第一篇:西安景点导游词 日语大全
お出迎え
皆様、ようこそ西安にお出でになりました。長い旅、本当にお疲れ様でした。私はガイド兹通訳朱栄と申します。これから、皆様の西安のご滞在中、お世話をさせていただきますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
論語に「朊あり、遠方より来る、また楽しからずや」とありますが、今私の気持ちは全くその通りでございます。私は弊社を代表致しまして、皆様のご来訪を心より歓迎致します。何か要望や不行き届きな点などございましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。
皆様の西安の旅がこの上なく、楽しいものとなりますよう一生懸命努めてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
皆さん、西安はなんと言いましても悠久の歴史を持っている中国最古の都でございます。紀元前11世紀の西周から、秦、漢、隋、唐など約十三の王朝がこの一帯2000年にわたり都をおきました。特に唐の時代の長安は、様々な国からたくさんの人々がこの長安に集まり、当時としては最大の「100万都市」として栄えました。有名なシルクロードの出発点はこの西安でございます。これから、***を見学していきましょう。
大雁塔と大唐芙蓉園
皆さん、西安の名所旧跡の中では一番にあげられるのは大雁塔です。大雁塔は日本の皆さんにもなじみの西遊記に書かれた玄奘三蔵と関係があります。唐時代の高僧玄奘は、さかのぼること629年に生まれ、27歳の時、長安から西域への旅に出ました。そして、16年に経った657年に仏舎利や仏像、そして多くの経典を携えて長安に戻りました。玄奘は、その後大慈恩寺の住職となり、仏教に力をつくしました。唐の太宗と高宗はこの功績をたたえ、そのことは当時の書道家楮遂良の手によって石碑に刻まれ、今もそれが大慈恩寺の中の大雁塔に保存されています。この寺は、唐の高宗李冶が、母親文徳皇后の冥福を祈って648年に建てたものといわれ、西安の南郊外にあります。当時、この寺は現在の7倍以上の広さをほこり、今では大雁塔だけになりました。大雁塔は当初、五重の正方形のものでしたが、その後、レンガで7重にし、775年には、さらに十層のものに改築されました。今皆さんご覧になっている高さ63mの大雁塔は七層ですが、これは後の戦争で上の三層が崩れ落ち、残った下の部分を修復したものです。
ところで、皆さんは大雁塔が建てられた由来をご存じでしょうか。
玄奘がインドから多くの経典を持ち帰ったことは先に申しあげましたが、玄奘はそれを翻訳し、それを保存するために、当時の太宗皇帝に進言して654年建てられたのが大雁塔です。初めは慈恩寺塔と呼ばれ、それを大雁塔と呼ぶようになったひとつの説を紹介しますと、『慈恩寺三蔵法師伝券三』によりますと、「摩掲陀国に、ある寺があり、ある時、雁が群れをなして、空を飛んでいたところ、突然そのうちの一羽が境内に落ちて死んでしまった。これを見て驚いた僧侶たちはその雁を菩薩とみなし、その雁をとむらうために塔を建てた」ということです。
こうして、慈恩寺塔は雁塔と呼ばれるようになりましたが、その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられたため、慈恩寺のものは「大雁塔」、薦福寺のほうは規模が小さかったから、「小雁塔」と呼ぶようになりました。なお、現存する大慈恩寺の中の建物は大雁塔を覗いて明の時代のものですが、お寺の大雂宝殿には、釈迦如来の三身仏と十八羅漢、法堂には阿弥陀仏の像が祭られています。法堂の東側の壁には玄奘の拓本がかけてあり、これを見ますと玄奘法師が、一所懸命仏教に身をささげた様子が伺い知ることができます。また、塔身の南側には、唐の太宗皇帝李世民の勅令による、「大唐三蔵聖教序記」の石碑が嵌め込まれ、いずれも唐代の大書道家楮遂良の手による傑作として知られています。さらに、塔の入り口のところに刻まれている唐代の建築図案は、中国古代建築を研究するうえで、重要な資料を提供するものといわれ、大雁塔の北に位置する、最近新しく建てられた玄奘三蔵院には三蔵法師の頭の骨や自筆の経典が納められています。
このように、「大雁塔」は現在、最もよく保存されている唐代の建物ですが、古都背西安のシンボルとしていつまでも人々の心に残り続けることでしょう。
大唐芙蓉院は西安の曲江新区に位置しており、敷地面積は約66万平方㍍、その中、水域面積は300平方㍍を占めます。中国の西北地域で最大の文化公園です。
華清池
皆さん、前方の右側をご覧ください。山が見てきましたね。その山はどんな形に見えますか?そうですね、遠くから見ると青い馬のように見えます。ですから、驪山を名づけられています。驪山の麓にある華清池は私たちの目的です。
皆さん、いよいよ華清池に到着します。この温泉と風景の美しさで有名な華清池は3000年あまり前に発見され、歴代王朝により離宮や浴槽を作られました。毎年、寒さを避けるため皇帝はここを訪れました。唐の玄宗皇帝と楊貴妃によりロマンスが有名ですが。絶世美人楊貴妃が美し肌を洗った様子は白居易の「長恨歌」にも歌われています。なお、お湯遺跡博物館は楊貴妃を使った海棠湯をはじめ蓮花湯、太子湯、尚食湯、星辰湯などの温泉の遺跡が発見できます。ちなみに、湯殿の奥にある五間庁は西安事件の時将介石が泊まったところです。ここもあわせてご案内致します。
はい、華清池に着きました。ここでの見学は2時間となっております。今ちょうど9時ですから、11時に必ずバスに戻ってきてください。ここは観光実は多いですから、できるだけ一緒に行動するようお願いいたします。万が一道に迷ったら、ご自分でバスにお戻りください。だから、バスナンバーとバスの色をよく覚えておいてください。では、貴重品をお持ちになって、バスを御降りください。はい、皆さん、お手洗いへ行きたい方はどうぞ、そちらへ。
はい、じゃ、華清池の観光ルートは飛霜殿、九龍池、お湯遺跡博物館、それから階段を登って西安事件の舞台である五間庁です。皆さん、参りましょう。
ここは玄宗皇帝と楊貴妃の寝室―飛霜殿です。冬になるた玄宗皇帝は楊貴妃をつれて華清池へ寒さを避けに来ます。この飛霜殿に源泉に引き込んであっため冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。ここぁら驪山の美しい風景が眺められるし、それに、雪が降ると周りは全部白くなり、飛霜殿の前の九龍池には温泉が湧いて、湯気が立ち上がりますので、とてもきれいです。もちろんこれは今立て直されたものです。白居易の『長恨歌』の中に楊貴妃の風呂上りを「春寒くして、浴を賜う(たまう)華清池、温泉の水溜(みずため)らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う。死児たすけ起こせば嬌(きょう)として力無し」と書いてあります。じゃ、皆さん、御湯遺跡博物館へ参りましょう。そこには楊貴妃が入った浴槽があります。蓮花湯は先に申しあげましたが、楊貴妃の浴槽は海棠の花の形をしているので、海棠湯というのです。ちょっと見た目は今の浴槽ほど豪華ではないですが、その時は大理石でつくっていますから、豪華なはずですよ。
次の見学するところへ移動しましょう。ここは五間庁といって、西安事変の時蒋介石はここに泊まりこんでいました、1936年12月、ここにいた二人の将軍に檄(げき)を飛ばすため西安にきました。12日朝5時突然の銃声で目を覚ました蒋介石は着の身着のまま逃走しましたが、山腹(さんぷく)の岩陰に隠れているところを張学良の護衛兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。ここの五間庁にその時の銃弾にうたれた跡が残っています。
皆さん、これで華清池の見学が終わりました。ちょっと10分間休憩しましょう。写真を撮りたい方は撮ってください。10分後車の方へ戻ってください。
兵馬俑
秦の始皇帝陵は西安の東36kmのところにあります。その壮大の墳墓は2200年ほど前に作られ、中国史上初めての皇帝のお墓で、世界でも最大級のものです。秦の始皇帝は紀元前259年に生まれました。13歳の若さで王位につき、紀元前221年に中国統一という大事業を成し遂げましたが、中央集権政治を实施し、文字や貨幣、度量衡を統一したほか、北方の騎馬民族対策に長城を築くことはあまりに有名です。一方専制君主として人民に苛酷な負担を強いることになり、ついに始皇帝の死後、大規模な農民蜂起もあって、秦王朝を滅亡しました。
ところで、始皇帝陵は始皇帝は即位する当時に作り始めました。そのため、動員図70万人述べ、实に、38年間わたる巨大な土木工事でした。それについて、有名な司馬遷も「史記」の中に建設規模と豪華さに触れています、それによると、「三たび水脈達する深くほり、銅版を下に敷い柩を納めるようにし、また、この陵の中宮殿、望楼を作り、百官の席を設け、奇器、奇物でいっぱいにした。百の川、大海を作り、機械の仕掛けて絶えず、水銀が流れるようにした。上の方は太陽、天体の形を作り、下は山、川、地の形を整えた」と記されています。この陵墓の壮大は最新技術を使った、今の調査結果でもそう確かめられています。
もう一つ、今日の目的である「兵馬俑博物館」はこの陵から1.5km離れたところにあります。「兵馬俑」は、1974年に用水工事をしていた農民たちが偶然発見したもので、「兵馬俑」とは、兵士や馬の形をした土偶のことですが、始皇帝陵の死後、陵に埋められ、いわば始皇帝の近衛兵というべきものです。
今のところ、兵馬俑は現在三つ発掘されていて、その総面積は20000㎡にものぼろスケールの大きいものです。陶俑と陶馬は8000代、木造の戦車は100両ほど、青銅製の兵器は40000件も見つかっています。さらい感心させられたことは、实物大の兵士が一体ずつ表情や髪型が違い、どれ一つとも同じものはありません。このことから、秦の軍隊が様々な民族から編成された混成部隊だったことがわかります。このように、兵馬俑は、兵士の指先や靴底まで繊細に作られていて、馬の鬣や尾までもリアルに再現さてれているのを目の当たりすると、当時に千人以上だったといわれる職人のこだわりが感じられます。こうして、秦の始皇帝陵全体としては、この兵馬俑坑のほかにいろいろなものが発見され、最近の発掘では兵馬だけでなく、宮殿の实物大のレプリカや文官や芸人などの俑も発掘されており、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るための軍隊と思われていたこの遺跡は、实は、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうをするねらいがあったとも推測さらています。
兵馬俑一号館
1979年10月にオープンした一号館は始皇帝兵馬俑館最初の建物です。東西230m、南北62mの長方形をしていて、発見された三つの俑坑の中では規模の最も大きいものです。1000あまりの兵隊の俑、戦闘馬車とそれを牽引する馬の俑32体が出土しました。一号館の兵馬俑は歩兵を中心とした主力部隊ですが、先頭は武士俑が並び、ついて歩兵と戦車の隊列が続き、その左右両側と後ろにはそれぞれ1列ずつ武士俑が配置されています。
皆さん、これらの兵馬俑はよくご覧になっていただくとわかりますが、兵士たちは、その容貌だけでなく、朋装もくらいによって、それぞれ違います。最も目立ったのは将軍俑で、将軍は先端を巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためリボンが顎の下で丁寧に結ばれ、胸まで格好よくたらしています。また、戦闘朋も二枚着ており、鎧も独特な形をしていて両肩と胸のところでリボンで結ばれています。現在、ここでの発掘はまだ継続中で、埴輪の数は推定で6000体ぐらいあるだろうと推測されています。
兵馬俑二号館
昔、戦争では陣立ては勝負を決める重要な要素でした。軍事家たちが多くの陣立ての形を考えました。しかし、その内容がずっと最高の軍事秘密で現在その記録がほとんど残っていません。
1976年、最初に発見されました兵馬俑坑の周りを発掘したところ、その北側から大量の俑が新たに発見されました。これは現在の二号館で展示されている兵馬俑です。
二号館の面積は約6000㎡、陣立ては陶俑と陶馬は合わせて1300体余りあり、ほかに戦車、歩兵、騎兵など編成された「W」の形をした曲陣で、それと騎兵集団で構成されていますが、御者が手綱を引き、片方の手に弓を持っています。戦車集団のほうは、4頭立ての馬車一台に御者が1人が付き、両脇の兵士二人は武器を手にして、戦車に登る姿勢を示しています。
先頭部隊は弓弩兵器を携えた射手で、右側に戦車、中央には歩兵と戦車が交互に左側には騎兵が配置されており、最後の方は騎兵と歩兵をいった陣容の混合部隊です。この陣立ての形は攻めることも守りことも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい弱点がありません。
兵馬俑三号館
三つの兵馬俑館中で唯一発掘が完成したのが三号館です。三号館の面積は376㎡の凹字型となっており、規模として一番小さいほうですが、地下の大軍を統帥する指揮部です。ここからは馬車一台、馬、武士の俑、それに青銅製兵器が出土されています。
大清真寺
現在西安には6万人の回民族イスラム教の教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教徒の宗教活動の場所である寺院―モスクがたくさんあります。清真大寺は鐘楼の西側の鼓楼のすぐそばにある化覚巷にあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺の中に保存されている石碑の記載によれば、この寺は唐の742年の建立ですが、明代の1384年に大修理を行われました。
寺院は楼、台、亭、堂の四つの部分に分かれ、敷地は一万二千平方㍍、建築面積はやく四千平方㍍、ほぼ完全な建築群で構成されています。壮観なドームや尖塔、モザイクなどを特徴とするアラブ式のイスラム寺院とは異なり、清真大寺の造りいぇ装飾は伝統的な中国式です。その特徴は塗装された梁や柱の彫刻を持つ中国特有の楼に色濃く見られます。
前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛縁な木牌坊があります。第二院には石碑が一ヶ所あり、石碑には明代、清代この寺を修復したことが記載されています。第三院の中央に省心楼という建物があります。ここは礼拝の時、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿とも呼ばれており、信者は毎日5回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前にシャワを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方㍍、1回千人以上の礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用して、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んでいます。この寺は全て中国のイスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼、台、亭、堂四書類を形成しています。また、寺の建物は全部対称しています。
人々の生活習慣と風俗などが民族によって異なることはいうまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。
ムスリムは豚肉もお酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。
結婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読む、メッカに生涯を誓います。女性は他の民族と結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣があります。
葬式の時も読経します。棺は使わず、28mの木綿の織物で遺体を包んで埋葬します。
回民族の朋装は漢民族と変わりませんが、年配で回族意識の高い男性は白いフチのない帽子をかぶる習慣があります。
碑林博物館
碑林博物館は、西安の南城壁のすぐそばにある孔子廟遺跡の場所に建てられていて、その敷地面積は3万平方㍍、「西安碑林」と「石刻芸術」と二つの部分からなっています。
皆さん、ご存じのように中国の正門は一般に南に向いていますが、碑林博物館はの正門だけは東に向いているのはなぜでしょう。それは孔子廟には必ず西と東の門があり、これを「礼門義路」と言って、いわば「礼儀の門」という意味があります。
さて、まず、正門に入りますと城壁と向かい合って「孔廟」の大きいな文字が見えてきます。それから、目の前に鳥居型の門が見えますが、これは「牌楼」ともいい。功労があった人の徳をたたえるために建てられたものです。更に、もう一つの門をくぐると中央に小さい道があり、その両側に馬をつなぐ「杭」があります。これは明、清時代からのものと言われ、これらの杭は、昔、この地方の大金持ちや官僚の邸宅の門にあったもので、訪れた実の馬をつなぎとめるものでした。なお、石柱の頭部には、邪悪を鎮め、縁起の良い動物や人物のデザインがほどこされております。もうちょっど足を進めますと、東西の方向に亭が見えてきます。東の亭には、大きいな種が置かれていますが、この鐘は711年、唐時代の景雲2年に造られたもので、「景雲鐘」と呼ばれています。この「景雲鐘」は銅で鋳造され、重さ6トンもあり、表明に凸凹の乳首のようなものがついていますがこれは鐘の韻律を調整するもので、種に音色はまるで鳳凰の鳴き声のようとも言われています。
西安碑林、総数が2千基にのぼる「碑林」は文字通り石碑は林のように立ちならんでいるところからこのように名づけられました。碑林は歴史的にも芸術的にも価値が高く、中国最大の「石の書庫」とも言われています。ここで展示されているのは漢時代から唐、明、清時代にかけてのものまで、ここで注目されますのは、特唐代の有名な書道家が書いた書道作品です。
皆さん、目の前に「碑林」の文字が見えてきましたね。これは中国の民族英雂、林則徐が書いたものです。ここに碑林の最大の石碑であります「石台孝経」が展示されていますが、「孝経」とは、孔子の弟子曾参が編集した親孝行について書かれた本ですが、この石碑には「孝経」の内容だけでなく、唐の玄宗李隆基が書いた解説、序なども刻まれています。なお、石碑は高さ約6m、頭部、碑文、台座の三つの部分からなり、台座は三層で、その上の石碑は四つの石からなっています。頭部には生き生きとした蔓草や縁起の良い動物の線刻が刻まれていますので、ご注目ください。
第一陳列室 ここに展示されているのは「開成石経」です。114の石碑の両面に儒学の経典13経に全文が刻まれています。「開成石経」は唐の文宗の開成2年に立てられましたが、その石碑も戦争や自然災害によって大きいな被害を受け、40余りの石碑のうち、壊れた部分に文字を今度は前より小さい石碑に刻まみこみ、1588年には「開成石経」の傍に置くようになりました。いずれにしましても、これらは我が国でただ一つの完全に保存されている石刻経典といえます。
第二陳列室
この陳列室には、唐代の有名な書道家がかいた石碑で、後世の書法の手本となったものばかりが展示されております。初唐の欧陽詢が書いた「皇帝誕碑」、その息子の欧陽通の「道因法師碑」、顔真卿の書「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。「大唐三蔵聖教序碑」は長安の弘福寺の和尚懐仁が王義之の書を集めて作ったといわれる「千金帖」です。また、ここには、大書道家の大作のほかに、古代ローマからキリスト教が伝来したことを伝える「大秦景教流行中国碑」はよく知られています。碑文は、中国とシリア両国の文字で書いてあり、唐王朝と外国との交流を研究するうえでも、貴重な資料となるものです。
第三陳列室
ここで篆書、隷書、楷書、行書、草書の書体で刻まれた石碑が展示され、中国文字の変遷を理解するには格好の場となっております。碑林の石碑の中で、最も古いものは「漢曹全碑」です。これは後漢の曹全が隷書で書いたものです。また、「千金文」は昔から児童の啓蒙書となってきました。
石刻芸術陳列室
1963年に建てられた石刻陳列室は、陝西省各地に散在していた前漢時代から唐代までの墓石と宗教的な石刻作品70点余りと集められ、陳列室には石棺、仏像、石刻の動物などの貴重なものが展示され、中には、丸彫り、浮彫、線彫りなどの石刻があります。なお、「牛耕図」は後漢時代の画像石の代表なものです。そして、唐の太宗李世民の愛馬を浮彫した「昭陵六駿」は唐代石刻芸術の代表的な作品として評価が高いです。
陝西歴史博物館
陝西省歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の国立博物館です。西安の南に位置しており、敷地面積7万㎡です。所蔵する文化財は11万3千あまり、陝西省から出土した周、秦、漢、唐時代からの文化遺産です。展示されているのは、その中から選ばれたきわめて稀なものばかりで、約3,000点余りです。すべてのものが一品ぞろいです。展示室の面積は1100平方㍍、建物は代表的な唐代の宮殿様式で、『中央は殿堂、四隅は高楼』という伝統的な構造になっております。
展示品 館内に入って、まず目につくのは、大きな石に獅子ですが、これは則天武后の母親の墓 順陵の獅子に模造品です。
第一展示室は、約115万年前の旧石器時代、藍田猿人から始まっています。ここに展示されているのは、旧石器時代や新石器時代の代表的な文物で、先史時代の人々の生活ぶりを現しています。
現在、確認されている最も古い王朝は殷です。殷代には占いため亀甲と獣骨に刻まれ文字があります。これを甲骨文字といい、漢字の最も古い形になっています。周の時代、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時代なので、「青銅器時代」をされています。青銅器は銅と錫と合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになれました。博物館に展示されている青銅器は、祭礼の楽器、生産、生活用具、实戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文内容の重要さなど、世界美術史上も貴重なものです。
この展示室では秦の足跡を展示しています。展示品の中には都咸陽の宮殿遺跡か発掘した瓦、煉瓦、土管などが並んでいます。始皇帝の事業の一つ、通貨の統一をあげることができるが、当時の貨幣関係の資料も展示されています。漢代の都、長安城は、中国の歴史における初めての国際的大都会で、当時、ローマ帝国より2倍ぐらい広かったと言われます。当時の冶金、製鉄技術では、既に石炭による送風式溶鉱炉を使用していました。農機具だけでなく、兵器や日用品なども大量に鋳造、生産していたのです。紙の発明はかなり古く、西安覇橋の漢墓などからも、植物繊維で造った紙が発見されていますが、さらに良質の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。ここに展示されている、1965年咸陽市の東約25キロの陽家湾で発見された彩絵陶俑群で、計2500個以上が出土しました。絢爛たる文化の華咲く唐代で、注目していただきたいのは壁画です。陵墓から運ぶ出された唐代の巨大な彩色壁画の展示が来館者を圧倒します。例えば則天武后の孫娘永泰公主の墓から出土した「侍女図」という壁画の女性を見ると胸元を緩やかに広げ、いわゆる詰襟の中国副の硬さがありません、足元を纏足ではなく大きな沓を履いています。いかにも自由闊達と見える、これらの女性たちが馬に乗るも横座りでなく、跨って大路を駆け抜け、闊歩したとも伝えられています。隋 唐展示室では金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など当時の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。唐三彩は西安、洛陽一帯に分布していますが、出土数が大変少なく、大変珍しいものです。陳列室されている馬、駱駝、宮女、宦官、各種生活用品など、題材の豊富です。葬式の行列に使う冥器などでも、工芸水準は大変高いものです。
黄帝陵
黄帝陵は中華民族の始祖黄帝軒轅氏のお墓です。陝西省の延安市黄陵県の橋山の上に位置しております。「天下第一陵」と言われています。橋山、海抜980メートルです。ここは歴代帝王と有名人たちが祭るところです。
黄帝は原始時代の優秀な部落首領です。土の徳を尊ぶ(とうとぶ)、土の色は金色ので、黄帝を呼ばれるようになりました。黄帝は天下を統一して、天下共主と言われいています。後人は自分を「炎黄子孫」また「華夏子女」と呼びます。黄帝は伝説的な人物ですが、後世に「人文始祖」と称えております。
ここは軒轅広場です。黄帝陵を祭りの出発点です。軒轅広場は5000枚秦嶺天然河の玉石で敷き詰めてきて、中華民族の5000年の悠久の歴史を代表しています。目の前の池は「印池」と呼ばれて、伝説によりますと黄帝が筆を洗いところです。今、私たちが通ったこの橋は「軒轅橋」を呼ばれて、印池を横断して、全長66メートル、幅が8.5メートルで、全部花崗岩(かこうがん)で造りして、中国近代全石材第一橋と知られています。北端に95段階の石段があります。九五の尊の崇高(すこう)な地位を代表しています。
軒轅橋を突っ切ると軒轅廟です。軒轅廟は唐の代宗に建てられ、敷地面積約6666平方㍍、入りますと、左にコノテガシワがあって、高さ約19メートル、世界コノテガシワの父と言われて、遡ること、4700年もあります。
人文初祖大殿は正殿で、全廟の本館です。中には黄帝の浮彫全身の彫像があります。神棚の周囲は四つの縁起のよい動物の図案が刻まれています。左は蒼龍、右は白虎、上は朱雀、下は玄武です。
黄帝陵区は約4平方㍍、四隅は山と水、樹木が茂っています。頂上に登って、まず、石碑が見えてきて、「文武百官ここに馬をおお降りください。」が刻まれています。黄帝陵は山頂の真ん中に位置しており、南に向いて、高さ4メートル、周長約50メートルです。陵の前に「漢武仙台」が刻まれていた石碑があります。これは漢武帝が造たものです。
崋山
陝西省の華陰県にあって、西岳とも言われています。中国五岳の一つで、崋山主峰海抜2160メートルで、北は黄河を俯瞰し、南は秦嶺に連なります。崋山は「天下第一険」と言われ、雂大さと険しさで古くから中国五山の一つとして広く知られています。
東峰は崋山の奇峰の一つで、峰頂に美しい景色や「日の出」を見ることができる朝陽台があるので朝陽峰とも言われています。北峰は「雲台峰」をも呼ばれて、海抜1500メートルで、四方は断崖絶壁で、ただ1本しか山道が南側の連峰に通じていません。映画「智取崋山」はここから取材したものです、それは筆のように屹立して、千刃の断崖をなし、頂上から俯瞰すると秦川がぼうぼうと流れ、その間に渭水と洛水が龍のように曲がります。頂上には劈山救母石があり、聞くところによると中国有名な神話「宝蓮燈」の中の沈香が山を切り開いて、母親を救った物語はここで発生したと言い伝えられています。南峰はすなわち「落雁峰」崋山の主峰で海抜2083メートルもあります。崋山の最も険しい峰で、峰には深緑の松とコノケガシワ、林がうっそうとしています。東に雲を突いて架設した長空桟道があります。中峰は玉女峰をも呼ばれ、東、南、西峰に通じる要路です。
崋山は険しさが特色で「険」という文字があちこちにあります。山に至るところに断崖絶壁があり、山道は険しく景色も美しいのです。山道に沿って、玉泉院から蒼龍嶺まで多くの景勝地を見ることができます。
崋山の麓から青珂坪までの道中は風景が静寂で、谷間が鮮やかな緑色に染められて、鳥がさえずり、花が香り、泉が流れて、人々の心をゆったりとさせます。青珂坪の東からこそは本当の登山になります。ここに「回心石」の文字が刻まれた大きな石があります。これから先が崋山の危険なところです。この文字を見て体力の無いもの、肝っ玉の小さいものは引き返します。回心石を過ぎると崋山の咽喉、「千尺棟」に着きます。ここは険しい崖の小道両で、370段に石段があり、両側にあるロープを掴んで一歩ずつ登らなければなりません。「千尺棟」の幅はとても狭く、下を見ると深い井戸です。更に進むと、もっと険しい「百尺峡」に突き当たり、その後、仙人橋を通り、一段と険しい「老君梨溝」に至ります。ここは海抜1500メートル、史方は断崖絶壁で、570段の石段があり、その突き当たりは「狐孫愁」というところで、文字通り、猿でさえ困惑していて、断崖絶壁がどんなに険しいが想像できます。「狐孫愁」を過ぎると崋山の北峰に到着します。
見送り
皆さん、いよいよ西安を離れる時間が迫ってきました。もう一度身の回りをチックしてください。今から、空港へ向かいますので。
この3日間行き届かない点が多くて、ご迷惑をかけたかと思います、3日間の観光はあっという間に過ぎました。本当にお名残惜しいです。
私は皆様のお供をさせていただき、大変楽しく、いろいろと勉強させていただきした。こうして無事に快適な旅行ができましたのも、皆様のご協力のおかげです。この次、お出でになる時もぜひ私どもの旅行社をご利用ください。それまでに、私ももっと日本語を勉強しておきますので、また、ご案内させていただければ有りがたいと思います。
皆様、ここでお別れです。どうぞお元気で、さようなら。
第二篇:西安景点导游词
西安景点导游词15篇
作为一位杰出的导游,总归要编写导游词,借助导游词可以更好地宣传景点,引导游客观光游览。怎么样才能写出优秀的导游词呢?以下是小编精心整理的西安景点导游词,欢迎大家借鉴与参考,希望对大家有所帮助。
西安景点导游词1西安碑林建设于公元1087年,是保藏我国古代碑石时刻最早、数量最大的一座艺术宝库,陈从汉到清的各代碑石、墓志共一千多块。这里碑石如林,故名碑林。西安碑林内容富厚,它既是我国古代书法艺术的宝库,又搜集了古代的文献文籍和石刻图案;记述了我国文化成长的部门成绩,反应了中外文化交换的史实,因而驰名中外。
西安碑林是在生涯唐代石经的基本上成长起来的。唐代人所称的石经,包罗公元745年唐玄宗李隆基誊写的《石台孝经》和公元837年刻成的《开成石经》。
碑林第一陈列室前是专为陈列《石台孝经》修盖的碑亭。《石台孝经》是碑林最大的石碑,刻于公元745年,是唐玄宗李隆基亲身誊写的。孝经是孔子的门生曾参编篡,专门讲孝道的。前面一部门是李隆基为孝经作的序。玄宗为孝经写序的目标是暗示本身要以“孝”管理全国。后头是孝经原文,小字是玄宗为孝经作的注释。底座由3层石台构成,上刻有活跃的线刻画,有蔓草、狮子花等,是唐中期较量有代表性的,上面是浮雕卷云瑞兽。此碑由4块石头构成,底下有石台,因而称“石台孝经”。
碑林第一陈列室首要陈列《开成石经》,内容包罗《周易》、《尚书》、《诗经》、《周礼》、《仪礼》、《礼记》、《春秋左氏传》、《春秋公羊传》、《春秋谷梁传》、《论语》、《孝经》、《尔雅》等12部经书,计650252字,用石114方,两面刻文。清代补刻的《孟子》17面3万余字也陈列于此,合称《十三经》。12部经书是封建社会常识分子必读之书。由于其时印刷术不很发家,为了停止文人学士们在传抄经书时呈现错误,并能永世生涯,就把这12部经书刻在石碑上,作为范本,立于长安城国子监内,供人们校对。我国自东汉开始,曾先后7次刻经。《开成石经》是今朝仅存的一套完备的石刻经书。
西安景点导游词2西安钟鼓楼构筑重檐窝拱,攒顶转角的木质布局,共有3层。每层均施斗栱装饰。楼基面积达1377。64平方米,通四街各有门洞。基座为正方形,高8。6米,宽约35。5米,用青砖砌筑。楼高27。4米。由地面至楼顶,高36米。内有楼梯可回旋而上,供游人登临旅行。鼓楼始建于明洪武十三年(1380),清康熙十三年(1674)和乾隆五年(1740)先后重修,但梯体仍保持原构筑特点。楼九楹三层,为歇山顶重檐三滴水木构构筑。座宽38米,长52。6米,高8。7米,全用青砖砌筑。楼高24。3米,通高33米。南北正中辟有高、宽各6米的券门。北悬“声闻于天”匾额,南悬“文武盛地”匾额。楼建于基座中心,慎重丰富。
钟楼的西北角上陈列着一口明代铁钟,重5吨,钟边铸有八卦图案,制作于明成化年间(1465~1487年)。但它比钟楼起初悬挂的铜钟却小得多了。钟楼原先悬挂的巨钟是唐代景云年间锻造的“景云钟”(现藏于碑林博物馆)。听说,迁到今址之后,风物杂谈,固然楼的式样巨细并没有改变,景云钟却怎么也敲不响了。无可若何,只有另换。
钟楼的门扇槁窗雕楼精细繁复,示意出明清流行的装饰艺术。细心浏览门扇上一幅幅浮雕,它们会汇报你古代很多饶故意见意义的典故轶闻。第一层北门,自西向东依次为;虬髯客;木兰从军;文姬归汉;吹箫引凤;红叶题诗;班昭念书;博浪沙椎秦;唱筹量沙。第一层东门,自北向南依次为:永生殿盟誓;连环计;黠鼠夜扰;挂角念书;卞庄刺虎;嫦娥奔月;东坡题壁;李白邀月。第一层南门,自东向西依次为;文王访贤;伯牙鼓琴;画龙点睛;斩蛇起兵;伯乐相马;柳毅传书;舜耕历山;把桥授书。第一层西门,自南向北依次为;枕戈待旦;李陵兵困;由基射猿;龙友颂鸡;黄耳传书;孙期放豚;陶侃运砖。第二层楼南门,自东向西共八幅“八仙过海,各显神通”的画面,依次为钟离权、张果老、吕洞宾、曹国舅、铁拐李、蓝采和、韩湘子和何仙姑。
第二层北门,自西向东共八幅勺“仙醉酒”画面,依次仍为钟离权、张果老、吕洞宾、曹国舅、铁拐李、蓝采和、韩湘子和何仙姑。第二层东门,自北向南依次为;单人独马;伐鼓金山;岳母刺字;孟母择邻;子路负米;画获教子;温娇绝裙;闻鸡起舞。第二层西门;自南向北依次是:写经换鹅;茂叔爱莲;灞桥折柳;踏雪寻梅;陶潜爱菊;寻隐不遇;孤山放鹤。
西安景点导游词3各位游客朋友:
大家好!
今天我们要去游览的是以险峻著称的西岳华山。华山又称太华山,位于西安城东120千米的华阴市以南。华山古称西岳,是我国五岳之一,因山峰自然排列若花状,故得名华山。华山北瞰黄河,南依秦岭,被称为“华山如立”,整个山体线条简洁,形如刀削、斧劈,奇峰突兀,巍峨壮丽。被誉为“天下奇险第一山”。现在的华山有东、西、南、北、中五峰,主峰有南峰“落雁”、东峰“朝阳”、西峰“莲花”,三峰鼎峙,“势飞白云外影倒黄河里”,人称“天外三峰”。还有云台、玉女二峰相辅于侧,36小峰罗列于前,虎踞龙盘,气象森森,因山上气候多变,形成“云华山”“雨华山”“雾华山”“雪华山”等景观,均给人以仙境般的美感。
各位游客朋友,华山不仅自然景观美不胜收,人文景观也令人震撼与叹服。华山是中华民族文化的发祥地之一,据清代著名学者章太炎先生考证,“中华”、“华夏”皆因华山而得名。《尚书》里就有关于华山的记载;《史记》中也有黄帝、尧、舜华山巡游的事迹;秦始皇、汉武帝、武则天、唐玄宗等数十位帝王也曾到华山进行过大规模祭祀活动。华山还是道教名山,山上现存七十二个半悬空洞,道观20余座,其中玉泉院、东道院、镇岳宫被列为全国重点道教宫观。华山留下了无数名人的足迹,李白、杜甫等文人墨客咏华山的诗歌、碑记、游记和传说故事不下千余篇,摩岩石刻多达上千处。在华山诸多故事中,流传最为广泛的神话故事有“巨灵劈山”、“沉香劈山救母”、“吹箫引凤”等。20_年,华山景区以其独特的自然与人文景观被评为国家AAAAA级旅游景区。
各位游客朋友,现在我们从玉泉院出发,去游赏众多惊险瑰丽的景观。各位朋友,现在我们来到了青柯坪,请看东边的一块巨石,名叫“回心石”,前面是华山第一道险境千尺幢,以前体弱者到此石处向导就劝其回头下山,故有“回心石”之名。民间还有一个传说,说的是元朝道士贺志真带领两个徒弟在华山开道凿洞,每凿一洞,就让给别人,这样天长日久,两个徒弟就有些不高兴,认为本想跟师傅学点东西,现在不但没学到什么东西,而且天天吃苦凿洞,这什么时候是个头啊?这天,师徒三人在南天门外悬空凿洞时,两个徒弟心怀叵测,砍断绳索,眼看师傅坠人深渊。两个徒弟随即下山,当走到回心石处与师傅相遇,因此知道师傅已经成仙,不是凡人了,于是悔恨不已,决心回心转意,又随师傅上山修炼。后来两个徒弟也都修炼成仙了。
千尺幢是一条峭壁上的大裂缝,陷在两旁的巨石之间,共370余级台阶,坡度极陡,每级台阶的宽度不过三分之一的脚掌,幸好两旁都有可助攀爬的铁链。仰望天际,一线天开。俯视脚下,如临深渊。石级顶端犹如井口,倘若把“井口”用铁盖盖住,通往华山的道路便被堵塞,所以称之为“太华咽喉”。
出千尺幢不远是百尺峡,这里是登华山的第二道险关。两壁高耸,中间夹有一块从天而降的巨石,上刻“惊心石”三个大字,游人要从石下小路穿过,确实惊心动魄。此后还有仙人桥、俯渭崖、黑虎岭等小险处,就到了登山的第三道险关老君犁沟,这是夹在陡峭石壁之间的一条沟状险道,深不可测,有石级570有余。
各位游客朋友,现在我们来到了华山的精华部分——西峰。西峰,又称莲花峰,得名于峰顶翠云庙前右侧的那块大石,其状如莲花,山峰奇拔峻峭,如刀切剑削,壁立千初。此峰最髙处有“摘星台”,登台俯瞰,秦川茫茫,蓝天如洗,浩瀚无际,渭、洛二水如银带,北望黄河细如丝。唐代大诗人李白观赏此景后曾写下“西岳峥嵘何壮哉,黄河如丝天际来”的美丽诗句。西峰南崖有山脊与南峰相连,脊长300余米,石色苍黛,形态好像一条屈缩的巨龙,人称屈岭,也称小苍龙岭,是华山著名的险道之一。西峰上美丽景观比比皆是,还有翠云宫、莲花洞、巨灵足、斧劈石、舍身崖等,并伴有许多美丽的神话传说。其中,沉香劈山救母的故事流传最广。峰上崖壁题刻遍布,工草隶篆,琳琅满目。峰北绝顶叫西石楼峰,峰上杨公塔为杨虎城将军所建,塔上有杨虎城将军亲笔题词。塔下岩石上有“枕破鸿蒙”题刻,是书法家王铎手迹。特别是莲花洞,也叫莲花石,太乙莲台,此石头如莲花瓣覆盖石上,顶上的松树在气象站没有砍去一半前,就像莲花的莲蓬一样,很有意思!各位朋友,华山景区还有东峰、南峰、北峰等美景,请大家一边攀登一边欣赏,3小时后在山下停车场集中返回。好了,我的讲解就到这里,谢谢大家对我工作的支持。欢迎大家再来华山。
西安景点导游词4中国明西安府城墙。在陕西省西安市。建于明洪武三年至十一年(1370~1378),在唐长安城的皇城和元代奉元城基本上扩建而成。原为夯土城墙,明隆庆年间(1567~1572)巡抚张祉在夯土城墙外初次包砖。清乾隆年间(1736~1795)陕西巡抚毕沅举办大局限的维修和加固,将包墙增厚,铺设海墁,并增修排水道、宇墙垛口等。城墙周长13。75公里,为中国现存完备、局限最大的城墙。1961年中华人民共和国国务院发布为世界重点文物掩护单元。
据文献记实,明代建筑的西安城,西墙和南墙都是操作原唐代皇城的城墙而增修加长的,东墙和北墙是扩大新建的。西墙和南墙内均发明有唐代城墙和城门的遗迹。城墙用黄土夯筑而成。明代建筑的城墙用黄土加石灰、细沙并掺麦秸、草渣混淆分层夯筑而成,夯层厚10~12厘米。城墙高12米,底宽16~18米,顶宽12~14米。墙顶均以三层青砖铺设海墁,每隔40~60米处,有一砖砌溜水槽和吐水嘴。城内除四门左侧各有登城马道外,还有6处马道。城墙内沿墙附近筑女墙,外沿墙有垛口5984个。城墙外壁附近有马面98座。马面伸出墙面11米,宽20米,各马面之间相距120米,恰在弓箭和火铳的射程之内。
城的四角各筑有一个突出城墙的角台(楼),除西南城角台为圆形外,导游实务,其他3个为方形。据掘客得知,这种圆形角台是元代的建制,明代扩建西安城时,因西南角未动而保存下来。城墙每面各辟一门,东名长乐,西名安宁,南名永定,北名安远。门外筑瓮城,门上建楼,门楼有正楼、箭楼、闸楼三重,闸楼及周围城墙已在民国初年拆除,现存正楼、箭楼6座。除南面箭楼下无门洞外(门洞分从瓮城阁下开),其他3门箭楼下各穿门洞。门洞高宽6米,深19。5米。正楼为重楼,面宽七间,进深二间,高36米,三层檐歇山顶,周有回廊,楼下及平座均施斗□,箭楼以青砖为主布局,面宽十一间,进深两间,高33。4米,单檐歇山顶,正面分设四层箭窗,各12孔,总共48孔,阁下各3层,总共9孔。楼的不和有两层房檐,均施斗□,下有檐廊。城外护城河宽20米,深10米。1983年开始对城墙举办全面整修。
西安景点导游词5大雁塔位于僻静门外4公里的慈恩寺内,相传唐代永徽三年。赴印度取经的玄奘法师。奏请在寺内建塔,用于存放他自印度带返来的经籍。这座塔初名为经塔。后裔人称它为大雁塔,此塔巍峨挺秀,引起众人的惊叹。
这座有着一千三百多年汗青的大雁塔,成为古城西安独具气魄威风凛凛的符号。大雁塔初建时只有5层,高60米,是模拟西域佛塔情势建的。后经多次修葺至今塔高64米,共7层,底边各长25米。大雁塔是中国楼阁式砖塔的优越典范。塔身用青砖砌成,每层四周都有券砌拱门,这种楼阁式砖塔造型简捷,气魄宏伟,有明显的民族特色和期间气魄威风凛凛。至于雁塔之前冠以“大”字,则是后工钱了区别于荐福寺小雁塔之故。
塔内有木梯,可以回旋登塔,凭栏远眺,可饱览关中大好风物。大雁塔的底层南门两侧,镶嵌两块石碑,一块“大唐三藏圣教序”,是唐太宗在贞观廿二年(648),为玄奘所译诸经作的总序。另一块“大唐三藏圣教序论”是唐高宗为“圣教序”所作的纪文,此二碑是研究唐代书法、绘画、镌刻艺术的重要文物。尤其是塔的西石门楣上的线刻殿堂图,更是研究唐代构筑的贵重资料。
小雁塔
小雁塔在西安市情意路南侧的荐福寺内,与大雁塔对象相向,成为唐代古都长安保存至今的两处重要符号。因局限小于大雁塔,建筑时刻较晚,故称小雁塔。
荐福寺原建于唐长安城开化坊内,是唐太宗之女襄城公主的旧宅。睿宗文明元年(684年)皇室外戚为高宗荐福而建寺。天授元年(690年)改为荐福寺,是唐长安城中的闻名寺院。唐代名僧义诤在荐福寺译经,共译56部,撰著《大唐西域求法高僧传》一书,对研究中印文化交换极有代价。
现寺内存有的小雁塔,为密檐式方形砖构构筑,初为15层,高约46米,塔身每层叠涩出檐,南北面名辟一门。塔身从下至下逐层递减内收,愈上愈促,奇丽玲珑,别具气魄威风凛凛。门框为青石彻成。塔身内部为空筒式布局,设木构楼层,有木梯回旋而上。明清两代因屡经地动,塔身中裂,塔顶残毁,仅存13层。今寺内还生涯一口重万余公斤的金代明昌三年(1192年)铸的臣大铁钟,钟声洪亮,是誉为关中八景之一的“雁塔晨钟”。
西安景点导游词6哈喽!欢迎大家来到西安,我是你们的小导游刘琳,我和大家初次见面,请大家多多关照,下面我们就前往清华池吧!
朋友们,我们正在走廊,请大家往前看,那就是黄河母亲,她一身雪白,还抱着不到一岁的孩子,用乳汁哺育这他,这黄河母亲大概有两米多高。我们联想一下我们小时候,妈妈肯定也这么爱你吧!
黄河母亲大家已经看过了,我们就去对面那座山吧!它叫作鸟山,必须坐缆车去。请大家做好准备,缆车要出发了!请大家往下看,这就是清华池,很美丽吧!
好了!大家该下缆车了,我们已经到达鸟山了。请大家往里面走,看!那是八哥!多么可爱呀!大家自己看吧!可不要掉队哦!好了!大家应该看完了,我们下山吧!
look!那是青春泉!听说只要用哪里的泉水洗脸,脸上永远不会有皱纹哦!青春泉的左面是皇上和他的妃子洗澡地方,只要往里面头一两个硬币,就会来年有好运!
好了!今天的清华池一日游结束了!我也要和大家说再见了!请大家不要忘记今天哦!
西安景点导游词7各位游客,大家好,现在我们的目的地是——西安碑林博物馆。
西安碑林博物馆,位于西安市三学街孔庙遗址,是我国收藏古代碑石墓志时间最早,名碑最多,数量最大的一座艺术宝库,孔庙遗址是西安碑林博物馆的重要组成部分,其建置历史可追溯到北宋末年,南门照壁上的“孔庙”两字是由清代书画家刘晖书写的。现在的大门东西开,俗称“礼门”、“义路”。走进博物馆大门内,首先映入眼帘的是一座雕梁画栋的木牌枋,名叫“太和元气坊”。
西安碑林因碑石丛立如林而得名,它始建于公元1087年,距今已有900多年的历史,被誉为“石质书库”、“书法的故乡”。西安碑林是为保存唐代《石台孝经》、《开成石经》而建,经历代不断的整修充实,集中展出了汉魏至明清的碑石墓志1000多件。
游客朋友们,碑林博物馆的参观讲解就到这里,谢谢大家的配合,欢迎大家下次再来参观,谢谢大家!
西安景点导游词8大家好,我是你们的导游,大家可以叫我小王。很荣幸能为大家服务,今天我带大家去参观西安城墙。
我们现在看到的这座古城堡就是明西安城墙,是明初在唐长安皇城的基础上建筑起来的。它是我国中世纪后期历史上最著名的城垣之一,是世界上现存规模最大、最完整的古代军事城堡防御设施。
西安作为千年古都,历代曾多次修筑城墙。它们多数被历史的尘埃掩埋。我们现在看到的`城墙可追溯到隋代。公元1369年,明王朝大将徐达从山西进入陕西,将原来的奉天路改为西安,意为“西方长治久安”。拉开了明在西安修筑城墙的序幕。历时8年修筑完的城墙外形是一座长方形。城墙高15米,顶宽12—14米,底宽16—18米,周长13.9公里。最底层用黄土与石灰、糯米汁拌合而成,干燥之后,异常坚固。
西安古城墙包括护城河、吊桥、闸楼、箭楼、正楼、角楼、敌楼、女儿墙、垛口等一系列军事设施。好了,现在让我们亲自来感受这座科学、严密、完整的军事防御体系。
这就是我们今天游览的西安城墙,它是世世代代陕西人的骄傲,是唐代文明的象征。
西安景点导游词9各位游客,这几天我们已经在车行晨曦或晚霞中领略了古城墙的多彩多姿和古朴深沉。现在我们来到城墙脚下,请大家走上城墙游览。
大家一定想知道城墙的真正含义是什么。“城墙”一词原是从“城”字引申而来。“城”按《说文》解释,是“盛”的通假字,“盛”是纳民,所以“城”字的本义是土围民而成国,由此引出城墙一义。被誉为中华民族脊梁的万里长城的“城”宇,同样是城墙的意思。只是后来随着社会的发展,“城”字又包含了今天城市的解释。
“城”字最早出现在周朝的金文中,从字形看活生生地体现了古代城墙的军事用途。城墙的军事作用是保卫私有制,而在意识形态上看,城墙的形体规模又是等级森严的宗法制的严格体现。显然统治者营造城墙,是用它来保护自己,宣示国威。现在我们看到的西安城墙,是中国历史上最著名的城垣建筑之一。它从明洪武三年(公元1370年)朱元璋下诏修城开始动工,至洪武十一年(公元1378年)完工,历时8年,是在隋唐京城的皇城基础上扩筑而成的,经过历代修葺,基本上保持着完整的封建社会城垣建筑的面貌,反映了中国古代筑城技术的杰出成就。
各位游客,那么西安城墙到底有多大呢?它的结构又是怎样的?据测算,西安城墙周长11.9千米,其中东城墙2590米,西城墙2631.2米,南城墙3441.6米,北城墙3241米。这样的规模在国内外都是比较少见的。
大家看见城墙四门外筑有护卫城门的小城,那叫瓮城西安旅游景点导游词西安旅游景点导游词。所谓瓮城,意为敌人一旦进入,就会受到瓮城城墙上面的四面夹击,犹如瓮中之鳖,无法逃脱。瓮城外还筑有拱卫瓮城的小城,古称羊马城。古时候大城门的启闭有规定时间,关闭城门后尚未回城的人可连同自己牵的羊、赶的马等,进入羊马城以及今环城公园地带歇息,等候开城门后再进城。西安的羊马城在清末已全毁。记得1986年在西安城安定门(西门)瓮城北门外约17.5米处发现羊马城北侧门道,长5.5米,宽2.4米。现在大家能看到南门瓮城外侧已修复的羊马城,墙体长198米,高9.5米。
护城河外曾有拱卫四城门的四个夯筑土城叫郭城。据《西安府志》卷九记载:唐天v年间,韩建筑东郭小城和西郭小城。宋、金、元。明洪武年间拓城时,东郭小城大部分被包在大城内,留在城外的即为东郭新城。明后期西郭小城记。目前,四关郭城墙体仅存部分残段,郭门仅在地名上留有其名称。
现在我们来到西安城内东北处,这里曾经是明秦王府城,简称王城。明初,朱元津封其次子为秦王,命其坐镇西安,加强对西北的控制。整个秦王府城分为两重城墙。外城墙称萧墙,全系土筑成。内城墙因外砌青砖,故称砖墙。明灭后,萧墙被毁。清雍正年间,西安修庙宇,秦王府的建筑多被拆除,砖城改为八旗教场。目前秦王府砖城只存夯土城残段若干处。
明代建西安城时,全城城门有4座:“长乐”、“永宁”、“安定”、“安远”。门名刻于大城门洞外的青石门据上。大城城门上所建的楼房称城楼,也叫正楼,是守城指挥官的指挥所。瓮城城门洞上所建之楼称箭楼,因楼壁辟有箭窗,是当时发箭防御之用西安旅游景点导游词导游。到了民国时又开辟了4座城门,俗称小四门:中山门(小东门),在现在的东新街东端,是为纪念孙中山修建的;勿幕门(小南门),在今天的四府街南端;玉祥门(小西门),在莲湖路西端,解放后,此门被拆;解放门(小北门),原名中正门,在解放路北端,当年因为陇海路通车到西安而修建,到了1952年因扩建火车站而被拆除。西安在解放后也开辟了新城门,南墙有建国门、和平门、文昌门、朱雀门、含光门
北墙有尚德门。东墙有朝阳门。
一般游客知道明代建筑西安城墙时有98座敌台,台上均建有敌楼。但1982年西安市城墙管理所实地调查发现,那些古敌楼没有留下一个,只有部分尚存础石。之后,西安重建敌楼12座,为砖木结构,歇山顶式,重檐二层楼,底层周设回廊。
西安景点导游词10尊敬的各位游客:大家好!欢迎到家来到西安,西安是著名的古城,我将带领大家游览几天,那么首先我们就去秦始皇陵观光。
始皇陵位于西安市临潼区东约五千米处,它南依骊山,北临渭水,地势险峻,环境优美。陵园规模宏大,陪葬品重多,像一座丰富的地下文物宝库。据史书记载,秦始皇赵政从13岁就开始营建陵园,修剪时间长达38年。工程浩大,气魄宏伟,创历代封建统治者奢侈厚葬之先例。
1974年在其东侧发现兵马俑坑,轰动了中国,震惊了世界,是20世纪最伟大的考过发现之一。1978年,法国前总统希拉克参观后说:“世界上有了七大奇迹,秦俑的发现,可以说是八大奇迹了,不看金字塔不算到埃及,不看秦俑不算到中国。”秦始皇兵马俑博物馆是建立在兵马俑坑原址上的遗址型博物馆,于1979年10月开馆。1987年12月联合国教文组织将秦始皇陵及兵马俑坑列入《世界遗产名录》。
大家在游览时要注意以下几点:1、不要大声喧哗。2、不要拥挤,要有秩序的参观。3、不要乱写乱画,保护文物。现在我就带大家一起参观一下吧!
西安景点导游词11一块古老的土地,历史老人曾镌刻了无数的辉煌;一座年轻的城市,时代之神正编织着美丽的梦想。
西安,古称长安,是当年意大利探险家马可·波罗笔下《马可·波罗游记》中著名的古丝绸之路的起点。西安,这座永恒的城市,就像一部活的史书,一幕幕,一页页记录着中华民族的沧桑巨变。早在100多万年前的旧石器时代,以西安的蓝田猿人为代表,揭开了人类文明的一页。到六、七千年前的新石器时代,先民们在此建造了村落——半坡村,成为中**系氏族公社繁荣时期的典型代表。西安的建城史已有3100多年。历史上周、秦、汉、唐等十二个王朝在此建都,历时1100多年。中国意为中央之国,中国的中心之点或叫大地原点就在西安,难怪“秦中自古帝王州”!秦始皇在此建造了中国建筑史上的杰作阿房宫,在骊山建造了规模巨大、埋藏极为丰富的历史宝库秦始皇陵,在汉唐时期,西安就是中国政治、经济、文化和对外交流的中心,是当时人口最早超过百万的国际大都市。“东有罗马,西有长安”是西安在世界历史地位的写照。至今,西安与世界名城雅典、开罗、罗马齐名,同被誉为世界四大文明古都。西安无愧于华夏文明的发源地。
“西安文物甲天下”,深厚的历史文化积淀和浩瀚的文物古迹遗存使西安享有“天然历史博物馆”的美称。
秦始皇兵马俑坑被誉为“世界第八大奇迹”,秦始皇陵是最早列入世界遗产名录的中国遗迹,明代古城墙是至今世界上保存最完整、规模最宏大的古城墙遗址。近年,汉阳陵的开发又一次造成了世界的轰动,其出土的裸体彩俑被誉为“东方维纳斯”。市内有6000多年历史的半坡遗址;明代建立的藏石碑三千多块、被誉为石质历史书库的碑林博物馆;文物储藏量全国之最的陕西历史博物馆;唐代著名高僧玄奘法师译经之地大雁塔;西北历史最长的清真寺化觉巷清真大寺,以及西安旅游区内的华夏始祖轩辕黄帝之陵黄帝陵;汉武帝刘彻之墓汉茂陵;唐女皇武则天与唐高宗李治的合葬墓唐乾陵;释伽牟尼佛指舍利存放之处法门寺等驰名中外的景点。
自然景观峭拔险峻,境内及附近有西岳华山、终南山、太白山、王顺山、骊山、楼观台、辋川溶洞等风景名胜区,更有周边的森林公园十余个。人文山水、古城新姿交相辉映,构成古老西安特有的神韵风姿。
西安的旅游商品生产具有浓厚的地方特色,秦俑仿制品、仿古青铜器、秦绣、玉器、丝绸、工艺瓷器、户县农民画、唐三彩、瓷板画、景观表、麦杆画、关中剪纸等民间工艺品十分丰富。全市有推荐旅游购物商店15家,可以较好满足游客不同层次的购物需要。同时,西安的餐饮业可以供应全国八大菜系及欧美西餐、日本料理、韩国烧烤、东南亚风味、清真等各式美味佳肴,发掘仿唐菜120多种,形成以唐菜为主的传统菜和以陕菜为主的现代菜。在全国饮食业优质产品评选中西安的饺子宴,羊肉泡馍等八个品种荣获金鼎奖,特别是西安独具特色的地方小吃吸引着八方宾客。
西安自古以来就是交通要道,是中国东部通往西北、西南以及西亚各国的咽喉。如今铁路、公路、航空交织成网,四通八达,把西安与全国连成一体。中国四大国际空港之一的西安咸阳国际机场与国内各城市开辟有100多条航线。
如今的西安,又是一座以机械、电子、电工、航空航天、轻工工业为主,拥有500多个科研机构、40余所大专院校,经济繁荣、环境优美、文明整洁的现代城市。
西安景点导游词12亲爱的游客朋友们:
大家好!
欢迎你们来到古城西安,我是你们此次西安之行的导游,我姓__,大家叫我__导好了。今天我们参观的第一个景点就是世界文化遗产之一的秦兵俑。景点位于西安临潼,大约需要四十分钟车程,等到了那里,你就可以看到举世无双的秦兵马俑。
秦兵马俑其实就是秦兵马俑的陪葬坑。你们知道秦兵马俑的来历吗?原来在以前的朝代,皇帝死后都要活人陪葬,后来到了秦朝,一个大臣对秦皇说:“之前的朝代都是用活人陪葬,这对您不是很妥当,不如让能工巧匠打造一支用泥土做成的您那是南征北战、所向披靡的大军如何?”秦始皇觉得这个想法不错就答应了下来。其实要不是秦始皇当年的这个点头同意,就没有今天这气势雄伟的秦兵马俑。
好了,我们现在已经到了秦始皇陵园,请大家依次下车。兵马俑规模宏大。已发掘的三个俑坑,总面积近20_平方米,差不多有五十个篮球场那么大,坑内有兵马俑八千个。
现在我们来到的是一号坑。在三个坑中,一号坑最大,东西长230米,南北宽62米,总面积1426平方米;坑内的兵马俑也最多,有六千多个。一号坑上面,盖起了一个巨大的拱形大厅。我们可以走进大厅在细细游赏,游赏时也要注意安全哦!
大家请看,那身材魁梧,头戴鹤冠,身披铠甲,手握宝剑,昂首挺胸的就将军俑。那神态自若的样子,一看就知道是久经沙场、重任在肩。还有很多精彩的武士佣、骑兵俑、良马。这些兵马俑一个个神态各异、精彩绝伦,真是看了大饱眼福。
秦兵马俑,在古今中外的雕塑史上是绝无仅有的。它惟妙惟肖的模拟军阵的排列,形象的展现了中华民族的强大力量和英雄气概。
亲爱的游客朋友们,时间过得真快,今天的秦兵马俑之旅也就告一段落了,祝大家接下来的旅程愉快!
西安景点导游词13兵马俑 一号坑为东西向的长方形坑,长230米,宽62米,四周各有五个门道。坑东西两端有长廊,南北两侧各有一边廊,中间为九条东西向过洞,过洞之间以夯土墙间隔。
这个坑以车兵为主体,车、步兵成矩形联合编队。军阵主体面向东,在南、北、西边廊中各有一排武士面向外,担任护翼和后卫;东面三排武士为先锋。九个过洞内排列着战车与步兵的庞大主体军阵,每个过洞内有四列武士,有的穿战袍,有的着铠甲,中间配有战车,每辆战车后有 御手一名,车士两名。
二号兵马俑坑于1994年3月1日开始正式发掘。全坑划分20X20米的24个探方。
每个探方又以十字隔梁分成4个大小相等的小方。二号俑坑上部覆盖的表土已被清除,棚木遗迹已揭示出来。图中所示是二号俑坑发掘现场的局部情况。三号坑面积520平方米,呈“凹”字形状。出土战车一乘,马俑四件,武士俑68件。坑内陶俑以夹道式排列,它是秦军阵的指挥中心。陵铜车马出土于秦始皇陵西侧20M处,1980年局部试掘铜车马坑时,在一木椁内出土一前一后纵置的两辆大型铜车马,出土时已残破,经修复后恢复原状。秦始皇帝陵位于西安市临憧区东的骊山北麓。通过考古勘探,在陵园内外已发现各种陪葬坑、陪葬墓及修陵人员的墓葬500余座。陪葬坑中比较重要的有:兵马俑坑、铜车马坑、马厩坑、珍禽异兽坑、石铠甲坑、百戏俑坑、文吏俑坑、青铜水禽坑,以及各种附葬坑等。另外,在陵园内外还发现寝殿、便殿、园寺吏舍等大量的宫殿建筑遗址。整个陵园犹如一座丰富的地下文物宝库。它是中国历代帝王陵中规模最大、埋藏物最多的一座陵园。大雁塔看到这座唐代建筑,你们一定会又感叹又好奇吧?首先一个问题就是此塔为何要以大雁命名呢? 按照印度佛教传说,当初佛教有大乘与小乘两派,小乘佛教不忌荤腥。有一天,正是菩萨布施日,一座小乘寺院的和尚却买不到肉下饭。这时天空中一群大雁飞过,一个和尚望着雁群自言自语:“今日增房无肉吃,大慈大悲的菩萨一定不会忘记这是什么日子。”
话音未落,领头的大雁便折翅坠地。于是全寺和尚大惊失色,认为这定是菩萨显灵。他们就在大雁坠地处建造石塔,并戒绝荤腥,改信大乘佛教。因此,佛塔又称大雁塔。大雁塔在建时高60米,5层,砖表土心,光盘梯。
后塔心砖缝草木丛生,渐趋颓废。经武则天长安年间、唐玄宗天宝年间、后唐长兴年间几次改造,大雁塔比原先长高了4.5米,还加了两层。底层每边长25米,基座为方形,边长45米至48米,每层四面均有券门,塔内装有楼梯。塔底层门楣上均有精美的线刻佛像,尤其是西门楣的释迦牟尼佛说法图,上刻当时废殿建筑的写真图,传为唐代大画家阎立本的手笔,是研究后代佛教文化和建筑艺术的珍贵资料。塔南门东西两侧的砖龛内镶嵌有唐太宗李世民撰的《大唐三藏圣教序》碑和唐高宗李治撰的《大唐三藏圣教序记》碑。两碑都是唐代著名书法家褚遂良书写,为唐代碑刻中的精品,是受国家保护的珍贵书法原刻,是研究古代书法艺术的重要实物资料。
完全可以这样说,这座仿木结构的楼阁式方形砖塔,造型简洁,气势雄伟,有显著的民族特色和时代风格,是我国佛教建筑中的杰作。
西安景点导游词14各位游客:
大家好!欢迎大家来到古城西安旅游,我是你们的导游,我姓黄,叫我小黄或伟群都行。我今天有幸陪同大家一起参观,很高兴,希望我能和各位一起度过这一段美好的时光。今天我先带大家去最著名的秦兵马俑。
秦兵马俑在我国西安临潼出土,今天我就带领你们游览这举世无双,享誉世界的历史文物。
看!这就是将军佣,它身体魁梧,头戴鹤冠,身上披着铠甲,手里还握着宝剑,看它若有所思的样子,好象在考虑如何打退匈奴大军呢!
瞧!这个兵马俑是陶马,它的大小跟真马差不多,个个形体键壮,肌肉丰满,看它跃跃欲试的样子,好象一声令下,就会撒开四蹄,腾空而起,踏上征程哩!
今天,我的讲解就到这,档案,先的景点不知这一关额,还有先古城墙,华清池等等,这些景点我都会带你们去的,今天我们就先到这里,大家回去好好休息,然后有一个好的状态再继续我们明天的行程,希望大家今晚能休息好,我们明天见。
西安景点导游词15钓鱼台位于宝鸡市东南40公里蟠溪河上,南依秦岭,北望渭水,山清水秀,古柏叠翠,景色绮丽,历史久远,是古今中外颇享盛名的游览胜地,是省级风景名胜区和省级重点文物保护单位。钓鱼台因西周名士姜子牙在此隐居十载,滋泉钓干遇文王而闻名于世,史料典籍均有记载。唐贞观年间:“太公兵家者流,始令蟠溪立庙。”并植柏四株,至今犹存。至清乾隆年间有庙宇17处,著名的有太公庙、文王庙、山门口、三清庙等,河东岸的钓台遗迹,河道中央的“璜石”,河西的望贤台以及飞瀑流霞,浪声莫测。钓鱼台建筑风格典雅、自然景色迷人。
根据记载,太公钓鱼台有3处,初钓河南新安城东,继钓陕西咸阳城西,后钓宝鸡县伐鱼河谷,而三处中又以幡溪钓鱼台最为有名。因为,姜太公在此垂钓的时候,遇到周文王的拜谒,辅佐朝政,才出现了我国历史上的“文武之治”盛世。从此以后,北魏地理学家郦道元,唐代诗人李白、许浑,宋代诗人苏轼都曾游览于此,并赋诗记胜。唐代的钓鱼台就此建庙塑像,历经3次重建,至今人们还可以看到“太公庙”、“文王庙”、“望贤台”、“乞子崖”、“钓鱼台”等一些庙宇,祭钓堂、殿、廊、楼、台和一石驮五柏等壮观奇景。《吕氏春秋》(水经注)有“太公钓兹泉”的记叙,民间亦有“太公背泉垂钓”、“周文王纳谏邀贤”、“武吉代薪奉母”等传说。古往今来,钓鱼台就以其盛名招待游客,宋代文学家苏轼曾游此地,留下“夜入幡溪如入峡,照山炬火落惊猿”的名句。站在伐鱼河上的瓦子坡村南眺,秦岭群峰峥嵘起伏,重峦叠嶂,郁郁葱葱,气势磅礴,蔚为壮观。近看,奇峰耸峙,翠柏葱绿,庙宇宏伟,水色碧透,绚丽诱人。
然而,最引人注目的还是那块屹立在伐鱼河畔的奇特巨石——“丢石”。丢石,是一块庞大而完整的石英花岗岩体,上大下小,呈碗形,丢石上几乎找不到任何裂隙。丢石北侧有清乾隆五十九年三月,宝鸡知县徐文博书写的4个1米见方的苍劲大字:“孕磺遗璞”。丢石高6.6米,上部直径11.2米,下部直径仅4米,伐鱼河湍湍急流擦石而过,大有一触即倒之势,然而,千百年来,它始终“稳如泰山”,充满着神秘的色彩。
雄伟壮观的姜太公庙在丢石右上方的河边。房屋出檐斗拱,雕梁画栋,古香古色,为唐贞观初年所建,明嘉靖年间整修,清乾隆二十六年重修。庙前正立着4棵40余米高的参天古柏,枝杆粗壮,根深叶茂,四季常青,传说为唐代所植,此为钓鱼台景观之一。周文王庙,由姜太公庙盘山而上即到。文王庙依山而建,庙堂重瓦危檐,布局严谨,巧夺天工。隔河山腰,还有规模更加宏伟的武王庙和武吉庙。武吉庙内原有一根武吉担柴用的铁肩担,重60公斤,“_”中丢失。据钓鱼台碑得记载,这里自唐代设神修庙,计有庙宇、祭堂17处,殿、廊、搂、台共40余间,现在多数已重建恢复。从丢石顺水而下,河水层层下跌,浪花飞溅,向下游直泻,形成一个个深潭,犹如朵朵雪莲盛开。离丢石100米处,有一水面宽广,水色碧透的深潭,名“滋泉”,泉边有一石英花岗岩巨石嵌入河心,巨石上有两道40厘米长,15厘米深的平行光滑浅槽,相传姜子牙来此隐居后,每每在此垂钓,年深日久,便在巨石上跪出了两道槽痕。钓鱼台即由此得名,侧方岩壁上雕凿有“钓鱼台”3个巨型篆字。
从丢石溯水而上,两岸高山对峙,河谷狭窄,谷坡陡峭,水流湍急,有“一步跨过伐鱼河”之称。沿峡谷再上河谷,豁然加宽。一座双曲拱大坝挡住了去路,这即是“钓鱼台水库”。钓鱼台水库,坝顶宽2米,坝长200米,坝高50米,水深45米,总库容量255万立方米,1973年开工,1978年12月建成,可灌溉2200公顷农田。水库大坝东端有一八角亭,记载了水坝开工时间,使用人力及竣工日期,具有古代亭台楼阁和现代建筑艺术的综合风格,典雅灵秀。大坝中间有一观景楼。登上观景楼,整个风景区尽收眼底。钓鱼台水库为这里增添了不少风景。夏秋季节,水面碧波荡漾,周围高山披红挂绿,湖光倒影,煞是好看,游人乘坐小船或游艇漫游水面,恍如置身于桂林漓江之上,杭州西湖之中,十分惬意。从坝侧溢洪跌下一道瀑布,约40多米高,瀑布飞流而下,如白练垂挂,似银河倾泻,訇然之声震耳欲聋,水珠飞溅数丈之远,日光照在迷蒙瑰丽的水雾上,竟幻化出一道绚丽无比的七色彩虹,云蒸霞蔚,壮观无比,充满诗情画意。冬春季节,水库冰封水面,光滑平整如明镜,雪落山间,银装素裹,一片银色世界。巨厚的冰层,成了游人的天然滑冰场。水库的天然景色和人工建筑浑然一体,构成了一幅耐人寻味的风景画。
历史上的姜太公,姓姜,名尚,字子牙,号飞熊。生在商世,因见纣王无道,遂弃官出走,隐居在此,终日以垂钓度日。“姜太公钓鱼,愿者上钩”成为后世人们的俗话。后来他终于被周文王发现。文王礼贤下士,亲到伐鱼河畔迎聘。于是,被尊为军师的姜太公遂辅佐文武二王开创了在中国历史上卓有成就的西周霸业,自己亦名留青史。
第三篇:西安各景点导游词
西安是历史名城,西安各景点导游词有哪些?以下是小编为您整理的相关资料,欢迎阅读!
西安秦始皇陵兵马俑导游词
世界第八大奇迹 1974年,秦始皇陵兵马俑坑的发现震惊世界。这一建在公元 前3世纪的地下雕塑群以恢弘磅礴的气势,威武严整的军阵,形态逼真的陶俑向人们展示出古代东方文化的灿烂辉煌,无论建造年代、建筑规模与艺术效果无不堪与“世界七大奇迹”媲美。于是,“世界第八大奇迹”之誉不胫而走,成为秦始皇陵兵马俑的代名词。
秦始皇兵马俑博物馆是我国最大的遗址博物馆,除一号坑、二号坑、三号坑保护陈列大厅外,还有兵马俑坑出土文物陈列室和秦陵铜车马陈列室。
20世纪最重要的发现
西杨村本是郦山北麓一个默默无闻的普通村庄。1974年3月,西杨村的村民在村南160米的柿树林畔打一口井。这里地处骊山冲积扇前缘,累经山洪泥石流淤积,耕地间夹杂布满鹅卵石的灌木丛和废弃荒地。3月24日动工,挖到3米多深时,发现下面是红烧土、烧结硬块和炭屑灰烬,大家以为碰上了老砖窑址。继续往下打,在5米多深处的井壁西侧,阴暗的光线下终于露出“瓦王爷”凝静的面容。村民们正诧异间,恰好公社干部房树民来检查打井进度。他下到井底仔细观察,发现出上的砖块与秦始皇陵附近发现的秦砖一模一样,急忙告诉大家暂停打井,接着便匆匆赶往县城报告县文化馆。湮没2200年的“世界第八大奇迹”就这样重新回到人间。
这是一个值得纪念的日子——1974年3月29日。
中国雕塑艺术的高峰
先秦雕塑古朴拙稚,直到接受佛教文化之后,才形成中国雕塑的艺术风格。它的特点是高度概括,线条简洁,风格浪漫,注重装饰,讲究神似而失于写实。然而,秦兵马俑的发现使中外美 术史专家们瞠目结舌。人们在这里发现了2000年前东方古典写实 主义雕塑艺术的高峰,找到了中国美术史上长期缺失的一页!它严格运用写实主义创作手法,无论形体、结构、比例、质感、量度都以准确的解剖构造为依据.从秦俑的脸部,可以看出皮肤肌肉下颧骨、眉骨、颌骨的准确位置,五官的大小、比例、位置一丝不苟,形体的每一凸凹无不符合人体解剖构造。甚 至可以从马的造型判断其品种。非但如此,这些艺术大师还注意 紧紧抓住人物性格,从人物的面部表情、内心活动、精神状态上 追求变化,塑造出栩栩如生、神态各异,形神俱备,无一雷同的 众多艺术造型。
一号坑--宿卫军主力阵容
一号坑保护陈列大厅是秦始皇兵马俑博物馆中最早的建筑,1979年10月建成开放。在三个兵马俑坑中,它发现得最早,规模也最大。俑坑呈东 西向长方形,面积14260平方米。坑内有10道宽2.5米的夯筑隔墙,形成南北面 阔9间,周围绕以回廊的格局。局部发掘已出土陶俑1000余尊,战车8辆,战车的陶马32匹,各种青铜兵器近万件。根据出 土兵马俑的排列密度,估计一号坑共埋藏兵马俑6000余件。
这是一个以步兵为主,战车、步兵相间的主力军阵,配置有前锋、主体、后卫和翼卫,步骑相间,车马兼具,规模庞大,布局严密。东端3列步兵俑面向东方,每列68尊,是军阵的前锋;后面接着战车与步兵相间的38路纵队构成军阵主体;俑坑南北两侧和西端各有1列分别面南、面北和面西的横队,那就是军阵的 翼卫和后卫了。
这里的陶俑按兵种可分步兵俑、弩兵俑、车兵俑和骑兵俑4种。步兵源排列成纵队或横队,各作不同的手持兵器姿势;弩兵 俑作张弓待发姿势并背负箭;车兵俑手持兵器跟随在战车后面;骑兵俑站立在马旁,一手牵马,一手紧握兵器。严格的军阶等级制度是构成军队战斗力的重要保证,从陶俑 的不同穿着、装束和兵器配备上可以清楚看得出来。级别最低的 士兵俑束发挽髯,只穿短褐,胸无锡甲,腿扎行股(裹腿),足登方口齐头履;级别较高的士兵束发或戴小圆帽,除短褐外还披短甲,足登短靴或方口齐头履;低级军吏源头戴单版长冠,身穿战袍外罩黑色长甲;高级军吏俑头戴双版长冠,战袍外罩彩色花边 胸甲或前后摆平齐的鱼鳞甲;与众不同的将军俑头戴双卷尾长冠,冠带在颈下挽结并下垂胸前。这种冠也叫“鹤冠”,冠上两边本来 坚插黑色的鸡尾,据说鹤是一种性情勇猛善斗的鸟,“其斗到死乃 止”。将军身穿两重战袍,袍外罩有形制奇特的铝甲,铝甲前胸呈 三角形由鱼鳞甲片组成,双肩及前后胸有用彩带扎的花结。位于步兵俑群间的将军涌被一群军吏俑簇拥,面部威严,络腮胡须,双、足分开,右手紧握左臂手腕,双手交置腹前,似作拄剑姿势。另一尊原先站在战军上的将军俑额下长须,神态庄重,左手按剑。军阶等级也从所持兵器不同看得出来,将军涌和高级军吏仅有佩剑,用作指挥与自卫;低级军吏和士兵俑则各持进攻性兵器长矛、戈等。
二号坑--揭开古代军阵之谜
位于一号坑北侧约20米处的二号坑是在1976年考古勘查中发现的,平面呈曲尺形,东西最长处96米,南北最宽处84米,深约5米,面积约6000平方米。
二号坑由四个单元组成。第一单元即东边突出部分由持弓弩的跪式和立式弩兵源组成方阵;第二单元即俑坑南半部由驷马战车组成车兵方阵;第三单元即俑坑中部车徒结合,由车、步、骑 兵俑混合编制成长方阵;第四单元即涌坑北半部由众多骑兵组成 长方阵。四个方阵有机地组合为曲尺形阵,进可以攻,退可以守,严整有序,无懈可击,阵式变换灵活,首 尾相互策应,既 是试探性进攻的触角,又是突击性进攻的前锋。它是中国考古史上的唯一发现,为认识秦代军事编制和作战方法提 供了难得的直观模型。据局部试掘所知的密度估算,二号坑埋藏兵马俑数量约2000 件,并会有大量青铜兵器。与一、三号坑相比,二号坑是秦俑坑中的精华,其组阵之复 杂,兵种之齐全,姿式之多样及保存之完整都超过一、三号坑,其 中鞍马骑兵俑、跪姿弩兵俑是二号坑独有的,各式战车之齐全也是二号坑的特色。这里的战车可分为指挥车、副车、驷乘车和一般战车四种。指挥车装饰华丽,通体擦黑漆,绘有精美的几何形图案,车顶有圆形华盖,车内位立将军俑、御手涌和戎右俑(警卫员),指挥工具是悬挂在车内的钟和鼓,击鼓时进攻,敲钟时退却。副车也有华盖和钟鼓,车上只有御手俑和戎右俑,留下将军俑的空位,作战时,副车紧跟指挥车,以备指挥车一旦发生不测及时递补与救护。驷乘车上也有华盖,但没有钟楼,车上有四名陶俑,一为御手俑,一为军吏俑,其余两名为武士俑,专家认为,这种驷乘车供作前 驱,行军时在前引导,作战时在前挑战,向敌方投递战书,然后 两军正式交锋。一般战车上有一名御手俑和两名武士俑,位于御手两侧的武士手持矛、戈等长兵器,车上还备有弓箭。
二号坑陈列大厅建成于1994年,建筑气魄宏伟,庄严凝重,具有秦代风格,拥有展室及录像厅、贵宾接待室、监控室、茶座、休息厅、文物库等配套设施,是目前国内建筑面积最大、最现代化、功能最齐全完善的遗址保护陈列大厅。
三号坑——统帅三军的军幕
三号坑与二号坑同在1976年考古勘探时发现,1987年建成保护陈列大厅。它位于一号坑西端北侧,与一号坑相距25米,东距二号坑约 120米,三个俑坑呈“品”字状排列。
在三个俑坑中,三号坑是唯一全部发掘清理完成的一座,也 是规模最小的一座。平面结 构“凹”字状,深5.2~5.4米,面积524平方米。从三号坑中发掘出1辆战车,4匹陶马,68尊武士俑和34件青铜兵器。除了与战车配套的4尊车兵俑外,其余64尊武士俑沿 夹道以非战斗队形环状排列,手持的也不是弓弩、矛、戈之类实 战兵器,而是更多体现仪仗威严的殳(音“书”)。专家们判定这 里是统帅三军的“军幕”,也就是整支行卫军的指挥系统。古代军队虽有多种编列,但最基本的是左、中、右三军。一号坑是左军,二号坑是右军,三号坑是指挥部,那么,还有一支中军在什么地方呢?那就是只挖出土扩,没来得及铺砖棚木,更没来得及放入兵马俑的四号坑。据勘查,四号坑面积4000多平方米。人们虽一般很少提及,但它并非可有可无,因为这四个坑统一组成了一个完整的军事编列体系。三缺一,留下了一个历史缺 憾。史籍记载:“骊山之作未成,而周章百万之师至其下矣。”
秦铜车马
1978年,秦始皇陵考古队在秦始皇陵冢西侧20米的地下7.8米深处发现一组车马殉葬坑.这两具铜车马就是从中发掘出来的。
铜车马原先安放在木棺内,因年代久远,木棺朽烂,填土下沉,被压碎成千余块。为便于修复,考古人员把铜车马上部积土作初步清理后,以钢板插入地下,把铜车马从坑内整体吊出装箱,运回室内清理拼接修复,经过8年努力,终于使它们重新焕发出当年瑰丽华贵的姿容。
从艺术鉴赏角度看,铜车马的造型无可挑剔。矫健肥硕的马身佩光彩闪烁的金银饰件,双眼紧盯前方,鼻孔微微部张,马齿紧嚼滴衔,鬃花迎风飞扬,削竹般的马耳斜耸,仿佛正聆听号令,只待长策一挥,便放开四蹄疾驰。一号铜车马的御官 站立车头,两腿并立,身体稍稍前倾,双手揽住辔绳,目视车前,聚精会神。二号铜车马的御官坐在车首。头戴切云冠,腰悬青锋 剑,身着长孺,圆领外翻,紧握辔绳,高举长策,丰满圆润的脸 庞上透出既志满意得又恭谨认真的神情。和秦俑一样,铜车马采用严格的写实手法,车、马、人的造 型处处讲究比例匀称,形态逼真。马的每块肌腱都符合生理解剖结构,甚至马口腔上颚的皱纹和牙齿都铸造了出来,连马大腿 两侧两个附蝉黑斑及-括约肌都没有忽略。御官的脸部、睫毛、头发以至手纹指甲达到惟妙惟肖的地步。与造型艺术严格 写实形成鲜明对照的是铜车彩绘采用的高度浪漫手法,车盖和车 厢上部的彩绘龙虎纹,团团簇簇,似云腾雾卷,如金蛇狂舞,纵 情挥洒,奔放浪漫;而一到底边,画笔一转,风格陡变,丝丝缕缕,若即若离,笔意婉转,奇丽飘逸;再配以铸出的几何形纹饰,使得雕塑造型的精美与彩绘图案的绚丽共熔一炉,相得益彰。
西安大雁塔导游词
大雁塔位于和平门外4公里的慈恩寺内,相传唐代永徽三年。赴印度取经的玄奘法师。奏请在寺内建塔,用于存放他自印度带回来的经籍。这座塔初名为经塔。后世人称它为大雁塔,此塔巍峨挺拔,引起世人的赞叹。
这座有着一千三百多年历史的大雁塔,成为古城西安独具风格的标志。大雁塔初建时只有5层,高60米,是仿照西域佛塔形式建的。后经多次修葺至今塔高64米,共7层,底边各长25米。大雁塔是中国楼阁式砖塔的优秀典型。塔身用青砖砌成,每层四面都有券砌拱门,这种楼阁式砖塔造型简洁,气势雄伟,有显著的民族特色和时代风格。至于雁塔之前冠以“大”字,则是后人为了区别于荐福寺小雁塔之故。
塔内有木梯,可以盘旋登塔,凭栏远眺,可饱览关中大好风光。大雁塔的底层南门两侧,镶嵌两块石碑,一块“大唐三藏圣教序”,是唐太宗在贞观廿二年(648),为玄奘所译诸经作的总序。另一块“大唐三藏圣教序论”是唐高宗为“圣教序”所作的纪文,此二碑是研究唐代书法、绘画、雕刻艺术的重要文物。尤其是塔的西石门楣上的线刻殿堂图,更是研究唐代建筑的珍贵资料。
小雁塔
小雁塔在西安市友谊路南侧的荐福寺内,与大雁塔东西相向,成为唐代古都长安保留至今的两处重要标志。因规模小于大雁塔,修建时间较晚,故称小雁塔。
荐福寺原建于唐长安城开化坊内,是唐太宗之女襄城公主的旧宅。睿宗文明元年(684年)皇室外戚为高宗荐福而建寺。天授元年(690年)改为荐福寺,是唐长安城中的著名寺院。唐代名僧义诤在荐福寺译经,共译56部,撰著《大唐西域求法高僧传》一书,对研究中印文化交流极有价值。
现寺内存有的小雁塔,为密檐式方形砖构建筑,初为15层,高约46 米,塔身每层叠涩出檐,南北面名辟一门。塔身从下至下逐层递减内收,愈上愈促,秀丽玲珑,别具风格。门框为青石彻成。塔身内部为空筒式结构,设木构楼层,有木梯盘旋而上。明清两代因屡经地震,塔身中裂,塔顶残毁,仅存13层。今寺内还保存一口重万余公斤的金代明昌三年(1192年)铸的臣大铁钟,钟声宏亮,是誉为关中八景之一的“雁塔晨钟”。
西安西岳华山导游词
西岳华山是我国著名的五大山岳之一,位于华阴市城南,海拨2200 米,北瞰黄河,南依秦岭,“远而望之若花状”(《水经注》),故有其名。又因其西临少华山,古称太华山。为国家级风景名胜区。这里有誉为关中八景之一的“华岳仙掌”。
华山以奇险峻秀而驰名天下,自山麓至绝顶,名胜古迹极多,庙宇道观,亭台楼阁,雕塑石刻随处可见,险径奇石,鬼斧神工,更有云海劲松,引人入胜。山顶有朝阳(东峰)、落雁(南峰)、莲花(西峰)三峰,皆岿然笔立,直插云霄。三峰之下,有云台(北峰)、玉女(中峰)诸峰环侍拱卫,各具特色,显得山势雄伟,峰峦叠翠耸削。
北峰,亦称云台峰,是总辖四峰的冲要处所,山势峥嵘,三面悬绝,只有一岭南通,故险要异常。峰顶有真武宫,依山为屋,叠起层楼,隐映于苍松翠柏之间,周围山色如画,绚丽多姿。
东峰,峰顶朝阳台,、是华山观日出的绝佳境地,故称朝阳松林,东峰有甘露池、青虚洞、下棋亭、鹞子翻身等景点。据说宋太祖赵匡胤曾在这里和陈抟下棋,结果失败,而将华山输与阵抟。
南峰,又称落雁峰,是华山的最高峰,海拨2200米。四周皆松林,杂以桧柏。迤逦数里,浓阴匝地。南峰上有明代建造的金天宫也称白帝祠。峰顶有老君洞,相传道家始祖老聃隐居于此。洞北有太上皇,泉水碧绿,东注涧下,今称“仰天池”。东面崖下有石坊,称“南天门”。坊外西出有长空栈道,通至贺老石屋。南峰上还有老子峰、炼丹炉八卦池等名胜古迹。
西峰,是华山最秀丽奇峻的山峰,因峰顶翠云宫前有莲花石,形状如莲花。故称莲花峰。据传说故事《宝莲灯》中的三圣母之子沉香壁山救母之处就在西峰。翠云宫旁有一巨石中裂,形如斧劈,名斧劈石。石旁树立一柄铸铁长把大斧。峰的西北面,笔立如削,空绝万丈,人称舍身崖。此外,还有西元洞和莲花洞等古迹。
华山登山道路蜿蜓曲折,处处是悬崖绝壁,峭峰陡立,奇险异常。1985年修筑了12公里长的华山登山道,对其它险要处也设有铁链护栏保护游人的安全,使登山者感到有惊无险。1994年沿当年人民解放军智取华山道路又修筑了一条登山台阶路。1996年华山索道建成营运。“自古华山一条路”已成为历史。山上山下,风景区内,新建了旅游饭店、餐馆、商店等旅游服务设施,可以满足旅游者吃、住、行、游、购、娱等方面的需要。
西安太白山景点导游词
太白山是我国著名的秦岭山脉的主峰,也是我国大陆东部的第一高峰,海拔3767米。秦岭山脉是我国南方与北方的天然屏障,也是长江、黄河两大水系的分水岭。太白山作为秦岭山脉的主峰,其自然地理条件就更为独特,它那高耸入云的雄伟气势,瞬息万变的气候神姿,自古以来就给人们披上了一层神秘的色彩,更为中外科学家和文人学士所向往。
太白山的主体由规模庞大的花岗岩体组成,地质学家称其为“太白花岗岩”。太白花岗岩在漫长的地质发展史上,几经构造变动、断层,节理十分发育,它们在各种外力的共同作用下,塑造了今日太白山奇峰林立、山势峥嵘的险、奇景色。太白山高山区至今还保留着完整的、千姿百态的第;四纪冰川遗迹。一个个高山湖泊,碧波荡漾,湖光山色,令人陶醉,古人及当地老人都称其为“神湖”,实则为“说蚀湖”。这些冰蚀湖自古就有“太白池光”、“高山明珠”之称,被列为太白山八景之一。在拔仙台、跑马梁一带,石河、石海望之浩然,似有翻滚奔腾之势,令人眼花缭乱。由拔仙台环眺四周,角峰、槽谷、冰斗、冰坎、冰阶等第四纪冰川所特有的地貌形态历历在目。因此,太白山可谓是研究第四纪冰川最好的天然博物馆。
太白山风景秀丽,景色迷人。“太白积雪六月天”中著名的关中八景之一。在过去寒冷的年代,太白山顶终年积雪,每当盛夏,从关中平原眺望,白雪皑皑,银光四射,蔚为奇观。
太白山历史悠久,自古以来就是一座中华名山。夏商时称“物山”,周代称“太乙山”,至魏晋始称“太白山”。历代帝王对其封王加侯,文人墨客的足迹更是遍及太白山的山山岭岭,留下了大量赞美太白山景色的绝妙诗篇。自隋、唐以来,眉县汤峪便是关中著名的疗养旅游胜地,先后建有凤泉宫、凤泉汤、唐子城等行宫。李白、杜甫、韩愈、苏轼等名人学士也曾多次登临太白山,吟诗作画,“太白泼墨山”便传说为李白历作诗之处,唐代著名医药学家孙思邈,人称“药王”,长年隐居太白山中,研究太白山中草药为民治病,太白山中至今还遗留有他采药走过的栈道的捣药的碓窝。而药王的传说故事,也在当地广为流传。
1991年,经国家林业部批准成立了太白山国家森林公园。1992年7月,公园正式对游人开放。从此太白山这位养在“养在深闺人未识”的聘婷少女才向人们揭开了她神秘的面纱,讲述她传奇的故事。太白山国家森林公园位于秦岭主峰太白山北麓的眉县境内,公园面积2949公顷,包括10个景区,180多个景点。公园海拔高度从620米到3511米,是我国海拔最高的国家森林公园。
太白山国家森林公园以森林景观为主体,苍山奇峰为骨架,清溪碧潭为脉络,文物古迹点缀其间,构成了一幅静态景观与动态景观相协调、自然景观与人文景观浑然一体、风格独特的生动画卷,这里山峦重叠翠,山清水秀,湖光山色恬静瑰丽,曲流溪涧晶莹碧透,烟雾浩渺,吐珠溅玉,奇峰怪石,如塑似画。置身其中,峡谷壁立,石径萦回,古枫垂阴,沟壑幽深。阳春,草木吐翠,万花争艳;盛夏,绿荫夹道,凉风习习;金秋,山果串串,枫叶显媚;寒冬,玉树银装,温泉吐雾。被誉为眉县八景之一的“凤泉神泽”、“鱼洞仙音”,会使人怡然自乐;传说中的“唐子城”、“二郎阁”、“牛窑”、“神女碑”会把你引入美丽的童话世界;神功石、泼墨山、世外桃源、开天关、七女峰会使你身临其境,游兴大发。这里,不仅一山一水、一沟一壑、一峰一石都很别致、优美,就连山上的一林一木、一草一花、一树一枝也都那样美妙、神奇。
巨大的高差,形成了太白山国家森林公园内气候、动植物带明显的垂直分布。在海拔620米――3511米的山地范围内,分布了地球上数千公里范围内才有的气候带、植物带和动物带,形成了包括3个植物带、7个植物亚带、15个植被群系在内的植被垂直分布带谱。从下到上依次划分为松栎类景观林、桦木景观林、冷杉景观林、落叶桦景观林和高山灌丛景观林等五个景观林带,界限清晰,色调鲜明。
太白山国家森林公园生种类繁多,起源古老,是天然的物种基因库,素有“亚洲天然植物园”、“中国天然动物园”之称。在太白山复杂多变的地体因素和特定的宇宙因素的综合作用下,开成了太白山特有种和新种,如太白红杉、眉柳、太白参、太白乌头、太白贝母、太白忍冬等。园内共有种子植物1850种。由于太白山森林植被的古老性,稀有种、孑遗种多,属国家二级保护植物有太白红杉、水青树、莲香树、山白树、杜仲、独叶草、星叶草、大果青杆、狭叶萍耳小草等9种。三级保护树种有庙台槭、金钱槭、领春木、紫斑牡丹、延龄草等11种。太白山国家森林公园丰茂的森林资源、复杂的自然环境,为野生动物提供了繁衍生息的良好场所,是珍禽异兽的天然乐园。公园内有森林动物、昆虫1690余种,其中属国家一类保护的动物有金丝猴、大熊猫、羚牛等3种,二类保护动物有云豹、金钱豹、红腹角雉、苏门羚、大鲵等7种。太白山国家森林公园保存完好的自然景观和良好的生态环境,为人们回归大自然提供发良好场所。茂密的原始森林,能有效地调节气候、吸碳制氧、消除烟尘、吸收毒气、杀灭细菌、隔音消声、净化水源、美化环境改造人类生活环境。经西安医科大学教研室同太白山国家森林公园管理处测定,太白山森林公园内空气负离子日平均浓度为15000个/cm3,最高值为25000/cm3,是进行森林浴的“天然氧吧”。园内天然矿泉水井水温达70.9℃,水中含20余种对人体有益的矿物成份和微量元素,为优质医疗矿泉水,对各种皮肤病、风湿病、心血管疾病、消化系统疾病等有很好的疗效。
漫步园内,踩着如茵的绿地,林海茫茫,浓阴匝地,灿烂的阳光透过如伞的树冠,金黄的光斑洒满蜿蜒的小径;呼啸的山风掠过头顶的树梢,遥远的呼吁声在林中回荡。脚下,古道蜿蜒、曲径通幽。鸟儿在耳边鸣唱,秋虫在溪边弹琴。而或乘坐缆车在林间穿行,远望山岭青翠,层峦叠嶂,飞瀑流泉,风光宜人。近看绿草如茵,鸟语花香,莺飞燕舞,风光诱人。此时此刻,脱凡超俗之感油然而生,思古怀幽之情悄然而至。宁静深沉的森林,清新湿润的空气,怎不令人陶醉与神往。
通过近十年的开发与建设,太白山国家森林公园在旅游基础设施建设和景区景点的开发建设方面取得了很大的发展,已经成为宝鸡旅游业的龙头,列为陕西省首批公布的全省八大旅游景区之一。目前,太白山旅游区围绕旅游业及相关产业投资已达近7亿元人民币,开成了吃、住、行、游、购、娱一条龙的配套服务体系。区内现有宾馆饭店20余家,床位5000余张,游泳、娱乐设施120多家,已成为陕西西线旅游中一处集观光、度假、休闲、娱乐以及教学、科学考察为一体的旅游胜地。
西安介绍
西安,古称长安、镐京,现为陕西省省会、副省级市、国家区域中心城市(西北),是国务院批复确定的中国西部地区重要的中心城市,国家重要的科研、教育和工业基地。西安是中国四大古都之一,联合国科教文组织1981年确定的“世界历史名城”,美媒评选的世界十大古都之一。地处关中平原中部,北濒渭河,南依秦岭,八水润长安。
长安自古帝王都,其先后有西周、秦、西汉、新莽、东汉、西晋、前赵、前秦、后秦、西魏、北周、隋、唐13个王朝在此建都。是中华文明和中华民族重要发祥地,丝绸之路的起点。丰镐都城、秦阿房宫、兵马俑,汉未央宫、长乐宫,隋大兴城,唐大明宫、兴庆宫等勾勒出“长安情结”。
西安是中国最佳旅游目的地、全国文明城市之一,有两项六处遗产被列入《世界遗产名录》,分别是:秦始皇陵及兵马俑、大雁塔、小雁塔、唐长安城大明宫遗址、汉长安城未央宫遗址、兴教寺塔。另有西安城墙、钟鼓楼、华清池、终南山、大唐芙蓉园、陕西历史博物馆、西安碑林等景点。
西安也是国家重要的科教中心,拥有西安交通大学、西北工业大学、西安电子科技大学等7所“双一流”建设高校。
西安的皇朝历史
西周、秦、西汉、新、东汉献帝、西晋愍帝、前赵、前秦、后秦、西魏、北周、隋、唐等十三个王朝曾在地区建都当无问题。关于西晋惠帝与西奔长安不应认为是迁都,以及武则天所建周朝,是以为都,且易名神都,武周王朝的政治生命是与神都共始终,因而不当以长安为都,上述情况,牛致功教授在他的一文中皆有精辟论述,这里不再引述。因而此三朝应排除在曾于建都之朝代之外。
对于刘玄、、黄巢、等所建政权是否在建都事,按前述古都定义审视,不当以因是农民政权,“不必和封建王朝相提并论”一语即行否定,而应当予以考虑。
正史中对刘玄、事迹记载最详的当推,该书曾为刘玄、设传,排为列传第一,紧接在帝后纪之后。可见对二人十分推重。按其史实,二人均于新莽末年乘势而起,聚众起义,并被拥立为帝,先后攻入长安,封王拜相。
建年号,行政令,历时均分别达到2 年。因此汉更始帝刘玄、赤眉帝刘盆子应视为在长安建过都。对于黄巢,旧唐书、新唐书俱有传。载明黄巢率起义军于广明元年(880 年)12月5 日攻占长安,13日在含元殿即位。国号大齐,建元为金统。后至金统四年(883 年)4 月10日始撤离长安。以长安为都施行政令长达3 年,故而大齐政权也当列入在地区建过都的一个政权。至于明末,虽于明崇祯十六年(1643年)冬十月攻占,十七年(1644年)正月称王于,定国号为大顺,年号永昌。但为时不长,即于当年二月东渡黄河,进入山西,三月十九日攻占京师,并在北京称帝。
由此可见,李白成只是将当作攻取京师的基地,并未将之定为都城。
综上所述,可判定地区在上曾先后有西周、秦、西汉、新、隋、唐等六个统一王朝,前赵、前秦、后秦、西魏、北周等五个分裂时期的政权,东汉献帝与西晋愍帝等二个以及汉更始帝刘玄、赤眉帝刘盆子、大齐黄巢等三个农民起义政权建都,即合计有十六个王朝与政权在建都。因此可称是“十六朝古都”。
关于历代王朝与政权在建都合计历时多少年的问题,也有多种见解,短者有1062年的,长者有1220年的,介于二者之间的尚有1077年、1158年与1099年诸种。
这显然是与各自认定的建都朝代与计算方法不同有关。现按前述确定的十六朝另行计算如下:
西周:都于丰镐,始于文王末年,止于幽王十一年。幽王十一年为公元前771 年,此为史所明载。至于文王都丰之年代,向有多种说法。2000年10月专家组公布的《1996—2000年阶段成果报告》(简本)、将定为武王克商的首选之年。这样据《史记。周本纪》,武王元年则为公元前1057年,文王死于公元前1058年,周人自岐下东徙,于沣河西岸作丰邑就为公元前1059年。此即为地区始都之年代,也是地区建城之起始年。若以此年为西周在地区建都之起始年,至公元前771 年周幽王身死国灭,西周在丰镐建都历时为289 年。
秦:都于栎阳,始于献公二年(前。383 年),止于孝公十二年(前350 年),历时34年;都于成阳,始于孝公十二年,止于子婴元年(前207 年),历时144年。合计178 年。
西汉:都于栎阳,始于高祖五年(前202 年),止于高祖七年(前200 年),历时3 年;都于长安,始于高祖七年,止于孺子婴居摄三年(8 年),历时208年。合计211 年。
新:都于常安,始于王莽始建国元年(9 年),止于地皇四年(23年),历时15年。
汉更始帝刘玄:都于长安,始于更始二年(24年),止于更始三年(25年),历时2 年。
赤眉帝刘盆子:都于长安,始于建世元年(25年),止于建世二年(26年),历时2 年。
东汉献帝:都于长安,始于初平元年(190 年),止于兴平二年(195 年),历时6 年。
西晋愍帝:都于长安,始于建兴元年(313 年),止于建兴四年(316 年),历时4 年。
前赵:都于长安,始于刘曜光初元年(318 年),止于光初十二年(329 年),历时12年。
前秦:都于长安,始于苻健皇始元年(351 年),止于苻丕太安元年(385年),历时35年。
后秦:都于常安,始于姚苌建初元年(386 年),止于姚泓永和二年(417年),历时32年。
西魏:都于长安,始于文帝大统元年(535 年),止于恭帝三年(556 年),历时22年。
北周:都于长安,始于闵帝元年(557 年),止于静帝大定元年(581 年),历时25年。
隋:都于大兴,始于文帝开皇元年(581 年),止于恭帝义宁二年(618 年),历时38年。
唐:都于长安。由于武则天建周朝,移都神都(今洛阳市)及黄巢大齐政权曾都于长安,故唐朝都于长安可分为前、中、末三个时期。前期始于高祖武德元年(618 年),止于睿宗文明元年(684 年),历时67年;中期始于中宗神龙元年(705 年),止于僖宗广明元年(880 年),历时176 年;末期始于僖宗中和三年(883 年),止于昭宗天佑元年(904 年),历时22年。前、中、末期合计265 年。
大齐帝黄巢:都于长安,始于金统元年(880 年),止于金统四年(883 年),历时4 年。
上列16个朝代与政权在地区建都,去掉7 个重叠年份,累计为1133年。简言之,是十六朝古都,建都历时长达33年。
第四篇:西安大雁塔景点导游词推荐
大雁塔景区是国家A级景区,虽处闹市,却是一个放松休闲的好去处。由前面的大慈恩寺、大雁塔以及南北广场、东西两苑组成,占地约五百亩。让咱们一起来看看吧,下面是小编帮你们整理的西安大雁塔景点导游词,希望你们喜欢。
各位游客朋友们:
你们好。今天就由我来陪同你们一起游览,我是导游小吴。
大雁塔这个景区是一处佛教圣地,是国家AAAA级景区,与唐代高僧玄奘法师有密切的关系,唐僧取经译经的故事就发生在这里。所有佛教寺院,都是僧众供佛、礼佛、诵经的道场,而大慈恩寺、大雁塔与其他寺院相比究竟有什么特别之处呢?古今中外和尚如云、高僧无数,那么唐僧玄奘何许人也?唐僧取经的故事为什么广为流传,今天你们参观过这个景区后,就会找到以上问题的答案。相信你们都知道《西游记》唐僧取经的故事吧?然而在这个景区却没有《西游记》神话中“唐僧师父”,也找不到降妖除魔的“孙悟空、猪八戒和沙和尚”。但你会感受到一个活生生的、真实的唐僧玄奘西天取经故事。要说玄奘何许人?咱们说他是一位顶天立地的中国人,是一个具有民族精神和爱国主义情怀的中国人。他又是一个得道的高僧,唐太宗尊称他是“法门之领袖”,唐高宗称他是“真如之冠冕”。
各位游客朋友们,咱们现在来到了大雁塔南广场。这个景区由主景区即大慈恩寺、大雁塔和南北广场、东西两苑组成,占地约500亩。在广场的中央矗立着一尊唐僧玄奘西天取经的高大铜像。只见他气宇轩昂,身披袈裟,手执锡杖,迈着坚定的步伐,好象正奔波在西行取经的路途上。身后就是他开创的慈恩祖庭,是他主持的译经道场大慈恩寺,以及他所修建的大雁塔。
玄奘(602-664年),俗姓陈名祎,河南偃师人,自幼聪慧超群,勤奋好学。13岁被朝廷破格录取,在洛阳净土寺剃度为僧。玄奘先后周游全国十余省,遍访十余位高僧名贤,拜学经典,穷尽各家学说,誉满京师,被誉为“释门伟器和佛门千里驹。”在全国各地游学后,他回顾佛教传入中国600年以来、佛经残缺不全,教义分歧,派别纷争的状况。玄奘在对佛经研习中,对佛经的质疑之处多达百余条。他决意到佛教发源地---天竺国,也就是现今的印度,去探求佛教的精蕴,以解众疑,弘扬佛法。公元627年他结伴上表奏请,申请赴印求法,未得到朝廷的批准。其他人纷纷退缩,而他不为所动,矢志不改,并且利用出国之前3年时间,从佛经研究、语言梵文及物质精神等方面作了充分准备。遂违禁出关,即违法偷渡出境,昼伏夜行,只身前往,开始了他西天取经的艰难历程和传奇故事。现在请你们继续参观。
现在咱们来到大慈恩寺,寺院的正门称为山门,也叫三门,分别称为空门、无作门、无相门,象征着佛教的三解脱之门。你们看,门上的牌匾是江同志亲自题写的“大慈恩寺”几个金光闪闪的大字。慈恩寺创建于隋开皇九年(公元589年),初名“无漏寺”.公元648年,唐高宗李治作太子时,为其母以追荐冥福修建寺院,故得名“慈恩寺”。寺院虽系太子李治为其母追福而建,也表达了其父唐太宗怀念文德皇后的心愿。唐太宗和文德皇后从小结发,情深意长,13岁即“嫔于太宗”,当时太宗李世民才17岁。太宗即位时,立其为皇后。文德皇后为人贤良正直,顾全大局,严于律已,她为了大唐社稷,力避裙带之嫌,她坚持不愿自己兄弟子侄担任朝廷要职。而对于魏征、房玄龄等忠勇良臣,却全力保谏爱护。皇后的申明大义,正直贤慧,成为大唐贞观盛世的良佐栋梁。在临终遗言时还强调“不可厚葬,俭薄送终”。如此贤淑开朗,确不愧为一位有胆识、有胸怀的女政治家。对文德皇后的去世,太宗十分悲恸,向近臣表白:“朕非不知天命而无益之悲,但入宫不复闻规谏之言,失一良佐,故不能忘怀耳!”所以大慈恩寺的创建,实际是唐太宗父子两代为文德皇后祈福之举,也是唐王朝对一代贤后的纪念。
唐代大慈恩寺位于长安城南晋昌坊东半部,约398亩,总共1897间,僧众300,为长安规模宏伟之佛教寺院之一。在慈恩寺建成之初,朝廷特地迎请从印度取经回到长安、正在弘福寺译经的玄奘担任寺院的上座住持,大慈恩寺遂成为当时中国佛教界的最高学府而辉煌一时。唐末以后因战事不断,寺院逐渐荒芜,经历代多次维修,至公元1446年,才奠定了今日寺院规模。
如今寺院的范围东西阔160米左右,南北长318米左右,共计93亩,该寺院主要建筑,由南向北依次排列着山门、钟鼓楼、东西配殿、法堂藏经楼,大雁塔及玄奘三藏院。东西两侧分别为方丈院、僧院、寺管院、文管院等。
咱们你们走进山门,可以看到钟、鼓二楼对峙,东侧钟楼内悬挂有一口铁铸的“雁塔晨钟”。该钟铸造于公元l548年,钟上铸有“雁塔晨钟”4个苍劲的大字,这口雁塔晨钟自造成启用至今天,一直作为大慈恩寺行仪规范,是本寺佛教活动和众僧生活的组成部分。晨钟作为佛教大型法器,是召集众僧进行法事之用。寺院僧人们每天闻钟而起,闻鼓而眠。当拂晓时分,晨钟那洪亮的阵阵钟声划破晨曦朝霞,回绕在西安城南上空,共敲3阵,每阵36响,共鸣108响,表示断除尘世人生108种烦恼,祈祷盛世太平、万民安乐、五谷丰登。
西侧鼓楼悬挂一面大鼓,寺院称为暮鼓,为横置座鼓形式,钟、鼓均为寺院大型法器。东西配殿原为东观音殿,现为客堂,西为地藏殿。
现在咱们来到大雄宝殿参观。高台上的大雄宝殿为寺院的中心建筑,大雄宝殿的匾额金光闪闪,系已故中国佛教协会会长赵朴初先生所书。大殿前香火兴旺,大殿内供奉有佛祖三身佛像,中为法身佛毗卢遮那佛,西为法身佛卢舍那佛,东为应身佛释迦牟尼佛。佛像两侧是佛的弟子,东为迦叶,西为阿难,两旁还有普贤菩萨塑像和文殊菩萨像,均为明代雕塑,分别象征真理和智慧。另外东西两厢排列着包括玄奘在内的18尊罗汉像,此种排列是将佛的16位声闻尊者与其说者庆友、译者玄奘共列为18罗汉,为我国18罗汉较早的排列形式,以后还有其它排列形式。罗汉是小乘佛教修行的最高境界,指已消除一切烦恼进入涅盘,不再生死轮回,应受天人供养者。罗汉的三义即为:杀界,就是断绝贪、嗔、痴等一切烦恼;应供。应受外人供养;不生,永远进入涅盘,不再进入生死轮回。在大殿供奉的主尊背后塑有立于大海鳌头之上的南海观音菩萨像及众菩萨、龙女、木叉等150身人物,还有善财童子53参求法学道故事,生动有趣,生动展示出南海之中普陀洛伽山观音菩萨说法道场的蓬莱仙境。
在大雄宝殿西侧墙壁上镶嵌着几通“雁塔题名记”碑,象这样的雁塔题名碑在我景区有几十通。“雁塔题名”始于唐代,指得是在长安考中的状元和进士,齐集大雁塔题名,以及武举在小雁塔题名的文化活动,明嘉靖十九年(1540年)陕西乡试题名碑文就有:“名题雁塔天地间第一流人第一等事也。”唐代的诗人白居易在公元800年考中进士后赋诗道:“慈恩塔下题名处,十七人中最少年。”一时成为佳话。人称“寒酸孟夫子”的孟郊,在46岁才中进士,他赋诗曰:“昔日龌龊不足夸,今朝放荡思无涯。春风得意马蹄疾,一日看尽长安花。”他登科后“春风得意”的著名诗句,成为脍炙人口的美谈。
在古都长安雁塔题名活动虽延续一千多年,而进士题名仅仅延续到唐末。由于自唐末以后各朝各代,长安城不再是国都京城,陕甘两省乡试举人仿效唐进士雅举在雁塔进行题名活动。在大慈恩寺院内和大雁塔上,至今尚存的明清两朝乡试举人题名碑有73通。另外在荐福寺小雁塔院内至今也保存有明清武举题名碑17通,也称“雁塔题名”。由于在大小雁塔仿效唐人题名于塔壁、颇具唐风遗韵,后来逐渐形成为文题大雁塔、武题小雁塔。这些都是研究我国科学制度的历史资料。
大殿北面为两层高的法堂藏经楼,上层藏有玄奘曾翻译的经卷,下为法堂,供奉着一尊阿弥陀佛像,系明代铜铸鎏金佛像。法堂还陈列着玄奘供奉的佛座、玄奘负笈图及窥基、圆测碑拓画像等。圆测市新罗国王孙,由年出家来到中国后,从学于玄奘门下;窥基是玄奘嫡传弟子,本是开国元勋尉迟恭的侄子,每当出门有三车厢随,故有“三车和尚”的绰号。由此可见玄奘在当时的名声与地位。
第五篇:西安钟鼓楼日语导游词
鐘楼の案内
鐘楼は西安のシンボルの一つで、東西南北の四つの大通りの交差点にあり、西安の中心です。
鐘楼が建てられたのは西暦1384年で、明の時代でした。最初は西大街の迎祥観にありましたが、当時そこは西安の中心地だったからです。西暦1582年西安城が拡大されたため、鐘楼の位置は中心でなくなり、すこし西側のほうになってしまいました。それで、もとの鐘楼を壊して、拡大された西安城の中心地、つまり、現在の所に鐘楼を造りなおしたのです。
西安の鐘楼は中国の数多くの鐘楼の中で、形が一番大きく、一番よく保存されているものです。明の時代の西安は首都でもないのに、なぜ鐘楼の規模が一番大きいなのかということついては、いつも人々に不思議に思われていますが、それにまつわる面白い話があります。
明の時代の西安では、何回か大地震がおこりました。それは西安城の下を流れている川の中に蛟竜(こうりょう)がいるから、よく地震がおこるのだという噂がありました。西安府の知事はそれを聞いたら、大変信じていたので、蛟竜を鎮めるために、鎖で蛟竜を縛り、それを川の底まで沈め、その上に大きな鐘楼を造ろうと命令しました。それで、大きな鐘楼ができたのだそうです。不思議なことに、鐘楼ができてから、西安では大きな地震がおこったことはありません。
それはでたらめな伝説だと思われるかもしれませんが、できたわけがぜんぜんないとは言えないと思います。明の初代の皇帝朱元璋は貧しい家の出身で、いろいろな苦労をなめて、やっと皇帝になったのです。ですから、皇帝になってから、真竜天子に権力を奪われはしないかと深く恐れていました。それで、「竜気」を押しつぶそうとして各地に鐘楼を次々と建てさせました。特に西安は皇帝のよく出るところですから、もっとも大きな鐘楼を造らせたそうです。
鐘楼と鼓楼は古代に中国都市の特別の建築です。鐘と鼓は中国ではもともと打楽器で、約3000年ぐらいの歴史があります。最初は礼器と楽器として使われていましたが、春秋時代から(紀元前8世紀)から、軍事指揮に使われるようになりました。中国の古代の都市はみな軍事的お城という特色を持っていました。周囲は城壁で囲まれ、外堀や跳ね橋が造られ、それらを一体に組み合わせたのは中心地にある鐘楼です。鐘楼は指揮中枢部なのです。普通は晨鐘暮鼓として時間を知らせるのですが、緊急の時には、警報をしらせ、都市の防衛を指揮していました。このような防御システムは明の時代になって最盛期になり、明の時代の西安は西北地区の軍事中心でした。
鐘楼は敷地面積は11260平方メートル、建築面積は1378平方メートル、高さは36メートルです。土台は正方形で、高さは8.6メートル、レンガ造りです。その上は木造造りで、釘は一本使われておりません。外からみれば3階に見えますが、実際は二階建ての建物です。
鐘楼の二階の西側の壁に「鐘楼記」という石碑が嵌められています。鐘楼全体が移されたことについて記されています。
元の鐘楼にかかっていた鐘は唐代の景雲年に作られた景雲鐘ですが、不思議なことに、今の鐘楼に移されたら、音が出なくなってしました。仕方がなく、もう一つ作りました。いまの鐘は重さ5トン、周りに八卦図案が刻んであり、明の成化年(1465-1487)に作られたのです。
建国後、鐘楼は三度修復され、昔の面影がそのまま残されています。鐘楼の上にのぼると、西安市の全景を一望できます。
鼓楼
鐘楼の西側約1キロあたりのところに鼓楼があります。明の洪武13年(1380年)に造り始め、鐘楼より4年早く着工したのです。清の康煕38年(1699年)、乾隆5年(1740年)二回ぐらい修復しました。鼓楼の上に大きな鼓が置いてありますので、鼓楼と名づけられたのです。いまの鼓は1996年に作られたのです。
昔は朝、鐘楼の鐘をつき、暮れるとき、鼓楼の鼓を叩いて、人々に時間を知らせていましたので、晨鐘暮鼓と呼ばれていました。この鼓楼は敷地面1999平方メートル、建築面積は1804平方メートル、高さ33メートル、南北向きに通路のような門があり、鐘楼と同じように、土台はレンガ造りで、それより上は木造作りです。鼓楼の楼閣の南側に「文武盛地」という大きな扁額があり、それは清の乾隆の親筆です。
今の鐘楼と鼓楼の間に広場ができて、いつも観光客と市民でにぎわっています。
鐘楼と鼓楼の案内はこれで終わらせていただきます。お疲れ様でした。
城壁
西安の城壁は中国に現存する古代の城壁の中では唯一の完全なもので、唐代の城壁を明代に造りなおしたものです。
明の太祖巣朱元璋が「高く城壁を造り、多く食糧を貯め、帝王を称するのを延ばす」という提言に基づき、全国に城壁を造らせました。今の西安の城壁はその時代に改修されたもので、明の洪武三年から洪武十一年(1370年――1378年)まで行われましたが、初唐の規模のおよそ9分の1に縮小されました。
明代に造られた城壁は、高さ12メートル、上の幅は12メートルから14メートル、土台の幅は15メートルから18メートル、周囲は13.9キロです。最初の城壁は層に分けて黄土を突き固められたのです。一番下の部分は土、石灰ともち米汁でつき固められ、非常に丈夫にできたのです。後にレンガで城壁の内外とてっぺんを敷き詰めたのです。
城壁には120メートルごとに敵台が一つ造られ、城壁の外に突き出ていて、高さは城壁のてっぺんといっしょです。これは城壁を攻める敵を防ぐために造られたのです。敵台の間の距離はちょうど弓矢の有効射程の範囲内なので、横から攻めた敵を殺すことができます。城壁には敵台が98あり、いずれも兵士を駐在させる敵楼が造られていました。
城壁の城門は城内に入る唯一の道なので、もっとも工夫に工夫を考えて造られたものでした。西安の城壁は東西南北に四つの城門があり、それぞれ正楼、箭楼、闸楼(こうろう物見やぐら)の三重の城門あります。闸楼は一番外側にあり、跳ね橋の上げ下ろしのコントロールを管理するところです。闸楼には窓がたくさんあり、外に向けて射撃するために造られたのです。闸楼の三面が城壁とつながり、羊馬城と呼ばれ、半月形の立体空間となっています。敵が闸楼城門に入ったとしても甕の中に入ったように、周りから攻撃されるので、甕城とよばれたのです。
二番目の城門には箭楼があり、城門を守るもう一つの防御工事です。闸楼と同じように箭楼の三面が後ろの城壁とつながり、正楼との間がもう一つの甕城となっています。箭楼の上には窓がぎっしりあり、射撃するために造られたのです。箭楼は第一城門と第三城門の間にあるので、敵が第一甕城にはいっても第二甕城に入っても、そこから攻撃することができます。
正楼は城門の第三番目の城門であり、正門でもあります。正楼と箭楼の間は甕城となり、兵士を駐屯させるところでした。甕城には城壁を上がる馬専用の坂道があり、城壁には馬専用の坂道が全部で11あります。
城壁の四つの角には物見やぐらが一つあり、城壁の外側に突き出ています。その役割は敵台と同じです。城壁を一周すると、きっと不思議に思われることがあると思います。ほかの角がみな直角形なのに、ただ西南の角だけが半径12メートルの円形となっています。それはなぜでしょうか。1983年の修復でその謎が解明されました。明の城壁は隋唐の城壁をもとにして造りなおされたものですが、西南の角だけが唐の皇城の円形のままにしておいたのです。
城壁の外側に姫垣が築かれ、それに切れ込みあり、全部で5984あります。、矢を射ったり、見張ったりするために造られたのです。内側の姫垣には切れ込みがなく、行ったり来たりする兵士が落ちないように造られたのです。
城壁の上に40――60メートルごとにレンガで造られた水槽があり、排水に用いられています。それは城壁の長期保護には大いに役立ちました。
城壁の外側には壕があり、城門には跳ね橋があります。跳ね橋をあげると、城内にはいることができなくなります。城門は東門が長楽門、西門が安定門、南門が永寧門、北門が安遠門と呼ばれています。
西安の城壁はかつて規模の大きい軍事防御システムでした。また中国に現存しているお城の中でもっとも完全な形をしているお城でもあります。明の時代の歴史、軍事および建築の研究には非常に貴重な実物資料を提供してくれました。
1983年に城壁の修復工事をしました。そのおかげで、いまの城壁はみなつながるようになりました。城壁と外堀の間は環城公園となっています。夜になりますと、城壁がライトアップされて、とてもきれいです。それは西安でしか見られない独特の夜景です。楽しみにしてください。