第一篇:读村上春树《沉默》感想文
「沈黙」はとても皮肉な物語だと思う。作者がそう意図していたかは分からないが、少なくとも自分にはそう感じられた。
この物語は、村上春樹お得意の「僕」が「大沢」という男の話を聞くという形で進行する。大沢の話とは、彼の過去にまつわる話だ。何気なく「僕」が問いかけた「誰かを殴ったことがありますか」という問いをきっかけに、彼は自分の過去を語り始める。大沢の過去をものすごく簡略化すると「なんか好きになれない青木という男に腹が立ったので殴ったら後に復讐にあってクラスから孤立してシカトされました」というものだ。その体験を通じて、彼がどのようにそれに対処したのか、そして何を感じたのか、というところが話の主要な部分だと思う。
作中、いくつか印象に残った言葉はあるが、物語の核となるのは以下の言葉だろう。大沢の長い話を締めくくる言葉の中の一節。
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。
「大沢」が孤立する原因になったのは、クラスメートの自殺に際して青木が流した(実際に青木は噂の種をまいただけだが)ひどい噂だった。その噂は真実ではなかったが、クラスメートはその噂を受け入れ、「大沢」をシカトする。引用した文は、そんなクラスメートのような人間に対する痛烈な批判だ。そしてそれは同時に、現代社会というか、社会全体への批判・警告ともとれるような文章だと思う。
どうでもいいけど、クラスメートをクラスメイトって書くとプレイメイト的ニュアンスでエロく感じるのは自分だけ、ですよね。はい。でもクラスメイトえろい。すごい。なんか背徳感ある。絶対2人付き合ってない。えろい。くっそ最近の高校生ときたら……発育がいいんだから。
閑話休題。
初めの方にも書いたけれど、この「沈黙」という作品は、「僕」が「大沢」の話を聞く、というスタイルで進行する。それゆえに、読者は自然「大沢」の話を聞くような心地で物語を読んでいくことになるように思う。そして語り手が「大沢」である以上、物語は「大沢」の目線で語られる物語にならざるを得ない。だから、どうしたって「大沢」は被害者だし、「青木」は悪者だ。なにせ、そういう風に「大沢」は話をしているのだから。それに加えて、「僕」の立場に立って読むと「大沢」は信用のおける人間であるというイメージを持ってしまいやすい。なにせ「僕」は物語の冒頭で「大沢」をこう評している。それまでに何度か一緒に仕事をしてきたが、大沢さんは二十年近くもボクシングを続けるような人柄には見えなかったからだ。彼は物静かで、あまりでしゃばらない人間だった。仕事ぶりは誠実で我慢強く、誰かに何かを無理に押しつけるというようなことは一度としてなかった。言うなれば、人が好感を抱かざるをえない人間だった。
これを読めば「成程、大沢さんというのはいい人なのだ」と思うだろう。ゆえに「大沢」の話を受け入れるハードルは下がる。「青木」は嫌な奴だという印象を受け入れやすい下地が出来上がってしまう。
で、ここから言いたいこと。さっき引用した文章をもう一度引用するのでもう一度読んで欲しい。
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。
この言葉は、よく読めば「僕」や読者に対しても向けられる言葉だと思う。だから、も
しこの言葉に従うのであれば、我々は「大沢」の話でさえも『無批判に受け入れ』たり、『そのまま信じて』はならないことになる。「大沢」の言葉にもまた批判的でなければならないのだ。だってそれをしてしまえば、聞き手は彼が批判する連中と同じになってしまう。
例えば、過去の話の中で「青木」が周囲にどう評価されていたかを「大沢」はこんな風に言っている。
青木は勉強のよくできる男でした。大抵は一番の成績を取っていました。彼はなかなか人気のある生徒でした。クラスでも一目置かれていたし、教師にも可愛がられていました。成績は良いけど決して偉ぶらず、さばけていて、気楽に冗談なんかも言うって感じです。それでちょっと正義漢みたいなところもあって……。
「青木」は人によってはそういう評価を受けるような人間なのである。人に好かれる人なのだ。けれど「大沢」はそんな「青木」が嫌いだった。「大沢」はその理由をこう語る。僕はその背後にほの見える要領の良さと、本能的な計算高さのようなものが鼻について、最初から我慢できなかったんです。具体的にどういうことかと言われても困ります。具体的な例のあげようがないわけですから。ただ僕にはそれがわかったんだとしか、言いようがありません。僕はその男が体から発散するエゴとプライドの匂いが、もう本能的に我慢できませんでした。
言語化できない感覚、というのはある。だからそれを一様に否定はしない。けれど、批判的な視点でもって見るなら、「大沢」は勝手な予想に基づいて、存在するかしないかも判らない相手の性質を『許せない』だとか『我慢ができない』だとか言っている。まったく論拠のない理由で「青木」を嫌う「大沢」の話を全て頭から信じるのは微妙なところだろう。そもそも「大沢」が「青木」を殴った事件も、高校の頃の事件についても、「青木」が犯人であるという証拠はどこにも示されていない。そうらしい、という理由で「大沢」がそうだと言っているだけだ。「青木」は普通にいいやつで、「大沢」が勝手に勘違いして悪者にしてしまっているだけなのかもしれない。つまり、「大沢」の話もまた、無批判に受け入れ信じられるに足る内容ではないということだ。
作者の意図がどこにあるのか知らないが、自分にとってこれはどうしようもなく皮肉に写る。「大沢」は自分で自分の言葉を受け入れるな、と聞き手に対して警告してしまっているのだから。
物語のタイトルである『沈黙』は、大沢が最後に語るこの言葉に集約されると考えるのが無難だろう。
そして僕が真夜中に夢をみるのもそういう連中の姿なんです。夢の中には沈黙しかないんです。そして夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。沈黙が冷たい水みたいになにもかもにどんどんしみこんでいくんです。そして沈黙の中でなにもかもがどろどろに溶けていくんです。そしてそんな中で僕が溶けていきながらどれだけ叫んでも、誰も聞いてはくれないんです。
けれど、『沈黙』は夢の中だけにある訳ではない。「僕」はきっと間違いなく「大沢」の話を聞いていた筈だ。にも関わらず、「僕」は大沢の話――それは静かな叫びと言ってもいいかもしれない――に対して、なんの返答もしていない。話を肯定も否定もせずに黙っている。そして物語は、『まだ時間は早いけれど、ビールでも飲みませんか』という大沢の言葉に「僕」が頷いて『たしかにビールでも飲みたい気分だった』となって終る(この終り方、実に村上春樹っぽい)。夢の中だけではなく、そこにも『沈黙』がある。
三回目読み終えた後、「僕」は『沈黙』せざるを得なかったんじゃないか、と思った。「大沢」の話を聴いたからこそ、「僕」は『沈黙』を選んだのではないか、と。そう考え
たとき、このタイトルは余りにも皮肉で、哀しく、孤独に響く。
ま、作者の意図とかしらねーけど。
自分はそう感じましたよ、という話でした。
じつは、この沈黙という作品が読書感想文用の選択肢に上がってることにすげえ違和感がある。いや、違和感というか、なんかすげえもやもやする。よくよく調べるとこの沈黙ってのは中高生の集団図書用の物語として再発行されてたりするらしい。で、そのことについても書きたいことあるんだけどすげえ長くなったのでまた今度気が向いたら書こうと思う。
しかし本当なげえ。ありえねえだろこの長さは。読んでくれた人には感謝です。誤字脱字あったらごめん。軽くしか推敲してない。
あ。超余談だけど、大沢が夢見て夜目を覚ました時、奥さんに抱きついて一時間ばかし泣く、とか言ってるとこがあんだけど、個人的にはこの作品ではあそこが一番好き。一時間もの間泣いている自分をただ抱きしめてくれる存在がいることに大沢はもっと感謝した方がいいし、それがどういうことなのか気付いた方がいいと思うわ。確かに未来のことなど何一つ保証出来ないし、人間は絶対的に孤独なのだとしても、お前は独りなんかじゃないよ。決して、独りじゃない。
第二篇:读村上春树《挪威的森林》有感
一种方式
——读村上春树《挪威的森林》有感 知道村上春树是很早以前,早到那时候的自己根本不情愿安静的坐下来看一本很有内涵的书。随着年龄的增长,意识到自己学要增加很多自己曾经不在乎的东西。之所以选择村上的书是因为喜欢他的名字,而且我一向喜欢悲伤的调调,走进村上的世界是从《挪威的森林》,这是一本很受欢迎的书。
村上在《挪威的森林》中把人类的痛苦和孤独无限放大,诉求对待孤独与无奈的态度。让读者清楚的感觉到这种感觉真实的存在过,甚至存在过我们每个人的生活中,只是那时我们未曾发现。
才开始读这本书时,感觉有点莫名其妙,全不知其索然,压着耐性往下读,接下来的文字时而朴实,让人觉得如此接近我们的生活,时而华丽,让人惊叹村上的才华。
全书根据主人公渡边的生活展开,讲到渡边身边的朋友,最亲近的人一个接一个的离开他,生活中充满了孤独与无奈,全然做不到和同学谈天说地。
最初是渡边的好友木月没有预兆不知原因的死去,接着是同一个宿舍的舍友敢死队也突然失踪了,下来是认识永泽,本以为会成为好朋友,可后来渡边却发现他们其实不能够成为朋友,最后永泽也离开了,认识小林绿子,让渡边的生活有了一丝生气,小林绿子的父亲死了,下来是渡边一直喜欢,也是渡边一直的思想支柱直子也死了,永泽的恋人初美也在认识渡边两年后死了。故事的结局渡边仍然孤单一人,他甚至不知道自己身处何处,孤独与无奈始终围绕着渡边。本书里的人物还有一个共同点就是渡边所认识的人都有点思想怪异甚至是神经。
也许书中渡边的情况在我们生活中也会发生,孤独,没有朋友或者身边的人都一个接一个的离开自己,渡边选择坚强,或者可以说是一种接近逃避的方法来生活下去,既然他的朋友会一个接一个的离开,他就选择不交朋友,形单影只的生活,可是生活在这个社会上难免和别人接触,有的人无意成为我们在乎的人,我们无从选择,渡边后来还是遇到很多让他在乎的人,因此当在这些人离开后,渡边一次又一次的承受着打击,最后渡边完全放弃了这个社会,放弃去了解自己此时此刻身处的环境。放弃一直以来漠不关心自己身边的人和事的态度,放弃了那种只在乎自己的生活,不会开口主动接触外部世界和寻求帮助,最后渡边主动打电话给小林绿子告诉她自己需要她!
借用一位译者的原话“村上的小说为我们在繁杂多变的世界上提供了一种富有智性和诗
意的活法,为小人物的灵魂提供了一方安然憩息的草坪。读之我们心中最原始的部分得到疏导和释放,最软弱的部分得到鼓励和抚慰,最孤寂的部分得到舒缓和安顿,最隐秘的部分得到确认和支持。那是茫茫原野上迎着夕晖升起一股袅袅炊烟的小木屋,是冷雨飘零的午夜街头永远温馨的小酒吧!”
村上的作品让小人物的生活,伤口无限放大,给人以提醒,教人释放其压抑。
此书越是到最后越吸引人,在渡边一次承受离开后他会怎么做?他会变成什么样子?究竟是谁最后能陪着他?这些问题当我读到末尾时十分想得以解答,促使我看下去,找出自己想要的答案。
小说的结尾虽然没有很明白的告诉读者结局是什么,但是这无非是最好的结局。如果渡边曾经失去的朋友都回来了那是科幻小说的结局,如果最后渡边过上了快乐,幸福的生活那是现代网络爱情小说的结尾„„这样的结尾给读者以无限想象的空间,渡边一生是孤独的伤感的,不可能突然有什么关键的转折,这个就是村上的才能,没有人能够猜出结尾。
小说里有很多对话,村上让这些对话生动,活泼化,让读者很容易的变身为书中的主角,用那种语气说话。
但我还是有点遗憾,毕竟村上是日本人,小说的创作决非是用日语,我现在读的版本是译本,虽然译者尽自己的努力接近村上的原文,但还是有很多语气,神韵和表达方式没有原样诠释,我觉得《挪威的森林》值得二次拜读,一来是将其了解透彻,二来是试着看到不一样的感觉和观点。
很高兴自己能够“认识”村上春树的作品,《挪威的森林》给我以很大的震撼,村上能如此恰到其好的把握小人物的悲伤,痛苦,无奈和种种生活中遇到的问题。让我产生了心灵的共鸣。认真审视自己的生活,反省自己,各种压抑的释放,更加坚定信念。
第三篇:感想文
感想文
犬と私の10の約束について
今の国慶節に私たちは《犬と私の10の約束》を見ました。この映画を見終わった後,多くの感想があります。
映画の最後で、ソックスは無くなった場面を見ると、涙が出ていけない。ソックスは寂しく、悲しく、楽しい時、明莉のそばに10年に付き添って、生命の価値を創造しました。
犬は人間らしい心があると聞かられます。私たちの喜怒哀楽がわかるかもしれません。犬も忠実で、いつまでも主人に直向に忠誠を尽くすと思います。彼は一番よい聴衆です。何でも訴えて、精神的なストレスがありません。たとえ私たちの言葉が分からなくて、どうしても私たちのことを支えます。
これは10の約束の中で一番好きです:「あなたには学校もあるし、友達もいるよね、でも私にはあなたしかいません。」毎日の生活には忙しくて、重要な家族を無
視しまいます。人間に対して、犬が人生の一部ですが、犬にとって、主人が世界の唯一,君と一生に住んでいます。
ソックスを離れた時に、明莉泣いて言った:「10年で、こんなに短いと思わなくから。」「ソックス、ありがどう、そばにいてくれて、ありがとう。」本当にありがとう、ソックスのお蔭で,青年の頃、明莉は生活に何の不安もなくて過ごしました。例えば、お母さんが亡くなったときに、明莉は頭の回転ができませいでした。ソックスの助けて、治りしました。
小さい時から、私は動物が好きです。家でいろんな犬がいます。犬を選択するときに、きちんと食ってなければなりませんと言う約束をします。我々が必要で約束を守らなければならない。
第四篇:读村上春树《刺杀骑士团长》有感
读村上春树《刺杀骑士团长》有感
曹智魁
和村上结缘,应该是从二十年前开始,98年的夏末,燥热而沉闷,16岁的我从一个中部不知名的小县城来到上海读大学,那时还只是个懵懂的少年。当时看到村上的《挪威的森林》不仅被里面晦涩朦胧的意境所吸引,60年代的日本,昏暗的酒吧,低沉的爵士乐,迷茫内向但又有所坚持的主人公,和几位女主角纠缠不清的感情,这完全吸引着年少的我,而第一人称的自述,有着强烈的代入感,让你进入那个时代,仿佛身边的环境也跟着变成小说中的时代,分不清哪里是现实,哪里是幻境……
而更让我觉得村上经典以致把村上作为我尊崇的小说家之一,其实是他的一篇短篇《遇上百分百的女孩》,小说篇幅很短,但对于彼时少年的我,绝对是个百分百的浪漫之作,以至于当时有种想法,经典的艺术(包含绘画,音乐,小说等)都是本来存在于这个世间,只是作者偶尔发现并用自己擅长的方式表达出来了而已,就如宋朝诗人陆游所说:“文章本天成,妙手偶得知”.而经历了二十年岁月的摧残之后,愈发觉得这句话是无比的真理。美好的事物本来就是存在人们周边的,只是需要作者以自己擅长的方式偶然发现并呈现出来而已。
当时同样觉得经典的就是几米的漫画,尤其好的是《向左走,向右走》,第一眼看到的时候和看村上的《遇上百分百的女孩》同样震撼,同为能成为经典的作品。甚至于自己的英文名Jimmy也来自几米的出处。
回到村上的话题,当时村上的小说里几乎大部分都是青年的“我”,也很符合当时我的状态:年轻,懵懂,无知,贫穷,而又充满对未来的迷惘。而当二十年后的今天,读到村上最新的《刺杀骑士团长》,巧合的是,书中的主人公也是36岁,和我年龄一样,也是命运的一种注定吧,所以想写点什么,也算为未来的自己留下点纪念。
说不上对村上有特别深的了解,从《挪威的森林》、《且听风吟》、《国境之南》、《海边的卡夫卡》到《1Q84》,以及现在刚刚拜读的《刺杀骑士团长》,读过村上的书也比较有限,但村上的风格却是能突破文字和纸张的限制,能给你呈现画面感的。而村上对爵士乐和唱片机的偏爱,即使没听过那些老歌,也仿佛能透过文字和纸张,给你带来音乐的氛围。
《刺杀骑士团长》的故事很简单,写的是一个中年(意识到自己也是中年好像有点沮丧,笑)男子,经历妻子提出离婚的请求后独身自驾去异地旅行,后又住在同学父亲(名画家)的旧宅,遇到的或现实或离奇的故事。书中村上一如之前的风格,孤僻却又颇有女人缘的主人公,老唱机,不同的是,音乐由之前的爵士乐替换成了歌剧和钢琴曲,而《唐璜》在书中占了颇大的比重。从捷豹到丰田,到沃尔沃,即使不开车的人也能感受到各种不同车的特性。
书中感触颇深的主要是两点:一是村上对绘画及艺术理解的独到之处,二是对人性的洞察,主人公对自己的和解。
先说绘画:作为《刺杀骑士团长》小说本身出现的主要线索,名画家创作的一幅被藏起来但却具有强烈震撼感的代表日本画。而作者作为屈从商业肖像画多年的画家,最终在书中只画了4幅画:《免色的肖像》、《白色斯巴鲁男子》、《秋川真理惠的肖像》、《杂木林中的洞》(唯一的风景画)。随着一步一步接近真相,我逐渐明白,《刺杀骑士团长》是雨田具彦为了安顿灵魂、医治创伤的作品。《白色斯巴鲁男子》是我身上的“双重隐喻”,是吞噬我正确情思的东西,即我的黑暗面。“你小子在哪里干了什么,我可是一清二楚”,这是我的黑暗面最常跟我说的一句话。我们每个人身上都有“双重隐喻”存在,我们必须克服自己内心最恐惧的东西,才会获得自己最希求的东西,即只有直面自己的黑暗面,才有可能打败它。《刺杀骑士团长》是雨田具彦的救赎;《白色斯巴鲁男子》则是我的救赎。书中绘画的技法自不必说,村上肯定有仔细研究过油画的步骤:从了解对象,想好构图,到炭笔描线,上色,再层层叠加,这些都是画画基本的技法。
而个人觉得上升到艺术高度的有两点:
1.以无形胜有形。书中作为画家的我,在画对象前不是让对象在面前坐着写生,而是先进行交谈,了解研究透人物本身,透过形体研究其神韵,了解其内心世界,抓住其最有代表性的神韵,然后再进行下笔,才能达到形神兼备的最高境界。这应该和作家描写人物一样,不求完全形似,但必须取其精髓,攻其一点,描写其神韵,才能让对象跃然纸上。
2.作品知道什么时候是完成的,什么时候是不可完成的。书中的两幅作品《白色斯巴鲁男子》应该是刚起头的半成品,只是颜色的堆砌,其中只能隐约看出人的轮廓,但里面的主角仿佛要从黑暗中走出来,具有强烈的生命力。而另一幅《秋川真理惠的肖像》也介于完成和未完成之间,但我却没法再画下去,同时也给了画更多的生命力,象征着秋川真理惠渐渐由少女长成一个成熟女性的过程。而画作把13岁的她永远的记录下来。
其次是关于人性的洞察,更多的是书中人物对自己和这个世界的和解。一个是作为废材画家的中年男,在少年时便经受了最亲的妹妹的去世(这点和《挪威的森林》男主的好友也是在男主少年时去世惊人相识),男主一直带着对妹妹的回忆和自己没有做点什么就让妹妹死去的愧疚生活,知道结识了妻子,而追求妻子并与之结婚的理由竟然是因为妻子眼神深处闪烁着和妹妹类似的光芒。()在生活6年后,妻子提出离婚,而主角没有一句追问和情绪化,只是默默的收拾好随身物品,开始长达几个月的单身旅行。其实主角一直生活在妹妹的阴影和愧疚中,而在后面刺死骑士团长并由此救出真理惠后,这种愧疚才得到了解放,主角才正式和自己进行和解,才有了后续和前妻复合并一起生活下去的情景。
而黑暗的洞穴又代表什么呢?原始的本我。“一个人被关在又黑又窄的地方,最可怕的不是死,而是开始考虑自己可能永远在这里活下去,那比什么都可怕,那么一想,就吓得喘不过气,就好像周围墙壁挤压过来直接把自己压瘪挤死——便是这样汹涌的错觉,而要在那里活下去,人就必须想方设法跨越那种恐惧,即克服自己,为此就需要无限接近死亡”.只有剥夺了你任何的感官,直面黑暗的恐惧,在那一刻你感觉到自己的渺小和无助,才能真正面对自己,克服自己,获得新生,而这时出现的光才是真正的涅槃。
主人公借助黑暗的洞穴,完成了对自我的救赎和和解之路,最终像书中说的,不管怎样,我们要把时间拉到自己这边。
第五篇:读《沉默的效应》有感
八年(6)班卢丽梃
看完《沉默的效应》这篇文章,心中有一种莫名的激动在澎湃,而脑海中也不断翻腾着两个字:师魂。一个初三的差生班,集体耍弄老师,冬天时在教室门上放一盆水,使来上课的白老师全身湿透了。白老师耐着刺骨的寒冷,没有发怒,没有说一句话,只沉默地和同学们注视了一节课,通过他的人格精神,彻底改变了这个差生班的不良风气。教师,被誉为太阳底下最光辉的职业,教师是人类文明精神的一种象征,是一种无私付出的精神代表。《沉默的效应》中的白老师,并没有说到他渊博的知识,也没有说到他如何忘我的日夜工作,而“沉默”这一动作中凝聚了他崇高的师魂。被捉弄而全身湿透的白老师,没有暴跳如雷,没有追查“凶手”,也没有拂袖而去,而是默默无言地和同学们注视了一节课。然而,这“沉默”之中,却包含着对同学们的宽恕。这“沉默”更把白老师的人格精神向顶峰:你们是我的学生,教导你们是我的责任,无论何种情况,我都不会离开课堂,离开我的岗位,这是何等的人格力量,何等的师魂。我们身边的每位老师都像《沉默的效应》中白老师一样,以“沉默”为我们付出。但愿天下学生更能体会老师的苦心,用行动对不朽的师魂奉上一曲赞歌。点评:观点新鲜,论述有力,能从自身实际谈体会,很好!