日语翻译,日语口译笔译—译语国际[小编整理]

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第一篇:日语翻译,日语口译笔译—译语国际

日语翻译,日语口译笔译—译语国际

日语(日本语:平假名にほんご,片假名ニホンゴ,罗马音nihon go),简称日语、日文,是一种主要为日本列岛上大和民族所使用的语言,是日本的官方语言。日语属于黏着语、通过在词语上粘贴语法成分来构成句子,称为活用,其间的结合并不紧密、不改变原来词汇的含义只表语法功能。随着日本的强大,日本动漫的盛行,日语也越来越受到全世界的关注。下面是一些简单的日常日语用语。

こんにちは。(kon ni ji wa)

你好。

こんばんは。(kon ban wa)

晚上好。

おはようございます。(o ha you go za i mas)

早上好。

お休(やす)みなさい。(o ya su mi na sai)

晚安。

お元気(げんき)ですか。(o gen ki de s ka?)

您还好吧,相当于英语的“How are you”,一种打招呼的方式。

いくらですか。(i ku la de s ka?)

多少钱?

すみません。(su mi ma sen)

不好意思,麻烦你„。相当于英语的“Excuse me”。用于向别人开口时。

ごめんなさい。(go men na sai)

对不起。

ありがとうございます。(a li ga to go za i ma s)

谢谢。

どういたしまして。(dou i ta si ma si de)

别客气。

本当(ほんとう)ですか。(hon dou de su ka?)

真的?

うれしい。(so ne si i)

我好高兴。(女性用语)

よし。いくぞ。(yo si。i ku zo)

好!出发(行动)。(男性用语)

厦门译语翻译服务有限公司是一家经工商局注册的正规翻译公司,是中国翻译协会和美国翻译协会的成员单位,在全国多家连锁翻译服务公司。公司立足厦门,营销网点遍步全国的大型涉外翻译服务提供商。为各行各业提供高质量的翻译服务,语种包括英语、日语、韩语、德语、法语、俄语等七十二种全世界语言翻译。公司不仅精于商务资料翻译、法律文件翻译、合同翻译、科技资料翻译、公司简介翻译、产品介绍翻译、技术说明书翻译、培训手册翻译、会计报表以及出国资料翻译、公证材料翻译外,还特别擅长工程和技术各学科领域翻译。优质的服务与质量赢得了客户的好评与青睐。

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第二篇:日语翻译证书三级笔译口译大纲

日语翻译证书三级笔译口译大纲

NAETI日语翻译证书考试三级笔译大纲

一、级别描述与适用对象

通过三级笔译证书考试的考生能够就一般难度的材料进行日汉互译,理解正确,译文通顺,能够胜任一般性文件或商务等方面材料的翻译工作。本级别考试的适用对象为:

1.日语专业大专及本科二年级以上学生;

2.非日语专业相当于日本国际交流基金“日本语能力测试”二级考试合格者; 3.具有同等水平的各类日语学习者和翻译工作者。

二、考试形式、内容与考试时间

三级笔译证书考试分为两个部分。第一部分为日译汉,要求考生将两篇各500字符左右的日文译成中文。第二部分为汉译日,要求考生将两篇各250字左右的中文译成日文。考试时间为3小时。

试卷包括试题与答题纸,考生在答题纸上做答。

三、考试计分方式与合格线

满分为100分。日译汉、汉译日各50分。

考试合格标准为70分,同时要求日译汉、汉译日的单项得分分别不低于30分。

NAETI日语翻译证书考试三级口译大纲

一、级别描述与适用对象

通过三级口译证书考试的考生能够就一般内容进行交替传译,意思传达正确,语音、语调、用词和表达基本正确,语流基本通畅,胜任一般的陪同、会谈及讲话的口译工作。

本级别考试的适用对象为:

1.日语专业大专及本科二年级以上学生;

2.非日语专业相当于日本国际交流基金“日本语能力测试”二级考试合格者; 3.具有同等水平的各类日语学习者和翻译工作者。

二、考试形式、内容与考试时间

三级口译证书考试分为三个部分。第一部分为对话,要求考生将一篇约600字/字符的对话分别译成日语或汉语。第二部分为日译汉交替传译,要求考生将一篇500字符左右的日语发言译成汉语。第三部分为汉译日交替传译,要求考生将一篇250字左右的汉语发言译成日语。考试时间大约为30分钟。口译采取听录音做翻译的方式进行。考生将听到的一段日语或汉语讲话分别译成汉语或日语,并同时录在磁带上。每段讲话录音中,每隔几秒钟或几十秒钟后有一段停顿,停顿时间约为播放录音时间的1~1.5倍,该时间是留给考生翻译的时间。听录音时,考生可以做笔记,并充分利用停顿的时间进行翻译。正式考试前考生每人可获得一张口译证书考试“考生须知”,“考生须知”指导考生如何填写姓名、考点和考号,说明考试方式,“考试内容”一项给出各部分考试的内容简介。

三、考试计分方式与合格线

满分为100分。其中第一部分为40分,第二部分为30分,第三部分为30分。考试合格标准为:总分70分,并要求第一部分不低于24分,第二部分不低于18分,第三部分不低于18分。

第三篇:浙江工商大学2011年日语笔译日语翻译基础

浙江工商大学2011年研究生入学考试试卷B卷

日语笔译

日语翻译基础 问题一

1テレビを見る 2働きながら学ぶ 3万里の長城 4(知らない)5月見をする 6大統領

7アジア競技大会 8医療保険 9核実験 10夜間大学 11にわか雨

12ラッシュアワー

13国際オリンピック委員会 14ノーベル賞

15急場の役にたたない

问题二 1电视剧 2手机 3居中调解 4手续费

5养老金,抚恤金 6世博会 7高考 8棒球选手 9照顾照料 10会议 11全球化 12喜马拉雅山 13组团观光

14国际货币基金组织

15有朋自远方来,不亦乐乎、问题三,四省略

本答案 仅供参考,如有差错,概不负责

第四篇:日语笔译教材

一、翻訳の定義

中国<辞海>

把一种语言文字的意义用另一种语言文字表达出来。日本<国語大辞典>

ある言語で表現されている文を、他の言語になおして表現すること。また、そのなおされた文。翻訳は難しい

“再见”→さようなら、行って参ります、行ってきますなど

二、翻訳の原則と基準

厳復氏の「翻訳の三原則」:忠実に、流暢に、美しく。(文学作品などを対象に)魯迅氏の「翻訳の二原則」:忠実に、筋道立てて(科学技術的な作品などを対象に)

三、翻訳の手順

手順1 手順2 手順3 手順4 手順5 手順6 手順7 手順8 手順9 原文を繰り返して読む 原文の関係資料を調べ取る

難しい言葉・表現をメモにして、後で調べる 原文の性格を把握する

長い文や曖昧な文を推敲する

原文を十分に理解したうえで翻訳に乗り出す 訳文を通読する

訳文の訂正、修正を行う 決定稿にする

四、翻訳の力を高める方法

1、完全な翻訳体系を身に着けること。--翻訳テクニック・規則を基にする翻訳体系の習得:「順訳、逆訳、分訳、意訳、加訳、不訳、変訳など」

2、同じ原文の異なる訳文の比較

3、原文を訳文と対照しながら読み進める

4、うんと翻訳の練習をする

(一)顺译(2007-3-13)

順訳:原文を順番に訳すこと

所谓顺译,就是在原文词义、语序和思路的引导下,借水行舟进行翻译,译文与原文语序基本相同。不过,只有在保证原文信息内容能够准确无误地再现出来的前提下,顺译才是译者可以选择的翻译技巧之一。影响因素:

* 两种文字的句子结构对应、或相似相近

* 对应或相似相近句型、句式的转换不影响原文信息内容的再现 * 满足审美条件

* 译者的双语水平(不同译者对中日文句子结构、句型、句式的掌握运用熟练程度差异/存在与判断其存在)

例1:

●彼は妻をもらうまでの四五年にわたる彼女の家庭との長い争闘を考えた。それから妻と結婚してから、母と妻との間に挟まれた二年間の苦痛な時間を考えた。彼は母が死に、妻と二人になると、急に妻が胸の病気で寝てしまったこの一年間の艱難を思い出した。訳文:他想到娶妻子之前曾与她的家庭进行了长达四、五年的斗争。又想到了与妻子结婚以后夹在母亲和妻子之间的痛苦煎熬的两年工夫。还想起母亲去世后总算与妻子两个人过日子可妻子却突然患肺病卧床不起的这一年来的艰难时光。

例2:

●対岸はまだ眠っているが、こちらの村はもうさめた。後ろの茅舎から煙が立ち上がる。今柵を出た家鴨は足跡を霜につけて、くわっくわっ呼びながら、朝日を砕いて水に飛び込む。

译文:对岸尚在沉睡,而这边的村庄已经醒来。身后的茅舍炊烟升起。家鸭出栏,足迹印在霜地上,嘎嘎地叫着,踏碎朝阳,扑进水里。例3:

●彼は妻の寝ている台の傍から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。亀が泳ぐと、水面から照り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。

みずかげ

かわ

ゆうてな

せんすい

にぶ

かめいまアヒルあしあと

しも

くだたいがん

ちがやしゃ

かんなん

くつう

そうとう

译文:他在妻子躺着的床边,望着泉水中迟钝的乌龟。乌龟一游,水面上反照出来的亮晃晃的水影就在干巴巴的石头上晃动。

例4:

●代助は嫂の肉薄を恐れた。また三千代の引力を恐れた、避暑(ひしょ)にはまだ間(ま)があった。凡て(すべて)の娯楽(ごらく)には興味を失った。読書(どくしょ)をしても、自己の影を黒い文字の上に認めることが出来なくなった。

试译一:代助既害怕嫂嫂的逼迫,又害怕三千代的吸引。离避暑还有一段时间,他对所有的娱乐都失兴趣了。读起书来,从黑鸦鸦的文字里连自己的影子也找不到。

试译二:代助既害怕嫂嫂的逼迫,又害怕三千代的吸引。去避暑为时尚早,对一切娱乐活动又兴味索然。开卷读书,也不能在白纸黑字里发现自己的身影。试译三:

例5:

●わたしの父は大酒家の部類だったと思うのだが、酒の上のことだから勘弁(かんべん)しろ、ということを許さなかった。酒の上のことだから勘弁しない。酒中の失策を酒に押し付けては、第一、酒が可哀相だ、という理屈であった。

试译一:我想我父亲是酒鬼的一种,但因为是酒上的事,请原谅的事又不允许。因为是酒上的事,不原谅。如果把酒中的失策强加给酒,第一,酒太可怜了。就是这么一个理由。试译二:我父亲算得上海量,不过,他并不同意“酒后生事,情有可原”的说法。正因为是酒后生事,才不能原谅。他认为把酒后失着归罪于酒,别的不说,酒真是太倒霉了。

例6:

大陆拍摄的一些电影片、电视片、戏曲音乐录像带以及三十年代与当代学术著作、文艺作品以及三十年代与当代的学术著作、文艺作品已经可以在台湾公开出售,两岸出版界已经开始合作出版书籍。

試訳:大陸で制作された映画とテレビドラマ、伝統劇、音楽のビデオテープ、および三十年代と現代の学術著作、文学・芸術作品の一部は台湾で自由に発売され、両岸の出版界は書籍の協力出版を始めた。

例7:

挂历大战的直接后果是公款消费大量增加,经办者公饱私囊,财政负担增大,有关部门对此应引起重视。

試訳:カレンダー大戦の直接的な結果は、即ち官費の消費が大幅に増え、受託者が私腹を肥やし、財政負担が増大することになるので、関係部門はこれを重視すべきである。

例8:

近年来太平无事的黄河,并不能代表真正的黄河,这只是黄河比较平静的一个短暂的时段。試訳:近年来、太平で無事な黄河は真正な黄河を代表できない。これは黄河にとって、比較的平静的な時間帯である。

試訳:近年、黄河は事無く流れているが、これは決して真の姿ではなく、一時的な平成状こざいせいふたんぞうだい

すなわ

かんぴ

しょうひ

おおはば

じゅたくしゃ

しふくだいすけあによめにくはく

いんりょく 3

態に過ぎない。

例9:

一个学习成绩很好的中学生,突然得了精神分裂症,病因是一次考试得了第二名,他原以为能取得第一名。

試訳:ある成績のすぐれた中学生が突然精神分裂症にかかった。病因はテストの成績がクラスで二位だそうだ。しかし、彼はずっと一位に決まっているとしか思わなかったのだ。試訳:ある成績のすぐれた中学生だが、突然、精神分裂症にかかった。原因は(なにか)といえば、一番だと思っていたテストの成績が二番だったからだという。

まとめ:

避免望文生义,盲目顺译 杜绝“取巧”

切忌照葫芦画瓢,要特别重视意义优先的原则 能顺译不等同于需要顺译

顺译只是一种翻译技巧,选用与否主要取决于译文的表达效果。不能为顺译而顺译,更不能为迁就原文语序而破坏原文信息内容的转达,使顺译成为死扣原文的硬译。

(二)倒译

倒译:颠倒原文语序进行翻译。三大原因:

中日句法(语法规则和语序等)上的原因 中:主谓宾——主、壮、谓、定、宾 日:主宾谓——主、定、宾、状、谓 修辞上的原因 语言表达上的原因

例1:

●特に清潔を心がけることは実験を正確にするためにも、無菌操作を守るためにも、みな必要である。

试译一:特别注意清洁,是为了实验准确以及确保无菌操作均需要。试译二:为了实验准确而确保无菌操作,特别要注意清洁。

例2:

●物体の一部から他の部分へ、または一つの物体から他の物体へ熱が移動する場合、伝導、対流、放射の三形式がある。

试译一:由物体的一部分向另一部分,或由一个物体向另一个物体热在移动时,有传导、对流、辐射三种形式。试译二:热由物体的一部分传向另一部分,或由一个物体传向另一个物体时,有传导、对流、辐射三种形式。

例3:

●西に傾きかかった太陽は、この小丘の裾遠く広がった有明の入江の上に、長く曲折しつつはるか水平線の両端に消え入る砂丘の上に今は力なくその光りを投げていた。

试译一:西斜的太阳,在小山丘脚下远远扩展开来的有明海海湾上,在漫长曲折的遥远的水平线两端消失的白色沙丘上,如今毫无气力地放出些光亮。试译二:西斜的太阳无力地照射着在小山岗远处山嘴伸展开来的有明海湾,照射着弯弯曲曲、隐隐约约地延伸在远处地平线上的白色沙丘。

例4:

●秋が来た。

うすい青空が高く晴れ渡り、そこへ羽毛をプッと吹き散らしたように、軽い綿雲が一面に浮かんでいる。そういう空模様の日が毎日続いた。试译:秋天来了。

淡淡的蓝天晴空万里,显得更高;轻轻的彩云满空飘舞,仿佛是一口气把羽毛吹遍了云霄。这样的天气,持续多日。

例5:

●このたび私は、市民の皆さんの絶大なるご支持を得て市長となりました。これからは、住みよい広州市をめざし、粉骨砕身、ご期待にこたえたいと存じます。

试译:这次承蒙市民们的极大支持,在下荣任市长。今后为把广州市建成适于居住的城市,在下一定不惜粉身碎骨,以不辜负大家的厚望。

例6:

この逆電流は熱的に発生するものであるから、電圧に関係せず、温度によって定まる。试译一:这种反向电流是由热而产生的,因而与电压无关,取决于温度。试译二:这种反向电流是由热而产生的,因而取决于温度,与电压无关,例7:

“你心目中的男子汉应该是什么样的”,几乎所有的答卷者都表示喜欢果断、坚定、沉着、冷静、有创造力的男子汉,讨厌那些奶油气、虚伪、自私的人。試訳:さて「あなたのあこがれる男性はどういうような人間ですか」という質問になると、ほとんどの人は、思い切りがよくて、創意に富み且つ沈着で冷静なしっかりものがすきで、女々しくて、虚偽的なエゴイストが嫌いと答えた。

例8:

可可的故乡在美洲,是印第安人最先发现了它的功用;咖啡的故乡在非洲,是黑人最先发现了这种红色浆果的妙用。

試訳:ココアの故郷はアメリカ、その効用を発見したのはインディアンで、コーヒーの故郷はアフリカで、その赤い果実の妙用を発見したのは黒人です。

例9:

中国有不少地名是根据当地有特色的山川、湖泊命名的,像大陆西部的青海省就是以境内的青海湖而得名的。

試訳一:中国では、数多くの地名は、その土地の特色のある山や河や湖などに由来したの 5

である。例えば、大陸の西部にある青海省はその地域にある青海湖によるのである。試訳二:中国にはそのその土地の得し区にある山川、湖沼にちなんだ地名が尐なくない。大陸西部の青海省の名は、そこにある青海湖に由来したものだ。

例10:

中国人一向很重视给孩子起名儿。可爱的宝宝诞生后,做父母或祖辈的就翻翻字典、查查辞海,总想为她(他)取个好名字。

試訳:中国人は昔から子供の名づけを重視してきた。かわいい赤ちゃんが生まれると、いい名前をつけてやろうと、親たちは辞書をあれこれひっくり返しては首をひねる。

(→属于语言、思维活动的内容,无论它在原文的语序如何,日译时总以“„„と言って(思って„„)”的形式出现,以更好地表达原文,使译文简洁)

例11:

首任中国驻日本大使→陳楚初任駐日大使 日本驻华大使

→駐中国日本大使

(三)加译(2007-3-20)

加意的前提:原文比较隐晦,如果按字面意义翻译的话则读者很难读懂或者很难抓住原文的内容实质。

加译的原则:加译部分必须有根有据,不可不顾原文的意义,任意添词加句。

加译内容:加译内容并无特殊规定,只要是必要的,必需的,且不损害原文意义的都可。从句子成分上说,可以加译主语、谓语、宾语、补语、状语等;从词性上说,可以加译名词、代词、形容词、副词、动词等;从语言单位上说,可以加译词素、词、词组、短语、句子、甚至句群、段落。关键要看加译是否恰到好处,能否做到锦上添花,而不是画蛇添足。加译方法:最常见的一种是直接加在文中。此外还有加括弧、加注、加破折号、改写原文等。

○生物化学から見た進化論(丛生物化学的角度来看进化论)○河豚による中每(因河豚引起的食物中毒)

例1:

「おしん」の視聴率は最高の時が六二・九%に達した。タロジロが出てくる「南極物語」は、配給収入が五十二億円を超えて、記録を更新した。试译:《阿信》的收视率最高时达62.9%,以两只小狗大鲁二鲁为主角的《南极故事》的票房收入超过52亿日元,创历史记录。

例2:

家電業界で「冷蔵庫の日」(毎年夏至)などのように製品にちなんだ日を記念日としキャンペーンを展開している。「掃除機」(ゴミゼロで五月三〇日)、「洗濯機」(水の日で八月一日)、「換気(扇」」(イイ空気で一一月九日)。このほかさまざまなイベントも展開中。试译:家电行业给许多商品制定节日,进行促销宣传,如把“冰箱节”定在夏至,把5月

30日定为“吸尘器节”,因为“5月30日”在日语里可以与“无垃圾”一词谐音。8月1日是水节,所以与“洗衣机节”结缘。11月9日,被选为“换气扇节”,这是因为在文字游戏中它可以被戏读成“新鲜空气”。除此之外,家电行业还进行其他各种各样的促销活动。

例3

電源電圧が変動すると、蛍光ランプのランプ電流、光束、ランプ電圧が変動する。试译一:当电源电压波动时,日光灯的灯管电流、光通量和灯管电压就波动。

试译二:当电源电压发生变动时,日光灯的灯管电流,光通量和灯管电压都发生波动。

例4:

われわれが生命現象を知ろうとするとき、まず問題になるのは生物体はいかなる物質から構成されているかということである。试译一:我们要想知道生命现象,首要的问题是生物体是由什么物质构成的。

试译二:我们要想知道生命现象,首要的问题是要了解生物体是由什么物质构成的。

例5:

もっとも大きな利点は、ICを構成する回路部品が1mm角ほどのシリコン小片に収納されているため、特性のよく一致した回路部品をそろえることができることである。

试译一:最大的优点是,组成集成电路的元器件都制在1毫米见方的小硅片上,能制成特性非常一致的元器件。试译二:半导体集成电路最大的优点是,组成集成电路的元器件都制在1毫米见方的小硅片上,能制成特性非常一致的元器件。

例6:

密閉された容器に、水を入れて沸騰させると、大きな圧力が出てくる。试译一:密闭容器中注入水,使沸腾产生很大的压力。

试译二:将水注入密闭的容器内,若使其沸腾,将会产生很大的压力。

例7:

许多事情我们不懂,群众提出来了,就要向他们学习,推广他们的先进经验。試訳一:多くの事柄はわれわれにはわからない、大衆がもちだしてきたら、かれらに学び、かれらの先進的経験をおしひろめなければならない。

試訳二:多くの事柄はわれわれにはわからないのだから、大衆がもちだしてきたら、かれらに学び、かれらの先進的経験をおしひろめなければならない。

例8:

我们所犯的错误,究其发生的原因,都是由于我们离开了当时当地的实际情况,主观地决定自己的工作方针。

試訳一:我々の犯した誤りはその発生原因を調べると、すべてわれわれがその時、その土地の実際の状況から離れて、为観的に自分の仕事の方針を決めたことからきている。試訳二:我々の犯した誤りはその発生原因を調べてみると、すべてわれわれがその時、その土地の実際の状況から離れて、为観的に自分の仕事の方針を決めたことからきている。

例9

在北京住下,我就买了一辆自行车,因为我想更多地看看北京和北京人。

試訳一:北京に住むことになった私は、さっそく一台の自転車を手に入れた。北京を、そして北京人をよりよく、「観察」しようと思ったからだ。

試訳二:北京に住むことになった私は、さっそく一台の自転車を手に入れた。自転車を乗り回して、北京を、そして北京人をよりよく、「観察」しようと思ったからだ。

例10 大学生们有他们自己的想法。计划经济系的512室,房门大书“彩扩”二字。6名寄宿者为学校附近一家照相馆揽彩扩活。

試訳一:学生には学生の発想があります。計画経済学部の五一二号室ですが、ドアに「彩拡」の二字が大きく書いてあります。この部屋の6人は、近くの写真屋の彩拡の窓口業務をしています。

試訳二:学生には学生の発想があります。例えば、計画経済学部の五一二号室ですが、ドアに「彩拡」の二字が大きく書いてあります。D、P、E屋さんです。この部屋の6人は、近くの写真屋の窓口業務をしています。

例11:数量词的翻译

○野呂旅人という男は、としはたしか三十一。背丈はせいぜい五尺どまり。体も痩せていて、体重も十貫か十一貫というところでしょう。

试译:野吕旅人,年龄已经三十一岁,身高不到五尺,十分清瘦,体重只有十贯或十一贯。*一日尺=30.3厘米 贯:日本重量单位,一贯=3.795公斤

○年末だから、4割引だよ。试译:年底嘛,打6折。

○中級以上の人は次のコースに進む。

试译:中级和中级以上的人进入下一个课程。

○人間以上の力を発揮した。

试译:发挥超人的力量(不包括常人)。

○小学生以下は半額だ。

试译:小学生以下半价(包括小学生)

○彼の計算力は小学生以下だ。试译:他的计算能力在小学生之下。

○隊長以下十名(队长、队员共十人)○隊長ほか十名(队长、队员共十一人)

○二十未満だ。二十以下だ。二十を超える。二十以上だ。

(四)减译(不译)(2007-3-27)

減訳(または不訳)とは原文の中にある言葉を省略し、訳文の中に表さないようにすることである。不訳にする言葉は、原文の中で一定の役割を果たしているのはもちろんのこと、訳文としても具体的に訳し出すことができるが、敢えて不訳にするのは訳文としての体裁を整えるためである。故にいわゆる不訳の措置には、一定法則性などはない。このやり方は翻訳者がよく原文を理解し、わがものにした上でより自然な日本語に写すときに許される措置である。不訳の要訣は、日本語に訳してみて、屋上、屋を架するようなことになるときは、それを避けるべく努力することにある。

例1

通常の使用状態では、温度が規定値を絶対超えないように注意して使用しなければならない。

试译一:在通常的使用状态下,必须注意使用时温度绝对不要超过规定值。试译二:在通常的使用状态下,必须注意温度绝对不要超过规定值。

例2

ICを理解するため、また自由に使いこなすため、どうしても知っておかなければならない基本的なことは、ICに組み込まれている回路部品の動作原理であろう。试译一:为了了解和为了自由运用集成电路,必须具备的一些基本知识是关于集成电路中的电器元件的工作原理。试译二:为了了解和为了自由运用集成电路,必须具备的一些基本知识是关于集成电路中的电器元件的工作原理。

例3

半導体の特性およびその応用に関する説明に入る前に、半導体とは何か、という題で概括的な説明を行うことにする。试译一:在说明关于半导体的特性及其用途之前,以所谓半导体是什么?为题进行概括的说明。

试译二:在说明半导体的特性及其用途之前,先概括地说明什么是半导体。

例4(表示思考之类的谓语,如无特殊必要可省略不译)

一般に部品数が多くなると、必然的にその機械の信頼性が下がってしまうといえる。试译一:一般说来,增加元器件的数量,可谓必要导致设备的可靠性下降。试译二:一般说来,增加元器件的数量,必然要导致设备的可靠性下降。

例5

雤は雲から落ち、空気中を降ってくるが、その途中で、空気中の汚染物を捕まえてくる。试译一:雨从云层落下,降落到空中的途中,将空气中的污染物带下来。

试译二:雨从云层降落到空中的途中,将空气中的污染物带下来。

例6 自古文人生活多清苦,我们也是如此。房子是租的,租金占去了我工资的三分之二。

試訳:昔から、インテリは貧しく、私たちも例外ではありません。家賃だけでもサラリーの三分の二を取られてしまいます。

例7:

日本人已将柔道推向了世界,我们中国武术迟早也会走向世界。

試訳:日本の柔道はもう世界中に広まっていますが、中国の武術も、やがてそうなるでしょう。例8 老太太病倒了,他总是跑前跑后,煎汤喂药,里外服侍。每天下班后,他总是抢着炒菜做饭,把一大堆家务活都揽在自己身上。

おばあさんが病気で寝込んだときには、彼はまめまめしく薬や身のまわりの世話をします。勤めから帰ると、すぐ進んで食事の支度や家事をします。

例9 快过春节了,爸爸连着嘱咐了我两次:要我给乡下的姐姐写封信,一定要姐姐来城里过年,还要姐姐带上孩子,让姐姐一家都来。

試訳:春節(旧正月)が近づいたこと、田舎にいる姉に手紙を出して、今年こそ一家でこちらに来て春節をすごすようにいえと、父が私に念をおした。

試訳:春節(旧正月)が近づいたころ、父は私に田舎にいる姉に手紙を出して、「今年こそ、帰ってきて、为人と子供もこちらで春節を楽しむように言え」と、念を押した。

例10 大概在1890年,美国洋行老晋隆从美国运香烟到上海销售,第二年运来机器就地生产。試訳:1890年ごろ、アメリカの会社がタバコを上海に運んで売り、翌年には機械を持ち込んできて現地生産を始めた。

試訳:1890年ごろ、アメリカの会社「老晋隆」がタバコを上海に運んで売り、翌年には機械を持ち込んできて現地生産を始めた。

例11(“都”字不译的例子)

他不要共产党领导下的人民军队,要把人民的武装,也就是人民的一切都交给蒋介石。

試訳:かれは共産党の指導する人民の軍隊を否定し、人民の武装組織、すなわち人民のすべてを蒋介石に手渡そうとした。

例12(“而”字不译的例子)

没有文化的军队是愚蠢的军队,而愚蠢的军队是不能战胜敌人的。試訳:文化を持たない軍隊はおろかな軍隊であり、おろかな軍隊は敵に打ち勝つことはできない

一八四零年鸦片战争以后,中国逐步沦为半殖民地,而俄国则逐渐成为军事封建帝国主义。試訳:1840年のアヘン戦争後、中国は次第に半植民地に転落し、ロシアは次第に軍事的封建的帝国为義となっていった。

(五)分译(2007-4-3)

分译:在弄清原文内容的逻辑关系以及中心思想的基础上,将一个较长的句子分割为两个或两个以上的句子进行翻译的方法。

※长句分译的频率比较高,但是并不是说分译与长句并非天生地密不可分。根据需要,短句也可以分译;长句也可以不分译,按照原文的句势,一气译成。

※从理论上讲,分译的关键是安排好译文的结构,保证译文在句法上的完整性。它其实是从原文中直接提取或化解出新的完整的句子结构,并使之独立成句。例1:

1965年、淺川健二さんが中国の招きで外国語編集局の日本語版の翻訳に参加するために中国に来られた時のことだった。

试译一:那是1965年浅川健二先生应中国的邀请为参加外文编辑局日文版翻译工作而来中国时的事情。

试译二:那是1965年,浅川健二先生应中国的要求,来中国参加外文编辑局日文版翻译工作时的事情。

2、そしてその彼女のことを考えるとき、彼女のこの平凡な言葉の内にある彼女の心の存在が彼の胸を突き刺し彼は自分があらゆる苦しみを受けるに価すると考えるのだった。

试译一:当想起她时,她那颗蕴含在她平凡的言语中的心刺痛着他,他觉得自己应该承受所有的苦难。

试译二:她的话,语语平常,却句句都包含着一颗赤诚的心。他每次一想起她来,心里就感到痛悔,觉得应该去承受一切磨难。

例3:

こんどの事件で一番大きい打撃を受けたのは、当然なことではあるが、栄さんであった。計画が挫折したということより、将来の見透しが利かなくなったということが、彼の気持ちを暗く絶望的なものにしていた。

试译一:在这次事件中受到最大打击得当然是阿荣了。与计划受挫相比,前途渺茫这一点更使他陷入黑暗、绝望的境地。

试译二:这次事件,受打击最大的当然是阿荣了,不但计划受挫,而且觉得前途渺茫,使他的精神陷入了黑暗绝望的境地。

例4:

彼はその時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の一度聞いたら心に縫いこまれでもするように、決して忘れることの出来ない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。

试译一:当时他清楚地听到了从墙后传来了一位要救的话还救得出的矿工发出的、只要你听一次就会深深地嵌入你的心窝的、叫你难以忘记的求救声。试译二:当时他清楚地听到了从墙后传来的求救声。这一位要救的话还能就得出的矿工发出的求救声。这个声音,你只要听到一次就会深深地嵌入你的内心深处,叫你再也忘不了。

例5:

話しているうちに、私は腹の底から、今の日本における日本語教育の貧しさに悲しみと怒りがこみ上げてきた。试译一:说着说着,我从心底里对现如今日本国内的日语教育的贫乏涌起了一阵悲哀和愤怒。试译二:说着说着,我不由得从心底里感到一阵悲哀和愤怒。如今日本国内的日语教学简直太糟糕了。

例6:

或る夜、庭の木立がざわめいて、見ると、静かな雤が野面(のづら)を、丘を、木を仄白(ほのじろ)く煙らせて、それらの上に降り注いでいた。

试译一:一天夜里,院子里的树木发出了沙沙的响声。原来是下雨了。只见雨水静静地在田野上、山丘上和树木上,仿佛给他们笼罩上了白蒙蒙的烟雾。

试译二:有一天夜里,院子里的树木沙沙作响。向外望去,只见细雨霏霏,原野、山冈、树木全都笼罩在白蒙蒙的雨雾之中。

例7:

一天工作之后,我很想看电视,虽然他从来不介意我们吵扰他,但是,每当我看到他皱起眉头,竭力集中精神思索的苦劲儿,我只好把电视关掉。

試訳:はりつめた一日の仕事を終えると、とてもテレビが見たくなる。それは彼の仕事の邪魔になるが、彼は一向かまわないのである。しかし、眉をしかめながら、思索に耽っているその苦しそうな様子を見ると、私はテレビを消さないわけにはいかない。

例8:

在中国,有些年轻人还有充大的乐趣,愿意被称为“老王”、“老李”,“年长”与“有经验”的概念是相通的。

試訳:中国では、若い人たちの間でも、面白いことがあります。王くんや李くんが「老王」や「老李」と呼ばれて喜んでいます。「年長」と「経験深い」とは、概念が互いに通じ合うからです。

(六)变译(转译)

变译:指在翻译中为了更好地更准确地转达原文的信息内容,对原文做出不影响原文信息内容表达的、非原则性变通。

※ 从译文的结果来看有形式变译和非形式变译。

形式变译——主要指词性转换、句型句式转换和正反表达等。这种变译的特点是,译文与原文互为因果,互为依据,可以进行直观的对比。

非形式变译——脱离原文的变译,译文与原文无法直接对应,甚至表面上风马牛不相及,但是,实质上只是改变了原文的外包装,在信息内容的转达这一关键问题上没有质的变化。※ 从翻译过程来看,可以分为消极变译和积极变译 消极变译——原文与译文在语言、文化等方面差异过大,用其他翻译方法不能很好地解决问题,迫使译者打开思路,寻找新颖的、独特的依法。

积极变译——原文并没有强迫译者去进行变通,但是,为了更好地表达原文,译者自己主动地进行变通。

※变译的特点,顾名思义,主要体现在“变”字上,包括词语、句式句型、思维角度、比喻手法的改变等等。但是,变异必须做到万变不离其宗——原文的信息内容。例1:(词语的变译)

電動機の信頼性向上のため、製造過程において必要に応じて多くの試験が行われる。试译一:为了电动机可靠性的提高,在制造过程中根据需要应进行多种试验。试译二:为了提高电动机的可靠性,在制造过程中根据需要应进行多种试验。

例2:

高炉の原料装入設備としては、これまでスキップ方式によるものが大部分であった。试译一:到目前为止,高炉的原料装入设备采用箕斗式者占大部分。试译二:到目前为止,高炉装料大都采用箕斗式装料装置。

例3:

日本語文法の研究は、重要な問題である。试译一:日语语法的研究,是重要的问题。试译二:研究日语语法,是重要的问题。

例4:(句型句式的变译)太陽は入り江の水平線へ朱(あけ)の一点となって没していった。„„磯(いそ)からは、満ち潮のさざめきよせる波の音が刻々と高まりながら、浜藻の匂いをこめた微風に送られて響いてきた。

试译一:太阳成为鲜红的一点,隐没到海湾的水平线下。满朝时一阵阵此起彼伏的波浪声,被带着藻类气味的威风从海边吹来。

试译二:太阳成为鲜红的一点,隐没到海湾的水平线下。带着藻类气味的威风从海边吹来,送来满朝时一阵阵此起彼伏的波浪声。

例5:

無為徒食の彼には、用も無いのに難儀して山を歩くなど徒労の見本のように思われるのだったが、それゆえにまた非現実的な魅力もあった。

试译一:终日无所事事的他,在疏散无为重,偏要千辛万苦去登山,真是徒劳。可是,也唯有如此,其中才有一种超乎显示的魅力。

试译二:终日无所事事的他,在疏散无为重,偏要千辛万苦去登山,岂不是徒劳吗?可是,也唯有如此,其中才有一种超乎显示的魅力。

はまも 13

例6:

隣の客はよく柿を食う客だ。(客房的客人是位老吃客饭的客人)東京特許許可局。(特区特许许可局)李も桃ももう売れた。(麦子荬子全卖了)

例7:

パーティーでは、たとえ初対面の相手であっても、天気のような無難な話題から切り出すようでは、その曲のなさに、たちまちあきられ、逃げ出されてしまうでしょう。试译:在晚会上,即便是初次见面的朋友,如果一见面就谈论天气这类平淡无奇的话题的话,对方就会立刻觉得厌烦,没意思而逃之夭夭吧。

例8:

每一个班级有20名学生。其中三分之二是外省市来的。

试译:ひとクラスに学生が20名います。そのうちの三分の一は当地の学生です。(或三分の二はよその地方から来た学生)

例9:

说实话我做不了主,还得请示上级。

试译:実は私には決定権がありません。上司に意見を聞かなければなりません。

例10:

昨天孩子哭了一晚上,她没睡好。

试译:彼女は夕べ子供に泣かれて、よく寝られませんでした。

五、具体译法探讨(2007-4-10)

(一)日语拟声拟态词的译法探讨

定義と分類

定義:擬音語は簡単に言うと実際の音を言語音で真似て写した語であり、擬態語はある状態・様子などを感覚的に音声化してとらえた語である。

擬音語=擬音語(無生物の音を表すもの)+擬声語(生物の声を表すもの)

擬態語=擬態語(無生物の状態を表すもの)+擬容語(生物の状態<動作様態>を表すもの)+擬情語(人間の心の状態を表すもの)

擬音語+擬態語=擬声擬態語/音象徴語/擬語/オノマトペ

※日语的拟声拟态词能够把视觉器官和听觉器官感受到的形象和声音生动、逼真地再现出来。它们相当于汉语的象声词,但其数量远远大于汉语中的象声词,而且五花八门,包罗万象,甚至有的词模拟的声音或状态与实际情况相差甚远,这给翻译工作带来一定困难。

※拟声拟态词翻译的总体方向应该是尽量做到生动、形象、传神。从实际翻译情况看,大多采用以下几种翻译方式:

1、译成汉语里相应的象声词

○くすくすと笑う。(吃吃地笑)○げらげらと笑う。(げらげら:哈哈大笑)(格格地笑)

○わっはっはと笑う。(哈哈大笑)

○鳥がばたばたと音を立てて飛んでいった。(ばたばた:迅速)(小鸟扑簌扑簌地飞走了)

○列車がごうごうと音をたてて走ってきた。(ごうごう:轰隆)(火车轰隆隆地开过来了。)

○タイプライターの音を必要以上にがちゃん、がちゃんと言わせて働き続けた。(がちゃん:啪嚓)

(故意把打字机嘎嗒嘎嗒地打得特别响。)

○彼は正座したまま眼を半眼に閉じ、とろりとろりと居眠りをしている。(とろりとろりと:粘糊糊)

(他正半睁半闭着眼睛,端端正正地坐在那里呼呼打盹。)

○ジー、ガチャン、ジー、ガチャン音を立てて、何枚も何枚もレントゲン写真を撮り出した。

(只听吱——喀嚓,吱——喀嚓地拍了几张透视片子。)

2、译成汉语的重叠词

当找不到合适的象声词时,可以使用重叠词。汉语的重叠词在一定程度上可以起到生动、传神的作用。

○右手に冷凍食品のずっしりと重い袋を提げ„„(ずっしり:沉甸甸的)(右手提着冷冻食品德沉甸甸的口袋„„)○祥子はのろのろと階下に降りていく。(のろのろ:慢吞吞地)(祥子慢腾腾地走下了楼梯。)

○詳細に見れば食べ物の汁か何かで胸許がべとべとしている。(べとべと:发粘貌)(细细一看,前襟黏糊糊地沾满了什么食物的卤汁。)○きょろきょろあたりを見回しました。(きょろきょろ:四下张望貌)(眼镜滴溜溜地四下打量着。)

○しくしく泣く。(しくしく:抽抽搭搭地)(抽抽嗒嗒地哭泣。)○がぶがぶ水を飲む。(がぶがぶ:一饮而尽地)(大口大口地喝水。)

○テレビの前でぐうぐう眠ったりしてね。(ぐうぐう:呼噜呼噜)

(在电视机前呼噜呼噜地睡觉)

○私、今だってふらふらなんです。(ふらふら:糊里糊涂)(我现在就已经昏昏沉沉的了。)

○道にはちらちらと雪が舞い始めていた。(ちらちら:纷纷地;飘飘)(道路上稀稀落落地飘起了雪花。)

3、译成汉语的形象性词语

○買い物客はわっと殺到する。(わっと:哇地)(顾客们蜂拥而至。)

○火がぱっと消える。(ぱっと:突然貌)(火一下子灭掉了。)

○むしゃむしゃ食べ始めた。(むしゃむしゃ:狼吞虎咽地;大口大口地)(狼吞虎咽地吃开了。)○ぶかぶか煙を吸う

(一个劲儿地吸烟)

○ちらりと見えなくなった。(ちらりと:一闪;一晃)(一眨眼就不见了。)

○ぽかんと座っている。(ぽかんと:发呆貌)(呆坐着。)

4、其他译法

当原文中的拟声拟态词在实际翻译中无法采用上述汉译方法时,可以在保证原文信息转达的情况下,用适当的词语加以概括,或用成语,甚至省略不译。○あっという間に消えた。

(转瞬即逝。)

○戸締りをきちんとした。(きちんと:好好地,牢牢地)(把门锁好。)

○きびきびと働いている。(きびきび:爽利;利落)(爽快麻利地干着)

○じろりと彼の顔を睨めた。(じろりと:以锐利的眼光)(狠狠地瞪了他一眼)

○へとへとに疲れてしまった。(へとへと:精疲力竭貌)(已经精疲力竭了。)

○それだけ言うと、ぷいっと二階に上がっていってしまった。(ぷいっと:忽然的样子)(说了那么一句,突然就上楼去了。)

○鍋の中の太いうどんが弱火でとろとろ動く。(とろとろ:微弱貌)(锅里的粗面条在微火下滚动。)

(二)中日“同形词”译法探讨

1、“中日同形词”的类型。

所谓“同形”只是一种笼统的概念。由于中日两国依据各自得方针进行了文字改革,所以一部分原来形同的词语现在已经不同形了。但习惯上我们把这些字形上发生了变化的词也作为中日同形词看待。

根据字形的特点,我们至少可以把中日同形词划分为三种: 字形完全相同:学生、自然 字形基本相同:圧力、道徳、字形大不相同:芸術、漢語

根据词义的特点,我们可以将中日同形词划分为三种: 词义基本相同(语感、色彩不尽相同):数词、动植物名称、学术用语的大部分同形词:松、竹、牛

词义部分相同:在一方的语言中体现为多义词:大事(国家の大事、大事な問題)词义完全不同:手紙、新聞、丈夫、喧嘩、先輩

※中日同形词对我们的日语有便利之处,但实践表明它业已成为日汉翻译的一大误区。它更容易使译者忘记语境,忘记明辨两者在语义、语体、感情色彩、问题等诸多方面的不同,而简单地转用同形词。

2、同形词误译探讨

(1)日译汉时译词不参照我国形成的固定说法,直接移译。

○行動様式→?行动样式(行为方式)

○長年改革を呼びかけています→?长年来呼吁改革(多年来)

○医療費における自己負担の割合→医疗费用的自我负担比例(个人负担)○集団自衛権→集团自卫权(集体自(防)卫权)○温室化効果→温室化效应(温室效应)○京都協議→京都协议(《京都议定书》)

○外務大臣の田中真紀子は、当然ながら、非常に重要な存在である。→外务大臣田中真纪子当然是非常重要的存在。(„„重要的人物)

○女社長は6万人にも達している。→女社长多达6万人。(女总裁(女总经理)„„)

(2)同形词照搬误译

翻译中涉及同形词时,必须慎重,除了考虑词义是否对应之外,还得注意搭配、词性、语体、17

色彩、语感等的不同,这样才能避免因为同形词的使用而出现误译。

(词义汉译大小不同而造成的同形词误译)

○早有思想准备。→とっくに思想の準備が出来ている。(とっくに心の準備/心構え・気構えが出来ている/覚悟している)

○打算最近去北京。→最近北京に行くつもりです。(近ごろ北京に行くつもりです。)○听说那人品质不好。→どうもあの人は品質がよくないそうです。(人柄・品性)○做个有文化的人。→文化のある人になりたい。(教養のある人になりたい)○他是个头脑简单的人。→彼は頭の簡単なやつです。(彼は単純なやつです。)○他是个热心的人。→彼は熱心な人です。(彼は心のあつい人です。/世話好きな人)○请严肃点。→厳粛にしなさい。(真面目にしなさい)

○他终于觉悟了。→彼はとうとう覚悟した(彼はとうとう目覚めた)○他工作热情很高。→彼は仕事への熱情がとても高い。(彼は仕事への意欲がとても高い)○受到了一封热情洋溢的感谢信。→熱情あるれる感謝の手紙を頂いた。(熱意あふれる)

(同形词搭配不当导致的同形词误译)

○爆发了战争。→戦争が爆発した。(勃発した)○时间紧张。→時間が緊張している。(時間的にきつい)

○那俩人关系紧张。→あの2人は関係緊張だ(あの2人は仲が悪い)○他犯了严重错误。→彼は厳重な誤りを犯した。(重大な・大きな誤り)○给了我们巨大的力量。→私たちに巨大な力を与えてくださいました。(大きな力を与えてくださいました。)

○表示良好的祝愿。→良好なお祈りを表いたします(心からお祈りします)○过着美好的生活。→美しい生活を送っている。(すばらしい生活)○受到了莫大的鼓舞。→莫大な励ましを頂きました(大きな励ましを)○大学毕业后被分配到中学当老师。→大学を卒業して中学校に分配され先生になった。(~に配属され先生になった)

○我的老家一带出产大理石。→私の実家あたりは大理石を出産している。(大理石を産出している)

(词性不同造成的同形词误译)

○他的工作积极。→彼は仕事が積極です。(彼は仕事が積極的です。)○最好是关心政治。→政治に尐し関心したほうがいいですよ。(関心を寄せたほうがいい)○生活过的很充实。→充実の生活を送っている(充実した生活を送っている)

○日本人民也是友好的人民。→日本人民も友好の/友好的な人民です(友好な人民です)○参考大家的意见。→皆さんの意見を参考します。(皆さんの意見を参考にします)○你根据什么这样说的。→あなたは何を根拠してこう言い張るのか。(何を根拠にして)○他为弟弟牺牲了一切。→彼は弟のためにすべてを犠牲した。(すべてを犠牲にした。)

(语体不同造成的同形词误译)

○要学习别人的长处。→他人の長所を学習しなさいよ。(を学びなさい)

○回顾一年来的工作,大家都很满意。→この一年の仕事を回顧して、みんな大変満足だった。(を振り返って)

○对不起,我不是故意的。→すみません、故意にやったのじゃないのです。(わざとやったのじゃないのです)

○你放心吧,我马上就回来。→ご放心ください、すぐ帰ってくるから。(放心:書状用語→心配しないで)

○我一定克服这些缺点。→これらの欠点を必ず克服します。(を必ず直します)

(色彩不同造成的误译)

○给我们留下了深刻的印象。→私どもに深刻な印象が残っています。(深い印象)○做出了重大的贡献。→重大な貢献をされました(大きな・多大な貢献を)○她很单纯,天真。→彼女は単純で、無邪気な人です。(彼女は純粋で、無邪気な人です)○我是这里的工作人员。→私、ここの工作人員ですが(ここの係りですが、)

(语感强弱不同造成的误译)

○(谈论某人找对象)她要求太高了。→彼女は要求が高すぎます。(理想が高すぎます)○(对来访客人)有什么要求请告诉我们。→何かご要求がおありでしたら、どうぞおっしゃってください。(ご要望)

○学习上有什么困难吗?→勉強に何か困難がありますか。(困ってることがありますか)

(纯粹照搬误译)

○他俩关系好。→あの2人は関係がいい(仲がいい)

○那俩口子感情很好。→あのご夫妻は感情がとてもいい(仲がとてもいい)○她是什么地方的人?彼女はどこの地方の人です。

○这本月刊很受广大的读者欢迎。→この月刊誌は広大な読者に人気があります。(広範な読者に)

○为了慎重起见,还是问一下吧。→慎重のために、問い合わせましょう。(念のために)○我今后一定改正错误。→これから必ず誤りを改正します。(正します、直します)○听说这家宾馆服务周到。→このホテルはサービスが周到だそうです。(サービスが行き届いているそうです)

(三)成语和惯用语译法探讨 ●日语成语、惯用语的翻译

1、与汉语成语、惯用语完全对应的

我国的文化很早以前就传入日本。日本人不仅利用汉字创造了自己的文字,吸收了大量汉语词汇,也吸收了相当多的汉语成语和惯用语。这种借用汉语而成的成语或惯用语,翻译时还其原来面目就行了。例如:

汗馬の労(かんばのろう)

汗马功劳

孤城落日(こじょうらくじつ)

孤城落日

四面楚歌(しめんそか)四面楚歌

牛耳を執る(ぎゅうじをとる)执牛耳

杞憂(きゆう)杞人忧天

玉砕(ぎょくさい)玉碎

死して後已む(ししてのちやむ)死而后已

短を捨て長を取る(たんをすてちょうをとる)舍短取长

洛陽の紙価を高む(らくようのしかをたかむ)洛阳纸贵

良薬は口に苦し(りょうやくはくちににがし)良药苦口

① この際とくに百聞は一見に如かずという昔からのことわざをかみしめてみたい。

此刻尤其希望体会一下“百闻不如一见”这句谚语的意思。

② 彼は日本チームと中国チームの試合を手に汗を握ってみていた。

他看日本队和中国队的比赛时,手里捏把汗。

③ このことは、おそらく絵にかいた餅に終わってしまうだろう。

此事大概要落个画饼充饥的结局。

④ わが軍にとりかこまれた敵はいま、四面楚歌である。

被我军包围的敌人现在处于四面楚歌的境地。⑤ 日中両国は一衣帯水の隣邦である。

日中两国是一衣带水的邻邦。

2、与汉语的成语、惯用语部分相对应的

日语有一部分成语和惯用语是借用汉语成语、惯用语的部分用词或意思创造而成;有一些则与汉语类似的成语、惯用语意思相同。这类成语和惯用语可译成汉语的成语和惯用语。例如:

金城鉄壁(きんじょうてっぺき)

铜墙铁壁 一石二鳥(いっせきにちょう)

一箭双雕 日常茶飯(にちじょうさはん)

家常便饭 一心同体(いっしんどうたい)

同心同德

頤で人をつかう(あごでひとをつかう)

颐指气使 同じ穴の狢(おなじあなのむじな)

一丘之貉 馬の耳に念仏(うまのみみにねんぶつ)

对牛弹琴

頭隠して尻隠さず

掩耳盗铃;顾前不顾后 開いた口へ牡丹餅

天上掉下馅饼来,坐享其成 顔にどろを塗る

往脸上抹黑

① 彼は目をさらのようにして実験の結果を見つめていた。

他眼睛睁得铜铃一般看着实验的结果。② 三人は、思わず顔を見合わせた。

三个人不由得面面相觑。

③ 元来ならおれが山嵐(箭猪,野猪)と戦争を始めて、しのぎをけずってる真ん中へ出て、堂々とおれの肩をもつべきだ。

照道理,在我和“野猪”开始打仗、白刃搏斗的时候他应该挺身而出,堂堂正正助我一臂之力。

④ 食糧と水は我々にとって命の網である。

粮食和水对我们来说是命根子。

⑤ 彼は学校からの帰り道で夕立にあってずぶぬれになった。

他从学校回来的路上遇上骤雨,淋得象落汤鸡似的。

3、译成汉语同义、近义的成语和惯用语

日语有一部分成语、惯用语在形象、含义或比喻方面与汉语的成语、惯用语极为类似,翻译时可以译成汉语同义或近义的成语和惯用语。例如:

袋の中の鼠(ふくろのなかのねずみ)

瓮中之鳖

鬼に金棒(おににかなぼう)

如虎添翼

寝耳に水(ねみみにみず)

晴天霹雳

いちかはちか

孤注一掷

団栗の背くらべ(どんぐりのせいくらべ)

半斤八两

蝦で鯛を釣る(えびでたいをつる)

抛砖引玉

軍を見て矢をはぐ(いくさをみてやをはぐ)

临阵磨枪

急がば廻れ(いそがばまわれ)

欲速则不达

釈迦に説法(しゃかにせっぽう)

班门弄斧

地獄の沙汰も金次第(じごくのさたもかねしだい)

有钱能使鬼推磨

三人寄れば文殊の知恵(さんにんよればもんじゅのちえ)三个牛皮匠,凑个诸葛亮

喉元過ぎれば熱さを忘れる(のどもとすぎればあつさをわすれる)好了伤疤忘了痛

飼犬に手を噛まれる(かいいぬにてをかまれる)

恩将仇报

塵も積もれば山となる(ちりもつもればやまとなる)

积少成多,集腋成裘 土人形の水遊び(つちにんぎょうのみずあそび)

泥菩萨过江——自身难保

① 消防自動車がついたときは、もうあとのまつりだ。

消防车开到地时候已是马后炮了。

② 汚職事件はつぎつぎに摘発されて、社長は苦虫をかみつぶした

由于贪污事件一个一个被揭露出来,经理真是愁眉苦脸,十分难看。

③ 彼は五年間日本語の勉強をして、どうやら玄関口からお座敶へ進めた恰好である。

他学了五年日语,总算到了登堂入室的地步。④ お説教は私にとって暖簾に腕押だ。

您的规劝对我来说是擀面杖吹火——一窍不通。⑤ なんども手紙を出したが梨のつぶてだった。

多次写信,犹如石沉大海,杳无音信。⑥ 猫もしゃくしも誰でもいい。

不论张三李四,谁都可以。

⑦ くちばしが黄色いくせになまいきだ。

你乳臭未干还这么狂妄。

4、意译

日语有一部分成语和惯用语汉译时很难找到与之相应的汉语成语或惯用语。如果硬凑一个,反而不忠实于原文,不如意译。例如:

いざ鎌倉(いざかまくら)

一旦有事

芋を洗うよう(いもをあらうよう)

拥挤不堪

先棒をかつぐ(さきぼうをかつぐ)

打先锋

采配を振る(さいはいをふる)

指挥

太鼓判を押す(たいこばんをおす)

绝对保证

高飛車に出る(たかびしゃにでる)

采取强硬态度

詰腹を切らす(つめばらをきらす)

被迫自杀(辞职)

拍車をかける(はくしゃをかける)

加紧

後は野となれ山となれ

只顾眼前,不顾将来

① 途中で道草をくってはいけません。

不要在路上耽搁。

② 後悔する気持ちはつめのあかほどもない。

后悔的心情一点也没有。

③ へそをまげた太郎はクラブ活動に参加しなくなった。

闹了别扭的太郎不参加俱乐部活动了。④ 父の鶴のひと声で旅行は中止になった。

父亲一句话,旅行就吹了。

⑤ 丸い卵も切りようで四角というから、やりよう一つさ。

方材也可锯成圆材,事在人为嘛。

5、复制汉语成语和惯用语

日语有些词汇或词组,虽不是成语或惯用语,但翻译时为使译文简练、生动,也可以复制成汉语的成语或惯用语。当然,不是每个词或词组都能这样做,应联系上下文视修辞是否需要而定。例如:

① われわれ両国は切っても切れない関係にある隣国である。

我们两国是唇齿相依的邻邦。

② 一人、二人„„五人、十人と首相の前に、彼らはうなだれて詫びを入れてきた。

一个、二个„„五个、十个,他们都走到首相面前负荆请罪。③ 彼は酔うと冗長で、いわずもがなのことをいう。

他一喝醉就滔滔不绝,废话连篇。

④ 日本には、川へ每物が流れ込んで大騒ぎとなることがよくある。

在日本,毒品流入河内,往往闹得不亦乐乎。

⑤ どこの果てへ行ったって、のたれ死にはしないつもりだ。即使流浪到天涯海角,我想也不会就饿死在路旁。

⑥ 請合ったことを裏へまわって反古にするような、さもしい了見は持ってるもんか。

一旦答应了的事,还能够翻手为云复手为雨,起那种龌龊的心思吗!⑦ 色は浅黒い、輪郭の正しい立派な男。

黝黑的皮肤,五官端正,仪表堂堂。

⑧ よしゃ自分が独り者であったとしても、どうも喜助のような心持にはなられそうにない。

自己纵孑然一身,恐怕也不会产生喜助那种心情。

●汉语成语的日译

如能找到日语中意义相同的或相近的成语、谚语或惯用语自然是最为理想。但若无法做到两全其美,则宁可失去形式上的对应效果,也要保证原文意义的准确转达。

(1)然而,即将走马上任的总统也面临一系列棘手的难题。首先,目前的美国的经济势头“既可载舟,亦可覆舟”。

試訳:だが、新大統領も多くの頭の痛い問題を抱えている。まず。アメリカの経済がにっちもさっちもいかないことである。

(2)所以,在危险的冰雪地区行军,必须遵守一个原则:早出发、早营宿。稍有懒惰拖拉,就有可能造成“一失足成千古恨”的悲惨结局。

試訳:危険なクラスト地帯を行軍するには、早く出発して早く宿営すること、この原則を忘れてはならない。尐しでもだらけたりもたもたしたりすると、「取り返しのつかない」大惨事を招くことになる。

(3)四层的439室,住着6名历史系的女生。谈起入学考试,她们无不感叹道:“这真是千军万马争着挤过独木桥”,“简直就像打仗一样”。

試訳:四階の439号室には歴史学部の女子学生が六人止まっている。入試のことに触れたとき「千軍万馬が一本橋に殺到するようで」、「まるで戦争みたいだった」といった。(4)“不孝有三,无后为大”。在重视孝道的中国传统社会,这句格言充分反映了人们对生

育子女的重视。試訳:「不孝には三つあり、後継ぎがないのがもっとも大きなことである」。親孝行を重んじる中国の伝統的な社会では、この格言は、人々が子供を生むことをいかに重要視していたかをよく示している。

(5)这个体育记者不光会“纸上谈兵”,打拳倒也挺上路子。

試訳:スポーツ貴社だから文字の上での兵論に長じているのは言うまでもなく、実技も堂に入ったものでした。

(四)敬语的译法探讨(20070508)

由于日本长期闭关自守、封建锁国等原因,形成了严格的君臣、主从、上下、夫妻、男女之间的尊卑和亲疏的等级关系,日语中表现这些关系的敬语相当发达。时至今日,敬语在日语口语中仍颇为流行,在书面语言中也屡见不鲜。日语中的敬语可分为尊他、自谦和郑重三类,现代汉语无如此明显的划分,因此日语敬语的翻译也是日汉翻译的一大难点。

日本語の敬語

会话常见敬语表达举例:

どうぞよろしく。

请多关照。こちらこそ。

不敢当!ようこそ。

欢迎欢迎!ほんとうに恐れ入ります。

实在不敢当。久しぶりですね。

好久不见了!ごめんください。

有人吗?(劳驾)いらっしゃいませ。

您来了!奥へどうぞ。

里边请。

では、おじゃまします。

那么,打搅您了。では、そろそろ失礼いたします。

那么就要告辞了。まだよろしいではありませんか。

还早哪!またいらっしゃい。

请再光临!

ごちそうになりました。

谢谢您的盛情招待。ご親切にどうも。

太周到了,谢谢。お愛想なしでした。

招待不周。申し訳ありません。

很抱歉。よろしくお伝えください。

请代我问好。

书信常见敬语表达举例:

まずはお願いまで。

盼予协助,谨此奉求。取り急ぎお知らせまで。

匆匆。谨此告知。お体をおだいじに。

望多保重。右ご返事まで。

谨此奉复。さようなら。

再见。再谈。ではまた

再见。再谈。草草

草草 敬具 谨启

敬白

谨白,谨启

敬语在句子中的译法举例:

どうぞお茶をめしあがれ。请喝茶。

お読みになったら、もとの所にもどしておいてください。看完了请您放回原处。

私の言うことが、おわかりになる時がきっとくると思います。我想有朝一日您一定会明白我的话。その本がお済になりましたら、恐れ入りますが、二三日貸していただけませんでしょうか。那本书您看完以后,借给我两三天好不好?

ご到着の時刻を電報でお知らせてください。駅までお迎えに参ります。请您把到达时间打电报告诉我,我到车照接您。せがれめをつれてまいりました。我把犬子带来了。

あの方には美しい娘さんとりっぱな息子さんがおられる。那位先生有一个漂亮的姑娘和一个有出息的儿子。

“ただいまご乗車の方、切符をお持ちですか。お持ちでない方はおもとめください。” “まがります。みなさんしっかりおつかまりください。お年寄りは特にご注意ください。” “刚上车的几位有票吗?没票的请买票。”

“车要拐弯了,请您扶好,老大爷,老大娘要特别注意。”

译日汉作业

参考答案

拝啓

この度は競争率の激しい東京外国語大学に御入学なされたとのこと、ほんとうにおめでとうございます。貴兄はもちろんのこと、御両親も、さぞお喜びになられたことと思います。

これはこれまでの貴兄のご努力の結果によるものと、深く敬服いたしております。今後

とも益々御勉強をなさって、優秀な成績を取られることをお祈りいたします。それから、今までは受験勉強でだいぶ無理が続いたと存じますが、これからは、健康にも十分に御留意下さるように、お願い申し上げます。

敬具

敬启者

此次您能考入竞争率很高的东京外国语大学,实在值得祝贺。您本人自不必说,您的双亲相比也很高兴吧。

这是您不懈努力的结果,我们深表敬佩。预祝您今后更加勤奋学习,取得优异成绩。另外,我们知道您为应付此次考试而过度劳累,望您今后多多注意身体

谨启

(五)否定句的译法

否定句的表达方法:

誰一人~ない/何も~ない/~う(よう)とは~ない/まったく~ない/ちっとも~ない/絶対に~ない/決して~ない/必ずしも~ない/まんざら~ない(不一定„„,并不完全„„)/~わけにはいかない/ほとんど~ない/~ないことはない/~かねない/一向~ない/まさか~ない(决不„„,万万想不到„„)/あえて~ない/まず~ない 等等

1、全面否定:完全否定,不包含任何肯定的语气。

○誰一人帰ってくるものはなかった。

○何か食べ物はないかとあちこち探したけれど、どこにも何も見つからなかった。○あなたにまたお会いしようとは夢にも思わなかった。○今日は運動をしないから、ちっともおなかがすきません。○彼は家を出てから何とも返事をしなかった。

2、部分否定:不是整个句子意思的全面否定,而是否定某一部分或大部分,在语气上和全面否定有差别。

○輝くものは必ずしも金ならず。

○白髪(しらが)は老齢のしるしとは限らない。○こんなチャンスは毎日あるわけじゃない。○この問題ができた学生はほとんどいなかった。

○彼は金をほとんど本に使うが、買った本を全部読むわけではない。

3、双重否定:就是否定的否定,肯定的意思。日语里这种表达很常见,汉译时可译成否定的否定,也可译成肯定的语气。但两种译法的语气有微妙的差别,因此,在翻译某些科学文献、外交文书等要求比较准确地文件时,宁可采用否定的否定的译法,以达到不折不扣地忠实原文的目的。

○世の中で過ちを犯さない人はない。(世上没有不犯错误的人/世上谁都会犯错误)○バスが通っていない村はないくらいです。(不通公共汽车的村子几乎没有/几乎村村都通公共汽车)

○年をとっても学べぬことはない。(上了年纪也不是不能学习/上了年纪也能学习)○最善を尽くさなければその賞を得ることはできない。(不尽最大努力就得不到那个奖项/只有尽最大努力才能获得那个奖项)○あのことは彼と無関係ではない。(那件事和他不无关系/那件事和他有关)

4、注意点

日语否定表达的翻译在日汉翻译中经常会碰到。常见的翻译错误主要出现在带有状语成分修饰否定的谓语句子里。译者由于没有把握全局,没有把否定看成是贯穿全句的,其状语本身也是受否定语气制约的。

○あの人のように贅沢な生活はできない。(象他那样,不能过奢侈的生活/不能象他那样国奢侈的生活)

○教室でスリッパのまま歩けないように。(在教室里穿着拖鞋,请不要走/请不要在教室里穿着拖鞋走动)

○彼は先生の言うとおりしなかった。(他照老师说的那样,没有去做/他没有照老师说的那样去做)

○王さんは夜九時まで勉強しなかった。(小王到晚上九点还没学习/小王没有学习到晚上九点)

○健康ほど大切なものはない。(象健康那样,没有重要的东西了/再没有比健康更重要的了)

(六)被动句的译法

从形式上看,日语的被动句大致有以下5种:

1、~は~に~れる・られる

先生は私をほめた→私は先生にほめられた

2、~は~(に)~を~れる・られる

妹は私の手紙を読んだ→私は妹に手紙を読まれた。

3、~が(は)~れる・られる

討論会が行われた。

4、~は~に自動詞+れる・られる 私は雤に降られた。

5、~と言われる(~と見られる・考えられる)

常用翻译方法

1、译出“被”字或相近的其他字。

○一匹の犬が自動車にひき殺された。○太郎は父に殴られた。○隣の子供は蜂に刺された。○私は昨日雤に降られた。

○太陽の光は黒い雲に遮られてしまった。○地球の外側は大気によって包まれている。○李さんはあの人に足を踏まれた。

当被动句含有得“利”的语气时,多用“受”“得”等字表达,尽量避免使用“被”字。○彼は先生にほめられた。

○彼は全国人民に尊敬されている。○海外でも高く評価されている。

○この工場の製品はずっと大衆から喜ばれている。○私は強く李おじさんの話に打たれた。○その作品は人々によく知られている。

2、不译“被”字。

句式3在各类文章中都常有所见,由于句子中表示动作对象的补语不必说出,或者泛指一般人或事物,而主语或主题多是没有生命和感情的事物,因此,汉译时可以不用“被”字表达,有些可译成汉语的无主句。○国連総会が開かれた。

○この同盟はおそらく三週間後に調印され、公表されるだろう。○話し合いによって、両国の紛争が解決された。○このダムは1954年に作られたのです。

○観察の期間を通じて、異常は見出されなかった。○工場の煙突から黒い煙が吐き出されている。

○パンダと呼ばれている動物は中国にしかいない。○窓にカーテンがかけられている。

3、译成主动句

原句是被动句,译成汉语时变为主动句,大致有两种情况:一是为了使上下文语气连贯、译文符合汉语表达习惯;二是有些带有表示动作发出者的补语的被动句,翻译时可以译成主动句,把原句中的表示动作发出者的补语译成主语。

○久留米の顔には、既にサングラスがかけられていた。

○だめやだめやと言われて、俺は育ってきたもの。新聞にのるまでは、俺は誰からも人間らしく扱われたことなかった。気楽でよかったけど。○そのうちにやっと気がついてみると、僕は仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていた。(好容易醒过来,睁眼一看,我仰面朝天躺着,一大群水虎簇拥在我周围)

○山田さんは中国の友人から絵を一枚贈られた。

○私はお医者さんに病気が治るまで薬を飲むように言われました。○彼は先生に教室で煙草を吸わないように注意されました。

○彼女は王さんから「一緒に映画を見に行きましょう」と誘われた。

4、习惯译法

~と言われている・見られている・されている・伝えられている… →据说、看来、一般认为、据称、人们认为

○ あした衆議院の選挙が行われると言われている。

○ 日中の正常化は第三国に対するものでなく、アジアに覇権を求めるものでもないとされている。

○ 日中貿易はこれから更に拡大すると見られている。

~と見られる・思われる・考えられる→多被看作是自发助动词,表示说话或写文章的人抑制不住自己的感情而自然而然地发生的动作行为。翻译时一般可用“看来”表达,有时可以不译。

○このような記事が両国の友好関係の増進に寄与すると思われない。

5、意译

在忠实于原文意义的前提下进行意译。在文学作品中讲被动句进行意译的情况非常多。○ わが国の東北は世界中に大豆の出産地として知られている。○ 日本列島は海によってとりかこまれている。

○ 彼は1930年24歳で人々から惜しまれながら世を去った。

(七)使役句译法探讨

日语使役表达译法探讨:

1、译出“使”字或相近的其他字。(让、派、令、允许)

当使动句中的补语或宾语(使役的对象)因受主语或主题的影响而发生相应的动作或作用时,应译出“使”的概念或相近的其他字。

○先生は学生に本を読ませたり、字を書かせたりします。○私は病気をして、親を心配させました。

○代表になってからの彼の言動は我々を失望させた。○明日の会議には私は急用ができて出られませんので、代理の者を出席させます。彼に答えられないことがあったら、ここへ電話させてください。○おじいさんはよく子供たちに面白い昔話をして聞かせる。○彼女はやっと末の息子に大学を卒業させた。○それがふと三好に懐かしさを覚えさせた。○彼に言わせると、午後会議があります。○秋は寂しさを感じさせる季節だ。

○新聞社では若い記者にそうして田舎おちさせるの決まりになっている。○考えさせていただきます。

2、省略不译。

日语中有些自动词加上使役动词后相当于一个他动词,此时无须也无法译出“使”字。

○経済を発展させる。○貿易を拡大させる。

○遅れた姿を一変させる。○敵を孤立させる。○侵略者を敗北させる。○外国の軍隊を撤退させる。○開会を知らせる。○わけを聞かせる。○子供を驚かす。

3、译成汉语的其他形式

有些使役句译成“使”的形式后有些生硬,不符合汉语表达习惯,可根据上下文改译成主动形式。

○誰に言わせても、彼の言うことは正しい。谁都认为他的话是对的。让谁说他的话也是对的。

○落胆が彼にウィスキーを煽らせた。由于沮丧,他把威士忌一饮而尽。沮丧使他喝光了威士忌。

○彼は「当分、資金は心配いらん、五十万円ぐらいは、わしにあるからな」と言って、幹部たちを唖然させた。他说:“眼下不比担心经费,因为我手头有50万日元左右。”干部们听了这番话后都目瞪口呆了。他说:“眼下不比担心经费,因为我手头有50万日元左右。”使干部们不瞪口呆了。○中国側は三人の医師を派遣して治療に当たらせた。

中国方面派三名医生担任治疗。

4、关于“„てもらう”“„せ(させ)てもらう”的译法。

「てもらう(いただく)」是“使、让”的客气、尊敬的表达形式,汉译时一般以“请”字表达。「せ(させ)てもらう・いただく」表示说话人请求别人给自己做某事或请别人允许自己做某事,也是比较客气、尊敬的表达形式,汉译比较灵活。○早く医者にみてもらったほうがいいですよ。○私は兄に字を書かせてもらった。○ご意見を聞かせてもらいたい。○その本を見せてもらいたい。

○閣下のご健康のために乾杯させていただきます。○明日、休ませていただきます。○―为任は今、会議です。

―じゃ、会議がすむまで、ここでまたせていただきます。

5、使役被动句「~は~(に)~をせられる・させられる」的译法。

这种句型表示句中主语(或主题)的动作并非出自自愿,而是受客观或他人所迫,不得已而那样做。在译法上,或改变原句主语(主题)译出,或按原句主谓关系译出。○彼はこの計画の内容を王さんからも李さんからも聞かされていない。小王和小李都没有告诉他这个计划的内容。他没有从小王和小李那里听到这个计划的内容。○弟は父に煙草を買って来させられました。

父亲叫弟弟买来香烟

○好きでやったのではありませんよ。やらされたのです。不是我喜欢干的呀,是人家让我干的。

汉语使役句的日译方法。

1、汉语使役句(使、叫、让)的基本译法:译成日语的使役句「せる・させる・しめる」

例1:要使全体青年们懂得,我们的国家现在还是一个较穷的国家,并且不可能在短时间内根本改变这种状态,全靠青年和全体国民在几十年时间内,团结奋斗,用自己的双手创造出一个富强的国家。

試訳:わが国は今なお貧しい国であり、しかも、短期間ではこの状態を根本的にあたらめることができないこと、もっぱら青年と国民が数十年にわたって団結して奮闘し、自分たちの両手で富み栄えた、強大な国をつくりあげるのによたるほかはないこと、このことをすべて青年たちに理解させなければならない。

例2:虚心使人进步,骄傲使人落后。

試訳:謙遜は人を進歩させ、うぬぼれは人を落後させる。

例3:老师让学生独立思考。

試訳:先生は学生に自分で分かるまで考えさせる。

例4:工厂主迫使童工从早到晚地劳动。

試訳:工場为は未成年工を朝はやくから晩おそくまで働かせた。

2、其他译法

①译成「„(する)ようにする」

有的汉语使役句并非不可以译成的「~が~に~せる・させる」格式,但是这样翻译不太像日语。

例5:使国民经济沿着正确的轨道、持久地向前发展。

試訳:国民経済を正確な軌道にそって、持続的に発展するようにしなければならない。

例6:这样,帝国主义在侵略我国的时候,就会使他们寸步难行。

試訳:そうすれば、帝国为義がわが国を侵略したとき、かれらを身動きできないようにすることができる。

②译成「それによって」「こうして」

有些使役句,常常是两个分句,前句是前提,后句是结果。此时使役表达可以译成「それによって」「こうして」等。

例7:你们妄想在我国边境地区组织叛乱,只不过使我国各族人们可以进一步擦亮眼睛,肃清特务,彻底消灭叛匪。

妄想:夢見る 边境:国境・辺境

组织:起こす 只不过:~だけである 擦亮眼睛:目を見開く 肃清:一掃する

試訳:君たちはわが国の国境地区で反乱を起こそうと夢見ているが、これによってわが国各民族の人々は一層目を見開き、特務を一掃し、反乱匪賊を徹底的に消滅するようになるだけである。

例8:„„取得了社会主义革命和社会主义建设的伟大胜利,使我们祖国的面貌发生了空前巨大的变化。

試訳:……社会为義革命と社会为義建設の偉大な勝利を勝ち取った。こうして我々の祖国の姿には、これまでにない大きな変化が起こった。

③译成「によって„」句式。

例9:社会实践的继续,使人们在实践中引起感觉和印象的东西反复了多次,于是在人们的脑海里起了一个认识过程中的突变,产生了概念。試訳:社会実践の継続によって、人々に実践の中で感覚と印象を引き起こさせるものが何回となく繰り返されると、人々の頭脳の中で認識過程における質的激変が起こり、概念が生まれる。

④译成「„„するには」句式

例10:要使我国富强起来,需要几十年艰苦奋斗的时间。

試訳:わが国を豊かにし、強くするには、数十年という刻苦奮闘の時間が必要である。

例11:情况是在不断变化的,要使自己的思想适应新的情况,就得学习。

試訳:状況は絶えず変化しており、自分の思想を新しい状況に適応させるには、学習をし

なくてはならない。

⑤译成「„ように„」「„ために„」的句式。

有的使役表达,以使役介词为界,后一部分表示前一部分的目的,此时可以使用倒置的译法,译成「…ように…」「…ために…」等句式。

例12:这一方法必须普遍地提倡,使所有员工都能学习使用。試訳:従業員がみなこの方法を身につけるように、この方法を広く提唱しなければならない。

例13:把他的毛病治好,使他成为一个好学生。試訳:よい学生になれるように、その病をなおす。

(八)专有名词的译法探讨

在汉译日中,专有名词大致可以分两类:(1)以汉语为原语的专有名词(2)以其他语言为原语的专有名词

(1)的翻译相对简单,此处从略,至于(2)的翻译

翻译原则:避免转译,避免把这一类的专有名词从中文中转译成日文。比较稳妥的说法是查找原文的母语说法,然后再根据母语说法,确定日语的译名,或直接查阅日文有关资料,找出日语的标准译法。关于原文的母语说法的查找方法,可以充分利用因特网的搜索引擎。

例1 张建一演唱的歌剧《艺术家的生涯》,人们一致认为这位“鲁道夫”非常洒脱和迷人。不仅意大利人的感情,还有中国人的诗意。

《艺术家的生涯》→芸術家の生涯 ? 鲁道夫→

ルドフ

試訳:オペラ「ボエーム」の中で張建一が演じたロドルフォは、イタリア人の感情と、中国人の詩情がこもっていて、うっとりさせられると評判になっている。

例2 瓦尔纳国际芭蕾舞比赛是目前国际芭蕾舞比赛中影响最大、声望最高的赛事之一,也是得到联合国教科文组织承认的四大赛区(此外还有俄罗斯的莫斯科、美国的杰克逊、芬兰的赫尔辛基)中历史最长的一个。

联合国教科文组织→連合国教育・科学・文化組織 ?

→UNESCO(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization)

→ユネスコ/国連教育科学文化機関/国際連合教育科学文化機関

試訳:バルナ国際バレエ・コンクールは、国際バレエ界で最も影響が大きく、最も人気の高いコンクールの一つで、ユネスコの認めている四大開催地(ロシアのモスクワ、アメリカのジャクソン、フィンランドのヘルシンキ)の中では一番歴史が古い。

例3 伦敦《吉尼斯世界纪录大全》曾把英国钢铁公司前一年亏损近40亿美元列为当时世界钢铁业亏损之“最”。

吉尼斯世界纪录大全→ギネス世界記録大全 ?

→Guinness Book of Records →Guinness Book →ギネス・ブック

試訳:イギリス鉄鋼会社は1年前、四十億ドルの赤字を出し、『ギネス・ブック』から世界鉄鋼業界最大の赤字会社のお墨付きをいただいた。

例4 大殿旁的侧殿里,有松赞干布和文成公主、尺尊公主的雕像。文成公主雕像是典型的唐代美人。

松赞干布→松赞干布 ?

→Sron-bstan sgam-po →ソンツェンガンポ 尺尊公主→尺尊公主 ? →Khridbstun→ティツン

試訳:本堂の脇の建物に、ソンツェンガンポと、文成公为、ティツン公为の彫像がある。彫像の文成公为は典型的な唐代美人だ。

(九)外来语译法探讨

1、关于外来语

日本語は外来語(カタカナ表記の外来語を意味する)の量が多い言語であるが、特に科学・技術分野においては英語からの外来語が多用される。説明書やコンピュータ関係の文書では外来語の頻度は異常なまでに高く、日本と取引のある技術職に就く理系出身者や技術翻訳の仕事をする日語系出身者にとっては外来語の理解は重要である。

●外来語の文法

日本語の「外来語」には、昔の中国語からの膨大な漢字語彙をはじめ、さまざまな言語

から入ったものがあるが、近年は英語から入ってくる外来語が圧倒的な量を占める。

外来語はごく尐数の例外を別として、名詞・動詞・形容動詞となる。意味によって品詞が決まり、元の英単語での品詞と対応していることが多い。動詞は「~する」、形容動詞は「~な」であるため、基本的には一旦名詞として日本語に取り込まれるとも考えられる。

発音は英語での発音を比較的近い日本語の音で表したものと、英語表記をローマ字読みしたものがある。量は前者が多数を占め、後者は古い外来語であることが多い。

●英単語から外来語へ

英単語から外来語を作る規則は日本語の音素の数が英語よりも尐ないため、比較的規則化しやすい。基本的に英語の発音記号から変換を行う。

・母音の変換

対応する母音に変換していく。曖昧母音(schwa)は対応が一定ではないが、表記に影響されて決まることが多い。

・子音の変換

対応に従って変換するが、-ng → ~ング、-破裂音(p,t,k,d,g,ch,sh等)→ ッを挿入 などの規則にも従う。

・母音の挿入

日本語では(「ン」「ッ」を除くと)子音が連続しないため、子音連続があれば間に

-u-を挿入する。ただし-t は ~ト、-d は ~ド、-ch は ~チ、等の例外がある。ただし、発音する際には無声子音の間の母音の無声化によって母音が弱くなる。

●外来語から英単語へ

文章中に出てきた外来語を英単語に戻すには基本的に 3.の逆の作業を行うのであるが、音素の数は英語の方が多く、また母音の挿入や単語の切り分けなど不可逆の作業があるため、対応の可能性が複数となってしまい、規則だけで決定することは難しくなる。

実際には外来語から変換した音のいくつかの候補のうち、知っている英単語の発音に近いものはないかと探すことになるのだが、慣れにより、また変換規則の絞り込みによりある程度効率は上がっていく。

●翻訳作業における実用面

実用の際には外来語辞典やネット上の辞典を使うのが確実だが、外来語は辞書に載っていない新語が出やすいため、YahooやGoogleなどの検索を駆使して(「検索語」や「検索語+とは」で検索する、色々な関連語とともに検索する)、対応する単語・表記を探す方法が便利である。

2、日语中外来语的翻译

外来语的长处是便于表达新事物、新概念、新观点、新感受。在翻译外来语时,原则上应忠实地传达出原来的语气,使之具有时代感和新鲜感。

○彼女は地方の高校を出て、東京のレストランのウェートレスとして働いている。她从外地的高中毕业,在东京当餐馆里的女招待。

○トーストとコーヒーで軽く朝食、テレビかラジオのスイッチを入れて、目ぼしいニュースを聞き、それからバスや電車でオフィスへ……というのが、平均的サラリーマンの生活パターン。というわけで、我々の身の回りに、なんと外来語が多いことだろう。

早餐吃点烤面包片,喝点咖啡,打开电视机和收音机,收看或收听新闻,然后坐公车或电车去办公室„„这就是一般职员的生活方式。由此可知,在我们身边,外来语真多啊!

○アメリカに講義して、「ヤンキー・ゴーホーム」のプラカードがいたるところに見られる。

想过抗议“美国佬,滚回去!”的标语牌,触目皆是。

有的外来语词汇本身是个多义词,词典上可能有解释,也可能没有解释,因此,最好对照一下原文查找一下原文词典。但要注意,由原文转换成日语外来语的词汇,其意思可能有出入。

○もうこれで万事オーケーの積もりでいるのよ。我认为这就完事大吉了。

○しかし、情報はやたらにキャッチしても、それを正確に覚え、正しく理解しておかないとナンセンスだ。

但是,即使截获大量信息,如果不能准确记忆、正确理解,也是没有用处的。

○いつでも、誰とでも、うまいお喋りができれば、それはもうプロの世界だ。如果在任何时候,对任何人都能巧言善辩,那就可以说是个行家了。

由于外来语词汇能及时反映新鲜事物和新颖、时髦的东西,因而常见之于报纸、杂志、商业广告以及某些科技文章中。这类词汇在一般词典甚至外来语词典中找不到,基本上都要经历一段时间之后,可能以“最新用语”的形式收录在某些词典或专业书籍中。在翻译这类词汇时要设法查找出原文。可以借助原文词典,或者利用因特网的搜索引擎以及网上词典等。

○先日、内田経企庁長官が、「日本経済はジレンマではなく、クアトリレンマだ」という挨拶をしていた。インフレ、失業、福祉、国際収支を挙げている。クアトリレンマ(Quatrilemma): 四重苦

试译:前几天,经济企业厅长官内田讲话时说:“日本经济不是进退两难,而是进退四难。”他指出的四难是:通货膨胀、失业、福利和国际收支问题。

○日大ギャング事件犯人山際を逮捕「オー、ミステーク」 日本大学抢劫事件的犯人山际被捕,山际说:“啊,我失策了。”

○自宅での仕事を可能にするテレワーク人口の倍増を目指すなど、世界最高水準の高速インターネット基盤を戦略的にフル活用し、生産性を大幅に向上させます。

テレワーク(teleworking)→通信ネットワークを利用して、オフィス以外の場所で働く労働形態のこと

Teleworking 远距离工作

试译:战略上充分利用全球最高水平的高速英特网基础,大幅度提高生产能力,让可以实现居家工作的远程工作人数翻番。

○2010年までにフリーターをピーク時の8割に減らすなど、女性や高齢者、ニートやフリーターの積極的な雇用を促進します。

フリーター:フリー-アルバイターの略→freeter? Freeter→Freeter这个词在日本和台湾地区是非常风行的职业方式,音译过来就是“飞特族”,是英文“自由”与德文“劳工”的组合字。

ニート:イギリスにおいて、雇用から離れ、教育も職業訓練も受けていない若者をさす新語。「Not in Employment, Education or Training」という英語の頭文字をとっている。日本でいうフリーターは正式に定職にはついていないものの、労働によって賃金を稼いでいる。しかし、就職意欲がなく働かないという点が、ニートはフリーターと大きく異なる。

所谓NEET,NEET(即Not in Education,Employment or Training的缩写),一个新鲜的英语单词,被引入日本,专指既没有在上学或工作,也没有在接受任何职业培训的人。“啃老族”“尼特族”

试译:鼓励积极雇用妇女、高龄人员、啃老族和飞特族,到2010年,实现飞特族人员减少至顶峰时期的8成左右。

○自動車燃料にバイオエタノールを利用するなど、バイオマスの利用を加速化します。

バイオエタノール:サトウキビやトウモロコシなどのでんぷん系バイオマス(生物資源)や、木材・古紙などのセルロース系バイオマスといった、植物に含まれる糖を発酵・蒸留させてつくるアルコールの一種。バイオ→bio エタノール→ethanol →bioethanol →生物乙醇 バイオマス:[biomass] 生物量 ? →バイオマスとは?

生物資源(bio)の量(mass)を表す概念で、「再生可能な、生物由来の有機性資源で化石資源を除いたもの」です。→生物质

试译:加快生物质的利用,如在汽车燃料上利用生物乙醇等。

○かつて、品質の悪い商品の代名詞であった「メイド・イン・ジャパン」のイメージの刷新に取り組んだ故盛田昭夫氏は、日本製品の質の高さを米国で臆せず为張し、高品質のブランドとして世界に認知させました。メイド・イン・ジャパン→made in Japan

试译:过去,“日本制造(made in Japan)”曾经质量低劣的商品的代名词,已故圣田昭夫先生致力于改变这样的印象,他在美国大胆地主张日本产品的高质量,让世界承认日本产品是高质量的牌子。

盛田 昭夫(もりた あきお、1921年1月26日-1999年10月3日)は、技術者、実業家、ソニー創業者の一人

(十)定语成分和定语句译法探讨

可作定语的有:词、词组、句子

词、词组作定语的,汉译时一般变动不大 由较长的从属句构成的定语,汉译时宜变动处理

1、由词充当定语

日语中能充当定语的词较多,如用言的连体形、连体词、少数副词等。这类定语很短,汉译时一般无需调整词序,照原样翻译即可。

○青い空に白い雲がぽっかり浮かんでいます。蓝蓝的天上飘着白云。

○日本の5月はさわやかな日和が続きます。日本的5月一直是爽朗的天气。

○自動車は曲がりくねった坂道をのぼっていた。

汽车在弯曲的坡道上爬行

※ 但是有一种情况需要调整词序:若在修饰成分中有一个逻辑上的主语(它后面的格助词用“の”)紧挨着被修饰语,则汉译时往往把它提到句首。

○世界の平和と安全に対するわが国の責任 我国对于世界和平与安全的责任

○戦争に対する我々の態度 我们对于战争的态度

○七日から十五日間太平洋岸で行われた海上自衛隊の演習 海上自卫队自七日起在太平洋沿岸举行的为期十五天的演习

2、由词组充当定语的句子

由各类词组充当定语的句子,汉译时一般也无需调整词序。

○頭の痛いときには、この薬がよく効きますよ。头痛的时候,这种药可很有效呀!

○大学を卒業した李さんは、今、ある中学校で英語を教えている。大学毕业的小李现在在一家中学教英语。

○あまい、すっぱい、にがい、しおからいなどの味は、舌のどの部分でも同じように感じるのだろうか。

甜、酸、苦、咸等味道,是否在舌头的任何部分都同样能感觉出来呢?

○広州へ行く人はこちらにいらっしゃい。去广州的人请到这边来!

3、由从属的句子充当定语的句子

日语中的限定性定语从句都位于所修饰的中心词之前。如果从句和它所修饰的中心词在意思上密切联系,结构又很紧凑,从句又不是过长,则汉译时无需调整词序,照原样译出即可。

○私たちがふだん使っている銀貨と銅貨は、みんな丸い形をしている。我们平常使用的银币和铜币都呈圆形。

○キュリー夫妻がラジウムの検出に成功したというニュースは全世界に広がっていた。居里夫妇成功地发现镭元素这一消息传遍了全世界。

○季節風は日本人の生活や風俗のうえに、また、心の底に及ぼしている影響も尐なくありません。

季风对日本人的生活、风俗以及心理方面的影响都不少。

○彼女は医者になりたいという、かねてからの希望を実現するため、フランスへ行った。

○ぼくの夢は宇宙ロケットを研究し設計することです。

○漢字は、今から五千年ほど前に中国で生まれた文字で、その数はおよそ五万もあると言われている。

4、复杂定语的翻译

日语的政治、经济、军事性文章乃至某些文学作品中,常常会出现复杂的定语: 由几个各自独立、不相从属的词、词组构成的递加式的定语; 定语中又包含有自己的定语或状语。

复杂定语一般较长,汉译时如果照原来词序翻译,不做变通处理,译文往往生涩难懂。汉语的表达方式一般不采用那种带有很长定语的句子,文学作品更是如此。

如果定语成分比较复杂、句子很长、定语和中心词的关系较为松散、两者在意义上又有较大的独立性时,可作变通处理。方法无非是调整中心词的位置、或者拆散定语成分、化长为短,使之符合汉语表达习惯。具体可以分为以下几种情况:

(1)中心词位置移到前面,定于全部或大都移到后面

○経営規模の拡大に直結する精製施設や高品位製品をつくる重油脱硫措置と異なり、巨額の資金を食うばかりで企業にはなんのメリットもない石油備蓄に、石油界はきわめて消極的なのだ。

石油储备同兴建直接扩大经营规模的炼油设施,以及安装生产优质成品的重油脱硫设备不同,它只会吃掉巨额资金,而对企业没有任何好处。所以,石油业界对此十分消极。

○役人のなかにも、公害問題こそ権限強化と組織拡張の沃野(よくや)だと考え、世の中の反公害ムードを歓迎する者もあった。

在官员们当中,也有人认为借公害问题恰恰可以加强权利和扩大机构,因而欢迎社会上那股发公害的浪潮。

○海底油槽というのは、海中に沈められた超大型油槽群で、すでにあらぶ首長国連邦のドバイや地中海では実用化されている例がある。

所谓海底油库,是指设在海底的超级油库群。这早已有先例,比如阿拉伯联合酋长国的迪拜和地中海,已经实际应用。

(2)中心词的位置前移,定语移后,但中心词需借助标点,或改变词性,或适当加译才能引出下文。

○二十三面の最上段に「死の海に黒い魔液の追い打ち」という、黒地白抜きの大見出しが横たわっていたからである。

在二十三版头条横贯着一条通栏的黑底白字大标题:“黑色魔液袭击四海”。

○この同盟が実際に締結されれば、穏流のアラブ諸国やイスラエルなどを刺激するとの懸念も広まっている。

人们普遍担心,如果真正缔结这个同盟,将会刺激稳健派的阿拉伯各国和以色列等国。

○ちょうどその時、関西経営協会から、打ち合わせに、明日の午後やってくるという連絡が入った。

恰巧这时,关西经营协会来电话说,明天下午有人前来商量事情。

○オイルダラーはいまや世界の金融市場を席巻する勢いである。石油美元来势迅猛,现时正在席卷世界金融市场。

(3)定于和中心词的位置不变,按原词序拆译,同时视情进行适当的加译或减译。

○書きたいこと、聞いていただきたいこと、胸に溢れるほど多くありましても、日の迫りました今は、とても叶いません。

我心头有多少话要抒写下来,有多少话想禀告您,但如今启程的日期眼看就要到了,这个愿望也实现不了了。

○眠られず起きるなり三味線を抱いて、美智子が痩せた自分の腕を感じている時、速達が二通届いた。

美智子辗转不能成寐,一起身就抱着三弦,只觉得自己的胳膊变瘦了,这时,寄来了两封快件。

○父親は赤ら顔で、全体の体つきがなんとなくいかつい(粗糙、严肃)感じのする男だった。父亲是红脸膛,身体显得蛮粗狂。

(十一)状语成分及状语句的译法

1、由各类词和词组充当状语的句子

日语的副词、形容词及形容动词的副词法、数词、某些助词构成的词组、动词的连用形、用言的重叠、由用言构成的词组等,均可在句子中充当状语。汉译时一般无需进行大的变动。

○おばあさんはご飯をゆっくり食べている。○子供たちは楽しく歌を歌っている。○隣の部屋では妹が静かに眠っている。○明日はみんなで草取りをしよう。○三頭の馬が並んで走ってきた。○彼は昨日魚を五匹釣った。

○くりかえしくりかえし読んで暗記してください。○あの問題については異議がない。

※有些由副词构成的状语,译成汉语的补语更为通畅。○腹いっぱいにご飯を食べた。

肚子吃得饱饱的。/肚子很饱地吃了一顿。

○あの人は英語がうまく話せる。他英语讲得流利/他能流利地讲英语。

○よく晴れているので、景色が遠くまではっきりと見えます。

天气十分晴朗,景致很远都能看得清/天气十分晴朗,景致很远都能清楚地看见。

2、由其他成分充当状语的句子

日语除了上述词类及词组在句子中充当状语外,能够做状语的还有由接续助词、形式名词、惯用型等构成的表示时间、数量、成都、目的、原因、理由、条件等等词组。从属的句子也可充当状语成分。汉译时,有的不必调整词序,照原样译出即可,有的则应变通处理。

(1)状语照原词序、句序译出的句子

○僕は、かれが出掛けてから、目を覚ました。

○僕は、母が起こしてくれるまで、なにも知らずに眠っていたのです。○彼女は赤ちゃんが眠っている間に洗濯をしました。○このカメラを買うにはいくらかかりますか。

○お客さんが来るからはやく部屋の掃除をしておこう。

○考え事をしながら歩いていたら、自動車にひかれそうになった。

(2)应适当调整词序或句序的句子

○お金を受け取った証拠に、印を押した。

盖上图章,作为领到金钱的证据。/作为领到金钱的证据,盖上印章。

○昨日は、午前中は起きていたほどで、彼の病気はかなりよくなりました。他的病好多了,甚至昨天一上午都没躺着。/昨天他一上午都没躺着,他的病好多了。

○昨日は、セーターが要らないほど、暖かかった。昨天暖和的穿不住毛衣。/昨天穿不住毛衣那样地暖和。

○眠りたいだけ眠る。

想睡多久就睡多久。/照你想睡的那样去睡。○首相は親善訪問のために中国に赴いた。

首相前往中国进行友好访问。/首相为友好访问去中国了。

○私は、パスを取りに、家へ帰った。

我回家去取通行证了。/我为了取通行证回家了。

○分からない言葉を調べるのには、辞書を使います。

使用字典以查找不懂的词语。/为了查找不懂的词语而使用词典。

○裁判官は一方に偏った見方をしないで、中立でなければならない。

审判官必须中立,不要持偏袒一方的见解。/审判官不要持偏袒一方的见解,必须中立。

○この基地の存在は外部にはもちろん、国内でもまったく秘密にされている。

这个基地就连国内也完全保密,更不要说对外了。/这个基地不仅对外,就是在国内也完全保密。

○軍用機がいつでも発進できるよう、エンジンを噴かしている。

军用飞机一直开动着发动机,以便能随时起飞。/军用飞机为了能随时起飞而一直开动着发动机。

直してみましょう:

1、ほかならぬあなたの頼みだから、助けてあげよう。因为别人求你帮助,所以你就帮助他吧。

2、猿ほど木登りが好きな動物はない。象猴子那样,没有喜欢爬树的动物。

3、日本の夏はインドに比べたら暑いものか。日本的夏天比印度很热吧?

4、あんなスピードを出しては事故も起こしかねない。车子开那么快也不会出事。

5、あなたが大声を出したばかりに、子供が泣き出してしまった。你刚刚发出很大的声音,小孩才哭起来了。

6、東南アジアは日本にとって大切なお得意だ。东南亚对日本来说非常得意。

7、この鹿は誰にも見つからないように、人里をはなれた奥山の川岸のほら穴に住んでいました。

谁也没有看见这只鹿,它就离开村庄跑到深山河边掘个洞住下了。

8、われわれは武力で問題を解決する代わりに協議の精神による相互理解を为張する。我们主张代替以武力解决问题,靠协商精神相互了解。

9、特に最近、環境を汚染から守るために、住民運動が盛り上がっています。特别是最近,为了从污染保护环境,居民运动高涨起来。

10、風邪が原因で非常に病気になることがしばしばありますから、決して油断はできません。由于感冒是原因而得非常重的病是常有的,所以绝不能麻痹。

11、努力した甲斐があって、希望の大学に入れた。有了努力的价值,考上了理想的大学

12、目と鼻ほどしか離れていない。象眼睛和鼻子那样不分离

第五篇:日语中级口译笔试 日译中

桜の季節

毎年3月になると、春風が吹き始め、人々の間では必ず「今年は桜がいつ満開になるかなぁ」という話題が出てきます。3月下旬に入ると、毎日テレビなどの「桜前線」の報道を聞き、人々は首を長くして、真冬の後に一番早く咲いてくれる花の満開を待ちます。

桜は日本の国花であることはよく知られています。多くの人が私と同じように日本に来てから、自分の目で満開の桜を見てはじめて、桜とは花が咲いた後芽が出る植物であることを知り、日本人がこんなにも桜に熱狂するのだということを知ります。

桜満開のとき、日本列島はピンク色に染められています。桜の柄や色など衣食住の至るところで見られます。特に花見の名所などは、他よりもっと早く桜色に染められています。

幼いころ、親に連れられて花見に行くとき、桃や梨の花など花林の中を散歩しながら、花見をしていました。しかし、日本ではみんな桜の下に座って、弁当を食べたり、お酒を飲んだり、話をしたりして、ときには歌ったり、踊ったりもしています。特に不思議なのは普段まじめな中高年の男たちが桜の下で子供のように有頂天になって踊ったり歌ったりすることです。帰国の時、「なぜ日本人は桜の下でしかリラックスできないのですか。」と何回か友達に聞かれたことがあります。私もこのような質問をまわりの日本人の友達に聞きました。みんなからはほぼ同じような回答をもらいました。「やさしい桜は一輪が目立たないのですが、一面になると本当に感動を与えてくれます。桜は日本という国だけでなく、日本人の心も表しています。桜の下に座ってはじめて安心感を覚え、本当の自分が見つかり、一年間溜まったストレスが解消できます。」

日本で何回か花見をしたあと、友達の言っている日本人の桜に対する恋しさの解釈が少しずつわかってきました。自分もそれに共鳴を覚え、桜に対して恋しい感情が芽生え始めました。

樱花时节

每逢三月,当春风刚刚吹动时,人们便开始了每年此时必谈的话题:“今年的樱花哪天会全开呀?!”进入三月底,在媒体每天的「樱花前线」的报道中,人们更是好象坐立不安似的等待盼望着严冬后春天第一花的到来。

许多人都知道樱花是日本的国花。我知道有许多人和我一样,来到日本亲眼看到樱花盛开的情景,才知道樱花是属于那种先开花后长叶的树种,才了解到日本人对于樱花如此执着地怀恋。

在樱花时节里,整个日本仿佛是都被染上了粉红色一般,无论是衣、食、住,到处都可以看到樱花的图案、樱花的颜色等。尤其是在赏樱的“宝地”之处,更是比其它地区更早地染上了樱花的颜色。

记得小的时候,在春天被父母带去赏花时,在开满了桃花、梨花的花林中,边散步边赏花。而日本则是大家坐在樱花树下,边吃「弁当」,边喝着酒,高谈阔论,有时还会又唱又跳。尤其是平日那般严肃认真的中、高年日本男人们在樱花树下,仿佛是顽童般地手舞足蹈、引亢高歌„„。回国时,多次被朋友问起:“为什么只有在樱花树下,日本人才会放松自己、打开自我?”我也曾将此等问请教于我周围的日本朋友们,大家几乎是同样地回答我:“温柔的樱花,一朵看上去并不起眼,但一群看上去会令人激动。樱花代表日本,更代表着日本人的心,只有坐在樱花的树下人们才能感受到心安、找回自我,才会将压抑了一年的情绪释放出来。”

经过在日本的几次赏樱后,我慢慢地理解了朋友们所讲的日本人怀恋樱花的解释。而且自己也被感染,渐渐地蒙发了对樱花的怀恋之情。

日漢対訳読物 02 新米

新米

日本のお米は世界で一番おいしいお米かもしれない。また秋の新米は、さらにみずみずしくいっそう美味しいものだ。毎年新米が出回るころ、料理店や米屋はみな、黄金の稲穂を描いた紙に大きな字で「新米入荷!」と書いた広告を貼り出す。

最近、白血病を患っている前千葉大学の留学生、劉学東が私に新米にまつわる話を聞かせてくれた。電話の向こうで、彼がぽたぽたと涙をこぼしているのが聞こえた。

劉学東は言った。彼には篠崎栄行さんという50すぎの日本人の闘病仲間がいた。彼も同じ白血病で、一緒に入院していたとき、彼は劉学東にいつも飲み物を買ってくれるなど、とてもよくしてくれた。劉学東が遠慮すると、彼は劉学東にこういった。「あなたは学生で大変でしょう、私は保険に入っていて入院すると毎日2万円くらい出るんです。」篠崎さんの実家は米の名産地である千葉の東金で、毎年新米が出ると、彼はいつも劉学東に10kg送ってくれて、日本人と同じように新米の芳醇な香りと豊作の喜びを分かち合わせてくれた。彼らはこの病気になると先はそう長くはないことを知っていたが、お互いの友情によって楽しく生きているのだと話していた。

篠崎さんは去年6月退院したが、今年の1月病状が悪化し再び入院した。このとき彼はすでに危篤状態で、薬ももう効かなくなっていた。7月20日、劉学東は妻の陸新紅を連れて彼の見舞いにいった。自分がもうそう長くないと知っている篠崎さんは陸新紅も不治の病を患っているらしいと聞いて、陸新紅に言った。「あなたはきっと元気に生きられますよ、天国に行ったら私が神様によくお願いしておきますから。」

8月2日、劉学東が再び篠崎さんを見舞ったとき、彼はもうとても弱っていて、身の回りの世話をしてくれている姉にむかって、「わたしはもう長くはないが、姉さん、忘れないでくれよ、新米が出たら必ず劉さんに送ってくれよ。」と言った。

8月19日、篠崎さんは静かにこの世を去った。臨終の際、彼がとても弱弱しい声で劉学東にいった最後の言葉は、中国語の「謝謝」だった。

9月12日劉学東と陸新紅は、篠崎さんのお姉さんから送られてきた新米と一通の手紙を受け取った。手紙には「弟が入院中は大変お世話になりました。ほんの気持ちばかりですが新米をおおくりします。」とあった。

中秋の満月が水のような輝きを放っているなかで、またみずみずしい香りを振り撒いている新米のなかで、二人ははらはらと涙を流した。篠崎さんは静かに逝ってしまったが、彼がもっとも残念だったのは二人に自らの手で今年の新米を贈れなかったことだろう。しかしながら彼の、その新米よりもつややかな友情、その無情な死をもってしても断ち切れない友情は、永遠に絶えることなく劉学東と陸新紅の心の中に残るだろう、この友情があるかぎり、生も孤独ではなく、死も孤独ではないのだ...。

劉学東は電話の向こうで涙に咽びながらこういった。「どうか、私の代わりに文章を書いて、私に代わってありがとうをいってください。」

私はこの美しい声をどんなにかあなたに伝えたいことか。私たちは出会ったこともない異国人だが、きっとあなたには聞こえるはずだ、見えるはずだ、篠崎栄行さん...。

新米

日本的大米也许是世界上最好吃的米了。而每年秋天的新米,吃起来更是满口清香。每到新米下来,饭店和卖米的商店都会贴出画着金黄稻穗的广告,上面用大字写着:“新米到了!”

最近,身患白血病的前千叶大学留学生刘学东给我讲了一个有关新米的故事。在电话机里,我听到了他的泪水在簌簌地坠落。

刘学东说他有一个五十多岁的日本病友叫筱崎荣行。和他一样患的也是白血病,一起住院时,他对刘学东非常照顾,总为刘学东买一些饮料什么的。在刘学东过意不去的时候,他就对刘学东说;“你是学生,很苦的,我有保险,住院每天还可以得到两万多元。”筱崎的家乡是大米的著名产地千叶的东金,每当新米下来,他都要送给刘学东十公斤,让他和日本人一起分享醇厚的清香和丰收的喜悦。他们都知道得了这种病来日不很长,但他们都说,由于彼此间的友谊,他们活得很开心。

筱崎去年六月出院了,但是今年一月病情恶化,他又住进了医院,这时他的病情已进入了危笃期,药物已经不起作用了。七月二十日,刘学东携夫人陆新红去看望他,知道自己将不久于人世的筱崎当听说陆新红也身患绝症时,对陆新红说:“你一定要好好地活下去,到了天堂我会拜托上帝照顾你的。”

八月二日,当刘学东再去看筱崎时,他已经很虚弱了,他对守在自己身边的姐姐说:“不久我就要去了,可姐姐你可不能忘记呀,新米下来要给刘先生送新米哟。”

八月十九日,筱崎静静地离开了人世。在弥留之际,他用极微弱的声音对刘学东所说的最后的一句话,是用中国话说了声“谢谢”。

九月十二日,刘学东和陆新红接到了筱崎的姐姐寄来的新米和一封短信,信中说:“弟弟住院时,多亏你们照顾他了,送上一点新米,小小的一点儿心意······”

在中秋圆月如水的清辉中,在新米散发着的清香中,刘学东和陆新红簌簌地留下了泪水。筱崎静静地去了,令他更遗憾的也许是不能亲手把新米送到两人的手里。然而他那比新米更清醇的友情、那令无情的死也无法割断的友情,永远绵绵不断地留在了刘学东和陆新红的心中,让人感到只要有了这种友情,那么,生也不孤独,死也不孤独······

刘学东在电话里哽咽着对我说:“请你在文章里替我说一声:谢谢,谢谢······”

我多想把这美好的声音传达给你,尽管我们是从未谋面的异国人,但我知道,你听得懂,也听得见啊,筱崎荣幸先生······

日漢対訳読物 03 蝉の声

私は子供の頃から中国の東北で育ったので蝉の声を聞いたことはなかった。のちに北京に出て働き、郊外の農家の敷地(庭)に住んでいた。

夏が来ると柿の木の濃い木蔭が庭をすべて覆う。こまかく砕いた金粉を篩にかけたような陽光の下、誰か一声命令したのか、紅い屋根と緑の木々のあいだで無数の透明な蝉の羽が突然陽気に動き出す。琴瑟(キンシツ)のような蝉の声が光と影のなかに流れ込み、まるで陽光の透明な手が万物の合奏を演奏しているようだ„„。雨の後の蝉の声はさらに美しくて捨ておけない。

杜甫の詩に曰く:晨鐘雲外湿(朝の鐘声が雲の外側に湿っぽく響いている)。

雨の後の蝉の声も、緑の潤いをゆっくりと散る白雲のあいだに揉み込んで酷暑の中に一片の清涼をもたらし、白居易の『井底引銀瓶』(井底銀瓶を引く)のなかのすがすがしい詩句を思い起こさせる。

嬋娟両鬢秋蝉翼、宛轉雙蛾遠山色(美しい両鬢はセミのはねのようで、きれいな両の眉は遠山の色のようだ)。

その頃、私には解らなかった、どうして中国詩人のおおくが蝉の声を悲しく痛切に描くのか。たとえば洛賓王の『獄中詠蝉』(獄中に蝉を詠ず)のように、西陸蝉声唱、南冠客思沈 不堪玄鬢影 来対白頭吟

太陽が西陸を行くといわれる秋が来て蝉が唄い始めると、異国で捕われの身となっている私の心に旅の憂いが侵み込んで来る。高潔だといわれる黒い美しい翅を持った蝉がやって来て、自分の潔白を訴えて歌う私の白頭吟の歌を聞いてくれるのを見ると、とてもたまらない気持ちだ。

李商隠の『韓弘舎人即事』では 鳥応悲蜀帝、蝉是怨斉王(鳥は蜀帝を悲しんでいると思い、蝉は斉王を怨んでいるだろう)

李商隠の詩は韓弘と柳氏との悲歓離合の故事を詠っている。ついでに「斉后化蝉」の典故を引用する。晋の崔豹の『問答釈意』のなかに書かれていることによると: 牛享問うて曰く「蝉の名、斉女なる者は何ぞや?」

答えて曰く「斉王后怒して死す。屍変りて蝉と為り、庭樹に登り、彗涙して鳴く。王悔恨す。故に世名して曰く斉女なり」

まさに蝉の声を、恨みを抱いて死んだ女の哀しい声にたとえているのだから、その蝉の声も悲しいものだと見なすことができる。

東京にきてからは経緯度の違いか何かはわからないが蝉の声を聞くのは非常に少ない。しかし蝉がいないわけではない。

一度、私の運命をお祈りしに行ったか、あるいはただ何かのついでだったかはわからないが、ある日の夕方明治神宮に行った(いやきっと観光ではない、日本に来てからずっとそんな暇はなかったのだから)。お参りをしたあとだったか、私は長い林の道を歩いていた。突然、露にしみこまれたようなかすれた蝉の声が幾層にもなった厚い葉の中から重々しく漏れ出て来た。そして風に吹かれてとぎれとぎれに鳴き続けた。私の心はさっと震え、洛賓王の詩句がわけも無く口から出てきた。

露重くして飛ぶも進み難く、風多くして響き沈み易し。

これはつまり日本の詩人がよく言う“ヒグラシ”蝉で、日本人も中国人と同じく蝉を詠う時は常に悲しみを帯びる。『万葉集』のなかに三首、蝉を詠った詩がある。巻第十に 夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも

夕方のかすかな光の中に来て鳴いているひぐらし、このひぐらしはこんなにも毎日毎日聞いても決して飽きることのない声だ

ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く

ひぐらしは今こそ我が時とばかり鳴いているけれども、片思い故にか弱い女であるこの私は、一日中泣き濡れている。

とある。巻第十五では 石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ

岩に激する滝の轟くばかりに鳴きしきる蝉、その蝉の声を聞くと都が思い出される

がある。日本の詩人が蝉を詠うとき、また非常に面白いことに出会うことが出来る。それはつまり、日本語の中で、“ひぐらし蝉”と夕方を意味する“日暮”の発音が同じなのである!

听蝉

我从小生长在中国东北,没有听过蝉声,后来到北京工作,住在郊区一个农家的院子里。

一到夏天,柿子树浓浓的树荫笼罩着整个院子,筛动着点点细碎的金子一样的阳光,不知是谁一声令下,红瓦绿树间无数透明的蝉翼突然欢快地鼓动,一阵琴瑟般的蝉鸣流进光和影,像是阳光透明的手拨响了万物的合弦„„。雨后的蝉鸣更是美不胜收。杜甫诗云“晨钟云外湿”。

雨后的蝉鸣也是把一阵绿色的湿润,揉进散漫的白云之间,让酷暑中流进一片清凉,这也会令人想起白居易《井底引银瓶》中的清新诗句:“婵娟两鬓秋蝉翼,宛转双蛾远山色。”

那时我不明白,为什么有许多中国诗人都把蝉鸣写得那悲切。

如骆宾王《狱中咏蝉》:“西陆蝉声唱,南冠客思沉。不堪玄鬓影,来对白头吟。”

李商隐《韩弘舍人即事》:“鸟应悲蜀帝,蝉是怨齐王。”

李商隐在诗咏韩弘和妓女柳氏悲欢离合的故事时巧用了“齐后化蝉”的典故。

在晋人崔豹的《问答释意》中写道:

牛享问曰:“蝉名齐女者何也?”

答曰:“齐王后忿而死,尸变为蝉,登庭树,彗唳而鸣,王悔恨,故世名曰齐女也。” 将蝉鸣喻为含恨而死的女子的哀鸣,可见其声也悲。

到了东京后,不知是经纬度不对还是什么别的原因,很少听到蝉鸣,但并不是没有蝉。

不知道是为了祈祷我多舛的命运还是为了顺路,我在一个傍晚来到了明治神宫(反正不是观光,因为从到了日本就没有了这种悠闲),也许是参拜完神,我走在长长的林荫路上,突然,一阵被露水渗透般的嘶哑蝉声在层层的厚叶中沉重地泛起,又被风扯得断断续续,凄切而哀婉。

我的心猛地一颤,骆宾王的诗句不由地脱口而出:“露重飞难进,风多响易沉。” 这也就是日本诗人们常说的“暮蝉”、“晚蝉”。日本人和中国人一样,咏蝉常含悲,在《万叶集》中,有三首咏蝉之诗。卷十中有“夕影斜映,晚蝉低鸣。日日聆听,不弃不厌。”“晚蝉哀鸣,时泣时停。悲恋在心,泣之不停。”卷十中有“岩飞瀑布,阵阵轰鸣。蝉鸣不停,故国乡情。”日本诗人在咏蝉时,还可以遇到一个非常有意思的事情,那就是在日语中,“晚蝉”和“日暮”的发音是一样的。

日漢対訳読物 04 風景としての日本語

日本語と中国語は、どちらも漢字を言語の骨組みとして成り立っている。漢字のなかには、一つの文字がいきいきとした画像として完成されているものもある。これは単なる意味を伝達する記号ではなく、われわれの視覚に直接訴えかけているものでもあるように思われる。中国語を母国語とする者にとって、日本語の仮名に引き付けられる時もあり、また漢字を「薄めた」後に残された線にいささかの違和感や困惑を覚えることもある。かなの存在は既に文法的なレベルだけではなく、漢字を見る我々の視覚にとっては、その゗メージを緩和するような働きをも持っている。かなは、漢字の偏旁だという定義がある。が、厚味のないかなの筆画が、漢字の群の中を織り込むように遊泳するさまは、まるで沙漠のなかにあわれてきたオゕシスのようである。

ひとつの画像としての漢字の存在を考えると、その形の豊満さもさることながら、意味空間にまで溢れ出て奥深い潭のように水底はほとんど見えてこない。人間の想像力に与える漢字の影響は、実に大きなものであるが、そのすべてが、表形でないと言い表わせないような内なる企図で、時には人に苦労を重ねさせる結果にもなる。画像は空であり、また人間を束縛する籠でもある。二つの言葉で文筆活動を行っている私は、最近になって日本語に対する゗メージがずいぶん変わった気がする。

言語は、一枚の風景画のようなものだ。美術館で作品を鑑賞することを連想される方もあるだろう。人間ははじめて絵に接した時に、距離感というものを忘れがちになるが、実際に視覚と作品の関係は、作品と自分との間に存在する距離によって決められることが多い。例えば、手元に持つ絵と、それを3メートル先に置きながら見る場合、さらに10メートルも離れてその絵がひとつの点景にしか見えない場合を考えると、我々の感じ方は果たして一緒だろうか。言い換えれば、距離というものは、一枚の絵に対するわれわれの凝視を和らげる効果があるに違いがない。そして絵を除いた周りの空間は絶えず視覚の領域にしぼりこまれてきて、人間の感受性にますます大きくなっていく参照係数を提供してくれる。一枚の絵は、ただひとつの画像であるが、それは動き続ける現実の世界を切り取り紙面上に静止状態で凝固させたのであろう。人間は、生きている限り、思惟という活動を止めることが容易にできない。だから静止画像も一種の流動する感性に変わりながら、われわれの感覚を刺激することがあるように思われる。

日本語もひとつの画像であり、時には風景そのものである。とりわけ、かなと漢字の共用は、あたかも水と油を混ぜたような状態にみえる。水はかなで、透光に澄みきっている。ぎりぎりまで省略されたわずかな筆画は、まるで樹枝のように漢字の中をひっきりなしにかき回している。その一方、かなによって壊された漢字は、妙にさっぱりしている。漢字は油で、かなの中に滴らせるとすぐに凝固する。そしてその痕跡だけは、かなと共に流れ漂いはじめる。漢字はひらかなと共に揺れ動きながら、かたかなによって浮かび上がることもある。漢字は動きまわるかなによって、その隠喩が解釈されるのであろう。かなを海とすると、漢字は島である。私は、一隻の船のように海と島の間を自由に往来する。出身地が漢字の島であることは、私の宿命かもしれないが、それは実に愉快なことでもある。なぜなら私は更なる広大な空間を目の前にして、島を取り囲む大海原をも満喫することができるからである。二つの言葉で書き物をしているこの私に、神様が新しい生命を授けてくれた気がする。

日语是风景

无论是日语,还是中文,它们都是以汉字为语言框架的,而且在这一框架之中,每一个字形的出现都是通过生动的图像而完成的,这里不仅传达了具体的意义,而且还为使用者提供一个直诉视觉的机会。对于把中文当作母语的人来说,当他的目光被日语中的假名所吸引,或者被那种淡化汉字以后所呈现的简单笔划所困惑的时候,日语假名似乎就不仅是一个语法上的存在,而是变成了为视觉服务的一种印象缓冲剂。假名是汉字的偏旁,而且它每一次单薄的笔划漫游在汉字当中,有时就像沙漠中的绿洲一样。

作为一个图像的存在,汉字的形象是饱满的,它充斥了意义的空间,像一处深深的水潭,看不到水底。汉字赋予人的想像力是丰富的,但同时,凡是都以表形作为企图的内部扩张有时却令人疲劳。所谓内部扩张,是指那种非表形不可的表达方法。图像是天空,同时也是牢笼。无疑,获得如此的感受是有条件的,至少对于我个人来说,当我开始用两种语言从事写作的时候,我对日语的印象开始发生了明显的变化。

语言是一种风景画,这可以让我们联想到在美术馆里面欣赏一个作品时的情景。当人的视觉第一次跟作品接触的时候,我们或许忽略了距离的存在。但实际上,人的视线与作品之间的关系许多都是由距离决定的。你看一幅画,拿在手边看和离开它3米以外看,甚至离开它远达10米以外而把这幅画看成了一个点的时候,我们的感受能够一样吗?换句话说,距离冲淡了我们对这幅画的凝视,而画外的空间不断地挤入视觉领域,为人的感受提供了越了越大的参照系数。一幅画无怪乎是一个图像,它把动态的世界定格在一个静止的状态,但恰恰是人的思维永远不会停止活动的缘故,图像的静止却往往变成了一种感性的流动迷惑了我们的认知,乃至于把距离的概念堵之思考范围之外。

日语也是图像,有时更像风景,尤其是假名与汉字的并用,犹如水和油注入到一起的状态。水是假名,清彻而透光,看上去是一些枝节破碎的笔划在汉字中穿梭,但假名之于汉字的拆卸作用却使汉字显露出被稀释以后的爽朗。汉字是油,滴入假名当中的那一瞬间或许是凝固住的一块痕迹,它随着假名而荡漾,不仅依靠平假名的托起,而且还借助平假名的游离,使汉字的隐喻得以最大限度的释放。

日漢対訳読物 05 日本の「建前」と「本音」

恐らく日本にいる外国人の中で、日本の「建前」と「本音」に悩まされない人はいないと思います。「建前」と「本音」は、大和民族特有の表現文化です。前者は表に出しているもの、後者は内心に思っているもので、両者間のギャップは、時には天と地の差があると言っても決して過言ではありません。「建前」を通じて「本音」をいかに的確に掴むかは日本人の幼い時からの訓練の積み重ねであって、外国人の我々にとっては決して簡単に身につけられるものではありません。取りあえず、日頃からダ゗レクトに自分の意思を表現しない日本人が表に出している事に対しては、文字通りの単純理解は極めて危険です。

殆どの外国人は進学なり、就職なりで日本で面接を経験したことがあるわけです。そこで一つの経験談があります。もし、面接官が目の前であなたを褒め尽くしているとしたら、ほぼ結果ははずれに違いありません。

私自身も要領を得なかった経験があります。ある日、自分のゕンダースカートのレースが表に露出してしまったことに全然気が付かない私は、日本の友人に「綺麗なレースですね」と声をかけられました。その意味を間違って褒め言葉として受け止めた私は、気分揚々得意になり、全く自分に対する注意とは思いもしませんでした。あの日から幾年も過ぎましたが、思い出すたびに自分の鈍感さに顔が赤くなります。

会社の有給休暇はもう一つの例です。

有給休暇は、労働法により保護される働く人の権利であり、社員として年間一定日数の有給休暇を貰えることは明白に会社の社則で決められています。しかし、だからと言って、正々堂々とその権利を享有するわけにはいかないものです。実際は、社員に権利を与えるのはあくまでも会社の「建前」であって、いったん本当に休もうとすると休む間は担当業務はほかの人に分担してもらわなければいけないので、迷惑だという事で有給休暇を取るのは会社にとっても、同僚にとっても決して喜ばしい行動ではないというのが「本音」です。その為に、年間に1ヶ月くらいの有給休暇が水の泡になってしまい、せっかくの権利を放棄せざるを得ない社員がずいぶんいます。

まあ、働いている間は自分のポジションを確保する為にやむを得ないかも知れませんが、会社を辞める前には、せめて貯まりに貯まった有給休暇を消化したいのが普通でしょう。

しかしそうもいかないのです。こんな事例があります。私が勤務している会社で日本人の同僚と外国人の同僚が同じ時期に会社を辞めました。お二人とも前々から会社に辞める意志を伝えていたにも関わらず、なかなか引き継ぎの後任者を配属してもらえませんでした。日本人同僚は有給休暇を消化するどころか、辞める前日も遅くまで残業せざるを得ず、業務処理に追われました。もちろん、当たり前ですが会社からも周りからもそれなりの評価を貰いました。一方、僑居生活の経験で自分の権利を自分で守る知恵を身につけた外国人同僚は、辞める前に自分の受けるべき権利をちょっと主張しただけで、廻りに白い目で見られてしまいました。私は外国人として、その日本人同僚の行動から、お人好し志向の日本人の民族性を幾らか読めたような気がしますが、日本企業の主張と現実の不一致に疑問を感じます。

類似事例がいっぱいあると思います。要するに、日本で生活する以上、「建前」と「本音」という文化は避けては通れないもので、みんな絶えず悩まされるうちにだんだん賢くなって、成長していくのです。

日本的「表面」和「真心」

恐怕在日本的外国人没有不被日本人的「表面」和「真心」所困惑的。「表面」和「真心」是大和民族特有的表现艺术。前者是表现在表面的,后者是内心所想的,要说两者之间的差距有时具有天壤之别都绝不言过。如何透过「表面」准确地抓住「真心」是日本人从小训练的积累,绝非我们外国人轻易可以掌握的。总而言之,在日常生活中对不直截了当地表达自己意思的日本人所言之事,从字面上去单纯理解的话,那是十分危险的。

绝大多数的外国人在日本都经历过升学或就职的面试。这里有个经验之谈:如果考官当面竭尽全力夸奖你,毫无疑问结果多半是落选。

我个人就有过不得要领的教训:有一天,我对自己的衬裙花边暴露在外毫无察觉。日本朋友便对我说「好漂亮的花边呀」。我错将这话理解成是赞扬话而得意洋洋起来,却全然不知是在提醒我。事过几年了,每当回想起来都自己的迟钝而脸红。

有薪假又是一个事例。

有薪假是受劳动法保护的就业人员的权利,在公司里的规则里面明确有规定每年职工可享用一定天数的有薪假。但是,决不可因此就大摇大摆地享用这个权利。其实,给职工权利这仅仅只是公司的「表面」,一旦真要休假,由于在休假期间所负责的工作得由其它同事分担,所以被视为添麻烦的事,休假无论对公司还是对周围的同事来讲都绝非是受欢迎的事,这就是「真心」所在。就因为此,一年内一个月左右的有薪假泡汤,特意获得的权利也不得不放弃的职工大有人在。

唉,在供职期间,人们惟恐自己的饭碗丧失,那样做也许是出于无奈。但在辞掉工作前想消化掉过去积攒下来的有薪假这是人之常情。

但是那也是不行的。有这样一个事例:在我所供职的日本企业里,日本人同事和外国人同事同时辞职。俩人都提前很早就提出辞呈。但公司却迟迟不配备接班人。无奈,那位日本人同事不要说是有机会消化有薪假了,就在辞职的前一天还不得不加班到很晚以处理业务。当然理所应该地得到了公司和周围相应的评价。可是,那位从侨居生活经历中学会自己的权利自己保护的外国人同事,却由于在辞职前稍为强调了一下自己应该享有的权利,而公司和周围就对此颇有微词。作为外国人,从那位日本人同事的行动中我仿佛能读董一点努力做好人的日本人的民族性,但对于日本企业的不言行一致而有疑问。

类似的事例不胜枚举。总之,在日本生活,就无法回避日本的「表面」和「真心」文化,因此大家都会在不断的烦恼之中渐渐地变得聪明、成长起来。

日漢対訳読物 06 料理小話(中国料理と日本料理)

料理のことを持ち出すと中国人はきっと誇らしげにこう言うでしょう。「そりゃ当然中華料理でしょう!」

たしかに、遠く数千年前には、我が先祖は『斉民要術』『玄宴春秋』『食珍録』などの書物のなかで、料理の材料、調理方法そして食物の薬効に至るまでを詳細に記載しました。

歴代の王が世界の山海の珍味を集め、天下一の料理人を雇ったことは言うまでもありませんが、宮廷の高官、裕福な商人たちまでもがその権力と財力で各地の特産物や料理人を集め、はては退職した有名な宮廷料理人を招聘し、「観之有色」(目に楽しい)、「聞之有香」(美味しそうな匂いのする)、「食之有味」(食せば美味しい)酒宴を設けてその権力を誇示しました。文人たちはさらに、その美酒佳肴を味わい、賞賛し、永遠に詩に遺しました。また、たとえ兵馬相乱れる戦乱の世の中でも、「朝に酒があれば朝に飲んで酔う」(明日は明日の風が吹く)という消極的な概念が中国人にはあり、生存のあらゆる希望をすべて「食べること」「飲むこと」につぎ込んだのです。

だから、私見によれば、中国料理は先に述べたように、泰平の世と戦乱の世のなかで積極的に消極的に発展したのだとおもいます。

これに比べて日本料理からは、平静さや優雅さ、平安が伝わってきます。日本料理のどの宴席の、どの皿、椀、鉢を見ても、その独特で珍しい「美」「雅」「静」を感じることが出来ます。思うに、ほとんどの中国人は、初めて日本料理を味わった時、私と同じように深い感動を覚えるのではないでしょうか?

以前、一人の日本人が真剣な様子で私にこう話したのを覚えています。「日本料理というものは、半分は見るもので、後の半分が食べるためのものだ」私もこの意見に賛成で、またこうも思っています。「ただ単に料理だけを味わうというのではなく、運ばれてくる皿、椀、小鉢など、料理にあわせてさまざまに変化する器の大きさやかたち、色、そして凝った盛り付けなども一緒に味わうべきだ」と。日本料理の中の「懐石料理」が使用する皿、椀、箸は、料理と日本の伝統である茶道、花道との関連、また、その時と場所に合わせたもてなしの心がもっともよく現れています。料理を味わう者は、皿、椀、鉢に盛られた料理の中から日本料理の「美」「雅」「静」を感じ、日本の伝統思想を深く理解することが出来るでしょう。

ところで、来日して随分たちますが、家族や友人と温泉旅行に行くという話があると、いつもとても嬉しくなってしまいます。実を言うと、温泉に入るのが嬉しいというのではなく、またあの「皿」や「椀」や「鉢」に会えるから嬉しいのです。もしあなたが日本で温泉にいく機会があったなら、どうか必ず、その運ばれてくる、料理と組み合わせられた「皿」「椀」「鉢」などの器に少しだけ注意を払っていただきたいとおもいます。

轻描料理

提起料理(烹调),中国人一定会很自豪地讲:“那当然是中国料理!” 的确,早在几千年前,祖先便在《齐民要术》、《玄宴春秋》、《食珍录》中,对料理的原料、料理的方法、以及食物的药用、都有过很详细地记载。

不用说是历代君王收尽天下山珍海味,任用天下最好的名厨,就连宫廷的高官,富有的商人财主也会依其权力财力,收集各地特产,厨师,甚至聘用宫廷退役的名厨,并以能够摆出一席“观之有色”“闻之有香”“食之有味”的酒宴而为炫耀,文人墨客更是以能够品尝到美酒佳肴而赞不绝口,留诗千古。即使是在兵荒马乱的战争年代里,中国人也有“今朝有酒今朝醉”的消极概念,把生存的所有希望,全部注入到“吃”“喝”中去。

所以,依我的浅见,中国料理就是如此这般的在太平盛世和战争年代中,得到了积极和消极的发展。

与此相比,日本料理就会显得十分平静,优雅,和平。你可以从它的每一个宴席的每一种碟、碗、盘中,领会到那独特的、奇特的“美”、“雅”、“静”。我想,大概所有的中国人在第一次品尝到日本料理时,都会和我一样被它深深地感到了的吧?!

记得以前一位日本朋友曾经很郑重地对我讲过:“日本料理一半是为了‘看’的,另一半才是为了‘吃’的。” 我也是赞同这种说法,而且还认为:与其说是单单品尝料理的味道,不如应该说是连同一起品味了那些、随着料理的变化端出来的、与其相配的、不断变换的盘、碗、碟的大小、形状、颜色、以及其上的料理的各种讲究摆法。日本料理中的“怀石料理”所使用的盘、碗、筷,更尤为体现出了料理与传统的“茶道”“花道”的关联,与周围环境的协调,使品尝者从每一道盛在“小盘”“小碗”“小碟”的料理中,感受到日本料理的“美”、“雅”、“静”,领会到日本的传统思想。

来日多年,每逢和家人,朋友一起去温泉旅行时,我都会很兴奋。对我来说,并不是为去“泡温泉”而兴奋,而是为又可以同那些“小盘”“小碗”“小碟”再会而感到兴奋。

倘若您有机会在日本“泡温泉”的话,请您也务必留意一下那些与端出来的与料理相配的“小盘”“小碗”“小碟”„„„。

日漢対訳読物 07 「なまもの」好きの日本人

食物には必ず火を通すなどして、調理されたものを口にする習慣をもつ学生にとって、日本での食文化はなかなか馴染みにくい。

日本には「生」の食べ物として広く知られている刺身以外にも、「生肉」「生水」など、「なまで」、つまり、煮たり焼いたり乾かしたりしないで食べる物がかなりある。

「生菓子」や「生卵」など、昔から使われている言葉も多いが「生」を使った新しい言葉もどんどん生まれている。「生チョコレート」、生クリームを多く使用し、あまり日持ちしないチョコレートのことをこう呼ぶ。「生絞り」、これはあるメーカーが自社の缶ビールに付けた商品名だ。

食べ物以外で「生」という言葉が使われる場合も多くある。「生番組」通常、テレビ番組は撮影された後編集されて放映するものだが「生番組」は撮影されると同時に放映もされる。「生脚」、これはストッキングや靴下などを履いていない状態あるいはその脚を指す。若い女性の間で作られた俗語で、主に女性の場合に使われる。

嗜好“生”物的日本人

在日本饭菜中生吃的食物很多。除了广为人知的生鱼片以外还有“生肉”、“生蔬菜”等生吃的食物。也就是说有很多食物既不用炖也不用烤就可以吃。这对于习惯了食用经过加工制作的食物的留学生来说似乎很难适应日本的饮食文化。

但是我们日本人好“生”之程度可并非一般冠有“生”字的新型食品在不断涌现。例如“生巧克力”这是指使用了较多的鲜奶油且保存期限短的巧克力“生扎啤”则是一家啤酒厂为本厂生产的罐装啤酒所起的名称。

“生”(なま)这一词汇含有“新鲜的、未经加工”之意,除了食物之外,还广泛用于其它领域。比方说“生番组”一词其意为电视直播节目。电视节目通常是在拍摄后经过编辑才播放的而“生番组”则是指不加剪辑、边拍摄边播放的节目。还有一个新词汇为“生脚”这是指女孩子脚上没有穿袜子或是穿裙子时不穿长筒丝袜。该词是产生于女青年之间的俗语,同时也主要用于女性。

早餐时吃生鸡蛋,中午一边吃着生蔬菜一边观看“生”直播电视节目,到了晚上则吃生鱼片。由此可见日本人的生活的确是离不开“生”字的。

读完这篇文章后如果你能在一分钟内造出带有“生”字的词汇那么也许可以说你是一个相当了解日本的日本通了。

日漢対訳読物 08 「多子多福」を願う伝統

中国では普通、子供の多い家庭が繁栄し幸福だとされている。だから人々は、社会的地位や身分の上下に関係なく、子供を多く生む女性に対しては、一種、感謝の気持ちを抱いている。

中国悠久の歴史の中で、儒教は重要な働きをした。儒教が理想国家としているのは周代の文王の世である。彼は100人の子供に愛されただけでなく、数万人の人々から長として仰がれた。昔から人々に知られている「百子戯蓮」はここから伝わったものである。

中国では他にも「多子多福」(子供が多ければ幸せである)の伝統的な吉祥画がたくさんある。これら家の居間に掛けられている吉祥画でよく見かけるのは、蝶の群がたくさん実をつけた瓜畑の上を飛び交っているものだ。その瓜の果実はまさに子供の象徴で、家庭に幸せを満ち溢れさせるものなのである。

日本の伝統である家紋にも、多く吉祥を願う意味が含まれている。女性にとって欠かすことのできない櫛にもこのような家紋が描かれてある。この櫛は往往にして母親から娘に伝えられるもので、「和櫛」と呼ばれる。日本の漆器に多いのもワラビ、つくし、蝶蝶など、多子多産に関係のあるデザ゗ンだ。お祝いの宴席で出される食器にもしばしば母子草の模様が登場する。刀のつかに刻まれる「花紋」のデザ゗ンはたくさんの男の子に恵まれますようにという願いを現している。このような伝統は、結婚の宴席での和服にも現われている。着物の絵柄には10数羽から2、30羽におよぶ鴛鴦が描かれているものが多いのだが、鴛鴦はつまり、仲睦まじい夫婦の象徴なのである。たくさん子供を産む女性が賞賛を受けるのは古来の習いだが、これは当時、死産.早産が多かったためであろう。

明治時代の女性記者.磯村春子は、かつて「報知新聞」でめざましい活躍をした。彼女は産休などのない過酷な労働条件のもとで出産し、8人もの子供を育てたのだ。彼女は多くの子供を育て、円満な家庭を築くと同時に、自分のラ゗フスタ゗ルを貫いたスーパーウーマンの先駆者と言っていいだろう。

1世紀近くを経た今、若い人たちの中から新しいゕ゗ドル――歌手.安室奈美恵――が現われた。彼女がレコーデゖングしたCDの売上げ枚数は毎回記録を更新した。97年秋彼女は記者会見で、自分が妊娠していて近く結婚すると発表した。そして、出産準備のため、1年間歌手としての活動をしないとも言った。その記者会見のあいだじゅう、彼女は満面、幸せそうな笑顔で溢れていた。それはまさに、母親になる喜びの表情だった。その後98年5月、安室奈美恵は無事に男の子を出産し、また話題になった。

女性は命を創造し、生命を育むことができる。これが男性と根本的に違うところだ。10ヶ月間妊娠し、出産、子育てを体験する女性は、その経験を通して一つまた一つ成長してゆくのだといえる。そしてそれと共に人間性もゆっくりと成熟してゆくのだ。母親になる一つ一つの課程は、女性が成長してゆくための、いはば節目の連続なのである。

大阪市の中心、JR大阪駅近くの、ある病院では97年5月から週に1度のホットラ゗ンを開設し、不妊に悩む女性達の相談を受け始めた。そこでは3ヶ月間で527件の相談があったという。その1年前にも、東京のある出版社で1ヶ月に1回の不妊相談のホットラ゗ンを開設している。専門医師らはこのようなホットラ゗ン上で、実にたくさんの女性から不妊に関する悩みを打ち明けられた。これは、女性が自然と母親になりたいと願うことの現われであろう。

明治時代、「青踏」が「元始女性は太陽であった」という宣言をした時から、徹底的な女性解放運動が始まった。原始社会は即ち母系社会であり、女性は当然尊敬されていた。後には、代々生命を生み育てる母体は、人々から豊作を願う象徴とされた。母体がなければ生命の継続もないのだ。

しかし、すべての女性がこの点を認識しているわけではない。日本女性の中には安室奈美恵と正反対の人も多い。若者の中では今、母親になりたがらない風潮が広がっている。多くの若者が「子供はいらない」「子育てはめんどうくさい」と明言している。その一方で彼女たちは大量の宝石類を買い、流行のフゔッションを追うことに命を懸けているのだ。自分の趣味に満足し、生命の意義を考えようとはしない。このような日本女性が増えてきているのは実に残念なことである。

期望“多子多福”的传统

在中国,人们通常相信多育的家庭是繁荣和幸福的。所以,人们不论社会地位的上下,贵贱,都对能够多生孩子的人抱着一种感谢的心情。

在中国漫长的历史中,儒教起了重要的作用。把儒教作为理想国家的是周代的周文王。他不仅赢得了一百个孩子的喜爱,更赢得了数万人的拥戴。古今人们所熟悉的“百子戏莲”,就是从这里流传下来的。

中国还有不少多子多福的传统吉祥画。这些挂在家庭居室中的吉祥画,画面上常常是蝴蝶飞舞。环绕着饱结果实的瓜田。那些瓜果,就象征着孩子,让家庭中洋溢着幸福。

日本许多传统家纹也含有祈愿吉祥的意味。女性们离不开的梳子上面就有这样的家纹。这种梳子往往是由母亲传给女儿的,称之为“和梳”。日本的漆器表面也大多是绘着蕨菜、马草及蝴蝶等等与多产多育相关的图案。祝贺宴席上拿出来的食器上面,也时常有着“母子草”的图案。在刀柄上刻上“护把”的图案,可以显示出希望要很多男孩子的愿望。那些出现在结婚宴会上的和服,图案经常是十几只乃至几十只鸳鸯,而鸳鸯则是能够生育的和睦夫妻的象征。

多产的女性受到赞誉,这是古来的习惯,这可能是因为那时死产、早产太多的原因吧。

日本明治时代的女记者矶村春子曾经活跃在《报知新闻》。她在没有妊娠假、产假等苛刻的劳动条件下,居然生育、抚养了8个孩子。她养育了众多的孩子,维持了家庭的美满,同时实践了自己的生活方式,真可谓非凡女性的先驱。

经过将近一个世纪以后,年经人中出现了他们的新偶像--著名歌手安室奈美惠,她录制的CD唱片,其贩卖数被一次又一次历史性地刷新。1997年秋,她在会见记者时,宣布了自己已经怀孕并要结婚的消息。同时她还宣布,为了准备生育孩子,她将停止一年的歌手活动。在整个记者招待会过程中,她的脸上洋溢着幸福的微笑,这是期待着成为母亲的表情。1998年5月,她顺利地生产出一个男婴后,她再一次成为人们的话题。

女性可以创造生命,培育生命,这是和男性根本的不同。怀胎十个月,体验了生产,育儿的女性,可以说经历了一次又一次地成长,其人性也漫漫地成熟了。成为母亲的过程,才是一个女性成长起来的后续节目。

在大阪市中心的JR大阪车站附近有一家医院,从1997年5月起开通每周一次的热线电话,给因不孕而烦恼的妇女排忧解难。3个月间,他们接到了527个电话。在此前的一年,东京有一家出版社也开设了一月一次的不孕热线电话。由专门医生开设的这种咨询机关,使许多不孕妇女得以倾诉烦恼。这也体现出女性自然地渴望成为母亲地心愿。

日本明治时代,青踏派发出“自古以来女性就是太阳”的宣言,开始了彻底的妇女解放运动。

原始社会就是母系社会,女性当然受到尊敬。以后世世代代的孕育生命的母体被人们作为祈祷丰收的象征。没有母体便没有生命的延续。

但是,并不是所有的母性都能够认识到这一点。不少日本女性与安室奈美惠截然相反。年轻人中正在流传着做母亲的恐怖症。很多年轻人明确地表示“我不想要孩子”、“抚养孩子很麻烦”。与此同时,她们却在大量地购买金银饰品,拼命地追赶时装潮流,满足自己的兴趣,却不考虑生命的意义。这样的日本女性越来越多,实在是太可惜了呀。

日漢対訳読物 09 だめなパパ

私のこどもは四歳をすぎた女の子である。こどもというのは、短期間にいろいろと人相がかえるもので、過去、我が子ながらかわいいと思ったことが三度あった。また、我が子ながら不 器量だと首をかしげたことが六度ほどあった。

現在は、その中間型くらいである。それにしても、かわいく思うとには変わりがない。親バカというものはもっともないものだが、正直の話、喜んで、バカになりたいとも思う。

そのくせ、彼女は一年ほど前まで、あまりこの私になつかなかった。仕事部屋から追い出したり、出したり、あまりいっしょうに遊んでやらなかったことが原因らしい。ことらが都合のいいときだけかまおうとするので、ダッコをしようとしても逃げていったりする。

パパは悲嘆に涙にくれたものだ。

ただ、私が甘い子とだけはしていて、ままに隠れてお菓子をとりにゆこうとするたくらみを抱くときのみ、「パパ、ダッコ」と私を誘う。そういわれると。このパパは身体中グニャグニャになるのである。

しかし、最近、この経過が変わった。私は不健康な自分の身体を何とかしようと思って一大意志を奮い起こして。体操とランニングを始めた。

中年の男が昼間からその辺りをドタバタ走っているのはみっともないから、こどもを利用することにした。いかにも子どもをあそばせているふうに見せかけて、彼女といっしょにランニングをした。

「パパ、ランニングちよう」 と、彼女が誘いにくる。

その内、家から五分ほど離れた場所に空地があって、ここに土が盛られて小山をなしている場所を発見した。

「パパ小山にゆこう」と彼女がいう。

私は子どもといっしょに山へゆき、手をひいてかなりの急坂をくだらせ、ついで手をひいて坂をのぼらせた、だんだんと子どもも勇気が出てきて、このごろでは一人きり滑りながら登ったりする。

その後姿を見ながら、「小学生になったら日本日本ゕルプスに連れて行こう。女性ゕルピニストにしてもいいぞ」などと、愚かな父親は思う。

そんなふうに、私が彼女といっしょに遊んでやる時間が多くなるに連れ、がぜん彼女は私になつき始めた。その上、かんざんに甘いパパである。

このごろでは、「パパはやさしいからすき。ママは怒るからきらい」などともいい、教育上よくないと思うが、そういわれると、自然と私の顔はほころぶのである。

坏爸爸

我的小孩是刚满四岁的女孩。小孩的容貌在短期内会不断变化,曾有过三次我觉得我的孩子可爱。然而,也有六次竟让我觉得纳闷,她怎么那么丑。

现在虽说长相属于一般。但她的可爱之处仍然如旧。所谓溺爱子女是不好的,但说句老实话,我倒也乐意放纵她。

可是,大约一年前,她和我不太亲近了。原因好像是把她赶出我的工作间,此外,也不太和她一起玩了吧。如今,只有当我空闲时才去照顾她,所以,即使想要抱抱她,她也是躲得远远的。

做爸爸的真是伤心啊!

我娇惯孩子,这一点她是知道的,所以只有在企图躲开妈妈去拿点心时,才会来叫我“爸爸,抱抱”。被她这么一叫,我这个当爸爸的整个身体好像都酥软了一般。

但是,最近这种情况发生了变化。我想锻炼一下自己那虚弱的身体,鼓起很大的勇气,开始做体操和跑步。

大白天的,一个中年男子在那一带呱嗒呱嗒地跑步,不太好看,所以想利用孩子,装成带孩子玩耍的样子,和她一起跑。

“爸爸,跑步去!”

她来约我了。

不久,我发现在离我家约五分钟的地方有块空地,那里堆着土,像一座小山。

“爸爸,爬山去!”

她说。

我和孩子一起去爬山,牵着她的手从很陡的山坡上跑下来,接着,又牵着她的手让她爬坡。逐渐孩子有了勇气。最近,会一个人一步一滑地爬上去了。

看着她的背影,傻爸爸这样想,“等上了小学后,带她去日本阿尔卑斯山,还可以把她培养成女子登山运动员呢!”

就这样,随着与她一起玩耍的时间增多,她开始与我亲热起来。由此,我完全成了娇惯孩子的爸爸。

“爸爸和气,我喜欢;妈妈好生气,我讨厌。”

最近,她竟这样说。虽然这在教育方面是有问题的,但经她这么一说,我的脸上很自然会泛起笑容。

日漢対訳読物 10 潘老人

唐の元和年間(806~820)のことである。

河南の嵩山(すうざん)少林寺で、大風が吹いたことがあった。風がようやくやんだ頃、杖をついた老人が門を叩いた。

「すみません、一晩、宿をお借りしたいのじゃが」

すると、門の中から面倒くさそうな声が返ってきた。

「門はもう閉めました。外に小屋があるでしょう。そこに泊まりなされ」

小屋には寝床もなければ、筵(むしろ)一枚ない。しかし、老人は何も言わずにその小屋に泊まった。

二更(注:夜十時頃)を回った頃、僧侶の一人が目を覚まし、門の外が妙に明るいことに気づいた。灯りの出所は老人の泊まっている小屋であった。

不審に思いながらそっとのぞいて驚いた。

何もなかったはずの小屋の中には豪華な褥(しとね)が敷かれ、帳(とばり)がしつらえてある。しかも、膳まで用意されており、珍味佳肴が並んでいる。老人は膳を前にして悠然(ゆうぜん)と飲み且つ食らっていた。

一体、いつの間にこれだけの物を持ち込んだのか、と僧侶はいぶかしく思った。部屋には老人一人きりで、従僕らしい姿は見られない。僧侶は同輩を呼び、ともにこの光景を見守った。しばらくすると、老人は柔らかな褥に身を横たえて眠り込んだ。

五更(注:朝四時頃)を回った頃、老人は起き出した。口をすすぎ、顔を洗うと、懐から拳くらいの大きさの瓢箪(ひょうたん)を取り出した。老人は褥や帳、膳などを瓢箪の中へしまい始めた。小さな瓢箪にどうして入るのかわからないが、ともかく老人が手に取って瓢箪の口へ持っていくと、入ってしまうのである。

すべてしまい終わると、老人は瓢箪を懐に納めた。小屋には元通り何もなくなった。

驚いた僧侶達は小屋の扉を開け、老人の前にひれ伏した。

「失礼をいたしまして、申し訳ありません」

「いやいや、まあまあ、大したことではござりませぬ」

僧侶達が老人に名前を問うと、「潘と申します」と答え、南岳(注:湖南省の衡山)から太原(注:現山西省)へ向かう途中だとのことであった。

その後も潘老人の姿は時折、見かけられたという。

(唐『原化記』)

潘老人

这件事发生在唐朝元和年间(806~820)。

在河南的嵩山少林寺,刮起了大风。在风渐渐停了的时候,有一个拄着拐杖的老人敲门。

“对不起,能让我在这儿借宿一晚上吗?”

这时,门里传出了不耐烦的声音说。

“门已经关上了。门外不是有个小屋吗?就在那儿呆着吧。”

小屋里没有铺盖,也没有草席。但老人什么也没说,就在那个小屋里住了下来。

在过了两更(夜里十点左右)的时候,有一个僧侣醒了,发现门外非常明亮。光亮来自老人住的那个小屋。

那个小屋里过去什么都没有,可现在却铺放着豪华的褥子,还支起了帷帐。而且还摆放了食案,堆满了美味佳肴。老人在食案前悠然地吃着东西,还喝着酒。

这个僧侣感到很奇怪,心想这个老人什么时候搬进这么多东西呀。他就把师兄弟叫来,一起盯着看这个老人。过了一会儿,老人躺在柔软的褥子上睡着了。

在过了五更(早晨四点左右)的时候,老人起来了。他漱了口,又洗了脸,接着从怀里拿出了一个拳头那么大的葫芦。老人开始把褥子、帷帐和食案等往葫芦里装。那么小的葫芦怎么能装进呢?可是老人用手把东西往葫芦口那儿一放,东西就进去了。

都装完以后,老人把葫芦揣进了怀里。小屋里就和以前一样什么都没有了。

僧侣们都惊呆了,打开了小屋的门,跪在了老人的面前。

“失礼了。对不起。”

“哎呀呀,算了吧,不值一提。”

僧侣们请教老人叫什么名字,老人说:“姓潘。”潘老人说是从南岳(湖南省的衡山)到太原(山西省)路过这儿。

据说后来还有人看到过潘老人的身影。

(唐《原化记》)

日漢対訳読物 11「ほのぼのローン」

「ほのぼのした」という語句を説明していたときのこと。学生たちが゗メージをつかめるようにと、この語句が当てはまるような情景はどのようなものかを学生たちと話し合っていました。このとき学生たちから挙げられた「ほのぼのした」情景は、『春の暖かい日におじいさんとおばあさんが一緒にお茶を飲んでいる情景』、『田舎.牧場』、『犬を連れた親子がのんびり散歩している情景』など。そんな平和でゆっくりとした温かい例がいくつか続いた後、ある学生から「先生、ほのぼのローンはどうですか。」という声。

「ほのぼのローン」とは、ある金融会社がコマーシャルのキャッチコピーとして使用している言葉です。暖かさやのんびりした感じ、やさしい゗メージとは結びつきにくい金融業界が、敢えて近づきがたい゗メージを隠すために、「ほのぼの」という言葉を使ったのではないでしょうか。

学生からの質問がなければ、私は日本語教師でありながら、そのコマーシャルのキャッチコピーを何ら気に留めなかったでしょう。が、考えてみると「ほのぼのとローンをする」「ほのぼのとしたローン」なんて言う人はいません。実はかなり思い切ったキャッチコピーだったのですね。教師は日本語を教える立場ですが、このように、普段気付かない日本語の使い方や面白さを学生から教わっていることも多いのです。

“让您感到温暖的贷款”

那是我给学生们讲解“感到温暖的”这一词句时的事情。为了让大家能掌握该词句所表达的概念,我和学生们一起对其适用于何种情形进行了讨论。此时,学生们列举的“感到温暖的”情景有:“在春天暖和的日子里,老爷爷和老奶奶在一起喝着茶”;“乡间·牧场”以及“家长和孩子一起牵着狗悠闲散步的情景”等等。在列举了几个类似的和平而安逸、暖人心房的例子之后,一个学生问道:“老师,那‘让您感到温暖的贷款’也属于这种情形吗?”。

所谓“让您感到温暖的贷款”,是一家信贷公司在做广告时使用的吸引人的词句。信贷行业在人们的心目中是很难与温暖、悠闲的感觉以及和善的印象联系在一起的,之所以使用了“感到温暖”一词,我想大概是为了掩饰其难以接近的印象吧。

尽管我是日语教师,但如果不是学生提问的话,也许不会留意那一句广告词吧。不过,仔细想想看,在现实生活中,没有人会说“怀着温暖的心情去贷款”、“暖人心田的贷款”。实际上,可以说它是一句非常大胆的广告词。教师的工作是教学生们学习日语,但是像这样,平时自己没有注意到的日语的一些用法及其有趣之处,有很多是学生们教给我的。

日漢対訳読物 12 乞食と福の神

乞食(こじき)が,ぼろぼろの袋(ふくろ)を担(かつ)ぎながら,街(まち)を歩いていました。歩きながら,独り言(ひとりごと)を言っていました。「どうして,お金持ちというものは,お金や物を、たくさん持っている上にも,なお,もっと欲しがるのだろう。人というものは,その人のみについた分(ぶん)ということを,知っていなくてはいけない。」

そのとき,どこからか,ふいに福の神(ふくのかみ)が現れました。「わしはお前の今の独り言を聞いて,感心(かんしん)したよ。ちょうど、よい具合(ぐあい)に,ここに金貨(きんか)をたくさん持っているから,お前にみんなやってもよい。さあ,その袋へ入れてやろう。」

乞食は喜んで,袋を福の神の前に,出しました。

「ところで一つ約束(やくそく)がある。それはもしこの金貨が,袋からあまって出て,土(つち)の上に落ちたら,みな塵(ちり)になってだめになってしまうということだ。お前の袋は,大分(だいぶ)古いようだから,あまりたくさんいれないほうがよいぞ。」

乞食は大(おお)喜んで両手で,袋の口を広げました。

その中へ福の神は,バケツに水を入れるように金貨を注ぎ込みました。

「もう,これくらいで,いいだろう。」

「もうすこし、ください。」

「わしは構(かま)わないが,ふくろが破れ(やぶれ)はしないか。」

「大丈夫(だいじょうぶ)ですから,もうすこし。」

「 おい,もうこんなに、大金持ちになったぞ。」

「でも,もう一つかみだけ。」

「さあ,これで一杯(いっぱい)だ。」

「でも,もう一枚だけ。」

「よし,いれるぞ。」

そこで,福の神が,一枚の金貨を落としますと,一緒にたちまち袋の底(そこ)がぬけて,金貨は,一度に土の上に落ち,そうして,約束通りに,みな塵になってしまいました。

それと一緒に,福の神の姿(すがた)は消えて,乞食の手には,空(から)の袋が,残っただけでした。

つまり,乞食は,この袋の底が抜けただけ,前よりも損(そん)をしたことになりました。

乞丐与福神

一个乞丐肩背一个破袋子在街上走。他边走边自言自语地说:“为什么有钱人已经有了很多的钱和物,还想要更多呢。人啊,应该懂得各自的本分。”

这时,不知从什么地方忽然出现了一个给人带来幸福的神仙——福神。

“我听了你刚才的自言自语,很钦佩你的为人。正好,我这里有很多金币,可以全部都送给你。来吧,我给你装进袋子里。”

乞丐很高兴,把袋子伸到福神面前。

“不过,我们得有言在先。假如金币太多了从袋子里滚出来掉到地上,它们就会全部变成尘土,再也没有用了。你的袋子看样子很旧了,最好别装得太多了啊!”

乞丐非常高兴,用双手撑开了袋子口。

福神就象往铁桶里倒水那样把金币装进袋子里。

“差不多了吧?”

“再来点。”

“我倒是没关系啊,可是你的袋子不会破吗?”

“没问题,再来点。”

“行啦,你已经是大财主啦。”

“再来一大把!”

“行啦,这下已经满了。”

“再来最后一枚。”

“好吧,给你放。”

说着,福神把一枚金币往下一丢,只见袋子立刻漏了,金币一下子全部掉到了地上,们事先说好的那样,金币全部变成了尘土。

同时,福神也不见了,乞丐手中只留下一只空袋子。

乞丐除了袋子的底漏了以外,什么也没得到,他比以前更穷了。

正像他 日漢対訳読物 13 「ワリカン文化」

ある聴解問題を解いているときのこと。男女2人の会話を聞いて、答えを選ぶタ゗プの問題だった。問題は、「男の人はどうしてカラオケに行かないのですか。」会話は次の通り。

「女:ねぇねぇ今日カラオケに行かない?/男:うーん、こないだ遊びすぎちゃって、実は余裕ないんだ。」

答えは4つの選択肢中の「お金がないからです」だ。

学生から、次のような質問が出た。「どうしてこの女の人は男の人の分までカラオケのお金を払ってあげないのですか。わたしの国では友だちがお金をもってないときにその人の分も出してあげるのに。」ここで、単なる聴解問題対策の授業が、異文化理解の授業に早変わりする。

日本人の「ワリカン文化」は外国人留生にとって、ときに妥当に、ときにうっとうしく感じられる出来事の一つである。日本人学生と交流したりゕルバ゗トをしたりという体験を通して日本人の「ワリカン文化」に驚きあきれる外国人留学生は少なくない。

日本人はどのような気持ちでワリカンするのだろうか。他人のお金なんて出したくない、自分が食べたり使ったりした分だけを出せばいいというケチで合理的な考えから?いや、決してそうではないだろう。実際に、レストランや喫茶店のレジ前で、「わたしが出します」「いや、わたしが」と言い合う人々の姿をあちこちで見かける。これは「相手に払わせてはいけない。」「自分が負担しなければ。」という気持ちからお勘定を自分で出すと主張しあう日本人の姿である。

しかしこのような「主張」、「気の遣い合い」が疲れることは言うまでもない。そこで人間関係を長続きさせるには「気を遣わないこと」が一番だという考えから「ワリカン文化」は浸透していったのではないだろうか。一見、冷たく、けちに見えるワリカンの習慣も実はその経緯を考えてみると日本人の和の心につながっているのかもしれない。

ともあれ、聴解問題がこのような形で異文化理解の授業になるのは学生に余裕があるいい証拠だ。

“均摊文化”

记得有一次上课时,让同学们练习解答听力问题。练习方法是听完男女二人的会话录音后,根据会话内容选择正确答案。

会话内容如下:

女:今天一起去卡拉OK吧?

男:呀,最近总出去玩,手头不宽裕。

根据这段会话,请回答“为什么男方不去卡拉OK呢?”。在四个供选择的答案中,正确答案为“因为他没有钱”。

听了解答之后,一位同学问道:“为什么女方不把男方的费用一起付了呢?在我国,如果朋友没有钱,另一方是会替他代付的”。于是,这一节学习听力问题解答方法的课转变成了理解不同文化的课堂。

对于日本人的一些习惯或作法,外国留学生有时会觉得很正当,而有时却认为很烦琐,“均摊文化”即为其中之一。不少留学生在同日本学生的交流中,以及通过打工等亲身经历对日本人的“均摊文化”很感惊讶。

那么,日本人是怀着什么样的心情与他人均摊某项费用的呢?是出于不愿支付他人的费用,认为只要付清自己所消费的部分即可这种吝啬而又合乎道理的想法吗?不,我想绝不是如此。事实上,在一些餐馆或是咖啡厅的收款台前,我们也经常目睹顾客之间互相争着要付款的情形。这正是日本人出于“不能让对方付费”、“今天得由我来付款”这种心情而互相坚持要自己付款的。

但是,不言而喻,像这种“主张”以及“互相为对方考虑”的做法会令人精神上很疲劳。为了使人际关系不会因此而受影响,人们认为最好的办法是在这一问题上双方“不必费心”。基于这种思想,“均摊文化”才得以在人们之间渗透吧。乍一看,“均摊文化”的习惯似乎很冷漠、吝啬,但是在了解了它所产生的背景后发现,这种习惯或许与日本人的“和睦之心”有关。

总之,听解练习课能以这种形式转变为一堂了解不同文化的课时,可以说是一种好现象――学生们除了学习课堂知识外,还能积极主动地了解与此相关的其它知识。

日漢対訳読物 14 「回し飲み」

ある暑い日のことです。休み時間に、学生たちがペットボトルの回し飲みをしていました。

「回し飲み」というと、日本人の感覚では同じ容器に複数の人間が口を付けて飲むことを想像します。

ところが、学生たちは皆、容器の飲み口から数センチ離し、口が容器に触れないようにして飲み物を口に流し込んでいたのです。その光景がどこか不思議だったので、ある韓国人学生に質問してみると、韓国では友達同士でも、日本人がするような「回し飲み」はしないのだというのです。私の驚いた顔を見て、不思議に思ったらしい韓国人学生は、「じゃ、先生、日本人はどうやってみんなで飲むの?」と質問してきました。

日本では普通、同性の友人同士なら、時には相手が異性であっても、同じ飲み口から「回し飲み」をすることに抵抗はありません。逆に友達に飲み物をすすめられた時に「数センチ離して」飲んだりしたら、少し失礼な印象を与えてしまうでしょう。「回し飲み」をしようという時点で、それは、ある程度、親しい人だと思われていると考えたほうがいいかもしれません。逆にいうと、たいていの場合、「回し飲み」をしたくない人には同じ容器をすすめることがありません。日本人は、「回し飲み」をする際にもさりげなく相手との「心理的な距離」を見極めているのです。

“轮流喝饮料”

有一天,天气很热。在休息时间,学生们轮流着喝一瓶装在硬塑料瓶中的饮料。说到“轮流喝饮料”,日本人会觉得是几个人使用同一个容器,而且是嘴对着容器口喝。

然而,学生们喝饮料时,嘴离开瓶口几公分,不接触瓶口而是将饮料倒入口中。看到这种情景,我觉得有点儿不可思议,于是询问一位来自韩国的学生。据他说,在韩国,轮流喝一瓶饮料时,即使是朋友之间也不会像日本人那样嘴对着瓶口喝。听了这番话,我有点儿意外,而看到我脸上显出惊异的神色,那位韩国学生似乎觉得不可理解地反问我道:“老师,那么日本人是如何轮流喝一瓶饮料的呢?”。在日本,同性朋友之间,有时即使对方是异性,一般并不忌讳从同一个容器口轮流喝饮料。相反,如果接过朋友递过来的饮料,喝时嘴离开瓶口几公分的话,我想会给对方留下不礼貌的印象吧。也许应该如是考虑:欲与他人轮流喝一瓶饮料的人,此时已把对方看作是与自己关系亲密的人。反过来说,一般情况下,如果不愿意与对方同饮一瓶饮料,就不会主动将饮料让给对方。日本人在轮流喝同一瓶饮料的时候,也若无其事地在衡量着与对方之间的“心理距离”。

日漢対訳読物 15 桜に思う

春が来た。中国の大地には、季節の交代を告げる色様々な花が咲いているだろうと思う。日本は桜のシーズンだ。亜熱帯の沖縄では、1月から咲いているが、そろそろ九州や四国からも、桜の開花の便りが届くころだ。日本は南北に細長い国だ。長い時間をかけて、南から北へ、順に桜の花が開いていく。

桜(主にソメ゗ヨシノ)の開花日が等しい地点を結んだ線を、「桜前線」と呼んでいる。前線が東京を通過するのは3月末ごろ。東北地方の大部分は4月。5月になると、やっと北海道の各地に至る。

桜は日本人の生活の中にも深く根をおろしている。

中国と違い、日本の学校は4月に始まる。小学生になった子供と親たちが手をつないで入学式に出かけ、桜咲く校庭で記念写真をとるのは、昔から変わらない日本の風物詩だ。

「花見」も春の楽しみの一つだ。人々は桜で有名な行楽地へ出かける。東京の上野公園や新宿御苑、大阪の大阪城公園や「造幣局の桜の通り抜け」には多くの人たちが押し寄せる。

花見客たちは桜の下に座って酒を飲んだり、食事をしたりして春の一日を楽しむ。歌ったり、踊ったりする人もいる。会社などでは、職場の同僚たちが桜の下で宴会を開く。宴会の幹事はいい場所を確保しなければならず、夜の宴会のために、昼から「先鋒隊」を公園へ派遣することもある。

古都・京都は桜の名所が多い。秋の紅葉の美しさが名高い嵐山は、桜でも有名だ。ここには、桜のある景色を描写した故周恩来首相の詩碑もある。日本に留学した周氏は1919年4月5日に嵐山を訪れた。ピンクの桜と、緑の松は霧雨の中にけぶっていた。しかし、しばらくすると、雲間から太陽の光が差し始めた。そんな光景と、自らの思いを込めながら、周氏は詩を詠んだ。碑に刻まれた詩は、この時のもので、60年後の1979年4月、トウ穎超夫人を迎えて詩碑の除幕式が行われた。

周氏が嵐山を訪ねた1カ月後、中国では五四運動がまき起こる。周氏は帰国して運動に加わった。嵐山の詩は革命家の若い日の記録として残っている。

1972年9月、周氏は首相として、日中国交正常化の交渉に臨み、北京を訪れた田中角栄首相ら代表団を、歓迎夕食会を開いてもてなした。人民大会堂の華やかな会場では、解放軍が奏でる日本と中国の歌の数々が流れた。最初の日本の歌は「さくらさくら」だった。周首相は、嵐山の桜を思い出しただろうか。

中国にも、たくさんの桜があるようだ。

私が仕事で、北京に駐在していた時、家族で、玉淵潭公園へ、花見に出かけた。訪れた時期が少し早かったためか、桜の花は少なかったが、公園は大勢の人たちでにぎわっていた。人民日報海外版は、玉淵潭公園には7種類、約3000本の桜があると紹介している。一斉に、満開になると、さぞかし美しいだろう、と想像している。

中国の人たちがたいへん親しんでいる春の花は何だろうか。やはり牡丹だろうか。私が中国の牡丹を初めてじっくり見たのは、山東省済南市の公園を訪ねた時だった。ずいぶん大きな花だなと思った。梅の花もまた中国の人たちに愛されているように思う。

桃園も、菜の花畑も美しい季節だ。うららかな一日、中国の春の花を見ながら、散歩してみたい。

五十川 倫義(朝日新聞)

樱花

五十川 伦义

春天来了。中国大地当是百花斗艳,正在宣告季节的交替吧。日本正值樱花时节。位于亚热带的冲绳,一月份花就开了,接下来,从九州、四国,很快就会传来樱花开放的消息。日本地形南北狭长,樱花从南到北依次开放,能开很长时间。

把樱花(主要是“染井吉野”樱花)同时开放的地点连接起来,这条线叫“樱花前线”。前线通过东京大概是在3月末,东北大部分地区是4月份,到了5月份,才能到达北海道各地。

樱花的根,也深深地扎在日本人的生活中。

和中国不同,日本的学校是4月份开学。刚刚成为小学生的孩子们拉着爸爸妈妈的手参加入学典礼,在樱花盛开的校园里照相留念,这是一首经久未变的日本风情诗。

“赏花”也是春天的乐趣之一。人们去有名的樱花胜地赏樱。东京的上野公园、新宿御苑,大阪的大阪城公园和“造币局樱花通道”,总有很多人纷至沓来。

赏花的人们在樱花树下饮酒、吃饭,享受一日春光。也有人唱歌跳舞。公司的同事们在樱花树下举行宴会。为了晚上的宴会,组织者们有时白天就要派“先遣队”去公园,以确保能占一个好地方。

古都京都有很多樱花名胜地。以秋天红叶之美而闻名的岚山,樱花同样负有盛名。这里有周恩来总理描写樱花景色的诗碑。1919年4月5日,当时在日本留学的周恩来来到岚山,看见粉红色的樱花和绿色的松树在雨雾中若隐若现,不久,阳光从云间照射下来。面对此景,周恩来赋诗抒怀,碑上刻的就是这一首。60年后的1979年4月,邓颖超夫人访日时,举行了诗碑的揭幕典礼。

周恩来游岚山一个月后,中国掀起了五四运动。周恩来回国参加了运动。岚山之诗,记录了革命家的年轻岁月。

1972年9月,周恩来作为总理举行欢迎宴会,招待来北京进行中日邦交正常化会谈的田中角荣首相率领的代表团。在人民大会堂金碧辉煌的宴会厅,人民解放军奏起了日本和中国的乐曲。第一首就是日本的“樱花”。不知那个时侯,周总理是不是想起了岚山的樱花。

中国好象也有很多樱花。

我因工作常驻北京时,曾全家去玉渊潭公园赏花。可能是去得稍早了一点,樱花还很少,可是公园里人很多,熙熙攘攘,十分热闹。人民日报海外版介绍说,玉渊潭公园的樱花有7种,约3000株。可以想象,这些樱花一齐盛开的时候,一定是非常美的。

中国人最喜欢春天的什么花呢?大概还是牡丹吧。我第一次仔细观赏中国的牡丹,是在山东省济南市的公园里。当时觉得牡丹花可真大。印象中,梅花也很受中国人的喜爱。

春天来了,这是一个桃花、菜花也非常美丽的季节。真想在明媚的日子里,一边散步,一边欣赏中国春天的花。

日漢対訳読物 16 桜を知る

王 京

私は去年3月末に日本に着いたが、空気はまだやや冷たかった。何人かの日本の友人に会うと、最初の言葉は決まって「いい時期に来ましたね」であった。この「時期」は言うまでもなく、桜の季節である。

今、日本では「花」といえば、説明を加えない限り、必ずと言っていいほど桜のことをいう。しかし、昔からそうだったわけではない。西山松之助先生の研究によれば、古くは「花」といえば梅の花だったが、後になって次第に桜に定着してきたそうだ。詩を詠みながらお酒を飲み、歌や踊りを楽しむということは、宮廷貴族の「風流」な花の宴を物語っていたが、これは大陸への憧れから生まれた模倣である。ただ、「花」の゗メージを桜に集中させるのは、日本人の独特な美的感覚だと言わざるを得ない。

外国人の心の中でも、桜は日本を代表している。中国でも日本で制作された宣伝用の絵を常に目にすることができる。絵の上部には、日本のシンボルとされる富士山がうっすらと雪化粧をしてそびえたち、その山麓(さんろく)をみめ麗しい新幹線が疾走する。手前の一角をみると、斜めに何本かの桜が満開して、薄いピンクと澄み切った青空とがよく映えている。たとえ、富士山を日本人の心の中の永遠の古里といえば、新幹線は日本経済の飛躍的発展を表しており、桜は日本人の自然に対する思い、美的風情のシンボルだと言えよう。

中国で花といえば、人々は豪華絢爛たる牡丹(ぼたん)を思い浮かべるだろう。また、優雅で奥ゆかしい蘭の花、雪の中で鮮やかに咲く梅の花、すらりと美しい蓮の花„„地域の違い、経歴の違いによって、思い浮かべるものも多様である。日本と比べ、多くを包容している気がする。この点において、斎藤正二氏の見解はかなり面白い。同氏は、日本の国の花―桜は社会神話であり、民族主義、国家主義の産物であるという。これは、「花と言えば桜、人と言えば武士」という言葉からもその面影を見ることができる。

もちろん、日本人の桜に対する愛着を政治に帰結させることはできない。中国人と日本人の花を観賞する最も大きな違いは、中国人の対象拡散に対する日本人の集中だと言うより、中国人は開花」を観賞するのに対し、日本人は「落花」を観賞することだと言った方がいいかもしれない。中国人は、花が満開した時の鮮やかで美しい様子が好きであり、日本人は、花が散り去る時の淡々とした哀傷を観賞するようである。

桜の特徴は姿が消えやすいことで、普通1週間ももたず、しかも風や雨に会えば、一瞬にして散ってしまうのである。京都の有名な「哲学の道」に沿って散策すると、春日よりの日差しの切れ間から、ひとしきりひとしきりとそよ風が頬を撫でてゆく。それにつれて、桜の花びらが舞い落ちる。地面に落ち、谷川に落ちる。そして、さらさらと流れ去る川はこれらの精霊を運んでゆっくりと、しかも戸惑うことなく、遠くに流れ去る。確かに、ある種の生命のはかなさ、盛者必衰の感を覚えてしまう。

桜にはある種の魔力があるかもしれない。それでもって、遠い昔と今を結びつけ、慎重というものを奔放へと導き、無常の感嘆を現世の大事なものに変えているのかもしれない。桜を知り尽くせば、日本人を知り尽くすことになるのではないかと思われてならない。

王 京(人民日報)读解樱花

王 京

我是去年三月底到的日本,空气中还略带着些寒意。几位日本朋友见到我们的第一句话便是“来得正是时候”,这个“时候”,不用说,是指赏樱时节了。

今天在日本说到“花”,如果不加以说明,几乎一定指的是樱花,然而并非自古如此。根据西山松之助先生的研究,“花”在上古,最初是梅花,后来才逐渐定格于樱。吟诗饮酒,丝竹歌舞,体现着宫廷贵族“风流”的花宴,可以说是源于对大陆憧憬之下的模仿。然而“花”的意象凝聚于樱之中,则不得不说是出于日本人独特的审美意识了。

在外国人心中,樱花也代表着日本。记得在国内常常可以看到日本制作的一幅宣传画:上面是被认为最具代表性的日本——青峻的富士山顶白雪皑皑,头部呈流线形的新干线高速列车由山麓呼啸而过,近处一角,是斜斜的几枝绽放的樱花,淡雅的粉红与澄净的蓝天相互映衬。如果说富士山是日本人心目中永远的故乡,新干线是日本经济腾飞的标志,那么樱花则是其自然感受,审美情趣的象征。

在中国,提到花,人们也许会联想起雍容华贵的牡丹,清幽素雅的兰花,傲雪怒放的梅花,婷婷玉立的荷花„„,因地域不同,经历不同,浮现出的意象不一而足。相对日本而言,显现出一种多元包容的姿态。在这一点上斋藤正二的意见颇为有趣,他认为日本的国花樱花,是一种社会神话,是民族主义、国家主义的产物。这可以在“花推樱花,人数武士”的口号中看到一些影子。

当然,日本人对樱花喜爱不能归结于政治。中国人与日本人的赏花的最大的不同,也许并不在于中国人的对象扩散而日本人的集中,而在于中国人赏“花开”,日本人则是赏“花落”。中国人喜爱鲜花盛放时的娇艳美丽,而日本人则欣赏落花纷飞时那份淡淡的哀伤。

樱花的特点便是易逝,一般只能持续不到一周,而一遇风雨便会满树凋零。沿着京都著名的“哲学之道”漫步,春日斜阳之中,阵阵微风拂过,白色的樱花花瓣便飞舞而下,轻盈地散在地上,落入溪中,而淙淙的流水就轻轻载着这些精灵缓缓地,却是坚决地远去了。的确有一种生命易逝,盛者必衰的感触。

樱花也许是有一种魔力,联系着远古与今天,引导着拘谨走向奔放,将无常的感叹变为现世的珍惜。也许读懂了樱花,便会读懂日本人吧。

王 京(人民日报)

日漢対訳読物 17 桜と牡丹

西園寺 一晃

前々回のコラムで王京さんと五十川さんが桜について書いていました。今日は4月15日、東京の桜は散りはじめ、いたる所で花吹雪が見られます。世の中の不景気を吹き飛ばすような染井吉野の艶姿を見ているうちに、私はかつて北京で友人と交わした花談義を思い出しました。私は中学校3年から大学を卒業するまで、10年間を北京で過ごしました。当時の中国は政治運動の連続で、経済的にも大変貧しい時代でした。東西冷戦の最中で、緊張した毎日でしたが、それでも学生たちはそれなりに生活をエンジョ゗していました。当時の中国は外国との交流はあまりありませんでした。でも周りの学生たちは結構外国のことを知っていて、日本人の桜好きのことも知っていました。

北京大学在学中の春のある日、学友の1人がおもしろい議論をふっかけてきました。

「やっぱり日本人は桜そのものだな、国民性といい、思考方法といいまさに桜だ。ところで君は中国人を花にたとえればなんの花だと思う」というのです。私たちは「花と国民性」について大いに議論しました。

彼の意見によると、日本人は桜、中国人は牡丹だといいます。桜はパッと咲いてパッと散る、咲くときも一緒、散るときも一緒。散り方が美しい。一輪一輪の花はこれといった特徴はなく、目立たないが、樹全体、林全体の花となると圧倒されるような華麗さと迫力がある。つまり日本人は、行動様式が集団主義的で、規律を重んじ、集団からはみ出すことはしない。1人ひとりの個性はないが、集団では大きな力を発揮するというのです。

一方中国人は、個性が強くあまり集団行動は好まない。他人と同じことをするより独創的なことをしたいという意識が強い。牡丹という花は、同じ木の花でも咲く時期は一緒ではないし、形や色が微妙に違う。同じ木の花同士妍を競う。だから中国人的だというのです。

たしかに日本人はあまり自己主張はしませんし、議論が下手だといわれています。それに比べ中国人の議論好きには定評があります。彼の「中国の指導者は大変だよ、何億という個性の固まりをまとめなければならないのだからね」といって笑った顔が印象に残っています。

時代が進み、世代が変わる中で、「桜」の日本人は変わりつつあります。たとえば会社というのは1つの集団ですが、古い世代はこの集団のために個人や家庭を犠牲にしてまで粉骨砕身働いてきました。公休をとるのも何となく後ろめたさを感じるほど「会社人間」が多かったのです。今の若い社員は組織に縛られるのを嫌います。もちろん公休は権利として堂々ととります。前は年に1,2度あった社員旅行は、最近あまりしなくなりました。若い人が嫌がるからです。旅行は個人で、あるいは気のあった者同士で行くべきであり、個人の時間を制約されたくないという理由です。堂々と自己主張する人も増えました。これは決して悪いことではないと思いますが、やはり年配者の中には何となく割り切れない人がいることも事実です。これは良い悪いというよりジェネレーション・ギャップでしょう。

「牡丹」の中国はどうでしょうか。「新人類」という言葉も生まれるほど、やはり世代間の考え方や習慣の違いは大きくなっていると聞きます。

絢爛(けんらん)たる中華文明にはぐくまれた中国人と、その文明から大きな影響を受けた日本人。しかし若い世代は本来の伝統的文化に加え、グローバリズムが席巻する中で、さまざまな文化の影響を受けるのは必至です。新しい中国人と日本人の誕生です。

私はいくら時代が変わり、世代が変わっても、「桜」と「牡丹」はそれぞれよき伝統は引き継いでもらいたいし、なによりも仲良くしてもらいたいと切に願います。日中の友好と協力はゕジゕの安定と平和の基礎ですから。

樱花与牡丹

西园寺 一晃

上上次的栏目中,王京和五十川就樱花畅谈了各自的感受。今天是4月15日了,东京的樱花已经开始凋零,到处落“樱”缤纷。

欣赏着怒放的染井吉野樱花直欲把世间的不景气吹得云飞雾散似的艳姿,我想起了在北京曾经和朋友进行的一场关于花的清谈。

从中学三年到大学毕业,我在北京住了十年。当时的中国,政治运动不断,经济也极为困难。而且,正值东西方冷战,每天都很紧张。但是,学生们还是以自己的方式享受着生活。当时的中国与海外几乎没有交流,可周围的同学对外国的情况知道得并不少,也知道日本人喜欢樱花。

在北京大学上学的一个春天,一天,一位同学向我提起一个很有意思的话题。

“日本人其实就是樱花嘛,国民性也好,思维方式也好,简直就是樱花式的。如果用花来比喻中国人的话,你说用什么花好?”我们就“花与国民性”展开了热烈的议论。

依他说,日本人是樱,中国人是牡丹。樱花开得快谢得也快,一起开放,一起凋谢。花谢的样子非常美丽。一朵一朵的樱花单看时没有什么特征,不怎么显眼,可是,如果是一棵樱花树、一片樱花林,其华丽和气势能够压倒一切。也就是说,日本人的行为方式属于集团主义,注重纪律,不脱离集体。具体到每个个人,没有什么个性,可是集合起来,就能发挥巨大的力量。

相反,中国人个性较强,不太喜欢集体行动。倾向独创,不愿与他人雷同。牡丹花即使同处一株,花期不同,花形花色彼此微妙区别,相互竞艳。因此,牡丹更像是中国人。的确,一般来说,日本人不太强调自我,不善论辩。相比之下,中国人的好辩是有定评的。“中国的领导人太难当了,要把几亿充满个性的人拢到一起。”同学说这话时的音容笑貌,至今难忘。

随着时代进步和世代交替,属“樱”的日本人也在变化。比如说,公司是个大集体,有很多“公司人”为了这个集体,到了可以牺牲个人和家庭,为公司粉身碎骨工作的程度。休个公休日,都要感到有点说不出来的内疚。现在的年轻职员则不同,不愿意受组织束缚,公休日作为自己的权利,堂堂正正地享受。以前公司每年要搞

一、两次集体旅行,现在也不怎么搞了,因为年轻人不太喜欢。理由是,旅行应该是个人或者是同合得来的朋友一起去的,个人的时间不希望公司支配。另外,公开坚持自己主张的人也多起来了。我认为这不是坏事,当然同时也要承认,有些上点年纪的人对此多少有些不快也是事实。这不是好与不好的问题,应该说是一种代沟吧。

属“牡丹”的中国现在如何?我听说,已经到了出现“新人类”的程度,不同世代之间想法和习惯的差异,同样也是越来越大。

绚烂的中华文明哺育的中国人,受中华文明极大影响的日本人。然而,年轻的一代在接受传统文化的同时,身置国际化浪潮的席卷之中,各种文化必然对他们产生影响。新中国人和新日本人也就由此诞生。

不管时代怎样变化,世代怎样变化,我殷切希望,“樱花”和“牡丹”能够继承各自的好传统,世世代代,友好相处。因为,日中的友好与合作是亚洲和平与安定的基础。日漢対訳読物 18 牡丹と桜の縁 徐 志剛

花と国民性に関する西園寺先生の見解には独特なものがある。よく考えてみると、日本人を桜にたとえ、中国人の性格特徴を牡丹にたとえることは、十分に適切だとは言えないが、しかし、それほど強引でもないような気がする。

私の古里―山東省の青島にも桜が多いが、いずれも遠いところからの来客で、ド゗ツの西洋桜、日本の東洋桜と、それぞれその美しさを競っている。青島は季節的に東京よりやや遅く、晩春初夏、東京の桜がとっくに散ってしまったころ、我古里の桜はちょうど花盛りを迎えるのである。メーデー前後の何日かの休日は、絶好の花見の時期となる。

桜を「輸入」花とすれば、牡丹は中国の原産だと言えよう。牡丹は山東省荷澤と河南省の洛陽に多い。西園寺先生が訪れた済南から西に3時間ぐらい行ったところに荷澤がある。花咲く季節になると、果てしない花の大海原が広がり、東西南北から観光客が次々に押し寄せる。満開の牡丹は人々に我を忘れるほどの喜びを与えてくれるのだ。牡丹は妖艶であるわりには、辺ぴなところに育つ。それが、楊貴妃のちょう愛と文人たちの文筆のおかげで、ますます華やかさが膨らみ、早々と花王の栄冠を手にすることができたのである。

しかし、牡丹をここまで持ち上げた楊貴妃は惜しくも美人薄命で、美しくて悲しい物語を残した。

日本留学の時に、この物語の日本版続編を聞くことになるとは思いにも寄らなかった。名古屋の熱田神宮は1000年の歴史を誇る神社であるが、楊貴妃がここで牡丹と相伴って生活していたという美しい物語が伝えられている。聞くところによると、多情な皇帝は、人々の目を忍んで、楊貴妃を遠い日本に送り、楊貴妃はここで寂しい一生を過ごしたそうだ„„。楊貴妃が日本に渡ってきたというこの伝説は、人々のやるせない気持ちを幾分慰めるものである。

時代は発展するものである。先生がおしゃったように、社会も人間も少なからぬ変化を起こしている。ただ、一つだけ変わらないものがあると言えるなら、それは、日本人の桜に対する熱い愛であり、中国人の牡丹に対する一途な愛だと言えよう。

つい先日、日本・沖縄の某高校生からわれわれのところにお手紙が届き、牡丹の栽培方法を尋ねられた。彼が通っている学校は中国の学校と姉妹校を結んでおり、彼らが桜を送ったら、中国から牡丹の種が送られてきたという。どうしてもこの牡丹を無事に咲かせたいが、経験がないため、手紙で牡丹の種からの栽培方法を尋ねようとしたのである。

私は、この互いの交流と理解を象徴する桜と牡丹に祝福を捧げたい。その花が、根を下ろし、芽を吹き、花を咲かせることを願ってやまない。実は、中国の各地にも桜林があって、桜の花見はずいぶん前から中国人の春先の一大行事として定着しており、日本人も同じく牡丹の花が好きなようだ。今後、中国に桜の木がますます多くなり、日本で牡丹の花がますますきれいに咲くことと信じている。このような桜と牡丹の交流は、中日両国人民の交流の歴史に、牡丹と桜の縁として残るだろう。そして、知らず知らずのうちに、両国人民の「国民性」にも影響を及ぼすだろう。

ちなみに、ちょうど今日(4月15日)、第18回国際洛陽牡丹祭りの幕が上がる。西園寺先生はしばらく中国にいらしてないのでは?できれば、ぜひお忙しい中から、お時間を割いて荷澤と洛陽に来られ、牡丹の風貌を一目ご覧になってほしい。牡丹樱花缘

徐 志刚

关于花与国民性,西园寺先生的见解很有独到之处。细细想来,以樱花比喻日本人、牡丹比喻中国人的性格特征,虽难说十分吻合,却也不算勉强。

在我的故乡山东青岛,也有许多樱花,都是远道的来客。德国的西洋樱,日本的东洋樱,在这里争奇斗艳。青岛的季节比东京略晚,春末夏初,东京的樱花早已开过,故乡的樱花却是盛开时节。“五一节”前后,几天休假,给人们提供了极好的赏樱时机。

如果说樱花是“进口”花,那牡丹就是中国原产了。牡丹以山东菏泽和河南的洛阳为多。从西园寺先生到访的济南,西去三个小时就是菏泽。花开时节,一望无际,天南海北的游客摩肩接踵,盛开的牡丹给人们带来了忘情的欢乐。牡丹娇艳却生于僻乡,但承杨贵妃的宠爱,加之文人墨客的鼓吹,富贵有加,早早赢得花王的桂冠。

然而,成就她们的杨贵妃却是红颜薄命,留下了一个美丽而凄惨的故事。

留学日本时,没有想到,居然听到了这个故事在日本的下篇。名古屋的热田神宫,一所千年神社,流传着杨贵妃在此与牡丹相伴的美谈。据说,多情的皇帝避开人的耳目,偷偷将贵妃送到了遥远的扶桑,贵妃在这里伴着牡丹渡过了寂寞的一生„„。这个贵妃东渡扶桑的传说,给人们在遗憾中留下了些许安慰。

时代是发展的,正如先生所说,无论是社会,还是人,都会有不小的变化。如果说,有一点不会变的,大概就是日本人对樱花的热爱、中国人对牡丹的钟情吧。就在前两天,我们收到来自日本冲绳某高中的一封来信,询问牡丹的栽培方法。他们和中国的学校结成姐妹校,他们送去了樱花,对方回赠的是牡丹种子。他们一心要把这牡丹栽培成功,因为没有经验,特来信询问从种子开始的培育方法。

很愿意为这象征交流和理解的樱花、牡丹祝福,希望她们能够生根,发芽,开花。实际上,中国各地已有很多樱花树林,欣赏樱花早已成为中国人春天的一大盛事,而日本人也同样喜爱牡丹。相信今后,中国的樱树会越栽越多,日本的牡丹也越开越旺,这种樱花和牡丹的交流,将在中日人民相互交往的历史上,留下一个牡丹樱花缘的佳话,甚而潜移默化地影响两国人民的“国民性”吧。

顺便一提的是,第十八届国际洛阳牡丹节刚好于今天(四月十五日)开幕。西园寺先生有些时间没有来中国了吧?如能抽出时间,不妨忙里偷闲地来荷泽和洛阳走走,观赏一下牡丹的风采。

徐 志刚(人民日报)

日漢対訳読物 19 食在中国

野口 拓朗

年をとると、食べることに執着してくる。あと、何回飯を食えるのか。指折り数えるとまではいかないが、日々の楽しみのひとつが食事である。

「食」といえば、中国は本場である。「四本足で食べないのは机だけ」と言われるほど中国の人々は食い道楽である。おかげで、中国に滞在していた折、奇妙なものまで口に入れる幸運に恵まれた。

貴州省でのこと。車に乗っていると、突然、食堂の店先に丸裸の動物が陳座しているのが見えた。下りてよく見ると、犬の肉だった。道路の両側長さ200メートルほどにわたって犬肉を食べさせる食堂がひしめいている。初めて見る光景だった。同行した貴州省政府の職員がにやりとして言った。「ここの名物です。体が温まって元気が出ますよ」

どこに行っても、「野味」という看板にぶつかる。カエルやヘビ、タヌキ、ハトなどが檻の中で出番を待っている。上海の知人にお呼ばれした時に、カエルとヘビが出た。カエルは鳥肉のようにサクサクとして美味だった。ヘビは空揚げで、細長いせんべいのように見えた。我が家の家系はどうもだまされやすいようだ。小学生の息子は当時、足が速くなりたくて仕方なかった。同席した日本人の友人に「ボク、これを食べると足が速くなるよ」と言われてコロリだった。パクパクとたくさん口にした。その甲斐があったのか、運動会では堂々2位だった。

サソリを初めて体験したのは山東省でだった。この地方の特産で、サソリの養殖で大もうけした「サソリ大王」の記事がよく新聞に出る。これも空揚げだったが、せんべいのような口ざわりで、淡泊な味だった。北京のホテルのレストランでたまたま山東省フェゕをやっており、サソリもあった。子供達は嫌がるかとも思ったが、「スナック菓子みたい」と意外に歓迎された。

最近、日本にも直輸入されるほど、日本人の間で人気急上昇なのが上海ガニだ。「左党がシーズンを待ち焦がれる」と言われるほど、あのねっとりとしたカニのミソと熱燗の紹興酒が合うのだ。食べ頃は10月から12月まで。上海近郊にある陽澄湖、洪沢湖、太湖などが産地だ。大きさにもよるが、市場では1匹50元-100元、ホテルでは3、4倍の値段になる。

上海に赴任した頃、こんな話を聞いたことがある。ある日本人の婦人がカニを市場で買った後、ヒモで足を縛られたカニをかわいそうに思い、ヒモを切って袋に入れた。翌日、食べようと思って、袋を見たら、もぬけの殻だった。

いやな人とお付き合いで食事する場合、カニを選ぶとも聞いた。足を割って肉を出すことなどに労力を費やし、食べるのに一生懸命になるので、自然と会話をしなくてもすむからだ。カニは体が冷えるので、食べ過ぎると腹をこわす。

企業の駐在員がこぼしていたのを思い出す。秋になると、顧客や上司らがだんご状態で出張して来る。お目当てはカニ。毎晩、おつきあいした揚げ句、胃の調子がおかしくなった、というのだ。

中国にいると、日本人はどうしても刺し身が恋しくなる。北京では大連あたりからいい魚が入るが、南ではそうはいかない。作家の陳舜臣さんから面白いことを聞いたことがある。刺し身はもともと中国でも食べていたが、食中毒で死んだりしたので熱を通すようになったという。南でも゗ケスを泳いでいる魚介類を自分で選んで食べさせる海鮮料理屋があるが、確かに蒸したり炒めたりだった。「用心深いのかな」とも思う反面、東京で刺し身に目がない中国人を見ると、頭の中が混乱してしまうのだった。

食欲は人間の三大欲望のひとつだ。食文化ひとつをとってみても、中国人の嗜好は果てしがない。人間の研究という意味でも、尽きることのない、奥深い、最も面白い民族であると、私はつくづく思う。

食在中国

人上了岁数,对饮食也执著起来。虽不到掰着指头数今后还有几顿饭可吃的地步,饮食确实成了每日的乐趣之一。

说到“饮食”,中国当数第一。“四条腿的只有桌子不吃”,中国人对吃津津乐道。我在中国的那段时间里,有幸尝到了许多稀奇古怪的美味。

有一次在贵州省,我坐在行驶中的汽车里,突然发现了一家饭馆的门口,摆着一个光溜溜的动物。下车仔细一看,原来是一只被剥光了皮的狗。200多米长的马路两侧,密密麻麻的排列着卖狗肉的小饭馆。这光景还是有生以来头一回看到。同行的贵州省政府的人微微一笑,告诉我说:“这可是本地的特产,吃狗肉既暖身又提劲儿。”

在中国不论走到哪儿,都能看到写有“野味”的招牌。青蛙、蛇、狸子、鸽子等,关在笼子里,等待食客挑选。一次一位上海朋友招待我,就上了青蛙和蛇。青蛙肉像鸡肉一样松软可口,干炸的蛇肉,很像细长的脆饼干。我们家好像有那么一种容易上当受骗的遗传,儿子当时还是小学生,特别希望自己能跑的快些,同席的日本朋友就对他说:“你吃了这个,会跑快的”。儿子信以为真,大吃一通。也许是因为这一吃的缘故,学校开运动会,他居然堂堂地拿了个亚军。

头一次吃蝎子是在山东省。蝎子是山东的特产,报上不时出现一些养蝎子发大财的“养蝎大王”的报道。蝎子也是炸着吃,吃起来就象脆饼干一样,淡淡的。有一次一家北京饭店的餐厅举行山东省商品展销,其中就有蝎子。本以为孩子们可能不会喜欢这东西,没想到却很受他们的欢迎。

最近,直接从上海进口的上海大闸蟹在日本人气急升。尤其是爱喝两口的,望眼欲穿地盼着吃蟹季节的到来,鲜稠的蟹黄配上香热的绍兴酒,堪称一绝。吃上海大闸蟹的季节通常在10至12月之间。上海近郊的阳澄湖、洪泽湖、太湖等地是大闸蟹的产地。根据大小的不同,一只螃蟹要卖到50—100元,在宾馆吃,更是身价3、4倍。

在上海工作期间,听到过这样一件事情:一位日本妇女在市场里买了螃蟹,看到螃蟹被绳子绑着很可怜,就把绳子割断放进了袋子里。第二天打算吃螃蟹时,打开袋子一看,袋子里唱了一出空城计。

听人说,和不喜欢的人一起进餐,螃蟹为上选。掰开蟹腿取肉等很是麻烦,把劲儿都用在了吃上,可以不必多和对方废话。螃蟹属于凉性食物,吃多了会闹肚子。

说到这儿,想起一个企业驻外人员的牢骚话来。一到秋天,他的客户和上司就一个接一个地来此地出差,不用说都是冲着螃蟹来的。每晚作陪,把胃都吃出毛病来了。

去了中国,日本人很自然地要留恋生鱼片。在北京,可以从大连一带运来新鲜的鱼,到了南方就办不到了。我从作家陈舜臣先生那里听到过这样一件有趣的说法:中国以前也吃过生鱼片,因为发生食物中毒出了死人,就改成加热后食用了。在南方,有些海鲜馆儿把活鱼贝类放养在鱼缸里,让顾客自己挑选,但都是蒸着或煎着吃的。那时我想,“中国人真够仔细”,可是当我在东京看到大嚼生鱼片的中国人时,就不知该怎样理解才好了。

食欲为人类三大欲望之一。单拿食文化来说,中国人可说是“欲壑难填”。我常常想,从人类学的意义上说,这真是一个难以穷尽的最有趣的民族。

日漢対訳読物 20 食べ物は最高の友好親善大使

王 麗萍

「旧暦の新年と新暦の新年」という今年正月の文章の中で、著者は日本人が旧暦の祝日を新暦で祝っている習慣を取り上げている。「郷に入れば郷に従え」で、日本にいる私は新しい習慣に従っているが、古い習慣も忘れていない。つまり、日本の新暦で祝うと同時に、中国の旧暦でも祝っているのだ。結局、祝日によっては二回祝うこともある始末だ。たとえば、つい先日の「端午の節句」も、日本人が菖蒲を買って菖蒲湯を楽しむ時、私はもち米と小豆を買って帰り、国内から持ってきたナツメや葦の葉、ネジゕヤメで粽(ちまき)を包んだ。そして、そこら辺からヨモギを取ってきて家の入口に飾った。中国の旧暦では、端午の節句はまだ早いというのに„„。

作った粽はいつも友人たちに分けてあげているが、毎年好評を博している。日本の友人は、とりわけナツメに感心する。そのたびに、私は聞いてしまう。「日本は、中国や世界各地から多くの食品を輸入しているのに、どうしてナツメはないの?」当然、答えはない。中国の漢方でナツメは、補気養血(気を補い、血を造る)の働きがあると言われ、東漢時代の張仲景の『傷寒論』にある「桂枝(肉桂の枝分かれしている細い枝)スープ」は、「桂枝?芍薬?甘草?生姜」のほかに「ナツメ」が入っている。ナツメを食べて体を養うということは、だれもが知っている常識となっている。北方では、10月になると、さくさくする生のナツメが食べられる。赤いナツメだと一年を通して買い求めることができ、デパートにいけば、様々なナツメの加工食品が並んである。

日本人は、飲食と健康に気を使い、自然食品を嗜好するというのに、ナツメを食べる習慣がないとは、残念で仕方ない。そこで、私が中国から日本に帰る時のお土産は、いつもナツメの加工品、あるいはサンザシなどになってしまう。そして、周りの友人たちもだんだんとナツメに馴染んできて、しかも好きになってきている。

何をやるにも最後まで突き詰めないと気が済まないのが私の悪い癖のようだ。普通、友だちにナツメのよさを紹介し、実物を上げたらそれで十分となるだろうが、私はなんとナツメの木を友だちが植えないものかと考えてしまうのだ。偶然にも、ある大型園芸店でナツメの木の苗を発見した私は、これこそが問題解決の根本であると考えた。そこで、農園を持っている友だちに、ナツメの良さと美味しさを説明し、ナツメの木を植えることを提案したのである。意外なことに、友だちは私のこの奇想天外な申し入れを快く承諾してくれ、何本か苗を買って来て植えてみるという。6月にナツメの花の香りが漂い、10月になり、赤いナツメが枝いっぱいに実っている風景を想像すると、興奮を抑えきれない。

ナツメと同様、私は日本の友人にそのほかの種類も勧めている。ス゗カの種、ひまわりの種、カボチャの種などだ。中国ではひまわりの種の油は、コレステロールの抑制作用があり、しかも、肌の美容によい高品質の食用油として知られている。中国人の家庭では、春節や祝日にはもちろんのこと、日常もこれを手放すことはない。デパートやスーパーマーケットに、種のコーナーがないということは考えられない。日本にいろいろな味のポテトチップスがあるように、中国の種にも多くの種類がある。最近、日本の若い女の子の間で唐辛子を食べるのが流行っているようだが、ダ゗エットのためだという。私は彼女たちに勧めたい―─ひまわりの種を食べなさい。美味しくて美容にもよく、それをおやつにすると、太る心配などないから、と。

日本で、ひまわり類の種はもっぱら鳥やリスなどのペットの餌となっており、ペットショップやペットフードショップなどに行かないと、買えない。つまり、優雅な場にはふさわしくないとされているのだ。このひまわり類の名誉復帰を図ろうと、私は常に家に遊びにくる日本人の友だちをもてなした。日がたつにつれ、友だちの中には食べ方がとても上手になる人もいて、みんな美味しそうに食べてくれた。もっと後になると、私が彼女たちの炒めたひまわりの種などをいただくようになったのである。小林という友だちは、私にこんな話を聞かせてくれた。最初、彼女の家でひまわりの種などを食べるのは彼女1人しかおらず、「鳥みたい、リスみたい」と、みんなに笑われた。しかし、少し時間がたつと、子供たちが一緒に食べ始めた。普段、親とも交流が少ない子供たちだが、これを食べ始めると、不思議と会話が多くなる。最後に、彼女の旦那さんが好奇心に駆られて、幾つか食べてみる。「おい、美味しいじゃないか。鳥がこんなに美味しいものを食べているなんて、贅沢だな。」それ以来、旦那さんも一緒に食べるようになったそうだ。

現在、私が友だちの農園に植えたひまわりの苗は青々としていて、すくすくと育っている。この夏にはきっと黄金の花を咲かせるだろう。種が成って、鳥が来て食べたらどうしようかと、心配している友だちに、私は大丈夫だと言った。鳥も食べる権利がある。鳥が半分食べ、人間が半分食べる。これこそ、人間と自然の在り方なのではないか。

私は冗談半分に、自分のことを中国の種の親善大使と呼んだことがある。種の文化交流に力を尽くしているから。野口先生は、中国で多くの珍しいものを召し上がり、「食は中国に在り」という言葉を身をもって体験されているが、今度は何か日本の食品を中国の友人に紹介してほしいと思う。たとえば、納豆―─失礼。先生がお好きかどうかは存じ上げてないが、多くの中国人が臭い豆腐を嫌がるように、多くの日本人も納豆を食べないと聞いている。ただ、私は納豆大好き人間だ。しかも、私に影響されて、我家族と親戚は、皆納豆フゔンである。なんと、弟の1才になったばかりの娘も納豆愛好家となっているのだ。

王 麗萍(人民日報)

亲善食品 王 丽萍

“新历年 旧历年”一文中,作者提到日本人按新历过旧历节的习惯。入乡随新俗不忘旧俗,我现在是日本的新历过,中国的旧历也过。结果,有些节就过两次。比如刚刚过去的日本“端午”。当日本人买回菖蒲,用来菖蒲浴时,我买了糯米、红小豆,加上国内带来的红枣、苇叶和马莲草,包了粽子。还从外面采了一把艾蒿放在了门口。其实按照中国旧历算,端午还早呢。

每年包粽子,总是与朋友共享,每每得到好评。日本朋友尤其对其中的红枣,赞不绝口。这时,我总是问,日本从中国以及世界各地引进了很多食品,为什么没有红枣呢?答案自然是没有的。中医认为红枣有补气养血功效,东汉时代的张仲景《伤寒论》中,“桂枝汤”一方除了“桂枝、芍药、甘草、生姜”外,就是“大枣”。在中国,吃枣补身体是常识。在北方,10月份,可以吃到清香脆甜的鲜枣,而红色的干枣一年四季都可以买到。商店里还有各种枣的加工食品。

对饮食养生很讲究,崇尚自然食品的日本人没有吃枣的习惯总是一件很遗憾的事。每次从国内回来送给朋友们的礼物,不是枣的加工品就是山楂等类。渐渐地,周围的朋友们熟悉了枣,并且很喜欢。

干什么爱钻牛角尖是我的毛病。按理,向朋友们介绍枣的功效,送给他们实物,已经可以了。可是,我居然想到种枣树上。一次,我在一家在大型园艺店,偶然发现了枣树苗。我想这是从根本上解决问题的办法。我对一位有农园的朋友,讲了红枣的养生与美食,并建议他种枣树。对我的异想天开,朋友竟欣然应允,答应买几棵来种。想象着六月枣花飘香,10月红枣挂满枝头的景象,不能不让人兴奋。

同红枣一样,我还向日本朋友“推销”瓜子:西瓜子,葵花籽,倭瓜子。在中国瓜子油是高质量食用油,对胆固醇有抑制作用,据说对皮肤还有美容作用。中国人家里过年过节自不必说,平日里也少不了它。商店里,自由市场上,没有卖瓜子的柜台和摊点,那简直不可想象。像日本卖的各种口味的炸土豆片一样,中国的瓜子流派也很多。据说最近日本年轻女性流行吃辣椒,为的是减肥,我想对她们说,吃瓜子吧,又好吃又美容,用瓜子代替甜食,不用担心发胖。

在日本,瓜子是专门用来喂鸟和松鼠之类宠物的,除了宠物店或宠物食品专柜买不到瓜子,不登大雅之堂。为了给瓜子正名,我经常用它招待常来家玩的日本朋友。久而久之,一些人竟能很熟练地扒瓜子,吃得津津有味。再后来,我就吃他们炒的瓜子了。一位叫小林的朋友对我说,一开始她家中只有她一个人吃,大家笑话她是鸟、松鼠。没想到,时间一长,孩子们也跟着吃起来。平时和家长交流不多的孩子们,扒起瓜子来,话竟多起来。最后,她丈夫忍不住好奇,尝了几个。“嗯,味道不错嘛。鸟吃这么好吃的东西,也太奢侈了。”从此以后,丈夫也加入到吃瓜子的队伍来了。

目前,在朋友的农园里,我种下的向日葵已经绿苗茁壮,生机勃勃,相信今年夏天一定会开放出金灿灿的花朵。朋友说,结了瓜子,鸟来吃怎么办?我说,没关系,鸟也有吃的权利。鸟吃一半,人吃一半。这才是人与自然应有的关系。

我曾开玩笑地戏称自己是中国瓜子亲善大使,力促瓜子文化交流。野口先生在中国吃了很多稀奇古怪的东西,亲身体验了“食在中国”。建议您也把日本的什么食品介绍给中国朋友吧。比如纳豆。请原谅,我不知道您是否喜欢,因为我知道像很多中国人讨厌臭豆腐一样,很多日本人不吃纳豆。但我特别喜欢纳豆。并且,在我的影响下,我的家人和我在中国的亲属,大家都是纳豆谜,就连弟弟刚满一岁的小女儿也是纳豆爱好者。

王 丽萍(人民日报)

日漢対訳読物 21 強い志を持つ朋に会えた

穴吹 史士

有朋自遠方来不亦楽乎(とも有り、遠方より来る。また楽しからずや)。「論語」の冒頭に出てくるこの1節は、日本人の間でも、比較的よく知られている。私の世代では、10代の初めで覚えさせられた。40年たったいまも、新しい友と出会い、古い友人と再会するたびに、繰り返し思い出す。

孫盛林さんと初めて会った2年前にも、孔子のこの言葉が頭をよぎった。彼自身のそのときの説明によれば、「生後の9年を山東省で過ごし、その後の9年を黒龍江省で、次の9年を北京で、そしてまた9年あまりを東京に住み、今に至っている」という話だった。日中間の交通が容易、かつ迅速になったとはいえ、私は「遠方より来る」という思いを持った。

孫さんは私より15歳も年下で、彼は当時、人民日報の゗ンターネット版日本サ゗トを軌道に乗せるため、文字通り徒手空拳、獅子奮迅(ししふんじん)の働きをしていた。私もまた、印刷媒体からウェブの世界に転じたばかりで、新しい表現スタ゗ルを模索して苦労していた。孫さんに、世代、年代を超えた同志を見たのである。

「日中飛鴻」は、ただでさえ多忙な孫さんに一層の負担を強いることになった。私もまた、その後、がんを発病、入院、手術を経験する。しかし、お互い、゗ンターネットというメデゖゕの未来に揺るぎない確信を持っていたことが、この小さなコラムを続けさせたのだと思う。この間、人民日報゗ンターネット版は、飛躍的に読者を増やしたそうだし、asahi.comもまた、急成長した。

「朋」という概念は、幼時をともに過ごした仲間や、学校の級友や職場の同僚といった枠をはるかに超えて、どんどん拡大している。なにやら゗ンターネットの広がり方に似ている。実際、゗ンターネットが、思いもよらぬ友人を探し出してくれることも多い。

私は、友人たちと私的なサ゗トを共有しているが、そのサ゗トに30年以上音信がなかった古い友人から連絡が入り、昔に増して親しい交際を再開している。そんな中の1人は、ずっと長くゕメリカの地方都市に住んでいるので、会って話をする機会をまだ持てずにいる。朋有り、遠方にいて、来たらず、亦楽しからずや、である。

asahi.comのなかで私が編集しているAIC(ゕサヒ?゗ンターネットキャスター)というコラムには、世界中から投書が寄せられる。私は、投書の主と仲よくなる癖があり、うち2人をコラムの正規の執筆者に起用してしまった。また、見ず知らずの別の投書者の誘いで、上海までカニを食べに出かけたこともある。

友人を見つけるのに、゗ンターネットは便利だということを、私が説きたいわけではない。本当のことをいえば、知り合いはもうあまり増やしたくない。この年になると、人とのつきあいがめんどうにもなってくる。

しかし、強い志に出会うと、ついつい体と心が反応してしまう。私が言いたいのは、「朋」を作り出すのは、志であるという話だ。強い志は、多くの人の気持ちを揺さぶり、引きつけ、友人にしてしまう。志こそ、国籍や年齢、性別、職業を超えて、人を結びつける、゗ンターネットよりはるかに普遍的な力なのだ。

孫さんの活動を、陰に陽に助けた数多くの友人。その多くが日本人であることを、私は誇りに思うし、自分がその中の1人に数えられたいとも思う。

穴吹 史士(朝日新聞)

同志出良朋

穴吹 史士

有朋自远方来,不亦乐乎。《论语》开篇这一节名句,在日本人中也较为人知。与我同年代的人,在十几岁时就被灌输在脑子里。40年过去的今天,无论与新朋相会,与旧友重逢,仍总要想起这句话来。

两年前与孙盛林第一次相见,孔子这句话再度在脑海中闪现。他自己介绍说:“小时候在山东呆过九年,其后在黑龙江九年,在北京九年,来东京也有九年了。”尽管中日之间交通已经变得容易而迅速了,我还是感到,他是自“远方”而来。

孙君小我15岁,他当时为了人民日报网络版日本站早日上轨道,真正是赤手空拳,发愤工作。我自己也处在刚刚从印刷媒介转向网络世界的当口,正为新的表现形式苦苦摸索。一见如故,引他为超越世代、年龄的同志。

《日中飞鸿》,给本来就忙的不可开交的孙君增加了新的负担,而我,在那之后,也经历了癌症发病、入院和手术的变故。是彼此对因特网媒介的未来的坚定信念,才使这个小小的栏目得以持续。在这期间,人民日报网络版日本站读者人数取得了飞跃的增长,朝日新闻网络版,也快速成长起来。

“朋”的概念,超越幼时的伙伴、学校的同学和单位的同事的范畴,不断地扩大。颇像因特网的扩展形式。实际上也是,通过因特网,经常会遇到预期不到的朋友。

我和友人运营的一个个人站点,断绝了30年音信的老朋友突然找了上来,重续友情,亲密不亚当年。其中有一个人,一直居住在美国的地方城市,至今没有机会见面叙旧。正是,有朋在远方,未曾来,不亦乐乎?

朝日新闻网络版中,我编辑的AIC(朝日因特网主持人)专栏,收到来自世界各地的来稿。我有个和投稿人交好的毛病,甚至启用了其中的两个人作为专栏的正式执笔人,还应另外一位素未谋面的投稿人之邀,专门跑到上海去吃螃蟹。

要交朋友,因特网是个便利手段——我想说的不是这点。说真话,已经不想多结识人了。到了这个年纪,和人交往有时甚至觉得有些麻烦。

但是,遇到有志者,身心不由自主地发生感应。我想说的是,同志出真朋。强大的志向,能够打动许多人,吸引他们,终成挚友。志向是一种普遍的力量,远远大于因特网,可以超越国籍、年龄、性别、职业等因素,把人联结在一起。

孙君的工作,得到众多朋友各个方面的帮助。朋友中有很多日本人,使我感到很是自豪,也希望,自己能成为那其中的一个。

日漢対訳読物 22

外では友だちが頼り

孫 盛林

中国には「家では両親が頼り、外では友達が頼り」という言い方がある。これは、まったくそのとおりで、一生涯のうち、家にいる時間は限られており、人生の大部分は友達に頼らざるを得ない。海外にいて、周りに親族もいない、言葉も文化も違う、考え方も違う、社会制度も違う、となるとなおさらだ。人間はしかり、仕事もまたしかりである。

これほど感無量なのは、5月1日がちょっと特別な日であるからだ。この日は、人民日報゗ンターネット版の日本サ゗トが設立されて2年半にあたり、日本語版の創刊から1年半になる、ちょっとした記念日なのだ。各分野の支持と協力がなければ、日本サ゗トと日本語版の今日の発展は想像もつかなかったことは言うまでもない。その一つに、私達が多くの日本の友人に恵まれたことにある。

海外で仕事を展開する際、常に様々な問題にぶつかるが、まずは、中国と異なる各種規定や制度が一つの難関となる。そこで、経済コンサルタントである私の友人は、ずっと無償でわれわれを助けてくれ、いろいろなゕ゗デゕを出したり、私達のためにあちこち奔走したりしてくれた。彼いわく:「私は中国の東北部で十何才まで育っており、そこは私の古里である。日本が過去にやったことに、私は自分の力の及ぶ範囲で償って行きたい。微々たるものに過ぎないかもしれないが、私の気持ちである」 その素朴で誠実な言葉に胸を打たれる。

似たようなことは数え切れないほどある。私達が日本語版の翻訳レベルの低迷に悩んでいる時、私の学生の1人が自分の中国留学時代の友達を紹介してくれ、これによって、われわれは初めて日本語を母国語とする校正者を得たと同時に、編集部で日本人パートを採用する先例を切ったのだ。また、私たちが日本語ができる人材を集められなくて困っているとき、私の東京大学時代の恩師がたまたま北京外国語大学の日本学研究センターの客員教授として赴任しており、そのつながりでわれわれは学生の就職を担当する先生と知り合い、日本語の優秀な人材を常に確保することができるようになった。ある友人は、日本語版の創刊以来、ずっと訳文に対する批評を゗ンターネットを通じて寄せてくださり、私どもの影の先生になっている。さらに、日本サ゗トがオフゖスの改装工事のため、居場所がなくなった時も、1人の友達がうまい具合に、東京近郊にある自分の建物を提供してくれたので、われわれは支障なく仕事を続けることができたのである。

穴吹先生は「学問の海に深まる友情」(4月1日更新)に対する返信の中で、人民日報と朝日新聞が交換しているコラム「中日飛鴻」を取り上げて、そのメーリングリストのタ゗トルが「Friendship=友情」となっていることを指摘していた。先生がご存知のとおり、両社の゗ンターネット上の友情は、私たち日本サ゗トを取材した朝日新聞記者の縁結びで始まり、双方のリーダーシップとメンバーが精一杯育てて来た賜物(たまもの)なのである。ちなみに、最初のその取材は、東京大学の若い1人の先生の紹介で始まった。

中国には、「一滴の水の恩を涌き出る泉をもって報いる」という言い伝えがある。日本サ゗トと日本語版はゼロからスタートしたが、今日では十数人のメンバーを抱え、日本人の正社員もおり、画面もある程度充実し、改善された。とりわけ、毎日訪れる1万人に及ぶ「゗ンターネット・フレンド」は、私たちの友人の輪を大きく広げ、私たちに苦労の甲斐を教え、発展への自信を与えている。「大きな徳は、感謝の言葉を待つまでもない」と中国では言われているが、実にそのとおりで、感謝してもし切れないのだ。1000字あまりの短い文章では、われわれがこれまでに与えられた支持と協力の万分の一も書き尽くすことができない。彼らは、私たち一人ひとりに、また私たちの仕事に大きな手助けをしてくれただけでなく、中日友好のために尽力して、さらに両国の民間交流における重要な構成部分でもある。われわれはその全てをいちいち数えるすべもないが、いつまでも忘れず、これからも、ひたすら仕事に励んで行くだろう。

私はこの短いお手紙をもって感謝の意を表すと共に、日本の慣用語お借りして結びに代えさせて頂きたい‐‐今後とも、どうぞよろしくお願い申しあげます!

孫 盛林(人民日報)

在外靠朋友

孙 盛林

中国有句俗话:在家靠父母,出门靠朋友。这话一点不假。人的一生中,在家的时间毕竟有限,这就决定了人生的大部分,要靠朋友才能成事。身居国外,举目无亲,语言文化不同,思维方式不同,社会制度不同,就更是这样了。人且如此,事业亦然。

发此感慨,是因为今天有一点特殊的意义:五月一日,是人民日报网络版日本站建站两年半、日文版创刊一年半的一个小小纪念日。可以说,没有各个方面的支持和帮助,日本站和日文版能有今天的发展,是不可想象的。其中之一,是我们受惠于很多日本朋友。

在国外开展工作,经常遇到一些问题,那些不同于中国的各种规章制度首先就是一道难关。我的一位做经济咨询师的朋友,一直无偿地帮助我们,出谋划策,跑前跑后。他说,“我在中国东北长到十几岁,那是我的故乡。对日本过去的行为,我想在自己力所能及的范围内做点补偿。虽然微不足道,但是我的心意。”朴素真诚,令人动容。

类似的事例,不胜枚举。在我们为日文版翻译水平难以提高而苦恼的时候,我的一个学生,介绍了她在中国留学时的朋友,于是我们开始有了第一个母语日文校对,也开了编辑部采用日本临时工作人员的先河。在我们为招收日文人才没有进展而发愁的时候,我的东大的导师恰巧在北京外语大学日本研究中心短期任教,通过他的穿针引线,我们接洽到了负责学生就职工作的老师,开始有了日文优秀人才的稳定来源。一位朋友,从日文版创刊开始,坚持不懈地对译文进行评点,通过因特网,她成了我们不见面的老师。在日本站因为办公地点改建而一时无着时,又是一位朋友,及时腾出了他在东京近郊的房屋,使我们得以不间断工作。

穴吹先生在《谊深学海》的回信中提到,人民日报和朝日新闻为“中日飞鸿”专栏进行工作交流的邮件列表,名字就是“友情”。正如先生所知,两个报社的网上友情,开始于一位采访过日本站的朝日新闻记者的牵线搭桥,以及双方领导和工作人员的精心培育,而最初那次采访,则起源于东大的一位年轻老师的介绍。

滴水之恩,当以涌泉相报。日本站和日文版从零起步,今天有了十几个人,并开始有了日本正式职员,版面上也得到一定程度的充实和改观。特别是,每天来访的这支上万人的“网友”队伍,大大壮大了我们的朋友圈子,让我们感到辛苦的价值,增添了发展的信心。大德不言谢,实际上谢也是谢不过来的。一篇千字的小文,书不尽我们所得到的支持和帮助之万一。他们所做的,不仅仅使我们个人、我们的工作受益匪浅,更是为中日友好的大业尽心尽力,是两国民间交流事业的一个重要组成部分。对这一切,我们无法一一尽数,但始终不会忘怀,无法一一报答,唯有努力工作而已。

我愿意用这封短信,在聊表谢意的同时,借一句日本俗话来结尾:今后还请,多多关照!

日漢対訳読物 23 学問の海に深まる友情

王 麗萍

今年の1月、私はまた、保定の古蓮池を訪れた。

前回来たのは去年の秋であり、五十川倫義先生への返信の中で、その感想を述べている。実は、保定古蓮池で私は、「張裕ザオ宮島大八師弟記念碑」を見つけ、同じく深い感銘を受けていた。あれ以来、詳しいことまでは知らなかったこの記念碑は、時折、私の頭の中に浮かんできたものだ。

後になって、「中国語と近代日本」(安藤彦太郎著)という小冊子を何気なくめくっていると、なんと、宮島大八の名字が目についたのである。それで、やっと謎をとくチャンスに恵まれ、嬉しくてしかたなかった。

この本いわく、1887年、19才の宮島大八(1867―1943)は父宮島誠一郎の紹介で、直隶省(河北省)の保定府にある蓮池書院に行き、当時、桐城派学者で、著名な古文学者、碑学派書法大師でもある張裕ザオ(1823―1894)の下に弟子入りしたという。

1895年、宮島大八は帰国し、自宅で私塾を開いて中国語を教えはじめ、後に善隣書院と名付ける。当時、日本には正規的な中国語教育がなかったため、私塾は日本での中国語教育の中心となっていた。その後、宮島大八は東京外国語大学中国語学科の主任に任命される。ところが、張裕ザオが湖北省の出身であったため、宮島大八にも湖北なまりがついてしまい、その影響を受けて、当時東京外国語大学を出た学生はみな多少湖北調になっていた。彼の著作「急就篇」は、戦前日本の中国語教育の経典であり、40年間で170版あまり出版されたのである。

保定の蓮池書院が清代の名学府であったことは知っていたが、日本の中国語教育とこれほど深い関係があるとは知らなかった。

1月、再び保定古蓮池を訪れた時は、ちょうど降雪後の初晴れで、園内には観光客もなく、亭や楼閣、小橋や遊歩道、うまく作られた山や枯れきった柳の木は、みな静まり返っていた。去年きた時、咲き散った蓮がそこら一面に広がっていた池は、氷と雪に覆われ、静かに眠っている。小さな石を散りばめた遊歩道に沿って、私は奥ゆかしい西の庭に辿りついた。黒玉石で造られた「張裕ザオ宮島大八師弟記念碑」はここに立っている。正面は日本の著名の書法家で、張氏書法の第三代継承者である上条信山の書で、横の額面「誼深学海」という大きな四文字は、中国の有名な書法家―啓功の題字である。そして、碑の後ろの銘文には、遠い昔の物語がつづられていた。

蓮池書院は詔書を受けて1733年に設立され、170年あまりの歳月を経て、1908年に閉院する。1883年から1889年まで、張裕ザオは李鴻章の招へいを受け、蓮池書院の院長となる。

蓮池書院が日本の留学生を受け入れ始めたのは、張裕ザオからであり、宮島大八はその第一人者であった。宮島大八が蓮池書院にきた時、定員はすでに決まっていた。そこで彼は、自分はご高名を慕ってきたので、張の下以外には入れないと表明した。その実直な意志を見た張裕ザオは、特別、李鴻章に事情を説明し、許可を得た後に、この海を渡ってきた学生を受け入れたのである。中国の習慣に基づいて、ひざまずいての師弟の儀式が行なわれた。宮島大八は、中国の学生達とより多く交流すると共に学問に対する自分の心を表すため、辮髪を長し、中国の服装を身にまとった。

宮島大八は張裕ザオに付いて、まずは蓮池書院に、後は一緒に武昌と襄陽書院にいた。その間、大八は結婚のため一時帰国するが、彼が再び襄陽に戻った時、先生の姿が見えなかった。あちこち訪ね、先生がすでに長安に行っていることを知った彼は、漢水を遡って荊紫関を通り、厳冬に秦嶺を超えて、やっと先生との合流を果した。宮島大八は張家の一員となり、張に随って経学、訓詁、書法と、日夜、筆と墨の世界に浸っていた。1894年1月14日、張裕ザオはこの世を去るが、宮島大八は、先生のお体を清め、喪に服し、最後まで見送ったのである。

宮島大八は8年間張裕ザオに連れ添い、古文儒学を深く取得したが、最も収穫の大きかったのは、なんと言っても書法であった。宮島大八は張裕ザオ碑学派の真髄を身につけ、日本に戻ってからも引続き勉学に励み、日本書法界の大家となると共に、独自の流派を形成するまでに至る。

蓮池書院を後にしていると、いつか東京の代々木にある善隣書院に行って見ようという思いが私の脳裏を掠めた。聞くところによると、百年あまりの歴史を持つこの書院は、今も相変わらず中国語の学校として残っていると言う。

王麗萍(人民日報)

谊深学海--张裕钊与宫岛大八

今年一月,我又一次来到保定古莲池。

上次来访是去年秋天。在给五十川伦义先生的回信中,我谈到了保定旅游的感想。其实,在保定古莲花池看到一块“张裕钊宫岛大八师生纪念碑”,同样给我留下深刻的印象。以来,这块我不知细节的纪念碑不时地在脑中闪现。

后来,无意翻阅一本叫做《中国语与近代日本》(安藤彦太郎著)的小册子时,居然读到了宫岛大八的名字。终于有了揭谜的机会,令我兴奋不已。

书曰,1887年,19岁的宫岛大八(1867-1943)在其父宫岛诚一郎介绍下,到直隶省(河北省)保定府的莲池书院,师从桐城派学者、著名古文学家、碑学派书法大师张裕钊(1823-1894)。

1895年宫岛大八回国,在家中开设私塾教中文,后称善邻书院。当时日本没有正规的中文教育,私塾成了日本中文教育的中心。后来,宫岛大八出任东京外国语大学中国语科主任。由于张裕钊是湖北人,结果宫岛大八也有了湖北口音。受其影响,当时东京外语大出来的学生多少都带湖北腔。其著作《急就篇》是战前日本中国语教育的经典,40年中出了170多版。

只知道保定的莲池书院是清代的名学府,却不知还与日本的中文教育有着如此深的渊源。

一月再访保定古莲池时,正值雪后初晴,园中没有游人,静静的是那亭台楼阁,小桥曲径,假山荒柳。去年来时的满池残荷,变成平静的冰雪池面。沿着碎石小径,我来到幽静的西小院,黑玉石的“张裕钊宫岛大八师生纪念碑”就立在那里。正面碑文为日本著名书法家、张氏书法的第三代传人上条信山所书。横额“谊深学海”四个大字,是中国著名书法家启功的题字。碑的背面铭文,记述了一个很久以前的故事。

莲池书院奉诏建于1733年,1908年停办,历经一百七十多年。1883年至1889年,张裕钊受李鸿章之聘,任莲池书院院长。

莲池书院接收日本留学生始于张裕钊,宫岛大八为第一人。宫岛大八到莲池书院时名额已满,但他表示,自己慕名而来,只愿入张门下,不愿他就。见其心诚,张裕钊特报请李鸿章得准,收了这个渡海而来的学生。按照中国的习惯,行了师生跪拜礼。为便于与中国学生交往和表达自己向学之心,宫岛大八也留起发辫,穿起中国服装。

宫岛大八随张裕钊先在莲池书院,后又一起到武昌和襄阳书院。其间,大八因婚事回国,当他再返襄阳时,却不见了老师踪影。他四处打听,得知老师已去长安,溯汉水,过荆紫关,严冬时节翻越秦岭,得以和老师会合。宫岛大八成了张家一员,随张学经学、训诂、书法,日夜相随笔墨之间。1894年1月14日,张裕钊辞世,宫岛大八为老师净身,送终服丧。

宫岛大八跟随张裕钊8年,除了古文儒学受益匪浅,更大的收获在书法上。宫岛大八得张裕钊碑学派书法真传,回到日本后继续潜心研习,成为日本书法界的大家,并且自成流派。

游完莲池书院,我突然冒出一个念头,什么时候还得去位于东京代代木的善邻书院看看,据说,历经一百多年,它仍旧还是一所中文学校。

日漢対訳読物 26 友情の積み重ねが大切

穴吹 史士

恥ずかしい話だが、宮島大八という名も、張裕ザオという名も、私は初めて聞いた。いいわけをすると、このコラムの日本人執筆者の中で、中国の専門家でないのは私ひとりである。ほかの執筆者にとっては、当然知っておくべき有名な人物なのかも知れない。しかし、多くの日本人は私同様、この2人に関して、なにも知らないと思う。

日中間の争いは、太平洋戦争や日清戦争、さらに歴史をうんとさかのぼった戦争まで、日本史の授業で教えられる。また、一般向けの本もたくさん刊行されているので、みんな初歩的な知識は持っている。しかし、日中間の友情、それに尽くした人々の話となると、情報は極端に少ない。

戦争を常に思い出し、反省を重ねることは、同じ悲惨な事態を繰り返さないために、重要な営みである。だからといって、友情の足跡に無知でよいという意味にはならない。だが、あまり友情面に言及すると、戦争から目をそらそうとしているのではないかと受け取られたり、相手国におもねっているのではないかと思われたりすることが、日中間に限らず、ままある。

7世紀から9世紀にかけ、日本は隋、唐へさかんに公式使節を送り出した。船の難破で多くの死者、行方不明者を出しながらも、送り続けた。遣隋使、遣唐使といい、小学校でも教えられる史実だが、専門的研究者は他分野に比べて少なく、まとまった研究書も多くないのだそうだ。深く研究すると、日本の古代や中世の政治や文化の基盤が、ほとんど中国からもたらされた事実が明らかになり、自国の優位性を強調する戦前の風潮に合わなかったからだともいう。なんと狭量な学問的姿勢だろう。

私はいま、仕事の関係で、9世紀中葉に唐に渡った円仁という仏教僧のことを調べている。遣唐使の一行から脱走する形で中国にとどまり、武宗が行った中国史上最大の宗教弾圧で追放されるまで、9年にわたって、各地を転々とした。宮島大八と同じく、「師を求めて」の中国行きだった。その学問を志す情熱には、すさまじいものがあり、苦労の末、長安にたどりついて、何人かの師に巡り会うことになる。

円仁は克明な日記をつけていて、中国の正史に欠落している貴重な記録もそのなかにはある。この日記が持つ世界史のレベルの価値を見いだしたのは、元駐日米国大使のラ゗シャワー博士だった。日本の歴史家が国際関係の研究に冷淡だった証拠のひとつといえるかもしれない。

円仁の日記で印象的なのは、行く先々で出会う市井の中国人のこまやかな友情である。ある人は、遠路の道案内を買って出る。ある人は、友人や宿舎を紹介する。またある人は、路用の衣類や食糧を準備してくれる。円仁は帰国後、有力な宗派の長となり、彼が中国で学んだ当時の最先端思想が日本に広まることになるが、長安の師だけが、それに貢献したわけではない。円仁の仕事の完成には、市井の中国人の親切な友情が不可欠だった。

戦争は国と国との関係、友情は人と人との関係だと、つくづく思う。友情の記憶が戦争のそれより伝わりにくいのは、そんなスケールの差と関係があるのだろう。それだけに、こまめな友情の積み重ねが大切になる。この「日中飛鴻」というコラムも、新聞社と新聞社という関係より、記者と記者、人と人という要素が強いように見える。そういえば、このコラムの筆者、編集者が記事をやりとりするメーリング?リストの名前は、確か「friendship=友情」と名付けられていたはず„„。

穴吹史士(朝日新聞)

重在友情积累

说起来不好意思,宫岛大八和张裕钊的名字,我都是第一次听说。说句搪塞的话,执笔这个专栏的日本人中,只有我一个人不是中国问题专家。对于其他执笔者来说,也许是理所应当知道的人物,可是,我想大多数的日本人同我一样,对于这两个人,均是一无所知。

日本的历史教学,对中日间的纷争,比如太平洋战争、甲午战争还有那以前的战争都有所介绍,面向一般读者的书也很多,因此大家都有些基础知识。但是说到日中友情,说到为增进日中友情不遗余力的人们的事迹时,信息资料却极其地少。

为了不使悲剧重演,经常回想战争、反省战争是很重要的工作。但这并不是说,对友情的足迹一无所知也无所谓。然而,友情的话题涉及太多,被怀疑是不是要转移人们对战争的视线,是不是在讨好对方等等,这种情况也是常有的,而且不仅限于日中之间。

从7世纪到9世纪,日本不断向隋、唐派遣正式使节,史称遣隋使、遣唐使。虽然海难带来了死亡和失踪,派遣仍然持之不懈,日本的小学校也在教授这些史实,然而与其他领域相比,这方面的研究者很少,象样的研究著作也不多。原因在于,如果深究的话,日本的古代和中世的政治、文化基础基本上都是从中国来的事实就会明白无余,这不符合战前的强调本国优越性的潮流。多么狭隘的学术姿态啊。

我因为工作关系,现在正在研究9世纪中叶越海留唐的一位叫圆仁的佛教僧的情况。他以逃离遣唐使队伍的方式滞留中国,直到遭遇武宗的中国历史上最大的宗教镇压,受到追放为止,九年中辗转中国各地。同宫岛大八一样,圆仁去中国也是为了“拜师”,追求学问的精神十分感人。经过一番劳苦,最后到了长安,幸遇了几位名师。

圆仁写有详细的日记,其中包含了中国正史中遗漏的贵重记录。首先发现这部日记所具有的世界史价值的是原驻日美国大使赖舍尔博士。也许这也可以说是日本的历史学家对国际关系研究冷淡的一个证据。

读圆仁的日记,给我印象很深的是,他所到之处接触的市井平民们的深厚友情。有的人主动给他当远路的向导;有的人把自己的朋友和宿舍介绍给他;还有的人,为他准备路途用的食粮与衣物。圆仁回国后,成为大宗派之长,他在中国学到的当时最先进的思想在日本得以传播光大,这其中不仅是他的长安老师的贡献。圆仁事业能有所成,更与那些平凡的中国人的友情分不开。

我深切地感到,战争是国与国的关系,友情是人与人的关系。友情之所以比战争难以流传,大概是由于二者的规模太过悬殊。也正因为如此,点点滴滴的友情积累就更为重要。这个“日中飞鸿”栏目也是一样,与其说是报社与报社的关系,不如说是记者与记者、人与人的要素更强一些。话说到这儿,我突然想到,这个栏目的笔者、编辑们为共同作业而使用的邮件列表,名字正是“friendship(友情)”„„

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