第一篇:中日感想
中日感想
看到小泉参拜靖国神社。我觉得没有必要再抗议了,有什么用呢?逼近人家去都去了,我们只能在背后说三倒四,我们能去阻止人家吗?人家毕竟有自由吧,他想去哪就让他去吧但是我们也不能这样傻等着有照一日日本负荆请罪,况且日本会吗?200%不会,大和民族具有凶狠、残忍的性格,具有武士道精神的军人不乏其人,为国而献身、奋勇上战场,战败剖腹,死不投降,效忠天皇的强烈军国主义思想!他们会承认自己的失败吗?不会,因为日本从来就没有认为他们被彻底打败过,只是惧怕美国的元子弹会导致日本民族的灭亡,故投降仃战,更不可能认为中国能打败它;因为日本认为侵略亚洲各国是为了这些国家的安定,为了从西方手中解放出来;二战中死去的,以及历次战争中死去军人,被认为是为国捐躯,不认为侵略中国和其它国家是非正义战争。有此种心态的日本,怎肯向中国和亚洲其它被侵略的国家道歉!有此种心态的日本怎不会修改教科书,美化侵略战争!有此种心态的日本怎不会参拜亡灵!有此种心态的日本,怎不会激起中国人民和亚洲其它国家的人民对它的仇恨!所以我们必须主动起来!但是我们能通过打仗来解决吗?不能!虽说中国有13亿人,但真真能上战场的人有多少呢?再说日本的军力,不知道是中国的几倍,谁能胸有成竹的说一定能赢,我想即使是诸葛亮也未必能赢,再说日本是美国的一条狗,中国古话云‘打狗也要看主人’,你们说,这仗什么打,如何打!在说中国是爱好和平的,中国能破坏自己那么久才肃立起来的形象吗?打仗不行,那么去世界法庭告日本吧,把日本的真面目,公布与众!但是这个办法也不行!都说日本是美国的狗,美国在当今世界中是什么地位,谁敢得罪这个国际警察?我想他的下场也不亚于阿富汗,伊拉克吧,甚至比他们的下场更惨不忍睹!所以这个办法也不可以。
既然告官不行,打仗不行,那么我们只有从自身出发!要让日本乖乖的登门照访,我们必须教育好中国的下一代。日本人的教育方式是危机教育,他们时刻警戒着战争,时刻警戒着灾难,但是中国人呢?中国的文化教育可以说是世界上做的最好的,但是道德教育呢?恐怕是倒着数的吧!这样的教育国民的素质能提高多少呢,值得置疑!假如中国的教育在不改革,恐怕中国的希望将毁誉’黄金一代。都说一个中国人是条龙,一队中国人是条虫,这话一点也不假。为什么就是因为中国人有种想做英雄想做老大的心态。每个人都梦想君临天下。即使在现在的公司里,大家想的也是有天我要做到总裁的位置,为了这个他会把事情做的很好,同时他害怕别人和他一样强,成为他成为老大的阻碍。但是那些只看到日本电器的成功而对他们崇拜的人,你们是不是应该多看些书本,仔细思考下日本这个民族,你会发现,日本人永远只是一堆零件做成的机器,他们没有领袖,更成为不了东亚的老大。中国人做东西暂时马虎些,但是中国成千上万的英雄注定中国是亚洲不变的老大!
第二篇:《中日学前教育的比较》听课感想
《中日学前教育的比较》听课感想
古人云“一日为师,终身为父”,现在的人们也都说“教师是太阳底下最光辉的职业”,可见,从古至今,人们对教师这一职业的尊重与重视。“学高为师,德高为范”,作为未来的人民教师,我们一定要给孩子们提供最好的教育,当做他们的模范。
为了增强我们的教学技能,我们分别对《比较教育学》这一课程任选一个课题分组进行了深入的分析,从搜索资料、制作课件,到上台讲课,这一切都让我们体会到了教师的责任,在备课的过程中,那种认真的态度确实很迷人,虽然我没有上台讲课,但是参与到课件的制作当中,也能感受到一份当老师的自豪,听同学们讲课,更是有很多感触。
看到这么多的课件,不由地感叹同学们确实下了不少的功夫,做了不少的努力在这次讲课上,不过,其中最吸引我的还是某某同学讲的《中日学前教育的比较》,虽然这个话题范围比较小,但是她却从中日学前教育存在的问题、教育经费来源以及男女教师比例等各个方面为我们一一介绍,内容充实,并且划分主题,课件结构安排的合理得当,层次分明,能够引起同学们的兴趣。
如果问我在这么多的讲课者中,她哪一点吸引我,我会毫不犹豫地回答:她的自信。先说她从上台就比较镇静,动作不缓不慢,落落大方,充分展示了她良好的心理素质,不过,在课前准备课件时出了一点儿小问题,但她并没有表现出任何慌乱,而是从容不迫地解决了问题,使之成为课堂氛围上的一个小插曲,这一点也充分展示了她淡定的气质。俗话说“你自信的时候美极了”,她真的做到了这一点,很有教师的风采。
其次,她的讲课内容很丰富,她能够从《中日学前教育的比较》这一相对来说比较小的方面挖掘出较多的内容来进行阐述,比如:中日学前教育存在的问题、教育经费来源以及教师性别比例等各个方面进行比较,她对讲课内容理解得非常到位。同时,她的内容结构设置得很合理,层次分明,层层递进,让同学们听后思路清晰,简单易懂。
当然了,她的教学课件制作优美,从分发挥了多媒体技术在课堂教学中的重要作用。她的PPT课件无论从课题材料还是从视听效果上都非常富有意境,引人入胜,其课件的版式设计,主题分明,结构合理,内容丰富,让人看后一目了然。其中,最吸引我的还是她搜集的日本学前教育卡通校车的图片,让人记忆犹新。她的课件中插入一些关于讲课内容的图片,图文并茂,既形象又生动,吸引着同学们的注意力,也充分激发了同学们的学习兴趣。
俗话说“台上一分钟,台下十年功”,我相信某某同学在讲台上流畅的语言表达,面对同学们的镇定自若,以及碰到问题时的波澜不惊,并不是一朝一夕就能做到的,她肯定也是在台下练习一次又一次,准备了很多遍才能达到这种效果。尤其是,她能够不仅仅是照着课件读,更能加上自己对授课内容的见解,同时注意与同学们的交流互动,这一点非常值得我们学习。
通过对某某同学的讲课及课件制作的一系列分析,我深刻地体会到了当老师的不易,从资料搜集、版式设计、课件制作,到备课,到最后上台讲课,这一切的努力不为人知,只有自己才知道在准备过程中的认真与备课时的努力。“师者,所以传道授业解惑也”,如果教师自己都没能把所授内容吃透、理解明白,那何以传授给学生们呢?由此,教师身上所背负的责任让我们敬畏。
对比她的表现,我也看到了自己的不足,就是缺乏自信,以前从未在讲台上公开发言或演讲,一站在讲台上,面对台下这么多人的目光就容易紧张,我想:要克服这个不足,以后就要经常上台演讲,锻炼自己的胆量,使自己拥有足够的自信去展示自己的风采。同时,在以后的学习过程中,要吸取其他同学的好的做法,及时查找自身存在的问题。
“想要给学生一滴水,我们必须有一桶水”,作为未来的教师,我们必须抓好专业知识的学习,同时仍然要坚持不懈地提高我们的教学水平,增强教学技能,多和同学们沟通交流,取长补短,共同提高。不仅如此,还要及时结合自己在课堂上的表现做好每次实践活动的课后反思工作,深刻反省本节课的教学语言、教学设计、教学方法,乃至课件制作、板书设计等,从同学们的表情及眼神中获得有用的信息,并及时调整教学策略,只有这样我们才能在日常的实践中,提高我们的教学水平,增强我们的教学技能,慢慢走向成熟,成为一名自信的教师。
我相信只要我能坚持下去,一定也能像她一样在课堂上游刃有余,实现高效的课堂教学,成为令人尊敬的教师!
第三篇:中日交流感想-我的日本同学们
中日交流小结
--我和日本同学们
高一2班 郑文韬
上周,学校进行了中日交流活动。我与日本同学近距离接触,结下了深厚的友谊。
“万事开头难”。与日本友人交谈的开始是困难的。虽然事先我曾多次设想见面的场景,也准备了一些进行交流的办法,但是真正见面后,尴尬、紧张不可避免地出现了。我如坐针毡、四处张望,偷偷地观察坐在我身旁的那位日本同学。组员们的目光不时交汇,暗示对方开启交流的大门。我战战兢兢地拍了一下那位日本同学的肩膀。他自然、友好地说了一声“哈伊”(日语“是”)。我如释重负,但话语还是结结巴巴、极不自然的。我竭力寻找交流的话题,联想到日本足球在亚洲的霸主地位,我与他开始了这方面的交谈,殊不知这是打开双方心扉的一把钥匙。
在车上,我一直琢磨着他的名字——Sodatsu Izumiya(泉谷深逵)。日本人的名字是复杂的,从另一个角度来看则是很有趣的。它不像中国人的名字的这样富有深意,也不像欧美人的那样直接。不过,泉谷这个姓氏倒是挺有意境美的。
来到了学校,我们在校门口列队欢迎他们。我目不转睛地盯着人群,生怕与他擦肩而过。我们俩几乎同时看到了对方,他冲着我挥手,微笑着向我走来。由于有了刚才的铺垫,这次交流顺畅多了。我们继续着中午未尽的话题。从各自喜欢的球星谈到喜欢的球队,再展望未来世界足坛的走势,仿佛自己就是世界级名帅。交谈中,我们不时大笑,也偶尔展开争论。一旁的日本同学见我们交谈甚欢,也凑过来加入了交流的行列。我在这时体会到了似水流年的滋味。在一片不舍中,第一天的活动落下了帷幕。
当天夜里,我反复回味着这天与他在一起的场景,憧憬着明天的到来。
有了第一天的经验,对于第二天游览上海的活动我更为期待、更有自信。我们早早地踏上旅途。在公交车上,他一直欣赏着窗外的景色,我也一路给他介绍。或许是他沉浸在上海这座城市中,又或是他对我这个导游感到满意。他的脸上一直挂着笑容。在人民广场,在南京路,在豫园,他深入了解了上海的传统文化,并购买了不少传统美食。见到游客的愉悦、畅快,我这个东道主有点不好意思了,我思索自己为何不曾发现朝夕相处的城市之中那么多美好的事物。生活不是简单机械地度过每一天,而是要经常带着一双发现的眼睛,一个思考的头脑和一颗享受的心。
在豫园的共同进餐是两天活动的最高潮。几组同学在饭店相会。他面对着目不暇接的美食,征询着我的意见。不一会儿,他的盘中放满了小笼、生煎、炒面等食物。饭间的气氛空前热烈,大家以饮料代酒,频频举杯。我一边向他引见我的同学,一边拉着他一起举杯。我假装喝醉酒的样子,拿起他的杯子,倒满了饮料,用迷迷糊糊的眼神的盯着他,让他一饮而尽。我们又一起怂恿旁边的一位同学为我们高歌一曲。大家笑声不断,欢快不已。
下午,我们前去了运动城。他及日本朋友对于运动的热情之高令我们惊异。这也是活动中的另一个高潮。这是我们在事先不曾想到的。
“天下没有不散的筵席。”告别的一刻终要到来。事前我已想好了千言万语,此刻却有口难开。我与他及日本朋友们不断地握手,不断地告别,握了又握,说了又说。虽然表面我依然强作笑容,和他们说着“ Goodbye!See you again.”,但我知道,这一去即为永别。我终于能够理解古人送别时长亭题诗、饮酒壮行、泪流满面的缘由了。我想哭,却发觉所有的泪水早已融为对他们的思念、牵挂,随风飘逝了。
在某一天晚上,我伫立在阳台上,凝视着满天的繁星,期待寻找到属于他的那一颗。
在某一班拥挤的公交车厢里,我注视着窗外,再次想起了与他共同度过的日子。
在某一天午夜,我突然从梦中惊醒,偷偷地啜泣,无数思念涌上心头,再度想念起他。
各种交流归根结底是人与人之间的交流。只要自己和他人充分为在一起的日子而高兴,交流的各种目的自然而然也就达到了。人类文明便是在这种交流之中不断进步。
“一叶浮萍归大海,人生何处不相逢?”纵有万水千山的阻隔,我和日本同学们的心无时无刻都在相遇。富士山传来的清新的风是他们对我的思绪,长江口的波涛澎湃是我对他们的依恋!我们在各自心中永生!
第四篇:中日对照
おはようございます 早上好o ha yo u go za i ma su こんにちは 你好(白天问候语)kon ni chi ha こんばんは 晚上好kon ban ha お休(やす)みなさい 晚安 o ya su mi na sa i ありがとう 谢谢 a ri ga to u すみません 对不起 su mi ma se n こちらこそ哪里,是您….表谦虚 不,应该是我….才对 ko chi ra ko so いらっしゃいませ i ra ssya i ma se 去日本料理店时,开门的小姐通常都是这一句 いらっしゃい i ra ssya i 欢迎光临,没有前一句郑重
おめでとう ございます o me de tou go za i ma su 祝贺你!(过生日等)さようなら sa yo u na ra 就是送别时说的再见啦 では また de ha ma ta 再见,相比之下,正式一些
じゃね/じゃ,また jya ne/jya,ma ta 再见/那么,回头见(最常用的,和bye不相上下)失礼(しつれい)します si(xi)tu rei si ma su 打扰/告辞了,来拜访人和离开人家时都可以用 お邪魔(じゃま)しました o jya ma si ma si ta 告辞了,离开时的客气话
多用于到人家去拜访,离开时说的话 お邪魔(じゃま)します o jya ma si ma su 也可用在刚来到人家时说
意思是打搅了,这是刚来拜访时和走时 都使用频率极高的一句话!ご苦労様(くろうさま)go ko ro u sa ma 您辛苦了(对同辈或晚辈说)
どういたしまして do u i ta si ma si te 别客气,表谦虚 お元気(げんき)ですが o gen ki de su ga 元気です gen ki de su 你好吗?我很好啊
お疲(つか)れ様 o tsu ka re sa ma 您辛苦了(对长辈或上司)おかげさまで o ka ge sa ma de 托福,很好
日本人认为自己全靠其它人帮助才能活下来,因此这句话也是他们很常用的 お大事(だいじ)に o da i ji ni 请多保重(探病)
しばらくでした si(xi)ba ra ku de si ta 久しぶりですね hi sa si(xi)bu ri de su ne しばらくですね si ba ra ku de su ne 都是好久不见的意思,可以互换 いただきます i ta da ki ma su 我开吃了
御馳走様(ごちそうさま)go chi so u sa ma 我吃完了
いいお天気(てんき)ですね i i o ten ki de su ne 天气真好啊
(和小姑娘一起,尴尬时的话语吧)
暑(あつ)いですね a tu i de su ne 太热了
寒(さむ)いですね sa mu i de su ne 太冷了
(和中国人一样,日本人也有这种话,可以用来转移话题-_-b…)
よく降りますね yo ku hu ri ma su ne 老是下雨啊
どうぞ do u zo 请 和中文的请一样,加在句子前或单独使用,都是敬语 お願(ねが)いします o ne ga i si ma su 有求于人的话,这句话是一定要说的 もしもし mo xi mo xi 打电话用的开头语,相当于中文的“喂?” おかまいなく o ka ma i na ku 您别张罗了
申(もう)し訳(わけ)ありません mo u si wa ke a ri ma sen 更为郑重的道歉
在正式场合下,多用这个,一般说话人都负有相关的责任,比如说,银英中帝国败在杨手下的人回来见菜茵哈特都要先来上这一句.御免(ごめん)なさい 对不起 go men na sa i 日本人和中国人说话一样也讲省略的,在Q版街霸中,春丽就常说:“ごめんな” お世話(せわ)になりました o se wa ni na ri ma si ta 承蒙关照
御免(ごめん)ください go me n ku da sa i 有人吗?我能进来吗?
どうも 万能词 do u mo 谢谢,对不起,您好,告辞...... 就我个人理解,找不着说什么时就说这个吧,反正意思多的是,能就付各种场合,总之在非正式场合下可以用来搪塞各种话题。行(い)ってきます 我走了 i tte ki ma su 行って参(まい)ります 更为客气的说法 i tte ma i ri ma su いってらっしゃい 您慢走 i tte ra ssya i 关于这几句,找相聚一刻来看吧,一刻馆中的人每天出门时都要响子打招呼的。ただいま ta da i ma 我回来了
お帰(かえ)り お帰りなさい o ka e ri o ka e ri na sa i 您回来了
同上,不过是大家回来时说的!ちょっとお待(ま)ちください cyo tto o ma chi ku da sa i ちょっと待ってください cyo tto ma tte ku da sa i 等一下
お待たせしました o ma ta se si ma si ta 让您久等了
上菜的时候,这句话是服务员必说的。恐(おそ)れ入(い)ります o so re i ri ma su 实在不好意思,不敢当
一般是听人夸自己听得高兴时,才摸摸后脑,笑着说的,要不就是收了人家的礼物(日本人送礼成风,倒不一定有求于人才送礼的)时说的客套话 ご遠慮(えんりょ)なく 请别客气 go en ryo na ku 遠慮なく 那我就不客气了 en ryo na ku どうぞお先(さき)に 您先请 do u zo o sa ki ni お先に 我先了 o sa ki ni もうけっこうです mo u ke kko u de su 不用了(婉拒)
どちらへ 去哪啊? do chi ra he(e)并非真想知道要去哪儿,只是问候一下 所以回答也只是
ちょっとそこまて就是去那儿啊 cyo tto so ko ma de もうけっこうです mo u ke kko u de su 不用了(一般)
どうも、いいですよ do u mo,i i de su yo 不用了(婉拒)
第五篇:中日茶文化比较
要旨
中国のお茶の歴史は三国時代から遡る。長い間中国の茶が世界に影響を与え続けている名作は唐時代の陸羽が書いた「茶経」である。その時からお茶を飲む活動は次第に王候貴族から一般の庶民へと広がった。宋時代と明時代を通して茶道は大きく変化し茶の葉の改良、茶器の発展、また茶道思想の完善を経て、今のようになった。
日本のお茶は平安時代に僧侶の最澄によりお茶の苗を持ち帰た。その後、村田珠光、千利休、豊臣秀吉などの名人が茶道に新しい製作法や禅の思想を導入し日本独特な文化芸術となった。
中日の茶道は自国の文化や歴史の影響により違う所がたくさんある。例えば茶の葉の種類、茶道の規則と過程また国民の性格と美意識などの方面で食い違う。キーワード:茶道 中日文化 比較 茶道の活動 禅 摘要
中国的茶史可以上溯到三国时代。中国的茶在很长时间里对世界产生持久影响的是唐代陆羽写的《茶经》。那时开始饮茶活动就逐渐从王公贵族普及到平民百姓。经过宋、明两代茶道发生了很大变化。茶道从茶叶的改良、茶具的发展到茶道思想的完善逐渐成为今天的样子。
日本的茶最初是在平安时代由和尚最澄从中国带回日本的。之后,村田珠光、千利休、丰臣秀吉等人将茶道引入了新的制作方法以及禅宗思想使之成为日本特有的文化艺术。
中日茶道因本国历史文化的不同在茶叶的种类、茶道规则以及国民性格、美意识等面有很大差异。
关键词 茶道 中日文化 比较 茶道活动 禅 序論
茶道というと、みんな日本の茶道を頭の中に浮かぶだろう。中国ではいつも茶文化と言う。なぜ日本の場合は茶道と読むのか、それは道というのは日本の伝統的な文化の一つであり日本独特な読み方だからである。みんなご存知のように日本のお茶は中国から伝われ、そして絶えず発展し今のようになった。この点から見ればと中国は日本の先生と言ってもいい。でも日本の茶道は中国のと同じものではなく中国と違う道を歩んでいた。なぜその違いが出てくるかそしてその違いがどこにあるか、私はそれについて詳しく解明したい。1.中国の茶文化 1.1 茶道の定義
みんなご存知のように茶道は中国に源を発した。茶道の定義も時代の変化によって変わった。最初茶道の定義を決めたのは唐の時代にお茶を飲むことによって道を得ると言う意味だ。茶道の歴史は今まで発展しつつあり、茶道に対する定義もいろいろあった。ある学者は茶道を文化芸能としてお茶を飲む活動と文化を完璧に結び、つまりお茶の中には道があり、お茶を飲むことによって道を得ると定義した。ある専門家は茶道を一種の室内の芸能と呼ばれる。これらの定義を纏めると茶道とはお茶を飲む活動の形で精神的な感じと思想上の需要を満足すると言う意味である。ここでの茶道の活動は茶を植えることや茶の葉に対する研究ではなく、茶器、お湯やまたお茶を飲む場所に対する選択や飾りかたを含む活動である。1.2 茶道の起源と発展 1.2.1 様々なお茶を飲む活動
中国はずっと昔からお茶を飲む習慣があった。「三国志」によると呉国の皇帝が宴会で酒を飲めない大臣にお茶を賜った。その時からお茶を飲む習慣が始まった。最初は生理上の需要を満足するだけで、茶を飲む環境や茶器、茶の葉の質に対する特別な要求がない。その後感覚器官によって茶を味わう活動が出てきた。つまり特定の環境の中でお茶をゆっくり飲み味覚、視覚などを利用してお茶を味わう。これによって美を求め、人生の秘密を探求するという精神的な享受に達する。
もう一つの活動はお茶を入れる芸術(茶芸)だ。つまりお茶を味わうことと違い、人の主体性によって茶器やお湯にぴったり合うものを選び、茶の色、味、形などの品質を充分に発揮する活動である。そして茶道の思想もの中に入れてきた。1.2.2 茶道の起源と発展
茶道は中国の伝統文化の一つとしてその起源と発展はお茶を飲む文化の発展につれて生み出されたものだ。そして茶道の産生や形成また復興などは人間が自然や社会に対する認識、改造及び人類の活動と深い関係がある。
世界で第一回「茶道」という言葉が現れたのは唐の時代である。その時茶道は王候貴族の間に大いに行なわれてみんな茶がら付き飲む。それによって茶道が一定の格式を形成した。唐時代には政治、経済、文化がすごく発展し社会も安定していた。その条件の下で様々な茶道の流派が形成された。その中で一つは修行の形での茶道だ。この種類の茶道は一日中三回だけお茶を飲むと道を得ることができる。これは一般の人々にとっては難しいことだ。修行の茶道は古時代の詩人の陶淵明は都会から出て田舎に入って隠居の生活を送り、自分の希望や気持ちを花や森あるいは水の中に寄せるというような修行と同じ、僧侶が素朴な生活を送り現実中の悩みや不幸なこと、または不平等なことを回避するために茶道によって修行することである。一回だけお茶を飲むのは道を得られない。三回ずつ飲むと人間の肉体と心が徹底的に浄化され、神仙と人間を一体にする境界に達する。もう一つは茶芸の形で行う茶道である。この種類の茶道については陸羽さんの書いた「茶経」がその代表作である。「茶経」は世界で初めてお茶のことを系統的に述べる本であり、中国の茶の歴史の中でも一番深い影響がある本である。茶芸とは茶器や水などがお湯に対する影響もしくは茶の木の種類、栽培、加工、茶の葉の化学的な変化を研究することによってどのように質のいい茶を生産するかを考える過程である。そのうちにいろいろな道という精神的なものを得るのはこの種類の茶道の鍵だ。例えば、美味しいお湯を作るためにいろいろな調味料を適量に入れ、適当な火で煮る必要があるという例から国を治める時適材適当し、各階層の人間関係をうまく処理する必要があることが分かった。もう一つの例を挙げよう。「茶経」によるとお湯に適する水は一番いいのは山の水であり、次は海の水であり、最後は井の中の水である。この三つの水を見分けるために工夫をすることから物事に対する研究は表面に止まるのではなく、細かい所まで区別し物事をうまく把握する能力を育成する必要があることが分かった。つまり芸能という茶道は人類が世界のあらゆる物に対する認識のレベルや、身につける程度を反映する。三番目は風雅の種類の茶道だ。これは前の二つと違い、のどの乾きを癒すために飲むのではなく、お湯や茶器などを選び、いいお茶を飲むのではなく、お茶を入れる過程を実演する形で現れる。そのうちに芸術の趣が含まれ、鑑賞性や美術感に富む。この茶道の代表作は唐時代に出来上がった「氏を閉じてかぐことを閉じる」という本である。その本によると風雅の茶道とはお茶を飲む活動を通じて人々に精神文化の需要に実演の形での茶道を提供するということだ。つまり、物質的な享受と文化芸術の享受を結び、茶を飲む活動に鑑賞性や文化芸術性に富まらせることだ。これらの三つの種類の茶道の出現及び茶芸に趣味を持つグループの形成がこれからの茶道の発展に重要な影響を与えた。
宋時代になると風雅の茶道と茶芸の茶道が主流になり、以下の二つの特徴を持っている。第一、風雅の茶道は王候貴族から一般の庶民に普及した。その時国が繁栄し国内も安定している。貧しい人もお茶のことに注目を集めた。茶器も複雑から簡単に変わり庶民に受けられやすくなった。第二、茶芸の形での茶道及び茶道の思想が普及した。具体的に言うと、お茶の精細さ質の良さを比較することによって、人間が世の中の物事に対する認識や理解及び把握の能力を反映した。このような茶道の思想は一般の庶民の中に普及するのではなく王候貴族の間にもよく伝わた。人間は物質の生活が満足している上精神文化を追求するようになった。これも平和の社会に積極的な役割を果たした。
明時代の初め頃朱権を代表とする茶道が人気がある。唐時代の団茶は葉の形の茶に変わった。茶道の思想も変化した。お茶を飲んでいるうちにお客さんが自分の意見を述べ複雑な社会から離れ心を清潔する。朱権の『茶の明細』という本は茶道の過程を詳しく紹介した。明時代の末期になると茶道思想は哲理の意味が弱くなり今のようにお茶を味わう要求と大体同じになった。
清の時代には茶の葉に対する需要が拡大し有名な茶もそれにつれていろいろ出てきた。陶器の現れは茶器に大きな変化をもたらした。その時お茶の産地を重視し茶芸の活動も簡単になり茶を味わうようになった。改革開放後中国の生産力がずいぶん発展し物質の生活にゆとりがある。精神文化に対する需要が絶えず増えることは茶道活動の発展に条件を提供した。お茶を飲む活動はお茶を飲むことからお茶を味わうことまで茶芸から茶道までこのように少しずつ浸入し、より多くの科学的な内容や精神文化の内容を含むようになった。二十世紀八十年代後、茶芸の実演という形での茶道が盛んになった。そして実演の形も沢山ある。例えば宗教の形、風俗の形、古時代の茶道を倣う形などいろいろある。このような茶道は茶の自然科学と人文精神、文化芸術を結び、時代に応じて新しい内容と形式を含む。
2.日本の茶道
2.1 茶道の文化定義
日本の茶道は中国から渡来したものであり、千年あまりの歴史を持つ。そして日本の社会文化と人文文化の発展につれて完善され、大和民族の独特の環境の下で宗教、哲学、論理、美学、自然が一体になった。茶道が唱えられた「素朴、純粋、典雅」という精神は日本の茶文化を「道」の境界まで高めた。茶道は日本の伝統文化の代表として国民の生活の中でも不可欠なものになった。茶道の目的は渇きを癒すのではなく同じ茶の本質の優劣を鑑別するのではなく複雑なプログラムと儀式を通して情操を育成し静寂の境界に達するのである。2.2 日本のお茶の発展
中国の茶文化の歴史と比べると日本の茶道の歴史はそんなに長くなかった。歴史の資料によると、お茶が日本に初めて入ってきたのは平安時代であった。その時中国で留学していた僧侶の最澄によりお茶の苗を持ち帰ったそうである。奈良時代に上層の階級の間に喫茶の風習が始まった。その後、茶の木が近畿諸国をはじめ、各地に広く栽培された。鎌倉時代に栄西禅師をはじめ、沢山の禅僧が茶の製作方法と喫茶法を日本に伝えることによって茶道はどんどん進歩していた。喫茶の目的は鎌倉時代までは思想生活の伴侶として用いられたが(時には薬用)南北時代になると喫茶を遊戯的に用いた。つまり、闘茶として品種を飲み分ける競技の形で行なわれた。このような僧侶茶、武士茶は中国の茶文化に深い影響を受けた。これは日本茶道が生まれる前の歴史だ。本当の意味を持つ茶道は十五世紀の末ごろ村田珠光氏により創立された。村田珠光氏はお茶を飲む行為に思想を入れる初めての人であり、日本茶道の祖先と言ってもよい。その後武野紹鴎によりさらに推し広めていった。日本の茶道の精神も「茶と禅が一体になる」ような境地になった。千利休はもっと具体的かつ系統的な規則を定め茶道を庶民化にさせた。また茶会の種類、茶器の種類や茶室、庭の飾り方なども決めた。日本の茶道は今でも絶えず発展しているが茶道の基本的なものを決めたのはやはり千利休だ。でも茶道の大成については織田信長、豊臣秀吉の成果を無視してはならない。彼らは茶道を政治的に利用したが茶道に精神的な慰安を求めた。千利休は「謹敬清寂」を「和敬清寂」に変化させた。江戸時代に千利休の子孫と弟子が茶道を継続し「家元制度」注①を作り別の流派が現れた。千家流派は表千家、裏千家と武者小路千家三つの大きな流派になった。この時期は日本茶道の輝かしい時期であり、日本民族の特徴を持っている。また抹茶道、煎茶道も形成された。明治維新以来茶道に深刻な変化が現れ文化的な意味が強くなった。そして時代に応じて自国の特徴を持っていて今のようになった。
2.3 中国の茶文化が日本の茶道の発展に対する影響
日本の茶道の形成と発展が中国の茶文化と深い関係がある。まずお茶を飲む風俗は最初に日本に入ってきたのは平安時代のことだった。日本の天台宗の創始者である最澄は中国の仏教の経典と茶の木を持って帰った。そして栄西は鎌倉時代にもう一度中国の茶を持ち帰り、「喫茶養生記」という書物を作った。その本は日本の茶道の歴史的な転機と言ってもよい。また栄西は茶に対する栽培、茶の葉の摘む方法、飲む方法を詳しく紹介した。それと同時に中国から寺のお茶の飲み方を導入しお茶を飲む礼儀を定めた。例えば団茶、抹茶、闘茶などは全部中国から伝わられたものだ。ほかには毎年の春と秋、奈良で行なわれた茶会特に唐式の茶会は日本の茶道の源である。それは中国の唐と宋時代の茶会によく似、茶を飲む庭の飾り方や点茶の儀式及び闘茶遊戯などが含まれる。これだけではなく栄西は平安時代の終わり頃中国の宋に学び日本に禅宗を開いた。禅文化は日本の伝統文化の中で重要な内容であり、禅宗の導入と伝播につれて形成された。日本の茶道から中国の仏教思想の跡もよく見られる。日本の茶道の和敬清寂という精神は仏教の教義の中にはっきり書かれてある。「茶禅一味」注②という茶礼もそれと同時に導入され、室町時代になると五山僧の間に次第に定着して行った。3.中日茶道の比較
日本の茶道は中国から伝えられたが先生と言える中国とは違う道を歩んでいた。そこには中日の茶道に違うところがあると思う。特に日本茶道は中国の茶文化に深く影響され、自民族の特徴と精神を結び日本独自なものになった。3.1 茶の葉の種類 茶の葉の種類に対する標準が違い統一することができない。今の茶の学界には茶類に総合的な方法を取った。その方法によって中国の茶は二つに大きく分かれた。一つは基本的な茶であり、もう一つは再加工の茶である。基本的な茶には緑茶、紅茶、青茶、白茶、黄茶、黒茶、六つある。その中で緑茶は中国で一番歴史の長い、生産量も高い茶である。このような分類の方法は茶の作り方によるものだ。再加工の茶は前の六つの茶を原料として再加工後の茶である。その中には花茶、圧縮茶などがある。
日本の茶道に用いられた茶は主に緑茶である。そして茶の産地、栽培の方法、茶を摘む時期、茶を作る方法によって煎茶、ひき茶、玉露茶などの名前が付けられた。例えば、精製された茶の葉をスプンでひいて粉末としそれを茶碗の中に入れ、熱湯を注ぎかき回して飲む。煎茶は中国の明時代で流行したものであり、葉を乾燥し蒸したり揉んだり熱湯を注ぎその汁を飲む。玉露茶は煎茶の一種で今でも高級の茶として知られている。3.2 茶道の規則と過程
茶道の中での規範は人生の道徳心を涵養するために重要な内容であり、茶道の活動の各方面に含まれている。規範は人に良好な行為を養成させる。お茶を入れるなど細かいことや日常生活の中で規範を守り良好な気質、身振りを育成することができる。茶道を修行する人はその過程の中で礼儀、姿勢、順序、位置、服装などいろいろな規範を守らなければならない。茶道の活動にあるマナーは茶道の種類によって違う。例えば、お辞儀の仕方、跪く仕方、また、握手、目付き、など厳しい規則がある。それらの礼儀はお礼を表し、お客さんに尊敬の意を表し、茶道の中身を協調する規範である。
日本の茶道の規則は禅宗寺でお菓子を食べる規則から来たのだ。僧侶たちは朝ごはんと晩御飯だけ食べ、お腹が空くのでお茶を飲み始めた。それとともに懐石注③を食べる。現代の日本の茶道は面積の小さい優雅の茶室で行われる。茶室の中には珍しい骨董や掛け軸が壁に掛けてある。真中にはお湯を沸かし、器具が置いてある。茶室は飾り方によって違う。歴史の中で有名な茶室は小堀遠州による弧蓬庵、古田織部による燕庵、千利休による草庵茶室、秀吉による黄金の茶室だ。
茶会の前に主な客と陪客を確かめる。茶会をよくするために主人は忙しく、いい茶菓子を選び、茶室を綺麗にする。茶道に用いられたお菓子と言うとお茶の引き立て役といわれる物であり、一服のお茶をいかに美味しい味わっていただくかという重要かつ欠かせないものだ。茶会中いろいろな厳しい約束がある。主人もお客も「一期一会」の思いで茶会に参加する。主人はあらゆる手を尽くしお客を持て成しお客の方もこれから会えなくなると思っていて茶会に参加する。両方ともお互いに協力し合うことと感じる。3.3 国民の性格
文化は国民の性格を反映すると言ったように中国の茶文化は中華民族の伝統に影響され中華民族の性格を反映した。中国は礼儀を重視する国と言われたとおり茶文化は友達同士の友情や家族同士の愛情を体現する。茶を飲む形によって友達になるということは一般の庶民の中に普及されているのではなく集団や国の礼儀にも用いられる。新年の際、会社や工場などで茶話会を行い、上司は会社員に感謝の気持ちを表す。だから中国の茶道は日本より実用性を重視する。そして日本より庶民化を持ち礼儀と形に拘らず、実用性を大切にする。日本ではそれと反対に、厳しい形式を守り道徳を養成するために茶道の活動を行う。それは日本民族の発展と深い関係がある。日本は小さい島国であり、人口の増加と個人の生存に矛盾が出てきた。個人は生きていくために周りの環境がどれほど悪くても我慢する。苦しい状況の中で人間関係や、仕事をうまくいくためにいつも自分のことを我慢する。それは茶室の入り口が狭くて体を曲げて入らなければならないことからよく分かる。また悪い自然環境の中に形成した日本民族は集団意識も強いし、お互いに協力の意識も強い。茶道は集団による活動が多い。みんな連携して平和の雰囲気を造る。最後、日本では厳しい身分制度を実行し規範と礼儀を重視する。茶会中厳格なコースを守り形式的な話を言わなければならない。その点から見れば、日本の茶道は本当にお茶を飲むのではなく、人間に礼儀の教育を行う道徳修養の儀式である。このような形式を重視し実用性をあまり重視しない文化は人間の間に自然的な付き合いに悪い影響を与えるのかもしれない。3.4 茶道の中の美意識
中国の茶道の中にある美意識は茶道の活動中のメロデイ、対称、対比、異同、自然、対応比例などを通して表す。例えばメロデイは自然界の中に存在する永遠の変化と命のリズムを表し生き生きな表現の形式である。また、茶器の排列、動作や言語の音で表す。対称の美は中国の古典美学にある規則であり、バランスと安定性を持つ美学だ。茶道の活動の中で静態の物事の対称もあれば動態の物事の対称もある。人の位置や茶器の並び方などは中心線を基準として並ぶ。また、お茶を入れる動作や体の姿を対称的に行うことを通して観賞側に目や心を楽しませる効果が出る。自然の美は人類が自然に対する追求から表す。自然の中で生活しているのは人間の生まれながらの希望である。お茶を入れる時、緑の茶の葉は水の中で自然に広がるのは一種の自然の美である。茶道の比例の美というのは物事の大きさに適当な比例があることだ。
日本の茶道の美意識の主旨は「素朴」ということである。それも禅の本質である。村田珠光は素朴な美を重視しお茶を飲む時日本産の器具を使うことを主張した。千利休は既成の美意識に拘らず小さい茶室を造り朝鮮の陶器を導入し茶道を庶民化する。日本の美意識は素朴のほかいろいろな美もある。自然の美は庭園、建築、花を挿すことなどの配置から人間の注目を集める。欠陥の美は粗末あるいは指紋のある茶碗を上品と見なすことから表すものである。3.5 茶道が反映した思想
中国の茶文化は儒家の思想を核心とし儒教、道教、仏教を一体にすることによって茶文化の内容を豊かにする。儒家文化の本質は実用で中国の茶文化は日本より庶民化を体現する。また儒家の「礼仁徳」と中庸の思想及び道家の「無為、自然、」の思想も茶文化に深い影響を与えた。だから中国の茶文化は自然の美を崇拝しているが日本ほど儀式を重視しないのである。
日本の茶道は主に中国の禅宗思想を反映した。また禅文化は日本の伝統文化の中で重要な内容である。敬と寂という思想は禅宗からきたものだ。敬とは真如の前にみんな平等の地位を持つという意味だ。茶室に入って身分を言わずお互いに尊敬する。つまり茶室の中には平和の世界である。寂とは静寂でどんな時にも動かないで静かな心を持つという意味だ。和は禅宗の「心が穏やか」の意味であり、お互いが仲良くすることだ。それだけではなく「茶禅一味」という思想も室町時代になると五山僧の間に次第に定着していった。ほかには日本茶道の形成は仏教との関係もある。清という思想は仏教の「清らかである」ということから来たのだ。結論
本論文は中日茶道についての資料を集め調査を通して纏めたものだ。日本の茶道は中国から導入したものだが、中国と違う道を歩んだ。私はこの疑問を持って中日の茶道の歴史と発展を考察し、中日茶道の相違点を分析した。日本の茶道は中国の茶道の影響を受けるほか、日本民族の発展や日本独特な伝統文化からの影響も深い。だから中日茶道は茶の種類、茶道の規則と過程などの方面だけで違うのではなく、茶道が反映した国民の性格や思想も違う。中日の茶道の交流はこれから必ず絶えずに行われるうと思うが、実用性を重視する中国の茶道はより多くの日本人に受けられると私は思う。
本論文はこのような視点から中日茶道を比較したものである。個人の能力や知識の不足で文章の中に文法などの間違いや中日茶道に対する分析に足りないところがあると思うので、ご指導くださるようお願いする。謝辞
本研究を執筆するにあたり、始終適切な助言を賜り、また丁寧に指導して下さった王霜先生に感謝の意を表します。また、中須賀剛先生と黄金春先生をはじめ、多くの先生方が常に論文の書き方をご指導くださいました。本当にありがとうございました。注釈
①その流派の本家として、代々の芸道を受け継いでいる家
②茶が、古来、飲み物として禅の寺院で用いられていたことは知られていたがそこでは礼を持って茶と接していた。特に元の時代にあっては、礼のうちでもっとも重用な礼とされた。やがて茶が日本に伝わると、こうした茶礼も同時にもたらされた。
③茶の湯で茶を勧める前に出す簡単な料理。参考文献
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