また、「千金文」は昔から児童の啓蒙書となってきました。

石刻芸術陳列室

1963年に建てられた石刻陳列室は、陝西省各地に散在していた前漢時代から唐代までの墓石と宗教的な石刻作品70点余りと集められ、陳列室には石棺、仏像、石刻の動物などの貴重なものが展示され、中には、丸彫り、浮彫、線彫りなどの石刻があります。なお、「牛耕図」は後漢時代の画像石の代表なものです。そして、唐の太宗李世民の愛馬を浮彫した「昭陵六駿」は唐代石刻芸術の代表的な作品として評価が高いです。

陝西歴史博物館

陝西省歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の国立博物館です。西安の南に位置しており、敷地面積7万㎡です。所蔵する文化財は11万3千あまり、陝西省から出土した周、秦、漢、唐時代からの文化遺産です。展示されているのは、その中から選ばれたきわめて稀なものばかりで、約3,000点余りです。すべてのものが一品ぞろいです。展示室の面積は1100平方㍍、建物は代表的な唐代の宮殿様式で、『中央は殿堂、四隅は高楼』という伝統的な構造になっております。

展示品 館内に入って、まず目につくのは、大きな石に獅子ですが、これは則天武后の母親の墓 順陵の獅子に模造品です。

第一展示室は、約115万年前の旧石器時代、藍田猿人から始まっています。ここに展示されているのは、旧石器時代や新石器時代の代表的な文物で、先史時代の人々の生活ぶりを現しています。

現在、確認されている最も古い王朝は殷です。殷代には占いため亀甲と獣骨に刻まれ文字があります。これを甲骨文字といい、漢字の最も古い形になっています。周の時代、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時代なので、「青銅器時代」をされています。青銅器は銅と錫と合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになれました。博物館に展示されている青銅器は、祭礼の楽器、生産、生活用具、实戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文内容の重要さなど、世界美術史上も貴重なものです。

この展示室では秦の足跡を展示しています。展示品の中には都咸陽の宮殿遺跡か発掘した瓦、煉瓦、土管などが並んでいます。始皇帝の事業の一つ、通貨の統一をあげることができるが、当時の貨幣関係の資料も展示されています。漢代の都、長安城は、中国の歴史における初めての国際的大都会で、当時、ローマ帝国より2倍ぐらい広かったと言われます。当時の冶金、製鉄技術では、既に石炭による送風式溶鉱炉を使用していました。農機具だけでなく、兵器や日用品なども大量に鋳造、生産していたのです。紙の発明はかなり古く、西安覇橋の漢墓などからも、植物繊維で造った紙が発見されていますが、さらに良質の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。ここに展示されている、1965年咸陽市の東約25キロの陽家湾で発見された彩絵陶俑群で、計2500個以上が出土しました。絢爛たる文化の華咲く唐代で、注目していただきたいのは壁画です。陵墓から運ぶ出された唐代の巨大な彩色壁画の展示が来館者を圧倒します。例えば則天武后の孫娘永泰公主の墓から出土した「侍女図」という壁画の女性を見ると胸元を緩やかに広げ、いわゆる詰襟の中国副の硬さがありません、足元を纏足ではなく大きな沓を履いています。いかにも自由闊達と見える、これらの女性たちが馬に乗るも横座りでなく、跨って大路を駆け抜け、闊歩したとも伝えられています。隋 唐展示室では金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など当時の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。唐三彩は西安、洛陽一帯に分布していますが、出土数が大変少なく、大変珍しいものです。陳列室されている馬、駱駝、宮女、宦官、各種生活用品など、題材の豊富です。葬式の行列に使う冥器などでも、工芸水準は大変高いものです。

黄帝陵

黄帝陵は中華民族の始祖黄帝軒轅氏のお墓です。陝西省の延安市黄陵県の橋山の上に位置しております。「天下第一陵」と言われています。橋山、海抜980メートルです。ここは歴代帝王と有名人たちが祭るところです。

黄帝は原始時代の優秀な部落首領です。土の徳を尊ぶ(とうとぶ)、土の色は金色ので、黄帝を呼ばれるようになりました。黄帝は天下を統一して、天下共主と言われいています。後人は自分を「炎黄子孫」また「華夏子女」と呼びます。黄帝は伝説的な人物ですが、後世に「人文始祖」と称えております。

ここは軒轅広場です。黄帝陵を祭りの出発点です。軒轅広場は5000枚秦嶺天然河の玉石で敷き詰めてきて、中華民族の5000年の悠久の歴史を代表しています。目の前の池は「印池」と呼ばれて、伝説によりますと黄帝が筆を洗いところです。今、私たちが通ったこの橋は「軒轅橋」を呼ばれて、印池を横断して、全長66メートル、幅が8.5メートルで、全部花崗岩(かこうがん)で造りして、中国近代全石材第一橋と知られています。北端に95段階の石段があります。九五の尊の崇高(すこう)な地位を代表しています。

軒轅橋を突っ切ると軒轅廟です。軒轅廟は唐の代宗に建てられ、敷地面積約6666平方㍍、入りますと、左にコノテガシワがあって、高さ約19メートル、世界コノテガシワの父と言われて、遡ること、4700年もあります。

人文初祖大殿は正殿で、全廟の本館です。中には黄帝の浮彫全身の彫像があります。神棚の周囲は四つの縁起のよい動物の図案が刻まれています。左は蒼龍、右は白虎、上は朱雀、下は玄武です。

黄帝陵区は約4平方㍍、四隅は山と水、樹木が茂っています。頂上に登って、まず、石碑が見えてきて、「文武百官ここに馬をおお降りください。」が刻まれています。黄帝陵は山頂の真ん中に位置しており、南に向いて、高さ4メートル、周長約50メートルです。陵の前に「漢武仙台」が刻まれていた石碑があります。これは漢武帝が造たものです。

崋山

陝西省の華陰県にあって、西岳とも言われています。中国五岳の一つで、崋山主峰海抜2160メートルで、北は黄河を俯瞰し、南は秦嶺に連なります。崋山は「天下第一険」と言われ、雂大さと険しさで古くから中国五山の一つとして広く知られています。

東峰は崋山の奇峰の一つで、峰頂に美しい景色や「日の出」を見ることができる朝陽台があるので朝陽峰とも言われています。北峰は「雲台峰」をも呼ばれて、海抜1500メートルで、四方は断崖絶壁で、ただ1本しか山道が南側の連峰に通じていません。映画「智取崋山」はここから取材したものです、それは筆のように屹立して、千刃の断崖をなし、頂上から俯瞰すると秦川がぼうぼうと流れ、その間に渭水と洛水が龍のように曲がります。頂上には劈山救母石があり、聞くところによると中国有名な神話「宝蓮燈」の中の沈香が山を切り開いて、母親を救った物語はここで発生したと言い伝えられています。南峰はすなわち「落雁峰」崋山の主峰で海抜2083メートルもあります。崋山の最も険しい峰で、峰には深緑の松とコノケガシワ、林がうっそうとしています。東に雲を突いて架設した長空桟道があります。中峰は玉女峰をも呼ばれ、東、南、西峰に通じる要路です。

崋山は険しさが特色で「険」という文字があちこちにあります。山に至るところに断崖絶壁があり、山道は険しく景色も美しいのです。山道に沿って、玉泉院から蒼龍嶺まで多くの景勝地を見ることができます。

崋山の麓から青珂坪までの道中は風景が静寂で、谷間が鮮やかな緑色に染められて、鳥がさえずり、花が香り、泉が流れて、人々の心をゆったりとさせます。青珂坪の東からこそは本当の登山になります。ここに「回心石」の文字が刻まれた大きな石があります。これから先が崋山の危険なところです。この文字を見て体力の無いもの、肝っ玉の小さいものは引き返します。回心石を過ぎると崋山の咽喉、「千尺棟」に着きます。ここは険しい崖の小道両で、370段に石段があり、両側にあるロープを掴んで一歩ずつ登らなければなりません。「千尺棟」の幅はとても狭く、下を見ると深い井戸です。更に進むと、もっと険しい「百尺峡」に突き当たり、その後、仙人橋を通り、一段と険しい「老君梨溝」に至ります。ここは海抜1500メートル、史方は断崖絶壁で、570段の石段があり、その突き当たりは「狐孫愁」というところで、文字通り、猿でさえ困惑していて、断崖絶壁がどんなに険しいが想像できます。「狐孫愁」を過ぎると崋山の北峰に到着します。

見送り

皆さん、いよいよ西安を離れる時間が迫ってきました。もう一度身の回りをチックしてください。今から、空港へ向かいますので。

この3日間行き届かない点が多くて、ご迷惑をかけたかと思います、3日間の観光はあっという間に過ぎました。本当にお名残惜しいです。

私は皆様のお供をさせていただき、大変楽しく、いろいろと勉強させていただきした。こうして無事に快適な旅行ができましたのも、皆様のご協力のおかげです。この次、お出でになる時もぜひ私どもの旅行社をご利用ください。それまでに、私ももっと日本語を勉強しておきますので、また、ご案内させていただければ有りがたいと思います。

皆様、ここでお別れです。どうぞお元気で、さようなら。

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