第一篇:中日两国射箭礼仪
射箭不仅是一项运动,更是一种礼仪,这些你知道吗?下面跟小编一起去了解一下吧。
中国射箭礼仪
射箭,可谓是中国古代体育项目的鼻祖了。据考古发现,它在距今2.8万多年前就已经出现了。随着箭头从石头到金属的发展,射箭的形式发生了很多变化,譬如射箭在周代就被列入当时教育的内容之一,当时六艺:礼、乐、射、御、书、数,其中射箭就是一项很重要的内容。当时,射箭是一种礼仪,射箭活动要喝酒,还要奏乐,这可以说是我国古代历史上最早的射箭活动了。当时的孔子、荀子以及墨子等等,都是射箭爱好者,不仅自己身体力行,同时也鼓励学生射箭。
到了魏晋南北朝时期,射箭出现了专业的比赛。《魏宗室常山王遵传》曾经记载:当时的北魏孝武帝在洛阳的华林园举行了一次射箭比赛,他把一个能容两升的酒杯,悬于百步之外,让19个运动员进行竞射,最后谁把这个酒杯射着了,谁就把这个酒杯据为己有,这在当时叫奖杯赛。在中国体育史上,这可是最早的一次奖杯赛了。
日本射箭礼仪
如同中国一样,弓道射箭作为日本古代的民族形式体育,具有丰富的哲学内蕴。它不但要求射手要具有高超的射箭技术,还要求射手在指引下,完成身、心和弓箭三者的高度和谐统一,以表达对高尚品德的追求,对力量美与准确美的向往和享受,最终融化成为对真理的追求和崇拜。
弓道讲求高强度的基本功练习,最主要的训练方法是对某一个基本动作千百次的重复练习,直至矩,精确无误。通过这种周而复始练习方法,不但可以达到提升射手技术的目的,更重要的是使练习者通过艰苦的练习以达到磨炼,逐步领悟到弓道的道。重视礼仪是日本弓道最大的特点之一。这源于之日本武道对和谐与道德的追求,也与日本民族崇尚礼仪的文化传统有直接关系。弓道的基本原理是,练习者为了的高技术水平,必须首先认真的掌握弓道的各种礼仪,并贯彻于练习活动之中,乃至于曰常生活之中。只有通过行为上的高度约束与心身的统一,人才可以心平气静,进入一种道的状态。在这方面,弓道无疑得益于中国古代的射礼,而日本的弓道家们也承认这一点,他们甚至认为,日本弓道在某种程度上乃是中国古代射礼的延续与本土化。
练习弓道前的礼仪过程已经不像古过去那样细琐复杂,有趋于简单的倾向。然而,简单并不等于敷衍了事,更不代表着表演作秀和浮躁化。短短几分钟的仪式,仍然要求全神贯注,庄重肃穆,一丝不苟。执弓之前,要求射手面向目标,身体直立,聚精会神,以达到神清气定的状态。要求在放射之前必须努力排除心中的杂念,并要认真的思考和明确射箭的目的与意义。在完成上述的精神调整的阶段后,习射者仪态自然平静,动作沉稳而节奏清晰,然后才可以射箭了。
第二篇:中日两国地震救灾对比
2008年5月12日,中国四川发生8.2级汶川大地震。遇难69142人,失踪17551人,地震实际造成8.6万多人死亡。-
2011年3月11日,日本本州岛宫城县发生9.0级地震。根据目前估计,地震至少造成1.2万人以上死亡。是近千年来,日本境内发生的最严重地震。-
中日两国,一衣带水,同属东亚,文化相似。甚至文字都有30%是相同的。千年来,特别是近百年来,两国发生了许多理不情的纠葛……-
巧合的是,中日两国发生的地震时间竟然也是相同的。汶川地震发生的时间(2008年5月12日),与日本宫城地震发生的时间(2011年3月11日),两个数字相加都是等于2025。即: 2008+5+12=2025;2011+3+11=2025。如果我们用数字游戏的方式来诠释两国地震的话,则是“汶川地震”与“宫城地震”的数值是相等的。当然,这纯粹是一种巧合。但有一点不是巧合,那就是地震发生后,两国对于抗震救灾的做法,有许多可比性。
根据几天来的观察,敝人以为,中日两国在抗震救灾中,各有所长,各有所短。简单来讲,就是:中国政府抗震救灾的能力、效率、成效优于日本政府;中国的民间社会抗震救灾的能力、心态、秩序弱于日本的民间社会。-
下面重点谈谈中日两国政府抗震救灾能力对比分析。-
2008年的汶川地震发生后,中国政府应对灾情,呈现了高速、高效,运转协调的应对机制。对灾情判断及时,处置有力,行动迅速,上下齐心,效果非常明显。三天之内,即迅速平稳整个灾区的混乱社会秩序。-
2011年日本宫城地震发生后,由于日本国民素质高,民间社会比较成熟,灾情发生后,灾区社会秩序良好,没有拥挤,哄抬物价等情况发生,灾民情绪比较稳定。然而,由于日本政府抗震救灾指挥调度不力,行动不果断、出手不迅速,犹犹豫豫,畏畏缩缩,首鼠蛇端,未及及时调谴大量人力、物力扑灭灾情,致使灾情在三天后迅速扩大,并发生了不可逆转的灾难性后果:核电站爆炸、核泄漏、核辐射……坏消息一桩接一桩,接踵而至。
躲过地震、海啸、火灾的日本灾民,在三天后,仍然缺水、缺粮、缺衣,日本的公路并未受到严重损毁,而奇怪的是,救灾物资却运不进去……
可以对比的是,2008年,中国汶川地震发生后,政府立即调集大型机械不惜一切代价,挖山开路,填壑搭桥,在损毁极其严重的丛山峻岭中,开辟出了抗震救灾的生命线。相比之下,日本政府的救灾是懒洋洋,根本没有什么气势。观者多,动者少。政府效率低下,协调能力也很差,指挥调度也不太灵,好象主要是靠自觉,而不是行政命令。-
3月12日,核电站发生冷却剂失灵后,其实是重大灾难前奏,奇怪的是日本政府处置相当犹豫,先是拒绝美国答应帮助运送冷却剂,政府却也不组织强有力的核电站事故抢险队,害怕承担责任,听凭、放心地让核电站公司独立去去处理这场世纪劫难…… 所作所为,不可想象。象这种紧急情况,中国一定是出动军队,组成十万火急的抢险队,赶赴灾区,及时除险,扑灭灾情,防止灾情进一步扩大!中国是绝不可能让核电站发生爆炸泄漏事故的!-
险情处置得早,后续麻烦就会少许多。
但是,3月14日,福岛核电站发生爆炸,重大危机爆发后,日本政府仍然没有派军队前往处置,也没有由政府协调组成抢险队,举一国之力,扑来险情,而是仍然由电力公司组织员工进行除险救灾。实在不可思议!
在最初处置核电站爆炸事故中,日本政府和首相基本好象是没有什么作为。听到核电站第二次爆炸,核电站公司为策安全,撤回大部分员工后,日本首相菅直人所做的事,竟然是暴哮一顿:“你们竟然敢全部撤了下来,你们的这样的公司活该100%倒闭!”
都什么时候了,如此人命关天的天大之事,事涉全日本、全世界人民生命安危的大事,首相竟然如此搪塞责任,要一家电力公司独立去承担,如此严重的事故、责任和灾情,它一家小小的核电站公司应对得了吗?真是狗屁逻辑!-
面对如此艰难危局,政府要做的,不应是去斥责心力交瘁的核电站公司,而应是立即由政府牵头,组成强有力的抢险队,举全国之力,调集人力、物力,立即抗灾扑险,把事故所带来的危险控制在最小的范围。
日本首相去斥责势单力薄的核电站公司,叫他们去应对天塌下来一般的灾难?他们应对得了吗?日本政府抗震救灾严重失职!日本首相把最宝贵的抢险黄金时间错失了!-
记得2008年5月12日下午2时32分地震发生后,温家宝总理得到消息后,立即从中南海启程,乘车赶往机场,乘专机飞往四川,指挥抗震救灾。他是一边走在路上,一边吩咐手下,通知国务院各部委立即入川,各司其职,组成抗震救灾抢险队。
我依然记得,2008年5月12日和13日的电视新闻,当时,温家宝总理走得很急,没有带厚衣服,只穿了一件西装加薄白衫。他当晚就到达都江堰,看望了一所小学的受灾学生。他当晚在嘉凌江的江边,设国务院抗震救灾指挥部,现场办公,现场指挥。当时,夜深了,旁边哗哗的河水声都听得到,温总理因为穿衣少,冷得他有些打颤,后来不知是哪位民警给了他一件警服棉衣穿在身上,让他遮风挡寒。温总理是穿着警服棉袄,四川度过了指挥抗震救灾的第一个极其重要的难眠之夜。-估计也是总理第一次穿警服吧。
温总理从中南海出发飞四川的时候,有中央台电视记者陪同前往。温总理在飞机上接受了采访,总理是将讲话简单地写在一张纸上,偶尔看看,肯定是飞机上临时写的。我清楚记得总理当时讲过的最关键、最重要的话:“当前,最重要的是要冷静、镇定、信心以及强有力的指挥!”
温总理在飞往四川的空中,其实并不知道灾情有多严重。他只是听到7.8级地震发生(后修正为8.0级),立即判明重大灾情,然后二话不说,立即赶赴灾区的。事后证明,总理对灾情的判断多么及时、准确。温总理此举,挽救了多少灾区人民的生命!
中国政府的领导人,就这样身先士率,高速、高效,勇敢、果断地在第一时间赶赴灾区最前线,及时领导抗震救灾,为汶川地震的抗震救灾,赢得了最宝贵的时间!
温总理对突发事件的处置,方法非常到位,那就是:冷静、镇定、信心以及强有力的指挥!后来的抗震救灾,都基本遵循这一原则进行,特别是强有力的指挥。-中国政府对汶川地震的抗震救灾,实现了强有力的指挥!
汶川地震发生后,中国政府在三天内,调集了10万军队入川。其中,有8万解放军正规武装部队,2万公安和武警人员,加上政府组成的救灾人员、志愿者等,直接参加救灾的人数至少50万人以上。
当时,灾情发生后,中国的电视新闻实行24小时滚动播出救灾画面,那些催人泪下的画面,触及了国人的情感,全国迅速掀起了支援灾区的高潮。民间的救灾物资、救灾人员源源不断地往灾区输送。
地震发生后,在三天,基本缓解了缺衣、缺粮、缺水的困难;五天后,基本确保生活的基本所需,有饭吃、有水喝、有地方睡觉。震后第七天,建起了“抗震救灾帐篷小学”。这是“抗震小学”的诞生,极大地振奋了全国人民的人心,迅速平稳了灾区的秩序和人心。
以上这一些,中国政府所能够做的,我没有在日本政府中看到。-今天是日本地震进入第6天,我所看到的情景是,日本的地震灾区不仅没有得到缓解,而且灾情在扩大!
日本政府的救灾能力效率低下,其灾区没有发生大规模骚乱,得益于国民素质好,平时守秩序。但是,如果灾区的情况在未来几天内没有得到缓解的话,难保日本社会秩序是否会大乱,种种迹象显示,日本发生骚乱,也不是不可能。-
最后,谈谈日本首相。我对日本首相菅直人的救灾行为感到失望。我当然相信,日本各级政府官员、公务人员都在努力救灾,他们的确很辛苦,夜以继日,没有休息。就日本政府而言,日本首相这样去救灾,是不行的。日本首相,好象是中国新闻发言人的角色。呆在东京首相官邸,时不时发一个新闻消息,这样的事,不要首相去做呀,新闻发言可以交给部下去做,自己埋头去指挥、协调,去组织人力、物力抗灾救险呀!遗憾的事,日本首相对当新闻发言人很感兴趣,对救灾的事,犹犹豫豫,畏畏缩缩,根本不象一个国家的领导人。-
另外,日本自卫队的表现也太让人失望了。人们对日本自卫队(军队)的印象仍然停留在二战时的水平,以为今日的日本军人仍然会象二战时一样,勇猛顽强,服从命令,时刻有一种敢死之心。现在看来,今日的日本自队军人,远不是那么一回事了。他们接到首相命令,要求他们用直升机吊海水浇核电站以降温后,竟然以核辐射太强、太高,生命健康受到威胁为由,拒绝执行首相的命令。军队以保卫人民为天职,竟然抗国家最高领导人的命,真是闻所未闻。
日本卫队竟然好意思袖手旁观,单靠核电站留守的50名工人进行施救。这一幕,不仅日本在看,而且全世界在看!
日本福岛核电站爆炸,不仅危及数百万、上千万日本人民的生命安危,而且影响全世界人民的健康,在国家遭受如此重大危机的面前,在最需要军人前往救灾除险的时候,日本军人竟然以堂而皇之的理由逃之夭夭,实在难于理喻,可怜、可叹、可悲!-
日本自卫队在其他地方的救灾,也是懒洋洋的,没有什么气势和规模。我看到他们,更多的是处置遗体,而没有什么象模象样的救灾行为。日本此次调了10万军人前往救灾,人数同中国当年的10万军人救灾一样多,但是,救灾效果却相差十万八千里,完全不在一个水平之上。-
在抗震救灾中,日本的舆论不感谢政府,认为是政府的天然职责,不值得感谢。这其实是不对的。是政府天职这没有错,但是,政府也是人,需要舆论的支持、鼓励、激励,如果媒体和舆论只盯着政府人员的责任,那么政府人员就会人人怕事,怕担责,而畏畏缩缩,没有人会猛打猛冲,什么都不敢作主,只好不断向上请示,生怕承担责任,就就没有效率。日本首相可能就是怕承担职责,怕被人骂,所以行动很犹豫。国家最高领导人都这样了,那么,下面的行动就可想而知了。中国有一句话,上梁不正下梁歪,中梁不正倒下来。日本政府的情形让人叹息。
救人,是最大的恩。被人救出来,获得新生命,表示感谢是最起码的人性,感谢政府,感谢救命恩人,没有错呢。日本媒体鼓吹不用感恩是错误的。
如果自己冒险救了人,不能获得感恩,那么,谁会去救人了。且不要说有没有利益,连一句好话都得不到,会有人积极去救人吗?所以,日本媒体是失职的。
日本媒体的眼光只注重于传播信息,没有注重挖掘人性闪光的东西。这是中日媒体的差异。显然,在抗震救灾中,日本媒体逊色于中国媒体。2008年中国抗震救灾时,中国媒体做得非常好,他们的报道极其感人,激发了全国人民团结一心、共同应对国难。在这一点上,日本媒体要向中国媒体好好学习。-
在日本宫城地震发生后,日本成熟的公民社会,民间很有秩序,应对灾难淡定、从容、不慌张,社会和人民团结、守纪,让人很是钦佩。这一点,是值得中国人民学习的。
第三篇:日语论文——中日两国饮食文化对比
目 次 要
旨...................................................................................................................................1 キーワード........................................................................................................................1 はじめに.............................................................................................................................2 1 日中饮食観の対比................................................................................................2 1.1 饮食観の形成...............................................................................................2 1.2 各饮食観が形成した原因....................................................................3 1.3 结论....................................................................................................................4 2 饮食観の中に含む「物」................................................................................4 おわりに.............................................................................................................................5 参考文献.........................................................................................................................6 要 旨饮食観は人类と共に产生したものでなく。それは生产能力が飞跃的に向上し食べ物に対して余裕が出るようになると产生したのである。本论文は日中両国の饮食文化の中に含む饮食観を対比するつもりのである。その形成した原因を分析する。最后に、各国の饮食観の中に含む文化はなんでしょうかも笔者自身の意见を出す。キーワード饮食観生产能力余裕 日中両国の饮食文化対比について 饮食観の比较 はじめに 中国人は饮食を论じる事から饮食を重视するようになったが、基本的な思想部分は日本人と共通しているためやはり饮食に関する饮食観の形成や其の原因を分析するな研究が尐なく、资料�9�9著作も尐ないといった问题がある。本论文はこのような问题点を基づいて研究を行う。1 日中饮食観の対比 1.1 饮食観の形成 饮食観とは人が饮食行为に対する见方であり、见方に対する评価でもある。これには食物饮料器及び调理法に対するものも含まれている。かつて人类がまだ采集�9�9狩猟�9�9渔労の时代、食べ物を见つけ出すことが非常に困难で、生命维持のために见つけ出し得た物を食べるしかなかった时には、もちろん饮食観など形成することは不可能であった。人类が労働道具を発明、使用后、生产能力が飞跃的に向上し食べ物に対して余裕が出るようになると、様々な生活経験を长い时间かけ次第に味覚も発达し嗜好に合うものを选ぶようになった。こうして食べ物に対して一种の见方が成立していった。嗜好に合うものを选んで采取し、保存するまでになる。嗜好に合わないものは舍て、见向きさえもしなくなる 人类の初期には特别な饮料があったわけではなく、自然の水と水分の多い果実や野生の瓜类があるだけであった。食べ物と同様に生活の过程において优劣の顺位や取舍选択をしている间に、ある种の饮食観が形成されてきた。人类のこの様な饮料や食物に対する评価が饮食観の形成につながるのである。1.2 各饮食観が形成した原因 日本は中国から多くの文化を受け容れているにもかかわらず、煎尐量の油でじっくりあげる、炒油でいためる烹油でいためた后调味料を入れて煮る、炸あげる、调调味料を配合するといった调理法と温かい料理が日本に定着しなかった。なぜ日本は生ものとあっさりした冷たい食物を定着し発展させたのかこのことは今だ彻底的に解明されていない谜である。中国人として、中国人は干した食材料を使うのはよくわかるであろう。この原因を分析させていただく、中国の国土面积が広いである。各种の気候があるとよくわかる。例えば、内陆の人民は海产物を食べたいなら、干した、运びやすい鱼など最高の选択であろう。また、中国の北方は冬となると随分寒いである。野菜とか、肉类などの产量はないとも言える。冬に食べる食品は夏に贮まった干したものが大部分である。でも、食べる时は乾燥したものを水に戻した。しかしこれによって鲜度はかなりおちる。鲜度を保ちかつ美味しく感じさせるためには色々な香辛料と调味料を加え复雑な加工作业と时间を费やすことによって初めて味覚と鲜度を保持することができる。この様にして多种多様な香辛料による调合法や、调理法煎、炒、烹、炸などの调理技术が生まれたのである。中国菜系の主流を分析すると油の使用が大部分を占めている素材を洗う、适度な大きさに切るなどして下処理をして油に通し、さくさくと美味しく、香りよくさせて人々の味覚を浓厚で复雑な味で満足させる。これが中国大陆菜系の主な特徴である。日本は海に囲まれ四千以上の岛々から成り立つ。気候は温暖で四季がはっきりしていて自然环境にも恵まれている。その条件の下で独自の海洋性菜系を発展させることができた。これを受け容れることは大陆菜系を受け容れることよりも、自然である。存在决定の意识は菜系の発展においでも例外ではないつまり风土が菜系を醸したのである。日本が海洋性菜系であると考えられるもう一つの原因は、日本が岛国の上に资源が乏しいことである。また隣接する国がないために自然环境による危机感の意识が强く、常に何かの天灾による灭亡を危惧している。「油断大敌」という四字熟语を见てわかるように、油がなくなることは敌に临むことにつながる中国のように食事毎に油を大量に使うことはできない。常に节油しできる限り油を使わず料理をつくり生活を営んできた。长い间これが习惯になり平淡で新鲜な味が日本菜系の主流となっていった。1.3 结论 日本料理は味よりも形を重视するため日本料理は目で食べる料理とも言われている。これも风土によるものである。日本は人口が多く面积が狭い。自然を重视し生活の一部に取り入れることは日本人古来の伝统であるために、膳の料理の中でもそれが如実に表现されている。これはまた、人々の生活を润す役目も担っている。一方中国では、広大な面积を持つため例え一部分失ってもどうにか生き延びられると思うためか自然の保护や破壊についての危机意识が薄い。异民族の侵略を防御するために万里长城を修筑し、人类に伟大なる建筑物を遗したが、反面多くの自然景観を壊し原始森林を伐采した。人々の味覚を満足させるために野生动物の保护もしなかった。健康と长寿によいとされるあらゆるものを中国人は食した。この风土が中国今日の独特な菜系を作り上げたのである。それも大陆の性质を十分备えたものである。2 饮食観の中に含む「物」 日本と中国とを比较した场合中国人の方が饮食に重きをおく、中国の昔から、中国人は客に必ず食事を接待する风习があり、そこから人々の交流が生まれた。后にこれは礼仪とされた。中国のある地方では、“知り合い”と“一绪に食事”とは同意语として使われていたこともあるほどだ。だから、食事は中国人にとっては人间関系の円滑油とも言えるのであろう。いまでも「御饭を食べましたか」は挨拶かわりに使われている。それは相手に関心を示す表われである。「礼」のはじめは、これを饮食にはじまるとあるように、礼は饮食生活の中から生まれてきたものである。日本は饮食観においては、はるか中国に及ばない。日本の朝廷、もしくは上层阶级は歴史の书物の中で饮食に関して触れる事はほとんどないと言える。江戸时代になって武士の禁欲思想が后世に大きく影响し特に男子が饮食に対して语るべきではない谚にもあるように「武士は食わねどたかようじ」式の饮食観の伝统がある。日本人は持続性が强いとおもわれる。ある思想概念が定着すると変えることなく守り続ける事が多い。日本人が食べ物に持っていた秽れ観は第二次世界大戦まで続いた。当然、これは日本の自然环境�9�9政治制度�9�9宗教�9�9民族风习などの影响もある。以上の分析によると中国の饮食観の中に「礼仪」が根ざした。「食は天である」という思想ははっきりに体现してのであろう。それによって、いろんな礼仪が出るし中华文化の特有の物となった。でも、日本は「武士道」の思想によって「武士は食わねどたかようじ」式の饮食観の伝统があるが、日本の饮食観も体现できるのであろう。おわりに 本论文を通して、両国の饮食観の形成は明らかとなった。これは人类の诞生からの物でなく、豊かな物资生活によって产生したものであるというこたがわかるのであろう。また、両国の饮食観は自己の风土と密接した関系があるということも阐明した。最后に各国の饮食観に含む物を対比した。でも、本论文は不足点もある。この饮食観に含む物の歴史渊源は何であるか、まだ研究しなかった。机会があれば、次回の论文に研究したいと思う。参考文献 1 清水勋著.『日本饮食の歴史』M.日本: 岩波书店 1999.5-940-47.2 ジョンAランド著『.アジア太平洋の饮食観』J.北京中国传媒大学出版社2003.23-29 3 中野晴行著.『饮食产业论』M.北京: 中国传媒大学出版 2007.2-9 谢 辞 小论は、研究方法の确定から完成までは、半年间ぐらいかかりました。その间、指导先生から数え切れないご指导を赐りました。先生は时间を惜しむことなく、论文の构成と执笔の仕方から、文法などの细かい点まで、亲切に教えてくださいまして、心よりお礼申し上げたいです。そして、大学院での勉强と研究の期间中、担当先生からも多くの御示唆を赐り、また、同级生である诸君からも、いろいろなご协力をいただき、心から感谢の意を表したいです。最后に、本稿を読んで、贵重なご指摘をしてくださった论文の审査员の方々にも、感谢の意をあらわせて顶きたいです。
第四篇:从酒文化看中日两国的文化差异
最重要的一条:日本人喜欢清酒,中国人喜欢烈酒,反映出两种文化特质
1.日本酒文化的起源 2.日本酒文化的历史性
3.日本酒文化和中国酒文化的异同点 4.酒文化对日本社会的发展的影响
日本文化99题 白幡洋三郎
上海译文出版社(2007-11出版)
吃到天涯
世界知识出版社(2004-01出版)
编辑本段日本清酒的起源
日本清酒是借鉴中国黄酒的酿造法而发展起来的日本国酒。
日本人常说,清酒是上帝的恩赐。1000多年来,清酒一直是日本人最常喝的饮料。在大型的宴会上,结婚典礼中,在酒吧间或寻常百姓的餐桌上,人们都可以看到清酒。清酒已成为日本的国粹。
据中国史书记载,古时候日本只有“浊酒”,没有清酒。后来有人在浊酒中加入石炭,使其沉淀,取其清沏的酒液饮用,于是便有了“清酒”之名。公元7世纪中叶之后,朝鲜古国百济与中国常有来往,并成为中国文化传人日本的桥梁。因此,中国用“曲种”酿酒的技术就由百济人传播到日本,使日本的酿酒业得到了很大的进步和发展。到了公元14世纪,日本的酿酒技术已日臻成熟,人们用传统的清酒酿造法生产出质量上乘的产品,尤其在奈良地区所产的清酒最负盛名。
自19世纪后半叶的日本明治维新运动之后,日本清酒的质量逐渐下降,尤其是在第二次世界大战期间,日本酒商往清酒中对入大量的食用酒精,以增加酿酒量,牟取暴利,使清酒所具有的独特风味黯然失色。因此,日本老人称这种低劣的清酒为“乱世之酒”,赞誉原来纯正的日本清酒为“太平之酒”。由于清酒酿造业受到历史上“乱世”的影响,给日本消费者留下了不良的印象,加上新一代日本人崇尚饮用啤酒和烈性酒,所以清酒的销售量逐年下降。今天,日本清酒的质量虽然已恢复其原来的水平,并且利用现代酿造技术和设备不断提高产品质量,但其产品仅占日本酒类市场销售量的15%。据统计,1988年日本清酒年产量为1448×10000000L,1993年为1457×10000000L,而1995年仅为996.9×10000000L。日本全国有大小清酒酿造厂2000余家,其中最大的5家酒厂及其著名产品是:大包厂的月桂冠、小西厂的白雪、白鹤厂的白鹤、西宫厂的日本盛和大关厂的大关酒。日本著名的清酒厂多集中在关东的神户和京都附近。编辑本段日本清酒的分类
(一)按制法不同分类
(1)纯米酿造酒 纯米酿造酒即为纯米酒,仅以米、米曲和水为原料,不外加食用酒精。此类产品多数供外销。
(2)普通酿造酒 普通酿造酒属低档的大众清酒,是在原酒液中对人较多的食用酒精,即1吨原料米的醪液添加100%的酒精120L。
(3)增酿造酒 增酿造酒是一种浓而甜的清酒。在勾兑时添加了食用酒精、糖类、酸类、氨基酸、盐类等原料调制而成。
(4)本酿造酒 本酿造酒属中档清酒,食用酒精加入量低于普通酿造酒。
(5)吟酿造酒 制作吟酿造酒时,要求所用原料的精米率在60%以下。日本酿造清酒很讲究糙米的精白程度,以精米率来衡量精白度,精白度越高,精米率就越低。精白后的米吸水快,容易蒸熟、糊化,有利于提高酒的质量。吟酿造酒被誉为“清酒之王”。
(二)按口味分类
(1)甜口酒 甜口酒为含糖分较多、酸度较低的酒。
(2)辣口酒 辣口酒为含糖分少、酸度较高的酒。
(3)浓醇酒 浓醇酒为含浸出物及糖分多、口味浓厚的酒。
(4)淡丽酒 淡丽酒为含浸出物及糖分少而爽口的酒。
(5)高酸味酒 高酸味酒是以酸度高、酸味大为其特征的酒。
(6)原酒 原酒是制成后不加水稀释的清酒。
(7)市售酒 市售酒指原酒加水稀释后装瓶出售的酒。(三)按贮存期分类
(1)新酒 新酒是指压滤后未过夏的清酒。
(2)老酒 老酒是指贮存过一个夏季的清酒。
(3)老陈酒 老陈酒是指贮存过两个夏季的清酒。
(4)秘藏酒 秘藏酒是指酒龄为5年以上的清酒。
(四)按酒税法规定的级别分类
(1)特级清酒 品质优良,酒精含量16%以上,原浸出物浓度在30%以上。
(2)一级清酒 品质较优,酒精含量16%以上,原浸出物浓度在29%以上。
(3)二级清酒 品质一般,酒精含量15%以上,原浸出物浓度在26.5%以上。
根据日本法律规定,特级与一级的清酒必须送交政府有关部门鉴定通过,方可列人等级。由于日本酒税很高,特级的酒税是二级的4倍,有的酒商常以二级产品销售,所以受到内行饮家的欢迎。但是,从1992年开始,这种传统的分类法被取消了,取而代之的是按酿造原料的优劣、发酵的温度和时间以及是否添加食用酒精等来分类,并标出“纯米酒”、“超纯米酒”的字样。
编辑本段日本清酒的特点
日本清酒虽然借鉴了中国黄酒的酿造法,但却有别于中国的黄酒。该酒色泽呈淡黄色或无色,清亮透明,芳香宜人,口味纯正,绵柔爽口,其酸、甜、苦、涩、辣诸味谐调,酒精含量在15%以上,含多种氨基酸、维生素,是营养丰富的饮料酒。
日本清酒的制作工艺十分考究。精选的大米要经过磨皮,使大米精白,浸渍时吸收水分快,而且容易蒸熟;发酵时又分成前、后发酵两个阶段;杀菌处理在装瓶前、后各进行一次,以确保酒的保质期;勾兑酒液时注重规格和标准。如“松竹梅”清酒的质量标准是:酒精含量18%,含糖量35g/L,含酸量0.3g/L以下。
编辑本段日本清酒的命名与主要品牌
日本清酒的牌名很多,仅日本《铭酒事典》中介绍的就有400余种,命名方法各异。有的用一年四季的花木和鸟兽及自然风光等命名,如白藤、鹤仙等;有的以地名或名胜定名,如富士、秋田锦等;也有以清酒的原料、酿造方法或酒的口味取名的,如本格辣口、大吟酿、纯米酒之类;还有以各类誉词作酒名的,如福禄寿、国之誉、长者盛等。
最常见的日本清酒品牌有月桂冠、樱正宗、大关、白鹰、贺茂鹤、白牡丹、千福、日本盛、松竹梅及秀兰等。
编辑本段日本清酒的新产品
近几年来,为适应人们饮食习惯的变化,日本开发了许多清酒的新产品。
1.浊洒
浊酒是与清酒相对的。清酒醪经压滤后所得的新酒,静止一周后,抽出上清部分,其留下的白浊部分即为浊酒。,浊酒的特点之一是有生酵母存在,会连续发酵产生二氧化碳,因此应用特殊瓶塞和耐压瓶子包装。装瓶后加热到65℃灭菌或低温贮存,并尽快饮用。此酒被认为外观珍奇,口味独特。
2.红酒
在清酒醪中添加红曲的酒精浸泡液,再加入糖类及谷氨酸钠,调配成具有鲜味且糖度与酒度均较高的红酒。由于红酒易退色,在选用瓶子及库房时要注意避光性,应尽快销售、饮用。
3.红色清酒
该酒是在清酒醪主发酵结束后,加入酒度为60度以上的酒精红曲浸泡而制成的。红曲用量以制曲原料米计,为总米量的25%以下。
4.赤酒
该酒在第三次投料时,加入总米量2%的麦芽以促进糖化。另外,在压榨前一天加入一定量的石灰,在微碱性条件下,糖与氨基酸结合成氨基糖,呈红褐色,而不使用红曲。此酒为日本熊本县特产,多在举行婚礼时饮用。
5.贵酿酒
贵酿酒与我国黄酒类的善酿酒的加工原理相同。投料水的一部分用清酒代替,使醪的温度达9—10℃,即抑制酵母的发酵速度,而白糖化生成的浸出物则残留较多,制成浓醇而香甜型的清酒。此酒多以小瓶包装出售。
6.高酸味清酒
利用白曲霉及葡萄酵母,采用高温糖化酵母,醪发酵最高温度21℃,发酵9天制成类似干葡萄酒型的清酒。
7.低酒度清酒
酒度为10~13度,适合女士饮用。低酒度清酒市面上有三种:一是普通清酒(酒度12度左右)加水;二是纯米酒加水;三是柔和型低度清酒,是在发酵后期追加水与曲,使醪继续糖化和发酵,待最终酒度达12度时压榨制成。
8.长期贮存酒
一般在压榨后的3~15个月内销售,当年10月份酿制的酒,到次年5月出库。但消费者要求饮用如中国绍兴酒那样长期贮存的香味酒。老酒型的长期贮存酒,为添加少量食用酒精的本酿造酒或纯米清酒。贮存时应尽量避免光线和接触空气。凡5年以上的长期贮存酒称为“秘藏酒”。
9.发泡清酒
将通常的清酒醪发酵10天后,即进行压榨,滤液用糖化液调整至3个波美度,加入新鲜酵母再发酵。室温从15℃逐渐降到O℃以下,使二氧化碳大量溶解于酒中,用压滤机过滤后,以原曲耐压罐贮存,在低温条件下装瓶,瓶口加软木塞,并用铁丝固定,60℃灭菌15min。发泡清酒在制法上兼具啤酒和清酒酿造工艺,在风味上,兼备清酒及发泡性葡萄酒的风味。
10.活性清酒
该酒为酵母不杀死即出售的活性清酒。
11.着色清酒
将色米的食用酒精浸泡液加入清酒中,便成着色清酒。中国台湾地区和菲律宾的褐色米、日本的赤褐色米、泰国及印度尼西亚的紫红色米,表皮都含有花色素系的黑紫色或红色素成分,是生产着色清酒的首选色米。编辑本段日本清酒的包装与保藏
(一)清酒的包装
目前,日本清酒多不以杉樽包装,而采用瓶或杯式包装。容量有300mL、330ml、540ml、700ml、720mL、1800ml等多种,也有采用3.6L、5.4L、9L、18L、36L及72L等各类容器包装的。但市场上1800mL的瓶装酒占90%以上,如白鹤、松竹梅、月桂冠等清酒,大多采用1800ml的瓶装;泽之鹤、瑞兆大吟酿,也为1800mL瓶装酒,并用草编织物包住。松竹梅、日本盛也有用300ml玻璃瓶包装的;白雪牌清酒也有用750mL及300mL白瓷瓶包装的,并附带白瓷杯。部分高档720ml的绿瓶包装,球肚形有两小块平面作贴标用;樱正宗清酒有用瓶身矮扁的平底瓶包装的,其瓶身不平的两面呈弧形,容量为720ml;秀兰牌清酒的瓶子更为独特,其瓶底的大半部呈斜面,置于桌上时酒瓶稍斜而立;大关牌清酒的小包装为300mL的玻璃杯,带螺扣的盖内面有小标签,可从上面透视,杯上标签正面的内容与一般标签相似,但其反面有风景画,由于酒液清澈如水,故在杯的另一面可看清画面,这种包装适于旅行,或在宴会上将杯子兼作酒杯使用。特级瓶装清酒多用高分子等材料的内塞,外加有螺扣的金属帽盖,瓶酒装入带尼龙绳的手提式纸盒内,有些纸盒呈黑色。采用坛式包装的清酒,外面用草帘包住,并用草绳捆扎牢固,既携带方便,又十分美观。坛的下方有倒酒用的开口。
(二)清酒的保藏
清酒是一种谷物原汁酒,因此不宜久藏。清酒很容易受日光的影响。白色瓶装清酒在日光下直射3小时,其颜色会加深3~5倍。即使库内散光,长时间的照射影响也很大。所以,应尽可能避光保存,酒库内保持洁净、干爽,同时,要求低温(10~12℃)贮存,贮存期通常为半年至一年。
编辑本段日本清酒的饮用与服务
1.酒杯
饮用清酒时可采用浅平碗或小陶瓷杯,也可选用褐色或青紫色玻璃杯作为杯具。酒杯应清洗干净。
2.饮用温度
清酒一般在常温(16℃左右)下饮用,冬天需温烫后饮用,加温一般至40~50℃,用浅平碗或小陶瓷杯盛饮。
3.饮用时间
清酒可作为佐餐酒,也可作为餐后酒。
编辑本段日本清酒等级
日本的造酒文化源于中国,日本的风土将其精练,并发展成现在的清酒。它的发展历程是经验不断总结、完善和高质量原料的追寻过程。清酒种类繁多,该如何分辨呢?从前,日本人以特级、一级、二级等不同等级来区分日本酒的好坏。但是现在日本酒的分等制度已经废除,因此一般人无法一眼就分辨出日本酒的优劣。
目前,日本酒大致可以分成两大类,一是有特定名称的日本酒以及称为普通酒(或经济酒)的日本酒。特定名称的日本酒从本酿造酒到大吟酿酒,一共分为8种,这些酒都属于从前一级以上的特级酒。而相对较便宜的普通酒则占了所有日本酒的8成。编辑本段日本清酒流派
根据日本造酒工会中央会的调查,日本各地每年酿制的日本酒大概有140万公升。最近10年来,产量略有减少的倾向。不过,价位较高、有特定名称的日本酒却大受欢迎,以明显的幅度持续增长。以本酿造酒为例,1986年的年产量大约有8.7万公升,到1992年就增长了一倍多,达到21.2万公升。包括大吟酿酒在内的吟酿酒也同样由9500公升成长到2.65万公升。
从日本酒的名称可以猜得出日本酒的等级,从酒瓶上的标示也可以看出酒的来历。一般日本清酒的标示内容包括产地、酿造者(日文汉字以杜氏称之)出身地、原料米比例、日本酒度以及氨基酸度等。从酿造者的出身地可看出不同流派的酿造法。日本北部的口味较清淡、西部的味道来得较为丰润,品尝时可以从中体验不同的风味。编辑本段日本清酒传说
日本清酒是典型的日本文化,有这么一说,每年成人节(元月15日),日本年满20周岁的男男女女都穿上华丽庄重的服饰,所谓男着吴服,女穿和服,与三五同龄好友共赴神社祭拜,然后饮上一杯淡淡的清酒(据日本法律规定不到成年不能饮酒),在神社前合照一张饮酒的照片。此节日的程序一直延至今日不改,由此可见清酒在日本人心目中的地位。
古往今来,诗歌、酒、美人、工作是日本男人生存意义的基本要素,活到老做到老是日本人生存的信念,故异常勤劳。工作之余,一杯清酒,富裕的人会来一杯“上善如水”或“男山”,做体力劳动的人则来一杯“百鹤”,希望能像仙鹤一样神游于心中美好的地方。编辑本段日本清酒心得
在中森名菜日本料理所见到的清酒,品种繁多,价位也分高中低,凭喜好而选。最让人感到惊喜的是,饮用过后的清酒瓶并没有被人随意丢掉,而是点缀在不同的角落,不仅突出了日本清酒文化的精髓所在,更重要的,那一排排“声势浩大”的清酒瓶,成为了中森名菜一道亮丽的风景线。
若是有朋自远方来,三五知己把酒言欢,自然少不了冰上一壶松竹梅;拜访长者,显示孝心,千寿、万寿是首选的佳品;公司聚会,商谈生意,菊正宗既不失身份,又彰显自然;若想享受天伦之乐,热上一壶朝香,真可谓乐也融融。
天冷时,暖一小瓶,用“猪口”(喝清酒的小瓷杯)盛来喝,也是一件乐事。但不要忘记帮朋友倒酒,“猪口”是不能空着的!冷饮当然用玻璃杯较好,更地道的可用那种四方小木杯,以前的工人在杯角放一把盐来佐着喝,现在却只能在喜庆节日看到了。
编辑本段日本清酒情结
日本法律规定酒的酒精度只能在15°-16°上下,醇香入口,略饮会有益身心,舒筋活络,美颜壮阳。清酒有档次之分,由低至高的顺序是清酒—上撰—特撰—吟酿—大吟酿酒,无论哪一样清酒,都是日本菜肴的最佳搭配,酒味可口甜美。美食当前,绝对不能没有与日餐匹配和谐的既轻度又爽口、既香又易入口的日本清酒。
要知道冷藏5°的酒是最爽最美味的,特别是大吟酿、吟酿的清酒,经过用精选的上好日本米(世界上最好的米是日本米,由于品质好、产量少,一般都用于本土供应)以及矿泉水酿制而成。如上善如水,男山大吟酿,菊源氏大吟酿,久保田(万寿、千寿)等,清酒把饮酒的艺术推至至高点,正如“上善如水”的牌子一样,日本语意即“尊贵好饮的感觉就像奔流的水一样向四面八方流传”。以下几种清酒取名之意为:
朝香——酒的清香就好像清晨扑面而来的空气一样,怡人惬意。
松竹梅——松、竹、梅,日本庭园自然高贵的植物,此酒就像他们一样给人和谐自然又不失高贵的感觉。
菊正宗——菊花在繁花丛中显自然淳朴,到处可见。人人喜爱的花卉,不求高贵但求人人喜爱。
千寿、万寿——长寿之人必不可少之意。
日本清酒品牌众多,“上善如水”、赤磬雄町、久保田万寿、千寿等是成功人士的首选,因而价格也较高;玉乃光、醉心吟酿、朝香大吟酿、万寿纯米吟酿、菊源氏等价格适中,很受中级白领的青睐;菊正宗、美少年、日本盛、朝香等走平民化路线,特别被一般家庭所推崇。
编辑本段日本清酒品牌一览
大关
大关清酒在日本已有285年的历史,也是日本清酒颇具历史的领导品牌,〝大关〞的名称由来是根源于日本传统的相扑运动﹔数百年前日本各地最勇猛的力士,每年都会聚集在一起进行摔角比赛,优胜的选手则会赋予「大关」的头衔﹔而大关的品名是在1939年第一次被采用,作为特殊的清酒等级名称。相扑在日本是享誉盛名国家运动,大关在1958年颁发「大关杯」与优胜的相扑选手,此后大关清酒就与相扑运动结合,更成为优胜者在庆功宴最常饮用的清酒品牌,目前大关品牌清酒是由东顺兴代理国内市场,近年在台湾的销售可说是名列前茅,其市场地位已然巩固。
日本盛
酿造日本盛清酒的西宫酒造株式会社,在明治22年(1889年)创立于日本兵库县,是著名的神户滩五乡中的西宫乡,为使品牌名称与酿造厂一致,于2000年更名为日本盛株式会社。该公司创立至今已有112年历史,日本盛清酒是于1990年12月,在公卖局的机场免税店试销成功后才正式引进台湾,其口味介于月桂冠(甜)与大关(辛)之间。有人将酿酒的原料比谕为酒的肉,酿酒用的水为酒血,酒曲则为酒的骨﹔那么酿酒师的技术与用心,则应该是酒的灵魂了﹔日本清酒也不例外,除了先天的气候环境条件,水质的优劣,用米的良窳等都是不可缺少的要素。若以水的性质区分,日本酒有两种代表,一是用〝硬水〞制成的滩酒,俗称为〝男人的酒〞,另一种典型是用〝软水〞酿造的京都伏见酒,称为〝女人的酒〞,前者如日本盛、白雪、白鹤等﹔后者如月桂冠。日本盛的原料米采用日本最著名的山田井,使用的水为〝宫水〞,其酒品特质为不易变色,口味淡雅甘醇。BOX 硬水与软水的区分在于水中所含矿物质(钙、磷、钾、铁)的多寡,硬水的矿物质含量较多,软水较少。
月桂冠
月桂冠的最初商号名称为笠置屋,成立于宽永14年(1637年),当时的酒品名称为玉之泉,其创始者大仓六郎右卫门在山城笠置庄,也就是现在的京都相乐郡笠置町伏见区,开始酿造清酒,至今已有360年的历史。其所选用的原料米也是山田井,水质属软水的伏水,所酿出的酒香纯淡雅﹔在明治38年(1905年)日本时兴竞酒比赛,优胜者可以获得象征最高荣誉的桂冠,为了冀望能赢得象征清酒的最高荣誉而采用〝月桂冠〞这个品牌名称。由于不断的研发并导入新技术,广征伏见及滩区及日本各地的优秀杜氏,如南部流、但马流、丹波流、越前流等互相切磋,因此在许多评鉴会中获得金赏荣誉,成就了日本清酒的龙头地位,在台湾也成了属一属二的知名品牌。
白雪
日本清酒最原始的功用是作为祭祀之用,寺庙里的和尚为了祭典自行造酒,部分留做自己喝,早期的酒是呈混浊状,经过不断的演进改良才逐渐转成清澄,其时大约在16世纪﹔白雪清酒的发源可溯至公元1550年,小西家族的祖先新右卫门宗吾开始酿酒,当时最好喝的清酒称为〝诸白〞,由于小西家族制造诸白成功而投入更多的心力制作清酒﹔到了1600年江户时代,小西家第二代宗宅运酒至江户途中时,仰望富士山时,被富士山的气势所感动,因而命名为〝白雪〞,白雪清酒可说是日本清酒最古老的品牌。一般日本酒最适合酿造的季节是在寒冷的冬季,因为气温低,水质冰冷,是酿造清酒的理想条件,因此自江户时期以来,日本清酒多是在冬天进行酿酒的工作,称为〝寒造〞,酿好的酒第二年春夏便进行陈酒﹔1963年,白雪在伊丹设立第一座四季酿造厂「富士山二号」,打破了季节的限制,使造酒不再限于冬季,任何季节都可造酒。白雪清酒的特色除了采用兵库县,心白不透明的山田锦米种,酿造用的水则是采用所谓硬水的「宫水」,宫水中含有大量酵母繁殖所需的养分,因此是最适合用来造酒的水,其所酿出来的酒属酸性辛口酒,即使经过稀释,酒姓仍然刚烈,因此称为〝男酒〞。
另外,白雪特别的是其酿制的过程除了藏元杜氏外,整个酿制过程均由女性社员担任,也许因为这个原因,白雪清酒呈现的是细致优雅的口感,如同其名,冰镇之后饮用更显清爽畅快。
白鹿
白鹿清酒创立于日本宽永2年(1662年)德川四代将军时代,至今已有340年的历史﹔由于当地的水质清冽甘美,是日本所谓最适合酿酒的西宫名水,白鹿就是使用此水酿酒﹔早在江户时代的文政、天保年间(1818~1843年),白鹿清酒就被称为〝滩的名酒〞,迄今仍拥有崇高的地位,早期曾是台湾清酒市场最大的品牌,目前台湾的白鹿酒品由正晖公司代理进口,该公司预计今年将陆续引进新的高级白鹿酒品,包括大吟酿、吟酿、纯米吟酿及生清酒等。白鹿清酒的特色是香气清新高雅口感柔顺细致,非常适合冰凉饮用,另外一款白鹿生清酒(Nama Sake),口感较一般的清酒多一分清爽、新鲜甘口的风味,所谓的〝Nama〞是新鲜的意思,一般清酒的酿制过程须经两次杀菌处理,而生清酒仅作一次的杀菌处理便装瓶,因此其口感更清新活泼。
白鹤清酒
白鹤清酒创立于1743年,至今已有250余年的历史,白鹤清酒于民国64年引进台湾市场销售,其市场占有率最高曾达到40%﹔其在日本的销售也是属一属二的大品牌,在日本的主要清酒产区,关西滩五乡,白鹤也有不可动摇的地位﹔尤其是白鹤的生酒、生贮藏酒等,其在日本的消量,更是常年居冠。
白鹤品牌的产品相当多元,除了众所熟知的清酒、生清酒外,另外还有烧酎、料理酒等其它种类的酒品﹔在清酒方面,产品线更是齐全多样,从纯米生酒、生贮藏酒、特别纯米酒到大吟酿、纯米吟酿、本酿造等﹔口味更是从淡丽到辛口、甘口,适合女性的或专属男性喝的,可说应有尽有,不过在台湾的饮用习惯可没分得如此细致。
菊正宗
菊正宗在日本也是一个老牌子,其产品特色是酒质的口感属于辛口(DRY),与一般市面贩售稍带甜味的其它清酒不同,由于其在酿造发酵的过程中,采用公司自行开发的〝菊正酵母〞作为酒母,此酵母菌的发酵力较强,因此酿造出的酒质味道更浓郁香醇,较符合都会区饮酒人士的品味。另外,其所使用的原料米也是日本最知名的米种〝山田锦〞,酿出的原酒再放入杉木桶中陈年,让酒液在木桶中吸收杉木的香气及色泽,只要含一口菊正宗,就有一股混着米香与杉木香气缓缓开展,因此,浓厚的香味无论是加温至50℃热饮或冰饮都适合,是大众化的酒品。
富贵清酒
上撰富贵是橡木桶新引进的清酒品牌,酿造厂商GODO合同酒精株式会社位于北海道旭川市,1924年与四家酒厂合并而成,该公司起源于Mikawaya酒馆,由神谷传兵卫于1880年,在日本浅草花川户开设。神谷传兵卫于1900年在北海道旭川市开始制造酒精,1903年在茨城县牛久市首创日本酒的酿造工业,其后以神谷酒精制造为中心,合并四家位于北海道的烧酎制造公司,于旭川建立「合同酒精股份有限公司」。GODO在日文汉字中的意思为「合同」,中文意思为「合力」,由于结合了不同的酒类制造商,其产品线较多元,包括烧酎、清酒、梅酒、葡萄酒等﹔上撰富贵是采用知名六甲山褶涌出的滩水〝宫水〞,以丹波杜氏的传统酿酒技艺酿制而成,其口味清新淡雅,不过也有较辛口的特级清酒。
御代荣
御代荣是成龙酒造株式会社出产的酒品,由吉珍屋引进日本当地高品质的清酒产品种类﹔成龙酒造位于日本四国岛的爱媛县,成立于明治10年(1877年)至今已有125年的历史。〝御代荣〞的铭柄(商标)其原意是期望世代子孙昌盛繁荣,因此酒造的先代创始人期望藏元(酒厂)也能世代繁荣,并承续传统文化酿造出优美的酒质,让人饮用美酒后也能有幸福之感。日本酒的文化特色是坚持依当地的风土特色,酿出属于地方特有的酒质﹔成龙酒造坚持使用当地爱媛县所出产的原料米品种〝松山三井〞,而酿造用水则是采用四国最高峰石槌山源流的水酿造,其酿出的酒酒质清爽微甘,口感平衡醇美﹔代表性酒御代荣醇米吟酿,采用有机栽培的松山三井原料米,经过50%~60%的精米步合(稻米磨除率)酿制而成,口感丰满清爽。
其它品牌
尤其是在日本当地享有盛名,品质一流,遵古法酿造,数量有限所谓的〝地酒〞﹔以下介绍日本名门酒会的几个地酒品牌。
〝真澄〞创立于宽文2年,公元1662年,市长野县信州诹访泉的原产酒,在明治、大正时期当地的酿酒技术还差一级,当地的诹访杜氏所酿的酒曾被说为「乡下人的酒」,为了洗刷这样的耻辱,在地的茑木村诹访杜氏便发愤成功,经过多年的努力及后代的发扬,终获得勋六等旭日赏。而真澄的名声要到昭和年间才传播开来,因其在昭和二年获得名古屋国税局评鉴会的优等奖,其后每年全国评鉴会几乎都有入围。在昭和21年的全国新酒评鉴会更连续获得第一、二、三名,日本大藏省酿造试验所的山田正一博士,在真澄的清酒中采集到一种会散发类似频果香味的酵母,历经了300多年未被自然淘汰而能生存至今,惊叹之余,该协会将其命名为7号酵母﹔严谨的酿造态度与坚持优质的原料选材,让真澄盛名远播、历久不衰。
位于茨城县石下町的〝一人娘〞,是坚持遵守软水酿法的酒藏,其酒质柔软而辛辣﹔最特别的是在昭和初年所发展出的软水辛口酿造法,在昭和19年的春季评鉴会上获得第一的入赏,此后其微甜到辛辣的口感获得各界的好评。由于一人娘的酒窖在鬼怒川旁,这条河的水质相当干净但是属于软性的水,与宫水不同的地方是软水不好发酵,因此制作酒母时所需的硬水要到隔壁城镇汲取。
一人娘酒质的特点在制作酒母及醪的过程表现,一般在制作酒醪的过程,多做初添、仲添、留添三段式添加米饭的做法,而在制作酒母时使用硬水主要是使之充分发酵,之后若再加入一些软水则发酵将更均匀完整,由于酒母中大量使用酵母,如果酵母发酵得太强,则会影响酒的口感,此时就要将三段式添法改为两段式,让酵母有足够的淀粉醣化,因此其做法要视发酵的程度判断采用方式﹔而添加软水的做法会使口感更柔和,也就成了一人娘的最大特色。
除了上述颇具特色的品牌外,其它如北海道的男山酒造﹔秋田的刈穗﹔宫城县的蒲霞、一ˊ藏﹔高知县的司牡丹﹔大分国东的西之关等,都是日本颇有历史与知名的清酒品牌.编辑本段清酒的诞生
日本的造酒文化源于中国大陆,2000年前、江浙一带的大米种植技术和以大米为原料的酿酒技术传到了日本。日本的风土将其精炼并发展成现在的清酒。奈良县的三轮神社、京都府的松尾神社、梅之宫神社在日本因供奉酒神而非常著名。三家神社所供奉的酒神代表了日本酿酒技术在不同时期的情况。
三轮神社供奉的诸神中有一位「大国主命」神,他是日本土著民族的代表。表明距今2000年前在同亚洲大陆交流时,大米的种植技术和以大米为原料的酿酒技术一同传到了「出云阿国」,这就是日本清酒的原型,清酒是日本民族的国酒。
松尾神社供奉的酒神据说是秦氏,他是距今1500年前从朝鲜半岛旅居日本的众多有技术的工匠中掌握酿酒技术的代表人物。
梅之宫神社供奉的「木花咲耶姬」神,传说他用大米酿制甜酒。表明1200年前就开始了制麴酿酒。
编辑本段韩国清酒
韩国清酒一般可分为“纯米”和“本酿造”两大类,酒精度皆介乎15至17度之间。“本酿造”在酿制时另外加入了酒精,而“纯米”的酒清则在发酵时产生,故分外清香。此外会以米粒的打磨程度再分等级,基本的“纯米”和“本酿造”,米粒被磨去百分之三十后,剩余的百分之七十就用来酿酒。高一等的吟酿,就会磨去米粒外层百分之四十后才造酒。至于最高级的大吟酿,差不多百分之五十的米粒外层都会被磨去,加上在冬天才酿制,所采用的米亦比较靓,水质亦较清纯,酿制时间也较长,故会散发一种自然的清香,入口分外醇美。
真澄本酿造生酒,入口很dry但清醇,适宜冷藏到7至12度才饮用。开华吟酿生酒则较温和易入口,味道较清。越誉吟酿生酒和千代寿纯米吟酿,都是清新且带有淡淡果香的,配烧烤的海产更觉清甜。一纯米生酒、贺茂泉纯米吟酿及七笑吟酿,都属于浓郁醇厚一类,“一”更是香气馥郁,未喝已令人醉倒。
目前最好的韩国清酒就是千年之约桑黄菇发酵酒,口感十分纯正.并且是酒后不会头痛和深醉的优质清酒.韩国烧酒算是真露最有名的,像喜闻.清河等,韩国清酒就是千年之约桑黄菇发酵酒和百岁酒这两大品牌为首了。
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日本酒文化
无论喜怒哀乐,以酒助兴或消愁并不仅仅属于日本人的专利。但是,自古以来,日本人最喜欢清酒却是名不虚传。
清酒是用秋季收获的大米,在冬季经发酵后酿成的。可以说,“酒是米、水以及酒曲子的艺术结晶”。所以,名酒的产地必然要有充足的水源而且盛产大米。丰富的水源,优质的大米是生产香醇美酒的先决条件。日本的森林孕育了丰富的水源,为生产优质名酒提供了良好的环境,这里的名酒产地主要在东北、北陆地区、九福岗、熊本一带。
日本菜以鱼类海鲜为主,吃日本菜喝威士忌,因酒性太烈,破坏了日本菜的鲜美,喝啤酒又觉得“味”不足,还是香醇爽口的清酒配上日本菜才有滋有味,再合适不过了。日本人后来用大米的“芯”酿造“吟酿造”很受欢迎,这是清酒中的最高极品。
烧酒清酒很适合正规礼节的宴会,而烧酒却比较适合于轻松愉快的场合。在鹿儿岛,如果提到“酒”,不言而喻指的是烧酒,当地人对烧酒深爱不已,举杯多为烧酒。
烧酒常用的原料是山芋、小麦、荞麦等,但也有用芝麻、胡萝卜、咖啡、甘蔗等制成的另一种风味的烧酒。蒸馏而成的烧酒,酒精的含量比清酒高,从25度到45度,达到了与威士忌一样的度数。
泡盛在冲绳,人们
喜欢喝一种叫“泡盛”的酒,这种酒与清酒一样也是用大米作原料,但与众不同地使用黑发酵,这反映了很早以前琉球人与东南亚的交流频繁,接受了许多外国的影响。“泡盛”也和烧酒一样属蒸馏酒类,但是也有数量高达60度以上的烈性酒。琉球菜浓油重,如果“酒劲儿”不够,确也难以与其“拔刀对阵”。二战前,人们用吕宋壶装好酒埋于地下,储藏100年以上的陈年老酒并非稀罕之物,可现在几乎销声匿迹,真让人怀念。无论喜怒哀乐,以酒助兴或消愁并不仅仅属于日本人的专利。但是,自古以来,日本人最喜欢清酒却是名不虚传----------------------------
想到日本庭园,自然离不开松、竹、梅;说到日本文化,自然离不开沁人心肺的日本清酒。金秋之际,吹来阵阵秋风,是畅饮清酒的好时节。坐在广州天河北中森名菜日本料理店里,听着挂帘瀑布落入水中被石激出的清脆响声,用眼“吃”着刺身的那种非凡享受,再来一壶清酒,那种惬意尽在不言中,在中森名菜日本料理店里,有一道清酒“进行曲”的美丽风景线,让人为它壮观而折服,不妨细细地倾听它的传说。
□等级
日本的造酒文化源于中国,日本的风土将其精练,并发展成现在的清酒。它的发展历程是经验不断总结、完善和高质量原料的追寻过程。清酒种类繁多,该如何分辨呢?从前,日本人以特级、一级、二级等不同等级来区分日本酒的好坏。但是现在日本酒的分等制度已经废除,因此一般人无法一眼就分辨出日本酒的优劣。目前,日本酒大致可以分成两大类,一是有特定名称的日本酒以及称为普通酒(或经济酒)的日本酒。特定名称的日本酒从本酿造酒到大吟酿酒,一共分为8种,这些酒都属于从前一级以上的特级酒。而相对较便宜的普通酒则占了所有日本酒的8成。
□流派
根据日本造酒工会中央会的调查,日本各地每年酿制的日本酒大概有140万公升。最近10年来,产量略有减少的倾向。不过,价位较高、有特定名称的日本酒却大受欢迎,以明显的幅度持续增长。以本酿造酒为例,1986年的年产量大约有8.7万公升,到1992年就增长了一倍多,达到21.2万公升。包括大吟酿酒在内的吟酿酒也同样由9500公升成长到2.65万公升。从日本酒的名称可以猜得出日本酒的等级,从酒瓶上的标示也可以看出酒的来历。一般日本清酒的标示内容包括产地、酿造者(日文汉字以杜氏称之)出身地、原料米比例、日本酒度以及氨基酸度等。从酿造者的出身地可看出不同流派的酿造法。日本北部的口味较清淡、西部的味道来得较为丰润,品尝时可以从中体验不同的风味。
□传说
日本清酒是典型的日本文化,有这么一说,每年成人节(元月15日),日本年满20周岁的男男女女都穿上华丽庄重的服饰,所谓男着吴服,女穿和服,与三五同龄好友共赴神社祭拜,然后饮上一杯淡淡的清酒(据日本法律规定不到成年不能饮酒),在神社前合照一张饮酒的照片。此节日的程序一直延至今日不改,由此可见清酒在日本人心目中的地位。
古往今来,诗歌、酒、美人、工作是日本男人生存意义的基本要素,活到老做到老是日本人生存的信念,故异常勤劳。工作之余,一杯清酒,富裕的人会来一杯“上善如水”或“男山”,做体力劳动的人则来一杯“百鹤”,希望能像仙鹤一样神游于心中美好的地方。
□心得
在中森名菜日本料理所见到的清酒,品种繁多,价位也分高中低,凭喜好而选。最让人感到惊喜的是,饮用过后的清酒瓶并没有被人随意丢掉,而是点缀在不同的角落,不仅突出了日本清酒文化的精髓所在,更重要的,那一排排“声势浩大”的清酒瓶,成为了中森名菜一道亮丽的风景线。
若是有朋自远方来,三五知己把酒言欢,自然少不了冰上一壶松竹梅;拜访长者,显示孝心,千寿、万寿是首选的佳品;公司聚会,商谈生意,菊正宗既不失身份,又彰显自然;若想享受天伦之乐,热上一壶朝香,真可谓乐也融融。
天冷时,暖一小瓶,用“猪口”(喝清酒的小瓷杯)盛来喝,也是一件乐事。但不要忘记帮朋友倒酒,“猪口”是不能空着的!冷饮当然用玻璃杯较好,更地道的可用那种四方小木杯,以前的工人在杯角放一把盐来佐着喝,现在却只能在喜庆节日看到了。□情结
日本法律规定酒的酒精度只能在15°-16°上下,醇香入口,略饮会有益身心,舒筋活络,美颜壮阳。清酒有档次之分,由低至高的顺序是清酒—上撰—特撰—吟酿—大吟酿酒,无论哪一样清酒,都是日本菜肴的最佳搭配,酒味可口甜美。美食当前,绝对不能没有与日餐匹配和谐的既轻度又爽口、既香又易入口的日本清酒。要知道冷藏5°的酒是最爽最美味的,特别是大吟酿、吟酿的清酒,经过用精选的上好日本米(世界上最好的米是日本米,由于品质好、产量少,一般都用于本土供应)以及矿泉水酿制而成。如上善如水,男山大吟酿,菊源氏大吟酿,久保田(万寿、千寿)等,清酒把饮酒的艺术推至至高点,正如“上善如水”的牌子一样,日本语意即“尊贵好饮的感觉就像奔流的水一样向四面八方流传”。以下几种清酒取名之意为:
朝香——酒的清香就好像清晨扑面而来的空气一样,怡人惬意。
松竹梅——松、竹、梅,日本庭园自然高贵的植物,此酒就像他们一样给人和谐自然又不失高贵的感觉。
菊正宗——菊花在繁花丛中显自然淳朴,到处可见。人人喜爱的花卉,不求高贵但求人人喜爱。
千寿、万寿——长寿之人必不可少之意。
日本清酒品牌众多,“上善如水”、赤磬雄町、久保田万寿、千寿等是成功人士的首选,因而价格也较高;玉乃光、醉心吟酿、朝香大吟酿、万寿纯米吟酿、菊源氏等价格适中,很受中级白领的青睐;菊正宗、美少年、日本盛、朝香等走平民化路线,特别被一般家庭所推崇。日本清酒品牌众多,“上善如水”、赤磬雄町、久保田万寿、千寿等是成功人士的首选。
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日本酒文化
无论喜怒哀乐,以酒助兴或消愁并不仅仅属于日本人的专利。但是,自古以来,日本人最喜欢清酒却是名不虚传。
清酒是用秋季收获的大米,在冬季经发酵后酿成的。可以说,“酒是米、水以及酒曲子的艺术结晶”。所以,名酒的产地必然要有充足的水源而且盛产大米。丰富的水源,优质的大米是生产香醇美酒的先决条件。日本的森林孕育了丰富的水源,为生产优质名酒提供了良好的环境,这里的名酒产地主要在东北、北陆地区、九福岗、熊本一带。
日本菜以鱼类海鲜为主,吃日本菜喝威士忌,因酒性太烈,破坏了日本菜的鲜美,喝啤酒又觉得“味”不足,还是香醇爽口的清酒配上日本菜才有滋有味,再合适不过了。日本人后来用大米的“芯”酿造“吟酿造”很受欢迎,这是清酒中的最高极品。
烧酒清酒很适合正规礼节的宴会,而烧酒却比较适合于轻松愉快的场合。在鹿儿岛,如果提到“酒”,不言而喻指的是烧酒,当地人对烧酒深爱不已,举杯多为烧酒。
烧酒常用的原料是山芋、小麦、荞麦等,但也有用芝麻、胡萝卜、咖啡、甘蔗等制成的另一种风味的烧酒。蒸馏而成的烧酒,酒精的含量比清酒高,从25度到45度,达到了与威士忌一样的度数。
泡盛在冲绳,人们
喜欢喝一种叫“泡盛”的酒,这种酒与清酒一样也是用大米作原料,但与众不同地使用黑发酵,这反映了很早以前琉球人与东南亚的交流频繁,接受了许多外国的影响。“泡盛”也和烧酒一样属蒸馏酒类,但是也有数量高达60度以上的烈性酒。琉球菜浓油重,如果“酒劲儿”不够,确也难以与其“拔刀对阵”。二战前,人们用吕宋壶装好酒埋于地下,储藏100年以上的陈年老酒并非稀罕之物,可现在几乎销声匿迹,真让人怀念。无论喜怒哀乐,以酒助兴或消愁并不仅仅属于日本人的专利。但是,自古以来,日本人最喜欢清酒却是名不虚传。
日本酒文化
“酒者,天之美禄”(汉书.食货志)
说句实话,酒这个东西真可谓是“环球同此醒醉”,无论你走到哪里都可以看到醉鬼,最极端的恐怕就是那句“上帝保佑醉鬼”(《丁丁历险记》)
一 日本酒及酿酒技术的起源
现存关于日本历史的最早记载,是《三国志.魏书》“东夷传”中的“倭人”部分——日本人叫《魏志倭人传》的那本书。那里面对上古时代的日本人并没有特别翔实的第一手资料,但却已经有了“人性嗜酒”的记载,并且指出在办丧事时,日本人有聚众“歌舞饮酒”的习俗。但可惜并没有指出他们喝的是五粮液还是二锅头。
根据伟大的考古学家不懈努力,我们可以知道,最晚在绳文时代中期(中国的春秋时代),日本人已开始酿酒了。本州岛中部长野县出土了“有孔锷付土器”,是已知的日本最早的酿酒器具。在同一个地点,发现了 发现了山葡萄的种子,啊原来日本人喝的是葡萄酒(法国人跳出来啊?)。这起码说明,当时的酒饮料还是依靠野果酿酒。而根据大多数国家和民族的传说和考古显示,最早掌握酿酒技术的是——猴子!他们采摘野果,储存,吃不完,于是剩余的果子发酵,变成酒,恰好本森林里的二郎发现,当天晚上家里人发现二郎满嘴胡话,跳着舞闯了进来。我的观点A:和歌以及敦盛舞就是这样出现的„„我的观点B:日本人的酿酒祖师是——日吉丸!OHOHOHOH 伟大的发现„„
至于今天占据日本主导地位的米酒,则无疑产生于稻作文化传日之后。绳文时代晚期(已经到了战国时代)大量江南地区的农民为躲避战乱,逃往海那边的岛屿(当时的航海技术一级棒),于是带来了水稻的耕种技术。从南端的九州到北部的青森,都发现了这一时期稻米种植的遗迹。当然,光有米还不行,还得会把米变成酒才行,这其中的转变,我们不妨从古书以及一些传说找答案。
首先是无敌的《古事记》记载,在应神天皇时期,有一个从百济来的造酒专家须须许理,天皇喝了他献上的酒,感到味道好极了,“平生没有尝过”(原文有改动啊„„毕竟是日文啊„„我不懂日文啊!!)醉而做歌一首!但是本说法的可信度不高,毕竟《古事记》的残存度是应该受到怀疑的。
下面我们就从民间来找答案,在日本供奉的酒神中,就有大陆的舶来客。其中最著名的首推秦氏。公元四,五世纪时,被称为(注意,只是称为)秦始皇后裔的秦氏一族,聚居于京都一带。他们带来了包括酿酒在内的先进技术,对日本经济发展贡献居功至伟!以至于雄略天皇朝初次设立主管财政的“大藏”机构,第一任长官就选中了——秦酒公!~~~~~~~无言中~~~~~~后来秦氏子孙为纪念祖先功德,在岚山建立了松尾大社,在太秦建立了大酒神社,至今还有香火。所以,秦氏也被认为是日本的酿酒始祖。
日本人终于可以喝自己酿的酒了!!
二 日本酿酒技术的改进
首先还是让我们回到在日本的漫画,小说里经常出现的平安时代(中国平安平安中国 哇哈哈哈 我就在平安哈 请大家多多支持)。从诸如《福星小子》之类的史料看来(我„„我不是故意的)那个时代的人们还是满富足的,于是就有无聊的人出现,写了一部《延喜式》,注意,这事日本历史上有记载的第一部关于酿酒的专著。当时通行的酿酒方法在书中都有所反应。占主流地位的还是把发酵好的材料放入袋子里,挤榨出酒。这种方法出的酒往往有个“糟”字,显示了某种程度上和我中华上国之间的联系。
到了中世纪,日本的文化中心转入寺院,酒类从朝廷向民间开始作为商品流通。当时的著名品牌是“僧坊酒”当然就是寺庙里出产的酒(第三产业哈),踞考证,这种酒是由入宋,入元,入明的僧侣用带回的酿酒技术加以符合日本各个地方的实践而制作的。酿酒技术由于先进技术的引进有了长足发展,采用了著名的“火入”法。也就是煮酒。当然不是所谓“煮酒论英雄”的那个拉。在室町时代末期奈良兴福寺多闻院日记就记录了“煮酒”的作用,其一,杀死杂菌:其二,促进熟成。可见,煮酒已经有了理论依据。当然其最终来源还是中国技术我国在宋代就已经能够从理论上煮酒了。在制酒的方法上看最接近中国白酒酿制方法的是日本的“烧酌”,这种酒的制作方法主要是蒸馏,因而酒精含量较高,著名的就是冲绳出产的“泡盛”。从语言上讲,日本将知道酿酒的专家称为“杜氏”。这下一切都清楚了,“刘伶酿酒杜康造”,杜氏这个词汇直接反映了日本酿酒技术的出处。
当然,日本也有自己的特色。酿制米酒的关键在于酒曲的制作,在包括中国,日本,朝鲜半岛以及东南亚,西玛拉亚山脉诸国在内的“酒曲文化圈”里,所有国家的酒曲都是饼状,只有日本的酒曲呈现粉末状,这真是日本人的一大创举,根据本人的意见,这是日本列岛多风的结果。
总之,经过中华文化的熏陶和本地人的努力,日本人的酿酒技术在中世纪真正成熟了!
三 日本节气饮酒习俗考
一个苹果在你面前,你不去吃他,他也会不高兴的。最近正ON FIRE的慕容雪村如是说。
所以,有酒,就一定要有人来享受酒,就一定要有饮酒的环境,就一定有饮酒的时令,就一定会产生饮酒习俗这个东西。
人间五十年,如梦亦如幻。日本列岛一年四季变化明显,节序如流,日本人在感受自然更替,抒发生命咏叹的同时,少不了的,自然是酒的助兴。但是也并不是只有在一定之时日本人才会饮酒,有娶了日本姑娘的朋友说有时候BOSS甚至会以“顺利完成一天工作”为借口请大家喝酒。
新年伊始,千家万户入屠苏,日本人会在元旦的早晨,饮“屠苏酒”。这是一种用多种草药制成的酒精饮料,据说可以驱邪避祸,延年益寿。屠为死(好象是屠宰哦),苏为生(复苏)。岁首饮之,一年诸事遂顺,否极泰来。在平安时代(中国平安平安中国)这个风俗传入日本,并流行开来,而中国本土自宋元以降,却渐渐失传(忽必烈,他把北京改造成了一个大牲口圈)。
我中华上国地灵人杰,曾有一政府官员因为在一片在民间和业界被广为传抄的书法作品上以不同式样书写了21个“之”字而名扬古今。当时他和他的朋友正在进行一项传统的叫做“修禊”(XIUXI)的活动(我一直认为是休息的通假,但没有明显证据„„)。日本在奈良,平安时代(中国平安平安中国)皇宫中都仿效晋人先例,于3月3日举行“曲水宴”。后来发展成用纸作成偶人,放入水中以带走邪气的习俗,到了室町时代,喧宾夺主,偶人完全取代了曲水宴,进而登堂入室成为室内陈设,后世日本以3月3日为“雏祭”成为女孩子的节日。(-_-b这个祭不太风雅啊似乎„„)
四月到了,向大家每人收取一张卡片。呵呵,日本樱花盛开,漫漫樱花如雪,滚滚游人如蚁。在缤纷的樱花下,人们畅饮“花见酒”(向面堂一样说风雅啊风雅)。所以每到樱花盛开时,日本国民数量就会适当减少一部分,原因不详。
皓月当空,天涯共此时。日本人除了抄袭我中华上国之创意吃月饼以外,还喝一种酒,一种度数很低的酒,叫做月见酒。但是不知道如果阴天还喝不喝。
遥知兄弟登高处,遍插茱萸少一人。九九重阳,日本人也有这个奇怪的风俗,公元5世纪初期,菊花作为一种药用植物传入日本,平安时代(中国平安平安中国)就有了饮菊花酒的习惯,《类聚国史》就在“岁时部五”里提到大量当时宫中君臣聚饮,咏菊唱和的事情,不过好象是公款吃喝的借口呢。而重阳节作为“节句”,一直到明治维新才被废止。
从上面可以看出,其实日本人也没什么想象力,大多数习俗都是仿效我中华上国。就如在酒家门口悬挂的酒旗,根据《和汉三才图会》解释,和中国的“酒望子”“酒帘”都一模一样。日本人下酒的莼菜也传自中国江南,张翰“见秋风乃思莼鲈”算是表率,在日本诗文里屡见不鲜。
最后,表达对白居易的敬意,据说,日本自古相传的“火间”(是一个字,读KAN)即把酒加热后引用的方法,就是援引自老白的诗句“林中暖酒烧红叶”。
(三)日本酒文化之醉忘书
君当恕醉人——陶渊明 醉者神全——庄子
醉时拈笔越精神——辛弃疾
说一句大实话,以上三位对杯中物都喜欢的不得了,偏偏又要装高尚,所以就一定要找些高尚的理由来,当然,这还是正人君子,还有无耻之徒借别人之名来为自己开托,大家看看,记得那句“李白斗酒诗百篇”吗?人家李白关你X事啊!?
之所以说这些XXOO,是因为我想说明一个在大多数情况下都符合规律的道理,中国文人有意无意都会和酒发生关系。哈哈哈哈,知道我要说什么啦吧,日本人仰慕我中华上国,传承我中华文化,把这个也一并学去了,现在我们就来谈谈日本文学永恒的主题——酒!
《古事记》,《日本书纪》中,已经有咏酒的歌谣,而最为脍炙人口的当推《万叶集》卷3所收的大伴旅人的赞酒歌,其中深深的浸染了老庄人生无常的思想:
“有生必有死,仙界渺难图。百年须臾间,不乐复何如?”
这个家伙最崇拜的也是一个偶像组合,当然不是F4那帮傻B,而是所谓魏晋风度的杰出代表——竹林七贤(呵呵,铁匠,官员,流氓无产者的组合哦)。为了自己的偶像,这个大哥作诗一首:
“古有七贤人,笑傲竹林中(我倒)。青眼唯向酒,弹琴度春风。”
这还不算,他还身体力行,效法偶像:
“世间无价宝,莫若酒为尊。”
不知他喝没有喝出青光眼,但最后这两句却被誉为日本文学中最早也是最高的咏酒绝唱。此后在所谓的“俳圣”松尾芭蕉的作品里,也有化用中国典故,把酒比做甘露的描写。但是和歌,俳句因为其自身题材的短小,崇尚优柔含蓄,象大伴旅人这样的咏酒之作,后世不复出现。直到直接继承中国文化的汉试风行之后,酒作为文学命题才又得以一展其奕奕风采。
汉诗人们不仅熟知中国古代的饮酒典故,而且在创作方式上也竭力效法彼岸先贤诗酒风流的才情气概。
这里我要推崇的是江户时代的诗人祗园南海,这位老哥一生景仰诗仙李白,下面就是一个关于他的典故。
话说祗园南海,一日读书,看到杜甫的“李白斗酒诗百篇”,心驰神往,意欲效仿,于是在他17岁那年的春分之日,与同人聚饮(青少年酗酒?),一夜“赋五言律诗一百首,大为时所称”。但是有人怀疑他事先拟就,于是当年秋分之日,这个未成年者再度以酒卧“诗肠”,一夜再赋五百首,据说“凡二百篇,无一雷同者,众皆磋赏。”(出新井白石《停云集》)且不论一个17岁的少年能有多少人生经历,也不论他的诗被人赞赏只是停留在“无一雷同”一节,我只想讨论他之所以干出这种有豪情热血的事情,和酒长英雄胆是分不开的。
最后,我以一首在日本广为流传的咏酒诗作为本文结尾,本诗我觉得极为搞笑,江户时代著名诗人菅茶山的《月下独酌》:
“把酒邀明月,杯中金作波。豪来频吸进,腹葬几嫦娥?”^^
对日本人在酒文化的方方面面有一个走马观花的了解后,不知各位施主有何高见,现在,我来总结一番日本酒文化的特色。
其一曰淡丽风格。明代洪应明在《菜根谭》里所说的“花看半开,酒饮微醺“,在日本被奉为饮席之上品,也即追求一种朦胧雅致,悠远纤柔的审美风尚。因此,尽管日本也有酒精含量很高的烧灼,但是始终不占主流地位,中国的烈性白酒,在日本也难以打开市场。
日本人的最爱仍然是15度左右的以“吟酿”为代表的清酒,他们亲切的称之为“日本酒”用以区别“洋酒”和“中国酒”。当然,淡丽的日本酒,原就与日本清淡生冷的饮食习惯相吻合。
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清酒最具有日本代表性,它是由优质的大米加日本山区的泉水制成,度数一般在13-15度左右,酒色透明,味道有甘、辛口之分。甘口以酒味清爽甘洌、淡香怡人而著称;辛口则以酒香浓郁,品味无穷而见长。相比烧酒,果宾酒、以及外国威士忌酒来说,它最大的特色是味淡而清、度数低、不易上头、可以小酌慢品、回味悠长。
清酒可以热饮,也适合凉饮。在日本隆冬季节的时候,大家将清酒烫热到45摄氏度左右,用小瓷瓶装着,一边喝一边漫谈,酒气又不易发散。在夏季则许多年轻人喜欢喝冷酒,有专门的冷酒具,玻璃制,中间有凹进去的洞,放入冰块,酒进去不会掺水,又能保持低温。对日本料理来说,清酒不仅是良伴,还更不特别的功效;它可以去除鱼的腥味,使食物吃起来更香,更嫩。
在这里向大家推荐品牌大致有:泽之鹤吟酿、月桂冠、日本盛、菊正宗。当然还有许许多多的地方清酒,都值得一饮。不过,市场销售最多的是这四种名牌。我觉得吟酿为清酒中的极品,它不添加酿造酒精,完全由每粒精米中的精华部分做酒曲酿造而成,外观澄澈明清,在转动间即幻化成五颜缤纷的光彩,一入口中,滋味清爽,继而渐渐散发出多重层次的果香、木香、米香、花香„„被称之为“幻之酒”,是日本极究精致精神的代表作。喝酒有各种各样方式方法,日本人喝酒喜欢兑水饮用。现在时髦的饮法是用各类果汁加少量烧酒调制,浓度依个人喜好。清酒比较讲究在正规礼仪宴会上喝。男士举起酒杯,一口一口接着喝下去,而女士则是用右手托着酒杯,左手垫在酒杯下一小口一小口慢慢品尝。日本清酒除了在居酒屋和宴会上喝以外,再就是在庆功的大会上一定作为喜庆礼品来为大家助兴。这时,用的酒是大樽装,大家围成一团,同时举起木制榔头向樽口敲去。清酒代表了日本人的精神,如果说这个世界里只有日本有清酒的话,我想是没有错的。
--------------------------中国的酒如同茶一样,已经形成了自己的文化,从杜康造酒之始,中国的酒代代传承,中国的酒与国外的不同的是主要是白酒,国外大多是红酒,中国的白酒主要有醇香型,降香型,曲香型,混合香型,各具特色,淳厚芳香。自古以来,酒就出现在许多文人墨客的诗文中,李白斗酒诗百篇,苏轼把酒问青天,还有一句话:何以解忧,唯有杜康。当然也有酒入愁肠愁更愁的话。酒发展到今天形成中国文化之一,造酒技术也有所提高,酒的价值也在增长,但是,酒后驾车意外频出,饮酒过量造成死亡,官场生意场无酒不成事,这些现象也值得深思。其实适量饮酒舒筋活血,有助健康,还是那句话:就像茶一样,要品,才能体会文化。以上拙见,实属自家之言,比较爱好中国文化方面的事情,借贵宝地倡言己见,多谢。
酒令,顾名思义,是饮酒时的一种规矩。通常情况是一人为令官,按一定的规则,或划拳,或猜枚,或巧编文句,或进行其它游艺活动,负者、违令者、或不能完成者均罚饮(遇同喜可庆之事项时,则共贺之,谓之劝饮,含奖勉之意)。实际上,酒令是饮酒时所进行的一种风流文雅、睿智隽永的娱乐活动,特别在宴席上更是一种佐酒助兴、活跃气氛的主要手段,是文化入于酒,是酒中的社会文化、大众文化。
一 悠久历史
酒令在中国有着悠久的历史。它萌生于西周。本意是有关节制人们饮酒的律令,森严的礼仪制度。那时候,除设有专门“掌酒之政令”的酒官外,在酒宴上还设有专门监视人们饮酒的“监”、“史”,不管敬酒、罚酒,都要受到“监”、“史”的节制,不准饮酒过度,不准有失礼仪,违者予以惩处。这种以强制性手段确立的酒法,是依法行礼的开始,也是酒令萌发过程中的一次飞跃,或可以定为准酒令的产生。
酒令正式诞生于2600年前的春秋初期。据写于汉初的《韩诗外传》载:“齐桓公置酒令日:‘后者罚一经程(经程是一种饮酒器)!’管仲后,当饮一经程,而弃其半日:‘兴其弃身,不宁弃酒乎’”这表明春秋初年已经有了酒令的名称。战国初期酒令由原来的节制饮酒转变为劝酒的性质,“礼”的内容也逐渐淡漠,到了晋代,石崇在他的金圆别墅中宴客,不但令客人即席赋诗,而且规定,“或不解者,罚酒三斗”,从此产生了正式的以诗为令进行罚酒的酒令。曲水流觞令和藏钩令是魏晋的南北朝人从民俗中发掘出来的别有风情的酒令。至此,原本是维护“礼”的、专门为贵族所制定的酒令,在民间汲取了大量养分之后,又以洒脱,新鲜的面貌流行于世间。
唐代是中国封建社会的鼎盛时期,酒业振兴,酒风甚浓,为酒令成长提供了沃土,使酒令迅速发展成熟,最常见的有掷骰、射覆、酒筹、酒牌、文字令,此外还有击鼓传花、手势令、旗幡令、小酒令等等,其花样之新,门类之多都达到了空前水平,在文人雅士中十分流行。宋代酒令由雅趋俗,俗中见雅,比唐代酒令有了更广泛的基础。元代以膈,随着通俗文学的发展,酒令从士大夫、文人雅士及富豪之家的酒宴之间普及到民间建党百姓之家。
明清时代,酒令进入颠峰状态,其品种之多,内容之丰富,都有前代酒令所不能比拟的。凡人间事物、花草虫鱼、经史典故、风俗习惯、时令节气、唐诗宁词、小说俗语等等,无一不可入令。而且这时候的酒令向着系统化、理论化的方向发展,日臻完善,专著颇丰。特别是文学酒令几乎运用了所有的修辞手段,雅令在娴熟中见经纶,俗令在随意中显风采。而且行令气氛宽松,不行苛令,行令只为劝酒,饮酒只为行乐。
酒令是我国酒文化中戛戛独造的一朵别有风姿的奇葩,它是劝酒行为的文明化和艺术化。今天,我们掌握酒令的有关知识,并把它适当地应用到饮酒活动当中,可以调节气氛,增添乐趣,陶情冶情,增进智力,提高饮酒的文明程度。
何叔衡等编著的《古今酒令大观》把酒令分为字词令、诗语令、花鸟鱼虫令、骰令、拳令、通令、筹令等七类。为了论述的方便,笔者赞成王守国在《酒文化中的中国人》一书中的见解,把酒令分为大众酒令和文人酒令两大类。大众酒令更具实用性,文人酒令更具艺术性
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酒海苍茫,谁主沉浮
酒是一个“圣物”,是一个带“血腥”的圣物。酒是劳动人民智慧和血汗的结晶。
几千年的酒史,是一部古代酿造技术史,也可以说是一部优美的民间文学史。然而,又是一部地主资产阶级残酷压榨,帝国主义疯狂掠夺,劳动人民饱受欺凌和奴役的剥削史、血泪史。如果说“长街恰付登瀛数,处处街头揭翠帘”是汾酒生产历史一度繁荣兴旺的写照,那么“甘露堂荒酿法疏,血汗枯竭酒人无”就是在长期的封建社会和半封建半殖民地社会中,汾酒生产必然走向衰落的真实记录。在那漫漫长夜的历史中,在历代反动统治阶级的桎梏下,闪耀着我国古代劳动人才的天才和智慧的古老奇花,如同我们伟大而多难的中华民族一样,备遭摧残,经历了多少的苦难的沧桑!只有在解放以后,党的阳光普照,枯木逢春,这部劳动人民的天才杰作才重新焕发她灿烂的光彩。
酒生产的历史是悠久的,但是在长期的封建社会中,酒生产的方式却是简单的,封建生产关系的束缚更决定了生产不可能有大的发展。
在封建社会里,广大农民不仅要从事繁重的农业劳动,交地租完税赋,农闲时节,还要从事手工业劳动,以抵偿借贷,或换回自用农具和必需的生活用品。酿酒就是这种手工业劳动的一个重要内容。另一方面,封建土地占有者——地主,为了自己的享用,也在秋后,利用剥削的粮食,雇工酿酒,这两种情况虽然目的各异,但他们的生产方式都是分散的,季节性的,没有固定的酿酒处。几只大瓮,一具烧锅甑桶,一、二百斤粮食,就可进行生产。所谓“最是新年佳酿熟,逢逢铁鼓赛郎神”就道出了他们季节性生产的特点,以及小生产者利用赛神祭祀进行集市交换的情景。
生产设备的简陋,造成效率低、成本高,加之自然灾害对原料的影响,使生产者难以维持。特别是封建生产关系的重要剥削,反动统治除非段的沉重税赋,使大批手工业者必不可免地遭到破产。据记载,清朝全盛时期杏花村有酿酒作坊200余家,而到清末民国初,就只剩下十几家了。“处处街头揭翠帘”的短暂的表面繁荣,很快被“甘露堂荒酿法疏”的萧条景象所替代。连以佳酿得名的杏花村都酿法荒疏了,可见这种萧条的普遍性和长期性。
但是,正如毛泽东所指出的“封建社会已经孕育着资本主义的萌芽”。酒生产随着社会的发展,商品经济不断扩大,已经为资本主义的产生准备了条件,1840年鸦片战争以后,帝国主义的侵略对中国的自然经济起了解体作用,刺激了商品经济的发展。在商品经济比较发达的地区,以资本主义雇佣关系为特征的、生产规模比较大的、技术分工较细的工场开始出现。正是在这样的历史条件下,出现了具有资本主义性质的酿酒作坊。在这样的作坊里,资本家根本不参加劳动,完全依靠对生产资料的占有,剥削工人的剩余劳动,他们之间的关系就是纯粹的雇佣关系,剥削与被剥削的关系了。资本主义的竞争,如同大鱼吃小鱼。这就开始了相互间的排斥、倾轧、和咬打。1937年7月日本帝国主义发动了全面的侵华战争,日寇的铁蹄所至,使刚刚萌芽的民族资本主义备遭蹂躏,兴盛一时的酒生产饱受摧残,弥漫在华夏神州上空淡薄的酒香,逐渐消失。
“柜前一壶酒,酒工一身汗,东家发横财,工人筋骨断。”这首流行在杏花村地区的民谣,用血泪的语言,深刻揭露了地主资本家残酷压榨工人的凶残面目和他们把财富的掠夺建立在工人尸骨之上的贪婪本性。在旧社会,造酒的人们备受三座大山的压迫。“世上三行苦,蒸酒、熬糖、打豆腐”。苦就苦在当时的酿酒作坊大多是带有浓厚封建色彩的资本主义企业,既有旧式封建主对农奴的宗法式统治,又有新式资本家对利润饕餮式追求。它们结成一副沉重的枷锁,牢牢套在工人的身上。在那暗无天日的社会里,酿酒工人受着非人的待遇,进行着超负荷的劳动,酿成了许许多多的悲剧。马克思就是指出,资本家用资本赚取剩余价值,仅仅是“死劳动者动,它像吸血鬼一样,只有吸吮劳动才有生命,天噬的活劳动愈多,它的生命就愈活跃。”“世人都道汾酒美,神仙井水拌泪水。杯杯斟满伤人泪,何日盼得杏花回!”这就是旧社会汾酒工人对那吃人的黑暗世界的控诉。是他们从被压迫的最底层发出的震撼人心的呼号。
哪里有压迫,哪里就有反抗;压迫愈深,反抗愈烈。马克思主义这根阶段压迫和反压迫的红绳,贯穿着1000多年酒生产的漫长历史。那种尖税的阶级对立的景象目不忍视。
然而,资产阶段不懂得,也不可能懂得,从他们产生的那天起,就同时诞生了他们的掘墓人——工人阶级。工人阶级的历史使命,就是要埋葬旧世界,把一切剥削阶级连同产生他们的社会根源拥进历史的垃圾堆。这是谁也抗拒不了的客观规律。区区砖墙岂能阻挡历史年轮的前进。其实,在那些长夜难明的苦难岁月里,造酒工人从来滑停止过同反动统治阶级的斗争,只是斗争的形式因时而异,或明或暗或张或也罢了。
巍巍吕梁,美好的杏花村,不仅记载了我国劳动人民精湛的酿造技艺,也记录了千百年来造酒工人的苦难和从自发到自觉的斗争。当我们追溯古代“汾酒”的历史,吟咏有关杏花的诗篇,赞颂汾酒的甘馨、醇厚的时候,我们决不可忘记这火与剑的一页。
大自然和风拂面,人民迎来了历史上第一个真正的春天,从此结束了她充满苦难、悲怆和屈辱的历史。酿酒工人像冲破牢笼的苍鹰,直搏长空。终于在它们智慧和勤劳的结晶下,作为人民的珍品,从酒器里奔泻出来了,人民第一次欣慰地笑了。“杏花村里酒如泉,解放以来别有天”郭老满怀激情的诗句,度度概括了解放以后造酒工人所发挥的顽强革命精神和改天换地的无穷创造力。酒香真正地弥漫在华夏神州。
文化艺术一旦回到劳动人民手中,就显出它固有的生命力。事实已经作了有力的回答:作为国家的主人,充分发挥自己的主动性、积极性和创造性,让骏马奔驰,在名酒生产上攀登世界酿造科技的高峰,也能够使自己的业余文化生活更加充实、丰富,更有意义、更美。
文人骚客闹酒海
自酒类出现以来,人类就和酒结下了不解之缘。将士出征,文人写诗作画,家庭喜庆致贺,师朋之会都离不开酒。直至今天,饮酒仍是人类社会生活的一项重要内容。在各种活动中占有重要地全,我国古代文献及诗歌、小说、戏剧中,留下了相当丰富的关于酒的记载。有不少脍炙人口的诗词歌赋,生动有趣的传说故事,给人留下了美好的回忆。
有人说,酒是英雄的伴侣,友谊的花束,胜利的凯歌。这话不无道理。单看一部《水浒传》,有多少英雄好汉大碗喝酒,大块吃肉。武松喝了15碗酒上景阳岗打虎,就是一个典型,用他的话说,叫做“带一分酒,便有一分本事;五分酒五分本事。我若吃了十分酒,这气力不知从何而来。”朋友聚散,饮酒看花,有“劝君更尽一杯酒,西出阳关无故人”和“两人对酌花开,一杯一杯复一杯”这样的佳句。酒自然可与友谊花束交相媲美,至凯歌报捷,祝酒庆功,一句“黄龙痛饮”就足以证明。
还在公元3世纪的三园两汉时期,酒就与许多大诗人,大文学家以及所谓名士、隐者结下了不解之缘。在这以前,文人当然也饮酒,但比较明显地把酒当作解忧的“灵丹”,把无节制地豪饮当作逃避现实的手段,特别是把酒醉以后当作艺术创作的理想境界。
三国时期的政治家、军事家兼诗人曹操有《短歌行》云:“对酒当歌,人生几何。譬如朝露,去日苦多,慨当以慷,忧思难忘。何以解忧?唯有杜康”。用今天的话说,就是举起美酒高歌畅饮吧,人的生命是如皮短促;好像早晨的露珠,一会儿便枯竭了,下去的苦时光正多哩!虽然一时慷慨激昂,但心灵深处的忧患之思却难以忘掉,怎么办呢?唯一的办法,只好求助于“酒仙杜康”。曹操这首诗可说是文人“借酒浇愁”的代表作,也生动再现了曹操“老骥伏枥,志在千里”的豪迈气慨和建功立业的雄心壮志。接下来便是阮藉、嵇康、山涛、刘伶、阮咸、向秀、王戎等所谓“竹林七贤”。这些在文学史上颇有名气的人物,不仅喝得多,而且也醉得厉害。酒几乎成了他们生活中不可缺少的部分和主要的特征。时人竞相效仿,影响很大。历史书上说山涛“饮酒至八斗方醉”。一斗酒酒有多少?各家说法不一。但看《三国志》说姜维死时,“剖胆如斗大”,以及“太白斗酒诗百篇”,“斗酒十千恣欢谑”的情形,八斗酒,怎么说出不会太少。阮藉则更有这样故事,说他“闻步校尉缺,厨多美酒营人善酿酒,求为校尉,遂纵酒昏酣,遗落世事。”堂堂“名士”为了喝酒,不惜隶身卒伍,一醉而昏,也可算够典型的了。这些人为什么要嗜酒如命?有人说他们是在冥想中超脱现实世界,当时“实际的社会情势逼得他们不得不饮酒”,“不得不沉湎”。但是,我们说他们多少有点在逃避现实,甚至抱有宿命论的观点,也应该不算冤枉。还有那位“田园诗人”陶渊明,也是“性嗜酒”的。不仅喝酒,而且“春秫作美酒,酒熟吾自斟”,自己也动手酿酒。至于我国古代伟大的浪漫主义诗人李白和伟大的现实主义诗人杜甫对酒的酷爱豪饮,就更是人所共知的了。李白少年出游,长期离开故土,他对自己的家乡是十分怀恋的,“仍怜故乡水,万里送行舟。”(《渡荆门送别》)“梦绕边城月,心飞故国档。思归若汾水,无日不悠悠。”(《太原早秋》)特别是那首《首夜思》:“床前明月光,疑是地上霜。举头望明月,低头思故乡。”表现出眷恋故乡故土之情,你再看:“兰陵美酒郁金香,玉碗来琥珀光。但得主人能醉客,不知何处他乡。”(《客中作》“琼杯绮食于玉案,使我醉饱无归心。”(《忆旧游寄谯郡元参军》)只要有好酒,他便忘记了故乡所在,也不想回家了。杜甫也不亚于李白。他自己说,从十四、五岁便“性豪业嗜酒”;而且越喝越厉害,直至最后死于牛肉白酒。郭老作过一个统计:李白现存诗文1050首,说到饮酒的170首,占16%强;杜甫现存诗文1400首说到饮酒的共有300首,占21%强。郭老说:“当李白醉了的时候,是他最清醒的时候,也是他最糊涂的时候。”“因而他的好诗,多半是醉后作的。”这样说来,酒醉以后,岂不正是这伟大诗人艺术创作的理想境界么!
在我国的诗歌中,到处可以看到酒的影子,到处可以闻到酒的醇香。有人作了这样的假设:如果没有酒,陶渊明不能安享田园之乐,李杜文章不会上天入地,宋词可能会交了白卷。
在中国文学史上,许多诗人以酒酿诗,以诗喝酒,是一种奇特的文化现象。而且由于用于“发酵”诗歌的“酒母”不同,每个诗人酿出来的诗,亦同我国名目繁多的美酒那样有千家风味,万种情调,令人叹为观止。故晋代陶渊明的“田园诗酒”,闲适而恬淡;又不乏酒的清芬;以岑参为代表的“边塞诗酒”,是大漠里悲壮的豪情与欢歌;李白的“浪漫诗酒”,融旷达与豪迈于一炉子,映照出一个“醉魂归八极”、“啸傲御座侧”的自由、奔放的不屈性格;与李白同为“唐诗双璧”的杜甫,酿的大多是“民间诗酒”,与沼兴花雕一般,醉香中略带苦涩之味,大多都是因为渗透了他上悯国难、下痛民穷的一片苦心之故„„
“酒能酿诗”,也是诗人们自己道出来的一种奥秘。“温酒浇枯肠,戢戢生小诗”;“俯仰各有态,得酒诗自成;”“形册槁木因诗苦,眉锁愁山得酒开”;“酒肠无酒诗不流”、“一曲新词酒一杯”;“百岁光阴举归酒,一生事业略存诗”„„
“以诗喝酒”,是诗人们天生爱酒的缘故,以至有人评论诗酒文化时说,似乎是酒成中国文学发展的一个重要因素。王安石说:李白的诗“十句九句言妇人、酒耳”。其实,李白的诗,《乐府》之外,言女人者极少,言酒者固多。从李白留存下来的诗文中,大部分写到酒。他的许多直接写饮酒的诗,直到今天还为许多酒客吟诵不已,如“且乐生前一杯酒,何须身后千载名”、“人生得意须尽欢,莫使金樽空对月”、“古来圣贤皆寂寞,唯有饮者留其名”、“兰陵美酒郁金香,玉碗盛来琥珀光”等等,都是千古传诵的佳句。中国的诗酒文学,到了李白的手中,已达到了前所未有的高潮,以至皮日休惊叹说:“召爱李太白,身是酒星魄;口吐天上文,迹作人间客。五岳为辞锋,四海作胸臆 ;惜哉千万年,此后不可得。”
诗意与酒情并存。诗人借着一壶酒,往往超脱了现实世界,酣醉之中,诗兴勃发,浮想连翩,平添了许多真情与童心,以至能与自然界的万事万物把酒言欢,创作出想象丰富、意象活泼的作品,无论是写唯美的小品,还是作豪迈的长歌;无论是倾诉离愁别绪言,还是抒发兴亡感慨,无数精采篇章,大多是酒后放歌而来。陆游那首有名的《红楼吹笛饮酒大醉中作》就是如此,“世言九州外,复有大九州。此言果不虚,仅可容吾愁。许愁亦当有许酒,吾酒酿尽银河流。酌之一斛玻璃舟,酣宴五城十二楼。天为碧罗幕,月作白玉钩,织女织庆云,裁成五色裘。披裘对酒难为客,长揖北辰相献酬。一饮五百年,一醉三千秋。却驾白凤骈斑虬,下与麻姑戏玄州。锦江吹笛余一念,再过剑南应小留。”这诗想象力之丰富,艺术手法这夸张,达到了登峰造极的地步堪称历代诗酒文学之冠。
唐代是中国文学史上诗歌的黄金时代,诗人受到社会的尊敬,饮酒周期诗成为风流儒雅之事,受到时人的羡慕,在各种社交场合,这种风气大盛。诗人李白、贺知章、张旭、崔宗之等经常在长安酒楼中聚会,饮酒赋诗,被誉为“饮中八仙。”杜甫为他们写下了著名的“饮中八仙歌”,诗中有“„„李白一斗诗百篇„„自称臣是酒中仙„„焦遂五斗方卓然,高谈雄辩惊四篷”的描写,可以想见当时众诗人饮酒中诗兴大发,挥豪作诗,高吟低唱的热烈情景。
在古代诗歌中,有不少还写出了当时的名酒名称,使我们对古代名酒有了一个大致的了解。如王仲修“郢坊初进荼糜酒”,梁武帝“香浮郁金酒”,沈约“酿酒爱乾和”,庚信“方饮松叶酒”,岑参“五粒松花酒”,陆游“壶中春色松肪酒”,高九万“先生自酿松精酒”,王建“茱萸酒法大这册”,骆宾王“山酒酌藤花”,白居易“酥暖薤白酒”,“薄黄酒对病眠人”,李商隐“不劳劝君石榴花,”杜甫“芦酒多还酒”,李白“小槽酒滴真珠红”,“兰陵美酒郁金香,”苏轼“试开云梦羔儿酒”,丁仙芝“十千兑得余杭酒”,陆机“葡萄四时芳醇”等等。当然,诗人所到只是部分名酒,但从这些描述中足可看到我国酿酒技术的高度发达。
酒后吐真言
宋公明被发配流徙,来到浔阳楼上,多喝了几杯酒,不觉沉醉狂荡起来,竟在壁上题起诗来:“他年若遂凌云志,敢笑黄巢不丈夫。”宋江醉后题的这首“反诗”,无疑是他内心思想的真实流露,也就是人们常说的“酒后吐真言。”
酒,作为一种麻醉品,它可抑制人的某些大脑神经,喝得稍多一点,便容易使人的言谈失去克制,话越说越多,越说越随便,一些久埋在心底的话,此刻也可脱口而出。说酒话时,可能语无伦次,但多为真言。即使“多诈”的曹孟德,在与刘备两人青梅煮酒论英雄时,喝着喝着,也终于喝出“今天下英雄,惟使君与操耳”的真言来了。酒,确能使人言平素之所未言,在醉得可以的时候,慢慢敞开心扉,吐露最隐蔽的心曲,真情毕现。
俗话说:“言多必失。”酒喝多了,话说多了,难免酒后失言,冲撞他人,或被视为“犯上作乱。”在封建专制时代,因酒后讲了真话,最后惹来祸水的,可谓屡见不鲜。南宋时期的陈亮,才华横溢,蜚声词坛,只因一日与人饮酒,醉中骊为大言,颇犯上,被人告到刑部,竟被打得体无完肤。唐朝的刘文静,当年曾与李世民一起打过江山,有殊勋,唐初时当了刑部尚书。由于他平时对任尚书左仆射的裴寂不满,一次与其胞弟饮酒之中,趁着酒兴,大发怨言,甚至拨出佩刀直砍房柱,说:“当斩寂”这话竟被他的一个失宠之妾告发,最后兄弟二人落得个身首异处。
正因为这样,有人对饮酒显得特别的谨慎,甚至下决心戒酒。春和时期的政治家、齐桓公的上卿管仲,说过一句有名的话:“湛于乐者洽于忧,厚于味者薄于行。”有一次齐桓问他为什么不饮酒,他说:“我听说酒喝到肚子里,舌头就会失去控制,话就会多起来,话多了就会说错,说错了就会招来杀身之祸。”最后管仲说:“臣计,弃身不如弃酒。”
最可悲的说,“酒后吐真言”这一特殊的生理现象,在封建专制时代,被一些人用于政治上、军事上、外交上的图谋取。因为酒能醉人,几杯下肚,酒力使人层层卸甲,裸现真心,于是有人便专用酒为试探人心,刺探军情,作为“攻心”的法宝之一,曾经导演出许多令人心惊胆颤的活剧。
话说回来,虽然历史上有过因“酒后失言”,触犯了什么忌讳而获罪,但也大可不必提倡“弃身不如弃酒”。酒后吐真言,是醉酒的一种自然反应,这时人的思想和情感,也会脱离理性、礼教或利害得失之羁绊,自由自在地驰骋起来,使人平时不能公开表达的内心矛盾自我披露出来,显示出一个真实的灵魂,达到“返朴归真”的境界。西刘伶做过一篇《酒德颂》为醉酒大喝赞歌:“兀然而醉,豁尔而醒”,“幕天席地,纵意所如”,“无思无虑,其乐陶陶。”“纵意所如”,便是说真话;“无思无虑,”就是没有任何顾忌,当今颇有声望的杂文家老烈也豪不隐瞒自己的观点,做了一篇近于“游戏之作”的杂文《三杯过后》。他也说,饮了酒,精神亢奋,无法控制自己了思想感情、语言,一下子把肚子里的隐秘都抖了出来,总比不说真话,装模作样,口是心非要好。他抨击“假道学”,颂扬“真名士”,提倡“吐真言。”
然而,也必须记住,酒后未必都有“真言。”有的人灵魂倘有‘妖精’,此刻释放了来,反成祸害。所以,自然联想到鲁迅先生的一句名言:血管里流出来的便是血,水管里流出来的便是水。
有一位诗人珍视这样的“酒后真言”:像烧红了的火炭似的酒滴一经入喉之后,曲曲弯弯的肠子就渐渐伸直了,僵硬的面部肌肉也松弛了,整个灵魂随之光亮起来。话可能比较多,但常常有异彩,话里有诗,有奇妙的童话,有深刻的哲理。当然,也有像车轱辘一样不断重复的唠叨。但都很美,很可爱,因为真诚。
第五篇:中日两国共同使用的成语及谚语
中日两国共同使用的成语:
中国的部分成语,日语作为“四字熟语”来使用,这些“四字熟语”除了有些日语汉字与中文汉字写法不同外,其“形”与“义”与中文是相同的。这里,就其常用的列出如下:
暗中模索(あんちゆうもさく)
唯唯諾諾(いいだくだく)異曲同工(いきょくどうこう)
一字千金(いちじせんきん)一網打尽(いちもうだじん)
一目瞭然(いちもくりょうぜん)一気呵成(いっきかせい)
一挙両得(いっきょりょうとく)一刻千金(いっこくせんきん)
一視同仁(いっしどうじん)一瀉千里(いっしゃせんり)
一触即発(いっしょくそくはつ)一知半解(いっちはんかい)
一張一弛(いっちょういっし)一朝一夕(いっちょういっせき)一長一短(いっちょういったん)一擲千金(いってきせんきん)
一刀両断(いっとうりょうだん)意馬心猿(いばしんえん)
温故知新(おんこちしん)臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
隔靴掻痒(かっかそうよう)画竜点睛(がりゅうてんせい)夏炉冬扇(かろとうせん)鰥寡孤独(かんかこどく)
起死回生(きしかいせい)気息奄奄(きそくえんえん)
急転直下(きゅうてんちょっか)驚天動地(きょうてんどうち)金枝玉葉(きんしぎょくよう)金城湯池(きんじょうとうち)
空前絶後(くうぜんぜつご)空中楼閣(くうちょうろうかく)軽挙妄動(けいきょもうどう)鶏鳴狗盗(けいめいくとう)
牽強付会(けんきょうふかい)拳拳服膺(けんけんふくよう)言行一致(げんこういっち)行雲流水(こううんりゅうすい)巧言令色(こうげんれいしょく)光風霽月(こうふうせいげつ)虎視眈々(こしたんたん)五臓六腑(ごぞうろっぷ)
三位一体(さんみいったい)自給自足(じきゅうじそく)
四分五裂(じぶんごれつ)自暴自棄(じぼうじき)
四面楚歌(しめんそか)弱肉強食(じゃくにくきょうしょく)神出鬼没(しんしゅつきばつ)
深謀遠慮(しんぼうえんりょ)
人面獣心(じんめんじゅうしん)酔生夢死(すいせいむし)
清風明月(せいふうめいげつ)切磋琢磨(せっさたくま)
千軍万馬(せんぐんばんば)千差万別(せんさばんべつ)
千辛万苦(せんしんばんく)戦々恐々(せんせんきょうきょう)先鞭一律(せんべんいちりつ)千変万化(せんぺんばんか)
大器晩成(たいきばんせい)泰然自若(たいぜんじじゃく)
大同小異(だいどうしょうい)単刀直入(たんとうちょくにゅう)魑魅魍魎(ちみもうりょう)朝三暮四(ちょうさんぼし)
朝令暮改(ちょうれいぼかい)徹頭徹尾(てつとうてつび)
天衣無縫(てんいむほう)天真爛漫(てんしんらんまん)
同工異曲(どうこういきょく)同床異夢(どうしょういむ)
道聴塗説(どうちょうとせつ)内憂外患(ないゆうがいかん)八面玲瓏(はちめんれいろう)撥乱反正(はつらんはんせい)盤根錯節(ばんこんさくせつ)半信半疑(はんしんはんぎ)
繁文縟礼(はんぶんじょくれい)百家争鳴(ひゃっかそうめい)
風声鶴唳(ふうせいかくれい)不即不離(ふそくふり)
不得要領(ふとくようりょう)鵬程万里(ほうていばんり)
本末転倒(ほんまつてんとう)明哲保身(めいてつほしん)
明眸皓歯(めいぼうこうし)夜郎自大(やろうじだい)
唯我独尊(ゆいがどくそん)優柔寡断(ゆうじゅうかだん)
落花流水(らっかりゅうすい)流言飛語(りゅうげんひご)
老驥伏櫪(ろうきふくれき)論功行賞(ろんこうこうしょう)中日谚语之间的关系大致分成两种:
1.直接把中国的谚语翻译成日文。
如:“百闻不如一见”----「百聞は一見に如かず」(ひゃくぶんはいっけん にしかず)
2.中日两国的谚语各不相同,但其含义相同。
如:“歪打正着”----「怪我の功名」(けがのこうみょう)
对第一类不必做任何解释,而对第二类,则有时要进行必要的说明。还有一些很难找到合适的对应谚语,但它有特别之处,也适当地进行介绍。
第一类
“青出于蓝而胜于蓝”----「青は藍より出でて藍より青し」(あおはあいよりいでてあいよりあおし)
“光阴似箭”---「光陰矢の如し」(こういんやのごとし)
“一年之计在于春”---「一年の計は元旦にあり」(いちねんのけいはがんたんにあり)
“滴水穿石”---「雨だれ石を穿つ」(あまだれいしをうがつ)
“只知其一,不知其二。”------「一を知り二を知らず」(いちをしりてにをしらず)
“一叶落知天下秋。”------「 一葉落ちて天 下の秋を知る」(いちようおちててんかのあきをしる)
“一年之计在于春”------「 一年の計は元旦にあり」(いちねんのけいはがんたんにあり)“岁月不待人”----「歳月人を待たず」(さいげつひとをまたず)
“养子方知父母恩”----「子をもって知る親の恩」(こをもってしるおやのおん)
“知子莫若父”----「子を知ること父に如くはなく」(こをしることちちにしくはなく)
“千里之堤溃于蚁穴”----「千里の堤も蟻の穴から。」(せんりのつつみもありのあなから)
“条条道路通罗马”----「すべての道はローマに通ず。」(すべてのみちはローマにつうず)
“脍炙人口”----「人口に膾炙する」(じんこうにかいしゃする)
“笑里藏刀”----「笑中に刀あり」(しょうちゅうにとうあり)
“前门拒虎,后门进狼。”----「前門の虎、後門の狼。」(ぜんもんのとら、こうもんのおおかみ。)
“千里之行,始于足下。”----「千里の道も一歩より起こる。」(せんりのみちもいっぽよりおこる。)
“笑里藏刀。”----「笑中に刀あり」(しょうちゅうにとうあり。)“一贫如洗”----「赤貧洗うが如し」(せきひんあらうがごとし)
“前车之覆,后车之鉴”----「前者の覆るは後車の戒め」(ぜんしゃのくつがえるは、こうしゃのいましめ)
“有备无患”----「備えあれば憂いなし」(そなえあればうれいなし)
“隔岸观火”----「対岸の火災」(たいがんのかさい)「川向いの火事」(かわむかいのかじ)
流水不腐,户枢不蠹----流れる水は腐らぬ(ながれるみずはくさらぬ。)
快马加鞭----駆け馬に鞭(かけうまにむち)
恩将仇报----恩を仇で返す(おんをあだでかえす)
子女不知父母心----親の心子知らず(おやのこころこしらず)
照猫画虎----猫を真似て虎をかく(ねこをまねてとらをかく)
一丘之貉----一つ穴の狢(ひとつあなのむじな)
放虎归山----虎を野に放つ(とらをのにはなつ)
遂二兔者不得其一(近意:鸡飞蛋打)----二兎を追う者は、一兎をも得ず(にとをおうものは いっとをもえず)
千里之堤溃于蚁穴----千里の堤も蟻の穴から(せんりのつつみもありのあなから)
画饼充饥----絵に描いた餅(えにかいたもち)
雨后春笋----雨後の筍(うごのたけのこ)
一箭双雕----一石二鳥(いっせきにちょう)
鹬蚌相争,渔翁得利。--鹬蚌の争い、漁夫の利となる。
(いっぽうのあらそい、ぎょふのりとなる)
一将功成万古枯。--一将功成りて万骨枯る。
(いっしょうこうなりて、ばんこつかる。)
说起来容易做起来难。--言うは易く、行うは難し。
(いうはやすく、おこなうはかたし。)
以毒攻毒--毒を以って毒を制す
(どくをもってどくをせいす)
第二类
“垂头丧气”----「青菜に塩」(あおなにしお)
“功到自然成”---「石の上にも三年](いしのうえにもさんねん)
“满瓶不响,半瓶叮当”---「空き樽は音高し」(あきだるはおとたかし)
“火烧眉毛”---「足下に火がつく」(あしもとにひがつく)
“马后炮”------「後の祭り」(あとのまつり)“事后搞庆祝活动”
“八九不离十”------「当たらずといえども遠からず」(あたらずともいえどもとおからず)
注:「当たる」是“说准了”,它的否定是「当たらず」;「とも言えども」是“虽然说是”;「遠からず」是“远”的否定,这是古语说法,和「遠くない」相同。整个意思是说“虽然没有说准,但也离得不太远。” “昙花一现”------「朝顔の花一時」(あさがおのはないちじ)
注:「朝顔」是“牵牛花”又称“喇叭花”,夏天早晨花开得很好看,但是太阳出来后很快就蔫掉; 「一時」有两个解释:1是一点钟,2是暂时,在这里用2。整个意思是说“牵牛花开花虽然很好看,但很快就蔫掉了。”表示是“短暂的美”。
“未雨绸缪”----「転ばぬ先の杖」(ころばぬさきのつえ)
“聪明反被聪明误”----「策士策に溺れる」(さくしさくにおぼれる)
“多一事不如少一事”----「触らぬ神に祟りなし」(さわらぬかみにたたりなし)
“久居则安”----「住めば都」(すめばみやこ)
[解释]:日语中的 「都(みやこ)」是都城、京城,也是最好的地方。说人在一个地方住长了,有了感情,再差的地方也当成了京城。
“天无绝人之路”----「捨てる神あれば助ける神あり」(すてるかみあればたすけるかみあり)
[解释]:天上的神很多,有的神不救你,有的神会救你,不是所有的神都不救你。
“英雄出少年”----「栴檀は双葉より芳し」(せんだんはふたばよりかんばし)
[解释]:「栴檀(せんだん)」是指“白檀”,「双葉(ふたば)」是刚刚发芽时的两片叶。是说檀木刚刚发芽就散发香气,表示英雄人物从少年时就出众。
“宰鸡焉用牛刀”----「大根を正宗で切るなかれ」(だいこんをまさむねできるなかれ)
[解释]:「大根(だいこん)」是萝卜,「正宗(まさむね)」是日本传统的武士用的名刀,「なかれ」是“不要„„做”。意思是说切萝卜不必使用高级的武士配刀。“微乎其微。”----「雀の涙。」(すずめのなみだ。)解释:麻雀本身就很小,其眼泪就更少了。
“可望而不可及。”----「高嶺の花。」(たかねのはな。)解释:高岭上的花,开得很好看,但是只能看见而够不着。
“口若悬河。”----「立て板に水。」(たていたにみず。)解释:在立着的板上浇水,很快就流下去。形容说话非常流利。
“天渊(壤)之别”----「月とすっぽん」(つきとすっぽん)「雲泥の差」(うんでいのさ)
说明:表示两个事物有类似的外表,但是实际上有非常大的区别。云和泥都是不定型的东西,但是云在天上,泥在地下,差别极大。或者说月亮和鳖(すっぽん)都是圆的,但是月亮高挂在夜空,很美;而鳖只能是在泥塘里游,很丑,差别极大。
“好事多磨”----「月に群雲(叢雲)、花に風」(つきにむらくも、はなにかぜ)说明:表示最好的事物总有不完美的情况。十五的月亮很美,偏偏有云遮住一部分;花开放得很漂亮,偏有风把它吹散。
“画蛇添足”----「月夜に提灯」(つきよにちょうちん)
说明:表示做些没有意义、甚至不该做的多余事情。中文说:画蛇加了腿,日本说:有月亮的夜晚打着灯笼走。
“一星半点”----「爪の垢ほど」(つめのあかほど)
说明:表示东西非常少。中文是用“星”和“点”表示量少;而日本则用“指甲里的污垢”来表示量少。日语的“爪”是“指甲”之意。与「わずか」「ほんの少し」同一个意思。
对牛弹琴----猫に小判(ねこにこばん)
说明:“小判(こばん)”是日本古代使用的金币。对于人来说是很值钱的,但是对猫来说是没有任何价值的。和中国说的对牛弹琴是一个道理。亡羊补牢----火事の後の火の用心(かじのあとのひのようじん)
说明:“火の用心(ひのようじん)”是“注意火头,防止火灾”的意思。发生了火灾之后,要求人们注意火头,防止火灾,这和丢了羊之后,把羊圈补结实是一样的。看来是已经受到损失,但是引以教训,也还是有意义的。
丢了西瓜拣芝麻----火事の後の釘拾い(かじのあとのくぎひろい)
说明:由于日本的屋舍过去多是木材、竹子、纸、草等植物为材料,这样的房屋很适合于潮湿的日本气候。但是火灾特别多,所以用火灾的损失来告戒人的谚语就很多。由于不注意而失火,损失了大量财物,事后,再在灭火后的瓦砾里拣钉子。表示对“失大拣小”的告戒。和中国的丢了西瓜拣芝麻出于一个道理。
娇生惯养----乳母日傘(おんばひがさ)
说明:由于生活条件优越,家里有奶妈伺候,外出有阳伞遮太阳。没有经过任何艰苦环境的磨练,结果养成了娇生惯养的习惯。不直接说明娇生惯养,而是说出它的条件和环境。
真人不露象,露象不真人。----能ある鷹は爪を隠す(のうあるたかは つめをかくす)真正有本事的人,外表不表现,在需要时才显示自己的本领。在日语在说“有本领的老鹰平时就把利爪藏起来。” 不论中国讲的人还是日本所指的鹰,有本领的不轻易流露出来。相反,那些喜欢表现自己本领的人往往是不太有本领的。这一类谚语也很多:
中文中有: 一瓶子不满,半瓶子幌。半瓶子醋 等等。日语中有: 空き樽は音高し(あきだるはおとたかし)即空桶在滚动时声音很大,相反,满桶不大发出声响。浅瀬に仇浪(あさせにあだなみ)
“浅瀬”是“浅滩”,“仇浪”是“喧嚣的浪花”。
说水浅时浪花很大,但是水深时没有浪花,可是真正可怕的是深水。
这山望着那山高,家花不如野花香,家菜不香外菜香。----隣の花は赤い(となりのはなはあかい)人の花は赤い(ひとのはなはあかい)
隣のぼた餅は大きく見える(となりのぼたもちはおおきくみえる)家の米の飯より隣の麦飯(うちのこめのめしよりとなりのむぎめし)简称:隣の麦飯
有的人总觉得别人的东西好,觉得自己的东西不如别人的而感觉自己吃亏。羡慕别人院子的花好看;别人家的甜饼(ぼた餅)比自己家的大;甚至自己家的米饭还不如别人家的麦子饭好吃。这样只是羡慕别人会引起心理不平衡,导致不满,甚至造成不好的结果。和中文的谚语但是同样的意思。
如虎添翼,快马加鞭----鬼に金棒(おににかなぼう)
形容本来就好厉害的变得更厉害。在日本,“鬼(おに)”是身高马大的好厉害的害人的东西(妖怪),“金棒”是“铁棒、铁棍”。所以很厉害的鬼手上有铁棍,就更厉害了。本来鬼是害人的,但是这个谚语可以形容好的方面。
山中无老虎,猴子称霸王。河中无鱼虾也贵。蜀中无大将,廖化作先锋。----鳥なき里の蝙蝠(とりなきさとのこうもり)
鷹がいないと雀が王する(たかがいないとすずめがおうする)貂なき森の鼬(てんなきもりのいたち)
形容没有社会公认的强者,差的也来称王。“里”本来是故乡,乡下;在这里指的是山村,如果这里没有鸟,就有蝙蝠(こうもり)来称王。天空没有老鹰,麻雀称王。森林里没有凶猛的野兽如貂(てん)之类,黄鼠狼(鼬--いたち)称王。
当局者迷,旁观者清。----傍(岡)目八目(おかめはちもく)
在别人下围棋时 在旁边观战,容易看清胜败局势,甚至能看到8步以后。说没有利害关系的第三者看问题就冷静而比较正确。由于“傍”、“岡”同音,有时可以互换。
在家是条龙,出门是条虫。----内弁慶の外鼠(うちべんけいのそとねずみ)
“弁慶”是日本古代的武将,成为强者的代名词。这里是笑话那些“在家里显得很强壮,什么都不怕的样子,可是一到外面,就象老鼠一样胆小”的人。和这个意思一样的还有:
“内広がりの外すぼまり”(うちひろがりのそとすぼまり)在家耍威风,到外面就缩在一起什么也不敢干。“内弁慶の外地蔵”(うちべんけいのそとじぞう)“地蔵”是日本各地(主要是小城镇和村庄)的路边立着的石制的僧象。在家象“弁慶”那样强有力,而在外面就象立在路边的“地蔵”一样,一动不动。
“ 家の前の痩せ犬”(うちのまえのやせいぬ)很瘦的狗没有力量和凶狠的强狗争高低,但是仗着在自家门口,就大声吼叫。
大草包----独活の大木(うどのたいぼく)
“独活”是一种多年生的草本植物,中文叫“土当归”。嫩时可以食用,可以长到2m以上,但是没有用处。形容个子很大,但是没有能力的人。
恋恋不舍----後ろ髪を引かれる(うしろがみをひかれる)
人往前走,有人在后面拉着头发。表示心里总有牵挂,不能彻底了掉。
半斤八两--団栗の背比べ(どんぐりのせいくらべ)
中国旧称是16两,半斤就是8两,所以表示2个事物一样,没有高低。団栗(どんぐり)是“橡子儿”,是橡树上结的果实,一个个圆圆的,都差不多大,无法比较哪个个高(せいくらべ=比个高),也是表示不相上下,彼此彼此。与此类似的谚语还有:
五十歩百歩(ごじゅっぽひゃっぽ)--五十步笑百步。
目くそ鼻くそを笑う(めくそはなくそをわらう)==眼屎笑话鼻屎。大同小異(だいどうしょうい)==大同小异。
巧媳妇难为无米之炊--無い袖は振れぬ(ないそではふれぬ)
再有本事的巧媳妇,没有米也做不出饭来。古代人的袖子很长,所以有“拂袖而去”的表现。但是如果没有袖子就无法拂袖了。如果没有,想做的事情也做不了。与此类似的谚语还有:
無い知恵は出せぬ(ないちえはだせぬ)==没有能拿得出的智慧。できない相談(できないそうだん)==无法进行的商谈
隔靴搔痒--二階から目薬(にかいからめぐすり)
“隔靴搔痒”是表示在进行无效劳动。隔着靴子搔痒不能止痒,从二楼滴眼药水,不知道滴到哪里去了,肯定没有效果。与此类似的谚语还有: 天井から目薬(てんじょうからめぐすり)==“天井”是房屋的天花板,从天花板滴眼药水,也是肯定没有效果。
遠火で手を炙る(とおびでてをあぶる)==天冷了,在火边烤手取暖,如果用远处的火烤手,就取不了暖。
月夜に背中炙る(つきよにせなかあぶる)==想靠月亮的热烤暖脊背。
骑虎难下--乗りかかった船(のりかかったふね)
在河里,乘着船,想下来也下不来。表示前也不是,后也不是,两头为难的情况。和中国话的“骑虎难下”是一样的。与此类似的谚语还有:
渡りかけた橋(わたりかけたはし)==走到一半的桥,只能硬着头皮走下去。